第 10 回 
  平成13年9月29日(土) 
 くもり
 原宿−千本松原−左富士−吉原宿−岩淵宿(間の宿)
 “道祖神の吉原宿から秋葉燈の岩渕宿へ”



 昨日、巨人軍の長嶋監督が退任するとのニュースが流れ、日本列島に電撃が走った。長嶋・王が現役で活躍していた時代、中学生だったあの頃、田舎の家にテレビはなく、わずかに一家にラジオが一台。地方の小都市ではそのラジオがNHKだけで、民放はよく入らない。それでも、夜二階に上がると、開け放った隣の窓から、ラジオの実況がもれ聞こえてくる。寄せては返す波のように感度が強弱する実況放送を、想像力をたくましくして聞いたものである。その程度の自分にも、長嶋・王の姿は大きく映った。大リーグが毎日放映されすっかり影が薄くなった日本のプロ野球だが、一つの時代が終ったということかもしれない。

 お天気は快晴とはいかないが、雨の降ることもなさそうなので出かける。このコースは東海道で富士山に一番近い地域である。天気さえよければ富士山三昧となるところだが、今日は我慢しよう。聞こえそうで聞こえない実況放送に想像力を逞しくしたように、想像力で富士山を補えばよい。

 原宿には松蔭寺以外にほとんど見るべきものがないというので、前回、女房の「千本松原を歩いてみたい」というリクエストに応えようと思う。旅人の中には本街道を外れて、松原を歩いたものもあっただろうから。

 午前9時39分、原駅を出発する。旧東海道に出て直ぐに、「地酒 白隠正宗」の高嶋酒造があり、左側の店先のナマコ壁の前に、醸造用に使用している富士山の霊水が旅人にも飲めるようにしてあった。(右写真)
 駅から500mほど行った左手奥に神社が見えた。ここから松原に出ることにする。神社前で地元のお年寄りに声をかけて、東海道の情報を得ようと思った。この神社は浅間神社で、原町でもかなり歴史があるという。聞きたかったのは千本松原や要石神社の情報であったが、話が一里塚のことになり、一里塚を松原の方に移して新しくしたという。それは自分の知らない情報であった。

 踏切を越えて原中学校の敷地を迂回して県道380号線に出る。県道の海側が約200m幅の松原になっている。松原の縁で樹木の剪定をしている男性に新しい一里塚の在処を聞いたが、この辺りにはないという。松原の中の遊歩道を西へ進んだ。松は二、三十年の樹齢であろうか、思ったより若い松原であった。散歩の人やジョギングの人が通る気持ちの良い道である。(左写真)

 松林の中は見通しがよく、人工物を見つけてはたびたび確かめに逸れる。馬頭観音があったり、平成9年に再建された「いぼ神様」の真新しい石の祠(右写真)もあった。
 さらに進んで、樹齢が五、六十年で、やや薄暗くなった松林の中に小さな社があった。社の後ろには馬頭観音が祀られ、その前の花立には「一里山家」などの名前があった。

 この後は想像であるが、最初に聞いたお年寄りが「一里塚を松原の方に移して新しくした」というのは「いぼ神様」の間違いだったのではないか。後日、原の一里塚ことを調べると、一里塚はかって海側の県道沿いにあったものが、高潮に流出したため、旧東海道筋に新しく作ったのだという。新旧が逆であった。旧東海道筋には「一里山」の屋号を持つ家があるだけという。花立にあった「一里山家」はまさにその家を指しているのだろう。もっと想像をたくましくすれば、この社の位置こそ高潮で流された一里塚のあったところかもしれない。

 一里塚をあきらめて、次のターゲット、「要石神社」を探しながら遊歩道を西へ進む。途中松林にはびこる雑木の処理作業をやっている手前で、ウォーキング中のおじさんに「要石神社」の場所を聞く。この先、二、三百mにあるというのだが、今一つ歯切れが悪い。とにかく先へ進むことにする。雑木処理作業の地域を通り過ぎようとすると、作業中のおじさんがまだ青くて小さいアケビをくれた。アケビなど見たことのない人たちと見られたようだ。好意を無駄にしないように有難くいただいた。

 松林の中の遊歩道をかなり進んだが、要石神社が見つからない。自転車でやってきたおじさんを止めて再度聞いてみると、引き返し広い道(県道)に出て、ラドン温泉のすぐ前だと教えてくれた。県道へ出てラドン温泉はどこかとキョロキョロ。「そこ!」と女房。直ぐ目の前にうらぶれたラドン温泉があった。

 午前10時53分、要石神社はその先の松林の中にあった。小道がコの字型に曲がった先に、玉垣に囲まれた小さな石の祠があった。途中には安政年号の馬頭観音もあった。祠の周りには穴の明いた石がたくさん奉納されていた。(左写真)
 県道からビニールハウスのそばの農道を通って旧東海道に戻った。ビニールハウスの中も外も菊の花畑であったが、まだ花には少し早いようだった。

 旧東海道に出た辺りを「桃里」という。右手に浅間愛鷹神社があり、かたわらに風化の激しい道祖神があった。(右写真)

 桃里の地名には面白い話がある。「ウォーク」で次のように書いている。「かってはこの地を開墾した鈴木助平衛さんにちなんで『助平衛新田』と呼んでいたが、淫らな名前ゆえに明治になって地名を変えたのだという。」 しかし、替えた「桃里」という名も何やら怪しげな名前のようにも思える。再び改名の憂目に遭わなければよいが。(これを書いている10月末、どこかの街で「捨子橋」という橋名を改名したというニュースを聞いた。名前を変えても何かが変わる訳ではないのに、どうして歴史のある名前を捨てるのだろう。)
 旧東海道は斜めに踏み切りを越えて富士市に入る。県道380号線と合流する手前で北へ細道を入った先、JR東海道線の向うに「山ノ神古墳」があった。参道は線路でさえぎられていて、向こう側にこんもりした古墳が見えた。(左写真) ウォークのときは線路を無理に渡ったと記憶しているが、「危険ですから通行しないで下さい」の標識を守って引き返した。

 県道380号線と合流してまもなく、県道から北へ入ったところに東田子の浦駅があった。トイレが構内しかなく、無人で断ることもならず、無断でトイレを借りに入った。

 駅から旧東海道に戻ったところに「六王子神社」があった。(右下写真) 鳥居の前に、神社に残る「三股の伝説」が書き記されていた。読んでみたが、いくつも疑問の残る不可解な伝説であった。旅の途中の巫女がどうしていけにえに選ばれたのか。どうして仲間の6人の巫女が死ななければならなかったのか。
 神社の前に老人と青年がウォーキング姿で水筒から水分を補給している。親子でもなさそうだし、案内する地元の老人と訪れた青年とでもいうのか、これまた不可解なコンビである。この二人は我々の先を行ってしまったが、毘沙門さんの手前であったか戻ってくるのに出あった。

 正午、駅から300mほど進んだ北側に日蓮宗の立圓寺があった。山門と本堂はケヤキ材のような色沢の美しい木造で、新築からそれほど建っていないように見えた。このお寺はガス給湯器パーパスの高木産業の高木一三氏が有力檀家らしく、あちこちに高木氏の名前が見えた。

 本堂右手にとんがり帽子のような「望嶽碑」があった。(左写真) 裏側に漢文で刻まれた銘について、案内板が碑の前に横たえてあった。
 望嶽碑の隣には赤く塗られた錨と記念碑があった。昭和54年10月19日の台風20号によって近くの海岸に打ち上げられた船−グラデック号の遭難を記録した碑である。(右写真) 当時、見物に行ってきた人から写真を見せてもらった記憶がある。
船名 ゲラティック号(西独建造)
船籍 インドネシア ジャカルタ
屯数 六三二〇屯
全長 一五五米 高さ巾 各二十米
錨  重量 四屯
 立圓寺を出て直ぐの右側横丁の入口に、楽しい道祖神を見つけた。男女一体の道祖神で、男の方は古いものなのだが、女の方は見るからに今造りの童顔で石の色も白い。想像するに男だけの道祖神を淋しかろうと地元の人が寄進したものなのだろう。若い後添えを迎えた道祖神といった風情が面白い。お花を鉢で飾ったアイディアも納得できる。

 旧東海道は間もなく昭和放水路を渡る。すぐ左側の松林に、「開墾増田平四郎翁碑」と書かれた石碑と翁の石像があった。
 原から吉原にかけての一帯は、駿河湾から押し寄せて来る砂に阻まれて排出されない水が、浮島沼に代表される広範囲な湿地帯を形成していた。江戸時代にその湿地帯を干拓して田地に変える事業がいくつも行われた。このスイホシもその一つである。

 「沼田新田の一里塚」は平四郎翁のとなりに庭園のように整えられていた。(左写真) ウォークの時には見つけられなかったものである。

 さらに進んだ右側の小道の入口に、自然石の道しるべを見つけた。(右写真) 「春耕道しるべ 第1号」という木柱が立っていた。石の表面に薄く文字が彫られ、富士山や旅人・葦と小舟・釣り人などが線画で彫りつけてあった。旧吉永村の農民であった仁藤春耕という人が、明治38年(1906)から五年をかけて、 東海道から御殿場にいたる十里木街道などに自費で約120基の道しるべを建てたという。

 道しるべの側面には指差す手の絵とともに、「須津村役場(一里)」と「吉永村役場(三十一町)」が並記して刻まれていた。

 正午を回っていたが、道中に適当な食事どころもなく、吉原の毘沙門さんに向かう真っ直ぐの道を進む。前方に見える大昭和製紙の煙突が目印である。あのすぐ南側が毘沙門さんである。旧東海道は県道380号線を右に別けて直進する。

 旧東海道にはもう一人、湿地帯の排水のために一生をかけた男がいる。県道との別れ道から少し進んだ右側、人家の庭に表を向けて、高橋勇吉と天文堀の碑があった。高橋勇吉は、水はけが悪く、海から塩水が逆流して度々作物を枯らすのに心を痛めて、その排水工事を手掛け、嘉永3年、ようやく「天文堀」として完成した。その功績を記した碑である。
 午後0時58分、昼食にありつけないまま、「吉原の毘沙門様」に着いた。香具山妙法寺は元吉原の砂山の上にあり、津波の時に逃げる命山となっていた。大祭が2月にあり、ダルマ市で賑わう。妙法寺は日本には珍しいラマ教のお寺で、中国風の極彩色の香炉場(右写真)や丸い帽子を被ったような建物があり、一風変わった寺院であった。

 境内左手に「毘沙門天王のくつ石」(左写真)と名付けた大石が朱色の屋根の下の置かれていた。その「くつ」は「靴」ではなくて「沓」の字が似合う。よくもこんな石を探してきたものである。その想像力に脱帽である。

 午後1時を回ったのにまだ食堂が見つからない。女房も無口になる。仕方なくいかにも田舎のマーケットといった風情の店に入る。パンと飲み物を買い、行儀悪いが食べながら歩く。さらにコンビニを見つけてお握りを買い足す。

 旧東海道は大昭和製紙の入口前でJR東海道線の踏切を渡り、吉原駅には入らないで北西に進む。河合橋の手前に馬頭観音があった。(右写真の左) 道は工場・事業所群の中の道を進む。車も絶えたので、とある角で握り飯の昼食を摂った。

 下りの東海道で二ヶ所、左側に富士山が見える場所がある。一ヶ所は茅ヶ崎の「南湖の左富士」である。もう一ヶ所がこの先の左富士である。海沿いにあった古い東海道が何度か津波にあって、吉原宿はその度に北へ宿替えが行われた。その度に東海道は北へ大きく迂回して、富士山が左側に見える街道が出来たのである。広重はこの左富士を吉原宿として描いた。

 国道一号線と東海道新幹線を潜ってから三つに別れる道の真中の道を進み、300mほど進んだ左側に左富士神社があった。(左写真) もちろん左富士ゆかりの神社である。本殿左に赤いよだれ掛けも派手な道祖神があった。(右上写真の右) 左富士神社の写真の中央の赤い点がこの道祖神である。

 ウォークでは境内にいた老婆の話として、「往時の面影が全く残っていないけれども、こんなにしてしまったのは皆んな役所が悪いと主張する。なるほど名勝と言いながら、無粋な工場が建ち並んで、富士山すらも見え辛くなっている。」と書いている。

 信号のある道路を横断したすぐ左に、松の木が一本だけ残り、「名勝 左富士」の案内板と「左富士」の道しるべがあった。残念ながら今日は富士山は見えない。ウォークの時はいい天気で左富士の写真も撮れた。その写真を載せておこう。(右写真)

原宿 宿境まで二里九町 →【富士市 吉原宿 左富士】→ 富士川町 宿境まで一里二十七町

 やはり「吉原宿の巨木」はこの「左富士の松」以外にはないであろう。太さは3mに満たないだろうから、巨木としては不足がある。しかし、名のある松のほとんどが失われている現在、大切にして欲しい木である。

 左富士の先の歩道上に木造の祠と「ひげ題目」の板碑があった。板碑には「馬頭観世音菩薩」と「左富士」の記載があった。

 午後2時20分、和田川に架かる平家越橋にさしかかる。手前右の橋のたもとに「平家越の碑」があった。水鳥が飛び立つ音に敵の来襲と思い敗走した平惟盛軍、その後の源平の戦いの結果を予兆するような富士川の戦いを記念する碑である。
 「平家越の碑」の前には、いずれも東海道の道中に設置されていたらしい、石柱の三個の道標が集められていた。

 東木戸跡を通り過ぎて岳南商店街に入ると前から小母さんが小走りで来て、商店街のマップをくれた。東海道歩きの人を見つけたら配っているのであろう。マップを見て、情報に無かった「身代わり地蔵さん」に立ち寄ることにする。旧東海道が岳南鉄道と交わり、踏切を渡る手前を左に入ったところに「身代わり地蔵さん」はあった。(左写真) たくさんお地蔵さんが並んでいるが、前が六地蔵で、後の一番大きな地蔵さんが「身代わり地蔵さん」なのだろう。
 吉原の商店街を行くと場違いな自然石の石碑があった。「明治天皇御小休所 東海道吉原宿 高砂旅館跡」と読めた。本陣だったのだろう。商店街にはそれ以外に東海道を感じさせるものは見出せなかった。

 商店街の西で旧東海道は左折する。その角に吉原宿の案内板があった。
 富士市に入ってからずっと「見よう歩こう富士市の東海道」の統一道標に導かれてきた。ウォークの際は吉原の街中で少し迷っているが、この道標のおかげで、横丁に入っても今回は迷わずに西木戸跡まで来れた。

 午後3時、富士市役所の通りに出た。歩道の緑地帯に「旧東海道跡の碑」があった。碑の前には近頃発掘されたという旧東海道の石橋の石が表面だけ出して埋められていた。(右写真)
 旧東海道は広い交差点から一本西へ外れた斜めの道を潤井川に向けて南へ真っ直ぐ進む。前方にはここでも大昭和製紙の煙突が見えていた。車の通りの少ない静かな道に塀を凹めて文字だけの道祖神があった。

 さらに潤井川を渡った蓼原には「袂の賽神」と呼ばれるユニークな道祖神があった。(左写真) 頭巾のようなものを被り、瞑目した大きな顔が妙にふてぶてしい。

 この後、富士川までは県道396号富士由比線の本通りにからむように、細かくカーブした道、約4kmを西へ進む。途中、所々に旧東海道の遺物が発見できて道の間違っていないことが確認できる。

 本市場の県富士総合庁舎を過ぎてすぐの左側に、個人住宅の前庭に「鶴芝の碑」が立っていた。この辺りは、立場(たてば)で「中の茶屋」「鶴の茶屋」などと呼ぶ茶屋が並んでいた。ここから見る富士は街道一美しく、山腹に鶴が舞い、亀が遊ぶように見えて、鶴芝・亀芝と呼ばれていたとう。(※立場−街道などで人夫が駕籠などをとめて休息する所)
 「鶴芝の碑」の先で広い道と交差する。ウォークの時はまだ出来ていなかった中央分離帯が出来ていて、真っ直ぐに横切れない。腹立たしいが大きくコの字型に、分離帯が切れる信号まで迂回を余儀なくされた。この道を東海道歩きで歩く人も多いのだから、行政も少し心遣いが欲しい。同じような場所がウォーク時、草薙辺りにもあった。

 県道と斜めに交わり、旧東海道は本市場の市街に入る。そして道路左側に花いっぱいに囲まれた自然石の碑があった。「本市場一里塚跡」の石碑である。ウォーク時には気が付かなかったところを見ると最近設置されたものなのだろう。

 旧東海道は間もなく身延線柚木駅のそばで身延線のガードをくぐる。その手前500mほどの南側に不動堂があり、その前に双体の道祖神があった。(右写真左側) また、その向かい側には秋葉常夜燈があった。

 全く私見であるが、この辺りを境に旧東海道から道祖神が姿を消し、秋葉燈が主役に踊り出るように思う。特にこの吉原宿を中心に色々な道祖神に遭えたし、この後、蒲原宿にかけての秋葉燈の多さはどうだ。もちろん例外は沢山あるだろうが、例えば道祖神文化圏、秋葉燈文化圏などが考えられないだろうか。自分は知らないだけで、そんな説を展開している学者がいるのかもしれない。

 富士川に出る前にもう一つだけ見るものがある。街道北側の雁堤への分岐に置かれている。火袋はコンクリートで補修されているが、自然石を生かした素朴な秋葉燈である。(右上写真の右) かたわらの道標は「左東海道」と読める。

 午後4時30分、富士川の橋詰の北側の松岡水神社まで来た。(左写真) 二人ともかなり疲れてきているが、今日のゴールはどうしても富士川駅まで行かないと交通の便が悪い。あと4キロ、あと3キロ、あと2キロと少々逆サバを読みながら女房を励まして来た。

 夕暮れを間近にして、光がかなり弱まり社叢には薄闇が漂い始めていた。参道の両側には様々な石造物が並んでいた。富士川渡船場跡の石碑、富士山道の大きな石碑、富士川帰郷堤の碑、秋葉燈などが確認できる。
 ウォークでは富士川の橋の上から富士山を撮り、「朝から見えていた富士山には必ず無粋な電線が入ってしまったが、ここで初めて邪魔のない無傷の富士山の写真が取れた」と書いている。残念ながら今日は全く富士山は見えない。対岸の土手の10mほど川上に「渡船場跡」の道しるべがあった。

吉原宿 宿境まで一里十二町 →【富士川町 間宿 岩渕 渡船場跡】→ 蒲原宿 宿境まで一里五町

 道しるべの先に、渡船「上り場」常夜燈と、(右写真の右) 京都の豪商の角倉了以がここの舟運を開設したことを記した紀功碑があった。(右写真の左) 旧東海道ではここで渡し船を降りたのであろう。またここは富士川を船で下ってきた信州、甲州の物資が荷揚げされ、東海道に引き継がれる交通の要所であった。
 角倉了以の紀功碑の先に、舟形の植え込みが作られていた。(左写真) これは渡船の実物大に植え込み刈込み、渡船を模したものである。
 土手の下の河原は低い堰があって、上流には広い水面が広がっている。そこには障害物が何も無く、見事な逆さ富士が映る。写真撮影の絶好ポイントになっている。お天気が良ければカメラの砲列が並ぶところである。もちろん今日は誰もいない。ウォークの時はそばのコンビニにスタンプ所があったのを見逃したため、駅からここまで歩いて戻り、思いがけなく夕暮れの赤富士に遭遇できた。シャッターチャンスを得て、時間を忘れてシャッターを押したのを思い出す。その折の写真を一枚乗せておこう。(右写真)

 旧東海道はそこから坂を上って岡の上に出る。夕暮れの迫った街道は静かだった。家々では夕餉の仕度が始まっているのであろう。岩渕宿(間の宿)には通りのあちこちに秋葉灯篭が見られた。(左写真) 往時ならば間もなく秋葉灯篭に火が入れられ、先の宿に急ぐ旅人の役に立ったのであろう。(間の宿は休憩だけで宿泊は出来なかった) 我々も疲れた足で先を急いだ。

 午後5時、街道右側に黒板塀の常磐本陣跡があった。(右写真)

 旧東海道は真っ直ぐ進んで富士川町役場のところで大きく右へカーブする。そこに「岩渕の一里塚」がカーブの左右に残っていた。この一里塚に榎の巨木が植わっている。(左写真) やはりこの一対の榎以外に「岩渕宿の巨木」はありえないだろう。

 太い方の榎は街道右側(西側)のもので一里塚を築いた当初のものである。(左写真の右) 幹周囲3.4m、 樹高10mで、 一里塚全体に根を回して大変旺盛であった。東側の榎は二代目だがすでに幹周りが1mに育っている。(左写真の左)

 そばに、「史跡 一里塚」の石標や一里塚の案内板とともに、「一里塚跡」の道しるべを見つけた。
吉原宿 宿境まで一里二十一町 →【富士川町 間宿 岩渕 一里塚跡】→ 蒲原宿 宿境まで三十二町

 旧東海道は大きくクランク型に二度カーブして、さらに右に曲がって続くが、我々はルートから外れて、真っ直ぐに富士川駅を目指して坂を下った。午後5時26分、富士川駅で今日の東海道歩きを終える。本日の歩数は 42,153歩であった。







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