第 2 回 
  平成13年2月18日(日) 
 晴れ、暖かい
 鮫洲−鈴ヶ森−梅屋敷−川崎宿−鶴見
 “「懐情の原形」は見つかったか?” 



 12月3日、第1回の “旧東海道夫婦旅” の後、自分は足を痛め、女房は体調を崩し、年末年始の忙しさもあって、第2回までに3ヶ月近く経ってしまった。その間に “旧東海道夫婦旅” のホームページを立ち上げたが、せめて第3回ぐらいまではホームページの情報を内輪に留めておこうと思う。

 一年前、NHKの書評番組でモンゴルの留学生が書いた本のことを知った。あいにく、本の名前も著者名も出版社名も忘れてしまい、探せないままになっていた。最近、その本が「懐情の原形 ナラン(日本)への置き手紙」という書名で、著者がボヤンヒシグと判明した。早速、アマゾン・ドット・コムに注文した。昨日届いたその本を持って、第2回目の旅に出かける。

 早朝の電車の中で一気に読んだ。モンゴル人が書いたその日本語は、我々がどこかへ忘れてきた美しい文章であった。久しくこんな文章にお目にかからなかった。まるでモンゴルの広い草原と澄み切った空のようであった。この湧き上がる懐かしさの源は何なのだろう。語られる故郷モンゴルへのノスタルジーの共感なのであろうか。いや、多分、その猥雑さのない日本語そのものなのかもしれない。そして、自分にとっては、この旅もまた、 “懐情の原形” を探す旅なのかもしれない。

 京浜急行蒲田駅で混みあった快特から普通へ乗り換えるためホームに降りようとするところで一悶着あった。出口の足元に大きな荷物を載せた若者がいて、降りる乗客の流れが淀んだ。降りる客は足元が見えないから何故淀むのかわからない。発車のベルが鳴り、乗り込み始めた客ともみ合いが始まった。「まだ、降りる客がいるんだ!」 小さなパニックが起こった。降りた乗客の一人が電車が去った後も大声で悪態をついていた。「まるで私達が怒られているみたいだ」とは女房の弁。いきなり、現実の世界に引き戻された感じがした。

 9時40分、乗り換えた普通電車で鮫洲駅に降りた。駅のそばに自動車免許の試験場があるのであろう、いきなり駅頭で免許写真撮影の執拗な呼び込みにあい、面食らってしまった。ザックを背負っている我々に、自動車免許でもあるまいにと思う。駅からまっすぐ進むと、旧東海道との四つ角に、案内書にあった「網元の家」(写真左)があった。寄せ棟平屋の、一昔前ならどこにでもあったありふれた家であった。

 0.9kmほど南に進み、立会川に掛かった浜川橋を渡る。注意していないと見過ごしてしまいそうな橋だ。案内板でこの橋はかって「涙橋」と呼ばれていたと知る。
 「涙橋」といえば、かってヴェニスで見た「涙橋」を思い出した。裁判所のある広間と、運河を隔てた牢獄をつなぐトンネルのような橋であった。いずれも、罪人のこの世との別れの涙である。世の東西を問わず人間の発想は同じだと思った。
 「涙橋」から0.6km進むと、第一京浜国道と合流する。旧東海道と第一京浜国道にはさまれた狭い場所に「鈴ヶ森刑場跡」がある。前回来たときには気付かなかったが、槍先状の敷地の「鈴ヶ森刑場跡」、その二等辺三角形の底辺部分に鈴森山大経寺がある。10時12分、我々が着いた時、作務衣を着たいっこくそうな住職が見学者に説明を終えてお寺に戻るところであった。

 東京都教育委員会の案内板によると、
 都旧跡 鈴ヶ森遺跡 寛政十一年(1799)の大井村「村方明細書上」の写によると、慶安四年(1651)に開設された御仕置場で、東海道に面しており、規模は元禄八年(1695)に実施された検地では、間口四〇間(74メートル)、奥行九間(16.2メートル)であったという。
 歌舞伎の舞台でおなじみのひげ題目を刻んだ石碑は、元禄六年(1693)池上本門寺日頭の記した題目供養碑で、処刑者の供養のために建てられたものである。大経寺境内には、火あぶりや、はりつけに使用したという岩石が残っている。
 ここで処刑された者のうち、丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七、白木屋お駒などは演劇などによってよく知られている。
 江戸刑罰史上、小塚原とともに重要な遺跡である。


 イメージしていたものよりも、磔台(右上写真の左側)と火炙台(右上写真の右側)は意外と小さいものであった。映画などで、見上げるような磔台はかなり誇張があるのだろう。特に火炙台は仰々しくない分、焼身自殺者を見るような、等身大の恐怖といったようなものを感じた。
 様々な慰霊碑、説明板などが林立する中に、大経寺住職の以下のような告知が掲げられていた。文面からすると住職は腹に据えかねるところがあるようだ。しかし、宗教者にしては随分思い切った文面である。我々も礼を失しないように礼拝し、女房がお寺にお賽銭を上げに行った。
 鈴ヶ森刑場跡で単独で東海道を西へ歩く若者に追い越された。きっと彼はひたすら歩いて、保土ヶ谷宿まで行くのかもしれない。我らはその手前の神奈川宿へも行けそうにないだろう。

 広い第一京浜国道に合流して、国道の向こうの西側に渡る。寒さ対策をしてきたのに、この暖かさはどうしたことか。歩くと汗ばむほどである。並走する京浜急行の大森海岸駅の先にある小さな森が磐井神社である。10時32分、磐井神社に着く。境内前の歩道上の、車道と分ける植え込みの中に井戸があった。磐井の井戸(左写真)である。

 磐井神社の境内には左右に2本のイチョウの巨木がある。「東京都大田区みどりの保護と育成に関する条例」に基づいて指定された保護樹林となっている。
       左のイチョウ  幹周囲 4.9m   樹高 16m  樹齢 300年以上
       右のイチョウ  幹周囲 3.57m  樹高 16m  樹齢 300年以上
 右のイチョウは道路側の反面が黒く炭化している。イチョウは火に強い。火事にあって黒焦げになっても、どっこい生きている。東京都内には戦災で焼けたイチョウが芽をふき、生き残ったという話がいくつか残っている。ここのイチョウも戦災に遭ったものであろう。(写真は左のイチョウ)川崎宿にはまだ距離があるが、これを本日の巨木としよう。

 
 今日は東京国際マラソンがある。第一京浜国道はそのコースになっており、係員が随所に見られ、給水所の準備も始まっていた。第一京浜国道から、旧東海道の美原通りにそれる角に、テレビ局各社がやぐらを組んでカメラの砲列を連ねていた。第一京浜国道から平和島に曲がる辺りを狙おうというのだろう。逆にカメラを向けてみた。(左写真)

 この日のマラソンは高橋健一(富士通)が2時間10分51秒で初優勝したと知ったのはもちろん自宅へ帰ってからであった。

 狭い美原通りには、両側に歩道を確保するように、街道の松並木の切り株を模したような石が並べられ、その切り口にはかっての街道の風景が描かれていた。アイデアはわかるのだが、歩いていて余所見をするとけつまづきそうな危うさを感じた。
 美原通りから第一京浜国道に戻ると、再び京浜急行と並走する。1kmほど南へ進んだ京浜急行梅屋敷駅の先に「梅屋敷公園」がある。11時21分、公園は第一京浜国道沿いにあった。園内の梅は三分咲き位であろうか。木によって早い遅いがあるようだ。園内には十数人の散歩の人や観梅の人が見られた。鳩が近くの電線にたくさん止まっていて、人が食べ物を食べる気配を見るといっせいに地上に降りてきた。それを見てしまうと、人は食べ物の一部を撒かねばならなくなる。残念なことに、園内の池や周りが塵だらけで、居心地がまことに悪かった。せっかくの名園が台無しである。かっては徳川家や明治天皇が花を愛でて度々訪れた庭園である。ゆっくり休憩をしようと思ってたどり着いたが、早々に発った。

 第一京浜国道をまっすぐに南南西に進む。あたりには町工場が散見される蒲田の下町である。3kmほど進み、多摩川が近づいた左側に、六郷神社があった。12時15分、六郷神社に着く。社殿前に、左に白梅、右に紅梅が花をつけていた。白梅はちらほら、紅梅は満開のまま固まって造花のように見えた。

 六郷神社崇敬会の奉納した「六郷神社由緒」の案内板によると、
 当社は、多摩川清流に南面する古い八幡宮であり、六郷一円の総鎮守として、ひろく崇敬されています。
 社紀によれば、源頼義・義家の父子が、天喜5年(1057)この地の大杉に源氏の白旗をかかげて軍勢をつのり、石清水八幡に武運長久を祈ったところ、士気大いにふるい、前九年の役に勝利をおさめたので、その分霊を勧請したのが、当社の創建とされています。
 文治五年(1189)源頼朝もまた奥州征定のみぎり、祖先の吉例にならって戦勝を祈り、建久二年(1191)梶原景時に命じて社殿を造営しました。今なお境内に残る大きな手水石は、このとき頼朝が奉献したものであり、神門前の太鼓橋は景時の寄進と伝えられます。(後略)


 女房が社務所で御朱印をもらっている間に境内を歩き回る。六郷神社の創建に深くかかわった「旗懸之杉」は、元は社殿の左側に立っていた。現在、その跡に「御神木旗懸之杉旧趾」の石碑が立っている。そして、「旗懸之杉」の根株が正面から境内に入ったすぐ左手に、鉄板の陣笠を被せて保存されていた。(右写真)

 他にも境内には木造の旧六郷橋の橋柱、頼朝が奉献した手水石、梶原景時が寄進した太鼓橋などが点在していた。中でも、江戸時代に六郷中町の有志が奉納した一対の狛犬は沖縄のシーザーを見るような素朴なおかしみがあった。(右下写真) 多分、シーザーと狛犬はルーツが共通しているのだろう。
 六郷神社社殿正面から真っ直ぐ多摩川に抜ける。土手を歩いて六郷大橋を渡った。六郷大橋の現在の橋柱には六郷の渡しがデザインされていた。六郷神社にあった旧六郷橋の橋柱と並べてみた。(左下写真)

 多摩川の河川敷には土手よりにテニスコートなどのスポーツ施設があり、一本の小道を境に、川側の草地には青いシートのホームレスの小屋が数軒のあった。それぞれが隣と干渉しないように距離をとって、家々にはよく踏み固められた小道がついている。洪水時さえ考えなければ、意外と優雅な小屋かもしれないと思った。

 橋の中間で「神奈川県」「川崎市」の道路標識を見る。12時50分、東京都から神奈川県への最初の県境を越える。六郷大橋を渡った橋詰には「明治天皇六郷渡御碑」や「長十郎梨のふるさと」の案内板、「厄除川崎大師」の案内の灯籠(右写真)などが立っていた。川崎大師はこれより 2kmほど下流にある。今日は道草しない。

 橋詰で第一京浜国道を潜ってでた川崎宿の入り口に案内板を見つけた。
 川崎市街の東海道には昔を偲ばせるものがほとんどない。ただ、所々に「川崎歴史ガイド●東海道と大師道」の案内板が立っている。その中で、注意を引いたものを上げる。
 お昼をとっくに過ぎてしまった。横浜駅の「えきめんや」で月見うどんを食べたのが9時頃だった。かなりの空腹を抱え、蒲田、六郷と食事処を探しながら来たが、適当な食堂がなかった。13時10分、ようやく川崎の中心街、宗三寺のすぐそばの増田屋に入り、天丼を食べた。

 旧東海道は川崎市街を南西に真っ直ぐ横断する。途中に川崎宿の案内板があった。
 京浜急行八丁畷駅のすぐ手前の道路右側、京急の線路との間に芭蕉の句碑がある。(左写真) 「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」の句碑は小屋の中にあった。回りの空き地に「日進町芭蕉の碑保存会」の手で、句ゆかりの大麦の苗が植えられていた。春の日差しの下、高さ10数センチの緑の葉群を連ねていた。嬉しい心遣いである。
 京浜急行八丁畷駅手前の踏切を渡り、駅の裏側に慰霊塔がある。あたりを工事で掘り返すたびに江戸時代のたくさんの人骨が出た。これはその慰霊塔である。(右写真)
 かって「八丁畷」と呼ばれた真っ直ぐの道を鶴見川に向かって進む。14時30分、1kmほど進んだ左側に、「市場の一里塚」があった。塚上には現在稲荷社が祀られている。日本橋から歩いてはじめて見る一里塚である。
 14時40分、鶴見川に出る。そろそろ足にダメージが来た。前回歩いたあと、右ふくらはぎが肉離れしたように痛くなった。今回もそこを心配したが、今日は足全体にきている。「そろそろ終わりにするか」というと、女房も足に痛みを感じているらしく、同意の返事が返ってくる。橋の手前左手の小公園で休憩をする。地図を見て、JRの鶴見駅で終わりにしようと話す。その小公園にこの界隈の案内板があった。

 アーチ式の鶴見川橋を渡ると、左側に「鶴見橋関門旧跡」の石碑があった。生麦事件に驚いて川崎宿から保土ヶ谷宿の間に、20ヶ所以上の関門や番所を設けた幕府の慌てぶりがうかがえて興味深い。
 鶴見神社へ立ち寄る。陸橋を渡るとき神社裏手に岩を積み上げた「小富士塚」が見えた。正面にまわって本殿脇を通り、「小富士塚」を見学しようと思ったが、柵があり、南京錠がかかっていて入れなかった。かっては自由に出入りが出来たはずなのに、参拝客をシャットアウトしている施設を見ることが多い。理由は色々あるのだろうが、宗教施設としては悲しい事実である。仕方なく参拝して帰ろうとして、社殿前の狛犬を載せた黒い岩の石組みが「小富士塚」と同じ材料で作られているような気がした。(左写真)

 鶴見駅の途中に名主佐久間家の建物も有ったが、すでに帰宅モードに入っていて、そのまま通り過ぎてしまった。京浜急行の鶴見駅もそばにあったが、JR鶴見駅から京浜東北線の電車に乗り、横浜から前回と同じ電車に乗り換え帰宅した。“懐情の原形” を探す旅はまだまだ続く。

 汗ばむように暖かい一日であった。今日から万歩計を付けた。本日の歩数は 30,172歩であった。








このページに関するご意見・ご感想は:
kinoshita@mail.wbs.ne.jp

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送