第 9 回 
  平成13年9月24日(火) 
 快晴
 三島宿−柿田川−対面石−沼津宿−原宿
三島 “湧水街道”から沼津 “猫街道”へ



 一週間前、ニューヨークで同時多発テロが発生した。その夜、出張先の鹿児島のホテルに泊っていた。テレビ画面が突然変わり、ツインビルから立ち上る煙が目に飛び込んできた。飛行機が高層ビルに突っ込むとは大変な事故だというのが第一に感じたことであった。見ている間にもう一機に突っ込んだ。機影が旅客機だと見え、テロだと思った。あの高層ビルには常時二万人の人が働いているという。火の手が上がるビルを見ながら、このあとこのビルはどうなってしまうのか。現場から上はもう使えなくなるだろうな。上を切って低くして使うのだろうかなどとぼんやり考えていた。次にあのビルが崩れ落ちてしまうとは想像すら出来なかった。その後に起こった大騒動は阪神大震災を超えていた。

 出張から戻った秋分の日の振替休日、こんな時にとも思ったが、東海道歩きに出かけた。さしもの暑い夏も涼しくなり、東海道歩きのシーズン到来である。出かけない訳にはいかない。

 午前10時、三島駅の駅頭に立つ。南へ下って旧東海道に戻る途中、アスファルト道路に囲まれた三角地に溶岩が頭を出して、数本のケヤキの大木が岩を掴んでいる緑地があった。小山の上部の溶岩から湧き出した小さな流れに「愛染の滝」と名前が付いていた。「愛染院跡の熔岩塚」(左写真)と呼ばれた、街中の不思議な光景である。
 右手に楽寿園の入口を見て、左側の白滝公園に入った。ここもケヤキの大木と湧き水の流れが目立つ。公園の東南隅に白滝観音堂があり、そばに「三島女郎衆の碑」(右写真)があった。

 高さ3m程の石板に 富士の白雪 朝日で溶けて 三島女郎衆の 化粧水 と刻まれていた。有名な農兵節を思い起こさせる。そばに碑の謂れを書いた詳しい案内板があった。
 白瀧観音堂は湧き水を水源とする桜川の上に建っている。(左下写真) 池のような水面の桜川にはハヤが多く生息するといわれるが、水面には四、五十羽の水鳥が浮いていた。(左下写真) 白瀧観音堂と桜川の案内板が並んで立っていた。

 白瀧公園の西南隅の公園出口に昔の手押しポンプのからくりがあった。前に立つとセンサーが作動して、両側の江戸時代の扮装の子供の人形が「よいしょ、よいしょ」と声を上げながら手押しポンプを押し始めた。竹筒から出る水は飲めるというので口に含んでみた。想像したようには冷たくはなかった。「ああつかれた」と言って終った。案内板によると「めぐみの子」というからくりである。
 旧東海道に戻って、商店街を少し西へ行くと本陣跡の表示が店先にあった。北側に『世古本陣址』(左写真)、斜向かいに『樋口本陣址』(右下写真)があった。『世古本陣址』は元そば屋さんだったというが、今は営業していないようだ。『樋口本陣址』は山田園というお茶屋さん、なぜか石碑に並んで蛙の人形が立っていた。説明の立札もあった。
 300mほど進んだ道路左側に源兵衛川にそって南へ入ったところに「時の鐘」(左下写真)がある。かっては時を知らせた鐘も、現在は鐘楼には梯子をかけないと登れないようだ。

 鐘楼の奥に三石神社の小さな社があった。富士の湧水が源の源兵衛川は街中ながら清流が流れていた。その川を渡る樋状の石造物があった。一部壊れてしまって使われていないがかってはこの先にある「千貫樋」のような役割をしていたものであろうか。

 東海道は伊豆箱根鉄道をわたる。「ウォーク」の時も踏み切り手前右側の連馨寺で芭蕉の句碑を探した。今回も境内に入ってみた。おそらく「芭蕉の墓」に刻まれているのがそうだと思ったが読めなかった。 いざともに穂麦喰わん草枕 という句なのだが。三島広小路駅を右手に見て、踏切を渡る。東海道は左手に直進する。

 東海道を相模・駿河と進む中で、その間に伊豆の国があることは意外と見逃されがちである。三島は実は伊豆の国である。その伊豆と駿河の国境に境川という小さな川が流れている。「境川」という名は確か遠江と三河の境にもあったと思う。

 午前11時、その境川の手前左側の石段を上がった一段高いところに秋葉神社の小さな社があった。狭い境内にムクノキが一本あって、「日本の巨樹・巨木林(東海版)」によると、幹周り3.75m、樹高15m、枝張り19mの巨木である。(左下写真) 今回は見逃してしまったが、そばに「西見附跡」の石標柱があり、まだ三島の宿内なのだが、このムクノキを無理やり沼津宿の巨木としよう。

 樹齢は250年、江戸時代から三島宿の西の入口で街道を見下ろし、往来する旅人を見てきた木である。このムクノキが語りはじめれば壮大なドラマになるに違いない。

 境内から鳥居と屋根越しに、かすかに雪を頂く富士山が愛鷹山の右側に望めた。

 秋葉神社の筋向いの「境川」の橋上に「千貫樋」の案内板があった。
 ボーイスカウトの子供たちが案内板を熱心にメモしている。おそらくボーイスカウトの行事で東海道を歩いているのであろう。そこへ近所のお年寄りが寄ってきて、「国境は境川の中心ではなくて、三島側の岸が国境だ」というような話を子供たちにしている。

 千貫樋は北側の人家の裏を家並みと並行して通っている。境川とは川の中空で交差している。お年寄りの話を聞いている女房を残して、二、三軒戻った人家の間の細間から裏へ出てみると、コンクリートの水路にきれいな水がとうとうと流れていた。女房にも見てくるように勧める。

 清水町に入って直ぐに「向かい宿」の道しるべがあった。

三島宿 宿境まで二町 →【清水町 新宿 向かい宿】→ 沼津宿 宿境まで一里

 0.7kmほど進んだ玉井寺に一里塚があった。伏見の一里塚という。玉井寺側の一里塚(左写真の上)は潅木の中で原形をとどめていた。向かいの宝池寺側にも一里塚の一方があるが、塚はお椀型にきれいに改修されていた。(左写真の下) 築造した初期の姿を思わせる一里塚である。
 「柿田川湧水群」を見たことがないという女房に応えて、道草することにした。旧東海道は国道一号線を横断して進むが、「柿田川湧水群」は国道一号線を東に500m程戻った南の崖下に湧き出していた。柿田川はこの湧水より始まり、狩野川に合流するまでのわずか1.2kmの川である。

 柿田川公園に入って散策道を右手に進み、谷へ下った下に最初の湧水口がある。(右写真、木のシルエット右に湧水口がみえる。さらに右側には魚の群れも見える) 案内人のおじさんが説明した中で、記憶に残ったことが二つほどあった。

 ひとつは、そもそもこの地域の湧水は昔富士山の溶岩が流れ下り堅く固まった上に土が堆積して出来たという特殊事情のため、富士に降った雨や雪解け水は染み込んで地下の溶岩上を流れ下り、数ヶ月から数十年後にこのあたりに湧水となって湧き出してくるという。

 もう一つは、柿田川湧水群は一時、直ぐそばまで人家が迫り、見る影もなく汚れてしまっていた。それを憂慮した人達が運動を起こし、川の周辺の土地を、「(財)柿田川みどりのトラスト」で買収し、湧水の保護と清掃につとめた結果、現在は清流が戻り、アユも戻ってきて、漁協ではアユを解禁したという。(後日のニュースではこのアユ解禁に抗議の声があがっているという。釣り人により清流が汚されるのを恐れての抗議だという)
 柿田川湧水群を最後に、ここまで三島の市内は湧水の連続であった。愛染の滝、楽寿園、白滝公園、源兵衛川、千貫樋など。そこで、勝手に「三島湧水街道」と名付けておこう。

 八幡交差点まで戻って、旧東海道に戻る。正午近くになったが、辺りは住宅地で食堂が見当たらず、早めに行きずりの「すしや」という屋号通りの持ち帰り寿司で、鉄火巻きと稲荷寿司を買う。次の目的地点の八幡神社の境内で食べようと考えたのである。

 朝はしのぎやすいと思ったが、ここまで晴天で、さすがに暑くなってきた。八幡交差点から700mほど進み、右手参道を100mほど入ったところに八幡神社があった。拝殿左手奥に「対面石」があった。腰掛けるにちょうどよい石が二つ、向かい合って置かれていた。女房を座らせてデジカメに納める。(左写真) 何の変哲もない石だが、かって、出陣した源頼朝と奥州より駆けつけた義経の兄弟がこの石に腰掛けて対面したという故事が残っている。

 対面のとき、食べようとした柿が渋柿で、その場にねじって捨てた。その柿が芽を出し二本の幹がねじれて育った。その「ねじり柿」も何代目かの柿の木が植えられている。前回見た時よりもひと回り大きく立派になって、二本の幹が互いに巻き付いていた。
 八幡神社の境内の木陰で、買い求めた寿司で昼食とする。醤油の匂いを嗅ぎつけたのか、妙に慣れっこい猫が近寄ってきた。日本の猫の大半は江戸時代から尾っぽの先が折れ曲がっているといい、江戸時代の猫の絵は尾の折れ曲がったものが多い。寄って来た猫も典型的に尾の折れ曲がった三毛猫であった。これが沼津で見た最初の猫であった。

 ボーイスカウトの子供たちが追いついてきたのを機に、八幡神社を後にし、旧東海道に戻ってすぐ、「長沢の松並木」の道しるべがあった。松並木は南側だけ一列に十数本のクロマツが残っていた。

三島宿 宿境まで十七町 →【清水町 長沢 松並木】→ 沼津宿 宿境まで二十一里

 先を歩いていた若者が黄瀬川で消えたと思っていたら、土手を降りて休んでいた。黄瀬川の上流方向には愛鷹山の東肩の上に富士山が見えた。(左写真) 

 黄瀬川を渡ると沼津市である。すぐに、右側に潮音禅寺がある。門前に「遊女亀鶴の碑」がある。碑面には 東海道黄瀬川亀鶴姫之古跡 亀鶴観世音菩薩 駿河一國三十三番駿豆横道十一番 札所 東海山潮音禅寺 とあった。(右下写真) 「黄瀬川の亀鶴」は「手越の千手の前」、「熊野の侍従」とともに街道の三大美女の一人とされる。

 昔、亀鶴は富士の巻狩りの折り、源頼朝に招かれたが断り、黄瀬川上流の鮎壺の滝に身を投げ、18歳のあたら命を絶ったという。

 県道380号富士清水線に合流する少し手前のアパートの駐車場に、「従是西沼津領」 の榜示杭があった。しっかり彫り込んだ文字でほぼ完全な形で残っていた。ここから沼津藩の領地となる。背後の人家で洗濯物を干す主婦が写り込まないように苦労した。(左下写真)

 午後1時、何時の間に追い抜かれたのか、下吉田村の案内板の前でメモを取る黄瀬川の若者に追いついた。何と男性だと思ったのが女性だった。彼女は我々に場所を譲って先へ行った。

 黄瀬川の女性の背を見て歩く。足を引き摺るように歩き、「足が悪いのか」と女房がいう。多分歩き過ぎて痛めたのだろう。500m程進み旧東海道は県道から左へ外れ、狩野川の土手下の道を進む。さらに500m進んだ黒瀬橋のそばに「平作地蔵尊」がある。日本三大仇討に数えられる、平作ゆかりの地蔵尊である。
 200mほど先の右側、児童公園に「沼津一里塚」があり、一里塚跡の道しるべがあった。

三島宿 宿境まで一里二町 →【沼津市 一里塚跡】→ 原宿 宿境まで一里三十三町

 伏見の一里塚から一里は離れていないけれども、一里を正確に測ると沼津宿の中に入ってしまうので、ここに一里塚を置いたという。低い土盛りの一里塚にまだ若いエノキが植わっていた。(右写真)
 児童公園には「玉砥石」という石が二個置かれていた。(左写真) 玉砥石は古墳時代に近くにあった玉造郷で玉を磨いた砥石だという。表面に幾本もの磨き溝が残っていた。
 もう一度、県道380号富士清水線に戻り、三園橋を左手に見てから旧東海道は、大きくカーブする狩野川に沿うように、沼津城下を複雑に曲がって過ぎる。沼津城址の手前では旧東海道は左手にそれ、狩野川沿いの道を行くが、少し外れて沼津城址に立ち寄った。

 沼津城址は何もない広場だった。片隅に「沼津城本丸址」の石碑があった。(右写真) 石碑の前に白猫が陣取っていた。石碑の背後のこうもり傘の下にももう一匹猫。
 武田勝頼が修築した三枚橋城は慶長十九年(1614)に廃城になり、その後代官の支配となった。安永六年(1777)になって水野氏が三枚橋城跡に沼津城を再建したが、明治になって再び廃止されている。

 旧東海道に戻り、大通りの出たところに、本を読む女性の彫像がある。女房がその隣に座って、東海道歩きの本を開く。(左写真)左手に御成橋を見る交差点近くには歩道に二つの岩と三枚橋城外堀跡と刻んだ横長の石が置かれていた。いずれも発掘された堀に使用されていた岩なのだろうか。

 沼津宿の中心だったと思われる本町の交差点に沼津宿の道しるべがあった。

三島宿 宿境まで一里十四町 →【沼津宿 横町 本町】→ 原宿 宿境まで一里二十一町

 旧東海道は沼津宿で最後に西へ鋭角に曲がり千本松原に沿った単調な街道に入る。最初の大きな交差点の北東角に浅間神社があり、「千本濱海水浴場道」と刻んだ古い案内石柱が立っていた。その交差点を左、海側に曲がった直ぐ右側に乗雲寺がある。庭園のような境内右手に「若山牧水の墓」があった。(右写真)墓の両側に立てられた石柱には牧水の短歌が刻まれていた。左側の歌は、

聞きゐつヽ たのしもあるか 松風の 今は夢とも うつつともきこゆ

 残念ながら、右側の歌碑は浅学にして、「古里の」の詠み出し部分しか判読できなかった。ここでも我々を待っていたように、猫が我が物顔に寄って来た。

 千本山乗雲寺は潮の害に難儀している農民を救うため、砂浜に松を一本ずつ植えて千本松原を造ったと言われる増誉上人が開山したお寺である。

 旧東海道に戻って、ひたすら西へほぼ真っ直ぐの道が始まった。午後2時20分、およそ1km歩いた左側に「是より南一町半 六代松」の大きな石標があった。予備知識はなかったが、150m位なら寄り道して行こうと、左、海側に折れた。その横丁からすぐ右の小公園に「六代松」の碑(左写真)があった。平家の頭領の末裔「六代」のたどった運命に、昔の人は涙したのであろうか。現在、直径30cmほどの松が献木されて植わっている。
 旧東海道はこの先、県道380号富士清水線(千本街道)と斜めに交差し、県道380号が海側に出る。沼津に入ってから旧東海道は県道380号線に合流したり交差したりと付かず離れずにきた。県道380号線は国道1号線バイパスが出来るまでは国道1号線だったようだ。かっての大動脈だった面影を感じさせる広い道である。その交差点に「地酒 白隠正宗」の看板が出ていた。いよいよ白隠さんの原宿に近づいてきたわけだ。今日のゴールは原駅としようと女房と話す。

 旧道を400mほど進んだ右に八幡神社があり、石垣の上に「従是東沼津領」の榜示杭があった。(右写真) ただ東境の榜示杭と違って、「従是東」までしかなく、下部が失われている。しかし大きさも字体も彫りも全く同じで、おそらく一対をなすものと思われる。ここで沼津藩の領地が終わりとなる。そばに「沼津藩領境」の道しるべがあった。

沼津宿 宿境まで八町 →【沼津市 沼津藩領境】→ 原宿 宿境まで二十八町
 2kmほどひたすら真っ直ぐ西進する。今回も大諏訪の一里塚は見逃してしまった。午後3時17分、片浜駅の手前で左折した東海道線のそばに神明塚古墳があった。あまりに見るべきものがないので、ここへ道草した。小高い円墳らしき形状の岡上には石段が通じていて、神明宮の社があった。

 さらに1kmほど進んだところでJR東海道線を渡る。踏み切りから富士山がよく見えた。ここでは愛鷹山はもう富士山の東側へ移っていた。(左写真)

 踏切を渡るともう原宿である。 駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠 といわれるように、原宿といえば白隠禅師で、また原宿では白隠ゆかりの松蔭寺以外にはほとんど見るべきものも残っていないという。

 踏切から1kmほど進んだところに松蔭寺がある。左へ入ったところに山門がある。この山門の屋根は108枚の石の瓦で葺かれているという。一見セメント瓦のように見えた。

 境内の東北の外れに「摺鉢松」があった。「日本の巨樹・巨木林(東海版)」によると、幹周り3.63m、樹高21m、枝張り11.9mの巨木である。(左下写真) 樹齢は300年といわれる。

 その昔、評判を聞いて立ち寄った備前岡山藩主の池田候が白隠の話に感動して、備前焼のすり鉢を寄進した。ある時、松の梢の折れたのを白隠禅師がいたみ、雨よけに寄進のすり鉢をかぶせたままで忘れてしまった。そのすり鉢をのせたまま大きくなったのがこの「摺鉢松」という。よく見ると松のてっぺんにすり鉢が見える。(左写真円内) 白隠さんの優しさと物事にこだわらない様子が知れて面白い逸話である。

 境内右手の墓地に入り、夕闇との競争で白隠禅師の墓を探す。ガイドの中の、「大きな松」 「東海道線」 「三基の墓石」 「一番左」、あせると位置関係が余計わからなくなる。うろうろして、午後4時9分、見つかってみれば大きな松の木の根元にあって、案内板もしっかりあった。
 松蔭寺でも何匹かの猫を見た。沼津に入って、立ち寄る処々に猫を見た。たまたまだったかもしれないが、印象的には猫の街である。だから、勝手に「沼津猫街道」と名付けておこう。

 松蔭寺から原駅に至る途中の左側に「白隠禅師誕生地」の石碑があった。(右写真) またその先の右側には原宿の道しるべがあった。

沼津宿 宿境まで一里十二町 →【沼津市 原宿】→ 吉原宿 宿境まで二里二十二町

 午後4時27分、原駅に着き、本日の東海道歩きを終える。本日の歩数は 32,718歩であった。







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