第 1 回 
  平成12年12月3日(日) 
 晴れのちくもり、遅くなってポツリと来る 
 日本橋−高輪大木戸−品川宿 
 “橋の下の日本橋、京橋、新橋、八ツ山橋、品川橋にカモメが三羽” 



 21世紀を目前にした2000年12月3日をスタートの日と決める。年内に始めて、20世紀と21世紀を股にかけた旅としよう。スタート地点までの交通手段を新幹線にすれば楽に行けるが、歩き旅に新幹線は似合わない。今後の交通手段も “在来線の鈍行” に限ろうと話し合う。一つのこだわりである。もちろん費用が安く上がるというのも大きな魅力である。

 その結果、早起きして、息子に島田駅まで送らせ、5時28分の始発に乗車する。お天気は下り坂の予報であったが、少しずれて午前中は雨の降ることはなさそうである。静岡で一度乗り換え、9時21分東京着。東京に行くことはあっても在来線を使うことはほとんどない。新幹線と違って在来線はゆっくり走って車窓が楽しかった。

 八重洲口から降りて始点の日本橋橋詰まで歩く。日曜日でオフィス街は人通りが少ない。

 日本橋は高速道路が真上を走り、何とも言い難くうっとうしい。日本がこの50年、経済成長という名のもとに突っ走ってきた時代の象徴を見るようで、一抹の空しさを感じる。こんな気持は、この後、街道を歩く間に度々味わうことだと覚悟しなければならない。

 橋詰の四隅は時計回りにそれぞれ「元標の広場」「花の広場」「乙姫の広場」「滝の広場」と命名されて整備されている。「日本国道路元標」「東京市道路元標」「魚河岸の碑」など記念碑も目立つ。日本橋は青銅製の彫刻を施した橋塔を含んだ橋自体が国の重要文化財に指定されている。
 日本橋よりゴールの京都市までは503kmと表示されていた。もちろん旧街道ではなく、国道1号線での距離だと思うが。ともあれ夫婦でまず一歩を踏み出した。もう後戻りはしない、出来ない。スタート時間、西暦2000年12月3日午前9時50分。

 三年前、日本橋から川崎までは一人で歩いた。しかし一人旅は寂しくその先には進まなかった。一人で歩いたとき、歩き始めてすぐの大きな四つ角に東急百貨店があった。その玄関に「白木の名水」と呼ばれる井戸があって、開店前のガラス越しに見学した覚えがあった。今回探したが、工事中の囲いがあるだけで東急百貨店の建物も見当たらない。交差点を渡って振り返ると、囲いの中に奇怪な構築物が出来つつあった。(右下写真)???ハテナマークをたくさん付けながら先へ進む。


 10日ほど経って新聞に以下のような記事を見つけた

HONBAもののけ、東京・日本橋に現れる  2000年12月12日 朝日新聞 朝刊
 東急百貨店日本橋店(東京都中央区)跡地に、「HONBA(ホンバ)」と名付けられた高さ16メートルの緑の巨像が出現した。1万8000株の鉢植えを植え込んだ「もののけ」だ。「ホンバ」の名は最近、女子高生の間で使われ始めた日本橋の通称から取り、物事の「本場」の意味も込めた。
 アーティストの日比野克彦さんがデザイン。100年に一度現れる日本橋の精霊、との設定で、地元町内会や商店会が主催する世紀越えイベントのシンボルになる。
 緑の巨像には地域の悲願も込められた。日本橋の上を走る首都高速道路の地下化だ。企画を演出するマーケティングコンサルタント、西川りゅうじんさんが書いた物語の中で、「HONBA」は「日本橋の上に巨大な黒いヘビが覆いかぶさって空が無くなってしまった」と嘆き、「100年後に戻ってくる時には、きっと橋の上に空があるよね」と望みを託している。


 日本橋をスタートして10分ほどしか経たないのに、腹が空いてきた。考えてみると起きて朝食を摂ってからすでに5時間経っている。「小諸そば」の小さな立ち食いそば屋を見つけて入る。東京は物価が高いと “おのぼりさん” としては思い込んでいたが、うどん、夫婦で2杯、600円の食事はずいぶん安い。

 
 軽く腹を満たして歩きはじめる。10時20分、京橋に至る。明治8年建造の親柱(写真右)とその向かい側には「江戸歌舞伎発祥の地碑」(写真左)がある。
 さらに首都高速のガード下に大正11年製の親柱が残り、そばに「煉瓦銀座の碑」がある。
 
 いよいよ銀座に入る。ザックを背負って行く “銀ぶら” も昨今の東海道ウォークブームで珍しいものではなく、恥ずかしさはない。銀座1丁目、2丁目と数え、銀座2丁目の歩道の植え込みの中に「銀座発祥の地碑」(写真左)がある。
 人の流れの中にいて、銀座四丁目交差点を気付かずに渡った。振り返ったら和光の時計台が見えた。(写真右) “おのぼりさん” としてはようやく銀座に居るとの実感が湧く。

 銀座といえば、日本一になった巨人軍が優勝パレードしたのを思い出す。11月3日午前10時30分に大手町の読売新聞社前を出発、日本橋〜京橋〜銀座〜銀座八丁目まで、3台のパレードカーに分乗して優勝パレードが行われた。テレビで見ただけだが、約十七万二千人(警視庁調べ)のファンが詰めかけ、祝福の人波が絶えることなく続いた。

 10時40分、銀座も尽きる8丁目の郵便局前に柳の木を見つける。「銀座の柳二世」と立て札が立っていた(案内書では三代目だというが)。関東大震災前の銀座には柳の並木が植わっていて、煉瓦造りの町並みに良く似合っていたという。残念ながら大震災後に切られてしまった。三代目の銀座の柳の前に、昭和四年銀座の柳並木を懐かしんで創られた「銀座の柳」の歌碑があった。碑には、西条八十作、中山晋平曲の「銀座の柳」として、音符付きで「植えてうれしい銀座の柳 江戸の名残りのうすみどり 吹けよ春風紅傘日傘 けふもくるくる人通り」と刻まれていた。

 ここまで来たら東京タワーに登りたいとの女房のリクエストに応えることにする。前回一人のときは川崎宿まで歩いたが、今日は初日だから先を急がず、どこで終わりにしても良いからのんびり進もうと思う。

 旧新橋・汐留駅跡を左手に遠望し、1kmほど進んで、旧東海道の道筋からそれて右折し、増上寺大門をくぐって増上寺に向かう。

 芝増上寺は上野寛永寺と並んで徳川将軍家の菩提寺で二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の6人の将軍が葬られている。

 広い道路を渡り、11時13分、増上寺の二層の巨大な三解脱門を入る。境内のすぐ右に「グラントの松」という姿の良い大木があった。
 明治12年に植樹されたとすれば、樹齢120年以上である。樹種は書かれていないが、日本の松ではない。それほど遠くない時期に幹周り3メートルを越えて巨木の仲間入りをするであろう。

 本堂の左を通って東京タワーに向かう。三解脱門に大きく結婚式の看板が出ていて、仏前の結婚式には参列したことがないと話しながらきたが、本堂下のガラス越しに結婚式の待合室の風景が見えた。

 東京タワーは増上寺を裏へ通り抜けてすぐである。考えてみれば東京タワーに登るのは中学校の修学旅行のとき以来の気がする。東京には何度も来ていても東京タワーへわざわざ登ることはなかったと思う。40年の間には東京の景色もずいぶん変わったはずだが、比べるべき昔の記憶は何もない。ただ高いところの足の竦む思いの記憶がよみがえった。
 
 来た道を戻り、正午を過ぎて、12時3分、本堂裏手の徳川将軍墓所(写真右)に寄る。「鋳抜門」(写真右)というから鋳物製の門であろうか、10個の葵の紋と左右の昇り龍、降り龍が鋳出された門に閉ざされて、墓所の様子はうかがいしれなかった。
 元の旧東海道に戻り、南へ1.5km歩く。いつの間にかオフィスビルから商業ビル、さらに大手メーカーのビル街へと街並みが変わっていた。12時43分、海側の三菱自動車のビルの前に「西郷・勝会見地の碑」(写真左)があった。旧東海道筋には各地に攻めのぼる官軍と、賊軍となった幕府との数々の逸話が残っている。西郷・勝の会見はそのクライマックスであった。

 
 さらに1kmほど歩いて、13時、「高輪大木戸跡」(写真右)に着く。道路の片側に数メートルの石垣だけが残っている。「♪お江戸日本橋七つ立ち 初上り 行列そろえて あれわいさのさー こちゃ高輪夜明けて提灯消す こちゃえー こちゃえー」 “七つ” というから、午前4時、まだ暗いうちに提灯をつけて日本橋を出発した行列は高輪まで来て、明るくなり提灯の火を消す。高輪の大木戸は江戸の町と外部を区切る境界であった。かってはここまでは江戸の町内で、ここからいよいよ東海道の旅が始まるのである。そばに昭和7年3月東京市が建設した「史蹟 高輪大木戸趾」の石柱が立っていた。
 13時10分、東海道からそれて右折、泉岳寺(写真左)に道草する。泉岳寺といえば赤穂浪士の四十七士のお墓があることで有名である。黒い山門の右手に大石内蔵助良雄の銅像が立っている。前回道草したときは静かなお寺だと思ったが、今日は参拝者が妙に多い。12月は吉良邸への討ち入りの日を14日にひかえているから、すでにそのモードに切り替わっているのであろう。自分の故郷は内蔵助の妻 “りく” の出身地で、14日の夜には各家庭で “討ち入り蕎麦” を食べる慣わしがあった。

 義士のお墓への通路を広げて石畳にする工事中であった。工事はほぼ終わっているように見えたが、これも14日に備えてのことであろう。お墓の手前でおじさんが線香を売っていた。100円払うと一束丸々の線香に薪の火を手際よく付けて専用のケースに入れてくれる。こんなにたくさん貰っても困るとと思ったが、47のお墓に何本かづつ供えると終わりには足らなくなってしまった。矩形に並ぶお墓には線香の煙がもうもうと立っていた。

 御朱印を押して頂く。中心に「本尊釈迦如来」、右脇へ「四十七士廟所」と書かれ、右肩の印は二つ巴の紋所。これは播州赤穂家の紋所で浪士が着用した陣羽織にもついている紋である。

 すでに14時近くになった。遅くなったが、品川駅構内に立ち寄り、カレーライスを食べる。14時28分、産業道路から分かれて八ツ山橋を渡る。前回歩いた時は八ツ山橋を渡ったすぐのところから、「八ツ山コミュニティー道路」として東海道五十三次をイメージした歩道沿いの小公園が整備されていた。たしか桜が咲いていたように記憶する。しかし、現在道路工事中で公園そのものがなくなっていた。

 いよいよ日本橋を出発してから最初の宿場、品川宿に入る。道幅が狭い北品川商店街である。その道の狭さと家並みの曲がり具合がかっては宿場町であったことをしのばせる。

 商店街に入ってすぐのすし屋さんの角に「問答河岸址」の石柱(写真右)が立つ。三代将軍家光が沢庵和尚を訪ねて、この地に到り問答をしたと伝えられる。その問答は「海近くして何がこれ東(遠)海寺?」(家光)、「大軍を指揮して将(小)軍というが如し」(沢庵)というものだったというが、それが本当なら、そんな児戯に似た問答を楽しむ二人の親しい関係が思いやられて面白い。

 漬物の “たくわん” に名を残す沢庵和尚は、かって自分の故郷の隣町、出石町の宗鏡寺にも永くいたと聞く。請われて、品川宿近くの東海寺の住職になった名僧である。現在も東海寺には沢庵和尚の墓がある。

 北品川商店街は日曜日で所々シャッターが降りている。そのシャッターには広重の五十三次の版画などの錦絵が描かれ、店は閉めていても雰囲気造りに役立っている。各所に東海道400年祭の旗も見られ、この祭りは静岡県内だけではないことを知る。また町並みの所々の小さな空き地には新しく「品川宿の松」として松の木が植えられ、宿場の雰囲気を残そうという意志が感じられた。

 14時45分、聖蹟公園(品川本陣跡)に至る。間口は狭いが奥に進むと大きく膨らんで、本陣のあった全体が公園となり、児童遊具や木立やベンチなどが設備されている。聖蹟公園と呼ばれるのは明治天皇行幸時に行在所となったためだが、旧東海道には各地に明治天皇の足跡が残っている。
 東海道の橋らしく、今風に架け替えられた品川橋。橋で出会って立ち話をしていたおばさんが上り下りに別れて立ち去ったあと、欄干に留まったカモメが3羽残された。強いて江戸時代の名残を探すなら、このカモメだけかもしれない。かっては海はすぐそばだったというから、往時は今とは比べ物にならないくらいたくさんの海鳥が見られたであろう。
 南品川に入って体力的にも、気持ち的にも少なからず疲れてきた。いくつか見学ポイントも見逃している。時間も15時となって、何とか降らずに持った天候も雨が落ちそうな空模様になってきた。そろそろ最後のポイントのつもりで品川寺に寄る。

 ここには区指定天然記念物の「品川寺のイチョウ」がある。お天気が悪くて撮ったデジカメ写真がいまいちだったので、前回来た時の写真を使う。今はまだ落葉していないが、写真は新芽が出る前のもので裸木である。旅の間に各宿場で一本の目処で街道筋の巨木を決めていきたい。品川宿はこの「品川寺のイチョウ」に決めよう。
 品川寺は(ほんせんじ)と読む。お寺に入ってすぐ左の露天に、江戸六地蔵の第一番、地蔵菩薩坐像(写真右下)がある。さらに境内に入って右手に「品川寺のイチョウ」(写真左)がある。
 
東禅寺  台東区東浅草二丁目
太宗寺  新宿区新宿二丁目
真性寺  豊島区巣鴨三丁目
霊巌寺  江東区白川一丁目
永代寺  江東区・・・・・消滅

 品川寺を出る頃から雨がぱらっと来はじめた。最寄の駅を調べると京浜急行の鮫洲駅であった。もちろん初めて乗る路線、初めて乗る駅。券売の駅員に聞くと横浜でJRに乗り換えればよいと指示してくれた。切符を持って改札を入る背中を呼び止めて、川崎で快速に乗り換える方がよいと親切に追加アドバイスをくれた。帰りは混んでいたが、京急川崎、横浜、熱海でそれぞれ乗り換えて、お約束通り鈍行で帰宅した。








このページに関するご意見・ご感想は:
kinoshita@mail.wbs.ne.jp

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送