第 3 回 
  平成13年2月25日(日) 
 雨のち晴れ
 鶴見−生麦−神奈川宿−保土ヶ谷宿
 “生麦事件を引きずって神奈川宿へ” 



 旅の最初に紹介した我々夫婦の似顔絵を描いてくれた、名古屋在住の似顔絵画家 “横地あおゐ” 氏から、2月20日にメールが来た。「何気なく自分に名前で検索をしました所、このホームページにたどり着きました。インターネット上で自分を見つけるのは嬉しい物ですね。」 連絡した訳でもないのに、ネットの世界も意外と狭いと思った。
 「私はいま名古屋を中心に活動をしているのですが、仲間と友にアトリエを持っています。アトリエにはホームページも有ります。」  “お絵かき隊” のホームページは仲間の似顔絵作品が掲載されていて、楽しいホームページであった。次の絵からリンクしますのでご覧になって下さい。


 先週に引き続き、二週連続の夫婦旅である。起きた時は暗い中にも晴れる予感があったのに、三島を過ぎる辺りから小雨になった。しかし、先週の最終地点、鶴見に着く頃には山側から晴れてきた。

 9時12分、鶴見駅前に降り立つ。駅前の立喰そば屋できつねうどんを食べ、腹ごしらえをする。立喰そばの店名が「ういーん」。このアンマッチな店名に新聞記者も気付いたらしく新聞に取上げた。その新聞が拡大されて店内に張られていた。種明かしは以前は「ウイーン」というカタカナ名の喫茶店だった。立喰そば屋に変わるときに、名前は変えず平かなにして使っているという。どんなことでも目立つことは良い事だ。

 京浜急行を潜り商店街を南下する。第一京浜国道を渡って生麦旧道(旧東海道)に入る。JR鶴見線を潜ると魚河岸通りで、にぎわいを見せる通りだと言うが、今日は日曜日のためか静かである。魚屋さんらしい店が多い。

 9時47分、赤い鳥居がトンネルになった道念稲荷が右手にあった。(左写真)入口右手に、「蛇も蚊も」という民俗行事についての案内板があった。虫送りの行事の一つであろう。
 生麦事件の発生現場として、一軒の普通の民家の垣根に以下のような案内板が出ていた。案内板の直下にはトラ模様の柵を設け、「『生麦事件』は市指定の史跡です。歴史散歩で立ち寄り、写真を撮る人がいます。駐車しないで下さい。」とベニヤ板に書かれていた。

 10時05分、生麦のとある四つ角に差し掛かったところで、携帯電話が鳴り出した。何事かと電話に出ると、会社のパソコンインストラクターの訃報だった。悪いとは聞いていたが、あっけない終焉だった。今日1日、この知らせを引きずって行くことになるだろう。

 左手にキリンビールの生麦工場が延々と続く。 「“生ビール”はここで出来るかと女房言い」 これは川柳のような実話。

 生麦旧道(旧東海道)から第一京浜国道に合流して、すぐ左手に「生麦事件の碑」があった。前述の生麦事件発生現場の生麦村名主日記で「壱人松原ニ而即死」の現場がこの地点であろう。とすると、最初に斬り付けられてから数百メートルほど逃げたことになる。

 「生麦事件参考館」が「生麦事件の発生現場」の近くにあったと案内図で知った。しかし、たとえ数百メートルでも戻るのはつらく、心を残しながら今回はパスする。

 第一京浜国道を北側に渡り、歩道を歩く。前を行く夫婦者のウォーカーを追い越さないために、横丁の奥に見えた踏み切りと、山門と、樹木に吸い寄せられるように寄り道する。密厳山遍照院というのがそのお寺の名前であった。(左下写真)

 山門をかすめるように京浜急行が通る。踏切を渡らなければ遍照院には行けないようだ。二、三分置きに遮断機が降りて電車が通る踏み切りのそばで、ヨチヨチ歩きの子供を遊ばせる父親がいた。手を離すと踏み切りの方へ行ってしまう。それを連れ戻すという繰り返しで遊ばせている。見ている方がはらはらさせられる。

 山門を入って境内すぐ左手、墓地の前にイチョウ、その奥にタブの巨木があった。いずれも「横浜市の名木古木指定」と表示されていたが、「日本の巨樹・巨木林」の横浜市の欄に見当たらず、巨木には太さがまだ不足なのかもしれない。ともあれ、神奈川宿には少し早いが、「遍照院のイチョウ」(右の写真の左の樹)及び「遍照院のタブ」(右の写真の右の樹)を本日の巨木にしよう。

 さらに第一京浜国道を1.3kmほど進んだ京浜急行子安駅の先で、「浦島太郎の墓」に参るために、道一本入って線路のそばの道に出る。片側に木造住宅が軒を連ね、線路との間を区切る枕木を立て並べた柵には、生活臭の付いた布団や毛布が掛け干してあった。電車が通ると風が起き、薄い布団なら飛び立ちはしないかと危さを感じながら通った。後から来た女房が立ち止まり、後ろを気にしている。浦島踏切を渡りながら見ると、危惧した通り布団が一枚飛んで、線路にあと1mのところに広がって落ちている。巻き込むと危ないなあと思いながら、踏切を渡る。後から渡って来た小型トラックの運転手が横浜線のガード下に車を止めて、布団の方へ歩いていった。気付いてくれた人がいてほっとして、我々は先へ行く。

 歩きながら最近あった事件のことをふと思った。1月のJR新大久保駅の事故で、韓国留学生の李秀賢氏とカメラマンの関根史郎氏が、ホームから落ちた酔っぱらいを助けようと線路に飛び降り、三人とも亡くなった事件のことである。二人に一瞬でも躊躇があれば飛び降りなかったであろう。多分、彼らは考える前に身体が反応したのだろう。ホームには他にも何人かいたと思う。迷いの有無が彼らを彼岸と此岸に分けた。二人の正義感と勇気を称える声を聞くたびに、一瞬の迷いで飛び降りなかった多くの人達の今の想いに関心が行く。

 我々も布団に気づいた時点で反射的に拾い上げる行動を起こすべきであったのかもしれない。帰りに浦島踏切を通った時には布団は片付けられていた。

 「浦島太郎の墓」は浦島踏切を渡り、国道1号線を越えて石段を登った上にある蓮法寺にあった。10時56分、蓮法寺山門に着く。山門左手、境内の外に、石塔や石像などとともに亀型の墓石があった。この墓石はもと浦島寺と呼ばれた観福寿寺にあったものといわれ、「浦島太郎の墓」と伝わる。

 全国各地には浦島伝説が数多く残っているが、ここもその一つであろう。かっては漁師が海難に遭い、助けられた他郷で長く暮らし、年老いて故郷に戻るというような話は数多くあったと思う。もしその「太郎さん」が他郷での暮らしを美化すれば皆んな浦島伝説になってしまうだろう。

 同じ道を戻る。浦島踏切ではJR東海道本線、横須賀線、京浜東北線の計6本の線を渡る。上り下りの電車が次々に通り大変忙しい踏切である。目の前で踏切が上がり、車つきの荷物を引いた老婆が渡り始めた。と同時に警報が鳴り始め、向こうまで渡れるかと心配して見ていると、老婆は慣れたもので急ぎもせずに悠々と渡り、降りかかった踏切を潜るように渡り切った。次の遮断機が上がるまで、次々と電車が通り、我々は延々10分以上も待たされた。

 第一京浜国道に戻り、300mほど進んだ一本内側の道沿い、京浜急行神奈川新町駅前に神奈川通り東公園がある。ここが「神奈川宿歴史の道」の東の起点である。江戸末期の開港当初、オランダ領事館が置かれた長延寺のあったところである。現在はお寺も移転し、道路沿いに「和蘭陀領事館」と刻んだ石碑が残っているだけであった。
   第一京浜国道をさらに200mほど進んだ国道沿いに良泉寺がある。近辺のお寺には江戸末期の開港時に諸外国の領事館が置かれた。その中で良泉寺だけは、世の中の流れに抗して、幕府の命令を敢然と拒否したという。異人が我が物顔で出入するのを心良しとしない寺院があったことは大変興味深い。きれいに整備された境内に、枝振りのよい白梅が一本満開であった。(右の写真)
 「神奈川台場跡」へ足を伸ばそうと、第一京浜国道の南側に渡り、国道と交差する滝野川の手前を左折する。300mほど進んだ突き当たりの左手に「神奈川台場跡」がある。11時57分、「神奈川台場跡」に着く。地上2mほどの頑丈そうな石垣が見えている。もちろん地下にもこの何倍かの石垣が埋まっているのだろう。かってはコウモリが羽根を広げたような形に、海に突き出ていたというが、現在は周りが埋め立てられ、貨物線の線路が通り、工場や卸売市場などになっている。

 滝野川の川縁に出る。川面の日陰を選ぶように、小型のカモの仲間が十数羽じっと羽根を休めている。第一京浜国道に戻る。今日は前回と違って女房が遅れがちになる。前回の最後に足が痛くなり、今日は最初からその用心をしてゆっくり歩いているという。

 第一京浜国道から東に折れ、両側をビルに挟まれた狭い宮前商店街を行く。点々と「神奈川宿歴史の道」案内板がある。その一つが右側の洲崎大神の前にあった。奥に小さな杜が覗けた。
 洲崎大神から100mほど進んだ右手奥に、浄土真宗の甚行寺がある。門の右手に「史跡フランス公使館跡」の石碑があった。宮前商店街を抜けたすぐ右手に京浜急行神奈川駅がある。駅前に「神奈川宿歴史の道」案内板があり、神奈川宿の全貌が紹介されていた。

 神奈川本陣跡も青木本陣跡も辺りに昔の面影の片鱗もなくて見つけられなかった。12時20分、青木橋を渡る。橋の下に川は無くて、JR線や京浜急行が引っ切り無しに行き来していた。橋を渡った右手の台地上に本覚寺が見える。アメリカ領事館跡の石碑があるというが、坂道を登らねばならないようで、用心して道草を止めた。旧東海道は青木橋を渡るところで大きく乱れるが、宮前商店街を真っ直ぐに延長したビルの狭間の神奈川台町に繋がっており、坂道を登って行く。

 東急東横線を渡ったすぐ右側に、三宝寺と、すぐ隣に大綱金刀比羅神社があり、三宝寺と大綱金刀比羅神社の間にかっては日本橋から7番目の一里塚があったという。
 坂道はかなり勾配がある。かっては神奈川の湊を見おろす景勝の地で海側(左側)に茶店が軒を並べていたという。今は見る影も無いが、地形的には何となく頷けそうな雰囲気があった。かっての茶屋「櫻屋」が左写真の料亭田中家辺りだと言われている。
 坂の頂上の右手緑地に「神奈川台関門跡 袖ヶ浦見晴所」の石碑が立っていた。(右下写真) 生麦事件後設置された関門の一つで、古写真を見ると随分物々しいものだったことが知れる。各国領事館などが集中していた神奈川宿の西の護りの要であったのだろう。
 首都高速の高架をはるか上に見上げながら進む。街道歩きの中年男性が追い越して行き、そこまでは正しいルートだと自信があった。ところが右手にイチョウの大木を見つけ、勧行寺に寄り道をしてし、もと来た道へ戻ってから急に自信がぐらついてきた。用意した地図の今どこにいるかがわからない。しかし、お昼時間で人通りも無く、聞くことも出来ない。道から外れて広い通りに出て、歩道で人待ち顔の背広のおじさんに尋ねる。答えが頓珍漢で、東海道と言ったため国道一号線を教えようとしているらしい。地図を出して見せたところ、ようやく旧東海道の意味を理解し、「こだわりですね」と言って、我々が歩いて来た道が正しいことを教えてくれた。やっと自分達の現在地も確認できた。

 元の道に戻って、「富士に通じる人穴」で知られる浅間神社の前も素通りし先へ進んだ。

 大山道の追分を過ぎて、洪福寺松原商店街に入る。今日はお祭りなのであろうか、デコレーションされた商店街は “ホコテン” になった両側に露店が並び、かき分けて進むほどの人手となった。女房の見るに魅力的な価格の物もあるらしかったが、買って背負うわけにもいかない。

 13時25分、もうこんな時間になった。食事処を探して「竹林」という蕎麦屋に入った。 “かつ重” を食べ出てきて、人心地できた瞬間に間違いを犯してしまった。「竹林」へは商店街から左に曲がったところにあったのだが、右に曲がったことを忘れ、先へ進んでしまった。先に駅があるとの記憶に、確かめもせずずんずん進み、相模鉄道の高架上の西横浜駅まで登って、ようやく地図を確かめて間違いに気が付いた。記憶を辿りながら「竹林」まで返り、旧東海道の商店街に戻った。

 200mほど進むと、右側に橘樹神社がある。境内左手に「明治天皇東幸遺蹟碑」が立っていた。本殿左奥には「神田不動尊」が祀られており、その手前には「力石」(右写真)や「石盥盤」などが置かれていた。

 立て札によると、
 力石 三個 たすき石、さし石等の異名であるを思えば、人がその力のかぎりを神に捧げ、或は天地神明に誓うと言う原始信仰の神事に由来するものであろう。後世はこの石でもて遊び民俗風習となって各地に分布した様である。

 帷子橋を渡ると帷子川の護岸に数十羽のカモメが止まっていた。たくさんカモメが集まっているなと思って通り過ぎようとしたところ、親子連れがやってきた。カモメが一斉に飛び立った。親子が撒き始めた餌を空中でキャッチする。(左写真) これが目的で集まっていたのだ。鳥の餌に関する記憶力にはいつも驚かされるものがある。

 14時27分、相模鉄道天王町駅を文字通りスルーし駅前広場に出る。川も無いアスファルトの広場に板敷きの橋と欄干が出来ていた。(右下写真)
     保土ヶ谷区観光協会の案内板によると、
     旧帷子橋趾 旧帷子橋は、安藤広重の版画(東海道五十三次)によって広く世に知られています。旧帷子橋は近年まで、当所に残存していましたが、帷子川改修および相模鉄道の立体化などによってその姿は消滅しました。そこで、当時の面影を残すため、ここに記念碑を設置します。
 保土ヶ谷駅はもう目と鼻の先である。その先の交通の便を考えると保土ヶ谷駅で終りにしよう。しかし、まだ少し早いから駅の先の「金沢道道標」から左に逸れて、「御所台(ごしょだい)の井戸」を先に道草しておこうと話す。前を行く男性が5秒おきにくしゃみをしながら歩いている。そういえば花粉症の季節である。花粉症歴25年の我が身としては、この後しばらくは東海道歩きもお休みにしなければなるまい。それにしても見事なリズムである。くしゃみは案外と本人にとって気持ちの良いもので、はたが感じるほどには苦痛に感じていないに違いない。

 保土ヶ谷駅の前を通り過ぎ、帷子町商店街を進む。300mほど行った左側の角に「金沢道道標」(左写真)がある。

     横浜市教育委員会の案内板によると、
     横浜市地域有形民俗文化財 金沢横町道標四基 この地は、旧東街道の東側で、金沢・浦賀往還への出入口にあたり、通称「金沢横町」と呼ばれました。金沢・浦賀往還には、円海山、杉田、富岡などの信仰や観光の地が枝道にあるため、道標として四基が建立され、現在残っています。四基の道標は、それぞれつぎのとおりです。(右側から番号を付す)
      @円海山之道〔天明三年(1783)建立〕
       左面に「かなさわかまくらへ通りぬけ」と刻されています。
       建立者は保土ヶ谷宿大須賀吉左衛門です。円海山は「峯のお灸」で有名でした。
      Aかなさわ、かまくら道〔天和二年(1682)建立〕
       左面に「ぐめうし道」と刻されています。
      B杉田道〔文化十一年(1814)建立〕
       正面に「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花 其爪」と刻されています。句碑を兼ねた道標は珍しく、また作者の其爪は江戸の人で河東節の家元です。
      C富岡山芋大明神社の道〔弘化二年(1845)建立〕
       建立者は柳島村(現茅ヶ崎市)の藤間氏。芋明神は、富岡の長昌寺で、ほうそうの守り神として信仰を集めていました。
 「金沢道道標」に導かれて左折、旧東海道から外れる。すぐに赤い小さな祠があった。「豊受大神宮」の御札の前に黒い猫の御神体(?)。猫にとっては風も避けられ、日当たりも良好、お気に入りの場所なのだろう。

 JRを渡り、広い道路を突っ切って、石難坂(いしなざか)の坂道を登る。100mほど進んだ右手に板屋根に覆われ、丸い板で塞がれた「御所台の井戸」があった。
     横浜市教育委員会文化財課の案内板によると、
     この道は、旧金沢道(金沢・浦賀往還)、俗称金沢横町と呼ばれる道で古くより鎌倉へ到る道として知られていました。この坂は、石難坂(石名坂)といい、坂の上の辻に北向地蔵があります。
     鎌倉時代、源頼朝の妻政子がここを通りかかった時、この井戸の水を汲んで化粧に使用したと伝えられ、「御所台の井戸」と呼ばれています。
     また、保土ヶ谷宿の苅部本陣(保土ヶ谷町一丁目68番地)に江戸時代、将軍が休憩した時、御膳水としてこの井戸の水を使用したと伝えられています。
 保土ヶ谷駅に戻り、本日の旧東海道夫婦旅を終りとする。本日の歩数は 29,524歩であった。







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