第 11 回 〔後半〕
  平成13年10月13日(土) 
 快晴
 −由比宿−さった峠−興津宿 
 “倉沢の望嶽亭藤屋再訪、主人は亡くなっていた”



 午後0時23分、街道海側に「由比町由比」の道しるべがあった。

蒲原宿 宿境まで二十六町 →【由比町 由比】→ 由比宿 宿境まで三町

 道しるべのすぐ先に「由比の一里塚」があった。山側には「一里塚」の石碑があった。(左写真)
 一里塚のすぐ先に「東桝型跡」がある。道が家一軒分ずれていて、現在はその分道幅が蛙を飲んだ蛇のように膨らんでいる。(右写真) この桝型に昔は由比宿の東木戸があった。
 桝型のそばに昔の商家がある。二階にも一階にも格子がはまっていた。(左写真)
 その続きの右側の白いコンクリート塀にはめ込まれた碑文があった。「御七里役所の趾」の碑だが、「七里飛脚」はよく時代小説に出てくる、紀州徳川家の七里飛脚の役所跡である。特急便では紀州まで「四日足らずで到着した」という。江戸時代の宅急便である。
 由比宿へ来るのは今回で都合四回めである。本陣跡の前に「正雪紺屋」がある。(右写真) 正雪紺屋の屋号は江戸時代から付けられていたとすれば不思議である。由比正雪はいわば国家反逆者として死んだはずである。その正雪の名を屋号にするなど外国なら考えられないことである。日本はその辺随分大らかである。

 正雪紺屋には土間に藍瓶が10数個埋められて、往時にはここで藍染めが行われていた。(右写真の左側)
 由比本陣公園の表門(左写真)を入った正面に大名等が休泊した母屋があったが、明治初年に解体されている。正面奥の「東海道広重美術館」がある辺りには土蔵が立ち並んでいたという。今日は興津まで歩きたいので、東海道広重美術館はパスする。

 右手のトイレの前にイチョウの巨木がある。(右写真) 大枝を切られて少し元気がないし、イチョウとしてはまだまだ若い木だが、本陣公園内では最大の巨木である。このイチョウが由比宿の巨木にふさわしいかもしれない。100年後を見越して「由比宿の巨木」としよう。

 左手奥には、明治天皇がご小休された本陣の離れ座敷を復元した記念館が建ち、「御幸亭」と命名されている。その前の庭園は「松榧園」といい、山岡鉄舟が命名したという。「御幸亭」ではお茶券を買うとお饅頭とお抹茶が頂ける。
 本陣の塀の外側、石垣に沿って水場がある。(左写真) かって「馬の水呑場」になっていた水路である。峠を越えてきた馬はさぞや沢山の水を飲んだことと思う。水路にはホテイアオイが繁茂し、金魚が泳いでいた。
 本陣の西斜め向かい、黒塀の中に寄せ棟、瓦葺、平屋、白塗り壁の建物がある。明治時代、郵便局舎であったという。
 平野氏宅の先におもしろ宿場館がある。門の脇に倉沢の望嶽亭藤屋の当主 松永宝蔵氏の弥次喜多の絵の等身大の人形が据えられていた。(右写真) 同じ建物に海の庭というレストランがある。午後0時49分と、昼をとっくに回っていたので昼食をそこでとも思ったが、その先の井筒屋に入った。

 今日のお昼は由比で桜海老を食べると決めていたので、井筒屋では桜海老のてんぷら蕎麦と鉄火巻を食べた。

 駿河湾で桜海老が獲られるようになったのは、今から107年前、地元の漁師が偶然流し網を海底に落としてしまい、引き上げたところ桜えびが入っていた。それをきっかけに、この地に桜えび漁が始まったのだという。それほど大昔の話ではない。以来、由比といえば桜海老、ピンク色の桜海老を浜で干す風景は冬の風物詩となっている。

 女房が勘定の支払いのとき、桜海老の佃煮の小分けしたものを二つ頂いた。そばの由比川橋の完成記念としてお客さんに配っているのだという。

 勘定を済ませる女房を待つ間に、向かいの建物の前に立派なステンレス製の案内板を見つけた。清水銀行由比本町支店の建物の案内である。小さいながらも大正時代に竣工した洋館として国の有形文化財として登録されたという。(左写真)
 由比川橋の手前海側に「ばったり床几」というベンチがあった。折りたたんで片付けられる床几である。(右写真)
 由比川橋には新しい広い橋が架かっていた。(左写真) 欄干は金属板に刻み込んだ東海道の浮世絵で飾られていた。

 女房が美味しかったからと春埜製菓のたまご餅を買う。「豊積神社・桃源寺の夫婦イチョウ」を見ておこうと、街道筋から右へそれて桃源寺へ行く。こちらは雌株ゆえ銀杏がいくつも落ちていた。入口に双体の道祖神があった。(右下写真) 二人で持った御幣が相合傘のように見えた。

 豊積神社の雄株もデジカメ写真で撮ったが、どちらもなぜか写真が残っていない。失敗してしまったようだ。豊積神社には太鼓の石像がある。(左下写真) 無形文化財のお太鼓祭りを記念したものである。

 街道に戻ると由比の町ではお祭の準備が進んでいた。(右写真) 街を飾る提灯、祭り装束の若者、満艦飾の屋台などでそれが知れる。午後2時9分、この後、まだサッタ峠を越えなければならない。池田酒店で飲料を購入する。出てきた女房は夕方から山車が出るから見ていくように誘われたという。

 由比駅の手前の公衆トイレ前に「由比町今宿」の道しるべがあった。

由比宿 宿境まで十三町 →【由比町 今宿】→ 興津宿 宿境まで一里三十二町

 旧東海道はJR線を越して国道一号線に通じる道から分かれて、山に向かう道をとり、寺尾の集落に入る。この辺から古い平屋の家並みが続く。(左写真)
 午後2時31分、山側に名主の館「小池邸」があった。(右写真) 入口の箱に一人100円入れて入場する。最近まで当主が一人暮らしでいたが、亡くなられたので町で買取り、整備して中を公開するとともに、街道の休憩所として開放しているという。庭に水琴窟があった。小砂利の上に水を垂らすと澄んだ音が聞こえる。竹の筒をあてがい耳を付けると、よりはっきりと聞こえた。じっと聞いていると気持ちが静まる。
 小池邸の斜め前に、古い民家を改造した「東海道あかりの博物館」がある。(左写真) 今日は先を急がねばならないのでそこも通り過ぎた。

 東倉沢の八阪神社では急な石段の入口にお祭りの飾付がされていた。西倉沢に入ると古い町並が続く。海側に間の宿本陣跡の建物があった。
 その先には明治天皇が御休憩された茶店の「柏屋」があった。(右写真) 
 さった峠の登り口の海側に、間の宿の茶店であった望嶽亭藤屋がある。(左写真)
 店先にお婆さんがいたので、声をかけた。「御主人は?」と聞くと、去年、心臓であっけなく亡くなり、明日が一周忌だといい、涙ぐみそうになる。「そうですか。亡くなられたと聞いた気がしたけど、本当でしたか。何年か前、ご主人に呼び止められて色々お話を聞いたことがあります。」 そんな会話の後、すぐそこまで用を足して来るから少し待ってくれ、案内するから、といって、お婆さんは表に出て行った。我々は何となく店番をする羽目になってしまった。

 故松永宝蔵氏から聞いた話を記録した文を探し出したので、以下へ書き記す。

 さった峠入口の一里塚の標識をバックに写真を撮っていると、向かいの店屋から親父が出て来て、シャッターを押してくれた。親父が寄っていけば、と招き入れた店先にはミカンがあり、甘い蜜柑だから食えと勧める。そんなに甘い蜜柑ではなかった。

 その店は望嶽亭藤屋といい、かってテレビ番組で見たような気がする。案の定、テレビに出た折の出演者の色紙が数枚飾ってあった。その親父は、昔、画学校で少しデッサンを勉強したことがあって、趣味で漫画風の人物絵を画いていた。

 色紙に広重の東海道五十三次を背景に、弥次喜多を漫画風に描いてみた所、注目されて、再三テレビに取り上げられ、元は百姓だが、今は絵描きが本業のようになってしまった。今度はその弥次喜多の五十三次が本になるのだという。確かにユーモラスで特徴のある人物画である。途中で、「空き缶を捨てるな」と書いた地元の自治会の看板にあった絵と同じだと思い、聞いてみると、それも頼まれて画いたのだという。

 親父は奥さんに促されて、さらに奥の土蔵に招じ入れ、座敷の真ん中に置かれたガラスケースに入った古いピストルを見せ、山岡鉄舟のピストルだと言う。そして何故そのピストルがそこにあるのかという昔話を、初めは口頭で語り、途中から自分の声で講談風に語ったテープを持ち出して聞かせた。

 明治元年3月7日、官軍が江戸へ向かって攻め上って来た時、西郷隆盛と山岡鉄舟の会談が駿府で行われ、西郷・勝会談が設営されて、結果、江戸城の無血開城が行われたことは有名な話である。

 当時西郷は駿府にいたが、既に先鋒はさった峠まで来ていた。山岡鉄舟は、足を傷めた案内役の薩摩藩士を、先を急ぐ余り三島に残して、夜に無謀にも単独突破しようとした。さった峠で官軍に誰何され、追い掛けられて、背に銃声を聞きながら逃げ戻り、峠の坂口で休み処をしていた当家藤屋に逃げ込んだ。

 何か事情のある侍だと感じた当主の曾祖父がとっさに土蔵に匿い、漁師の服装に着替えさせて、土蔵の隅に今もある秘密の抜け口から、当時はすぐ裏にあった海岸へ逃がし、さらに繋いであった舟で夜陰に紛れて、清水の次郎長の所へ訳を告げて送ったという。次郎長は若い時に当家の山に手伝いに来ていたこともあって、当主と親交があった。山岡鉄舟は次郎長の所で服装を整えて、駿府での西郷隆盛との会見に臨むことが出来た。

 一方、藤屋では残った武家の出の内儀が官軍と堂々と渡り合い、家捜しにも耐えて、最後には官軍の武将が無礼を詫びて迷惑料を置いて行ったという。

 ピストルは漁師の服装に着替えた折、持っていてはまずいと、ここへ置いて行ったものである。後日、明治政府の高官になった鉄舟がここへ立ち寄ったが、もう旧式になってしまったため、そのままここへ記念に置いて行ったものである。


 成り行き上、店の前を通る歩き客に、店の人はすぐに戻って案内してくれるよ、と呼び込みをする。青年が一人、店に入ってきた所に、お婆さんが戻ってきた。

 我々と青年の3人に、主人が残した数々の作品や展示物を説明した後、奥の土蔵に案内して、あの物語をとつとつと語った。話にはかなり省略があったり飛躍があったりしたが、主人のやってきた望嶽亭藤屋の案内ボランティアを引き継ごうとする気持ちは十分すぎるほど判った。

 昔の通りピストルはテーブルの上にガラスケースに入って陳列されていた。(右写真) もう一つ、あの時にはなかった展示品があった。興津の水口屋に昭和天皇皇后両陛下が宿泊されたときの寝具である。もともとは純白の蒲団であったのだが、今はカラー模様のカバーが掛かって押入れに納まっていた。水口屋が廃業するときに、その一部を親しかった当家に預けて、保管を頼まれたのだという。

 当主が本になると話していた画文集が「東海道は日本晴 五拾三次道中記」という書名で店先に並んでいたので、「絵で見る 次郎長一代記」という絵入りの小冊子とともに購入した。そして、表まで送って出てくれたお婆さんと女房を店先でカメラに収めた。(左上写真)

 望嶽亭藤屋の向かい、さった峠の登り口に一里塚跡の標柱と案内板があった。登り坂をはさんで反対側に、「由比町倉沢」の道しるべがあった。

由比宿 宿境まで三十一町 →【由比町 倉沢】→ 興津宿 宿境まで一里十四町
 峠を登りきったところに、駿河湾をバックに二基の古い石碑が立っていた。大きいほうは「さったぢざう」と刻字があり、真中で二つに折れたものをつないである。小さいほうは「さったぢざうミち」とあり、「延享元甲子年六月吉日」とある。「延享元甲子年」は1744年である。(左写真)

 「さった地蔵」とは興津井上町(旧さった村)所在の東勝院の通称で、この先で東海道から分かれて参詣道がつながっている。

 石碑の隣に「由比町 さった峠」の道しるべがあった。

由比宿 宿境まで一里六町 →【由比町 さった峠】→ 興津宿 宿境まで一里三町

 車道のさった地蔵道を右手に分けて、旧東海道はみかん畑の斜面に付いた野良道を進む。旧東海道は遊歩道として整備されていた。

 遊歩道に入ってすぐに展望台と休憩所があった。そこには「さった峠山之神遺跡」の石碑が建っていた。蜀山人の狂歌に詠われた「山の神」は昭和七年に西倉沢の鞍去神社へ遷座されている。

 展望台の先に国道と東名高速が交差する写真スポットに立った。ポスターなどで有名なポイントである。足らないのは富士山が見えないことである。(右写真)

 遊歩道を行くと枇杷の木にからす瓜が絡まっているのを見つけた。玄関先に季節のものを飾っている女房の要望に応えて斜面を少し降りていただいてきた。(左写真)

 午後4時、新しく設置された「東海道さった峠」の写真入りの石碑があった。
 興津側からさった峠を登りきって駿河湾を見晴らす場所に、「清水市 さった峠」の道しるべがあった。安藤広重の五十三次「由井」で崖の上に旅人が描かれているが、道しるべはその辺りにある。そばに萩の花が満開であった。(右下写真) こんな花が家の庭に欲しい。そばにさった峠に関する案内板があった。
 
由比宿 宿境まで一里十五町 →【清水市 さった峠】→ 興津宿 宿境まで十七町
 昔から交通の難所、戦においても重要な戦略地点で、幾度か戦場となってきた。その案内板もあった。
 さった峠を下り東海道線を横切り、興津川を渡って、興津の町に入る。国道52号線と国道1号線との交差点、興津中町交差点に、現代の道しるべとしての国道52号線起点の標識があった。その先の旧身延道入口に鬚題目と並んであった「身延山道」の道しるべと並べてみた。(右下写真)

 興津中町交差点からすぐのところに、「女体の森 宗像神社」の石標があり、鳥居の奥に松の森が見えた。興津の巨木としてふさわしい巨木があるかもしれないと夕暮れの社域にむかった。参道に紅白縞の提灯が連なっていた。本殿前に大きな焚き火が出来、子供たちが祭りのおさらいをしていた。
 本殿右手の通路を進んだ右側に松の巨木があった。この松を興津宿の巨木としよう。(左写真)
 富三島幸水という人の奉納した短歌の看板があった。

潮風(しほ)受けて 幾年経にけん 老大松 強く優しく 生き生きと見ゆ

 旧東海道に戻って、少し進んだ右手横町の角に身延道入口の鬚題目の石碑があった。この角には往時、ごく小さな日蓮宗石塔寺があったというが、身延詣の旅人に身延道の入口を示す「法華題目堂」だったといわれている。現在は一角に鬚題目を中心にいくつかの石像物が残っているのみで民家に囲まれてしまっている。(左写真)
 その後、一里塚址の石柱を見て、興津駅前交差点を右折し、午後5時7分、興津駅で本日の東海道歩きを終える。

 本日の歩数は 33,167歩であった。

  






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