



午前10時、三島駅の駅頭に立つ。南へ下って旧東海道に戻る途中、アスファルト道路に囲まれた三角地に溶岩が頭を出して、数本のケヤキの大木が岩を掴んでいる緑地があった。小山の上部の溶岩から湧き出した小さな流れに「愛染の滝」と名前が付いていた。「愛染院跡の熔岩塚」(左写真)と呼ばれた、街中の不思議な光景である。
右手に楽寿園の入口を見て、左側の白滝公園に入った。ここもケヤキの大木と湧き水の流れが目立つ。公園の東南隅に白滝観音堂があり、そばに「三島女郎衆の碑」(右写真)があった。
白瀧公園の西南隅の公園出口に昔の手押しポンプのからくりがあった。前に立つとセンサーが作動して、両側の江戸時代の扮装の子供の人形が「よいしょ、よいしょ」と声を上げながら手押しポンプを押し始めた。竹筒から出る水は飲めるというので口に含んでみた。想像したようには冷たくはなかった。「ああつかれた」と言って終った。案内板によると「めぐみの子」というからくりである。
旧東海道に戻って、商店街を少し西へ行くと本陣跡の表示が店先にあった。北側に『世古本陣址』(左写真)、斜向かいに『樋口本陣址』(右下写真)があった。『世古本陣址』は元そば屋さんだったというが、今は営業していないようだ。『樋口本陣址』は山田園というお茶屋さん、なぜか石碑に並んで蛙の人形が立っていた。説明の立札もあった。
鐘楼の奥に三石神社の小さな社があった。富士の湧水が源の源兵衛川は街中ながら清流が流れていた。その川を渡る樋状の石造物があった。一部壊れてしまって使われていないがかってはこの先にある「千貫樋」のような役割をしていたものであろうか。
樹齢は250年、江戸時代から三島宿の西の入口で街道を見下ろし、往来する旅人を見てきた木である。このムクノキが語りはじめれば壮大なドラマになるに違いない。
清水町に入って直ぐに「向かい宿」の道しるべがあった。
柿田川公園に入って散策道を右手に進み、谷へ下った下に最初の湧水口がある。(右写真、木のシルエット右に湧水口がみえる。さらに右側には魚の群れも見える) 案内人のおじさんが説明した中で、記憶に残ったことが二つほどあった。
八幡交差点まで戻って、旧東海道に戻る。正午近くになったが、辺りは住宅地で食堂が見当たらず、早めに行きずりの「すしや」という屋号通りの持ち帰り寿司で、鉄火巻きと稲荷寿司を買う。次の目的地点の八幡神社の境内で食べようと考えたのである。
ボーイスカウトの子供たちが追いついてきたのを機に、八幡神社を後にし、旧東海道に戻ってすぐ、「長沢の松並木」の道しるべがあった。松並木は南側だけ一列に十数本のクロマツが残っていた。
先を歩いていた若者が黄瀬川で消えたと思っていたら、土手を降りて休んでいた。黄瀬川の上流方向には愛鷹山の東肩の上に富士山が見えた。(左写真)
県道380号富士清水線に合流する少し手前のアパートの駐車場に、「従是西沼津領」
の榜示杭があった。しっかり彫り込んだ文字でほぼ完全な形で残っていた。ここから沼津藩の領地となる。背後の人家で洗濯物を干す主婦が写り込まないように苦労した。(左下写真)
午後1時、何時の間に追い抜かれたのか、下吉田村の案内板の前でメモを取る黄瀬川の若者に追いついた。何と男性だと思ったのが女性だった。彼女は我々に場所を譲って先へ行った。
200mほど先の右側、児童公園に「沼津一里塚」があり、一里塚跡の道しるべがあった。
児童公園には「玉砥石」という石が二個置かれていた。(左写真) 玉砥石は古墳時代に近くにあった玉造郷で玉を磨いた砥石だという。表面に幾本もの磨き溝が残っていた。
沼津城址は何もない広場だった。片隅に「沼津城本丸址」の石碑があった。(右写真) 石碑の前に白猫が陣取っていた。石碑の背後のこうもり傘の下にももう一匹猫。
旧東海道に戻り、大通りの出たところに、本を読む女性の彫像がある。女房がその隣に座って、東海道歩きの本を開く。(左写真)左手に御成橋を見る交差点近くには歩道に二つの岩と三枚橋城外堀跡と刻んだ横長の石が置かれていた。いずれも発掘された堀に使用されていた岩なのだろうか。
旧東海道は沼津宿で最後に西へ鋭角に曲がり千本松原に沿った単調な街道に入る。最初の大きな交差点の北東角に浅間神社があり、「千本濱海水浴場道」と刻んだ古い案内石柱が立っていた。その交差点を左、海側に曲がった直ぐ右側に乗雲寺がある。庭園のような境内右手に「若山牧水の墓」があった。(右写真)墓の両側に立てられた石柱には牧水の短歌が刻まれていた。左側の歌は、
旧東海道に戻って、ひたすら西へほぼ真っ直ぐの道が始まった。午後2時20分、およそ1km歩いた左側に「是より南一町半 六代松」の大きな石標があった。予備知識はなかったが、150m位なら寄り道して行こうと、左、海側に折れた。その横丁からすぐ右の小公園に「六代松」の碑(左写真)があった。平家の頭領の末裔「六代」のたどった運命に、昔の人は涙したのであろうか。現在、直径30cmほどの松が献木されて植わっている。
旧道を400mほど進んだ右に八幡神社があり、石垣の上に「従是東沼津領」の榜示杭があった。(右写真) ただ東境の榜示杭と違って、「従是東」までしかなく、下部が失われている。しかし大きさも字体も彫りも全く同じで、おそらく一対をなすものと思われる。ここで沼津藩の領地が終わりとなる。そばに「沼津藩領境」の道しるべがあった。
踏切を渡るともう原宿である。 駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠 といわれるように、原宿といえば白隠禅師で、また原宿では白隠ゆかりの松蔭寺以外にはほとんど見るべきものも残っていないという。
その昔、評判を聞いて立ち寄った備前岡山藩主の池田候が白隠の話に感動して、備前焼のすり鉢を寄進した。ある時、松の梢の折れたのを白隠禅師がいたみ、雨よけに寄進のすり鉢をかぶせたままで忘れてしまった。そのすり鉢をのせたまま大きくなったのがこの「摺鉢松」という。よく見ると松のてっぺんにすり鉢が見える。(左写真円内) 白隠さんの優しさと物事にこだわらない様子が知れて面白い逸話である。
境内右手の墓地に入り、夕闇との競争で白隠禅師の墓を探す。ガイドの中の、「大きな松」 「東海道線」 「三基の墓石」 「一番左」、あせると位置関係が余計わからなくなる。うろうろして、午後4時9分、見つかってみれば大きな松の木の根元にあって、案内板もしっかりあった。
白隠はまた禅画にも堪能で、釈迦・達磨・観音などを好んで描きました。それらの禅画は松蔭寺などに多数現存しています。



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