第 14 回 〔後半〕
  平成13年12月24日(土) 
 快晴、風おだやか
 −島田宿−大井川川越遺跡−金谷宿 
 “がっかり多発のふるさと金谷宿”



 島田市に入って国道1号線を西進する。正確な時間はわからないが、もう2時をまわっているだろう。この辺りからゴールが気のなってきた。実は「東海道五十三次ウォーク」で一緒に歩いた、鈴さんからメールを頂いていた。鈴さんは東海道金谷宿の街道沿いに自宅がある。
 昨夜、今日の計画を急に決めたため、夜遅くメールを出しておいた。
 メールを読んでくれたかどうか判らないが、時間には立寄ろうと思ってきた。だからあと2時間少々で金谷までたどり着かねばならない。

 国道を1kmほど進み、JR六合駅前で旧東海道は一時北側に逸れて進む。旧東海道から北側は阿知ヶ谷である。北側に逸れる地点に「島田市 阿知ヶ谷」の道しるべがあった。

藤枝宿 宿境まで一里十町 →【島田市 阿知ヶ谷】→ 島田宿 宿境まで九町

 500mほど西進して、国道1号線に戻る。国道の南側の緑地帯で「島田市 道悦島」の道しるべを見ていると国道を東進する車から「お散歩ですか?」と声を掛けられた。会社の後輩である。散歩な訳ないだろうと思ったが、それだけ地元に来てしまったのだと思い返した。

藤枝宿 宿境まで一里十町 →【島田市 道悦島】→ 島田宿 宿境まで九町

 栃山川を渡る手前のお茶問屋の前に「昭和天皇御巡察之処」という石碑があった。(左写真) 側面に「昭和二十一年六月十八日丸三製茶工場」とあった。自分の生まれた一週間後のことである。人間宣言をされた昭和天皇の全国巡幸のひとこまであろう。東海道に明治天皇の足跡は沢山見たが、昭和天皇の足跡は初めてのような気がする。

 栃山川に架かる栃山橋を渡り、旧東海道は国道1号線から南側の左手に分かれ、島田宿に入って行く。その角に「島田市 島田宿」の最初の道しるべがあった。

藤枝宿 宿境まで一里二十五町 →【島田市 島田宿】→ 金谷宿 宿境まで三十三町

 女房が道すがらのお店の鯛焼きが美味しいといって、買いに立寄る。看板に「海道一の名物 鯛焼」とあったから、多分海道一美味しいのだろう? その先で女房の同級生が嫁に来ているお宅が街道沿いにあるからといって立寄る。お茶をよばれながら、女房がひとしきり東海道歩きの話題を弾ませて暇を乞う。いよいよ地元中の地元へ入ってきた。

 街中に入って、左側の島田信用金庫七丁目支店の前に「島田市 島田宿」の二つ目のの道しるべがあった。さらにその先の右側には歩道に「東海道島田宿一里塚阯」の標石が立っていた。(右写真)

藤枝宿 宿境まで一里三十四町 →【島田市 島田宿】→ 金谷宿 宿境まで二十四町

 左側のジャスコ前には刀の刃先をイメージした「刀匠島田顕彰碑」がある。(左写真) 島田といえば「島田髷」や「奇祭帯祭り」が有名だが、刀鍛冶の伝統があったことは知る人は少ない。子孫は江戸時代になって駿府に移り住み、島田鍛冶の伝統は絶えてしまったからである。
 街並が新しくなった本通五丁目の角に小さな庭が出来て、碑があった。(右写真) 日本最初の私設天文台のあったところという。こういう新しいものも100年経てば東海道の風景の中に溶け込んで行くのかもしれない。
 午後3時になった。新しく出来たからくり時計塔が動き出し帯祭りの奴が踊り出した。(左写真)

 松尾芭蕉は東海道を何度か行き来している。途中、幾つも句を残しているが、特に島田宿は川留めにあったこともあり、滞在して幾つか句を詠んでいる。大井川の川留めが残した文化とも言える。静岡銀行島田支店の前に「俳聖芭蕉翁遺跡 塚本如舟邸阯」の碑があった。(右写真)
 芭蕉については本通二丁目交叉点の島田信用金庫本店前にも碑があった。(右写真)
 本通一丁目の角に石柱の道標がある。風化していてよく読めないが、そこには「東 六合村境まで十八町十六間 青島町に至る 西 大井川渡船場迄二十四町六間 川根に通ず 南 島田駅迄一町 第一街青年会」と書かれている。渡船場や島田駅が出てくるから明治以降のものであろう。

 右手に大井神社の社叢がある。我々夫婦は大井神社はで結婚式を挙げた。もう30年も前のことである。今日は敬意を表して立寄る。実は島田宿の巨木をまだ決めていなかったので、この社叢に巨木がないかと思って立寄ったというのが正直なところである。大井神社の由緒を書いた石碑があった。
 本殿から南の参道を戻る途中に石の小さな太鼓橋があった。(左上写真)
 太鼓橋からすぐ右手に大きな自然石に注連縄を巻いた帯塚がある。(左写真) 島田で帯といえば勿論「帯祭り」の帯である。この帯塚も帯祭りにちなんだものであろう。
 大井神社入口には「道中飛脚奉納燈籠」があった。(右写真) 大井神社にはよく見ていくと川越連中や道中飛脚などの奉納した物が見られる。いかにも街道に縁の社である。
 「島田宿の巨木」は大井神社には見つけられなかった。旧東海道に戻ると街道を隔てた向かい側に木立が見えた。横丁を入った中に正覚寺というお寺があり、境内に形の良い、幹周囲4.0m、樹高21m、枝張25mのクスノキの巨木があった。(左写真) これを「島田宿の巨木」とする。

 旧東海道に戻って1kmほど西進したところから、旧東海道は島田宿大井川川越遺跡へ向けて左へ分かれる。

 国指定の「島田宿大井川川越遺跡町並」の東端に、明治23年築の桜井邸を改造した海野光弘版画記念館がある。(右写真) かって見学したことがあるが、静岡出身の夭折した版画家の美術館で、古い民家の中で見る懐かしい田舎の風景を描いた版画は見ものである。もっとも今日は先を急ぐので立寄らない。

 街道の両側には平屋の川越人足の宿が一番宿から十番宿まで十軒並んでいた。現在は四番宿と八番宿が不明のほか、民家として改造、改築などされているところもあるが、二番宿、三番宿、六番宿、十番宿は当時の面影を残している。それぞれ今も民家として人がすんでいるが、無住になって中を見学できる番宿もある。その他、人足の斡旋をした口取屋、そば屋、酒屋、荷縄を商い荷くずれを直した荷縄屋、補助的な役割を果たした年配の人足のたまり場の仲間宿、各番宿の世話やきが集まり相談した立合宿、人足が川札をお金に替えた札場、茶屋の橋本屋、旅籠の泉屋などが並んでいた。

 現在は町並は整備され、一部は復元され、人足の影こそないが往時の雰囲気を感じさせてくれる。(左写真) 何度か見学している川越遺跡は先を急ぐ本日は写真を撮りながらほとんど素通りとなる。しかしかって見逃していたので、「仲間の井戸」にだけは立寄った。町並の狭間の路地の先にその井戸はあった。(右写真)

   川越制度を一括して取り仕切っていた役所が川会所である。旧堤防の内側の右側にかっての川会所が移築再現されていた。(右下写真)
 川会所の前庭の左側に芭蕉の句碑があった。

馬かたは しらじしぐれの 大井川  はせを

 旧堤防の外側に何軒か家があり、更にその外側に河原石が積まれた「大井川堰跡」が残っている。(左下写真) 増水時には蛇籠を積んで水を防いだという。もっとも写真の石積は復元されたもののようだ。そしてそのすぐ内側の上手には八重枠稲荷神社があった。(右写真)

 ぜぎ跡のすぐ外側を左に50mほど入ったところに、かっては松の巨木があり、「朝顔の松」と呼ばれていた。現存すれば勿論島田宿の巨木に真っ先に選んでいただろうが、戦時中に松喰虫にやられ枯れてしまった。跡に朝顔目明観音として「あさがほ堂」が建ち、その前に10mほどに育った四代目の朝顔の松が植えられていた。(右下写真の左) お堂の中にその松から採った一枚板に漢詩が書かれていた。(右下写真の右)

 四代目の朝顔の松のそばに、巖谷小波の句碑があった。

爪音は 松に聞けとや 春の風

 句の上には在りし日の初代「朝顔の松」の雄姿がはめ込まれていた。(左写真)

 「朝顔の松」の反対側には島田市博物館がある。(右写真) 中に入ると島田宿と江戸の旅の関連文物が展示されている。中でも島田宿と川越のジオラマは楽しい。本日は素通り。角に「島田市 島田宿」の三つ目の道しるべがあった。

藤枝宿 宿境まで二里二十二町 →【島田市 島田宿】→ 金谷宿 宿境

 短い冬の日の日没が迫っていた。大井川の左岸土手上の道を川上に向って進む。旧国道1号線の大井川橋のすぐ手前の左側に「島田市 島田宿」の三つ目の道しるべがあった。

藤枝宿 宿境まで二里二十八町 →【島田市 島田宿】→ 金谷宿 宿境

 大井川橋の歩道(左写真) 上から、河原にわずかに流れる川筋を見下ろしながら、女房がこのくらいの水量なら川を歩いて渡ればよかったという。しかし天下の大井川、わずかな水量に見えても、とても徒歩で渡れるものではない。かってテレビで保存会の人たちが蓮台で越そうとしながらさして多い水量と思えないのに途中で引返し、辺りをぐるりと廻ってお茶を濁したのを見ている。以下は推量であるが、川越しといえども川は天然のままの川ではなくて、渡る場所は常に浅瀬に維持する整備が施されていたに違いない。今の川には水量は激減したが、日頃の整備は全くないから、とても徒歩で渡れるようなものではない。

 大井川橋を渡り、土手を左に200mほど進んだところから、旧東海道は土手を下り金谷宿に入って行く。すぐに川を渡る手前に水公園がある。400m程下に水神社があるが、その間の川辺に桜や梅が植えられた散歩道になっている。その公園の入口に東海道の道しるべがある。

島田宿 宿境まで十八町 →【金谷町 金谷宿 八軒屋橋】→ 日坂宿 宿境まで一里三十五町

 その隣に句碑があった。「天皇陛下御巡幸記念」とあるから戦後間もなくのものであろう。島田で見た石碑と同時期ではなかったのか。後日写真を取り直して、地元の石の特徴で剥落しかけた碑を解読した。(右写真)

みじか夜や 二尺落ち行く 大井川   蕪村

 与謝蕪村の句碑であった。しかし意味が理解できなかった。新潮日本古典集成の「與謝蕪村集」から捜したところ、大変な間違いに気付いた。ここに言う「大井川」は越すに越されぬ大井川ではなくて、京都嵐山の井堰を詠んだ句であることが判った。ユリカモメ(都鳥)がたわむれる写真とともによく見る風景である。あの川を大堰(井)川という。言われてみればあの堰は二尺(60cm)ほどである。誰の勘違いか、少しがっかりである。裏側に、寄付に応じたのであろう、町の昔の名士達が名前を連ねていた。

 金谷宿にも島田側と同じように川越の施設があった。今まで関連施設は何も残っていないといわれていた。最近、番宿の建築様式を今に残す建物が発見された。旧東海道の右側に旧加藤家の建物があった。(左写真)
 ところが、せっかく街道を歩く人たちに見学して貰う建物なのに、その前がゴミの集荷所になっていて、ゴミ袋が山になっていた。取り組みがばらばらである。わが町のことゆえ、がっかりするとともに大変恥ずかしい思いであった。

 さらにすぐ先の右側に、秋葉神社の石碑と祠のある一郭がある。ここはかって川高札場のあったところだという。(右写真−後日撮影)

 大井川鉄道の踏切の手前を150mほど南へ入った右手に宅円庵がある。時間がなくて通過したが、後日訪れた。天気の良い日、狭い境内に日本左衛門の首塚があった。
 白波五人男のモデル、日本左衛門(本名 浜島庄兵衛)の首塚と言われる墓石は小さな屋根が掛けられてあった。墓石には辞世の句といわれる、 月の出るあたりを弥陀の浄土かな と刻まれている。日本左衛門は見付宿の東のはずれの「遠州鈴ヶ森」と呼ばれる刑場で処刑されている。
 踏切を渡って左へ入った、大井川鉄道新金谷駅の前に「金谷川越し資料館」がある。これも後日訪れた。川越しの復元画や番宿を再現した模型(右写真) が展示されていて興味深い。

 鈴さんの自宅には時間的には間に合ったが、鈴さんは留守であった。少しがっかり。後日鈴さんからメールが来た。
 金谷町の駅前通りに金谷宿の面影はないが、書店の前に佐塚屋本陣跡、隣の農協前に柏屋本陣跡の標識があった。
 午後5時半に、暗くなった駅前に着いて、本日の夫婦旅を終える。本日の歩数は 37,112歩であった。

  






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