第 15 回 〔前半〕
  平成14年1月26日(土) 
 くもり、風おだやか
 金谷宿−石畳−菊川宿(間の宿)−小夜の中山−
 “伝説と戯作、歴史と推理の小夜の中山”



 宿場ごとに巨木を見つける試みを続けてきたが、地元金谷まで来てそれらしい巨木が見つからず困ってしまった。そこで、旧東海道から北へ3kmほど離れていて、掟破りにはなるが、「熊野神社のクスノキ」(左写真)を金谷宿の巨木としたい。

 日本人の一人一人が自分の木を1本決めて、大切にする気持ちを育てていけば、日本はもっと緑豊かになるであろうと提唱した人がいた。その木は自分で所有する必要はない。公共の場所に立つ木でもいいし、個人の庭に植わった木でも良い。自分の心の内で決めるだけだから、誰に迷惑をかけることもない。そして、人生で進路に迷うとき、悩み事を抱えるときに、その木に会いに行き、その木と語らえば、きっと解決の糸口が見つかると。

 そんな提唱を読んで共感し、自分も自分の木を選んだ。それがこの「熊野神社のクスノキ」である。

 「巨木巡礼」の中では「金谷町の北部の大井川沿いに小高い台地−牛尾山がある。遠目にも一叢の木立ちが見える。大井川岸から登ると、茶畑の中に熊野神社はあった。樹高50mの楠は社叢から突き抜けて高かった。社殿の前を塞ぐようにそびえていた」と書いた。その後そばを第二東名が通ることが決まり、工事が始まって影響を受けないかと気をもんだが、何とかまぬがれた。これほどの巨木が無指定とはおかしいと、心ある人に話していたところ、昨年3月、金谷町の天然記念物に指定された。これで保存が図られると一安心である。

 指定時の表示では「樹高約35メートル、幹周約11メートル、枝張り約37メートル、樹齢400年以上」という。樹齢は一説には700年、神社創建までさかのぼるともいう。

 午前8時45分、金谷駅前から旧東海道歩きを始める。天候はくもり、夕方まで天気は持ちそうである。

 駅前のガード左側に、「金谷宿 一里塚跡」の道しるべと案内板が立っていた。(右写真)

島田宿 宿境まで三十三町 →【金谷町 金谷宿 一里塚跡】→ 日坂宿 宿境まで一里二十町
 旧東海道はJR東海道線のガードを潜って牧の原へ登っていく。ガードの先、階段を登った上に本遠山長光寺がある。工事中だった境内の左手に芭蕉の句碑があった。(左写真)
 長光寺から旧東海道に降りて進む。右手の長光寺の斜面の木立の中に、「牧野原大茶園」の大きな石碑があった。このあと旧東海道を登りきった台地を牧の原台地と呼んでいる。全国の緑茶の約半分を生産する静岡県、その中でも最も緑茶生産量の多いのがこの牧の原台地である。この大地に広がる茶園面積は約五千ヘクタール、もちろん日本一の大茶園である。江戸時代、松などの雑木がはびこる荒地だった台地を、明治維新後、徳川家の幕臣や、橋が出来て職を失った大井川の川越人足の手により、茶園に開拓されたものである。

 街道が登り始める右側の角に、「中山新道」の案内板があった。日本最初の有料道路といわれる旧道の案内である。もっとも日本最初の有料道路としては明治8年開通、小田原の板橋から湯本までの有料道路がある。
 坂の両側に段になって軒の低い平屋の家屋が続いている。(左写真) 玉石を積んだ土台にのった小さな祠や火袋部分が抜けた自然石の秋葉燈籠が時代を感じさせる。(右写真) 宇津ノ谷の集落に似た家並みは、すぐにその上を横切る国道473号線で途切れた。

 車道に上がり横切った先に金谷の石畳が続く。石畳の始まりの右手に石畳茶屋と名付けられた茶店がある。開店は10時のようで、本日はまだ営業していなかった。

 金谷の石畳については案内板にある通り、「平成の道普請」と銘打って、コンクリートをはがして、底に残っていた石畳も取り去って、かってそうであったように町民が力を合わせて、昔のように石畳を復元するイベントを行なった。町興しには大変良い企画だったが、石畳の史跡としての価値はなくなってしまった。これは町の当局も予想していなかったようだ。ともあれ430mの立派な石畳にはハイキングなどで訪れる人が増えたことは喜ぶべきことであろう。(左下写真)

 石畳茶屋のすぐ上に、庚申堂や鶏頭塚のある小公園がある。隅にある庚申堂はあの大泥棒の日本左衛門が衣装を替えたお堂だという。しかし現在の庚申堂は小さくて、中で着替えをするのは無理なようだ。昔はもっと大きなお堂だったのだろう。(右写真の左)

 鶏頭塚の石碑は自然石で文字の刻みが浅く読みづらい。(右写真の右)

あけぼのも 夕ぐれもなし 鶏頭華   六々庵巴静

 「曙」「夕ぐれ」「鶏頭華」と赤づくしで、色彩が目に浮かぶ句である。
 石畳の中間あたりに「すべらず地蔵」がある。石畳の復元後、地元の方によって奉納されたお地蔵さんである。お地蔵さんは六角堂に安置され、その上に同じく六角の屋根だけの鞘堂がかけてある。

 前回歩いた時は扉の鍵が壊れていて中が見れた。木彫り双体のお地蔵さんで道祖神のように見えた。プロの彫ったものではない、拙さと素朴さの残るお地蔵さんであった。

 石畳に旅人が滑らないようにと祈りを込めたお地蔵さんなのだが、「すべらず」のつながりで、受験生が多く訪れるといい、そばに奉納された絵馬にも志望校入学祈願の言葉が溢れていた。

 今朝は地元の人がお掃除をしている。(左写真の右円内) 女房が話しているのを聞くと、明日お寺の住職を呼んでお祭があるので掃除をしているのだという。赤い幟も新しく変えている。(左写真) 毎年、受験や春の観光シーズンをひかえた今、お祭をするのだという。
 全長430mの石畳の途中、すべらず地蔵で作業する人以外は誰にも出会わなかった。天候はくもり、両側が杉林で明るいとはいえない石畳は、誰かのひとり旅の記録に「怖かった」とあったが、その気持ちが判る気がする。しかし我々は二人で心強い。

 午前9時27分、石畳を登り切り車道に出る。旧東海道は右へ続くが、左へ進むと牧の原台地の中心部へ入って行く。左へすぐの右側に左右二つの石碑が立っている。右の丸石を組んだ石碑は「明治天皇御駐輦阯」と刻まれている。(右写真)
 左の“ヘソ”のある自然石にはヘソの部分を避けて
 
馬に寝て 残夢月遠し 茶の烟 

と浅く刻まれている。(左写真) 芭蕉41歳の初秋の頃、「野ざらし紀行」にある一句である。

 本日、この後この句に二度出くわす。それぞれこの句が読まれたのは当地だと主張しているが、それぞれに言い分があって興味がある。三つ揃ったところで検証してみよう。ともあれ、他の二ヶ所は最近のもので、この句碑が最も古い。

 旧東海道は車道を右手に進む。まもなく「国指定史跡 諏訪原城跡」の看板に導かれて、細間を右手に進むと諏訪原城跡がある。(右写真)
 かっては空堀の中まで植林されて、そこに竹が蔓延ったりしていたが、きれいに整備されて空堀の様子が良くわかるようになった。城跡は照葉樹の森になっていた。

 その先で旧東海道は間の宿菊川宿に下る菊川坂に入る。金谷坂改修の反省から、古い石畳が残る部分は発掘して遺され、失われている部分が復元されている。その結果、菊川坂石畳は昨年11月に静岡県の史跡に指定を受けている。菊川坂からは正面に、粟ヶ岳が見える。斜面の茅場には植林したヒノキで描いた茶の文字が確認できた。(左写真)
 間の宿の菊川宿には「宗行卿塚」がある。鎌倉時代中期、後鳥羽上皇が幕府転覆を図った承久の変の首謀者とされた中納言藤原宗行卿である。宗行卿は捕われ鎌倉に護送途中、菊川の宿の柱に漢詩を書き残した。(後述)

 この塚は金谷バイパスを進むとすぐ北側の斜面に見えている。菊川の宿は何度か歩くのだが、今まで詣でたことがなかった。今日は是非とも詣でようと思って来た。

 菊川坂の終りがけに宗行卿塚の標識を見つけた。石畳を横切る車道を右にとってバイパスを潜るあたりまで行ってみたが、自信が持てず聞く人もなくて元に戻ってしまった。

 菊川集落に降りて、右に龍谷山法音寺に向かう細道の角に、「宗行卿塚」の朽ちた標識を見つけた。法音寺前で、軽四輪で来たおじさんに女房が道を聞く。法音寺境内には入らないで、右へ迂回して背後の山に登る農道を進むのだという。農道をしばらく登ると、三叉路の角に小さな祠と「中納言宗行卿之塚入口」の木柱が立っていた。(右写真) そばの丸石の石標にも、うっすらと刻まれた「従是宗行卿之塚道」の文字が読める。石標に従い、農道を左手に「宗行卿塚」が見えてくるまでどんどん進む。

 「宗行卿塚」の前側には「中納言宗行卿之塚」の白い柱が立ち、右には「宗行卿之塚移築記念の碑」の案内石碑が建っていた。(左下写真)

 午前10時36分、旧東海道に戻った。菊川宿の真中に青銅製の秋葉燈篭(右写真の円内)を修めた立派な祠があった。(右写真)

 その向かい側には「金谷町 菊川の里」の道しるべがあり、「間の宿 菊川」の案内板があった。

金谷宿 宿境まで十八町 →【金谷町 菊川の里】→ 日坂宿 宿境まで一里
 さらに、右手に「菊川の里会館」がある。その屋根は大小重なって、見様によっては小夜の中山の間を行く駕籠のようにも見える。地域の公民館で東海道ウォークのイベントのある時は賑やかであるが、今日は会館前の広場で植木の剪定が行なわれているばかりであった。この会館には公衆トイレがあり借りる。

 会館前広場の南東隅に「宗行卿詩碑」と「日野俊基歌碑」が並んで建つ。(左写真) この碑はウォークの時は菊川神社の入口に建っていたが、菊川の里会館が出来たときにここへ移したもののようだ。
 菊川の里を抜けて、小夜の中山の登りに入る。この本日の最大の登りを「青木坂」という。青木坂の登り口に10メートルほど石畳が作られていた。(右写真)

 この坂は力の無い車では登るにつらいほどの傾斜である。坂の途中、畑の土留めに一叢の水仙が花を咲かせていた。バックに木立のシルエットを入れる工夫をして撮っってみた。(左写真)

 金谷町(菊川の里)と掛川市(日坂の宿)の境の標識を過ぎた先から、沓掛の下り坂までの街道の路傍に、点々と「小夜の中山」を詠った歌碑が作られて、「小夜の中山歌碑の道」というハイキングコースになっている。

 それぞれの歌碑には歌を刻み、その現代語訳が添えられている。(右下写真) 後で紹介するが、西行が歌った「命なりけり」の歌があまりにも有名で、「小夜の中山」は早くから歌枕として知られていたため、これらの歌の中にはこの辺境の地まで来ないで想像で詠んだ歌も多いという。

 以下に最近に新しく出来た歌碑の八基八首を紹介する。
 午前11時19分、坂を登りきると右側に久遠寺があった。山号が「佐夜之中山」。山門にシイノキの巨木がかぶさるように見えた。(右写真) 境内に入ると本堂右手に「夜泣石」があった。(左下写真) 夜泣石は国道一号線沿いにもう一つあることは良く知られている。夜泣石が二つになった事情はまた後で触れることになろう。

 よく見ると夜泣石には文字が刻まれている。それが弘法大師が指で書いたと伝わる「南無阿弥陀」の文字なのだろうか。夜泣石のとなりにかっては 「家康お手植えの五葉松」 が枝を広げていた。6年前に歩いた時はすでに枯れていて、「枝振りの良い家康お手植えの五葉松は松食い虫のせいか旱魃のためか、樹勢が弱って、幹には栄養分の注入努力の跡も見られたけれども、あえなく立ち枯れていた。400年近い樹齢の木が我々の時代に枯れてしまうとは、いかにも残念である」と記している。現在は切り株が残っているだけである。そばに二代目の五葉松が植えられていた。

 久延寺の境内には、その昔、掛川城主山内一豊が関ヶ原の決戦に向かう家康に煎茶をもてなした茶亭が設けられた。その跡に案内板があった。

 久延寺の門を出ると、向かい側の谷に広がる茶畑を見下ろす場所に、「接待茶屋跡」の標石と案内板があった。
 「馬に寝て」の句は久延寺の境内の五葉松のそばにしっかりしたものが立っている。案内板では一説には「茶の烟」はこの茶屋の煙だったとの説もある。これが二ヶ所目の「馬に寝て」の句碑である。

 久延寺の隣に峠の茶屋「扇屋」がある。(左写真) 「扇屋」にはかって名物おばあさんが店番をしていた。ウォークの時には次のように記している。「年は98歳で耳も良く記憶力も良い。茶店は324〜5年立つと話してくれ、遠州七不思議のことを書いた本をしきりに勧める。名物子育て飴を皆んな一本づつ頼む。瓶から固まりをつまみ出して割り箸に巻きつける。褐色の半透明の飴はわずかに甘いが、口にくちゃくちゃ付いて始末が悪かった。あとで鈴さんは洗いもしない手で飴をつかみ出したことをユーモラスに指摘した。」

 手元に「佐夜の中山の歴史を探る」という小冊子がある。すすめられた「遠州七不思議のことを書いた本」の代りに、その時購った小冊子である。元の扇屋の主人が記したものという。読んでみると、小夜の中山は伝説の宝庫であることが判る。蛇身鳥退治、菊水の滝、夜泣松、孕み石、子育て飴、無間の鐘、夜泣石と枚挙に暇が無い。しかも江戸時代の戯作者、滝沢馬琴がそれらの伝説を一纏めにして、「石言遺響」という小説に書いて、全国に知られるようになったからややこしい。史実、伝説、創作が小夜の中山の回りには入り乱れている。

 その名物お婆さんも亡くなったと聞いていた。女房が奥へ呼びかけて子育飴を頼んだ。あのお婆さんの娘か孫か、とにかく今はさすがに素手では扱わなかった。子育飴の由来については案内板があった。
 峠の茶屋「扇屋」の向かい側に小公園があり、有名な西行の「命なりけり」の歌の円筒形の歌碑がある。(右写真) 歌碑の造形上の意味について以下のような案内板があった。
 さらに西行の歌についての案内板もあった。
 300mほど進んだ左側に中山茶業組合の茶工場があり、その先に「小夜鹿の一里塚」がある。現在、整備工事中でそばには寄れなかった。東海道400年祭は昨年で終ってしまい、少し遅い整備工事である。

 250mほど進んだ左側、石段を数段上がった樹叢の暗がりに「鎧塚」がある。盛り土の上に「鎧塚」の新しい石標が立っていた。
 「太平記」によると、鎌倉幕府滅亡後、北条時行が北条再興を計った「中先代の乱」で、北条方の名越軍が佐夜の中山を越えて攻め上った。迎え撃つ足利軍とこの地で激しく戦ったが破れ、東へ敗退しながら十七度戦い、鎌倉で残党が自害し滅亡した。なお「太平記」には大将の名越邦時が佐夜の中山で討ち死にしたとの記録はないが、佐夜の中山以降の戦いに名前は出ず、鎌倉で自害したとの記述もない。

 さらに500mほど進んだ右側の茶畑の一画に白山神社の小さな祠がある。祠のかたわらに「小夜の中山 白山神社」の道しるべがあった。

金谷宿 宿境まで一里六町 →【掛川市 小夜の中山 白山神社】→ 日坂宿 宿境まで十四町

 茶畑の間の道を350mほど進んだ左側に馬頭観音の石碑があった。卵形の石を立てて「馬頭観世音」と刻まれている。茶畑とは、ピンク色の花ももう終りがけのさざんかの生垣で仕切られている。馬頭観音も蛇身鳥の伝説と重ねられると古色を帯びてくる。
 今度は100mほど進んだ右側に「妊婦の墓」、その向い側に「涼み松広場」と名付けられたポケット公園があった。

 妊婦の墓は蛇身鳥退治の三位良政卿の遺児で、結婚を苦に松の根元で自殺した小石姫の墓と言われる。小石姫は妊娠していたのでそう呼ばれる。小石姫の霊がそばの松に留まり、松籟(松に吹く風音)となって、旅行く人々に哀切の情を誘った。

 やがて松は枯れその場所に松の印としてそばにあった丸石を置いた。これを孕み石と呼ぶ。(孕み石は現在久延寺の夜泣石のそばに置かれている。直径が夜泣石の半分ほどの丸石である。) 現在はそこに墓碑が立っている。(右写真)
 「涼み松広場」には芭蕉の句碑があった。(左写真) 「命なり わずかの笠の 下涼み」の句は明らかに西行の「年たけて また越ゆべしと おもひきや 命なりけり さやの中山」の歌を元にしている。だからこの小夜の中山のゆかりの句なのであろう。
 「涼み松広場」の先から旧東海道は緩やかな下りに入る。三ヶ所目の「馬に寝て」の句碑はそこから150mのところにあった。句碑は「小夜の中山歌碑の道」に新しく出来た歌碑と同じ形式である。
 三基の「馬に寝て」の句碑を見てきたが、句が出来た場所があるとすれば、どの場所が最も相応しいかと考えてみた。ヒントは句の解釈と「野ざらし紀行」のこの句の前文である。前文は次の通りである。
 この前文は唐の詩人「杜牧(とぼく)」の詩、「早行(そうこう)」の「鞭ヲ垂レ馬ニ信(マカ)セテ行ク、数里未ダ鶏鳴ナラズ、林下残夢ヲ帯ビ、葉ノ飛ブ時忽チ驚ク」を踏まえていることに留意する必要がある。

 まず芭蕉の旅を再現してみよう。「野ざらし紀行」は東から西への旅である。芭蕉はその朝、どの宿場から出立したのか。大井川は暮六つ以降は原則渡れなかった。もちろん夜明け前に渡ることも叶わないことである。したがって芭蕉が早立ちしたのは金谷宿ということになる。早立ちといっても七つ立ち(午前四時)より早く立ったとは考え難い。

 季節は秋、秋の夜明けは5時半から6時といったところか。「二十日余りの月」というから下弦の月が夜明け前には最も高い位置にあり、明るさは満月の半分である。細く上がった朝茶の用意の煙りがその月灯りで見える。「茶のけぶり」は一筋細く真っ直ぐに上がっている。

 句の解釈に「有明の月は遠く山の端にかかり」とあるが、下弦の月は夜明け前には頭上の正中にあって山の端にはかからない。「月遠し」は正中にあることを示している。山の端にかかると月は大きく(近く)見える。

 さて、いよいよ発句の場所である。夜明けを5時半から6時とすれば、「山の根際いと暗き」状態では夜明けまでまだしばらくかかるじかんである。出立からせいぜい1時間から1.5時間来たところであろう。1番目の句碑まではゆっくり登って1時間弱であった。馬上でも変わらないはずだし、まして夜道ですべりやすい石畳の登り道である。ゆうに1時間はかかったであろう。2番目の句碑までは2時間、3番目の句碑には2時間半ほどかかる。2時間かかれば秋とはいえ夜も明けてくるだろう。したがって、1番目の句碑の近辺が最も可能性が高い。

 菊川坂を見下ろす辺りから見れば、菊川の里が見下ろせたと思う。その向うに山の端も連なっている。「茶のけぶり」は菊川の里のどこかから昇ったものであろう。

 しかし幾つか疑問点がある。前文に「数里いまだ鶏鳴ならず」とある。文の通りであれば数里進んだ事になる。しかしこの山道を数里進むのは不可能である。この部分は実際に数里進んだのではなくて、「杜牧の早行」を引き写して「数里」と表現したのは明らかであろう。さらに、「小夜の中山に至りて忽ち驚く」とあるが、1番目の句碑の近辺が「小夜の中山」に当るのかどうかという点である。広辞苑によると、「静岡県南部、掛川市の日坂(ニツサカ)峠と金谷町との間にある東海道の坂路」とある。昔は「小夜の中山」は現在のように限定されておらず、この辺り全体を示していたと考えても不自然ではない。

 以上、全く個人的な解釈であるが、1番目の句碑の辺りを発句の場所とする所以である。最も、この句は「杜牧の早行」の詩がベースにあって出来たもので、発句の場所の特定は意味がないのかもしれない。

 午後0時14分、坂をだらだらっと下った左側に「夜泣石跡」の石碑が立っていた。(右写真の右下隅)
 この案内板には「出品された帰途、現在の位置に移る」とさらりと書かれている。この現在の位置が実は二ヶ所あるからややこしい。一つは先ほど見てきた久延寺のもの、もう一つは国道1号線の中山トンネルの東口に祀られているものである。

 前回のウォーク時には次のように書いた。「かって『夜泣石』は安藤広重の版画のようにこの街道の真ん中に道を塞ぐようにあったのだが、明治天皇の行幸のおり、道端に避けられ、さらにはるばる東京に運ばれ博覧会に出品された。ところが博覧会の後、『夜泣石』はこの地までは戻されず、国道1号線の中山トンネルの東口まで来たところで放置され、今日ではその地へ祀られている。なお久延寺の『夜泣石』は代わり安置されたものである。」

 「日坂地域振興の会 中山部会」の「東海道小夜の中山峠周辺案内」のパンフレットによると、久延寺の夜泣石について、「『久延寺夜泣石(小石姫供養塔)』として、夜泣石と同じ形で『南無阿弥陀仏』と書かれている。この石は夜泣石物語の小石姫(石言遺響によると妊婦)を弔うために建てられた供養塔で、はじめ、門前の路傍にあったが昭和四十年頃境内にうつされた」と書かれている。

 以下は想像であるが、
  1. 小石姫伝説の「夜泣松」が枯れる ⇒ 「松の印」として「孕石」を置く ⇒ 「孕石」は現在、久延寺に安置
  2. 300年前、工事中に丸石が出る ⇒ 「小石姫の墓印」とする ⇒ 久延寺前に移し供養塔とする(跡地に墓碑) ⇒ 久延寺境内に移す(「小石姫供養塔」あるいは「久延寺夜泣石」)
  3. 200年前、滝沢馬琴の「石言遺響」出版、「夜泣石物語」が世に広まる ⇒ 「夜泣石物語」にあやかり「夜泣石」を街道の真中に安置 ⇒ 東京の博覧会に出品 ⇒ 国道1号線中山トンネル東口に安置
  4. 170年前、安藤広重「東海道五十三次」(保永堂版)の「日坂」出版
 街道の真中に大きな石があったら、脇へ退けられるであろう。まして大名行列が頻繁に通るメイン街道である。「夜泣石物語」があまりに有名であったから、街道の真中にあっても、名所として許されたものだと思う。だからこの石が街道中央に置かれたのは「夜泣石物語」が世に広まった後だと思う。「夜泣石物語」の元になった「小石姫の墓印」は、その頃に久延寺前に移されたのであろう。同じようなものが近くに二つあるとややこしい。そんな事を想像した。

 久延寺のものは古いものだが、「小石姫の墓印」である。「夜泣石」ではなくて、「夜泣石」のモデルになった石である。国道1号線のそばのものは「夜泣石物語」にあやかって作られた「夜泣石」であると考えた。

 どちらにしても真実を知りたいと思う。

 「夜泣石跡」の石碑の先に、広重の東海道五十三次『小夜の中山峠』の絵碑(右上写真)がある。
 広重が描いたのはこの辺りと思い写真に撮ってみる。(左写真) 絵碑と現地を較べてみると坂の勾配や背後の山などデフォルメされてダイナミックな構図になっていてさすがだと思った。







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