第 12 回 
  平成13年11月17日(土) 
 晴れ
 興津宿−江尻宿−草薙−府中宿
 “清水次郎長は英雄だったのか?”



 前回、由比倉沢の望嶽亭藤屋で購入した「絵で見る 次郎長一代記」を見ると、侠客清水次郎長は明治になって49歳で侠客稼業から足を洗い、以来汽船宿の開業、英語塾の開設、富士裾野の開墾、清水港の近代化に尽力、その他医療、石油開発、出版、鉄道、など多彩な事業に手を染めた。

 清水次郎長と言えば子供のころラジオから流れる浪曲でおなじみで、海道一の親分としての次郎長であった。しかし、大親分の次郎長がまだせいぜい40代だったとは想像していなかった。自分の今の年齢よりはるかに若い。

 当時の子供達は親父達が聞く浪花節を脇で聞いて結構楽しんでいたと思う。テレビと違って情報不足の点は想像力で補っていた。「♪旅行けば駿河の国に茶の香り〜〜」 その舞台を女房と今日歩くことになる。山陰の片田舎の少年には想像すらできなかったことである。

 但し、次回の宇津ノ谷峠越えにそなえて、今日は興津駅から静岡駅まではどうしても進めておきたい。女房は次郎長の生家や墓所の梅蔭寺などに道草したいというが、二、三時間余分に掛かりそうで次の機会にせざるを得ない。

 午前9時25分、興津駅を出発する。しばらくは旧東海道はバイパスが出来る前の旧国道一号線を行く。駅からすぐに東海道興津宿に出る。興津宿は道は広いが昔を思わせるものは何もない町並みだった。わずかに海側に何軒か昔の町屋が連なっていた。一番手前の米屋さんは最近の建物だが、その町並に合わせて町屋風に造られていた。(左写真)

 元興津町役場が興津公民館になっている。その傍らに、円筒のレトロな赤い郵便ポストに並んで、興津宿の道しるべがあった。

由比宿 宿境までニ里十一町 →【清水市 興津宿】→ 江尻宿 宿境まで一里

 次に宿場内を示すものとしては「興津宿東本陣址」の石柱(右写真の右側)が山側の道路端にあった。最近のもので、ウォークの時には「彫られた文字が黄色く塗られていた」と書いているが、黄色い塗料は洗ったようにきれいに取れていた。東本陣の市川家には同じ年に吉良上野介と浅野内匠頭が前後して宿泊したという宿帳が残っているという。

 一方水口屋の先にあった「興津宿西本陣址」の石柱(右写真の左側)は同時期に造られたもののようだが、「こちらは黄色に塗られていなかった」と書いた。今は文字の部分が黒く塗られていた。それがどうしたと言われそうだが、文字の色に何か意味があるのだろうか。西本陣の手塚家は、東本陣・市川家と月番で本陣を営んでいたという。

 水口屋跡は東海道の海側に灰色のモルタルの塀に囲まれてあった。興津で有名な宿屋であったが、十数年前廃業し、現在は鈴与が譲り受けて、一部を「水口屋ギャラリー」として開放している。

 昨日から3日間にわたって、東海道400年祭を記念して、「宿駅旅情」と題して江尻宿・興津宿・由比宿の3会場でイベントが行われている。今日は興津の旧水口屋の「鈴与興津研修センター」で「講談と落語を楽しむ歴史の夕べ」が催されるという事で、準備で人々が立ち働いていた。(左写真)

 門を入るとすぐ左に石柱が2本立ち、それぞれ「興津宿脇本陣水口屋跡」 「一碧楼水口屋跡」と刻まれていた。(左上写真の円内) 側らに「水口屋跡」の案内板があった。
 「水口屋ギャラリー」には400年にわたる宿屋、水口屋の史料が展示されていた。訪れた著名人だけでもそうそうたる人たちである。興津は往時の写真を見るとすぐ南に風光明媚な海岸を望み、明治の元老−西園寺公望が坐漁荘を建てたのは余りにも有名である。他にも岩倉具視・井上馨・松方正義・伊藤博文といった政治家、大倉和親・川崎正蔵・説田彦助などの実業家が別荘を建てるなど保養地として有名であった。

 特に坐漁荘には政治家が西園寺の助言を求めて訪れ、「西園寺詣で」と呼ばれた。坐漁荘を訪れる政治家たちは水口屋に宿を取り、そこで行われた打ち合わせは、「小閣議」ともいわれた。

 昭和32年には昭和天皇皇后両陛下も宿泊され、そのときの寝具が倉沢の望嶽亭藤屋に残っていることは、前回に由比の倉沢のところで紹介した。

 その後、海は埋め立てられ、風光明媚な海岸は失われ、保養地としての役割を終えた結果、水口屋も廃業することになった。

 清見寺ではウォーク時には正面の石段を上がって、『東海名区』の額の掛かった門を抜け、JR東海道線を高架橋で渡って境内に入ったが、今回は「清見関」や「榜示杭」の礎石の残る東側の門より入る。石垣の前に1300年前の清見関の礎石があった。(右写真の右) 駿河国は昔、志太・益津・有度・安倍・廬原・富士・駿河の七郡からなっており、清見関に近い廬原は軍事上重要な場所だったという。
 清見関の礎石と並んで、徳川時代の榜示杭の礎石が掘り出され、置かれていた。サイコロ状の大石の上面に榜示杭の刺さる四角い穴が穿たれていた。(右写真の左) かって榜示杭のような石柱を立てるとき、基礎部分として石柱を差し込む穴を彫った大石を地中に埋め、そこへ石柱を差し込んで立てた。こうすれば倒れる心配はない。素晴らしい智恵だと思った。
 午前10時12分、踏切を渡り坂道を登って、清見寺を東側から入る。鐘楼の先の本堂前に、『臥龍梅』と名付けられた梅の古木があった。(左写真) 立札に与謝野晶子の歌が添えられていた。
 境内には文学碑や記念碑がいくつも建てられていた。最初に目に入った碑は咸臨丸乗組員殉難碑であった。「食人之食者死人之事」の碑文に一見、人食い人種の碑文のようだと思った。側の説明板に書き下し文が添えられていた。「人の食を食(ハ) む者人の事に死す」と。書き下し文を読んでも今一つ理解出来なかった。

 次に、高山樗牛の清見寺鐘声の文学碑があった。
 さらに、句碑が一面。作者は刻まれていたが読めなかった。句の案内板があった。
 塀越しに駿河湾が見えるが、港が整備されてしまい、三保も昔のようには一文字には見えにくい。その塀の内側に、山下清の「清見寺スケッチの思い出」の文が掲げられていた。
 境内左手に進むと小山の斜面に五百羅漢さんが思い思いの表情としぐさで、立ったり坐ったり、笑ったり怒ったり、居眠りしたり。小道具も杖、鉢、錫杖、珠、笏、巻物、楽器等など多彩である。誰しもここに来ると思わずカメラを向けてしまう。
 島崎藤村の小説「桜の実の熟する時」の案内板が堂宇の壁面に掲げられていた。五百羅漢像の中に知人の面影を見つけるシーンは昔からあった話なのだろうか。それともこの小説から始まったことなのだろうか。確かに様々な顔で二つと同じ顔が無い。
 清見寺の正面の門から出て、高架でJR東海道線を渡り、「東海名区」の額の掛かった門を潜って降りる。門前の真向かいに、「大正天皇在東宮海水浴御成道」と刻まれた記念石柱があった。往時は海水浴も出来た保養地だったのが、山下清の言葉の通り、「海はうめたて工事であんまりきれいじゃな」くなり、当時の様子を想像できるものは何もない。水口屋が廃業に追い込まれたのも納得できる。

 清見寺のつながりの石垣前に、「高山樗牛仮寓の処」の標石があった。「清見寺鐘声」はこの仮寓で聞いたようだ。
 清見寺から200mほど進んだ海側に、「西園寺記念公園」があった。ここは公爵西園寺公望の坐漁荘の跡地に造られている。公園内には「西園寺公記念・興津清見寺町公民館」が建ち、前庭に坐漁荘址の記念碑が建てられていた。
 清見寺町と横砂町の境に波多打川が海に注いでいるが、その手前の海側に清見潟公園があり、井上馨の像が建っていた。(左写真) 興津地区まちづくり推進委員会が掲げた、漢文で書かれた碑文の読み方の詳しい案内板があった。書き写そうと思ったが、書き下し文が書かれているだけで判り難い。出来るなら現代語訳で書いていただければ若い人にもわかると思う。何とか乏しい知識で口語訳に挑戦してみる。何箇所か不明な箇所もあったが、井上馨のことだけではなくて、文を書いた、明治の大実業家渋沢栄一の人となりまで知れて楽しい。

 ここに井上侯の壽像(ジュゾウ-生きているうちに作る記念の像)を造る。侯は今年76歳、気力旺盛で髪黒く、少しも老いぼれた様子がない。私の友人がかって侯の知遇を得て今日に到っている。そこで皆んなと相談して、像を建てて長寿を祝いたいと請うた。侯は許さなかった。皆んな請うことを止めなかった。その後ようやく許しが出る。ただちに侯の興津の別荘を見分して、像の設置場所と決めた。工人に命じて二百余日かかって出来る。
 その年の11月28日、侯の誕生日に合せて、大勢の客を招いて落成式を行った。私は侯と40余年の親交があったので、皆んながこの碑文を書くようにいうのでこれを記す。
 侯の政治的な功績は歴史的にも輝かしく世の中に知れわたっている。優秀な人材を求めることに大変良く努める。陛下の臣下が国家のために忠義を尽くすのはまさにこのように在るべきである。
 さて、興津の地は富士山を衿(えり)とし、大海を帯とし、遠くに三保を控え、近くに清見に接し、洲や渚がとびとびに続き、かすむように遠くまで続く波がほのかに見え、東海の絶景となっている。
 侯は早くからここに別荘を構え、庭園と池を設け、あずまやを築き、山を穿って泉水を引き、崖に懸かって下る水玉を踊らせ雪のような水煙を噴き、これを眺めれば絹糸のように見え、これを聞けば楽器のようである。
 侯はときどき遊びに来て、詩歌を吟じ、心のままに老境を楽しむ。何と、古い詩にいうように、英雄が頭(コウベ)をめぐらせばたちまち仙人になるものである。
 また、侯は昔、攘夷を翻して通好を唱え、反対する党派の襲撃に遭い、重傷を被ったが死ななかった。神の助けがあったが如くであった。近年、この別荘で病に罹り、九死に一生を得た。天の情けでなくて何であろうか。「天の情け」や「神の助け」は単に侯の幸いだけでなくて、国家の喜びである。それゆえ、私の友人の建像の行為も、ただ知遇に報いるだけではなくて、国家の喜びを表わしている。
 かくのごとく、建像の顛末を記し、後にここに訪れる人たちに告げる。
     明治庚戌十一月二十八日 男爵 渋沢栄一 撰及び書


 旧東海道は高架の国道1号線バイパスを潜ってJR東海道線を右に少し進み、JR線の上を越して横砂に入る。すぐに右側に延命地蔵堂がある。地蔵堂の前には秋葉燈籠があった。(右写真) 「袖師ふるさとの路 20 延命地蔵堂・秋葉山常夜燈」の標識が出ていた。この後、同じ標識を何度か見ることになる。

 この後、旧東海道は横砂から袖師へと江戸時代を感じさせる建物は何も無い町を進む。その中で、山側路傍に、「袖師ふるさとの路 22 念仏供養塔」(左写真の左)、「袖師ふるさとの路 10 延命地蔵」(左写真の中)、「袖師ふるさとの路 1 馬頭観音」(左写真の右)という標識が続く。念仏供養塔は横丁の角に自然石に念仏が刻まれていた。延命地蔵と馬頭観音はいまも信仰が絶えないようで、それぞれ小さな祠の中に丁寧に祀られていた。

 さらに小さなお堂の前に、「袖師ふるさとの路 6 松島観音堂・津島神社」の標識があった。(右写真) 国土地理院二万五千分の一地図の2.5mの水準点のあるところである。お堂はお年寄りの憩いの家にもなっているようであった。

 その先の辻町交差点で、旧東海道は国道1号線から右手に別れて商店街を進む。その三角地に「細井乃松原」の道しるべがあり、若い松1本と案内板があった。

興津宿 宿境まで二十七町 →【清水市 細井乃松原】→ 江尻宿 宿境まで三町

 辻町商店街には手作りの案内板が要所要所に立っていた。ベニヤ板の立札に紙の案内を張り、雨除けのビニールで覆ってある。400年祭のために作ったものであろう。建物や記念碑が残っているあるわけではないが、面白いので書き取ってみる。
 ここにいう秋葉山はもちろん遠州の秋葉山ではなくて、これより北西に700mほど行った、そばを新幹線が通る岡の上にある地元の秋葉山である。

 一里塚の案内板はカンナの植わった小さな庭の前にあった。(右写真) また、高札場の案内板はその向かいにあった。
 辻から本郷町に入り、蔵のある間口の広い古い商家を見て、午前11時45分を回ったので、音羽屋という蕎麦屋に入った。

 音羽屋を出てから、JR清水駅を左突き当たりに見る国道1号線を突っ切り、巴川に到る手前の清水銀座の交差点を左折する。商店街の左側に「江尻宿」の道しるべがあった。

興津宿 宿境まで一里四町 →【清水市 江尻宿】→ 府中宿 宿境まで二里二十三町

 清水銀座の商店街はウォークの時より随分きれいに整備されていた。しかし客足が少なく見えるのは時間帯のせいだろうか。きれいになっただけ閑散さが目立つ。この清水銀座一帯が江尻宿内で本陣や脇本陣等があったはずだが、いまは何も残っていない。

 旧東海道は魚町の交差点を左折して稚児橋に向かう。それを直進すると突き当たりに魚町稲荷神社がある。江尻宿の巨木を求めて道草したのだが、面白いものを見つけた。社殿左側にサッカーボールを模した大きな石碑があった。(右写真) 清水といえばサッカーの町といわれるが、清水でサッカーが始まったのは昭和30年代の初め頃からだという。
 境内に入った左手にクスノキの巨木がある。(左写真) 神社の杜が清水市の保存樹林にしてされ、このクスノキはその代表木である。クスノキとしてはそれほど大きな方ではないが、江尻宿にもっとも近い巨木だと思うので、「江尻宿の巨木」にしてしまおう。

 江尻城は神社となりの江尻小学校の辺りにあった。魚町稲荷神社は江尻城の鎮護の神社として造営されたもののようだ。神社入口左に案内板があった。
 旧東海道に戻って稚児橋を渡る。橋はすっかり新しくなっていた。それもそのはずで、2001年8月に完成したばかりである。橋柱に乗る4匹の子河童像はお色直しはしているがウォークの時見たものと同じ物のようだ。

 右写真のうち、左上の四つん這いの河童は北西側の橋柱、右上の肩に何か担いだ河童は北東側、左下の口に手を当てている河童は南西側、右下の跪き頭上に器を捧げる河童は南東側のそれそれ橋柱に乗っている。ウォーク時には気付かなかったが、左下の河童は女の子である。
 「いちろんさんのでっころぼう」というのは稚児橋を渡った入江町に残る郷土人形で、武者の人形の頭(かしら)をいくつも堅く束ねた藁に差したものである。「でっこうろぼう」はおそらく「木偶坊(でくのぼう)」であろう。その中に確かに河童の頭も混じっている。

 稚児橋から200mほど行った変則四叉路のもっとも右の道を取る。ここから珍しく真っ直ぐな道を進む。それを1kmほど進んだ左側に緋色の大暖簾の目立つ「追分羊かん」の本店があった。

 「追分羊かん」の角には古い道しるべがある。(左写真の左) その横町を進むとかっては清水湊に通じていた。「追分」は道が左右に分れる所、分岐点である。道しるべは正面に「是より志ミづ道」、他の面に「南無妙法蓮華経」と読める。ここの追分は東海道と清水道の分岐点であった。

 「追分羊かん」は創業元禄8年、ほぼ300年の歴史ある羊羹屋である。観光バスも立ち寄るという有名な店だという。午後0時48分、店に入ると客はおらず、灰色の作務衣の主人(だと思う)が出てきてお茶と羊羹を出してくれた。前回寄ったとき誰かが塩羊羹を買ったような記憶があったので、その話をすると、昔も今も塩羊羹は無いと言う。あれっ、記憶違いであったか。帰ってからウォークの記録を見ると、「・・・・昔は塩羊羹であったと言い、今でも販売している。・・・・は普通の羊羹に加えて塩羊羹も買った」とあった。これはどういうことだろう。

 羊羹は甘さを控えた上品な懐かしい味で、竹の皮で包まれていた。ビニールと違って竹の皮のまま切れ味良く切り分けができ大変便利である。清水の北部は筍の一大産地だから竹の皮には事欠かないのだろうと思った。昔は肉屋さんも竹の皮で包んでくれた。大変便利な、環境に優しい包装材だと思う。

 追分羊羹の主人は近くに都田吉兵衛の供養塔があることと、近くの不動堂は室町時代の建築であり一見の価値があるという情報をくれた。その中で「都田吉兵衛さんという人は大変立派な人だったようですよ」と地元の人としては以外にも都田吉兵衛寄りの感想であった。

 100mほど進んだ右側にその不動堂があった。(左写真) 真言宗延寿院の不動堂で室町時代後期の建造物として県の文化財に指定されている。四角のお堂に全面細かい碁盤の目状の格子戸が大変特徴的な建物であった。屋根は藁屋根だったのだろうが、その上から銅板で葺かれている。「大聖不動明王」の幟が沢山立っていた。辞書を見ると「大聖」は単に尊称のようだ。

 不動堂のすぐ先の左側に都田吉兵衛供養塔があった。(右写真)
 供養塔の案内文を読んで、地元の人の思いが少し解ったような気がした。清水次郎長といえども地元の庶民にはやくざで乱暴者として良くは思われていなかったに違いない。その次郎長がここで都鳥一家を待ち伏せし、この地で討った。この辺り一帯が血で汚れ、追分羊羹の店先もその例外ではなかったはずである。「その是非は論ずべくも無いが」とのことばに気持が表れている。都田吉兵衛びいきになるのもやむをえないか。

 供養塔からすぐのところに「元追分」の道しるべがあった。

江尻宿 宿境まで七町 →【清水市 元追分】→ 府中宿 宿境まで二里七町

 間もなく巴川の支流の大沢川を渡る。この橋を金谷橋といい、案内板があった。東海道の往時の様子を伝えていると思われるので書き写す。
 JR東海道線を渡り、狐ヶ崎に到る。かってここには狐ヶ崎遊園地があった。「茶っきり節」がそのオープン時のコマーシャルソングであったことは有名な話である。昭和の初めのことである。現在はショッピングセンターになっている。その角に「東海道」の案内板があった。実はすぐそばに鳥居があり、「久能寺観音堂道標」があったはずなのだが、見落としてしまった。
 狐ヶ崎の隣の上原に入ると左側に一段高く「上原延命子安地蔵」があった。石段を上がったすぐ左に槙の木の古木がある。樹齢二百数十年、幹周囲2.2m、巨木には足らない。案内板があった。

 広い車道に出たところに、「清水市 有度」の道しるべがあった。

江尻宿 宿境まで二十四町 →【清水市 有度】→ 府中宿 宿境まで一里二十六町

 続いてショッピングセンターの前に「史跡 東海道 草薙一里塚」の碑があった。隣に大きな狸の焼物が置かれているのはご愛嬌であった。狸の焼物といえば信楽焼が有名だが、これもそれだろうか。
 草薙神社の入口に鳥居がある。そのそばに古い道標が立つ。南面に「元禄十二年十一月吉日」、東面に「■■■くさなき大明神の道」、北面に「従是草薙大明神江■道」、西面に「此奥有草薙大明神」と何とか読める。

 草薙神社はここから南方1.3kmのところにある。草薙神社といえば日本武尊の草薙の剣の伝説で有名である。また神社には無形文化財の流星(龍勢)が伝えられている。戦国の世の狼煙(のろし)を現代に引き継いだロケット花火『流星(龍勢)』はあちこちに祭りの形で残っている。因みに昼は『龍勢』、夜は『流星』と呼ぶのだそうだ。境内には樹齢1000年の大クスがあり、かって見に行った。朽ち倒れながらも、なお生きていて、龍がのたうっているように見えた記憶がある。

 草薙駅の前から、旧東海道は広い通りの一本北側、住宅地の中の道を進む。右へ左へ軽くカーブしながら西へ進む。その道のつき具合だけが旧東海道の面影であった。

 この辺りのウォーク時の記録に、「少し歩くと広い通りに出て、向こうへ続く旧東海道と、ガードレールの中央分離帯で遮られていた。渡る方法が思い浮かばず、車道を横切り、中央分離帯沿いに歩いて分離帯の切れ目で向こうに渡る。折悪しく、若者を違反で捕まえていたお巡りさんの前を通ることになってしまった。そこでおじさん達はお巡りさんに『横断歩道を渡って下さい』ともっともな注意を受けてしまった」とあるが、そんな場所に当らずに真っ直ぐ歩いてきた。旧東海道歩きが盛んになって、歩きやすく改良されたのかもしれない。

 午後2時23分、遥か上の東名高速道路を潜って(右写真)さらに西へ進む。栗原に入る辺りから再開発で町並がすっかり変わってしまい、旧東海道が判らなくなってしまう。とにかく広い道を渡り、静岡鉄道の県総合運動場駅の前から斜めに西へ進み、JR東海道線にぶつかる。そこに「旧東海道記念碑」(左下写真)があった。そばのベンチに座りしばしの休息を取る。

 旧東海道はJRで途切れているが、近くに踏み切りは無い。幸いすぐ右手に車1台がやっと通れる地下道があるので、それを潜って渡るのが旧東海道に最も近いと思う。

 JR線を渡って歩いて来た道の延長上に、斜めに西進する道があるのでそれを進む。後久橋を渡った右側に「静岡市 古庄」の道しるべがあった。(右写真) 後久橋はウォークの時は工事中であった橋である。

江尻宿 宿境まで一里十九町 →【静岡市 古庄】→ 府中宿 宿境まで三十町

 旧東海道は国道1号線に合流し、長沼の交差点を北へ渡り、国道から分かれて北側の旧道を進む。長沼には一里塚の標柱のほかに見るべきものはないと解っていたから探しながら歩く。女房もかなり草臥れているようだ。草薙辺りで終りにしたそうであったが、次回のことを考えるとどうしても静岡駅までは進めたい。

 長沼の一里塚は人家にくっ付くように立ち、周りを植木鉢で囲まれて妙に馴染み、危うく見逃すところであった。(左写真) 国道に出る前に護国神社に立ち寄りトイレを借りる。午後3時17分、神社の杜には夕闇が忍び寄り、先へ気がせく。

 旧東海道は国道1号線を斜めに渡り、柚木の地下道を潜って再びJR線の南側に出た。地下歩道から階段で上った先に、「静岡市 曲金」の道しるべを見つけた。

江尻宿 宿境まで二里五町 →【静岡市 曲金】→ 府中宿 宿境まで八町

 府中宿の巨木はこの先の「軍神社のクスノキ群」に決めていた。町並の向うにすでにクスノキの木立が見えていた。

 軍神社にはクスノキの巨木が点々と九本ある。すでに傾いた日差しに当って、クスノキ群はのどかであった。中でも最も太そうなのが境内北西隅のお年寄りが興じるゲートボール場のそばの右写真のクスノキである。おそらく幹周りが7.45mの巨木である。このクスノキを「府中宿の巨木」としよう。

 ウォークの時に軍神社に入る細道について、「軍神社に入る車一台がやっと入れる程の横町にアスファルトに大きく『30km』の時速制限が書かれていた。これを通り抜けるには10km程の時速でそろりそろりと抜けなければならない程の所に、何の時速制限なのだろうと話す」と書いている。元の道に戻るのにその路地を通ったが、その時速制限はまだ健在であった。

 再々度JR線を地下道で潜り、国道1号線の曲金の交差点を突っ切り、府中宿に入る。伝馬町に入った左側に「久能山東照宮道」の新しい道しるべ(右写真)があった。
 道路の向こう側に珍しい看板を見つけた。(左写真) 「艾」という字、「あの字、何と読む?」と女房に聞くが、とっさに答えられない。「もぐさ」と読むと聞いて、若い子なら「もぐさって何?」と聞いてくるはずであるが、すぐ納得してしまうのが少し残念かも。しかし、もぐさを商う店がはたして成り立つのだろうか。不思議に思いながらも、確かめる気力は残っていなかった。帰ってから辞書を引くと「もぐさ」以外に「よもぎ」とも読む。

 本日のゴール近く、時間も午後4時6分、さすが静岡の土曜日の繁華街である。人通りの多い中に最近建てたらしい「東海道府中宿 下伝馬本陣・脇本陣跡」の標柱があった。(右写真) さらにその先に「府中宿 伝馬町」の道しるべと「伝馬町の由来」を書いた小豆色の石碑があった。

江尻宿 宿境まで二里二十二町 →【静岡市 府中宿 伝馬町】→ 丸子宿 宿境まで一里三町
 午後4時12分、江川町の五叉路の交差点で本日の旧東海道歩きを終える。本日の歩数は 33,929歩であった。







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