



午前9時20分、浜松駅前の地下広場からアクトシティのランドマークビルを見上げた。(右写真) 今日もいい天気である。
北へ300mほどビル街を進んだ板屋町交差点より本日の東海道歩きを始める。すぐに遠州鉄道西鹿島線を潜る。遠鉄は新川を暗渠にして公園化し、その上空を高架になってJR浜松駅前に乗り入れている。新川を渡る万年橋(左写真)の案内板があった。
この田町の大凧は隅に「佑哉」と書かれており、長男の名前は「佑哉くん」というのであろう。5月始めの凧揚げ合戦を前に、出来上がった大凧をお披露目に持ち出したといったところか。いやが上にも盛り上がろうというものである。
連尺町の交差点から少し東海道を離れて、「浜松宿の巨木」を求めて浜松城に道草する。大手通りを北へ300mほど進んだ市役所の裏(西側)に、浜松城公園がある。
ところで、「浜松宿の巨木」に似合う木は浜松城公園には見当たらなかった。案内地図に「鎧掛松」というのを見つけて東海道に戻る途中に寄ってみた。しかし、市役所別館前に植えられていたのは幼木ともいうべき三代目の松であった。(右写真) とりあえず、「浜松宿の巨木」にノミネートしておこう。本当は浜松宿の巨木に相応しいのは八幡宮の「雲立のクス」である。ただ、駅から北へ2kmほど道草するため断念していた。
大手通りに戻り、連尺町の交差点の間に、大手門跡(左写真)、高札場跡、杉浦本陣跡、川口本陣跡の標識と案内板が続いて立っていた。もちろん広い通りにはそれを示す何物も残っていない。
伝馬町の交差点、最近オープンしたザザシティ浜松というショッピングセンター角に、伝馬町の大凧が出ていた。(右写真) 伝馬町の「て」が大きく描かれただけの単純なデザインである。子供の名前は「英心」君であった。
その角から数分、南進した塩町の駐車場に二枚の大凧が出ていた。(左写真) 凧印は色違いで、塩町の「志」が1字描かれていた。
また向かいの角には浜松名物「浜納豆」を商う店があった。(右写真) 屋号が「山や」さん。浜松でも浜納豆を作っている店は1、2軒だという。
背後に東海道歩きらしい団体の人影がちらほらしていた。団体に巻き込まれるのは厄介である。気持がどうしても前掛りになる。
旧東海道は菅原町の交差点から南西に真っ直ぐ進み、東海道線を越えて再び国道257号線と合流する。
街道の南側に薬師堂、北側に阿弥陀堂と、小さなお堂が街道を隔てて2つ、向かい合って建っている。平安時代の末期、京に上った藤原秀衡(ひでひら)が病気になったとの報せに、夫人が京へ急いだ。ところがこの地で亡くなったとの報せに接し落胆して、秀衡の菩提を弔うために薬師堂を建てた。そのうち夫人も病で死んでしまった。数日後元気な秀衡が帰郷の途中この地に至り、夫人が亡くなったことを知った。秀衡は夫人のために、対面するように阿弥陀堂を建てたのだという。「二つ御堂」に夫婦の愛の物語を感じる前に、昔の通信手段の不備、不正確な情報伝達などを感じてしまうのは企業人の性であろうか。
北側の阿弥陀堂横に何代目かの秀衡松の幼木が植えられていた。(左写真)
八幡神社から旧東海道に戻ると、道路の向う側の薬師堂に東海道歩きの団体が追いついて来ていた。薬師堂には赤い幟が乱立し、1本の松が入口を塞ぐように傾いていた。団体さんは開けられた薬師堂に上がりこんで、地元の人から説明を聞いている。こんな所は個人では叶えられない団体の良いところだと思う。しかし、団体行動にはとても付いてはいけないだろう。薬師堂には「二ツ御堂」と書かれた横額が掲げられていた。
薬師堂の左隣には「明治天皇御野立所記念碑」の石柱が立っていた。(左写真) 「野立所」は「ご休憩所」である。明治天皇もここで休憩をとりながら、「二ツ御堂」の物語を聞かれたのであろうか。
この辺りから旧東海道には点々と屋形の秋葉常夜燈が見受けられた。午後0時7分、最初の秋葉常夜燈。(左写真の左端) 7分後に「堀江領境界石」の案内木柱があった。西の旧高塚村の堀江領と浜松藩との境にあった境界石と云うが、案内木柱以外には何も見つけえなかった。参考書に「従是東濱松領」と刻まれた1.5mの石柱というのがそれであろうか。どこか別の場所に移されているのだろうが、確認できなかった。
旧市街地を15分ほど進んだ右側に「篠原の一里塚跡」の案内板があった。
午後1時19分、右側に稲荷神社があった。広めの境内に広葉樹の大木が目立つ。案内板を読むと拝殿・灯篭・鳥居などに江戸時代の年号が目立つ。朱色に塗られた鳥居が両部鳥居と呼ばれることを初めて知る。広辞苑によると、「柱の前後に控柱(ひかえばしら)を設け、本柱と控柱との間に貫(ぬき)をつけたもの。」 「稚児柱鳥居」とも呼ばれるようだ。
途中、街道右側の草地に、「史跡引佐山大悲院観音堂聖跡」の石碑が立っていた。(右写真) かって馬郡観音堂が建っていたが、戦後に廃堂になり、定朝作と伝わる観音像はこれより北へ入った如意寺に移されているという。
午後1時47分、いよいよ舞坂の松並木が始まる。(右写真) 両側の緑地に、すべてが太い木ではないが良く補植され並木として整備されている。緑地の外側は歩道となっている。もちろん「舞阪宿の巨木」として、この松並木を置いては考えられないだろう。その松並木の始まりに「舞阪町 東海道松並木」の道しるべがあった。
松並木の中間辺りで、五十三次の石碑が舞坂の順番になった所に、一際大きな碑があった。(左写真) 舞坂の絵柄まで石碑に刻まれている。
旧東海道が国道一号線と斜めに交わる舞阪新町の交差点で松並木が終る。その終点に公衆トイレがあったので夫婦して借りた。そばに「浪小僧」の像が出来ていた。(右写真)
国道一号線を横切って舞阪の町内に入ると、すぐに道の両側に「見付石垣」が残っていた。(左写真) ここが舞坂宿の東の入口である。石垣に使用されている、やや赤みを帯びた岩は浜名湖周辺で良く見る岩である。
少し進むと左側に舞坂一里塚の石碑(右写真)と新町常夜燈(左下写真の左)が並んでいた。このスペースも細かい砂に覆われていて、舞阪が砂の上に出来た町であることが分かる。余分なことだが、往時、一里塚は砂では出来ないから土を運んで来て盛り上げたのであろうか。一里塚の碑の向かい側にも新しい「東海道舞坂宿一里塚」の石碑と小公園が出来ていた。
続いて仲町の宝珠院前に常夜燈(左写真の中)と案内板があった。
5分ほど進んだ右側の民家の前に、模様の美しい石に刻まれた「本陣跡」の石標(右写真)があった。
午後2時31分、宮崎伝左衛門本陣跡の斜向かいに、最近町で解体復元して無料公開されている脇本陣の「茗荷屋」があった。(左写真) 玄関口の軒に唐破風が目立つ。「丸に抱き茗荷」の家紋を染めた白い幕が軒下に張り巡らしてある。
湖畔に沿って3分ほど進んだ先に、往時の雁木の様子を残す「北雁木」がある。(右写真)
北雁木から道路に戻った陸側の小公園に「那須田又七顕彰碑」があった。江戸時代、舞坂駅(宿)の駅長を勤めた又七は駅(宿)務の立て直しを行うとともに、海苔の栽培を広めるなど地元に大変功績があった。
旧東海道は渡船場より船の旅となる。この航路は棒杭を打ち蛇籠を積んで船道が造られていたため、安全にのんびりと船旅が出来たという。船道は砂で埋まって来ると時々浚渫された。その砂を側の小島に積み上げたのが弁天島の基になったという。




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