第 19 回 
  平成14年5月19日(日) 
 晴れのちくもり後一時雨
 新居宿−潮見坂−白須賀宿−境宿(加宿)−二川宿
 “江戸時代の名残を見る、新居関所から二川宿本陣まで”



 五月初旬、姪の結婚式で帰郷した。式場は隣町の古い城下町、出石町の「時を奏でるホテル」。そのホテルに一泊後、朝、実家に用を思いつき、結婚式前に車で向った。町屋の実家近くに来ると、何やら人寄りがしている。何事だろうと少し離れた路上に駐車して実家に向うと、人寄りは実家であった。200人ほどの人が集まっている。家に入ると、花嫁姿の姪がまさに父母との分れの場面を演じているところであった。ハレの今日、姪は緊張した面持ちで仲人夫妻に先導されて、集まった人たちの注目を浴びながら、少し歩いてハイヤーに乗り込んで行った。

 出発後、集まった人たちにはお祝いのお裾分けの菓子袋が配られる。花嫁の自宅からの出立に思いがけず立ち会えた。後日、幼いころの友人に話すと、「お菓子が欲しくて、うわさを聞きつけては、あちこち行ったものだよ」という。しかし、故郷を離れてすでに三十数年、自分の記憶からはすっかり落ちていて、はじめて見るような新鮮な行事に見えた。

 東海道を歩いていて、葬式にはあっても、まだ花嫁姿を見たことはなかった。どこかで一度くらい出会ってみたいものである。

 ともあれ、東海道歩きも本日で静岡県を終える予定である。今日のコースまでは前回歩いた記録が残っている。

 午前10時20分、JR新居駅前に降り立つ。旧東海道は駅前の国道一号線を西へ向う。駅から南へ300mほど入った所に「トウトの松」と呼ばれる松があるとの情報に少し道草した。新居駅前の向かい側に小公園があり、遠州新居手筒花火の像があった。(右写真)
 「トウトの松」は新居高校の北側の住宅地の中にあった。トウトの松は残念ながら枯れてしまっていた。今は一段高い壇上に二代目が植えられていた。(左写真)
 新居駅に戻って西へ進む。駅から続く緑地内に山頭火の句碑あった。(右写真)

水のまんなかの道がまっすぐ   山頭火

 この句も子規の「天の川 濱名の橋の 十文字」や興津清見寺で見た藤村の「秋晴や 三保の 松原一文字」と同じ視点の句である。
 新居関所の手前、街道の左側に関所の駐車場がある。駐車場の裏側に浜名湖から水路で繋がる船だまりがあった。往時、周辺は入江で船囲い場になっていた。駐車場のあたりが渡船場となり、隣接する関所では往来者を容易に検閲出来た。明治以降、ほとんどが埋め立てられ、現在はその一部に面影を見るだけである。(左写真)

 船だまりにある一棟のスレート壁に、「関所渡し渡船場 お問い合わせは漁協へ」と電話番号が記載されていた。そこへ連絡すれば新居〜舞阪の渡船を出してくれるのだろう。機会があったら船でも渡って見ようと女房と話す。

 新居関所の東側に堀が掘られ、石垣と雁木が復元されていた。(右写真) 実際にははるかに大規模だったはずだが、復元されているのはその一部であろう。潮位に合わせる必要から、船着場が雁行のように段になっている様子がよく分かった。

 午前11時、女房が入場したことがないというので、入場料300円払って見学した。入場時に頂いたパンフレットによれば、

 新居関所は、正式には今切関所といって、慶長5年(1600)に設置されました。創設当初は浜名湖の今切口に近い、現在「大元屋敷」と呼ばれている場所にありました。しかし、地震や津波などの災害でいく度も移転をしいられ、現在地は三度目の場所です。
 江戸時代には面番所・書院・番頭勝手・給人勝手・下改勝手・足軽勝手・女改め長屋などの施設がありました。このうち現存する建物は面番所・書院・下改勝手・足軽勝手で、安政2年(1855)に建てかえられたものです。
 新居関所は明治2年(1869)の関所廃止令によって約270年にわたる歴史に幕を閉じ、それ以後は小学校や役場として使用されました。昭和30年(1955)に国の特別史跡に指定され、さらに昭和46年に解体修理工事を行い、現在では全国に唯一現存する関所建物として大切に保存されています。


 「面番所」が往来者の取り調べを行ったところで、建物の側面の長手部分が縁側になり、前庭が白洲になっている。(左上写真) 「勝手」が現在では台所のことをいうが、往時は控え所のようなものであろう。「女改め」とは、当時「入鉄砲に出女」はことのほか取調べが厳しく、女性の通行に際して、服装だけで判断できない場合は「改め女」が別室で身体を検めたという。「改め女」は足軽の母親がつとめ、「女改め長屋」に住んでいた。

 前庭の松の大木の根元に自然石に刻まれた太祇の句碑があった。(右写真)
 前庭には他にも「荷物石」(左写真の下)や「関所の石樋」(左写真の左上)が置かれていた。「荷物石」には写真のように荷物を置いて白洲に向ったものであろう。「関所の石樋」は浜名湖への注ぎ口に横にして取り付けられていたものであろう。
 新居関所跡から3分ほど歩いた先の左側に、旅籠紀伊国屋が修復公開されていた。(右写真) 新居関所でその情報をもらい、200円の入場料を150円に割り引いてもらって見学する。
 ここでもNHK金曜時代劇「お美也」の案内がされ、窓口の人が平岩弓枝の原作「水鳥の関」のモデルになった本陣は突き当たりの「飯田武兵衛本陣」であると教えてくれた。

 街道はすぐに突き当たり、左折して進む。その辺りに往時は3軒の本陣が隣り合わせにあった。Tの字の三叉路の右角に疋田弥五助本陣、突き当たりが飯田武兵衛本陣、その左隣が疋田八郎兵衛本陣である。3軒ともに「本陣跡」の石標と案内板があった。(左写真)
 飯田武兵衛本陣跡は現在人の住む住宅である。昭和の時代の建物であろうが、細かい縦格子のついた住宅である。(右写真) ここが「お美也」ゆかりの本陣跡である。新居宿の道しるべがあった。

舞阪宿 宿境まで一里十四町 →【新居町 新居宿】 飯田武兵衛本陣跡 → 白須賀宿 宿境まで二里九町

 この裏手に手筒花火で有名な諏訪神社がある。その参道入口には「諏訪神社のケヤキ」という巨木がある。「巨木巡礼」で一度見に来ていたので、記憶を頼りに路地を西へ入った。諏訪神社は記憶よりもっと南寄りだった。

 「巨木巡礼」で見たときは大枝が下ろされて無残に感じたが、今は緑も回復して立派な樹叢に戻っていた。(左写真) もちろん文句なく「新居宿の巨木」である。
 諏訪神社から元の街道に戻る。疋田八郎兵衛本陣の南隣には寄馬場跡の石標があった。(右写真)

 関所が「大元屋敷」にあった初期の頃は関所構内が広く、そこで継立て(人馬の乗り換え)を行っていた。しかし関所が現在地に移ると手狭になり、宿継ぎがここに移されたという。
 正午を回った。この先、当分食事ができる場所もないと思われたので、「かきこや 仲町店」というスーパーで女房がお寿司などを買って来た。途中のどこかで食べるつもりである。

 旧東海道は南へ下る。街道右に秋葉常夜燈を見つけた。(左写真) この石の常夜燈は笠のそりがない点を除けば、舞阪で見たものと宝珠の形などよく似ている。

 屋形の秋葉常夜燈は間の宿−菊川宿で初めて見てから舞阪の手前で連続して見るまで、あれだけ沢山見てきたのに、ここへ来てすっかり姿を消してしまった。ここでは石の秋葉常夜燈が主流のようだ。秋葉文化圏というようなものがあるとすれば、その中心近くに屋形の秋葉常夜燈があり、少し離れて石の秋葉常夜燈になり、それもいずれ見なくなる。東では富士川以西では石の秋葉燈があったが、富士川の東ではあまり見なかった。

 秋葉常夜燈から4分ほど南進した左側に新居の一里塚の石標と案内板があった。(右写真)
 旧東海道が枡形になって左折する角に、小さな祠と箒を二本立てたような飾りを見つけた。(左写真) この地方では屋敷の西北隅に「ホウキ」という地の神さまを祀る風習があり、新居ではそこに竹棒に藁をしばってホウキのようにして2本立てる風習があるという。珍しいものを見た。

 左折したすぐ右に「棒鼻跡」の石標と案内板があった。(右写真)
 棒鼻は元々は宿場の外れにあって、枡形をなし土塁を突き出して、宿場への出入りを制限した施設であった。大名行列も宿場から外れると行列は整然としたものではなくなり、前後に長くなって乱れてしまう。しかし宿内に入るときは体裁を整えて威厳を示す必要があった。行列が宿外れの棒鼻に来ると止まって列が追いつくのを待ち、行列を整えて宿内に入ったのである。

 旧街道から国道一号線に出た所に「新居町 橋本」の道しるべがあった。

新居宿 宿境まで一町 →【新居町 橋本】 新居宿加宿 → 白須賀宿 宿境まで三十二町

 このあたりはかって浜名川に架かる浜名橋のたもとにあったので、橋本宿と呼ばれた。15世紀の末に、大地震で浜名湖南側の湖岸が切れて今切口が出来るまでは、舞坂まで陸続きであった。街道はこの橋本宿から、真っ直ぐに舞坂へ歩いて行けたという。

 旧街道は国道一号線に出て西へ200mほど進み、国道一号線から右へ別れて、国道一号線の北側(山側)を西へ進む。この分かれ道の左側(南側)に「風炉の井」がある。(左写真)
 案内板では「風炉と呼ばれる意味はよくわからない」とあったが、広辞苑によると、「風炉」は茶の湯の「ふろ」。茶の湯で、席上において湯を沸かすのに用いる土製・木製・鉄製・銅製・銀製の炉のことだという。頼朝がこの水を茶の湯に用いたと伝えられるから、それに因んだ名前であろう。

 国道1号線から右に別れて「浜名旧街道」を進む。8分ほどで松林が始まってすぐに、左側に「新居町 紅葉寺跡」の道しるべがあった。

新居宿 宿境まで八町 →【新居町 紅葉寺跡】→ 白須賀宿 宿境まで二十六町

 その向かい側から北へ入ると古びた石段がある。紅葉寺の石標と案内板があった。(右写真)
 石段を上がると、敷地内に建物は無く、樹木だけ残って公園として整備されていた。ここで昼食にしようと女房に話す。女房は墓石なども残っていて気味が悪いという。木立に覆われている上に、いい天気だった空も妙な雲に覆われやや暗くなった。木立から開放される石段の中ほどに坐って、先ほど購入した寿司のパックを開いた。

 ところがポツリポツリと雨が降り出した。それほど大降りにはならないと思われるが、傘を差して手早く食事を済ませた。

 幸い雨はほとんど気にならないほどであった。南側に松並木が続く。木の根元にはツツジが満開である。(左写真) 前回歩いたときには次のように記録している。

 この道には南側に松並木が残っていたが、松食虫にやられてしまい、新居町の手で松の若木が植えられた。今ではその松もかなり大きく立派になっている。他の市町村もこれに習い、枯れた松の補植を是非お願いしたいものである。きっとすぐに美しい松並木が回復すると思う。

 旧東海道の松並木の案内板があった。
 松並木の中に歌碑が1基あった。(右写真) 実は為家と阿佛尼の二人は夫婦であった。

風わたる 浜名の橋の 夕しほに さされてのぼる あまの釣舟    為家

 わがためや 浪も高しの 浜ならん 袖の港の 浪はやすまで     阿佛尼
 午後1時10分、松並木が切れて、太い槙の木が並んだ道畔に立場跡の標識があった。(左写真) 「大倉戸の立場跡」である。案内板を見てそう思ったのか、前回の記録では「休み処として客を呼び入れる声が聞こえて来そうであった」と書いている。
 大倉戸の集落には古い格子やガラス戸のはまった家並みが残っていた。また、一段高いところにもう見ることもないと思っていた屋形の秋葉常夜燈を見た。欄間に透かし彫りに「秋葉山」の文字が見える。(右写真)

 大倉戸の集落の外れに、明治天皇御野立所阯の石碑のある緑地があった。(左下写真) 前回はこの辺りで空腹を抱えて歩いていた。今日は先ほど昼食は済んでいるから元気である。

 大倉戸から湖西市白須賀に入って、新町の山側に火鎮(ほずめ)神社があった。神社前に「白須賀宿 火鎮神社」の道しるべがあった。火鎮(ほずめ)神社はかって白須賀宿の鎮守の社であった。白須賀宿はこの先の元町にあったが、宝永四年(1707)の地震による大津波で壊滅し、翌年その先の潮見坂を登った高台に宿場を移した。

新居宿 宿境まで二十七町 →【湖西市 白須賀宿】 火鎮神社 → 二川宿 宿境まで二里十四町

 火鎮神社から15分ほど歩いた人家前に「白須賀一里塚跡」と「高札建場跡」の石標がプランターの花に囲まれて並んでいた。(右写真)
 午後1時50分、潮見坂の新道と旧道の分かれ道に出る。まっすぐ行けば新道、右へ曲がると旧道である。分かれ道を示す石標があった。(左写真) また同じ角に「白須賀宿 潮見坂下」の道しるべがあった。

新居宿 宿境まで一里六町 →【湖西市 白須賀宿】 潮見坂下 → 二川宿 宿境まで一里三十三町

 潮見坂(右写真)を目の前にして、前回歩いた時は次のように記録している。

 昼を過ぎて腹が減って堪らない。自分は新居町駅でうどんを食べたが、他の人達はもっとひもじい思いであったと思う。しかし、食堂らしきものは全く無かった。(中略)坂を目の前に一休みをする。そこでKさんがザックからバナナを出した。各人へ一本づつで、何とか坂を上がる元気が出てきた。地獄に仏とはこのことであろうか。

 前回はかくして0.5kmの潮見坂を登った。空腹ではない今日は楽々である。雨が気になるほど降ってきたので傘を差した。登りきる少し手前に潮見坂の案内板があった。
 振り返ると人家の向こうに国道一号線の潮見バイパスと遠州灘が見えた。かって旅人は京を立ち琵琶湖を見てから、ここ潮見坂に至って初めて海を見たという。琵琶湖を「近江」、ここで初めて見る遠州灘を「遠江」と呼んだのは、歩くより交通手段の無かった昔の人の感覚なのであろう。しかし、この話で桑名から宮までの七里の渡しで見る海はどう考えるのであろうか。「遠江」という言葉が出来た昔は「七里の渡し」はなく、もっと山寄りに街道があったのだろうか。「七里の渡し」の宮宿に着くまでに調査してみよう。

 午後2時20分、潮見坂を登りきった所に「おんやど白須賀」という散策者のための休憩ホールがあった。(左写真) しとしと雨ながら降り続く雨を避けて、トイレを借りる目的で休憩ホールに逃げ込んだ。和紙人形で作った潮見坂風景など潮見坂と白須賀宿に関する展示があった。

 貰ったパンフレットによると潮見坂付近には 「おらんとう様」 「うないの松」 「点燈山」 「袈裟切り地蔵」など由緒ありげな旧跡が数多くあった。今日は雨が降ってすべてパスするが、日をあらためて散策に来たいと思った。

 「おんやど白須賀」のすぐ先の右側に、潮見坂公園跡の石碑(右写真)と「白須賀宿 潮見坂公園跡」の道しるべがあった。

新居宿 宿境まで一里十二町 →【湖西市 白須賀宿】 潮見坂公園跡 → 二川宿 宿境まで一里二十五町
 潮見坂公園はかっては遠州灘が一望に出来て、旅人が一休みする絶好地であった。大正時代には公園になり、明治天皇遺蹟地記念碑が設置されたりしたが、今は白須賀中学校になっている。明治天皇遺蹟地記念碑は公園にあった他の石碑とともに、遠州灘が遠望出来る道路左脇の緑地に移設され建ち並んでいる。(左写真)
 白須賀の町に入るとすぐに曲尺手(かねんて)の案内板があった。ここで道がクランク型にずれて通りを見通すことが出来なくなっている。(右写真)
 宿場の入口にあった枡形などの施設はその目的、利用法、または形状で宿場毎に、さまざまに呼ばれている。思いつくままに書き出して見ると、「枡形」、「見付」、「木戸」、「関門」、「番所」そしてすぐ前の新居宿では「棒鼻」、そしてこの白須賀宿では「曲尺手(かねんて)」と呼ばれている。もう少し詳しく調べてみると面白いかもしれない。

 古い町屋が残る通りを行くと、大きな御屋敷の端に「本陣跡」(左写真)、「東海道スタンプ 白須賀宿」の置いてあった見覚えのある「谷中たばこ店」の隅に「脇本陣跡」、その先の四つ角に「問屋場跡」とそれぞれ石標があった。また四つ角には「白須賀宿 問屋場跡」の道しるべがあった。
新居宿 宿境まで一里二十二町 →【湖西市 白須賀宿】 問屋場跡 → 二川宿 宿境まで一里十八町

 問屋場跡の四つ角の向う側の角にブロック塀に三方を囲まれて、「夏目甕麿邸址 加納諸平生誕地」の石碑があった。(右写真) 東海道では掛川市伊達方の石川依平と並ぶ国学者である。
 100mほど進んだ家並みの両側に、屋敷を区切るように土塁が築かれ、槙の木がそれぞれ数本並んでいる所に出た。(左写真) これは「火除け地」といって、火災時の類焼を防ぐために築かれたもので、両側に樹齢200年以上の槙の木が5本ずつ残っている。「白須賀宿の巨木」に「白須賀の火防樹」に決めよう。
 人家が尽きて国道一号線に出る手前に、「境宿 白須賀宿加宿」の道しるべがあった。(右写真の右) この先はもう愛知県で、静岡県だけに作られた「夢舞台 東海道」の道しるべの最後のものである。箱根旧街道の下りで「兜石」の道しるべでこの道しるべに出会って以来、静岡県内約200kmの旧東海道歩きで大変お世話になった道しるべであった。

白須賀宿 宿境まで二町 →【湖西市 境宿】 白須賀宿加宿 → 二川宿 宿境まで一里十二町

 午後3時6分、国道一号線に出て500mほど進んで境川を渡る。(右写真) ここが三河と遠江の国境で、現在も愛知県と静岡県の県境になっている。これで長い静岡県を縦断し終えた。しかし雨も降ってきて、この後まだ長い歩きを残しているので、今一つ達成感も中途半端である。

 この後、約一里強(4km)ほどの国道に附属した歩道歩きが続く。周囲には畑地が広がっている。前回はなぜか道の西側を歩いたようで、次の一里塚を見逃したと記している。

 途中『一里山』という地名があり、道路の東側にそれらしき小さな森もあったが、道路は真ん中で上り下りが仕切られているため、向こう側へ渡ることが出来ずにパスしてしまった。

 今回は、前回の轍を踏まないように東側を歩く。10分ほどで小さな森に着いた。やはり一里塚であった。(左上写真) 祠があり、土留めの石垣に案内プレートがはめ込まれていた。
 前回は向かい風に悩まされながら歩いている。記録を見ると次のように書いている。

 道は広い国道1号線、遮るものもないキャベツ畑を激しい向かい風に木枯らし紋次郎のように顔の前で帽子を摘んで歩く。それでも身体さら吹き飛ばされそうで大変な歩行となった。空っ風とキャベツ畑の歩きが嫌になる頃、サークルKを見つけて逃げ込む。苺牛乳を飲みトイレを借りて、再度風との闘いに出る。北方の山に岩山が見える。本を見ると「立岩」と言い、各種の道中記にその名が記されているそうだ。

 今日は風はないが、雨はしっかりと降っていて、対向車がトラックだと風が起きてきつい。11月にキャベツ畑だったところが、今は玉葱畑になっている。(右写真の左) 立岩も今日は雨に煙って見える。(右写真の右)ひたすら歩いた。

 国道は新幹線にぶつかって西へ新幹線と平行して続く。旧東海道は神綱電気の工場の正門前より、国道と別れて、新幹線のガードを潜り、東海道線の踏切を渡って二川の町に入った。

 町の入口の煙草屋の角に一里塚の石標があった。(左写真) 前回歩いた時は、「二川本陣祭り」の前日で幟が立ち、ポスターが張られていたのを思い出す。

 二川の宿内は道路も狭く、古い家屋が多く残っていた。右写真はそんな中でびっしりと置かれたプランターの花に飾られた格子のゆかしい家屋である。(右写真)

 すぐに江戸時代の商家の跡といわれる外見では四棟に見える建物が続いていた。(左写真) 行灯型街燈に出ていた「東駒屋」というのが屋号なのであろうか。何を商っていたのだろう。

 続いて、食料品店前に「東問屋場跡」の石標があり、さらに民家に前庭に「脇本陣」の案内板が立っていた。
 午後4時25分、二川宿本陣に着いた。後半は何とか二川宿本陣を見学しようと急いできたが、入館時間の午後4時はすでに過ぎていた。入館は次回の最初にするしかない。

 建物は改修復原されていて、真新しくて大変美しい。(右写真) 表門の両脇に「史跡 二川宿御本陣」の石碑(右写真の右)と案内板があった。
 二川宿本陣は間口が32mと驚くほど広い前面には木柵があって、入館者は右端の車も入れる大きな門を使う。門の中は広い駐車場になっていて、入館者は側面から入ることになる。それでも中を覗くと受付は終っているが、見学者はまだ居るようである。

 駐車場に高札場が復元されていた。(右写真) 高札も5枚のレプリカが掲げられていた。キリシタン禁令の高札や人馬に駄賃を取り決めたものが3枚。もう1枚は現在の民法・刑法に当るようなもので次へ書き写してみる。但し、少し読みやすく直した。
 二川宿本陣から3分ほど西へ進んだ中原屋という和菓子屋の前に、道路が3mほど北へずれた「鍵の手」がある。宿内に二ヶ所あったうちの一ヶ所である。ここは同時に高札場になっており、先ほど本陣で見た復元された高札場はここにあったものである。「高札場跡」と「二川町道路元標」の石標があり、祠が祀られていた。(左写真)

 高札場跡から数分歩いた右手奥に「大岩神明宮」が有る。二川宿の巨木を見つけていなかったので、立寄る。夕闇の迫った境内の本殿右手に御神木になったトチノキの大木があったのでこれを「二川宿の巨木」とする。(右写真)

 幕府は宿駅制度で東の二川と西の大岩の2ヶ所で一宿の役割を負わせた。それを一つに二川宿と称されるようになった。大岩神明宮はその一方の大岩の氏神様である。
 午後5時4分、二川駅に着く。本日の旅をここで終える。本日の歩数は 32,790歩であった。







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