第 16 回 〔前半〕
  平成14年2月11日(月) 
 晴れのち一時風花
 掛川宿−原川宿(間の宿)−袋井宿−
 “東海道どまん中に松並木が続く”



 今年も花粉症の季節がやってきた。花粉症に悩む人は全国で2000万人とも2500万人とも言われている。実感としてはもっと多いように思うが、年々増えている。

 かく云う私も札付きの花粉症で花粉症歴25年を数える。いろいろ体質改善法、薬や治療法がいわれ試してみるが、いずれも長続きせず、そのうちに季節が過ぎて忘れてしまう。最近は花粉症の季節感を楽しむ境地になって、じたばたしないようになった。

 その花粉症に悩む人に、この春朗報が流れた。花粉症に効くお茶が開発されたというのである。試験場の研究員が花粉症に効く成分を発見し、それを最も多く含むお茶を開発したのである。それは紅茶品種の「紅ほまれ」および「紅富貴」という品種で、戦後しばらくまでは日本でも紅茶を作っていて、栽培されていた品種である。現在は試験場にわずかに残されている。この品種を緑茶の製法で仕上たお茶を、普通のお茶のように入れて飲むと、数時間症状が治まるという。治療薬ではなく症状を治めるだけだから、飲みつづける必要がある。

 そのお茶はまだテスト段階だが、偶然手に入った。本日はそのお茶をペットボトルに入れて飲みながら歩こうと思う。

 一口飲んでみて「まずい!!」決しておいしいお茶ではないが、良薬口に苦しである。

 最初に「掛川宿の巨木」を選んでおく。掛川宿の城下町通りから西150m、裁判所跡の公園内にあるクスノキとする。城下にあって、幹周り3.72m、樹高16m、枝張り20mと堂々とした巨木である。(左写真)

 午前9時16分、外見が木造日本家屋風の掛川駅を出発する。駅頭に「二宮金次郎の像」が建っている。(右写真) かってはどの小学校にも必ずこの像があった。

 掛川には二宮尊徳の報徳思想を実践し全国へ広める「大日本報徳社」の本社がある。報徳思想は二宮尊徳が実践した困窮した村の救済法、経済と道徳を一体とした教えで、近年日本人が忘れてしまった努力とか勤勉とかいう徳目を実践する。

 バブルの崩壊した現在、意識、無意識に関わらず報徳思想を実践してきた企業がこの大波に呑まれることなく堅実な経営を続けている。今、報徳思想は見直される時がきている。その「大日本報徳社」は掛川城の北側にある。

 駅前からお城に向って進み、歩道にアーケードのある連雀通りで、旧東海道に戻る。

 仲町の交差点の和風建築の清水銀行の壁には乗馬姿の山内一豊候と“へそくり”の元祖の“その妻千代”が壁画に描かれていた。

 その先の右側の円満寺の山門は「蕗(富貴)の門」と呼ばれ、掛川城から移築されたものであるという。(左写真) 柱は風化がかなり進んでいるし、屋根の大きさのわりに高さが寸詰まりで移築したことを感じさせる。軒瓦には桔梗紋が残っていた。(左写真の左上) 太田道灌の子孫といわれる掛川城最後の城主の太田氏の家紋である。キキョウは掛川市の市章や市の花にもなっている。
 十王のバス停の近くに、付近案内地図の大きな看板があった。案内書にはなかったが、看板の地図で「十王堂」というのが気になったので、街道から左へ入って十王区の公民館の裏側に「十王堂」があった。(右写真) 小さなお堂に重厚な入母屋。屋根上の沖縄のシーサーに似た小さな狛犬像が珍しかった。
 旧東海道はやがて突き当たって右へカーブして行く。そのカーブの右側に成田山東光寺の石の門柱が立っている。(左写真) 前回歩いた時は、「向かいの八百屋のおかみさんが出て来て説明してくれた。この辺りも昭和19年の震災でかなりやられたと聞く。そばの秋葉灯籠も倒れて修復された。門柱は今も少し傾いている」と書いている。門柱の左側に薄緑の石碑がある。(左写真の左) 掛川市伊達方の道中に出生地の石碑のあった俳人伊藤嵐牛の句である。
桜見し 心しづまる 牡丹かな    嵐牛

 さらに100mほど進み、「十九首塚」の矢印に導かれて右の路地を進んだ先、十九首町の公民館脇の植え込みの中に「十九首塚」はあった。(右写真) 新しい一基の五輪塔の墓石で、平将門の首塚と言われる塚である。

 前回歩いたときは、「将門の祟りでもなかろうに隣の公民館がこの9日の祭りに火事で焼けてしまった。焼けた建物がそのまま片付けられないで放置されていた」と書いている。その時は火事からまだ一週間と経っていなかった。もちろん現在は立派な公民館が再建されていた。
 旧東海道は逆川を渡り、二瀬川の交差点で国道一号線と合流する。そこに日本橋から230kmのポストがあった。

 国道を500mほど西進して大池橋を渡ったところに大池の五叉路がある。大池橋の左橋詰に「掛川市 大池橋」の道しるべと秋葉道の案内板があった。

掛川宿 宿境まで十三町 →【掛川市 大池橋】→ 袋井宿 宿境まで一里三十五町
 旧東海道は国道一号線とは別れ、大池の五叉路を左折して進む。500mほど真っ直ぐ行って天竜浜名湖鉄道のガードを潜る。(左写真)

 さらに700mほど歩いて、午前10時27分、一乗山蓮祐寺に着く。前回歩いた時はここで休憩をとって次のように書きとめている。

 「本堂前で休憩を取っているとお寺の奥さんが顔を出して目が合った。ガラス戸越しに軽く会釈すると奥へ入って行かれた。間もなく出て来て、美味しいお茶を勧めてくれる。昨日お祭りで幟は片づけたが、竿は明日の休みに皆んなで片づけてくれると言い訳をいう。境内の太い銀杏は秋にはギンナンを沢山収穫していたのだが、道路拡幅工事で境内が狭まり、東側に伸びた太い根が切られてしまった。ところが台風で、切られた反対側に倒れてしまった。枝をこじんまりと刈り揃え植え替えて貰ったが、漸く去年からギンナンを付け始めた。もう大丈夫だと思う。問わず語りにそんな話をする。帰りに寺名を見ると一乗山蓮祐寺という日蓮宗のお寺であった。」

 今日は境内に人の気配がない。ただ紅梅が一本満開であった。(左写真) 蓮祐寺の前には「掛川市 大池一里塚跡」の道しるべがあった。

掛川宿 宿境まで二十二町 →【掛川市 大池一里塚跡】→ 袋井宿 宿境まで一里二十六町

 この後、旧東海道は国道一号線バイパスを潜り、東名高速を潜った。そして善光寺橋を渡ったすぐ右手に掛川市岡津の仲道寺がある。(右写真) 仲道寺は東海道の江戸〜京都間のちょうど真ん中に位置するといわれるお寺である。石段を上がるともう一つ善光寺というお寺がくっついている。
 仲道寺下のベンチで手洗いを借りに行った女房を待つ。このお寺にはシイノキの大木が目立つ。ベンチの周りにも椎の実が沢山落ちていた。今は拾う人もいないのだろう。殻を取ってフライパンで炒るだけでも香ばしくて美味しく食べられる。

 隣には「椎の木茶屋」という日本料理店がある。その長い塀に常葉学園菊川高校のデザイン科の生徒により「東海道400年祭記念」の壁画が描かれていた。東海道の海岸を海から眺めた絵のようであるが、デザイン化されていて、はっきりとは判らなかった。

 この先から始まる松並木は掛川市岡津から原川にかけて続く。大松は無いが、若木が補植され、両側共に残っていた。(左写真)
 「掛川市 原川松並木」の道しるべがあった。

掛川宿 宿境まで一里六町 →【掛川市 原川松並木】→ 袋井宿 宿境まで一里六町

 午前11時32分、原川の集落に入る。ここまではまだ掛川市である。原川は、かって、掛川宿と袋井宿の間の宿として、また原川薬師の門前町として賑わっていた。
 原川薬師は今は昔の賑わいをしのぶよすがも無いが、屋根を銅板張りに、窓をアルミサッシに、壁を波鋼板張りに改修されて、不思議な建物になっていた。(右写真)
 次の四つ角に自然石に刻んだ標石があった。(左写真) 「是従 和田岡村 原谷村 経森町通 大正四年」と読めた。「森町」はもちろん遠州森町である。

 旧東海道は国道一号線にぶつかり、国道の同心橋を渡り、渡った先で国道を潜って国道の南側に出た。潜って出たところが名栗。ここはもう袋井市である。「袋井市 名栗」の道しるべがあった。

掛川宿 宿境まで一里十一町 → 北西 医王山油山寺江一里十七町【袋井市 名栗】これよりどまん中袋井 → 袋井宿 宿境まで一里一町

 左側の土手下に「花茣蓙公園」と呼ばれる小公園があった。(右写真) 公園内には木造屋形の秋葉山常夜燈と東海道・可睡三尺坊道標(右写真の右端)があった。可睡三尺坊道標は案内標によると、明治16年(1883)建立で「従是西東海道 可睡斎まで二里一二町」とあるという。他にも「名栗の立場」の案内板があった。
 旧東海道はここからしばらく国道の南側を国道に沿うように進む。5分ほど歩いた左側に駕籠の形をした観光案内所の小屋があった。(左写真) 有名な土産品であった「名栗の花茣蓙」について、案内文が小屋の壁にあった。横の壁にはこれも土産品の「袋井丸凧」の絵が描かれていた。
 この後すぐに松並木が始まり、袋井宿まで断続的に松並木が残っている。両側に土塁を整え、新しく植栽された松も多い。土塁の外側の溝を暗渠にして旅人の歩道に整備されていた。(右写真) 松並木の所々に東海道の浮世絵を大きく引き伸ばした案内板があって、往時を偲ばせる。その浮世絵の案内板にはそれぞれ地元の企業のスポンサー(寄贈者)ついていて、なかなか抜け目ない。
 街道右に鮮やかな朱塗りの鳥居が目を引いた。(左写真) 注連縄が垂れ、鳥居の真下に「重要文化財 富士浅間宮」の大きな石碑があり、鳥居を潜っても工場敷地を区切る金網にぶつかるだけである。

 前回の記録に、「国指定の重要文化財との表示もあったが、近くに神社もない。ただ、工場の間を小道が北へ延びているだけである。(中略)地図を見て想像するに神社は国道1号線とバイパスを越えた遙か先の小山にあって、かってはここが参道の入口だったのであろう。そう考えて小山を遠望すると鳥居や祭りの幟旗がみえた」と書いた。

 現在はすぐ隣に立派な車道が出来ている。当時とは少し様子が変わったのだろうか。ともあれこの鳥居から浅間宮までの800mほどの道はかっては「鳥居縄手」と呼ばれていた。両側を田圃に挟まれた一本道だったのだろう。
 正午を回って、久津部の集落に入った最初の、袋井東小学校の前庭に久津部一里塚がある。ぐるりを丸石を積んで固めた小さな塚とその上に設置した一里塚の記念碑は近年に新たに造られたものである。(左写真) 一里塚上にはかってのように松の木が植えられていた。また向いにも「江戸から六十里 久津部一里塚跡」の標柱が立っていた。
 袋井東小学校の校門には、「東海道五十三次 どまん中 東小学校」という大きな木製の高札がかかっていた。袋井市は「東海道どまん中」をキーワードに町興しを行っている。

 久津部の集落には自然石に刻んだ、「油山寺道標」(大正四年久津部青年会設置)、「村松・宇刈道標」、「八幡社入口道標」、「法多山道標」(右写真)(大正四年久津部青年会設置、「是より下貫名を経て法多山に通ず」と読める)、二つ目の「油山寺道標」などが辻ごとに設置されている。また巨大な「秋葉山常夜灯」があった。(左写真) 昭和二十八年に久津部地区内の「村中安全」を祈って設置されたものという。

 午後0時20分になって、久津部の集落の外れにうどん屋の「サガミ」を見つけ、昼食にする。

 「サガミ」のすぐ先、右側に七ツ森神社がある。(左下写真) 七ツ森神社に巨木を求めて立寄る。シイノキの巨木があった。(右下写真) 標柱に「袋井の名木古木 七ツ森久努神社のシイノ木」とあった。これは「袋井宿の巨木」にしなくてはなるまい。後日調べたところ、樹種 スダジイ、幹周 6.7m、主幹 4.8m、樹高 14.7m、枝張 22.4mの堂々たる巨木であった。

 七ツ森神社から久能城跡が見えると案内書にあったので、社殿裏まで行ってみた。しかし久能城跡には行ったことがあるのだが、特定出来なかった。

 ここから袋井宿の手前にかけて松並木が続く。案内板があった。
 「東海道松並木」の案内板にあった「従是油山道」の古い石標(右写真)と「是より可睡三尺坊道」の石標が北へ入る小路を挟んで立っていた。これで松並木も尽き、いよいよ袋井宿に近づく。

 300mほど行くと道は旧国道一号線と合流する。出た所に「袋井市 東新屋」の道しるべがあった。

掛川宿 宿境まで二里六町 → 東 富士浅間宮赤鳥居江二十二町【袋井市 東新屋】北 久野城址江十七町 → 袋井宿 宿境まで六町

 旧国道を100mほど進んだ新屋の交差点を渡って、斜め左に入って行く道が旧東海道である。少し判り難いが入口に「袋井市 西新屋」の道しるべがあった。

掛川宿 宿境まで二里七町 → 東 東海道松並木【袋井市 西新屋】西 東本陣跡江七町 → 袋井宿 宿境まで五町

 旧東海道は新屋二丁目のブロックを東北角から西南角の対角線上を進む。その中程の左側角に「新屋の秋葉山常夜灯」がある。(左写真) 瓦屋根を載せた木造の「屋形」常夜灯を東海道で最初に見たのは間の宿の菊川宿である。こういう形式の常夜灯は遠州独特のものであろうか。新屋の秋葉灯は今まで見てきた中でも最も立派なものである。頭でっかちなほど大きく重厚な瓦屋根、軒下の細かい彫刻、美しい機能美を見せる格子や腰板部など、隅々まで製作者の力の入れ方がうかがえる。
 広い通りに出た所に「袋井市 市役所前」の道しるべがあった。

掛川宿 宿境まで二里十町 → 北 萬松山可睡斎江三十町【袋井市 市役所前】南 法多山尊永寺江一里十四町 → 袋井宿 宿境まで二町

 交差点を斜めに渡ると、袋井商工会議所前に「WELCOM エコパのまち フクロイ」の電飾看板があった。袋井はワールドカップのために新設されたサッカー場 “エコパ” のある町である。そういえばワールドカップまであと四ヶ月を切っている。

 「これより袋井宿」の大きな石柱のそばに昔の「天橋」の橋柱が残っていた。(右写真)
 袋井宿の入口の「天橋」を渡った所がかって桝型であった。現在も天橋を渡ると少し広く、道が折れ曲がって名残を示している。西側の小公園の中に「日本一小さな歩く道の駅 東海道どまん中茶屋」が出来ていた。(左写真) 今回立寄れなっかたが、色々な施設ができるものである。そこに「袋井市 袋井宿」のの道しるべがあった。

掛川宿 宿境まで二里十二町 → 此処天橋【袋井市 袋井宿】袋井丸凧発祥之地 → 見付宿 宿境まで一里二十四町

 前回歩いた時は、袋井宿内は秋祭り真っ盛りであった。次のように記録している。

 「ハッピを来た男が呼び止めて、各々に『東海道五十三次どまん中 袋井宿』と宣伝文句の入った小型懐中電灯をくれた。ご丁寧に電池もつけてある。背の高いおじさんをもう一人が町内会長だと紹介した。金谷から来たというと、金谷は石畳を再建して頑張っているようだが、袋井も色々町興しを考えているので、また是非来てくれという。」

 袋井宿に入って200mほど進んだ右側に、東本陣の跡が小公園に整備されていた。(右写真) 公園内に冠木門だけが再建されていた。

 袋井中央町の交差点の角に「袋井宿場公園」がある。(左写真) 門を入ると塀の内側が掲示場所になっていて、イベント情報などが掲示されている。
 街道北側に中本陣・問屋場・西本陣と続くが、現在は角柱の案内標識が立つだけである。そしてその先に「袋井丸凧」の看板のある店があった。(右写真) 今日は休みでカーテンが閉まっていて中はうかがえなかった。

 「袋井丸凧」は現物が残っておらず、長年途絶えた幻の凧であった。近年、広重の東海道五十三次に描かれていたのが発見され、現在「袋井丸凧保存会」が出来て復元・伝承している。右写真の円内は浮世絵を元に復元された唐獅子牡丹の図柄の丸凧である。その後、この図柄の版木が出て来て、往時そのままの姿で再現できるようになったという。丸型の凧は全国でも珍しいのだそうだ。

 袋井宿の東の入口が天橋ならば、西の入口は中川橋(御幸橋)である。いずれも宿の南側を流れる原野谷川の支流の広岡川(天橋)、宇刈川(中川橋)に架かった橋である。袋井宿はこれらの川に包囲された地にあり、古くから治水のための土手に囲まれていたと言われる。

 中川橋のたもとは土手の内側が枡形になっていて、高札場があった。現在はそこが本町宿場公園として整備されている。(左写真の左) 園内に高札場が再現されていた。ただし高札の中身は以下の三枚の案内板(左写真の右)であった。






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