第 7 回 
  平成13年6月3日(日) 
 晴れ、やや暑し
 小田原宿−湯本−畑宿−甘酒茶屋−箱根宿
 “「どんぐりほどの涙」はないが、続く登りの辛い箱根東坂” 



 本日はいよいよ関東編の最後を飾る箱根峠の難所にかかる。箱根といえば子供の頃から、「ハコネノヤマハー、テンカノケーン、カンコクカンモーモノナラズー、バンジョーノヤマ、センジーンノタニ、‥‥‥」と、歌詞の意味も十分理解せず、調子の良い唱歌として、よく口ずさんだものである。

 これは滝廉太郎の作曲で知られる「箱根八里」という唱歌である。以下に歌詞を書き記す。


    ♪ 箱根の山は天下の険 凾谷関も物ならず

      萬丈の山 千仭の谷 前に聳え 後(しりえ)にさヽふ

      雲は山をめぐり 霧は谷をとざす 晝猶闇き

      杉の並木 羊腸の小径は 苔滑か

      一夫関(かん)に當るや 萬夫(ばんぷ)も開くなし

      天下に旅する剛毅の武士 大刀(だいとう)腰に 足駄がけ

      八里の岩ね 踏み鳴す 斯くこそありしか 往時の武士(もののふ)

                作詞者   鳥居 忱    作曲者   滝 廉太郎  



 改めて読んでみると、分からない部分が多い。片っ端から広辞苑を引いてみよう。

 例えば、「凾谷関」 は 「中国河南省北西部にある交通の要地。新旧二関があり、秦代には霊宝県、漢初、新安県の北東に移された。河南省洛陽から潼関(ドウカン)に至る隘路にある。古来、この地を舞台とした攻防戦は数限りない」 つまり、中国で有名な関所だという。

 「さヽふ」 は 「(1)物をおさえとめて、落ちたり倒れたりしないようにする。つっかう。(2)持ちこたえる。維持する。(3)相手の攻勢をくいとめる。防ぎとめる。(4)通れないようにする。妨げる」 この(1)から(4)のどの意味ももう一つフィットしないが、「関」というのだから(3)か(4)の意であろうか。

 「羊腸」 は 「羊のはらわたのように、山路などの屈曲して険しいこと。つづらおり。九折」 これは良く分かる。

 少し長いが、「一夫関(かん)に當るや 萬夫(ばんぷ)も開くなし」 は 「けわしい地勢の地にある関所は、一人の男が守備に当るだけで、万人の兵が攻めても陥落することが無い。きわめて要害堅固な地形をいう」 李白の詩に原典があるのだという。なるほど。

 「足駄」 は 「近世以後、雨天に用いる高い二枚歯を入れた履物。たかげた」 おいおい、下駄履きで峠を越すのか! 越したのだとすれば、確かに「剛毅の武士」で「踏み鳴す」がぴったりである。

 ともあれ、道は往時とは比べようも無いにしても、高低差750mは変らない。登り一方の道は厳しさを覚悟しなければならない。女房にその覚悟があるかどうか心配だが、膝の半月板を手術して以降、「下りは苦手だが、上りは得意だ」という。今回はほとんどが登りだから心配は無用なのだろう。午前8時50分、さあ、元気を出して出発だ。

 駅から小田原城は通らずに最短距離で東海道に出ようと進む。途中、小田原城の「幸田門趾紀念碑」を見つけた。(左写真) ここから大木の並び生える三の丸土塁上の小道を通り抜けて、広い道(国道)に出られた。途中、小田原城の石垣の一部も見られた。
 東海道に出て、街道を少し戻り、東海道沿いの松原神社に立ち寄った。午前9時15分、ここを本日の東海道のスタートとする。松原神社は北条氏綱の時代、海中から出現した十一面観音を祀ったのが始まりとされる。往時は海岸に近く、境内にはその名残の松の大木が多く残っていた。

 しばらくは前回の終わりに歩いた広い道(国道1号線)である。前回、薬屋さん(調剤薬舗小西本店)の古い寄せ棟造りの建物を写真に撮ったが、上手に撮れなかったので道路の向かい側から撮り直した。(右写真)

 繁華街を過ぎて、JR東海道線と箱根登山鉄道のガードを潜った街道左側に、大久寺があった。左の門柱前に、大きく「史蹟 小田原城主大久保家一族の墓所」の看板が立っていた。山門を潜り、右手本堂の向うへ回り込んだ墓地の一角に、宝筐印塔や墓石、石灯篭の並ぶ「大久保氏一族の墓所」があった。(左下写真) 大久保氏は豊臣秀吉の小田原攻めで落城後、北条氏に代わって城主となった。

 案内地図に、近くに「早川口遺構」があるという記載があったので、箱根登山鉄道とJR東海道線のガードを潜り戻って探した。線路に沿って南へ進み、標識に沿って早川口遺構に至った。(右写真) 辺りは住宅地の中に残った起伏のある緑地である。南西の縁は道路との区切りに石垣が残っている。東の江戸口と同様、この早川口も大規模な小田原城の南西の外郭の一部であるという。
 元に戻って進み、新幹線のガードの手前で国道1号線から右へ別れて旧東海道をたどった。再び国道1号線に戻る少し手前の右側に「板橋地蔵尊」があった。(左写真)

 境内の一角に30人ほどの大人が集まっている。服装からみるとハイキングの服装でもないし、何やら作業をするらしい様子である。それを横目に地蔵尊にお参りする。地蔵尊のお堂にしては随分大きな建物だと思う。身の丈3.3mの大坐像というから、納得である。堂内を覗いてみたが、内扉や幕に遮られ地蔵尊は拝めなかった。軒下右側に巨大な木彫の大黒像が祀られていた。「鎮守福興大黒尊天」と名前が掲げられていた。その大きさからご本尊の大きさが推定出来そうである。案内標柱によると、この地蔵堂は正式には「宗福院地蔵堂」といい、神奈川県の重要文化財に指定されている。

 午前10時15分、まだ歩き始めてから一時間半しか歩いていないが、すでにうっすらと汗をかく。女房とお堂左手の木製の床几に座り、ゆっくり水分を補給した。今日はペットボトルを何本呑むことになるであろうか。
 「板橋地蔵尊」を出ようとする我々の前を、境内に集まっていた人たちのうち数人の男たちが出て行き、我々の先を行った。国道1号線に出ると、道は早川の左岸に出る。先を行った男たちは国道の早川側で何やら作業をする様子。気になって立ち寄るとそこに案内板があった。
 そこは小田原用水の取水口(右上写真)であった。取水口での作業を見ていると、そばに来た最年配と思われる男が、「今日は美化運動の清掃作業で取水口を閉めるのだ」と話す。たずねたわけではなかったのだが、聞きたそうにしていると察してくれたのであろう。その一言で、「板橋地蔵尊」に人が集まっていた理由まですべて氷解した。「昔は水道として使われていたが、今はお城のお堀の水はここから引いている」と説明してくれた。川側をみると上流からコンクリートで流水を導いて、ここの水門から取り込むようになっていた。

 男たちに混じって二匹の犬が今にも導水路に飛び込みそうに右往左往している。しかし飼い主の許しが出ないのであろう、今一歩のところで踏みとどまっている。犬でなくても許されれば水に入りたいような日和である。

 旧東海道は高架の小田原厚木道路を潜ってすぐに、国道一号線から再び右手に分かれて、箱根登山鉄道の踏切を渡る。渡ったすぐを右へ線路に沿って登る小道がある。木柱を二本立て、ぬきを渡しただけの門があった。そして「日蓮聖人思親の地」の看板があった。(左写真)
 日蓮聖人はたいへん親思いの方であったようだ。身延山から東方に見える山に “思親山” という山まである。軽登山になるが、登ると静かで大変気持の良い山である。

 旧道を進み、風祭の集落に入って、右手脇道の入り口に「風祭の一里塚」があった。塚は残っていないが、案内板の前に石の祠と僧衣の石仏坐像があった。(右写真) 石仏の細部は摩滅して、特に頭部は何度も落ちたのだろう、ほとんど丸石に戻って(本当に丸石かもしれない)肩部に載せられてあったが、取り付け方で、石仏がうな垂れているようでユーモラスに見えた。標柱によると、この石仏は「小田原の道祖神」として小田原市の重要文化財に指定されていた。失礼しました。
 このあと旧道は右手に小田原城主稲葉氏の墓所のある紹太寺の参道を見てから、「駒ノ爪橋跡」や「日本初の有料道路」などの箱根町が設置した案内板が現われ、旧東海道の雰囲気を醸してくれる。
 街道筋には岩や石に謂れがついていることが多い。そして謂れのついた岩や石は崇敬の対象になる。ここに渡されていた石橋には馬のひづめでつけたような跡が残っていた。それに頼朝の暴れ馬の逸話ができ、さらに頑健な馬の脚にあやかる祈願の対象になる。昔の人の想像の逞しさ、この連想ゲームには全く脱帽である。
 東海道で “日本初の有料道路” といえば、金谷宿から掛川宿の間で峠越えの “中山新道” を思い出す。中山新道は明治13(1880)年開通だから、日本初の有料道路としては、明治8年に開通した板橋〜湯本間のこの道路に軍配が上げられる。

 再度国道1号線に出る緑地帯に「山崎の古戦場」の石碑(左写真)があった。江戸城無血開城の後に、東上する官軍幕府遊撃隊との激戦のあった地といわれる。あまり知られていない史実である。「板橋地蔵尊」にこの戦いの犠牲者の慰霊碑があったようだ。(見逃したが) 箱根振興会の石碑は箱根までの登りの街道筋に何面か見つけた。いつ頃建立されたものだろうか、カタカナ標示だから戦前には違いないが、いずれも楷書体で読み易い彫りであった。
 午前11時25分、旧東海道は国道1号線と別れて早川に架かる三枚橋を渡り、県道732号、湯本元箱根線に沿って登っていく。この後、箱根の町までは国道1号線とまみえることはない。

 橋は1つなのに、三枚橋とはこれ如何に? 問答ではないが、かっては、川幅が広く、二つの中洲があって、三枚の橋が架けられていた。橋を渡り切ると早雲寺の総門で、寺に逃げ込めばどんな罪人も罪を免れるといわれ、順番に地獄橋・極楽橋・三昧橋と呼ばれていたという。極楽橋まで逃げると、追手も追わず助 かったという。三昧橋は以後は仏三昧に生きよとの意味という。「三枚橋」の由来はこの “三つの橋” から来ているのであろう。

 三枚橋を渡って500mほど、道はやや登りになって、右側に早雲寺がある。(右写真) 境内には暗いほど大木・巨木が繁り、緑陰が涼しい。まずは参道のベンチで一休み、持参の甘夏を食べる。先に休んでいたおじさんが一人、我々と入れ替わりに出かけていく。おそらく箱根を目指して登っていくのであろう。周りには境内に居付いた猫が何匹かいて、人を見ると距離を保ちながら寄ってくる。いずれもトラ毛で一家族かもしれない。中にお腹に仔を持っている猫もいた。女房がお菓子を投げてやったが、匂いを嗅いで去る猫、ちょっとくわえてみる猫、そして若い猫が食べた。そこには静かな時間が流れていた。
 本堂前に宗祇の句碑があった。(左写真の右) 碑の上に石の帽子を載せたような句碑である。
 碑面に大小の文字が踊っていて、その場では読めなかった。帰ってから調べて、以下のような碑文であったことが判った。「ふる」は「年を経てふるびる」(広辞苑)と、時雨が「降る」が懸けられているのであろう。

世にふるも さらに時雨(しぐれ)の宿りかな    宗祇

 カヤの巨木の並ぶ墓地に入り、右手に進んだ突き当たりの一角に北条氏の墓所があった。「北條五代ノ墓」と立札があり、五基の石柱の墓石が等間隔に並んでいた。そして、北条氏の墓所の右隣に宗祇の墓があった。(左上写真の左) 宝筐印塔と思われるが、寸詰まりになっているのは塔身の部分が失われているようだ。さらに本堂裏手には北條幻庵作の枯山水香峯という庭園があった。

 県道に出て温泉街を緩やかに登っていく。湯本で賑やかなのは右側遥か下の早川と国道一号線沿いの辺りである。箱根登山鉄道の湯本駅もその辺りにある。300mほど進むと左側に正眼寺がある。裏手斜面に広がる墓地を標識に導かれて登っていくと、最高部に「曽我堂」(右写真)があった。また途中に「曽我五郎の槍突石」なる石も残っている。(右写真) 写真では判り難いが、確かに左から槍で刺したような痕が残っていた。
 曽我堂右手に古い石仏や石塔が集められている一角があった。(左写真)不動明王像・観音像・地蔵像・五輪塔・宝筐印塔など路傍の石造物が一同に見られて大変貴重である。
 街道に戻って進むと、路傍には道祖神(右写真)やら馬の飲み水桶(左下写真)など東海道路傍グッズが続いて現れる。地元自治会のちょっとした案内札があってありがたい。なければ見逃してしまうところであった。
 旧東海道はまもなく県道から右に分かれて、箱根に入って初めて石畳の道が始まる。これより始まる「箱根旧街道」は断続的に石畳の往時のままの姿が残っており、国の史跡に指定されている。この部分は箱根観音までの約255mが残っている。

 旧街道をたどって箱根観音にお参りする。街道沿いにあって、かっては温泉とともに有名な観音様だったようだ。
 すでに12時30分をまわり、二人とも空腹が気になって、ずっと食事処を探しながら登ってきた。しかし適当なところもなく、今後山中に入ることを思うと、少しばかり焦りも出てきた。箱根観音は下の町からは山の中腹にあるようで、50mほどの直下に幟で蕎麦屋さんと判断できる建物があり、表に順番待ちの人も見えた。下った分また登り返さねばならないのが業腹だが、空腹には替えられず、崖に作られた観音の参道を下った。

 店の名前は “暁庵” という。隣に明治の元老山縣有朋の別荘の一部 “暁亭” が移築されていて、それに因んだ命名である。最近 “みのもんた” のテレビ番組に紹介されたといい、三十分近く待たされた。

 箱根観音を登り返し、さらに登って県道に出る。200mほど進んだ右側に、岩を割っただけでほとんど加工をされていないように見える石碑に「觀音坂 登リ二町許」と刻まれていた。(右写真)一町とはどれくらいなのか。女房と話が出たが、はっきりしないまま旅を続けた。帰ってから広辞苑で調べると、「一町は六○間。約一○九メートル強」とあった。一間は1.8mで、一町が60間とすると、1.8×60=108で、ほぼ符合する。なお、「町」は「丁」とも書く。ともあれ、観音坂は200mほど続くというわけだ。
 観音坂に続いて、登り一町の「葛原坂」が続く。
 さらに500mほど県道を登っていくと、「初花ノ瀑」の石碑があった。夫唱婦随で見事仇討ちの本懐を遂げた物語「箱根霊験記」で知られる初花が、夫勝五郎の病の全快と仇討ちの本懐を祈願し、毎夜打たれたと伝えられる「初花の滝」は須雲川をはさんで対岸の山腹にあるという。
 その先700mほど進んだ山側に道路に沿って鎖雲寺がある。入口に山側から小さな流れが勢いよく流れている。標柱には「霊泉の滝」とあった。手を洗ってみるがまあまあ冷たい水であった。寺名も正式には「霊泉山鎖雲禅寺」という。お寺の最も上流側に前述の勝五郎・初花夫婦を祀った「初花堂」と、その奥に寄り添った五輪塔二基の墓があった。(左写真)
 まもなく県道は須雲川橋を渡って左岸に渡る。その手前に「女転し坂」の標石があった。県道はそれほど急坂ではないから、「女転し坂」の旧道が別にあったようだ。
 14時27分、県道から右手山側の登り一町余りの「割石坂」の旧道に入る。(右写真) 道は杉林の中の山道になる。旧街道を示しているのは道に敷かれた石畳のみである。この辺りから下ってくるハイキングの人たちとよく会うようになる。
 「割石坂」の途中で「接待茶屋」の案内板があった。藁屋根の茶屋の写真も案内板に載せられているから、建物はかなり最近まで残っていたと思うのだが、辺りに茶屋跡らしきものは見出せなかった。幕府や藩の事業ではなく、個人の施しとして経営されていた。その行為に走らせた動機は何だったのか知りたいと思う。

 箱根東坂は箱根八里の東半分の湯本〜箱根間、箱根西坂は西半分の箱根〜三島間を言うが、接待茶屋跡は確かに三島への下りにもあった。

 旧東海道は一度県道に出た後、すぐに少し下って、登り二町余りの「大澤坂」(左写真)を登ると、ひょっこりと畑宿の集落に出た。
 14時54分、畑宿の本陣跡に着く。日本式庭園が往時のまま残っていたようだが、注意して見なかった。また「明治天皇御駐蹄之趾」の石碑も建っていた。(右写真) 下ってきたハイキング客はここからバスに乗る人もいるらしく、本陣跡のバス停や宿内に目立つ寄木細工の店などにたむろしている人たちが目立った。
 村の箱根側の外れの茶店の前に「箱根路東海道の碑」があり、箱根旧街道の詳しい案内板があった。
 15時7分、箱根旧街道の後半のスタート地点に、「畑宿の一里塚」があった。(左写真) この一里塚は江戸から二十三里(約92キロメートル)、その間、道の両側に残る一里塚は、保土ケ谷の
品濃一里塚だけである。畑宿の一里塚も、片側がかなり崩れていたので、平成10年、箱根町が発掘調査し、昔のままに復元した。

 復元時の記録によると、大きさは幕府の命令どおり、直径5間(約9メートル)の円型で、裾廻りを石垣で固め、中に小石を積み上げ、表層に土を盛り、頂上に目印の木を植えたことが分かり、塚の高さなどは、『新編相模国風土記稿』などを参考にして、高さは4.5メートル、目印の木は畑宿から見て、右側の塚にモミ、左側の塚にはケヤキを植えたという。当時一里塚がどのように作られたかが判り大変興味深い。

 「畑宿の一里塚」の傍らに箱根八里記念碑があった。この箱根八里記念碑は三島青年会議所が八人の現代一流の文学者に揮毫してもらい、箱根八里の街道の要所に建てられたものという。

 その八基の文学碑は、東から「畑宿一里塚−芹沢光治良」 「七曲り坂−小沢征爾」 「興福院−澤田政廣」 「茨ヶ平−井上靖」 「施行平−東山魁夷」 「山中城跡−司馬遼太郎」 「笹原一里塚−大岡信」 「錦田一里塚−鈴木宗忠」と、ほぼ一里塚に合わせて一基づつ設置されたものである。

 「畑宿の一里塚」の箱根八里記念碑は芹沢光治良の文学碑であった。(右写真)

箱根路や 往時をもとめ 登りしに 未来の展けて たのしかりけり

 箱根旧街道はまず登り二町許りの「西海子坂」(左下写真の左)を登り、さらに急な登り五町許りの「橿木坂」(左下写真の右)を登る。現在は急な階段と手摺が出来ているが、往時は大変な難所であっただろうと思う。(「橿」も「樫」と同じカシノキのこと)

 女房はこの “橿の木の さかをこゆれば くるしくて どんぐりほどの 涙こぼる” の唄が至極気に入ったと見えて、後日、友達へのメールにも書いていた。

 標高差60mほどを一気に登り、県道に出たところで見晴し茶屋に出た。ここが樫の木平である。現在も見晴し茶屋としてそばや甘酒を売っている。
 樫の木平には箱根八里記念碑があった。「七曲り坂」の小沢征爾の文学碑である。(右写真)

貴方は 今 歌ってますか

碑の背後には遠く小田原の街が見えた。

 箱根旧街道は県道の数十メートル下を、沿って南西方向に進む。甘酒橋はかっては木橋だったのだろう。今は木に似せたコンクリート橋になっている。緩やかな山道の後、県道に出る手前に「猿滑坂」の石標があった。県道に出ると「畑宿歩道橋」を渡るが、その辺りに登り一町余りの「猿滑坂」があったという。
 下ってきた家族連れに、この坂がどこまで続くのかとたずねる。「少し登った後、さらに登って」と、「後わずかですよ」の答えを期待していただけに歯切れの悪い返事であった。

 畑宿歩道橋を渡って県道から一段高い歩道をしばらく進む。「追込坂」の案内板があり、「笈ノ平」に出る。
 県道と並行する旧街道の山道を少し歩き、16時16分、「甘酒茶屋」(左写真の左)に着いた。「甘酒茶屋」には「甘酒400円、力餅(あべ川・いそべ)各450円、みそおでん400円、ところてん450円、冷たい抹茶400円、しそジュース400円」のメニューが張り出されていた。しそジュースとあべ川を頼んだ。

 説明版によると、当時このような茶屋は箱根八里間で十三軒あり、この茶屋は畑宿と箱根宿のちょうど中ほどにあって、旅人が一休みするには適当な場所として、甘酒を求める旅人でにぎわったという。
 箱根振興会の石碑(左上写真の右)もあり、言いがかりをつけた馬子丑五郎が馬を繋いだ古木や、神崎与五郎の茶呑茶碗等があると刻まれていた。残念ながら両方とも確認し忘れた。

 甘酒茶屋が峠で後は下るだけと思っていた。気を抜いて進むと、県道を横切ってから、さらに登り二町半余りの於玉坂、白水坂、天ヶ石坂と次々に石標を見つけ、いつ尽きるかと思うほど登りが続いた。猿滑坂の近辺で訊ねた人の歯切れの悪い言葉をいまさらのように思い出していた。

 山は深く、ウグイスやホトトギスの鳴き声が聞こえる。その中にクロツグミがいた。いろいろな鳥の鳴き声を真似るという話を女房に話す。今はウグイスの鳴き声を真似ていた。

 「於玉坂」は北方の県道沿いにある「お玉ヶ池」から来ているのだろう。「白水坂」の白水は泉のことで、近くに泉があったのかもしれない。「天ヶ石坂」は気付かず通ってしまったが、「天ヶ石」と呼ばれる街道にせり出す巨石が元である。

 17時ちょうど、ようやく峠の最高点についた。そこには苦労して登ってきた我々をからかうような石碑があった。(右写真)

箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川

 ご存知の箱根街道の馬子たちが歌った馬子唄である。大井川辺で歌われたともいわれている。今日の登りを人を乗せた馬が登ったとすれば脱帽である。石碑のそばに、ニ子山についての案内板があった。
 ニ子山が見えると看板にはあったが、木が大きくなって、その一部を垣間見ることしかできなかった。

 少し下って車道を横切った先に、権現坂の石標があった。近くで芦ノ湖の展望が開けた場所があったのかもしれないが、日が傾いて先を急ぐ我々にはハコネザサに囲まれた下りの石畳が見えているだけであった。
 それより一気の下りで、箱根旧街道の杉並木に降り着いた。その始まりに箱根旧街道案内図があった。ここより街道の両側に杉の巨木が立ち並ぶ。(左写真)
 箱根東坂の略図とともに書かれた案内文は我々が今日歩いてきた道を簡潔に表わしたものである。長々と書き込んできた今回の旅記録が空しく思えるような案内文である。

 元箱根の湖畔まで降りた国道一号線の山側に、「身替わり地蔵」があった。(左写真) 赤い涎掛けと帽子が夕日をまともに受けてよく目立った。
 一段高い成川美術館の前に杉の巨木があった。(右写真)そして箱根宿の巨木をまだ決めていなかったことを思い出した。無ければ箱根の杉並木を載せればよいと軽く考えていて、忘れていた。この木は箱根の巨木の代表にふさわしい。何しろあの山野氏がお墨付きの「大王杉」なのだから。杉並木の杉たちとは確かに違う風格を漂わせっている。ただ樹齢3000年は言い過ぎであろう。
 今回の旅記録はここまでとする。実際にはこの後、さらに杉並木を通って、恩賜公園前のバス停まで歩いたのだが、次回、もう一度元箱根までバスで行き、同じ道を歩くことになったので、そちらへ譲ろう。バスでJR三島駅へ戻り電車で帰った。これで関東編は終わり、次回からは静岡編になる。
 本日の歩数は 38,066歩であった。







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