第 6 回 
  平成13年5月19日(土) 
 晴れ時々曇り、風やや強し
 大磯宿−二宮−酒匂−小田原宿
 “松並木が断続する街道に小陶綾(こゆるぎ)ノ浜は見えず” 



 5月14日から17日まで、NHKのBSテレビで「東海道・弥次喜多道中出会い旅」と題した紀行番組が四夜連続で放送された。十辺舎一九を筋回しに、日本橋から箱根(第1回)、三島から金谷(第2回)、金谷から宮(第3回)、宮から京(第4回)の4回に分けて、タレントが旧東海道を歩くという筋立ての平成の旅道中であった。取材だから出来た体験も、実際にはありえない偶然も、前後の順番が逆なケースも、歩いたといいながらパスしたと思われる部分も、たくさん気付いたが、歩いて通ったばかりのところや、今後歩く折に大いに参考になるところもあって、夫婦して大変面白く見せてもらった。東海道宿駅400年の関連番組なのであろう。

 静岡県ではその東海道宿駅400年を記念した東海道400年祭が行われており、毎週末、各宿場で色々なイベントがある。これから箱根を越えて静岡県に入るが、歩いて行く間にどんなイベントに遭遇するか楽しみである。

 9時、大磯駅を出て左手の道を下り、国道1号線の旧東海道に出る。すぐ左側に宮経山延台寺がある。(右写真) 曽我兄弟の兄の恋人虎御前ゆかりの寺で、伝説の虎御石は門を入った正面のお堂(法虎庵)に祀られているらしいが、中はうかがえなかった。「虎御前」は前回の「化粧井戸」で紹介した大磯宿を代表する女性である。「虎池弁財天」も狭い延台寺境内に移され祀られている。
 街道右側に本陣跡の石柱が二ヶ所続いて立っていた。一つはNTT前の小島本陣跡、もう一つは中南信金前の尾上本陣跡である。

 尾上本陣跡の手前を左に入ると、島崎藤村の墓のある地福寺がある。藤村の墓は境内左手にあった。矩形の低い石壁で囲まれた墓所に、石柱に名前が刻まれただけの簡素なお墓であった。(左写真) 藤村の墓の左隣には藤村より、ひと回り狭い静子夫人の墓所も並んでいた。藤村夫妻の墓所の天蓋のように、梅の古木が2本、左右から低く枝を延べて緑の屋根を作っている。早春にはさぞかし梅の香りでいっぱいになるであろう。今は緑の葉に混じって青い梅の実が稔っていた。

 右側に「杵新」という和菓子屋さんの古い店構えを見た後、左側の角に「大磯照ヶ崎海水浴場」の石柱碑があった。大磯は明治に鉄道が通じてから、明治の元勲や経済人たちの別荘が出来、避暑地として大変繁栄した。大磯の海水浴場はその時代からあって、日本で最初の海水浴場として賑ってきた。その先の道路に挟まれた緑地に「新島襄先生終焉之地」の碑があった。(右写真) 新島襄といえば同志社大学の創始者として理解していたが、大学になるのを見届けずになくなっていたのは初めて知った。
 街道には、続いて、左側の緑地に「湘南発祥の地大磯の由来」の碑が建っていた。「湘南」名のナンバープレートが大変人気があると聞いたことがあるが、案内板によると、その人気の「湘南」が実は中国湖南省にある洞庭湖のほとり湘江の南側の呼称で、大磯がその湘南に似ているところから呼ばれるようになったという。

 9時45分、「湘南」由来の証拠の「鴫立沢の標石」のある「鴫立庵」に着いた。道路から左側に少し降りて、沢に掛かった石橋渡ると門がある。右側の沢沿いにケヤキの巨木がある。主幹が割れて少し危い。大磯宿の巨木とも考えたが、大磯町の町の木は「クロマツ」だから、選ぶならやはり松であろう。
 「鴫立庵」の小さな門を潜ると、右側に藁屋根のこじんまりした庵があった。土間に入って入場料100円を払いパンフレットをもらう。庵を右回りに巻くように、それほど広くない庭を散策した。

 西行という歌人がいて「鴫立沢」の名歌を残した。五百年の後、西行の歌に心酔する風流人がいて、ゆかりの沢のそばに庵を編んだ。そして四百年、その庵が俳諧道場として営々と引き継がれている。その間には数々の戦乱もあり、庵存立の危機もあったはずだが、この年月は大変なものだと思った。現代の立派なカルチャーセンターにはそれだけの持続性は考えられない。

 起伏のある庭にはこの四百年間の歌碑・句碑・庵主の墓碑などがびっしりと並んでいた。さらに、虎御前の木像を安置した「法虎堂」、等身大の西行座像が安置されている円位堂など三つのお堂が建っていた。我々の後から入ってきた熟年夫婦はやはり東海道を歩くらしく、この後も姿を何回か見た。

 右の写真は佐々木信綱博士筆の西行の「こころなき‥‥‥‥」の歌碑である。

 街道に戻り先へ少し進んだ右側に、「島崎藤村邸」の標識に導かれて、狭い路地を奥へ進む。左へ右へ進むと、小公園の前に「島崎藤村邸」の看板があった。「どれが藤村邸なの」ときょろきょろしていると、公園前にいたお婆さんが、「看板がわかり難いのよねえ‥‥‥‥役場の係りに言ってやらないと」という。島崎藤村邸は公園のすぐ眼の前の竹垣に囲まれた平屋の木造家屋であった。(左写真)
 旧島崎藤村邸は「静の草屋」と呼ばれ、大正から昭和初期にもともと別荘等に使用する貸家として建築されたものである。藤村は、昭和16年2月よりこの家を借り受け、大変気に入って、その後購入し、亡くなるまでの2年半を過ごしたという。

 邸内に入ると、3、40年前にはどこにでもあった簡素な木造家屋であった。何やら懐かしい味わいのある建物である。戦後の新建材を使って建てた家が数十年経ても、汚らしさだけでこんな味わいは決して出てこないだろう。開放的な家屋で、クーラーのない時代の夏向きの家である。綺麗に手入れされたこじんまりした庭、木漏れ日の広い縁側、縁の下の高い床、風通しのよい吹き通しの部屋々々。ひと夏だけなら過ごして見たいと思った。

 先ほどのお婆さんが追って来て、女房と話している。近所に嫁に来て、藤村さん本人はもう無くなっていたが、昔から静子夫人とはよくお話をしたと思い出話をしている。「静の草屋」の「静」は案外夫人の名前に由来するのかもしれない。お婆さんに、縁側に座った写真を一枚撮らせていただいた。(左写真)

 旧島崎藤村邸から街道に戻って、その少し先から「大磯の松並木」が始まる。国道1号線は上り下りが分離帯を挟んで分かれ、下り側の路側と中央分離帯に、下り車線を挟んで松並木が続いている。この数百メートルほどの区間は松並木の太さと高さが揃っていて、今まで見たどの街道松並木よりも立派に見えた。樹種はクロマツ、最も太いもので胸高幹廻りが4m以上はありそうに見えた。高さも25mから30mはあろう。この「大磯の松並木」を大磯宿の巨木としよう。

 地図を見るとこのあたりから海辺は500mも離れていない。その浜辺を「小陶綾ノ浜」と呼ぶ。先ほどからの爽やかな向かい風は海風だった。今日は日差しの割に過ごし易い。松並木の中に「大磯の松並木」と「小陶綾ノ浜」を紹介した案内板があった。
 10時30分、「大磯の松並木」の途中、左側に「伊藤公滄浪閣之舊蹟」の石碑があった。(左写真)「伊藤公」とは昔の千円札、夏目漱石の前の千円札の図柄のひげの人物で、明治の元勲、初代総理大臣の伊藤博文公のことである。左写真のバックに見えるのは大磯プリンスホテル別館「滄浪閣」の建物で現在中国料理レストランになっているが、その一部に博文邸当時のハイカラな建物も残っているという。

 滄浪閣からすぐのところに道祖神を見つけた。(右写真) この後、街道には次々と道祖神が見つかった。道祖神のそばには決まって、石造りの球体や立方体や屋根型の、五輪の塔のパーツが集められ、祀られている。かっては道中で行き倒れた旅人の供養塔や墓として、街道の路傍に五輪の塔を祀った。その五輪の塔やそのパーツが度々の道路改修に行き場を失って、そういう場所に集められたものと思う。

 1キロメートルほど進んだ城山公園前交差点の手前で、海側の道無き辺りから旧東海道に戻ってくる “鴫立庵の熟年夫婦” を見つけた。交差点で旧東海道は一時国道1号線から離れ、右へ分けて行くが、 “鴫立庵の熟年夫婦” は我々の前で信号を渡り、旧東海道の方へ行ってしまった。我々は「吉田茂像」を見るべく先へ進んだ。

 旧吉田邸を左に見て、その敷地に沿って海岸のほうへ曲がった。旧吉田邸の広大な敷地は、大半が海辺の起伏に富んだ松林で、海まで続いていた。海岸に近い旧東海道を歩きながら、海を見るのは今日初めてであったと気付いた。海岸際には国道1号線バイパスが通っているが、その手前の敷地の角に、「吉田茂像」の案内板があった。バイパスとの間の散策路を少し東へ戻ったところに、柵に入り口が付けてあり、10時55分の今、公開時間帯で開錠されていた。階段を上った先に松林を見下ろす「吉田茂像」があった。(左写真)

 和服を着て袴をつけた立ち姿で、右手でステッキを付き、左手には人差し指に太い葉巻が挟まれている。イメージ通りの吉田茂像である。顕彰碑文は戸川猪佐武撰であった。戸川猪佐武といえば「小説吉田学校」を書いた作家だと記憶している。
 「吉田茂像」から降りて角まで戻ったところ、 “鴫立庵の熟年夫婦” と出会う。彼らが「吉田茂像」を探しているとピンと来たので、「その角を回ったすぐに階段があるから」と教えてあげる。後で女房が「吉田茂像をほんとに探していたの?」と問う。多分、お礼の会釈をしていたから合っていたのだろう。

 城山公園前交差点まで戻り、交差点を渡って、国道1号線から離れて右へ入り、旧東海道を進む。すぐ右手に城山公園があり、岡の上に大磯町郷土資料館がある。今日は小田原まで先を急がねばならないので素通りする。すぐに砲弾を束ねたようなコンクリート橋柱が珍しい本郷橋を渡る。

 国道1号線から離れた住宅地で、それぞれの玄関に専用の紙袋にきっちり納めた新聞紙が出されている。それを古紙回収車が集めて行く。集められた後にはトイレットペーパーがポツンと一つ置かれている。濡れないようにその一つずつが包装されている。歩きながら見ていると対外ちり紙交換のシステムが理解できた。騒々しい拡声器もなく、交換のため家人が出る必要もない。効率よく交換が粛々と行われていた。

 途中で国道1号線と並行して進む。分離帯に松並木の松も残っている。分離帯の向う側に先ほどの “鴫立庵の熟年夫婦” が歩く姿を見た。「吉田茂像」を見た後、そのまま国道1号線を歩いてきたのだろう。戻った分追いつかれてしまった。その分離帯に二ヶ所、また道祖神があった。(右写真) 自然石に「道祖神」と刻んだだけのもの、双体の道祖神、地神社の標石、そして五輪の塔のパーツの数々。

 国道1号線と合流してすぐに、六所神社の赤い鳥居があった。11時35分、そろそろ昼食を食べようと思うすぐに、回転寿司の店があった。「お寿司もいいねえ」と言ってしまい、「すいているし、軽く食べていこう」と入ることになった。結果、20分で出てきた。教訓として、空いている回転寿司店には入らない方が無難かも。

 大磯町から二宮町に入り、葛川に架かる塩海橋を渡り、二宮交差点の陸橋を渡る。たむろする高校生の姿が多くなり、二宮駅も近いようだ。そして二宮駅の道路標識に従って右折し、200mほど進んで、12時20分、こじんまりした駅前広場に出た。中央緑地のクスノキのそばに「ガラスのうさぎ」の少女像があった。(左写真)防空頭巾にもんぺ姿の少女は手に「ガラスのうさぎ」をもち、前方に伸び上がるような立姿であった。過去の言い尽くせない不幸を感じさせない、少女の未来に対する積極的な姿勢が見えて気持ちの良い像である。
 忙しく行き来する人々の目にこの像はどんな風に映っているのであろうか。通学路にしている高校生達のどのくらいが、この物語を知っているのであろうか。どんな風体をしていても、地元なのだから、半世紀前にここで起こったことを当然みんなが知っていると信じたい。周りがバスの回る道路で、ゆっくり感慨に耽ってもおれなかったが、そんなことを感じた。

 旧東海道に戻って、750mほど西へ進むと、旧東海道は再び国道1号線と右手に分かれて進むが、その分岐点にある吾妻神社の入口に神社名を刻んだ板碑と石の鳥居があった。(右写真) 鳥居の背後に見える緑が吾妻山で相模湾の眺望がすばらしいという。しかし今日は寄り道は止めよう。

 古事記によると、倭建命(やまとたけるのみこと)の東征の折、走水の海(浦賀水道)を舟で渡ろうとして、渡りの神(境界の神の一種)に阻まれて渡れなかった。后の弟橘比女(おとたちばなひめ)が申し出て、自ら入水し荒波を鎮めて舟を進めた。七日後、后の櫛が流れつき、御陵(みはか)を作ってその櫛を納めた。

 吾妻神社はその櫛を埋めた場所であるという。しかし古事記の文脈からすると、流れ着いたのは渡った千葉県側であるはずなので、当地に流れ着き埋められたとするのは無理があるように思う。でもまあ、弟橘比女は地元の国造(くにのみやつこ)の娘という説もあるから、こちらに祀られるのも当然であろうし、櫛だって何枚かあったと考えても不自然ではない。それらが走水の海を隔てた両地に流れつき、一方が吾妻神社に埋まっているのかもしれない。昔の事は誰も判らない。

 なお、倭建命は東征の帰りに足柄峠で、亡き弟橘比女を偲んで、「あづまはや(わが妻はああ)」と嘆じた。それで関東地方を名付けて「東国(あづま)」と呼ぶようになった。この神社の名前「吾妻」もまさにそこに由来するのであろう。ともあれ、うちの少々草臥れた “弟橘比女” も文句も言わず何とか付いて着いて来ている。

 国道1号線から分かれて旧東海道を300mほど進むと、右手に一段高く、藤の名所の梅澤山(藤巻寺)等覚院があった。境内に上がると左手に樹齢400年の藤としては割合こじんまりとした藤棚があった。(左写真)
 国道1号線に再合流する角の火の見櫓の基に、また道祖神が集められていた。(右写真) 双体の道祖神が三つも並んでいる。

 「道祖神」を広辞苑で調べてみると、
 道路の悪霊を防いで行人を守護する神。日本では、「さえのかみ」と習合されてきた。
 それでは「賽の神(さえのかみ)」はどうかというと、
 邪霊の侵入を防ぐ神。行路の安全を守る神。村境などに置かれ、近世にはその形から良縁・出産・夫婦円満の神ともなった。

 国道1号線を500mほど進むと旧東海道は左へ分かれていく。その角に「史蹟 東海道一里塚の跡」の石柱が立っていた。「江戸より十八里」と刻んであった。(左写真) 実は写真の石柱の背後の壁には赤いラッカースプレーで汚く落書きがされていた。それを画像処理で目立たなく消してみた。便利なものである。

 旧東海道はかなり急な「押切坂」を下って国道1号線に戻り、まもなく押切橋をわたって、13時05分、小田原市に入った。やや疲れを感じて、通りがかりの浅間神社で休憩する。今日は海風があってしのぎやすいが、確実に夏が近づいている。夏前に箱根まで何とか行き着きたい。自宅から持参した甘夏を食べた。

 家の夏みかんは形は悪いが甘くて評判がいい。肥料もろくにやらないので、境界を越えて隣の茶畑へ根を伸ばし、肥料を頂いているかもしれない。葉を伸ばす肥料と実を作る肥料ではでミスマッチもあるであろうが健気(?)である。隣には肥料代と言うわけではないがお裾分けをしておかねばなるまい。

 道は緩やかな下り坂になって、左手に海(相模湾)が見えてきた。向かい風に帽子が飛ばされないか気になる。海には白い波が全面に細かくたっている。13時30分、右手の草の斜面に「車坂」の木柱を見つけた。
 「車坂」案内板から少し進んだ山側の角をまわったところに、「従是大山道」の不動明王像を頂いた道標を先頭に、秋葉山の灯篭、地の神様の祠と、前へ習えをするように一列に並んでいるのが面白い。(左写真)街道で秋葉灯篭を見るのは初めてのように思う。静岡県では道祖神よりも秋葉灯篭の方が目立つのだが。

 大山道道標を見てほどなく、右側歩道の人家の前に道祖神を見つけた。(右写真) 古い双体の道祖神と「交通安全」「家内安全」と書かれた現代の道祖神が並んでいるのが面白い。

 西湘バイパスが国道に近づき、しばらく並行して走る。女房と「この景色は見たことがある」と話す。多分「巨木巡礼」で回った時に車で走ったのだとの結論になった。

 森戸川に掛かった親木橋を渡り、小八幡の一里塚跡に至る。国道左側に案内板だけが残っていた。また、国道1号線はこの先で日本橋からちょうど80kmである。14時27分、80kmの距離の標柱を見つけた。
 この辺りからまた松並木が始まる。「日本たばこ製塩試験場」を左手に見て、その先の右側に小田原市立酒匂小学校がある。大きな樹叢が見えたので女房を待たせて入ってみる。グラウンドではたくさんの子供たちがサッカーに興じている。グラウンド脇にクスノキの巨木が二本並んでいた。(右写真)

 胸高幹周りは太い方が4m位か。細いほうが3m位だろう。クスノキとしてはそれほど太くないが、前景のツツジの花が良く映って、何とも感じの良い巨木であった。一応、宿場の巨木としてゲットしておく。

 国道右側、林病院前に広い敷地を黒塀で囲んだ、立派な門構えの旧川辺本陣がある。(左写真) 現在は社会福祉法人に寄付され使用されている。中を覗いてみると、江戸時代のお城の御殿のような造りであった。

 15時、酒匂川に架かる酒匂橋を帽子を飛ばされないように押さえて渡る。橋柱のそばに酒匂川の徒歩(かち)渡りの様子を描いた銅版がはめ込まれていた。(右写真) 江戸初期には渡し舟があったというが、後に徒歩渡りとなった。ただ冬場だけは仮橋を架けることを許されたという。

 小田原側は橋から200mほど北で河岸へ上がる。道をつなぐためにそこに降りたいのだが、橋の袂に自動車の販売会社があって、橋より低い土手に降りる道がない。探しながら通りすぎて敷地と敷地の間の小道を北へ進むと、旧東海道と思われる道へ出た。その道をいったん河原まで戻った。旧東海道の正しい道筋を確認しようと思ったからだ。

 堤の上に「酒匂川の坪石」なる立て札があり一角に石垣の石のような切り石が草の中に積まれていた。石垣の材料のようにも見えるが、“坪石”が何かが判らない。

 地図で確認した結果、やはり戻った道が旧東海道であった。かなりダメージの来た足を引きずりながら進む。八幡神社の参道に沿った大木の森を右に見て、左へカーブし、旧東海道は国道1号線を横切って南側に出る。地図によると「新田義貞の首塚」がこの裏側にあるはずである。標識や路地がないか、探しながら進むが、見出せないまま国道1号線との合流点まで出てしまう。これでは行き過ぎだと戻ろうとすると、自動車整備工場脇の人一人やっと通れる小道から女性が出てきた。路地を抜けてきたといった雰囲気が感じられたので、「この路地は抜けられそうだ」と女房を促し小道を進むと、車の入れる幅のある裏の道へ出た。しかしそこにも案内標識一つない。庭先で剪定作業する女性に、女房に聞きに行かせる。

 義経の首塚でも感じたことであるが、「首塚はどこにありますか」とは聞くのに抵抗がある。女房はそうは思っていないようだから、自分だけの感性かもしれない。ともあれ、場所が判った。さらに路地に入った人家に囲まれた小公園に「新田義貞の首塚」があった。玉垣に囲まれた立派な塚であった。中央に義貞の五輪の塔、脇には家臣たちのものであろうか、いくつか五輪の塔が並ぶ。さらに最近のものと思われるが、「新田義貞公首塚」の大きな石碑が目立つ。寂しげに見えた「義経の首塚」と比べれば、「新田義貞の首塚」は賑やかにすら感じた。
 15時50分、山王川に架かる山王橋を渡り、すぐ右側の山王神社に着く。説明板にあった「星月夜ノ井戸」は境内左手にあり、そばに林羅山の詩碑もあった。(右写真) しかしながら、小さい井戸の水面に月や星を映して楽しむ風雅を、日本人は何時から忘れたのであろうか。
 山王神社の向かい側に渡り、「蛙石」なる珍石があるとかで北条稲荷を探す。左へ横道に逸れて探したところ、赤い鳥居が目印でほどなく見つかった。境内右端に「史跡 北条稲荷 蛙石」の看板の基に変哲もない石があった。言われてみれば蛙に似ていないこともない。その背中に小さい焼き物の蛙が一匹乗っているのがユーモラスであった。
 旧東海道に戻ってすぐに歩道橋がある。14時16分、歩道橋を渡って右側に渡ろうと登った踊り場でふと下を見ると空き地に碑が立っていた。「江戸口見付並一里塚址」の碑であった。
 歩道橋を渡った向かい側の方には「文部省指定史跡 小田原j城址江戸口見付跡」の標柱が立っていた。その跡には現在、松が一本、横の寝るように立っている。江戸時代以前はこの辺りまで城内で、町も城内に取り込まれていて、ヨーロッパの古代都市を思出ださせる。
 新宿の交差点で旧東海道は海側に左折する。小田原市街地には旧町名と江戸時代の様子を刻んだ石柱が立てられている。旧東海道がクランク型にずれている理由が「新宿町の石柱」から知れた。
 一筋海側に付いた旧東海道を進む。辺りは蒲鉾屋さんが多く、今も、マイクロバスが一軒の蒲鉾屋さんに見学客らしい人たちを降ろしていた。

 さらに、所々に “昔” の残る町を1kmほど進んだ左に「古清水旅館」があった。最初に紹介した「東海道・弥次喜多道中出会い旅」でも紹介された旅館で、看板には「旧本陣」とあるが、実際には脇本陣だったようだ。

 古清水旅館前に「宮前町の石柱」があった。その説明文で小田原宿の様子が知れる。
 古清水旅館の隣に本陣の清水金左衛門宅跡があり、明治天皇が何度か宿泊されている。その跡地に「明治天皇小田原行在所趾」の石碑が立ち、緑地として整備されている。(右写真の右側)
 旧東海道は国道1号線と合流して急に幅が広がるが、そのすぐ先の左側の横丁を少し入ると、これも本陣の片岡永左衛門宅跡に「明治天皇聖跡」の石碑が立っていた。(右写真の左側)

 宿内にはちらほらと古い商家が残っている。中にまるで小田原城を町へ降ろしてきたような建物は “ういろう本舗” である。「東海道・弥次喜多道中出会い旅」でも紹介されていたが、「透頂香」という薬が小田原名物だった薬屋さんであった。もちろん、お城のような建物は最近のものである。

 16時55分、箱根口交差点で、今日の歩きを終る。角を右折して真っ直ぐ小田原城へ向かう。城へ入る門が箱根口御門である。(右写真)

 最後に、「小田原宿の巨木」として「小田原城跡のイヌマキ」を見に行く。二度目ではあるが、見事なねじれ具合である。脇を通った夫婦が「幹が巻いているからマキと言うんだ」と、えっと思うようなことを言って過ぎた。
 17時30分、小田原駅より車中の人となる。本日の歩数は 41,931歩であった。







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