第 18 回 
  平成14年4月28日(日) 
 晴れのちくもり
 浜松宿−二つ御堂−舞阪宿−弁天島−新居宿
 “凧揚げムードの浜松から 荒廃ムードの弁天島へ”



 3月に商用で中国の上海から杭州に2度行ってきた。いずれも1週間足らずの滞在であった。中国は3年ぶりであったが、景気低迷でデフレに陥っている日本と違って、中国は昭和40年代の日本のように高度成長期にあって、見るたびに大きく変わっている。自分が若い頃のかっての日本は、高度成長期には数々の矛盾を抱えながらも、今日より明日、明日より明後日と未来に対する希望に満ちていた時代であった。中国へ行くとその時代にタイムスリップするようで、感慨深いものがある。

 中国のビジネス現場でも、街を歩いていても、お年寄りに遭うことはほとんど無い。60才定年制が厳格に守られていて、定年になったら一切仕事をしてはならないのだという。ボランティアさえ禁止されているのだそうだ。何しろ人口が13億人というから人はいくらでも居る。年寄りが仕事をすると若い人の仕事を取ってしまうことになるという発想なのである。

 それではお年寄はどこに居るのか。訊けば家にいますとの答えが返ってくる。ある時上海の魯迅記念館を見学した後、付属した公園を散策した。公園の中はお年寄でいっぱいであった。太極拳をする人、野外でマージャンに興じる人たち。魯迅の墓の前の50cm四方ほどの碁盤の目になったコンクリートの床に、大筆にバケツの水をつけて文字を書いているお年寄がいた。さすがに漢字の国である。素人目にも素晴らしい筆遣いであった。しかし書いた字は1時間足らずで乾いてしまう。乾いたらまた書く。日なが、この繰り返しで一日が過ぎて行くのだろう。それを見学する人もいる。書もどんどんうまくなって行く。最高の暇つぶしである。しかし一抹の寂しさを感じるのも確かである。

 夫婦旅も、旅の記録も “暇つぶし” だったはずが、いまやそれどころでは無くなっている。特に記録をまとめるために、夜の時間の多くの部分が消えている。

 午前9時20分、浜松駅前の地下広場からアクトシティのランドマークビルを見上げた。(右写真) 今日もいい天気である。

 北へ300mほどビル街を進んだ板屋町交差点より本日の東海道歩きを始める。すぐに遠州鉄道西鹿島線を潜る。遠鉄は新川を暗渠にして公園化し、その上空を高架になってJR浜松駅前に乗り入れている。新川を渡る万年橋(左写真)の案内板があった。
 ラッパの音が聞こえ、歩道の先を浜松の大凧が行く。大凧は一軒の商店の前に立て掛けられた。(右写真) 店の中から赤ん坊を抱いた奥さんが出て来て、大凧を前に記念撮影をしている。その凧のデザインは、後日調べたら、この商店街−田町の凧印であった。

 浜松まつり凧揚げ合戦は、約430年前の永録年間(1558〜1569)、引馬城主飯尾豊前守の長男義廣公の誕生を祝って、大凧を揚げたのが始まりという。その後、城下に長男が生まれると、すこやかな成長を祈って凧を揚げる「初凧」の風習が広まり、それが発展して現在の凧揚げ合戦のお祭りになったという。

 この田町の大凧は隅に「佑哉」と書かれており、長男の名前は「佑哉くん」というのであろう。5月始めの凧揚げ合戦を前に、出来上がった大凧をお披露目に持ち出したといったところか。いやが上にも盛り上がろうというものである。

 絵柄はかってはさまざまだったというが、その後凧揚げが町単位で行われるようになり、町毎に凧印が決まってきた。凧印には大きく分けて「絵凧」と「字凧」がある。昔は細かいデザインの絵柄も多かったが、高く上げても凧印が判別できるようにシンプルになり、「字凧」では町名の頭文字をデザイン化した凧印が主流となっている。田町の凧印はカタカナの「タ」をデザイン化したものであろうか。現在150を越す町が凧揚げ合戦に参加している。

 連尺町の交差点から少し東海道を離れて、「浜松宿の巨木」を求めて浜松城に道草する。大手通りを北へ300mほど進んだ市役所の裏(西側)に、浜松城公園がある。

 小山を登って行くと、日曜日の朝で散策する人も多い。家康の鎧姿の銅像が立っていた。「若き日の徳川家康公」とあったが、若く見えないのは家康故であろう。木立の中の上段に、「野づら積み」と呼ばれる古い石垣の上に、最下層が黒壁の三層の天守閣があった。(左写真) 本日は後のことを考えてここで引返す。
 ところで、「浜松宿の巨木」に似合う木は浜松城公園には見当たらなかった。案内地図に「鎧掛松」というのを見つけて東海道に戻る途中に寄ってみた。しかし、市役所別館前に植えられていたのは幼木ともいうべき三代目の松であった。(右写真) とりあえず、「浜松宿の巨木」にノミネートしておこう。本当は浜松宿の巨木に相応しいのは八幡宮の「雲立のクス」である。ただ、駅から北へ2kmほど道草するため断念していた。
 大手通りに戻り、連尺町の交差点の間に、大手門跡(左写真)、高札場跡、杉浦本陣跡、川口本陣跡の標識と案内板が続いて立っていた。もちろん広い通りにはそれを示す何物も残っていない。
 伝馬町の交差点、最近オープンしたザザシティ浜松というショッピングセンター角に、伝馬町の大凧が出ていた。(右写真) 伝馬町の「て」が大きく描かれただけの単純なデザインである。子供の名前は「英心」君であった。

 その角から数分、南進した塩町の駐車場に二枚の大凧が出ていた。(左写真) 凧印は色違いで、塩町の「志」が1字描かれていた。

 旧東海道はその先の成子坂の交差点を右折して、国道257号線としばらく分れる。その角に「浜松市 浜松宿」の道しるべがあった。

豊田町 宿境まで二里八町 →【浜松市 浜松宿】→ 舞阪宿 宿境まで二里二十八町

 また向かいの角には浜松名物「浜納豆」を商う店があった。(右写真) 屋号が「山や」さん。浜松でも浜納豆を作っている店は1、2軒だという。

 納豆といえば糸を引く納豆や甘納豆を思い出すが、この「浜納豆」は「塩辛納豆」ともいわれ、塩辛くて味噌に近い味である。最初頂いて食したとき、甘納豆をつまむような気持で口にし、口が歪んだ覚えがある。携行食としては適しているから、戦国の武将などには好まれたというのも判る。お茶漬けなどに入れれば美味しいかもしれない。

 背後に東海道歩きらしい団体の人影がちらほらしていた。団体に巻き込まれるのは厄介である。気持がどうしても前掛りになる。

 午前10時25分、成子坂の交差点から雄踏街道を100mほど西進した南側の角に子育て地蔵尊があった。(左写真) 横長の祠に十数体の石仏が並んでいた。真ん中に安置されたのが子育て地蔵尊なのだろう。いずれも都市化の中で路傍にあったものが集められたのであろう。
 旧東海道は菅原町の交差点から南西に真っ直ぐ進み、東海道線を越えて再び国道257号線と合流する。

 新幹線のガード抜けて旧東海道は八丁畷(はっちょうなわて)と呼ばれるまっすぐな道を行く。「八丁畷」といえば川崎宿を出た先にやはり「八丁畷」と呼ばれる道があり、最寄りに京浜急行八丁畷駅もあった。

 前回歩いたとき、新幹線のガードを潜ればすぐに「鎧橋」と思っていたが、記憶はいい加減で、小さな川に掛かった「鎧橋」を見つけるまでに10分近く歩いた。(右写真)
 旧東海道は西へカーブするが、案内書によるとその手前に「若林の一里塚跡」の石碑があったはずなのだが、うっかり見過ごしてしまった。

 カーブをまわるとすぐに街道を隔てて向い合わせに「二つ御堂」がある。左下写真が北側の阿弥陀堂、右下写真が南側の薬師堂である。前回の東海道ウォークの時には次のように記している。

 街道の南側に薬師堂、北側に阿弥陀堂と、小さなお堂が街道を隔てて2つ、向かい合って建っている。平安時代の末期、京に上った藤原秀衡(ひでひら)が病気になったとの報せに、夫人が京へ急いだ。ところがこの地で亡くなったとの報せに接し落胆して、秀衡の菩提を弔うために薬師堂を建てた。そのうち夫人も病で死んでしまった。数日後元気な秀衡が帰郷の途中この地に至り、夫人が亡くなったことを知った。秀衡は夫人のために、対面するように阿弥陀堂を建てたのだという。「二つ御堂」に夫婦の愛の物語を感じる前に、昔の通信手段の不備、不正確な情報伝達などを感じてしまうのは企業人の性であろうか。

 北側の阿弥陀堂前に案内板があった。
 北側の阿弥陀堂横に何代目かの秀衡松の幼木が植えられていた。(左写真)
 北側の阿弥陀堂の横の道を入った所に八幡神社がある。本殿の入口に鳥居のようにクスノキが二本立っていた。(右写真) このクスノキの謂れについて案内板があった。
 あと50年もすれば立派な巨木に数えられるに違いない。だからという訳ではないが、鎧掛松が貧弱であったから、二本目の「浜松宿の巨木」としよう。

 八幡神社から旧東海道に戻ると、道路の向う側の薬師堂に東海道歩きの団体が追いついて来ていた。薬師堂には赤い幟が乱立し、1本の松が入口を塞ぐように傾いていた。団体さんは開けられた薬師堂に上がりこんで、地元の人から説明を聞いている。こんな所は個人では叶えられない団体の良いところだと思う。しかし、団体行動にはとても付いてはいけないだろう。薬師堂には「二ツ御堂」と書かれた横額が掲げられていた。

 薬師堂の左隣には「明治天皇御野立所記念碑」の石柱が立っていた。(左写真) 「野立所」は「ご休憩所」である。明治天皇もここで休憩をとりながら、「二ツ御堂」の物語を聞かれたのであろうか。

 午前11時20分、少し早いが、後から追っかけてきそうな団体を避ける意味でも昼食にする。道路の向うに「手打うどん釜久可美店」の看板を見つけて歩道橋を渡る。歩道橋から振り返ると歩いてきた旧東海道に点々と松並木が続いていた。(右写真)

 うどんの食事の間に団体さんは通り過ぎたのか、引返したのか、その後彼らに会うことはなかった。

 この辺りから旧東海道には点々と屋形の秋葉常夜燈が見受けられた。午後0時7分、最初の秋葉常夜燈。(左写真の左端) 7分後に「堀江領境界石」の案内木柱があった。西の旧高塚村の堀江領と浜松藩との境にあった境界石と云うが、案内木柱以外には何も見つけえなかった。参考書に「従是東濱松領」と刻まれた1.5mの石柱というのがそれであろうか。どこか別の場所に移されているのだろうが、確認できなかった。

 さらに6分後、「麦飯長者跡」の案内木柱があった。かって旅人に麦飯を振る舞い、麦飯長者と呼ばれた小野田五郎兵衛という金持ちが居た。息子夫婦が若死し、幼い四人の孫娘に法華経の写経を教えた。この孫娘たちの平かなで書かれた写経を見て感動した白隠禅師が「八重葎(やえむぐら)」を著し、小野田五郎兵衛が資金を出して出版されたという。(「八重葎」は広辞苑によると「雑多に生えている蔓草。」 雑草のことであろう。)

 さらに10分後、旧街道は国道257号線を左に分けて旧市街地を西へ進む。その分岐の三角地に「浜松市 篠原」の道しるべがあった。

浜松宿 宿境まで一里十三町 →【浜松市 篠原】→ 舞阪宿 宿境まで一里十五町

 旧市街地を15分ほど進んだ右側に「篠原の一里塚跡」の案内板があった。
 さらに16分歩いた先に、二つ目の屋形の秋葉常夜燈(左上写真の中)があった。欄間の彫刻は飛翔する鶴の群れであろうか。続けてすぐに三つ目の屋形の秋葉常夜燈があった。(左上写真の右端) 何れの常夜燈にも注連縄が垂らしてあった。

 午後1時19分、右側に稲荷神社があった。広めの境内に広葉樹の大木が目立つ。案内板を読むと拝殿・灯篭・鳥居などに江戸時代の年号が目立つ。朱色に塗られた鳥居が両部鳥居と呼ばれることを初めて知る。広辞苑によると、「柱の前後に控柱(ひかえばしら)を設け、本柱と控柱との間に貫(ぬき)をつけたもの。」 「稚児柱鳥居」とも呼ばれるようだ。

 この辺りから、またほぼ3分から6分置きに屋形の秋葉常夜燈が次々に現れた。左写真の左上・右上・左下・右下の順であるが、三つまでは内部に石灯篭が入っていた。また四つ目のものは欄間の透かし彫りに「七面山」の文字が読めた。

 七面山というと山梨県の身延山の裏に位置する山で、身延山久遠寺の鎮守。山腹に日蓮宗の守護神七面大菩薩の本院・拝殿がある。七面山の常夜灯というのも有りなのだろう。

 途中、街道右側の草地に、「史跡引佐山大悲院観音堂聖跡」の石碑が立っていた。(右写真) かって馬郡観音堂が建っていたが、戦後に廃堂になり、定朝作と伝わる観音像はこれより北へ入った如意寺に移されているという。

 旧東海道が県道49号細江舞阪線と交わる交差点の北西角に春日神社がある。奈良の春日神社縁なのであろう、狛犬の代わりに左右に雌雄の鹿の像が祀られていた。(左下写真)

 午後1時47分、いよいよ舞坂の松並木が始まる。(右写真) 両側の緑地に、すべてが太い木ではないが良く補植され並木として整備されている。緑地の外側は歩道となっている。もちろん「舞阪宿の巨木」として、この松並木を置いては考えられないだろう。その松並木の始まりに「舞阪町 東海道松並木」の道しるべがあった。

浜松宿 宿境まで二里二十町 →【舞阪町 東海道松並木】→ 舞坂宿 宿境まで八町

 松並木は700mの間に300本を越える松が道の両側に並んで残っている。今まで見てきた松並木の中で、三島の初音ヶ原の松並木に並ぶ立派なものである。北側の歩道には所々に『子の刻』から始まる昔の時刻表示が刻まれた十二支を型取った石像が設置されていた。南側の歩道には広重の東海道五十三次を刻んだ銅板が嵌め込まれた石碑が並んでいた。

 松並木の中間辺りで、五十三次の石碑が舞坂の順番になった所に、一際大きな碑があった。(左写真) 舞坂の絵柄まで石碑に刻まれている。
 その先に舞阪宿唯一の橋であった「舞坂橋跡」の案内板があった。砂州に発展した舞坂には川は無い。池からの湧き水が水路を成して橋がかけられたという。海のそばに真水の池があるというのは沼津の大瀬崎の「大瀬の神池」を思い出すが、どう考えても不思議である。
 旧東海道が国道一号線と斜めに交わる舞阪新町の交差点で松並木が終る。その終点に公衆トイレがあったので夫婦して借りた。そばに「浪小僧」の像が出来ていた。(右写真)
 この伝説は遠州灘の波音が西南の方から聞こえるときは晴れ、東南から聞こえるときは雨というように、波音によって翌日の天気を予報していたことから出来た伝説であろう。

 国道一号線を横切って舞阪の町内に入ると、すぐに道の両側に「見付石垣」が残っていた。(左写真) ここが舞坂宿の東の入口である。石垣に使用されている、やや赤みを帯びた岩は浜名湖周辺で良く見る岩である。
 少し進むと左側に舞坂一里塚の石碑(右写真)と新町常夜燈(左下写真の左)が並んでいた。このスペースも細かい砂に覆われていて、舞阪が砂の上に出来た町であることが分かる。余分なことだが、往時、一里塚は砂では出来ないから土を運んで来て盛り上げたのであろうか。一里塚の碑の向かい側にも新しい「東海道舞坂宿一里塚」の石碑と小公園が出来ていた。
 続いて仲町の宝珠院前に常夜燈(左写真の中)と案内板があった。
 常夜燈はさらに西町にも同時代の常夜燈(左写真の右)がある。並べてみると、何れも同じ意匠で、おそらく同じ石工の手になったものと思われる。

 5分ほど進んだ右側の民家の前に、模様の美しい石に刻まれた「本陣跡」の石標(右写真)があった。
 午後2時31分、宮崎伝左衛門本陣跡の斜向かいに、最近町で解体復元して無料公開されている脇本陣の「茗荷屋」があった。(左写真) 玄関口の軒に唐破風が目立つ。「丸に抱き茗荷」の家紋を染めた白い幕が軒下に張り巡らしてある。

 内部ではNHKで現在放映されている金曜時代劇「お美也」の「平岩弓枝のお美也」展が開催されていた。平岩弓枝の原作「水鳥の関」をドラマ化したという「お美也」は隣の新居宿の本陣の娘という設定で、舞坂宿ではないが、浜名湖の辺の宿場で本陣・脇本陣として残っているのはここだけだから、その縁で展示会なのだろう。

 高島礼子扮する、新居宿本陣汐見家の娘・お美也が、封建時代故の運命に耐え戦いながら、実家の本陣の若女将として立ち働き、家業を支えて明るく生きて、幸せをつかむまでの物語である。大名の宿としての本陣内での日常が見えて、我々街道の旅人にとって興味深い。

 主屋棟と書院棟の間に中庭(右写真)があり、明り取りとともに空気が入れ替えが出来る。書院には一段高い上段の間がある。広くもない上段の間の中央にさらに一段高い畳2枚分の上座があった。

 脇本陣を出てすぐに浜名湖畔に出る。出た所にかっては一般人が利用する渡船の船着場「本雁木」があった。今は漁船の船着場になっている。
 渡船場手前の角に西町常夜燈があった。(4枚手前の写真の右) そばには舞坂宿のサインもあった。
浜松宿 宿境まで三里 →【舞阪町 舞坂宿】→ 新居宿 宿境まで一里十町

 湖畔に沿って3分ほど進んだ先に、往時の雁木の様子を残す「北雁木」がある。(右写真)

 この北雁木に敷きつめられた赤みを帯びた岩(左上写真)は「見付石垣」と同じもので、浜名湖畔によく見られるが、浜名湖あたりは赤石山脈の南のはずれになり、赤石山脈を構成している岩と同じ「斑岩」の一種だという。この赤味が「赤石山脈」の名の元になったという。

 北雁木から道路に戻った陸側の小公園に「那須田又七顕彰碑」があった。江戸時代、舞坂駅(宿)の駅長を勤めた又七は駅(宿)務の立て直しを行うとともに、海苔の栽培を広めるなど地元に大変功績があった。
 旧東海道は渡船場より船の旅となる。この航路は棒杭を打ち蛇籠を積んで船道が造られていたため、安全にのんびりと船旅が出来たという。船道は砂で埋まって来ると時々浚渫された。その砂を側の小島に積み上げたのが弁天島の基になったという。

 渡船がない現代の我々の旅は、弁天島を通って幾つか橋を渡り新居に進む陸路を行く。

 午後3時、弁天橋を渡り、国道一号線に合流してすぐの左側に、社が赤く鮮やかに塗られた弁天神社があった。(左写真) 境内に松の大木が何本かあるが、内1本、御神木になった松(左写真)を「弁天島の巨木」としよう。
 弁天神社の正岡子規の句碑は次の通りである。(右写真) 汽車の車窓から詠んだといわれる。

天の川 濱名の橋の 十文字   子規

 興津の清見寺で見た「秋晴や 三保の 松原一文字」の藤村の句と同じ発想の句だと思った。

  ホテルやリゾートマンション、遊興施設やレストランなど、どこの観光地にもある景色の中を中浜名橋、西浜名橋と渡って、新居の町に入った。弁天島には倒産したホテルや店仕舞いしたレストランなどが多く見られ、辺りに荒廃の空気が流れていた。白砂青松の地として多くの観光客を集めた弁天島も、今では多くの観光地がそうであったように、余りに多くの施設が出来て風光明媚な景色を失い、人々の足が遠のいてしまったのであろう。せめて潰れた施設は更地に戻し、松林に戻せば客足が戻るのではなかろうか。橋の上から糸を垂れて釣をする人が多く見られた。

 午後3時57分、新居駅に着いて本日の東海道歩きを終えた。本日の歩数は 35,821歩であった。







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