第 20 回 
  平成14年7月12日(金) 
 晴れ、暑し
 二川宿−二川宿本陣−吉田宿
 “東海道初めての宿泊、初日は短く豊橋泊り”



 6月半ばに一週間の出張から戻ってくると、車で駅まで迎えに来た女房が大事件があって大騒動だったと話す。

 幼稚園の先生をしている娘が犬を買って来たというのだ。今まで家ではペットを飼うことは原則禁止になっていた。理由を挙げれば、子供が三人いて賑やかな上にペットまで飼う余裕はない。また結局は世話するのは家に居る女房になってしまう。

 かって他出の娘が貰ったけど世話できないとハムスターが一匹やって来た。チャッピーと名付けられて女房の過保護の中、2年生きた。そして臨終に立ち会った女房の愁嘆ぶりには驚かされた。

 そして禁止理由が二つ加わった。結局世話をする女房が過度にペットにのめり込んでしまう。さらにペットの命は人間に比べれば短い。必ず別れがやってくる。可愛がってきた人ほどその別れがつらい。それならば飼わない方が面倒がない。

 しかし、娘の部屋のゲージの中に豆柴の子供(オス)がいた。名は「ムサシ」。(左写真) それから毎日大騒動が続いている。娘が案の定、仕事で遅くなったり、友達と遊んだりと忙しく、世話は文句を言いながら女房がやっている。トイレを知らせるようにしつけたため、吠えて知らせる。何を置いても飛んで行く。餌も日に2回、計りで測って少しづつ増やしてゆかねばならない。確かに邪気が感じられないから、かわいい事はかわいい。

 今日もムサシに後ろ髪を引かれながら、世話は娘に任せて、初めて一泊予定で出かけてきた。

 午前11時15分、二川駅から東海道歩きをはじめる。少し遅いスタートで、すでに外は大変暑くなっている。とても町中を歩くような日ではないのかもしれない。今日はおそらく豊橋泊りと想像していたので、ゆっくり出来ると思い、前回時間切れで見れずに思いを残してきた女房のために、旧東海道を東へ約1km引き返えし、二川宿本陣に立寄ることにした。

 入館料に一人300円払って、まず最奥に出来ている二川宿本陣資料館に入る。資料館には「街道」 「宿」 「本陣」の各テーマでコーナーが出来て展示されている。

 順路で2階に上がった「街道」のコーナーには中部圏の江戸時代の街道案内のパネルがあり、ボタンを押すと街道が豆電球で標示され、短いビデオが流れる。五街道といわれる東海道、中山道、奥州街道、甲州街道、日光街道をはじめ、多くの脇街道が標示されていた。中でも「佐屋街道」と呼ばれる脇街道が注意を引いた。この後東海道は宮から桑名まで「七里の渡し」で渡る。しかし渡る手段のない現在、その部分は途切れてしまうと思っていた。ところが、船を嫌う人たちのために陸を行く脇街道があり、「佐屋街道」と呼ばれていたことを知った。宮宿から北へ進み、途中で西へ方向を変えて、岩塚宿、万場宿、神守宿、佐屋宿の四宿を経て、佐屋三里の渡しで佐屋川・木曾川を下り、桑名に至る脇往還である。宮宿に至るまでに、もっと詳しく調べておこうと思った。

 「宿場」のコーナーでは二川宿の模型が作られていた。(右写真) ここでは二川宿が出来上がった様子が良く理解できた。かって大岩村と二川村が東海道から少し南にそれぞれ離れてあった。それが16世紀の後半に街道沿いの大岩村元屋敷と二川村元屋敷に移り、それぞれ人馬の継立を行うようになった。正保元年(1644)、両村は吉田藩領から天領に移ったのを機会に、さらに両村が隣り合わせにくっつくように移転し、二川宿と加宿大岩町からなる「二川宿」となったのである。

 1階に降りると旅籠が再現してあったり、大名行列風景のミニチュアがあった。また「本陣」のコーナーでは大名行列の一行を紋付羽織袴の盛装で土下座で迎える宿役人達の風景がミニチュアで再現されていた。(左上写真) 東海道で本陣が当時の姿で残っているのは国の史跡に指定されている草津宿本陣と、この二川宿本陣の二ヶ所だけだという。

 小さな中庭に東海道にあった石標が何基か移設して飾られていた。その一つが「左 とよかわみち」「右 吉田宿」と読めた。東海道のどの辺りにあった道標かと考えるのだが、位置関係が逆に思えてどうもわからない。

 改修された本陣の建物には裏から入る。入った土間に真新しいかまどがあった。おそらく昔の形に再建されてから一度も使われていないのだろう。右手が勝手で部屋が10ほどある。左手が本陣の宿泊施設である。表門から入った玄関の間は21畳もあった。「ここだけでも家一軒分はあるなあ」と女房に話す。こちら側には部屋数が大小22部屋ほど数えられた。もっとも奥まった所に藩主などが泊るのであろう、上段の間が再現されていた。(右写真)

 午後0時26分、何時の間にか正午を回っていた。外は暑さがさらに増していた。出た駐車場から本陣の門の向かいにも黒い格子がゆかしい町屋があった。(左写真)

 前回も写真を撮った中原屋和菓子店前の高札場跡で、北へずれた「鍵の手」が判るようにと思い再度写真に撮った。(右写真) 現代でもずれている様子がわかってもらえるだろうか。

 5分ほど西進した左手、桜の木の前に、「大岩町郷蔵跡」の石標があった。郷蔵(ごうぐら)とは広辞苑によると、「江戸時代、年貢米の保管、凶作に備える貯穀のため、郷村に設置された共同穀倉」だという。さらに5分ほど進んだ化粧品店前に「立場茶屋跡」の石標があった。

 二川駅に近付いて、道路が広くなった左側に格子戸の美しい建物があった。(左写真) ただ前面のガードレールが興ざめではあるが。建物としては意外と新しいのかもしれない。

 駅前で食堂を探すがなくて、200mほど北へ外れ県道3号線に出て、回転寿司の「らく天」に入る。流行らない回転寿司に入るものではないというが、また入ってしまった。二人で千円分ほど、軽く食べて出た。

 駅前に戻って東海道歩きを続ける。早速道路右側に二つの祠が仲良く並んでいた。(右写真の右) またすぐ先に大きな石柱の道しるべがあった。(右写真の左) 一面に「伊良胡阿志両神社道」、もう一面に「右 東海道 豊橋一里半」と刻まれていた。すぐ先で左折し、JR東海道線のガードを潜って進むと渥美半島に通じる。両神社とは田原町の阿志神社と伊良湖岬の伊良湖神社のことであろう。

 火打坂の交差点で県道3号線を突っ切って緩やかな坂道の火打坂が始まる。火打坂の右上にかって「たいまつ峠」という峠があった。「火打坂」の名もそれと絡みがあるのだろうか。あるいはこの先吉田宿の東の外れに「ほくち」を売る店があって名物となっていた。「ほくち(火口)」は広辞苑によると「燧(ヒウチ)で打ち出した火をうつし取るもの。イチビの殻幹を焼き、または茅花(ツバナ)やパンヤに焼酎・焔硝を加え煮て製する。」 この「ほくち」と関連があるのかもしれない。

 火打坂の左手に小高い岩屋緑地が見える。この南西の端には今日は寄らないが岩屋観音がある。「火打坂」は左折して岩屋緑地を巻くように少し下りながら進む。すぐ先に道路を覆うように松が1本残っていた。(左写真)

 旧東海道は国道一号線に並行して2kmほど進み、殿田橋を渡ったところで国道一号線と合流する。午後2時、余りに暑いので、その角のマクドナルドに涼みに入った。考えてみると日本でマクドナルドに入るのは初めてである。

 国道一号線を25分ほど歩き、瓦町の交差点に鶴松山壽泉禅寺というお寺があった。石積みのアーチ上に入母屋の建屋の乗った龍宮のような門が気を引いた。入ってみると狭い境内に三重の塔を建築中であった。塔の建築現場に行きあうのはめったにないことなので写真に撮ってみた。(右写真)

 瓦町の交差点のすぐ先に瓦町不動院がある。東海道四〇〇年祭で道中お参りする人が多いと不動院の看板に見えた。これは立寄らねばなるまいと幼稚園のある境内に入った。

 ちょうど幼稚園は退園の時間であった。園児たちが幼稚園バスに乗ったり、お迎えの父兄と帰る様子が見えた。園庭に根上りのクスノキの巨木があった。(左写真) 根元で三本に分かれて、園児たちの格好のジャングルジムになっているのだろうと思った。この「瓦町不動院のクスノキ」を「吉田宿の巨木」と決めよう。
 ヤマモモの木の向うに「総本地 不動尊」「吉田藩 祈願所」と両側に門標が掲げられた小さな門があった。お参りして行こうと門を入って本堂前に出る。財布には小銭しかなく、かき集めても30円もない。賽銭箱が本堂のガラス戸の中にあった。戸が閉まっているので躊躇していると、「今開けます」と住職が来て、横から入って開けてくれた。「賽銭泥棒が出るので」と側面を示す。なるほど施錠部分にバールでも当てたらしく傷付いていた。人々の心のすさみの一端を見る思いで悲しい。お参りして戻ろうとすると追っかけてきて「余り物ですがお参りの記念に」とタオルを頂いた。そんな事ならもっとお賽銭をはずむのであったと思ったが後の祭りであった。

 午後3時30分、広い東八町交差点に差し掛かる。コの字型に歩道橋の上から北側の緑地帯に巨大な秋葉常夜燈が見えた。(右写真) 「吉田宿中安全」の文字もある。どういういわれの秋葉常夜燈なのか、そばに案内碑があるようだが遠くて判らない。案外、東海道四〇〇年祭記念で作った新しいものかもしれない。

 歩道橋を降りた所に「東惣門」のミニュチアらしきモニュメントが出来ていた。(左写真) そばに案内板があった。
 東八町交差点を「東惣門」のモニュメントから左折してすぐ次の辻で右折する。この辺りから旧東海道は右へ左へと細かく曲がって進むが、そのほとんどに「東海道」の青い標識が立っている。

 二つ目の四つ角を左折、右側に紅い鳥居が鮮やかな「造立稲荷」(右写真)を見て右折、500mほど直進するが、途中、中央分離帯にクスノキが植えられたために「くすの木通り」と命名された広い通りを横切る。その中央分離帯に「史跡 曲尺手(かねんて)門」の石碑があった。(左写真) これより右折して300mほど北に進むと吉田城址のある豊橋公園がある。曲尺手門は吉田城内への入口の一つであった。

 旧東海道はこの「くすの木通り」を突っ切って進み、すぐ先で「東海道」の標識に従って左折、右折して一路南へずれ、札木通りに出る。

 国道259号線との交差点角にNTTのビルがある。辺りに「吉田宿問屋場跡」があるはずと、うろうろ探すが見当たらない。女房は札木バス停前にいた女性と話している。「菜めしでんがくのきく宗さんはこのすぐ先だが・・・・」、問屋場跡は判らないようだった。ようやくNTT角歩道に道路側に、「吉田宿問屋場跡」の標柱を見つけた。残っているのはこの標柱だけである。
 この国道259号線には写真のような路面電車が通っている。この交差点の中央に路面電車の札木の乗り場がある。(右写真) 国道を渡って西へ進む。右側の「鰻屋 丸よ」前に「吉田宿本陣跡」の標柱と石碑があった。(左下写真) 本陣の向かい側には「吉田宿脇本陣跡」の石碑もあった。
 200mほど進んだ左側には先ほど札木バス停のおばさんが話していた「きく宗」があった。200年前、文化年間に創業といわれる老舗である。今でも名物「菜飯田楽」を食べられる。「菜飯田楽」は金谷町の間の宿菊川宿の名物にもなっていた。かって田舎の粗飯であったものが、今やヘルシー料理として人気がある。こんな例は意外と多い。

 午後4時を廻り、まだ日は高かった。しかし、この旅、初めての宿泊だったので、今日は豊橋泊りとする。宿の予約をしていないからまずは宿探しである。次の松葉公園交差点で東海道は右折する。交差点近辺には小さな和風旅館もみえたが、宿屋は今日は少し重いので、泊るのはビジネスホテルにしようと思う。宿を求めて豊橋駅を目指し松葉公園交差点を左折する。今日は大変暑かった。

 豊橋駅でビジネスホテルを探すが、横着をして観光会社に飛び込んだ。結局、駅ビル内のホテルアソシエ豊橋に宿泊と決めた。すぐ目の前のホテルを予約するのに500円の手数料を掛けてしまった。ホテルアソシエ豊橋は新しいホテルで豊橋の中心から見晴らす眺望は抜群であったが、ツインを求めたがダブルしかなく部屋は狭かった。

 夜は駅地下の食堂街に出て菜めしでんがくと豆腐料理の低カロリーな食事をした。今日の歩数は23,190歩であった。







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