第 4 回 
  平成13年4月7日(土) 
 晴れ時々花曇り
 保土ヶ谷宿−権太坂−戸塚宿−藤沢宿
 “団子・牡丹餅・焼餅の桜街道からロックの遊行寺へ” 



 自分の古い友人に、静岡在住の易家にして俳人の小沢寛峰(蓑虫)氏がいる。仙人になる夢に憑かれ、山野を巡って三十年。著書に「登呂の語り部」(近代文芸社)という風変わりな小説集がある。その“蓑虫”氏が初めての句集「山荘の四季」(文芸社)を出版した。どこの結社・団体にも属さず独学で読んだ二千近くの句が収録されている。贈呈された本から、季節にあった桜の句を探してみる。氏の好みなのだろう、咲いた桜よりも散る桜を詠んだ句が多い。いくつか紹介する。

    一山の 桜吹雪ける 音なりけり

    谷越えて までも我へと 花吹雪

    落花止まず 将几のお茶にも おでんにも

    追い掛けて 我が肩に散る 夕桜          蓑虫   



 今日は街道筋は桜が満開だろうと話しながら、前三回と同じ電車に乗る。8時57分、保土ヶ谷駅着。駅前ビル内の “Cafe de Crie” のモーニングサービスで朝食を摂り、9時27分、東海道歩きに入る。

 前回の終りに、保土ヶ谷駅を通り過ぎ、帷子町商店街を進んで、「御所台の井戸」に道草しておいた。今日は勝手を知った帷子町商店街を歩く。左角に「金沢道道標」を見る交差点までが前回足を伸ばしたところである。その先、JR東海道線の踏み切りを渡り、広い国道1号線に突き当たる。国道1号線の横断歩道を渡った向い側に保土ヶ谷宿の苅部本陣跡(左写真)があった。

 ブロック塀に囲われた中に小さな門の屋根が見えるが、これが本陣の唯一の名残という。女房が勝手口が開いていて中へ入れそうだというが、公開されている訳でもなさそうなので案内を乞うのは止める。旧東海道も広い国道1号線になっては面影もないが、唯一進行方向左側に古い格子戸が残る大きな民家(右写真)があった。
 国道1号線を500メートルほど西進した左側、今井川の対岸に外川神社がある。境内に大木が見えたので立ち寄る。神社にはカメラを構えた若者が一人おり、我々が着くのと入れ替わった。横浜市の名木古木指定のケヤキとイチョウがあった。しかし保土ヶ谷宿の巨木には別の巨木を選ぶ。9時55分、今日はぐんぐん気温が上がり、外川神社ですでに一枚セーターを脱いだ。

 外川神社の先で旧東海道は国道一号線から右手に分かれ、街道の面影は何も無いまっすぐの道を700メートルほど進んだ。日差しは強くないのだが暑い。女房は今こんなに暑くては真夏にはとても歩けないという。広い道に突き当たり左折、100メートルほど進んで、最初の細い道を右折する。いきなり始まる坂道が有名な権太坂である。

 権太坂では “外川神社の若者” が先を行く姿を見つける。どうやら彼も東海道を歩いているようだ。東名高速道路を下に見て橋を渡った。光陵高校の敷地の角に、新しいものだが権太坂の石柱(左写真)が立っていた。その先、左手下の権太坂小学校では今日は始業式なのだろうか、外に生徒が集っている。坂は住宅地の中を右へ左へ軽くカーブしながら緩やかに上って行く。

 1キロメートルほど行くと、東海道は境木中学校に突き当たって右折する。我々は「投込塚」に寄り道しようと左折する。そこで “外川神社の若者” とすれ違う。彼もまた「投込塚」に寄ったのであろう。探すまでも無く「投込塚」(右写真)は道路左手にあった。四坪ほどの敷地に「投込塚之跡」の石碑を中心に墓石、石仏、石地蔵、卒塔婆などが並んでいた。

 東海道を東から上ってくると最初の難所となるのが権太坂である。「投込塚」近辺は権太坂の難所で命を落とした旅の人馬を葬った場所という。“投込み”とは少し乱暴だが、昔は遺体を故郷へ送り返す手立ては無かった。旅人は亡くなったその場で葬るしかなかった。戦後の宅地造成時に大量の人骨や牛馬の骨が出土した。「投込塚」はそれを供養したもので、川崎宿の“八丁畷の慰霊塔”と同じ類のものである。街道を行くと各所で行き倒れた旅人の墓や慰霊碑に出会う。昔の旅は最も施設が整った東海道とはいえ命がけであった。旅立ちの水盃が実感として生きてくる訳である。

 旧東海道に戻り、境木中学校に並ぶ境木小学校の敷地の外れた先、右側に大きな屋敷が見える。黒板塀に囲まれた若林家(右写真)である。かっては立場として、名物の牡丹餅を売って賑わいを見せた峠の茶屋であった。今も子孫が住んでいるのであろう、家から出てきた娘さんが人待ち顔にたたずんでいた。

 若林家の左隣が境木地蔵である。10時45分、境木地蔵の境内に上がる。「すごい!」 境内を覆った満開の桜から、花びらが黒土の境内を白くするほどに散り敷いて、一年で今日限りの絶景である。(右下写真) これを蓑虫氏なら何と表現するのであろうか。もっとも絶景は好みでないかもしれない。

 “境木”は武蔵と相模の国境で、境の木が立っていた。その木がこの大ケヤキだったのかどうかは知らないが、境内の隅に “境木のケヤキ” が立っていた。地域の御年寄がケヤキの根元で水を使って作業をしていたので、そばに寄るのを遠慮して、外から写真を撮った。(左写真) ケヤキの大きさの資料はないが、これをぎりぎり保土ヶ谷の巨木としよう。

 境木地蔵を出て、東海道は左手へ下って行く。まもなく今では珍しい土の斜面を背景に、「焼餅坂」の真新しい木製の標識があった。この先の平戸に焼餅を売る茶店があって人気だったという。一説には登って来た「権太(ごんた)坂」も元は「団子(だんご)坂」と呼ばれていたという。 “団子” “牡丹餅” “焼餅” とこの坂を越すにはエネルギーの補給が欠かせないということなのだろう。

 11時、住宅地の中の「品濃一里塚」に着く。珍しく両側に迫った小山に一里塚が残っている。この辺りの東海道は品濃村と平戸村の村境を通っている。この一里塚も西側が品濃村、東側が平戸村に入っている。西の塚は上に登れて一里塚公園(右写真)になっている。
     横浜市教育委員会の案内板によると、
     品濃一里塚 慶長九年(1604)徳川幕府は、五街道を整備し、あわせて宿場を設け、交通の円滑を図りました。
     それと同時に、当時あいまいであった駄賃銭を決めるために、江戸日本橋を起点とした距離が判るように、明確な里程標が必要となりました。そのため街道の両側には、一里(約四キロメートル)ごとに五間(約九メートル)四方の塚が造られ、塚の上にはエノキやマツが植えられました。これが一里塚です。
     一里塚は、旅人にとって旅の進みぐあいがわかる目印であると同時に、塚の上に植えられた木は、夏には木陰を作り、冬には寒風を防いでくれるため、旅人の格好の休憩場所にもなりました。そのため、一里塚やその付近には茶店ができ、立場が設けられるようになりました。
     ここ品濃の一里塚は、日本橋から九番目の一里塚で、保土ヶ谷宿と戸塚宿の間に位置しています。旧東海道をはさんでほぼ東西に二つの塚があり、地元では一里山と呼ばれていました。東の塚は平戸村内に、西の塚は品濃村内に位置し、西の塚にはエノキが植えられていたようです。
     このように、今でも道の両側の塚がともにほぼ当時の形で残っている所は、神奈川県内でもこの一里塚だけであり、昭和四十一年には県の史跡に指定されました。
 東海道は住宅地の中を小さくカーブしながら下って行き、最後に大きく下って歩道橋で環状2号線を渡って降りる。この下り坂を「品濃坂」(左写真歩道橋)と呼ぶ。

 坂下のバス停の先で東海道は小さな川沿いの道となった。対岸に植えられた桜並木がこちら側へ手の触れそうなところまで枝を述べて、今満開(右写真)である。それが延々と続いた。水量の少ない水面に花びらが列になって流れている。その水面に番いのコガモが流れに逆らって浮いていた。散る花びらを手のひらに受けるのは意外と難しい。夫婦でそんな遊びをしながら歩く。

 桜並木が尽きて、ここで国道1号線を横断し、平戸永谷川沿いの道を行く。水量が少なくおせいじにもきれいな川とは言えないが、太った真鯉が、いるわ、いるわ、浅い流れに背びれを出しながら泳いでいる。清い流れを取り戻すために放流したものだろうが、少し鯉にかわいそうだ。 下水施設の整備の方が先だとも思う。

 東海道は国道1号線に合流し、1キロメートルほど歩いた国道端で、12時近くなったので、手打ちそばの「やぶ忠」で割子そばの昼食を摂った。

 12時17分、歩きを再開。まもなく、不動坂の手前で、国道から右へ逸れる小道を50メートルほど入った右手に、赤い屋根のお堂があった。このお堂の回りには近在の大山道の道標が集められている(右下写真)。

     横浜市教育委員会の案内板によると、
     横浜市地域史跡 柏尾の大山道道標 大山は、江戸時代から広く関東一円の人びとのあいだに信仰されていました。大山道はこうした参詣者の道で、旧東海道から大山への入口が柏尾です。
     大山道への道標は次の四基で、ほかに燈篭一基と庚申塔一基があります。
      @寛文十年(1670)の建立。建立者は柏尾村。五處の橋供養をかねます。
      A正徳三年(1713)の建立。半跏の不動明王像(石像)を主体とします。建立者は柏木藤左衛門ほか。
      B享保十二年(1727)の建立。建立者は江戸神田三河町の商人越前屋小一兵衛。
      C明治五年(1872)の建立。建立者は下総葛飾郡加村、船大工鈴木松五郎。
     庚申塔は、延宝八年(1680)、柏尾町施主拾五人により、燈篭は、元治二年(1865)、松戸宿の商人によって建立されたもので、大山信仰のひろがりが知られます。
     道標をふくめた六基は、近代になって現在地に集められたと考えられます。
 国道1号線に戻って、すぐ斜め向かい側の、国道より一段高い屋敷内に「益田家のモチノキ」(左写真)がある。「かながわの名木100選」にも選ばれている巨木である。樹齢は約300年(推定)という。モチノキは3本にも見えるが、太いほうは二又に分かれているのだろう。他所の屋敷内なので確かめることはできなかった。モチノキでこれだけの勢いのある巨木を見るのは初めてである。これを戸塚宿の巨木としよう。
     神奈川県教育委員会の案内板によると、
     神奈川県指定天然記念物 益田家のモチノキ モチノキ(モチノキ科)は暖地に生育する雌雄異株の常緑広葉樹で、高さは通常三〜八メートルに達し、四月頃に黄緑色の群生した小さな花を咲かせ、球形の果実を付けて赤く熟する。この樹皮より鳥もちを作ることからモチノキの名の由来があり、古くから人々によく親しまれている木である。
     指定された「益田家のモチノキ」は国道一号の旧東海道に面し、樹高18メートル、目通り2.4メートル、根回り3.1メートルの雌株と、これより0.75メートルほど離れて並ぶ、樹高19メートル、目通り3.2メートル、根回り4.9メートルの雌株の二本である。これほどまで生長した大木は他にはほとんど類を見ないばかりか、共に美しい樹冠で接しているのも珍しい。
     「相模モチ」の愛称で郷土の人たちから愛され、なじまれてきたこのモチノキ二本は、稀有な大木となって今なお樹勢もきわめて旺盛であり、旧東海道に面してきたという歴史的背景もあるので、将来にわたり永く保護することが望ましく、神奈川県指定天然記念物に指定するものである。
 国道は不動坂で3本に別れる。左側の1段高い旧東海道、真中の旧国道1号線、右側の国道1号線バイパスである。数本の満開の桜に導かれるように左側の旧東海道を進んだ。旧道は300メートルで川に突き当たり、右折して再び旧国道に出た。旧国道を400メートルほど南下した右側のファミリーレストランの前に「江戸方見付跡」の石碑(左写真)があった。ここが戸塚宿の東の入口である。
     案内板によると、
     江戸方見付跡 江戸時代に、戸塚の宿で町並を形成し、二十町十九間を宿内とし、その両側に道を挟んで見付を築き、これを宿場の入口の標識とした。貴賓の送迎はこれから行われ、大名行列もこれより隊伍を整えたものである。
 まもなく柏尾川を渡る吉田大橋にいたる。広重の「東海道五拾三次之内 戸塚」はこの橋を描いたもので、その絵の中の「左りかまくら道」の道標は今でもそのままで残っている。つもりでいたが橋の回りには道標は無かった。後で調べると少し離れた妙秀寺の境内に保存されているという。残念ながら見逃してしまった。

 吉田大橋を渡って藤沢の中心街に入ってきた。左に藤沢駅のホームがすぐそばに見える踏切を渡り、100メートル行った右側の横丁を入り、コンクリートの坂道を登り、13時12分、清源院長林寺にいたる。境内の右手には芭蕉句碑(右写真)がある。栗といふ文字は西の木と書きて西方浄土に便りありと、行基菩薩の、一生、杖にも柱にもこの木を用ひ給ふとかやの前書のあと、世の人の見付けぬ花や軒の栗という句が石碑に刻まれていた。世の中を避けてひっそりと暮らす主の奥ゆかしさを軒端の栗の花に託して詠んだ挨拶句だという。境内左手には「心中句碑」がぽつんとあった。井にうかふ番いの果や秋の蝶 井戸に飛び込んで果てた若い心中者を詠んだ句で、御法度の心中を呼んだ句碑は珍しいという。

 さらに街中を300メートルほど進んだ右側に「東海道戸塚宿 澤邊本陣跡」の柱状の看板と「明治天皇戸塚行在所阯」の石柱があった。(左下写真)

     戸塚観光協会の案内板によると、
     本陣跡 戸塚が東海道の宿駅になったのは、慶長九年(1604年)11月のことであった。澤邊本陣の初祖 澤邊宗三は戸塚宿設置の功労者である。本陣とは公郷、門跡、大名などの宿泊する公の宿のことを云ふ。
 「澤邊本陣跡」から300メートル進んだ右手に八坂神社がある。入口右側に「明治天皇東幸史蹟」、左側に「お札まき」という夏祭りの説明板があった。天から降ってきたお札に浮かれて、 “えーじゃないか” と集団で伊勢参りに繰り出した “おかげ参り” を思わせて面白い。
     横浜市教育委員会の案内板によると、
     横浜市指定無形民俗文化財 お札まき お札まきは、七月十四日の八坂神社の夏祭りに行う踊りで、同社の元禄再興とともに始まったと伝えられています。この踊りは、江戸時代中期、江戸や大阪で盛んに行われていましたが、やがて消滅し、現在は東海道の戸塚宿にだけ伝え残されています。
     男子十数人が姉さんかぶりに襷がけの女装をして裾をからげ、渋うちわを持ち、うち音頭取り一人はボテカズラをかぶります。音頭取りの風流歌に合わせて踊り手が唱和しながら輪になって右回りに踊ります。踊り終わると音頭取りが左手に持った「正一位八坂神社御守護」と摺られた五色の神札を渋うちわで撒き散らします。人々は争ってこれを拾って帰り、家の戸口や神棚に貼ります。神社境内で踊り終わると、町内各所で踊り、神社に戻ります。
     風流歌の歌詞に「ありがたいお札、さずかったものは、病をよける、コロリも逃げる」という文句があることから、祇園祭と同様な御霊信仰に基づく厄霊除けの行事であることがわかります。
     神札を路上に撒き散らして人々に拾わせる御符配りは、現在では極めて珍しく、民間信仰資料として貴重です。
 八坂神社から200メートルで富塚神社に着く。富塚神社の本殿裏の頂上は古墳で、富塚と呼ばれている。この富塚が戸塚宿の地名の起こりだと言われている。石段下左手に芭蕉句碑(右写真)がある。鎌倉を生きて出でけん初鰹 鎌倉を出荷された時はピンピン生きていただろう。初鰹の生きの良さを詠んだ句である。鎌倉で水揚げされた初鰹はかまくら道を通り戸塚へ運ばれてきたのであろうか。

 富塚神社から200メートル進んだ左側に、小さな松が植えられたスペースに「上方見付跡」の標柱がある。(左写真) 「江戸方見付跡」と対になって、ここが戸塚宿の西の入口である。
     みんなで探ろう郷土の歴史実行委員会の案内板によると、
     上方見付 見付は宿の入口にありこの藤沢側にあるものを上方見付、保土ヶ谷側のものを江戸方見付といい両見付の内側が宿内。
 この先を「大坂下」と云い坂道が始まった。「大坂」を登り切ったところで国道1号線バイパスと合流する。国道は上りと下りの間に緑地が東海道の松並木となっていたが、最近は松枯れで他の木に置き換わっている。びゅんびゅん飛ばす上り下りの車の間で、松でなくても生き難いシチュエーションである。歩道を歩く我々も排気ガスにかなりつらい歩行になった。

 この辺りは往時は山の中で昼なお暗いさびしいところであったという。行っても戻っても次の宿場には遠い山の中である。今はその面影もないが、左側歩道の脇に石柵で囲われた「お軽勘平、戸塚山中道行の場の石碑」があった。
     文学博士 松本亀松撰の「碑石の由緒」によると、
     碑石の由緒  “落人を見るかや野辺に若草の ・・・・” は、清元の名曲「道行旅路の花聟」の語りだしとして江戸以来人口に膾炙されているが、お軽・勘平の道行の場、 “こゝは戸塚の石高道 ・・・・” の旧跡という。この曲は天保四年三月、江戸河原崎座の初演以来、百四十数星霜を経てなお、上演を重ね、戸塚の名は墨繪の夜の富士とともに “ほんの旅寝の仮枕嬉しい ・・・・” 舞台の華やかな思い出を多くの人の脳裡に深くきざみこんでいる。お軽・勘平の道行は戯曲上の設定であれ史実にまごうほど戸塚の地名とは離れぬ。 “かわいかわいの夫婦づれ ・・・・” のゆかりはつきぬ道行の名勝に建碑の由緒を記す。
 「お軽勘平の石碑」から700メートル、続いていた中央の緑地が無くなり原宿に入ると、14時17分、左側歩道脇に、一里塚は残っていないが、「原宿一里塚跡」の案内板があった。
     戸塚区の案内板によると、
     原宿一里塚跡 一里塚は、慶長九年(1604年)二月、江戸幕府が大久保石見守長安を総奉行に任命し、東海道の整備にあたらせたとき構築したもので、一里(四キロ)ごとに街道の両側に円形の塚を築き、距離をしめした。また、塚の上には榎を植えて木陰をつくり、旅人の休憩にも便宜をあたえた。
     原宿の一里塚は、起点の江戸日本橋から測って十一里目にあたっている。塚の付近に茶店などがあったので、原宿と呼ばれるようになったという。
     戸塚区内には、品濃・吉田・原宿の三か所にあったが、品濃町のものは道を隔てゝ二基、ほぼ原形のまま当時のすがたを残しているので、神奈川県の史跡に指定されている。当地原宿にあったものは、明治九年(1876年)十月里程標の杭をたてるとき一里塚は事実上不要となったので取り払われてしまい、現存していないが、一里山の名を残してその位置をしめしているのが現在地である。
 
 一里塚跡の向かい側に浅間神社の小山がある。渡りたいけれども広い国道1号線が阻む。それで100メートルほど進んだ信号を渡り、参道を登った。参道にはシイの古木が数本並んでいた。(左写真) 長い道のりを歩いてきて、木陰でゆっくり休もうと思い、女房と石段に座ってお茶をリュックから出した。しかし、お茶は一口しか残っていなかった。地図を見て今日のゴールは遊行寺とし、藤沢駅から電車に乗ろうと話し、お茶を求めて歩き始めた。

 浅間神社から出て、コンビニで冷たいお茶を購入し、喉を潤して、さてもう一がんばりと歩き始める。国道の歩道を1キロメートルほど歩き、松並木の中央緑地帯のある国道を横切って左側に出る。まもなく石柵に囲まれた「道祖神」や「馬頭観世音」(右写真)があった。いまや顧みる人もいないのだろう、見捨てられたように感じたのは感情移入のし過ぎであろうか。

 それよりさらに800メートルでクスノキの大木のある諏訪神社が同じ国道左側にあった。ここでゆっくりと休憩を取る。神社の近くに影取池と呼ばれた池があったというが、今は杉林と人家と畑でそれらしい池の痕跡すらない。昔戸此所に池あり。其池に大蛇すみて旅客の影を呑むといふ。よって名づくといひ伝へり そんな伝説が残っている。この辺りが影取町といわれている所以である。

 
 道は国道から左へ逸れていよいよゴールの遊行寺へ1.5キロメートル余り、断続的に左右の歩道に並木が続く道を進む。途中で女房が満開の桜の木の下の立て札を見つけた。道路改修時に切られるところを移植されて残された桜(左写真)である。運動しそれに答えた人たちの気持がうれしい。
     緑が丘町内会の立て札によると、
     そめいよしの(染井吉野) 明治維新直前に、東京の染井の植木屋さんから世にひろまったさくらです。うばひがんとおおしまざくらの雑種といわれます。
     平成4年秋、歩道工事のため切り倒されるところを、神奈川県の協力により移し植えられ、命びろいしたさくらです。
 向かい側に石碑を見つけて、信号を渡り少し戻って行ってみると「旧東海道松並木跡」の石碑(右写真)であった。どの松並木も多くの松が枯れている。枯れた跡には別種の木を植えてしまわないで、品種改良で公害と松食い虫に強い松を作って松の木を補植してほしいと思う。松は割合枯れやすい木だと思う。立派に残っている松並木も太さはまちまちで、昔から枯れては補植し、また枯れるという繰り返しで現在の松並木が残っているのだと思う。
     藤沢土木事務所の案内板によると、
     旧東海道松並木跡 この道は、その昔「東海道」と呼ばれた街道で、江戸時代の浮世絵師安藤広重の描いた「東海道五十三次」には、みごとな松並木はその後鬱蒼たる大木に成長し、ここ「緑が丘」にふさわしい風情を保っていましたが、1960(昭和35)年頃から全国各地に猛威をふるった松喰虫の被害で無残にも大半が枯れて失われてしまいました。ここに、そのいにしえの面影を偲ぶとともに、いま新たに、花と緑のある近代的な歩道が整備されたことを記念し、この碑を建てます。 
 道はいよいよ遊行坂の下りに入る。途中に一里塚の標柱があった。小さな石段があったので登ってみたが、よその屋敷内で、一里塚は現存していないようであった。

 遊行寺に近づくとバンドの演奏が聞こえてくる。何事かと脇より境内に入るとお寺には似合わない風体の若者たちが集まり、本堂前で “どんと院祭り” と銘うったロックコンサートが行われていた。“どんと院(呑音院)”とは滞在先のハワイ島で脳内出血で37才という若さで急逝したミュージシャンの法名だという。遊行寺は踊り念仏の一遍上人の開いた時宗(じしゅう)の総本山で正式名を清浄光寺という。往時の踊り念仏は現代のロックバンドの比ではないインパクトがあっただろうから、お寺とロックバンドは決して違和感のあるものではないのかもしれない。

 境内の中央にイチョウの巨木がある。いつもは静かな周囲を、今日は異形な若者たちに囲まれて、大イチョウが何やら落ち着かなく見えるのは気の所為であろうか。
     藤沢市教育委員会の案内板によると、
     藤沢市指定重要文化財(天然記念物) 大イチョウ 神奈川県の県木がイチョウであるように、昔から県内にはイチョウの木が多く、ことに古い寺社の境内や街路樹にはなじみのある樹木である。落葉の高木で葉の形が扇状であり、秋の黄葉はひときわ美しい。イチョウは雌・雄株が別株で、銀杏がなるのは雌株だけである。
     この大イチョウは雄株で、清浄光寺(遊行寺)の象徴として境内にそびえており、かっては樹高約三十一メートルにおよぶ雄大な姿を誇っていたが、昭和五十七年八月の台風で上部が折損してしまった。
     樹齢は諸説あり、三百〜七百年と幅があるが、市内随一の巨木の姿は変らず、この辺りでは鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の大イチョウ(県指定天然記念物)と共に屈指のものといえる。
              樹  高 = 十六メートル  幹回り = 六、八三メートル
 左手の庭園の奥に寺務所があり、朱印を貰うべく案内を乞う。ところが案内を乞う前に若い修行僧が出てきて、玄関口に膝を突き合掌して挨拶をされた。こんな丁寧な対応を受けるのは初めてである。今の言葉で言えばマニュアルになっているのかもしれないが、大変気持がいい。朱印が出来る間にそばの放生の池を散策する。枝垂桜が満開であった。(右写真)

 遊行寺への途中、案内書をよんでいた女房いわく、「遊行寺は北条時宗のゆかりのお寺なのか」 大河ドラマを見ているからそんな質問が出たのかと思う。日蓮と北条時宗は密接な関係があるが、一遍上人と北条時宗の関係は聞いたことがない。そんな話をしながらはたと気づいた。“時宗”は“ときむね”では無くて“じしゅう”と読むんだ。寺務所の玄関口にNHK大河ドラマの「北条時宗」のポスターが貼ってあったりするから、話がいよいよややこしくなる。

 遊行寺を出て藤沢橋を渡り、藤沢駅まで約800メートル歩き、本日の歩きを終わる。桜、桜の一日であった。本日の歩数は 37,886歩であった。







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