



午前9時39分、原駅を出発する。旧東海道に出て直ぐに、「地酒 白隠正宗」の高嶋酒造があり、左側の店先のナマコ壁の前に、醸造用に使用している富士山の霊水が旅人にも飲めるようにしてあった。(右写真)
踏切を越えて原中学校の敷地を迂回して県道380号線に出る。県道の海側が約200m幅の松原になっている。松原の縁で樹木の剪定をしている男性に新しい一里塚の在処を聞いたが、この辺りにはないという。松原の中の遊歩道を西へ進んだ。松は二、三十年の樹齢であろうか、思ったより若い松原であった。散歩の人やジョギングの人が通る気持ちの良い道である。(左写真)
松林の中は見通しがよく、人工物を見つけてはたびたび確かめに逸れる。馬頭観音があったり、平成9年に再建された「いぼ神様」の真新しい石の祠(右写真)もあった。
午前10時53分、要石神社はその先の松林の中にあった。小道がコの字型に曲がった先に、玉垣に囲まれた小さな石の祠があった。途中には安政年号の馬頭観音もあった。祠の周りには穴の明いた石がたくさん奉納されていた。(左写真)
旧東海道に出た辺りを「桃里」という。右手に浅間愛鷹神社があり、かたわらに風化の激しい道祖神があった。(右写真)
旧東海道は斜めに踏み切りを越えて富士市に入る。県道380号線と合流する手前で北へ細道を入った先、JR東海道線の向うに「山ノ神古墳」があった。参道は線路でさえぎられていて、向こう側にこんもりした古墳が見えた。(左写真) ウォークのときは線路を無理に渡ったと記憶しているが、「危険ですから通行しないで下さい」の標識を守って引き返した。
本堂右手にとんがり帽子のような「望嶽碑」があった。(左写真) 裏側に漢文で刻まれた銘について、案内板が碑の前に横たえてあった。
望嶽碑の隣には赤く塗られた錨と記念碑があった。昭和54年10月19日の台風20号によって近くの海岸に打ち上げられた船−グラデック号の遭難を記録した碑である。(右写真) 当時、見物に行ってきた人から写真を見せてもらった記憶がある。
旧東海道は間もなく昭和放水路を渡る。すぐ左側の松林に、「開墾増田平四郎翁碑」と書かれた石碑と翁の石像があった。
原から吉原にかけての一帯は、駿河湾から押し寄せて来る砂に阻まれて排出されない水が、浮島沼に代表される広範囲な湿地帯を形成していた。江戸時代にその湿地帯を干拓して田地に変える事業がいくつも行われた。このスイホシもその一つである。
さらに進んだ右側の小道の入口に、自然石の道しるべを見つけた。(右写真) 「春耕道しるべ 第1号」という木柱が立っていた。石の表面に薄く文字が彫られ、富士山や旅人・葦と小舟・釣り人などが線画で彫りつけてあった。旧吉永村の農民であった仁藤春耕という人が、明治38年(1906)から五年をかけて、 東海道から御殿場にいたる十里木街道などに自費で約120基の道しるべを建てたという。
旧東海道にはもう一人、湿地帯の排水のために一生をかけた男がいる。県道との別れ道から少し進んだ右側、人家の庭に表を向けて、高橋勇吉と天文堀の碑があった。高橋勇吉は、水はけが悪く、海から塩水が逆流して度々作物を枯らすのに心を痛めて、その排水工事を手掛け、嘉永3年、ようやく「天文堀」として完成した。その功績を記した碑である。
午後0時58分、昼食にありつけないまま、「吉原の毘沙門様」に着いた。香具山妙法寺は元吉原の砂山の上にあり、津波の時に逃げる命山となっていた。大祭が2月にあり、ダルマ市で賑わう。妙法寺は日本には珍しいラマ教のお寺で、中国風の極彩色の香炉場(右写真)や丸い帽子を被ったような建物があり、一風変わった寺院であった。
境内左手に「毘沙門天王のくつ石」(左写真)と名付けた大石が朱色の屋根の下の置かれていた。その「くつ」は「靴」ではなくて「沓」の字が似合う。よくもこんな石を探してきたものである。その想像力に脱帽である。
旧東海道は大昭和製紙の入口前でJR東海道線の踏切を渡り、吉原駅には入らないで北西に進む。河合橋の手前に馬頭観音があった。(右写真の左) 道は工場・事業所群の中の道を進む。車も絶えたので、とある角で握り飯の昼食を摂った。
国道一号線と東海道新幹線を潜ってから三つに別れる道の真中の道を進み、300mほど進んだ左側に左富士神社があった。(左写真) もちろん左富士ゆかりの神社である。本殿左に赤いよだれ掛けも派手な道祖神があった。(右上写真の右) 左富士神社の写真の中央の赤い点がこの道祖神である。
信号のある道路を横断したすぐ左に、松の木が一本だけ残り、「名勝 左富士」の案内板と「左富士」の道しるべがあった。残念ながら今日は富士山は見えない。ウォークの時はいい天気で左富士の写真も撮れた。その写真を載せておこう。(右写真)
午後2時20分、和田川に架かる平家越橋にさしかかる。手前右の橋のたもとに「平家越の碑」があった。水鳥が飛び立つ音に敵の来襲と思い敗走した平惟盛軍、その後の源平の戦いの結果を予兆するような富士川の戦いを記念する碑である。
東木戸跡を通り過ぎて岳南商店街に入ると前から小母さんが小走りで来て、商店街のマップをくれた。東海道歩きの人を見つけたら配っているのであろう。マップを見て、情報に無かった「身代わり地蔵さん」に立ち寄ることにする。旧東海道が岳南鉄道と交わり、踏切を渡る手前を左に入ったところに「身代わり地蔵さん」はあった。(左写真) たくさんお地蔵さんが並んでいるが、前が六地蔵で、後の一番大きな地蔵さんが「身代わり地蔵さん」なのだろう。
富士市に入ってからずっと「見よう歩こう富士市の東海道」の統一道標に導かれてきた。ウォークの際は吉原の街中で少し迷っているが、この道標のおかげで、横丁に入っても今回は迷わずに西木戸跡まで来れた。
旧東海道は広い交差点から一本西へ外れた斜めの道を潤井川に向けて南へ真っ直ぐ進む。前方にはここでも大昭和製紙の煙突が見えていた。車の通りの少ない静かな道に塀を凹めて文字だけの道祖神があった。
この後、富士川までは県道396号富士由比線の本通りにからむように、細かくカーブした道、約4kmを西へ進む。途中、所々に旧東海道の遺物が発見できて道の間違っていないことが確認できる。
県道と斜めに交わり、旧東海道は本市場の市街に入る。そして道路左側に花いっぱいに囲まれた自然石の碑があった。「本市場一里塚跡」の石碑である。ウォーク時には気が付かなかったところを見ると最近設置されたものなのだろう。
旧東海道は間もなく身延線柚木駅のそばで身延線のガードをくぐる。その手前500mほどの南側に不動堂があり、その前に双体の道祖神があった。(右写真左側) また、その向かい側には秋葉常夜燈があった。
富士川に出る前にもう一つだけ見るものがある。街道北側の雁堤への分岐に置かれている。火袋はコンクリートで補修されているが、自然石を生かした素朴な秋葉燈である。(右上写真の右) かたわらの道標は「左東海道」と読める。
ウォークでは富士川の橋の上から富士山を撮り、「朝から見えていた富士山には必ず無粋な電線が入ってしまったが、ここで初めて邪魔のない無傷の富士山の写真が取れた」と書いている。残念ながら今日は全く富士山は見えない。対岸の土手の10mほど川上に「渡船場跡」の道しるべがあった。
角倉了以の紀功碑の先に、舟形の植え込みが作られていた。(左写真) これは渡船の実物大に植え込み刈込み、渡船を模したものである。
土手の下の河原は低い堰があって、上流には広い水面が広がっている。そこには障害物が何も無く、見事な逆さ富士が映る。写真撮影の絶好ポイントになっている。お天気が良ければカメラの砲列が並ぶところである。もちろん今日は誰もいない。ウォークの時はそばのコンビニにスタンプ所があったのを見逃したため、駅からここまで歩いて戻り、思いがけなく夕暮れの赤富士に遭遇できた。シャッターチャンスを得て、時間を忘れてシャッターを押したのを思い出す。その折の写真を一枚乗せておこう。(右写真)
旧東海道はそこから坂を上って岡の上に出る。夕暮れの迫った街道は静かだった。家々では夕餉の仕度が始まっているのであろう。岩渕宿(間の宿)には通りのあちこちに秋葉灯篭が見られた。(左写真) 往時ならば間もなく秋葉灯篭に火が入れられ、先の宿に急ぐ旅人の役に立ったのであろう。(間の宿は休憩だけで宿泊は出来なかった) 我々も疲れた足で先を急いだ。
午後5時、街道右側に黒板塀の常磐本陣跡があった。(右写真)
太い方の榎は街道右側(西側)のもので一里塚を築いた当初のものである。(左写真の右) 幹周囲3.4m、 樹高10mで、 一里塚全体に根を回して大変旺盛であった。東側の榎は二代目だがすでに幹周りが1mに育っている。(左写真の左)



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