



今年も花粉症の季節がやってきた。花粉症に悩む人は全国で2000万人とも2500万人とも言われている。実感としてはもっと多いように思うが、年々増えている。
午前9時16分、外見が木造日本家屋風の掛川駅を出発する。駅頭に「二宮金次郎の像」が建っている。(右写真) かってはどの小学校にも必ずこの像があった。
その先の右側の円満寺の山門は「蕗(富貴)の門」と呼ばれ、掛川城から移築されたものであるという。(左写真) 柱は風化がかなり進んでいるし、屋根の大きさのわりに高さが寸詰まりで移築したことを感じさせる。軒瓦には桔梗紋が残っていた。(左写真の左上) 太田道灌の子孫といわれる掛川城最後の城主の太田氏の家紋である。キキョウは掛川市の市章や市の花にもなっている。
十王のバス停の近くに、付近案内地図の大きな看板があった。案内書にはなかったが、看板の地図で「十王堂」というのが気になったので、街道から左へ入って十王区の公民館の裏側に「十王堂」があった。(右写真) 小さなお堂に重厚な入母屋。屋根上の沖縄のシーサーに似た小さな狛犬像が珍しかった。
旧東海道はやがて突き当たって右へカーブして行く。そのカーブの右側に成田山東光寺の石の門柱が立っている。(左写真) 前回歩いた時は、「向かいの八百屋のおかみさんが出て来て説明してくれた。この辺りも昭和19年の震災でかなりやられたと聞く。そばの秋葉灯籠も倒れて修復された。門柱は今も少し傾いている」と書いている。門柱の左側に薄緑の石碑がある。(左写真の左) 掛川市伊達方の道中に出生地の石碑のあった俳人伊藤嵐牛の句である。
さらに100mほど進み、「十九首塚」の矢印に導かれて右の路地を進んだ先、十九首町の公民館脇の植え込みの中に「十九首塚」はあった。(右写真) 新しい一基の五輪塔の墓石で、平将門の首塚と言われる塚である。
旧東海道は国道一号線とは別れ、大池の五叉路を左折して進む。500mほど真っ直ぐ行って天竜浜名湖鉄道のガードを潜る。(左写真)
さらに700mほど歩いて、午前10時27分、一乗山蓮祐寺に着く。前回歩いた時はここで休憩をとって次のように書きとめている。
今日は境内に人の気配がない。ただ紅梅が一本満開であった。(左写真) 蓮祐寺の前には「掛川市 大池一里塚跡」の道しるべがあった。
この後、旧東海道は国道一号線バイパスを潜り、東名高速を潜った。そして善光寺橋を渡ったすぐ右手に掛川市岡津の仲道寺がある。(右写真) 仲道寺は東海道の江戸〜京都間のちょうど真ん中に位置するといわれるお寺である。石段を上がるともう一つ善光寺というお寺がくっついている。
この先から始まる松並木は掛川市岡津から原川にかけて続く。大松は無いが、若木が補植され、両側共に残っていた。(左写真)
原川薬師は今は昔の賑わいをしのぶよすがも無いが、屋根を銅板張りに、窓をアルミサッシに、壁を波鋼板張りに改修されて、不思議な建物になっていた。(右写真)
次の四つ角に自然石に刻んだ標石があった。(左写真) 「是従 和田岡村 原谷村 経森町通 大正四年」と読めた。「森町」はもちろん遠州森町である。
左側の土手下に「花茣蓙公園」と呼ばれる小公園があった。(右写真) 公園内には木造屋形の秋葉山常夜燈と東海道・可睡三尺坊道標(右写真の右端)があった。可睡三尺坊道標は案内標によると、明治16年(1883)建立で「従是西東海道 可睡斎まで二里一二町」とあるという。他にも「名栗の立場」の案内板があった。
旧東海道はここからしばらく国道の南側を国道に沿うように進む。5分ほど歩いた左側に駕籠の形をした観光案内所の小屋があった。(左写真) 有名な土産品であった「名栗の花茣蓙」について、案内文が小屋の壁にあった。横の壁にはこれも土産品の「袋井丸凧」の絵が描かれていた。
この後すぐに松並木が始まり、袋井宿まで断続的に松並木が残っている。両側に土塁を整え、新しく植栽された松も多い。土塁の外側の溝を暗渠にして旅人の歩道に整備されていた。(右写真) 松並木の所々に東海道の浮世絵を大きく引き伸ばした案内板があって、往時を偲ばせる。その浮世絵の案内板にはそれぞれ地元の企業のスポンサー(寄贈者)ついていて、なかなか抜け目ない。
街道右に鮮やかな朱塗りの鳥居が目を引いた。(左写真) 注連縄が垂れ、鳥居の真下に「重要文化財 富士浅間宮」の大きな石碑があり、鳥居を潜っても工場敷地を区切る金網にぶつかるだけである。
正午を回って、久津部の集落に入った最初の、袋井東小学校の前庭に久津部一里塚がある。ぐるりを丸石を積んで固めた小さな塚とその上に設置した一里塚の記念碑は近年に新たに造られたものである。(左写真) 一里塚上にはかってのように松の木が植えられていた。また向いにも「江戸から六十里 久津部一里塚跡」の標柱が立っていた。
久津部の集落には自然石に刻んだ、「油山寺道標」(大正四年久津部青年会設置)、「村松・宇刈道標」、「八幡社入口道標」、「法多山道標」(右写真)(大正四年久津部青年会設置、「是より下貫名を経て法多山に通ず」と読める)、二つ目の「油山寺道標」などが辻ごとに設置されている。また巨大な「秋葉山常夜灯」があった。(左写真) 昭和二十八年に久津部地区内の「村中安全」を祈って設置されたものという。
ここから袋井宿の手前にかけて松並木が続く。案内板があった。
「東海道松並木」の案内板にあった「従是油山道」の古い石標(右写真)と「是より可睡三尺坊道」の石標が北へ入る小路を挟んで立っていた。これで松並木も尽き、いよいよ袋井宿に近づく。
旧東海道は新屋二丁目のブロックを東北角から西南角の対角線上を進む。その中程の左側角に「新屋の秋葉山常夜灯」がある。(左写真) 瓦屋根を載せた木造の「屋形」常夜灯を東海道で最初に見たのは間の宿の菊川宿である。こういう形式の常夜灯は遠州独特のものであろうか。新屋の秋葉灯は今まで見てきた中でも最も立派なものである。頭でっかちなほど大きく重厚な瓦屋根、軒下の細かい彫刻、美しい機能美を見せる格子や腰板部など、隅々まで製作者の力の入れ方がうかがえる。
「これより袋井宿」の大きな石柱のそばに昔の「天橋」の橋柱が残っていた。(右写真)
袋井宿の入口の「天橋」を渡った所がかって桝型であった。現在も天橋を渡ると少し広く、道が折れ曲がって名残を示している。西側の小公園の中に「日本一小さな歩く道の駅 東海道どまん中茶屋」が出来ていた。(左写真) 今回立寄れなっかたが、色々な施設ができるものである。そこに「袋井市 袋井宿」のの道しるべがあった。
袋井宿に入って200mほど進んだ右側に、東本陣の跡が小公園に整備されていた。(右写真) 公園内に冠木門だけが再建されていた。
袋井中央町の交差点の角に「袋井宿場公園」がある。(左写真) 門を入ると塀の内側が掲示場所になっていて、イベント情報などが掲示されている。
街道北側に中本陣・問屋場・西本陣と続くが、現在は角柱の案内標識が立つだけである。そしてその先に「袋井丸凧」の看板のある店があった。(右写真) 今日は休みでカーテンが閉まっていて中はうかがえなかった。
袋井宿の東の入口が天橋ならば、西の入口は中川橋(御幸橋)である。いずれも宿の南側を流れる原野谷川の支流の広岡川(天橋)、宇刈川(中川橋)に架かった橋である。袋井宿はこれらの川に包囲された地にあり、古くから治水のための土手に囲まれていたと言われる。



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