



道しるべのすぐ先に「由比の一里塚」があった。山側には「一里塚」の石碑があった。(左写真)
一里塚のすぐ先に「東桝型跡」がある。道が家一軒分ずれていて、現在はその分道幅が蛙を飲んだ蛇のように膨らんでいる。(右写真) この桝型に昔は由比宿の東木戸があった。
桝型のそばに昔の商家がある。二階にも一階にも格子がはまっていた。(左写真)
由比宿へ来るのは今回で都合四回めである。本陣跡の前に「正雪紺屋」がある。(右写真) 正雪紺屋の屋号は江戸時代から付けられていたとすれば不思議である。由比正雪はいわば国家反逆者として死んだはずである。その正雪の名を屋号にするなど外国なら考えられないことである。日本はその辺随分大らかである。
由比本陣公園の表門(左写真)を入った正面に大名等が休泊した母屋があったが、明治初年に解体されている。正面奥の「東海道広重美術館」がある辺りには土蔵が立ち並んでいたという。今日は興津まで歩きたいので、東海道広重美術館はパスする。
本陣の塀の外側、石垣に沿って水場がある。(左写真) かって「馬の水呑場」になっていた水路である。峠を越えてきた馬はさぞや沢山の水を飲んだことと思う。水路にはホテイアオイが繁茂し、金魚が泳いでいた。
平野氏宅の先におもしろ宿場館がある。門の脇に倉沢の望嶽亭藤屋の当主 松永宝蔵氏の弥次喜多の絵の等身大の人形が据えられていた。(右写真) 同じ建物に海の庭というレストランがある。午後0時49分と、昼をとっくに回っていたので昼食をそこでとも思ったが、その先の井筒屋に入った。
勘定を済ませる女房を待つ間に、向かいの建物の前に立派なステンレス製の案内板を見つけた。清水銀行由比本町支店の建物の案内である。小さいながらも大正時代に竣工した洋館として国の有形文化財として登録されたという。(左写真)
由比川橋の手前海側に「ばったり床几」というベンチがあった。折りたたんで片付けられる床几である。(右写真)
由比川橋には新しい広い橋が架かっていた。(左写真) 欄干は金属板に刻み込んだ東海道の浮世絵で飾られていた。
豊積神社の雄株もデジカメ写真で撮ったが、どちらもなぜか写真が残っていない。失敗してしまったようだ。豊積神社には太鼓の石像がある。(左下写真) 無形文化財のお太鼓祭りを記念したものである。
街道に戻ると由比の町ではお祭の準備が進んでいた。(右写真) 街を飾る提灯、祭り装束の若者、満艦飾の屋台などでそれが知れる。午後2時9分、この後、まだサッタ峠を越えなければならない。池田酒店で飲料を購入する。出てきた女房は夕方から山車が出るから見ていくように誘われたという。
旧東海道はJR線を越して国道一号線に通じる道から分かれて、山に向かう道をとり、寺尾の集落に入る。この辺から古い平屋の家並みが続く。(左写真)
午後2時31分、山側に名主の館「小池邸」があった。(右写真) 入口の箱に一人100円入れて入場する。最近まで当主が一人暮らしでいたが、亡くなられたので町で買取り、整備して中を公開するとともに、街道の休憩所として開放しているという。庭に水琴窟があった。小砂利の上に水を垂らすと澄んだ音が聞こえる。竹の筒をあてがい耳を付けると、よりはっきりと聞こえた。じっと聞いていると気持ちが静まる。
小池邸の斜め前に、古い民家を改造した「東海道あかりの博物館」がある。(左写真) 今日は先を急がねばならないのでそこも通り過ぎた。
その先には明治天皇が御休憩された茶店の「柏屋」があった。(右写真)
さった峠の登り口の海側に、間の宿の茶店であった望嶽亭藤屋がある。(左写真)
成り行き上、店の前を通る歩き客に、店の人はすぐに戻って案内してくれるよ、と呼び込みをする。青年が一人、店に入ってきた所に、お婆さんが戻ってきた。
峠を登りきったところに、駿河湾をバックに二基の古い石碑が立っていた。大きいほうは「さったぢざう」と刻字があり、真中で二つに折れたものをつないである。小さいほうは「さったぢざうミち」とあり、「延享元甲子年六月吉日」とある。「延享元甲子年」は1744年である。(左写真)
展望台の先に国道と東名高速が交差する写真スポットに立った。ポスターなどで有名なポイントである。足らないのは富士山が見えないことである。(右写真)
さった峠を下り東海道線を横切り、興津川を渡って、興津の町に入る。国道52号線と国道1号線との交差点、興津中町交差点に、現代の道しるべとしての国道52号線起点の標識があった。その先の旧身延道入口に鬚題目と並んであった「身延山道」の道しるべと並べてみた。(右下写真)
興津中町交差点からすぐのところに、「女体の森 宗像神社」の石標があり、鳥居の奥に松の森が見えた。興津の巨木としてふさわしい巨木があるかもしれないと夕暮れの社域にむかった。参道に紅白縞の提灯が連なっていた。本殿前に大きな焚き火が出来、子供たちが祭りのおさらいをしていた。
旧東海道に戻って、少し進んだ右手横町の角に身延道入口の鬚題目の石碑があった。この角には往時、ごく小さな日蓮宗石塔寺があったというが、身延詣の旅人に身延道の入口を示す「法華題目堂」だったといわれている。現在は一角に鬚題目を中心にいくつかの石像物が残っているのみで民家に囲まれてしまっている。(左写真)




![]() |

![]() |
このページに関するご意見・ご感想は: |
| SEO | [PR] 冠婚葬祭 花 冷え対策 わけあり商品 | 動画無料レンタルサーバー ブログ SEO | |