



午前10時20分、JR新居駅前に降り立つ。旧東海道は駅前の国道一号線を西へ向う。駅から南へ300mほど入った所に「トウトの松」と呼ばれる松があるとの情報に少し道草した。新居駅前の向かい側に小公園があり、遠州新居手筒花火の像があった。(右写真)
「トウトの松」は新居高校の北側の住宅地の中にあった。トウトの松は残念ながら枯れてしまっていた。今は一段高い壇上に二代目が植えられていた。(左写真)
新居駅に戻って西へ進む。駅から続く緑地内に山頭火の句碑あった。(右写真)
新居関所の手前、街道の左側に関所の駐車場がある。駐車場の裏側に浜名湖から水路で繋がる船だまりがあった。往時、周辺は入江で船囲い場になっていた。駐車場のあたりが渡船場となり、隣接する関所では往来者を容易に検閲出来た。明治以降、ほとんどが埋め立てられ、現在はその一部に面影を見るだけである。(左写真)
新居関所の東側に堀が掘られ、石垣と雁木が復元されていた。(右写真) 実際にははるかに大規模だったはずだが、復元されているのはその一部であろう。潮位に合わせる必要から、船着場が雁行のように段になっている様子がよく分かった。
午前11時、女房が入場したことがないというので、入場料300円払って見学した。入場時に頂いたパンフレットによれば、
前庭の松の大木の根元に自然石に刻まれた太祇の句碑があった。(右写真)
前庭には他にも「荷物石」(左写真の下)や「関所の石樋」(左写真の左上)が置かれていた。「荷物石」には写真のように荷物を置いて白洲に向ったものであろう。「関所の石樋」は浜名湖への注ぎ口に横にして取り付けられていたものであろう。
新居関所跡から3分ほど歩いた先の左側に、旅籠紀伊国屋が修復公開されていた。(右写真) 新居関所でその情報をもらい、200円の入場料を150円に割り引いてもらって見学する。
街道はすぐに突き当たり、左折して進む。その辺りに往時は3軒の本陣が隣り合わせにあった。Tの字の三叉路の右角に疋田弥五助本陣、突き当たりが飯田武兵衛本陣、その左隣が疋田八郎兵衛本陣である。3軒ともに「本陣跡」の石標と案内板があった。(左写真)
飯田武兵衛本陣跡は現在人の住む住宅である。昭和の時代の建物であろうが、細かい縦格子のついた住宅である。(右写真) ここが「お美也」ゆかりの本陣跡である。新居宿の道しるべがあった。
この裏手に手筒花火で有名な諏訪神社がある。その参道入口には「諏訪神社のケヤキ」という巨木がある。「巨木巡礼」で一度見に来ていたので、記憶を頼りに路地を西へ入った。諏訪神社は記憶よりもっと南寄りだった。
諏訪神社から元の街道に戻る。疋田八郎兵衛本陣の南隣には寄馬場跡の石標があった。(右写真)
正午を回った。この先、当分食事ができる場所もないと思われたので、「かきこや 仲町店」というスーパーで女房がお寿司などを買って来た。途中のどこかで食べるつもりである。
秋葉常夜燈から4分ほど南進した左側に新居の一里塚の石標と案内板があった。(右写真)
旧東海道が枡形になって左折する角に、小さな祠と箒を二本立てたような飾りを見つけた。(左写真) この地方では屋敷の西北隅に「ホウキ」という地の神さまを祀る風習があり、新居ではそこに竹棒に藁をしばってホウキのようにして2本立てる風習があるという。珍しいものを見た。
左折したすぐ右に「棒鼻跡」の石標と案内板があった。(右写真)
旧街道は国道一号線に出て西へ200mほど進み、国道一号線から右へ別れて、国道一号線の北側(山側)を西へ進む。この分かれ道の左側(南側)に「風炉の井」がある。(左写真)
その向かい側から北へ入ると古びた石段がある。紅葉寺の石標と案内板があった。(右写真)
幸い雨はほとんど気にならないほどであった。南側に松並木が続く。木の根元にはツツジが満開である。(左写真) 前回歩いたときには次のように記録している。
松並木の中に歌碑が1基あった。(右写真) 実は為家と阿佛尼の二人は夫婦であった。
午後1時10分、松並木が切れて、太い槙の木が並んだ道畔に立場跡の標識があった。(左写真) 「大倉戸の立場跡」である。案内板を見てそう思ったのか、前回の記録では「休み処として客を呼び入れる声が聞こえて来そうであった」と書いている。
火鎮神社から15分ほど歩いた人家前に「白須賀一里塚跡」と「高札建場跡」の石標がプランターの花に囲まれて並んでいた。(右写真)
午後1時50分、潮見坂の新道と旧道の分かれ道に出る。まっすぐ行けば新道、右へ曲がると旧道である。分かれ道を示す石標があった。(左写真) また同じ角に「白須賀宿 潮見坂下」の道しるべがあった。
潮見坂(右写真)を目の前にして、前回歩いた時は次のように記録している。
午後2時20分、潮見坂を登りきった所に「おんやど白須賀」という散策者のための休憩ホールがあった。(左写真) しとしと雨ながら降り続く雨を避けて、トイレを借りる目的で休憩ホールに逃げ込んだ。和紙人形で作った潮見坂風景など潮見坂と白須賀宿に関する展示があった。
「おんやど白須賀」のすぐ先の右側に、潮見坂公園跡の石碑(右写真)と「白須賀宿 潮見坂公園跡」の道しるべがあった。
潮見坂公園はかっては遠州灘が一望に出来て、旅人が一休みする絶好地であった。大正時代には公園になり、明治天皇遺蹟地記念碑が設置されたりしたが、今は白須賀中学校になっている。明治天皇遺蹟地記念碑は公園にあった他の石碑とともに、遠州灘が遠望出来る道路左脇の緑地に移設され建ち並んでいる。(左写真)
白須賀の町に入るとすぐに曲尺手(かねんて)の案内板があった。ここで道がクランク型にずれて通りを見通すことが出来なくなっている。(右写真)
古い町屋が残る通りを行くと、大きな御屋敷の端に「本陣跡」(左写真)、「東海道スタンプ 白須賀宿」の置いてあった見覚えのある「谷中たばこ店」の隅に「脇本陣跡」、その先の四つ角に「問屋場跡」とそれぞれ石標があった。また四つ角には「白須賀宿 問屋場跡」の道しるべがあった。
問屋場跡の四つ角の向う側の角にブロック塀に三方を囲まれて、「夏目甕麿邸址 加納諸平生誕地」の石碑があった。(右写真) 東海道では掛川市伊達方の石川依平と並ぶ国学者である。
100mほど進んだ家並みの両側に、屋敷を区切るように土塁が築かれ、槙の木がそれぞれ数本並んでいる所に出た。(左写真) これは「火除け地」といって、火災時の類焼を防ぐために築かれたもので、両側に樹齢200年以上の槙の木が5本ずつ残っている。「白須賀宿の巨木」に「白須賀の火防樹」に決めよう。
人家が尽きて国道一号線に出る手前に、「境宿 白須賀宿加宿」の道しるべがあった。(右写真の右) この先はもう愛知県で、静岡県だけに作られた「夢舞台 東海道」の道しるべの最後のものである。箱根旧街道の下りで「兜石」の道しるべでこの道しるべに出会って以来、静岡県内約200kmの旧東海道歩きで大変お世話になった道しるべであった。
午後3時6分、国道一号線に出て500mほど進んで境川を渡る。(右写真) ここが三河と遠江の国境で、現在も愛知県と静岡県の県境になっている。これで長い静岡県を縦断し終えた。しかし雨も降ってきて、この後まだ長い歩きを残しているので、今一つ達成感も中途半端である。
前回は向かい風に悩まされながら歩いている。記録を見ると次のように書いている。
今日は風はないが、雨はしっかりと降っていて、対向車がトラックだと風が起きてきつい。11月にキャベツ畑だったところが、今は玉葱畑になっている。(右写真の左) 立岩も今日は雨に煙って見える。(右写真の右)ひたすら歩いた。
二川の宿内は道路も狭く、古い家屋が多く残っていた。右写真はそんな中でびっしりと置かれたプランターの花に飾られた格子のゆかしい家屋である。(右写真)
午後4時25分、二川宿本陣に着いた。後半は何とか二川宿本陣を見学しようと急いできたが、入館時間の午後4時はすでに過ぎていた。入館は次回の最初にするしかない。
駐車場に高札場が復元されていた。(右写真) 高札も5枚のレプリカが掲げられていた。キリシタン禁令の高札や人馬に駄賃を取り決めたものが3枚。もう1枚は現在の民法・刑法に当るようなもので次へ書き写してみる。但し、少し読みやすく直した。
二川宿本陣から3分ほど西へ進んだ中原屋という和菓子屋の前に、道路が3mほど北へずれた「鍵の手」がある。宿内に二ヶ所あったうちの一ヶ所である。ここは同時に高札場になっており、先ほど本陣で見た復元された高札場はここにあったものである。「高札場跡」と「二川町道路元標」の石標があり、祠が祀られていた。(左写真)



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