第 14 回 〔前半〕
  平成13年12月24日(土) 
 快晴、風おだやか
 岡部宿−横内(岩村藩領)−藤枝宿−青島− 
 “藤枝宿で米寿の祝いを考える”



 女房の父が米寿を迎え、この暮れに内輪でお祝いをするからと女房の弟から連絡があった。目下の女房の悩みは子供たちに持たせるお祝いを何にしようかということである。そんな悩み(?)を抱えながら東海道歩きに出かける。

 女房の父は私の歩きの先達である。父が教員退職後、歩くことなど意識の外であった自分を夏山へ誘ってくれた。毎年夏に、西穂高岳を手始めに、白山・八ヶ岳・白馬岳・立山・木曾駒ヶ岳・赤石岳・甲斐駒ケ岳・富士山などを登った。二十年前の話である。父は近頃では長い歩きは無理なようだが、自分は山道を平らな道に変えて歩きを続けている。

 今日は「岡部松原」のバス停がスタートである。前回と違って気持良く晴れて風もない。9時30分頃から歩き始める。デジカメに時間が写し込めて、今までは正確な時間を把握できていたが、今回知らない間に設定がずべてクリアされてしまっていて、本日の時間はアバウトになる。

 ウォークの時は岡部の松並木について次ぎのように書いている。

 岡部の町を外れると旧国道1号線の広い道に東海道の松並木が残っていた。松のための緑地が残してあって、立派な松が残っている。しかし枯れるものもあるらしく歯抜けになっていて残念である。枯れるのは自然の摂理なのだから、後代を植えて行けば良いと思われるのだが、そんな様子が伺えないのが残念である。

 現在、岡部の松並木は歯抜けになったところが補植されて、並木としての連なりをきれいに取り戻している。(左写真) 考えた通りにして頂き脱帽である。岡部に巨木を見つけられなかったので、この松並木を「岡部宿の巨木」としよう。

 旧東海道は国道1号線の藤枝バイパスを潜り、国1から右へそれて藤枝市横内の町内に入る。ここは美濃の岩村藩の飛領地であった。入口右手に「岩村藩領傍示杭」が木柱で復元されていた。(右写真)
 町内には旧街道の面影はないが、往時の建物や小路の標示木杭があちこちに立っていた。左側に慶長四年(1599)に開山の慈眼寺がある。境内には美濃岩村藩横内陣屋三代目代官田中清太夫の墓といわれる代官地蔵尊(左写真の左)が立ち、前庭には水琴窟があった。水を落すとかすかな澄んだ音が聞こえた。また門前には変わった秋葉燈があった。(左写真の右)

 朝比奈川に架かる横打橋を渡る。東方に青空にくっきりと高草山を主峰にした山稜が見えた。国1に出る左手に「従是東巖村領 横内」の入口の物と対になる傍示杭があった。ここまでが岩村藩である。

 仮宿の交差点で国道を斜めに横切って旧東海道は国道の南側に移った。目の前に笠を広げたような松が一本立ち、「従是西田中領」の傍示石が建っていた。(右写真) これは復元されたもので、本物は田中城跡の西益津中学校正門脇にある。

 後日、写真を撮ってきた。左下写真の左が復元されたもので、右が本物である。本物は明治になってから不要になり、長い間、民家の靴脱ぎの台石となっていたという。

 藤枝市鬼島で一軒の民家の前にケースに入れて飾られた変わった物を見た。細かい竹細工の友釣りをする河童の人形である。(右写真) 覗いていると、奥さんが戻ってきて、主人が趣味で作った人形だが、主人も亡くなってしまって、出しておくと無くなってしまうこともあるが、皆さんに見てもらいたいので展示していると話す。

 すぐ先の左手の民家の前に「史跡一里塚跡」の木製の標柱があった。標柱の側面には「東海道 百八十里塚 江戸から四十八番目」と記されていた。「百八十里塚」の意味がよく判らない。

 旧東海道は葉梨川に架かった八幡橋を渡り、川に沿うように右手に進む。八幡橋を渡ってまっすぐ進む道は田中城の平嶋口に通じていた。駿府の徳川家康が田中城に入るときにこの道を使ったことから「御成道」と呼ばれている。家康はこの田中城で食した鯛の天ぷらにあたって亡くなったといわれる。

 八幡橋を渡った右手に古い「東海道」の標石が斜めに立っていた。(左写真の左) またその先に妙なものが立っていた。(左写真の右) 鉄柱に錆だらけの円形の鉄板がぶら下がっている。そこに微かに「鬼島 非常板 八報」の文字が見えた。鉄柱にはバチが添えられていた。これは多分非常の時に半鐘代りに叩くのであろう。街道に他にも幾つかあった。

 前方の街道に大きな木立が見えて、右側の須賀神社に楠の巨木があった。(右写真) ここへは何度も来ていて、もちろん「藤枝宿の巨木」にと考えていた。

 最初に出会った印象を「巨木巡礼」で次のように書いている。

 根元に向けて幹が末広がりで、子供がたやすく攀じ登れるようなスロープをなしていて、幹がそれらしくはげていた。しかし、いまは登って遊ぶ子供もいない。子供が減り、しかも忙しすぎるのであろう。裏へ回ると大きな洞が口を開けていた。

 この木とも出会ってから数年の付き合いである。この短い間にこの楠も確実に年を取り、以前には無傷であった幹に無粋な治療痕が目立つようになった。大きな洞には蓋がされて写真に入らないようにするのに苦労する。またかっては自由に遊べたのに今は周りがロープの柵でガードされていた。
 須賀神社のすぐ先に鐙ヶ渕の観音堂がある。(左写真) 昔、葉梨川は今よりずっと南に蛇行して、この観音堂の西側で鐙(あぶみ)の形の渕をなしていた。渕の側らに生えていた柳の大木にまつわる伝説が残っている。
 石段を十数段登った所に観音堂があった。観音堂の右側には双体の石造が三基並んでいた。双体といえば道祖神を想像するが、少しづつ姿の違う三基は街道にあったものなのだろうか。

 街道に戻って、昔の鐙ヶ渕の形に添うような逆S字の先、路肩に傾いた標石があった。(右写真) 「是ヨリ橋ヲ渡リ 右川ニ沿ヒ八幡橋 左山に沿い下薮田」と読める。後日、この標石について地図を見ながら考えたが、この標識の意味と位置関係が良く理解出来なかった。川筋が変わったのが、標石が移動したのかどちらかであろう。

 旧東海道は水守の交叉点で再び国道1号線を斜めに渡り、国道1号線の北側に出て藤枝宿に入って行く。右側歩道に新しい白木に「東海道藤枝宿東木戸跡」と書かれた標柱があった。(左写真) ここが藤枝宿の東の入口である。ここに「木戸口染物店」というお店があるはずなのだが、ウォーク時も見逃し、今回もあたりが新しくなって、それらしいお店を見つけられなかった。

 広い通りを横切った角に花屋があった。女房が店の中に消えた。道すがら子供たちに持たせる父の米寿のお祝いは花の鉢にしようと話していた。つられて入ってみたが、長くなりそうなので早々に店を出て先で待つことにした。

 角の花屋が見通せる道路右側に秋葉灯篭があった。(右写真の左) 灯篭の前の「藤の里 歴史探訪 東海道藤枝宿絵図」という看板を見ながら待つこと10分、といってもアバウト。出てきた。

 左側の歩道に「白子由来記の碑」を探すが見逃してしまった。本能寺の変の直後、堺から伊賀・伊勢を越え東へ脱出する家康を、伊勢白子の小川孫三が手引きして逃がした。その功で小川孫三は藤枝宿の一郭を与えられ、諸役を免除された。以来この町は白子町と呼ばれている。その由来を書いた碑であるのだが。そしてまた花屋に女房が消えた。

 右手に蓮生寺の前に、「藤枝宿 長楽寺町」の道しるべがあり、その左にはまた様式の違う秋葉常夜燈があった。(右写真の中) 短い四本足の灯篭が石段のついた台の上に載っている。

岡部宿 宿境まで一里十四町 →【藤枝市 藤枝宿 長楽寺町】→ 島田宿 宿境まで二里九町

 熊谷山蓮生寺は源氏の武士熊谷直実が出家をして蓮生法師となり、藤枝の長者の帰依を受けて開いたお寺である。門前には「熊谷入道古跡」の石碑が壊れそうな所をワイヤーで縛られて立っていた。(左写真) 蓮生寺は植え込みに挟まれた細い道を入った奥にあった。

 追いついて来て、女房はいい花があったという。花穂が2本立てのシンビジウムで大きさの割りに安かったという。シンビジウムの値段の違いは株の大きさ、花穂の数(2本か3本かなど)、花穂が同時に咲いているかなどであると、聞いたばかりの知識を披露する。気に入っても買って持ち帰るわけには行かないし、ここまでは買いにも来れないだろう。

 蓮生寺の本堂と庫裏の間を裏庭に抜けると藤枝市天然記念物の「蓮生寺のイブキ」がある。(右写真) ウォークの時も見に来たが、幹部が周りの潅木に隠れてあまり大きさを感じなかった。
 街道に戻って、千歳交叉点の手前、若一王子神社の入口の角に、これもまたスタイルの違う宿内三つ目の秋葉常夜燈があった。(右上3連写真の右)

 千歳交叉点を渡った先の左側に、大慶寺の入口がある。大慶寺の由来を書いた案内板があった。
 境内の中央に「久遠のマツ」がデンと立っている。(左写真) 松の巨木が激減している現在、稀有な名木である。異例ではあるが、2本目の「藤枝宿の巨木」としよう。
 大慶寺の向かいに神明神社がある。(右写真) 本殿左手に案内板があった。
 神明神社の左隣にお稲荷さんがあり、「池波正太郎 小説 藤枝梅安の生地」の看板が出ていた。(右写真の左) 人気時代小説のヒーロー、仕掛人藤枝梅安はもちろん架空の人物であるが、自分の生まれについて、シリーズ第一作で梅安自身に語らせている。

 「おれはね、彦さん。まだ、お前さんにはなしてはいなかったが・・・・駿河・藤枝の生まれでね。親父は宿の神明宮の前で桶屋をしていたのだ、名前を治平といってね」

 お稲荷さんの裏に「明治天皇藤枝行在所址」の石碑が建っていた。神明神社前の広場の通り沿いには「藤枝宿 上伝馬町」の道しるべがあった。

岡部宿 宿境まで一里十九町 →【藤枝市 藤枝宿 上伝馬町】→ 島田宿 宿境まで二里四町

 その先の右側の角に「瀬戸谷街道」の標石があった。(左写真) 上伝馬で東海道から分岐して、木町を通って北に向かい、瀬戸谷の蔵田まで約10kmの街道を瀬戸谷街道と呼ぶ。蔵田の高根神社への信仰心がこの街道を整備させたと思われる。

 瀬戸谷川を渡る手前の右側に入ったところに正定寺がある。境内の右手に笠状に枝を張った「本願の松」がある。(右写真) 根元には自然石をすっぱり割った碑があった。
 瀬戸谷川に架かる勝草橋は架け替え中で架設の橋を渡る。ウォークの時は次のように書いている。

 瀬戸谷川の橋を渡ったすぐの所に「東海道一里塚蹟」の石柱があった。「江戸より50里」と刻まれていた。側の家からおばさんが出てきて、一里塚の事を書いた本があるから見せると言って、家から小冊子を取って来た。地元で発行した東海道マップと旧蹟の案内のパンフレットであった。ざっと見せて貰い礼を言って返す。

 橋架け替えのために辺りが変わってしまい、一里塚の標柱もおばさんに声を掛けられた家もよく確認できなかった。諦めて先へ進む。

 既に正午を過ぎた。旧東海道は五叉路の青木交叉点を渡り、再び国道1号線の南側に出る。食事はウォークの時にも昼食を摂った蕎麦屋の「岩久」に立寄った。

 旧東海道は国道の南側を沿ったり離れたりして西へ進む。街道左側に「田中藩領傍示石蹟」の標石があった。
 旧東海道が県道上青島焼津線に合流する三角地に鏡池堂がある。(右写真) 由来を書いた案内板があった。鏡池堂の軒下には渡辺崋山の揮毫と伝わる額が掲げられている。(右写真の左上) この地蔵は駿河国百地蔵に入っている。
 敷地内の隅には道路を背に、一面に六地蔵が彫り出された石像が祀られていた。背後に六地蔵が風化した古い石像も残っていた。(右写真)

 鏡池堂のすぐ先に右側に「古東海道蹟」の石碑(左写真の左)と案内立札、左側に「東海道追分」の石碑(左写真の右)と案内立札がそれぞれあった。
 「古東海道蹟」や「東海道追分」、次の「染飯茶屋蹟」や「千貫堤」の案内板を読むと、かっては大井川がこの辺りまで暴れていて、現在のように治水管理されるまでに水との闘いや流れに応じて東海道が変遷していく様子が知れて面白い。

 旧東海道を先へ進むと右手にゴルフ練習場が見え、街道右手に「染飯茶屋蹟」の石柱が立っていた。(右写真) その向かいには「市指定文化財 瀬戸の染飯版木」の標柱が立っていた。(右写真の左)
 山から山へ堤を築き、大井川の洪水を防いだという「千貫堤」が石野家の屋敷にわずかに現存するという。左角に石柱が立っていた。(左写真の左) 左写真の奥へ続く生垣のあたりの高まりが千貫堤の名残だという。
 続いて、街道右側に明治の学制発布後にできた最初の公立小学校があったという「育生舎跡」の石碑があり、街道左側には「田中藩領傍示石蹟」の標石があった。
 上青島に入って旧東海道は松並木の名残の中を進む。(左写真) 途中に松並木の中に「藤枝市 上青島の一里塚」の道しるべがあった。そして、道路側溝の内側に「東海道(上青島)一里塚趾」の石碑が立ち、側面に「南約十米 道路東 円形にて約百二十平米」と記載されていた。勿論現存しているわけではない。

藤枝宿 宿境まで一里五町 →【藤枝市 上青島の一里塚】→ 島田宿 宿境まで二十九町

 ほどなく、国道1号線と合流する。合流した辺りを一里山と呼ぶのは「上青島の一里塚」に由来するのであろう。国道に入ってすぐに島田市に入る。







このページに関するご意見・ご感想は:
kinoshita@mail.wbs.ne.jp

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送