第 16 回 〔後半〕
  平成14年2月11日(月) 
 晴れのち一時風花
 −川井−木原−三ヶ野−見付宿
 “木原畷の古戦場と点在する巨木たち”



 中川橋を渡って、街中を500mほど進んだ左側に、真ん中に一段高い歩道のある横町がある。その歩道に「御料傍示杭」があった。杭は新しい角柱にペンキで書かれた物である。側面に「従是東天領袋井宿 従是西掛川藩川井村」と書かれている。この傍示杭に「万葉歌碑110m(袋井中学校正門内)」の標識板が取り付けてあった。導かれるように万葉歌碑に寄り道した。

 袋井中学校を入った正面にその万葉歌碑はあった。(右写真) 碑面は万葉仮名で簡単には読めないが、案内板があり理解できた。それにしても防人の歌に勇ましい歌は見たことが無い。
 右側に鉄錆の浮いた「明治天皇御小休所跡」の看板があった。碑がこの路地奥にあるとの情報に探してみたが、見つけられずに、旧国道一号線に出てしまった。あきらめて先へ進む。

 広い四つ角を突っ切って、5分ほど進んだ左に、白いペンキで塗られた洋風木造建築があった。(左写真) 袋井市指定文化財の旧澤野医院である。建物の市への寄付を機会に袋井市が整備し、一般に公開している。入館無料というので入ってみる。

 大きなレントゲン、小さな手術台、二階の板張りの病室など、一昔前まで現役で使われていた生々しさがまだ残っているように思えた。裏の住宅部分は純和風である。復元改装に八千万円ほどかかったと、係員が問わず語りに教えてくれた。表に案内板があった。
 3分ほど西進した右側に黒塗り板壁の長屋門があった。「寺澤家長屋門」である。(左写真)

 さらにすぐ先に津島神社の小さな祠がある。(右写真) 案内文にこの神社の縁起にお札が降ったという話が残っていた。
 お札が降るというと “ええじゃないか” と叫びながら民衆がいっせいに伊勢参りに出かける “お蔭参り” を思い出す。お蔭参りもきっかけは天から降ってきた伊勢神宮のお札であった。天からお札が降るわけはないので、仕掛人がいるはずである。頭のいい仕掛人が。

 午後3時2分、旧東海道は川井の交差点で旧国道一号線と合流する。合流前に「袋井市 川井」の道しるべがあった。

袋井宿 宿境まで八町 → 東 宿場公園江十町【袋井市 川井】西 許弥神社江八町 → 見付宿 宿境まで一里十一町

 旧国道一号線を500mほど西進して、旧東海道は右へ分かれて木原の集落に入る。右への分岐点に「袋井市 木原松橋」の道しるべがあった。

袋井宿 宿境まで十三町 → 古戦場木原畷【袋井市 木原松橋】西 一里塚跡江二町 → 見付宿 宿境まで一里六町

 木原の集落に入ってすぐ右手に木原一里塚跡の標柱があり、その先の左側に復元された木原一里塚があった。(右写真)
 一里塚の先の右側に許禰(こね)神社(木原権現社)がある。(右写真) 社叢に入った左側に御神木にもなっているクスノキの巨木があった。(左上写真) これを2本目の「袋井宿の巨木」にする。幹の根元の大きなこぶが幹周を太くしている。後日調べたところ、樹種 クスノキ、幹周 6.5m、樹高 15m、枝張 24mの巨木であった。
 許禰神社は木原畷(なわて)と呼ばれる古戦場である。武田軍がこの地に砦を築き、袋井の北部の久野城に立て籠もる久野氏と一戦を交えた。有名な三方ヶ原の戦いの前哨戦であった。神社入口左に木原畷の石碑と案内板があった。
 旧東海道が再び旧国道一号線に合流する手前右側に、「袋井市 木原」の道しるべがあった。

袋井宿 宿境まで十七町 → これよりどまん中袋井【袋井市 木原】木原大念佛発祥之地 → 見付宿 宿境まで一里二町

 その先の駕籠の形に作られたごみ収集小屋に、「木原大念仏」の案内が描かれていた。(左写真) 「木原大念仏」は遠州地方の各地に残る遠州大念仏の一つで、遠州大念仏は元は信玄・家康が戦った三方ヶ原の戦いの犠牲者供養を目的にした念仏踊りである。年々華美になり、宗教色は薄れ、娯楽性の強い行事となってきた。現在、各地に70ほどの組があり、無形文化財になっているものも多い。お盆に新盆の家々をめぐり、横笛や太鼓などに合わせて念仏を唱えながら踊り、死者の霊を弔うという。
 木原を過ぎ、旧東海道が旧国道一号線に再合流してまもなく、磐田市に入る。

 数分西進した西島の集落で、看板に導かれて左の横町に入った所に須賀神社がある。神社には境内を覆うほどのクスノキの巨木があった。(右写真) この巨木も街道筋の巨木として見逃すわけには行かないので、少し早いが「見付宿の巨木」とする。数年前に最初に見てから一度神社が火災を受けたとニュースで聞いた覚えがあるが、ほとんど被害を感じさせない勢いがあった。真ん中の巨枝がもぎれたように折れ、中の洞を見せている辺りがその時の被害であろうか。
 旧東海道はまもなく太田川に架かる三ヶ野橋を渡る。その先で道は国道一号線、袋井バイパス、磐田バイパスが立体交差で合流分岐する三ヶ野インターチェンジに入る。インターチェンジの北側には珍しいトンボの生息地で有名な桶ヶ谷沼がある。磐田市はトンボで町興しをしている。旧東海道は最も南を松並木に導かれて西進する。

 途中、旧東海道松並木の案内板と「磐田市 三ヶ野」の道しるべがあった。
袋井宿 宿境まで三十一町 → 【磐田市 三ヶ野】 → 見付宿 宿境まで三十一町

 すぐに旧東海道は磐田原へ上って行くが、この狭い狭間に国道一号線やバイパスなどの道がひしめくように通っている。この坂を三ヶ野(みかの)坂と呼ぶ。三ヶ野坂には鎌倉・江戸・明治・大正・昭和・平成及び抜け道の質道の7つ道が複雑に越え、現在も残る珍しい坂である。それらは「三ヶ野坂の七つ道」と呼ばれて、一部散策道として整備されている。左写真はそれぞれの道に建てられた石碑で、左上「鎌倉の古道」、右上「江戸の古道」、左下「明治の道」、右下「大正の道」である。

 我らは右に分かれる「大正の道」を横目で見て、「明治の道」の坂道を上がった。途中から遊歩道に整備された「江戸の古道」を大日山に登った。登り切った所に七つの道の地図と案内板があった。
 「鎌倉の古道」はもっと南寄りからこの尾根に登って来て、「江戸の古道」の反対側からここに合流する。

 これより東へ少し登った大日山の山頂に大日堂がある。(右写真)すでに午後4時を回った。大日山の山頂は先ほど通った木原方面が一望に出来る見渡せる高台である。ここも木原畷と同じ三方ヶ原の戦いの前哨戦の古戦場で、家康方の本多平八郎がこの高台より木原畷に陣を張る武田軍の様子をうかがったといい、「本多平八郎物見の松」と呼ばれる大松があったとようだが、枯れてしまったのか今は見当たらない。
 大日山から三ヶ野坂上の集落にだらだら下る途中で振り返ると、傾いた西日に我々の影が長く伸びて面白かったので写真を撮ってみた。(左写真)

 さきほど途中までたどった「明治の道」と合う角に、真新しい「車井戸之跡」の碑と風化した「従是鎌田山薬師道」の道標が立っている。(右写真)

 この角から南方に1.5km行った所に鎌田山醫王寺がある。かっては薬師如来を本尊とする鎌田の金剛院と呼ばれ、この角はその参道の入口であった。

 三ケ野坂上地区には昔は井戸がなく、近くの谷まで水汲みにいったり、雨水を溜めて利用したりと、大変不便であった。弘化4年(1847)に、金剛院によって、参道の入口であるこの坂上の辻に井戸が掘られた。滑車によって汲み上げるこの車井戸は、水道が敷かれるまで、地元の人々の手で大切に管理されていたが、昭和35年簡易水道が出来て埋められた。そして井戸があった場所に設置されたのが「車井戸之跡」の石碑である。

 磐田原の松並木が残る道を20分ほど進むと、旧東海道は少し登って国道一号線と合流する。すぐに国道の右側の高台に石段があって、「遠州鈴ヶ森」の白い看板が見えた。(左写真)

 「鈴ヶ森」と言えば東京品川の「鈴ヶ森」であるが、「遠州鈴ヶ森」も刑場跡である。もっとも実際の刑場はここよりまだ西にあったと言われている。金谷宿に首塚のある日本左衛門の首が晒されたところでもある。因みに日本左衛門は京で自首し、江戸で処刑され、見付宿で首を晒され、金谷宿にその首塚があるということになる。

 石段を登ってみると20坪ばかりの所に、笹に半分隠れた「妙法無縁之萬霊」と刻まれた供養塔があった。何やら妖気漂うといった気配に、早々に退散した。

 100mほど先で旧東海道は国道から分かれ、右手に入っていく。すぐに小さな川に架かった三本松橋に「別名なみだ橋」 の看板があった。品川の鈴ヶ森にも涙橋があり、肉親らが処刑者を見送ったと案内板に書かれていたのを思い出す。この「なみだ橋」も同じ役割を持った橋だったのだろう。

 午後4時30分を回り日暮が近づいてきた。今日は磐田駅がゴールである。気持が急く。

 旧東海道は磐田市街に入る直前に、左側に愛宕山の樹叢を見ながら、下って行く。その愛宕山には阿多古山一里塚がある。下ったところがかっては見付宿の木戸があった所で、右側に「木戸跡」の看板が立っている。反対の左側には愛宕山に登る石段があり、「市指定文化財 阿多古山一里塚」の案内標識と案内板があった。

 石段を登るにつれて磐田の市街が見えてくる。(左写真) 絶好の見晴台である。傾いた日差しの中でこれから歩く磐田市の目抜き通りとその先の旧見付小学校の建物まで見渡せる。

 阿多古山一里塚は階段を上り詰めた愛宕神社裏の樹叢の中にあった。(右上写真) この愛宕神社は往時の案内書には「十王堂」と書かれている。愛宕山の最高地点に一里塚の石碑が立っていた。今は人影がないが、前回歩いた時には幼い子供たちと遭い次のように書き残した。

 かっては両側が沢か何かで、東海道はこの神社の高台を越して見付宿に入ったのであろう。そこへ幼い子供たちが4、5人、道の無い斜面を登って来た。手にビニール袋を持った女の子に、和さんが「何を探しているの」と聞いたところ、「秋を見つけに来たの」 ・・・・・・・

 すでに午後4時45分、見付宿も色々と見所も多いのだが、先を急がねばならない。日暮までに残された時間は1時間とない。この旅の記録も飛ばして行こう。

 見付といったら、霊犬悉平太郎の伝説や裸祭で有名な見付天神であるが、参道の鳥居と寛政元年の年号のある一対の天神燈籠を横目に見て素通り。またJA遠州中央見付支店前には「天神の木 東之梅塚」の標識と梅の木一本の植込みがある。燈篭が一基、倒れている。これもクエスチョンマークをつけたまま素通り。ライト兄弟より早く世界で初めて大空を飛んだといわれる、鳥人浮田幸吉住居跡の看板もあったが素通りした。

 大見寺へ入る横丁の角に、「東海道見付宿」の石碑があった。(左写真) 標識によると大見寺には鳥人浮田幸吉の墓もあるようだ。つぎに、「磐田市 見付宿」の道しるべを見つけた。磐田市に入って初めての道しるべである。

袋井宿 宿境まで一里二十六町 → 【磐田市 見付宿】 → 豊田町 宿境まで三十一町

 淡海国玉神社(惣社明神)の入口に高札場之跡の看板がある。隣には立派な常夜燈がある。馬場町安全の文字が白く浮いている。(右写真)

 淡海国玉神社の隣が旧見付小学校である。最上階までは5層あるが、今は2階より上に冬の夕日が当っている。(左下写真) もちろん今日は見学時間はとっくに過ぎている。それでもそばまで行って見た。
 前回歩いたときにはゆっくり見学しており、次のように書き記している。

 旧見付小学校では今日開校120年の記念式典があった。受付の女性はようやく片づいたところだと話した。入場は無料でスリッパに履き変えて上がる。明治8年完成の校舎は当時としては最先端の建築だったのだろう。当初は2階2層の4階建てだったのが、3階を増設して3階2層の5階建てになっている。内部には明治の小学校の教室が再現され、生徒の人形が置かれている中に、本物の小学生が何人か坐って、備付けの感想記録ノートを書いていて、どきっとさせられた。
 旧見付小学校の裏手には隣の淡海国玉神社の神官の大久保忠尚が立てた江戸末期の図書館『磐田文庫』があった。最近古い材料を最大限に残して修復されて、蔵造りの白壁が鮮やかであった。残念なことに図書の多くは散逸していると係員が説明してくれた。
 旧見付小学校の最上層まで登ってみた。風が爽やかであった。


 前回も旧見付小学校の向かいで「又一きんつば」を買ったが、今日も女房が買いに行く。きんつばと言うと「又一きんつば」もそうであるが、今は機械製の角張ったものが主流である。昔風の刀のつばの形に似た少し油の香りのする手焼きのものが懐かしい。

 旧東海道が左折する少し手前に、「西坂の梅塚」という新しい小公園が出来ていた。ここにも梅の木が一本植わっている。

 旧東海道は西坂町で磐田駅の方向へ左折する。左折しないで真っ直ぐに西に進む道は「これより姫街道」という看板があった。(右写真) 三州御油までの姫街道の始点である。また池田への近道でもある。

 左折して100mほど行った右側に東福山西光寺の入口がある。表門は江戸時代のもので市の文化財に指定されている。(左写真)
 鐘楼を兼ねた山門を入ると薄暗い境内にクスノキの巨木があった。「西光寺の大樟」である。(右下写真) 奥に向って少し傾いているが、堂々とした巨木である。2本目の「見付宿の巨木」としよう。

 西光寺から戻ったすぐの所に木戸をデザインしたモニュメントが立っていた。(左写真) 冠木門の一部、木戸の一部、行灯が街灯も兼ねているのだろう。

 国道一号線を南に渡る。旧東海道は真っ直ぐの道から少しだけ左に逸れて、また元に戻る。戻った所に公衆トイレがあった。前回、このトイレに入ったらいきなり磐田市讃歌といった類の歌が始まりびっくりさせられた。公衆トイレに入る人に反応するのであろう。今回も入ってみる。壊れてしまったかなと出掛かるとそこで始まった。健在であった。

 街道右側に国分寺跡の入口があり、中に入ると草地のだだっ広い公園になっていた。(左写真) 1260年前の天平13年、聖武天皇の詔勅で国分寺の大伽藍が全国各地に建設された。ここにも七重の塔などの大伽藍が建てられた。現在その礎石などが発掘されている。出来たばかりの日本の壮大なパワーが知れる。この遺跡から駅まで続く前の道路(旧東海道)は「天平通り」と名づけられているようだ。

 礎石の一部が手洗石として残っていた。(左写真の右)
 国分寺跡の向いには夕闇にまぎれかけている府八幡宮の鳥居や森が見えた。ここにも万葉歌碑があったりするが、もう今日は終わりだ。

 旧東海道は駅前の交差点を右に曲がって続くが、午後5時43分、今日はここで終る。すでに灯りの灯った和風の磐田駅の前には「ともはにわの碑」や「ジュビロ君人形」が街灯の明りに浮かんでいた。(右写真)

 花粉症に効くお茶を一日飲んできたが、一日調子が良く、花粉を感じないで来た。効いたのか、花粉の飛ぶ量が少なかったのか。まだ結論を出すのは早い。

 本日の歩数は 38,783歩であった。

  






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