



午前9時25分、興津駅を出発する。しばらくは旧東海道はバイパスが出来る前の旧国道一号線を行く。駅からすぐに東海道興津宿に出る。興津宿は道は広いが昔を思わせるものは何もない町並みだった。わずかに海側に何軒か昔の町屋が連なっていた。一番手前の米屋さんは最近の建物だが、その町並に合わせて町屋風に造られていた。(左写真)
次に宿場内を示すものとしては「興津宿東本陣址」の石柱(右写真の右側)が山側の道路端にあった。最近のもので、ウォークの時には「彫られた文字が黄色く塗られていた」と書いているが、黄色い塗料は洗ったようにきれいに取れていた。東本陣の市川家には同じ年に吉良上野介と浅野内匠頭が前後して宿泊したという宿帳が残っているという。
一方水口屋の先にあった「興津宿西本陣址」の石柱(右写真の左側)は同時期に造られたもののようだが、「こちらは黄色に塗られていなかった」と書いた。今は文字の部分が黒く塗られていた。それがどうしたと言われそうだが、文字の色に何か意味があるのだろうか。西本陣の手塚家は、東本陣・市川家と月番で本陣を営んでいたという。
清見寺ではウォーク時には正面の石段を上がって、『東海名区』の額の掛かった門を抜け、JR東海道線を高架橋で渡って境内に入ったが、今回は「清見関」や「榜示杭」の礎石の残る東側の門より入る。石垣の前に1300年前の清見関の礎石があった。(右写真の右) 駿河国は昔、志太・益津・有度・安倍・廬原・富士・駿河の七郡からなっており、清見関に近い廬原は軍事上重要な場所だったという。
午前10時12分、踏切を渡り坂道を登って、清見寺を東側から入る。鐘楼の先の本堂前に、『臥龍梅』と名付けられた梅の古木があった。(左写真) 立札に与謝野晶子の歌が添えられていた。
境内には文学碑や記念碑がいくつも建てられていた。最初に目に入った碑は咸臨丸乗組員殉難碑であった。「食人之食者死人之事」の碑文に一見、人食い人種の碑文のようだと思った。側の説明板に書き下し文が添えられていた。「人の食を食(ハ) む者人の事に死す」と。書き下し文を読んでも今一つ理解出来なかった。
境内左手に進むと小山の斜面に五百羅漢さんが思い思いの表情としぐさで、立ったり坐ったり、笑ったり怒ったり、居眠りしたり。小道具も杖、鉢、錫杖、珠、笏、巻物、楽器等など多彩である。誰しもここに来ると思わずカメラを向けてしまう。
清見寺から200mほど進んだ海側に、「西園寺記念公園」があった。ここは公爵西園寺公望の坐漁荘の跡地に造られている。公園内には「西園寺公記念・興津清見寺町公民館」が建ち、前庭に坐漁荘址の記念碑が建てられていた。
清見寺町と横砂町の境に波多打川が海に注いでいるが、その手前の海側に清見潟公園があり、井上馨の像が建っていた。(左写真) 興津地区まちづくり推進委員会が掲げた、漢文で書かれた碑文の読み方の詳しい案内板があった。書き写そうと思ったが、書き下し文が書かれているだけで判り難い。出来るなら現代語訳で書いていただければ若い人にもわかると思う。何とか乏しい知識で口語訳に挑戦してみる。何箇所か不明な箇所もあったが、井上馨のことだけではなくて、文を書いた、明治の大実業家渋沢栄一の人となりまで知れて楽しい。
旧東海道は高架の国道1号線バイパスを潜ってJR東海道線を右に少し進み、JR線の上を越して横砂に入る。すぐに右側に延命地蔵堂がある。地蔵堂の前には秋葉燈籠があった。(右写真) 「袖師ふるさとの路 20 延命地蔵堂・秋葉山常夜燈」の標識が出ていた。この後、同じ標識を何度か見ることになる。
この後、旧東海道は横砂から袖師へと江戸時代を感じさせる建物は何も無い町を進む。その中で、山側路傍に、「袖師ふるさとの路 22 念仏供養塔」(左写真の左)、「袖師ふるさとの路 10 延命地蔵」(左写真の中)、「袖師ふるさとの路 1 馬頭観音」(左写真の右)という標識が続く。念仏供養塔は横丁の角に自然石に念仏が刻まれていた。延命地蔵と馬頭観音はいまも信仰が絶えないようで、それぞれ小さな祠の中に丁寧に祀られていた。
さらに小さなお堂の前に、「袖師ふるさとの路 6 松島観音堂・津島神社」の標識があった。(右写真) 国土地理院二万五千分の一地図の2.5mの水準点のあるところである。お堂はお年寄りの憩いの家にもなっているようであった。
辻から本郷町に入り、蔵のある間口の広い古い商家を見て、午前11時45分を回ったので、音羽屋という蕎麦屋に入った。
旧東海道は魚町の交差点を左折して稚児橋に向かう。それを直進すると突き当たりに魚町稲荷神社がある。江尻宿の巨木を求めて道草したのだが、面白いものを見つけた。社殿左側にサッカーボールを模した大きな石碑があった。(右写真) 清水といえばサッカーの町といわれるが、清水でサッカーが始まったのは昭和30年代の初め頃からだという。
境内に入った左手にクスノキの巨木がある。(左写真) 神社の杜が清水市の保存樹林にしてされ、このクスノキはその代表木である。クスノキとしてはそれほど大きな方ではないが、江尻宿にもっとも近い巨木だと思うので、「江尻宿の巨木」にしてしまおう。
稚児橋から200mほど行った変則四叉路のもっとも右の道を取る。ここから珍しく真っ直ぐな道を進む。それを1kmほど進んだ左側に緋色の大暖簾の目立つ「追分羊かん」の本店があった。
「追分羊かん」の角には古い道しるべがある。(左写真の左) その横町を進むとかっては清水湊に通じていた。「追分」は道が左右に分れる所、分岐点である。道しるべは正面に「是より志ミづ道」、他の面に「南無妙法蓮華経」と読める。ここの追分は東海道と清水道の分岐点であった。
100mほど進んだ右側にその不動堂があった。(左写真) 真言宗延寿院の不動堂で室町時代後期の建造物として県の文化財に指定されている。四角のお堂に全面細かい碁盤の目状の格子戸が大変特徴的な建物であった。屋根は藁屋根だったのだろうが、その上から銅板で葺かれている。「大聖不動明王」の幟が沢山立っていた。辞書を見ると「大聖」は単に尊称のようだ。
不動堂のすぐ先の左側に都田吉兵衛供養塔があった。(右写真)
続いてショッピングセンターの前に「史跡 東海道 草薙一里塚」の碑があった。隣に大きな狸の焼物が置かれているのはご愛嬌であった。狸の焼物といえば信楽焼が有名だが、これもそれだろうか。
草薙神社の入口に鳥居がある。そのそばに古い道標が立つ。南面に「元禄十二年十一月吉日」、東面に「■■■くさなき大明神の道」、北面に「従是草薙大明神江■道」、西面に「此奥有草薙大明神」と何とか読める。
午後2時23分、遥か上の東名高速道路を潜って(右写真)さらに西へ進む。栗原に入る辺りから再開発で町並がすっかり変わってしまい、旧東海道が判らなくなってしまう。とにかく広い道を渡り、静岡鉄道の県総合運動場駅の前から斜めに西へ進み、JR東海道線にぶつかる。そこに「旧東海道記念碑」(左下写真)があった。そばのベンチに座りしばしの休息を取る。
JR線を渡って歩いて来た道の延長上に、斜めに西進する道があるのでそれを進む。後久橋を渡った右側に「静岡市 古庄」の道しるべがあった。(右写真) 後久橋はウォークの時は工事中であった橋である。
旧東海道は国道1号線に合流し、長沼の交差点を北へ渡り、国道から分かれて北側の旧道を進む。長沼には一里塚の標柱のほかに見るべきものはないと解っていたから探しながら歩く。女房もかなり草臥れているようだ。草薙辺りで終りにしたそうであったが、次回のことを考えるとどうしても静岡駅までは進めたい。
旧東海道は国道1号線を斜めに渡り、柚木の地下道を潜って再びJR線の南側に出た。地下歩道から階段で上った先に、「静岡市 曲金」の道しるべを見つけた。
ウォークの時に軍神社に入る細道について、「軍神社に入る車一台がやっと入れる程の横町にアスファルトに大きく『30km』の時速制限が書かれていた。これを通り抜けるには10km程の時速でそろりそろりと抜けなければならない程の所に、何の時速制限なのだろうと話す」と書いている。元の道に戻るのにその路地を通ったが、その時速制限はまだ健在であった。
道路の向こう側に珍しい看板を見つけた。(左写真) 「艾」という字、「あの字、何と読む?」と女房に聞くが、とっさに答えられない。「もぐさ」と読むと聞いて、若い子なら「もぐさって何?」と聞いてくるはずであるが、すぐ納得してしまうのが少し残念かも。しかし、もぐさを商う店がはたして成り立つのだろうか。不思議に思いながらも、確かめる気力は残っていなかった。帰ってから辞書を引くと「もぐさ」以外に「よもぎ」とも読む。
本日のゴール近く、時間も午後4時6分、さすが静岡の土曜日の繁華街である。人通りの多い中に最近建てたらしい「東海道府中宿 下伝馬本陣・脇本陣跡」の標柱があった。(右写真) さらにその先に「府中宿 伝馬町」の道しるべと「伝馬町の由来」を書いた小豆色の石碑があった。



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