



宿場ごとに巨木を見つける試みを続けてきたが、地元金谷まで来てそれらしい巨木が見つからず困ってしまった。そこで、旧東海道から北へ3kmほど離れていて、掟破りにはなるが、「熊野神社のクスノキ」(左写真)を金谷宿の巨木としたい。
午前8時45分、金谷駅前から旧東海道歩きを始める。天候はくもり、夕方まで天気は持ちそうである。
旧東海道はJR東海道線のガードを潜って牧の原へ登っていく。ガードの先、階段を登った上に本遠山長光寺がある。工事中だった境内の左手に芭蕉の句碑があった。(左写真)
長光寺から旧東海道に降りて進む。右手の長光寺の斜面の木立の中に、「牧野原大茶園」の大きな石碑があった。このあと旧東海道を登りきった台地を牧の原台地と呼んでいる。全国の緑茶の約半分を生産する静岡県、その中でも最も緑茶生産量の多いのがこの牧の原台地である。この大地に広がる茶園面積は約五千ヘクタール、もちろん日本一の大茶園である。江戸時代、松などの雑木がはびこる荒地だった台地を、明治維新後、徳川家の幕臣や、橋が出来て職を失った大井川の川越人足の手により、茶園に開拓されたものである。
坂の両側に段になって軒の低い平屋の家屋が続いている。(左写真) 玉石を積んだ土台にのった小さな祠や火袋部分が抜けた自然石の秋葉燈籠が時代を感じさせる。(右写真) 宇津ノ谷の集落に似た家並みは、すぐにその上を横切る国道473号線で途切れた。
石畳茶屋のすぐ上に、庚申堂や鶏頭塚のある小公園がある。隅にある庚申堂はあの大泥棒の日本左衛門が衣装を替えたお堂だという。しかし現在の庚申堂は小さくて、中で着替えをするのは無理なようだ。昔はもっと大きなお堂だったのだろう。(右写真の左)
石畳の中間あたりに「すべらず地蔵」がある。石畳の復元後、地元の方によって奉納されたお地蔵さんである。お地蔵さんは六角堂に安置され、その上に同じく六角の屋根だけの鞘堂がかけてある。
全長430mの石畳の途中、すべらず地蔵で作業する人以外は誰にも出会わなかった。天候はくもり、両側が杉林で明るいとはいえない石畳は、誰かのひとり旅の記録に「怖かった」とあったが、その気持ちが判る気がする。しかし我々は二人で心強い。
左の“ヘソ”のある自然石にはヘソの部分を避けて
旧東海道は車道を右手に進む。まもなく「国指定史跡 諏訪原城跡」の看板に導かれて、細間を右手に進むと諏訪原城跡がある。(右写真)
その先で旧東海道は間の宿菊川宿に下る菊川坂に入る。金谷坂改修の反省から、古い石畳が残る部分は発掘して遺され、失われている部分が復元されている。その結果、菊川坂石畳は昨年11月に静岡県の史跡に指定を受けている。菊川坂からは正面に、粟ヶ岳が見える。斜面の茅場には植林したヒノキで描いた茶の文字が確認できた。(左写真)
菊川集落に降りて、右に龍谷山法音寺に向かう細道の角に、「宗行卿塚」の朽ちた標識を見つけた。法音寺前で、軽四輪で来たおじさんに女房が道を聞く。法音寺境内には入らないで、右へ迂回して背後の山に登る農道を進むのだという。農道をしばらく登ると、三叉路の角に小さな祠と「中納言宗行卿之塚入口」の木柱が立っていた。(右写真) そばの丸石の石標にも、うっすらと刻まれた「従是宗行卿之塚道」の文字が読める。石標に従い、農道を左手に「宗行卿塚」が見えてくるまでどんどん進む。
午前10時36分、旧東海道に戻った。菊川宿の真中に青銅製の秋葉燈篭(右写真の円内)を修めた立派な祠があった。(右写真)
さらに、右手に「菊川の里会館」がある。その屋根は大小重なって、見様によっては小夜の中山の間を行く駕籠のようにも見える。地域の公民館で東海道ウォークのイベントのある時は賑やかであるが、今日は会館前の広場で植木の剪定が行なわれているばかりであった。この会館には公衆トイレがあり借りる。
菊川の里を抜けて、小夜の中山の登りに入る。この本日の最大の登りを「青木坂」という。青木坂の登り口に10メートルほど石畳が作られていた。(右写真)
午前11時19分、坂を登りきると右側に久遠寺があった。山号が「佐夜之中山」。山門にシイノキの巨木がかぶさるように見えた。(右写真) 境内に入ると本堂右手に「夜泣石」があった。(左下写真) 夜泣石は国道一号線沿いにもう一つあることは良く知られている。夜泣石が二つになった事情はまた後で触れることになろう。
久延寺の隣に峠の茶屋「扇屋」がある。(左写真) 「扇屋」にはかって名物おばあさんが店番をしていた。ウォークの時には次のように記している。「年は98歳で耳も良く記憶力も良い。茶店は324〜5年立つと話してくれ、遠州七不思議のことを書いた本をしきりに勧める。名物子育て飴を皆んな一本づつ頼む。瓶から固まりをつまみ出して割り箸に巻きつける。褐色の半透明の飴はわずかに甘いが、口にくちゃくちゃ付いて始末が悪かった。あとで鈴さんは洗いもしない手で飴をつかみ出したことをユーモラスに指摘した。」
峠の茶屋「扇屋」の向かい側に小公園があり、有名な西行の「命なりけり」の歌の円筒形の歌碑がある。(右写真) 歌碑の造形上の意味について以下のような案内板があった。
300mほど進んだ左側に中山茶業組合の茶工場があり、その先に「小夜鹿の一里塚」がある。現在、整備工事中でそばには寄れなかった。東海道400年祭は昨年で終ってしまい、少し遅い整備工事である。
250mほど進んだ左側、石段を数段上がった樹叢の暗がりに「鎧塚」がある。盛り土の上に「鎧塚」の新しい石標が立っていた。
茶畑の間の道を350mほど進んだ左側に馬頭観音の石碑があった。卵形の石を立てて「馬頭観世音」と刻まれている。茶畑とは、ピンク色の花ももう終りがけのさざんかの生垣で仕切られている。馬頭観音も蛇身鳥の伝説と重ねられると古色を帯びてくる。
今度は100mほど進んだ右側に「妊婦の墓」、その向い側に「涼み松広場」と名付けられたポケット公園があった。
「涼み松広場」には芭蕉の句碑があった。(左写真) 「命なり わずかの笠の 下涼み」の句は明らかに西行の「年たけて また越ゆべしと おもひきや 命なりけり さやの中山」の歌を元にしている。だからこの小夜の中山のゆかりの句なのであろう。
午後0時14分、坂をだらだらっと下った左側に「夜泣石跡」の石碑が立っていた。(右写真の右下隅)
「夜泣石跡」の石碑の先に、広重の東海道五十三次『小夜の中山峠』の絵碑(右上写真)がある。



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