第 21 回 
  平成14年7月13日(土) 
 雨が降ったりやんだり
 吉田宿−菟足神社−国府−追分−御油宿
 “雨降れど 二人歩きぞ たのもしき”



 「ホテルアソシエ豊橋」の夜、雨音に耳を疑った。雨になることはほとんど予想していなかった。雨空を眺め「今日はだめかな」と気弱になる。今日までの旅で本格的な雨の中を歩いたことはなかった。朝、躊躇していて遅くなったが、意欲満々の女房に引っ張られて、行けるところまで行ってみようと出発したのは午前8時半であった。食事は時間も遅くなったし、ホテルでは高くつくので途中で摂ることにした。

 傘を差して、昨日、最後とした松葉公園交差点に戻る。「東海道 吉田宿 江戸まで七十三里 京まで五十二里」の石柱道標が交差点に立っていた。(右写真) 何時の間にか東海道の半行程も過ぎて、残り五十里余りになった。松葉公園の角には「豊橋商工品陳列館跡」の標柱があった。この松葉公園は豊川の対岸にある松尾芭蕉の「松葉塚」に何か縁があるのであろうか。

 雨が繁くなってきた。雨宿りと朝食を兼ねて喫茶店「水鳥」に入り、モーニングサービスを頼む。午前9時15分、喫茶店を出ても雨は止んでいなかった。空に明るさは無く、雨は一日降り続きそうに思えた。今日は次の宿の御油宿まで行けるであろうか。女房がリュックにタオルを広げて取り付けてくれた。雨に濡れるのが少しは免れるであろう。

 国道23号線を渡り、豊川にぶつかる手前で左折、すぐ右側の豊川沿いに湊町公園がある。公園内の池の蓬莱島に築島弁天の社がある。その前に芭蕉の「旅寝塚」の句碑があった。(左写真) 句は

寒けれど 二人旅ねぞ たのもしき

 詠んだ芭蕉の気分が判る気がする。今の自分もひとり旅だったら、今朝は早々に退却していたであろう。さしづめ「雨降れど 二人歩きぞ たのもしき」といったところか。
 築島弁天社の隣に神明社がある。(右写真) 伊勢神宮との関係が深く、社殿正面の「蕃垣御門」(右写真中央)は昔から伊勢神宮の下賜のものという。遷宮時の旧材を貰い受けるのであろう。

 「豊川」は岡崎の矢作川、大屋川と並んで、「三河」の国名の由来となった三つの河川であると云われている。この豊川に鎌倉時代に架けられた橋を「今橋」と呼んだことから、この土地も昔「今橋」と呼ばれていた。その後江戸時代の初め、池田輝政侯が城主の頃、「今橋」が「忌まわしい」につながるから縁起が悪いと、縁起の良い「吉田」と改名し、橋も「吉田橋」と名称を変えた。宿場名が「吉田宿」と呼ばれるのはそのためである。

 明治になって吉田は再び豊橋と名前を変える。戊辰の役で幕府側(賊軍)に付いた藩は明治政府の干渉で町の名前や県の名前をことごとく変えている。たとえば、江戸は東京、駿府は静岡と変わった。おそらく松平家が藩主となっていた吉田藩も同様の運命だったのだろう。

 「吉田橋」も「豊橋」と変わった。東海道は神明社を出て右折し、豊川に架かった「豊橋」を渡る。(左写真の右下)

 もっとも「吉田橋」はこの「豊橋」より70mほど下流に架かっていたという。長さ百二十間(216m)で東海道の四大大橋に数えられていた。ちなみに他の三橋は、武蔵の六郷橋(多摩川)、少し先の岡崎の矢作橋(矢作川)、近江の瀬田橋(瀬田川)であったという。富士川、安部川、大井川、天竜川といった大河に橋がなかったことが知れて面白い。

 橋の上から東に、雨に煙って見える森が吉田城址のある豊橋公園である。(左写真)

 豊橋を渡って旧東海道は左折し、豊川の右岸に沿って進む。すぐ右手に背がひょろりと高い常夜燈があった。(右写真) 竿の部分の角柱にいくつか字が刻まれている。中で判読できるのは「右 御油道」だけであった。

 すぐ先の右側に聖眼寺がある。雨に濡れた静かな境内に入ると本堂左手に芭蕉句碑があった。「松葉塚」である。(左写真)

ごを焚いて 手拭あぶる 寒さ哉
 なるほどよく見ると石碑の真ん中より少し下で折れたあとを接いだような痕がついている。句碑の基礎部分に亀が彫り込まれ、亀の背に石柱の碑が載っている意匠になっている。

 「ご」は、松の枯れ落ち葉。三河地方の方言だという。集めて燃料にした。一見したとき、なぜ「手」をあぶらずに「手拭」なのかと不思議に思った。後日調べたところ、この手拭は湿ったものが道中の寒さで凍ったものだという。それをあぶることで手をあぶるより寒さを余計に表現できるのだろう。

 帰りがけに聖眼寺の門の前に「松葉塚」の標石と案内板があるのに気付いた。
 街道の左側は豊川の土手が続く。土手の内側には石垣が数段、積まれている。いつ時代のものであろうか。5分ほど歩いた歩道の街路樹の元に、「下地一里塚跡」の石標を見つけた。(右写真) 「江戸日本橋より七四里」とあった。

 その先で下地町の古い町並みに入った。(左写真) 豊橋の市街では戦災のため古い建物はまったく見出せなかった。だから古い町並みを見るのは二川宿以来である。道幅が狭くなった最初に、間口の広い大きな商家があった。連子格子が綺麗に残っていた。

 古い町並みを抜けて、やや雨脚を増した雨を気にしながらの歩きとなる。街道の両側は住宅と事業所が混在した新興地帯である。案内書にある「瓜郷遺跡」を探しながらしばらく歩く。右側に案内書にもあった「史跡境界」の石標を見つけた。その小路を左折して100mほど入った左側に「国指定史跡 瓜郷遺跡」があった。

 午前10時21分、瓜郷遺跡は工事用のネットフェンスが張られて中に入れなかった。ネット越しに見ると、復元されていた竪穴住居を再建中で、丸太の骨組みがあらわになっていた。(左下写真) 火災にでも遭ったのだろうか。

 街道に戻ってすぐ小さな鹿菅橋を渡った。(右写真) ここは歌枕として知られた「志香須賀渡(しかすがのわたし)」のあったところという。清少納言は「枕草子」の第十七段に「渡(わたり)は、しかすがの渡、‥‥‥」とその先頭に挙げている。それほどに古歌に多用された歌枕だったようだ。「しかすがに」とは「さすがに」と同じ組成の副詞で、「そうはいうものの」という意味である。

 この先の豊川放水路が出来て辺りがすっかり変わってしまったが、古代では豊川の川幅は今よりはるかに広く、東に下る旅人はもっぱら渡し舟を利用したという。しかし現在では鹿菅橋の架かっている江川は30歩ほどで渡れてしまう小河川である。

 豊川放水路の手前の左側に豊橋魚市場がある。周りに関連施設もあり、車の出入りも多い。これで豊橋市と別れ、放水路の直前で宝飯郡小坂井町に入った。放水路に架かる高橋を渡って300mほど下った右側、狭い緑地に「子だが橋」の碑と案内板があった。(左写真) この先の莵足神社への人身御供にまつわる皮肉な悲しい伝説の碑である。
 またすじを引くような雨が降り出し、雨脚が繁くなった。国道151号線を渡って坂を登った右側に莵足神社があった。雨宿りを兼ねて立寄った。

 旧東海道から境内に入ると、参道を150mほど進んだ左側に本殿があった。(右写真)

 とにかく大きな水屋で雨宿りをする。雨の中、褐色の雄鶏が一羽いた。どこの神社でもよくみるように飼われていたものが捨てられたものであろうか。こちらを警戒して距離を取りながら我々の動きについてくる。多分時には人から餌にありつくことができるのであろう。

 鳥居の左脇に案内板が2基あった。
 雨が小降りになったので、本殿へ参拝後、巨木を探して裏手へ廻る小道をたどる。ケヤキの大木を何本か見たが、巨木には足らない。戻る小路に敷きつめたように貝殻があった。貝塚というのはこの辺りかと思う。貝塚や徐福伝説には海の匂いが濃い。菟足神社は今でこそ内陸部に入り静かな山間の神社にみえるが、かっては「柏木浜に宮造りし」たと伝わるように浜辺にあったようだ。そして大昔から人が住み、貝塚を築くようなところであったことが知れる。

 この神社には三河・遠州地方に残る「手筒花火の発祥の地」との看板もあった。

 雨は止まない。小坂井の町に入り、JR飯田線の踏切を渡った先に小さな御堂があった。いかにも街道筋らしく松の木と秋葉燈篭がセットになっていた。(左写真)

 雨が一層しげくなり、コンビニの軒下を借りて雨宿りした。再度歩き始めて10分、左側の駐車場の隅に「芭蕉句碑」と「烏巣句碑」の2基が並んであった。(右写真) 側らに古井戸が一つ。ここはかって伊奈村立場茶屋の加藤家があった所である。加藤家の当主で俳人であった烏巣は芭蕉とも親交があり、芭蕉がこの地へ宿泊したときの句だという。

かくさぬそ 宿は菜汁に 唐が羅し

 また、烏巣の句は

ももの花 さかひしまらぬ かきね哉

 芭蕉は島田宿の塚本如舟宅で、「ちさはまだ 青葉ながらに なすび汁」という汁の句を呼んでいる。いずれも馳走に対する御礼の挨拶句といったところか。
 すでに正午、雨も降るし早めに昼食にしようと、通りかかった「カフェレストラン アルム」に入る。外壁がグリーンとピンクのパステルカラーで塗られたレストランである。カレーライスを食べた。

 レストランを出る頃には雨もほとんど止み、空も心なしか明るくなってきた。歩き始めてまもなく、「伊奈一里塚跡」の石標を見つけた。(左写真) 珍しい太鼓屋さんの店の前であった。「江戸日本橋より七五里」とあった。

 続いて「村社 速須佐之男神社」がある。参道両側には、見本の展示をしたように、色々な様式の石燈篭が並んでいた。(右写真) どういう人が奉納したものなのか判らないが大変興味深い。

 旧東海道はまもなく佐奈川を渡り豊川市に入る。西古瀬川を越え、しばらく工場地帯を進み、国道1号線を横切って、田圃の中を進む。

 ところが名鉄豊川線の踏切から先が道の特定ができない。この後しばらくは案内書でも道が不明になる。コースに近いと思われる道を選んで踏切を渡り戻し、国道1号線を越えた国府交番のある角で、再び旧東海道としてはっきりしている道に戻る。この間約六、七百メートルである。

 午後1時30分、雨はほぼ止んだ。これからは御油宿、赤坂宿と国道1号線の西側を付かず離れず続く旧街道を進む。古い家がちらほらと残っていて、街道筋であることが判る。

 コンクリートの柱状の台座の上に小さな社を載せ、半僧坊大権現と書かれた祠があった。(左写真) 「半僧坊」とはここより東へ直線距離で30キロ余りの、静岡県引佐郡引佐町の奥山半僧坊(方広寺)のことであろう。

 奥山半僧坊は後醍醐天皇の皇子の無文元選禅師が建徳二年(1371年)に開山した古刹で、臨済宗方広寺派の本山である。

 禅師に随時した半僧半俗の老翁が不可思議な神通力を持ち、寺域境内を風水害の災害から守った。この老翁は「半僧さま」と呼ばれ、その霊験が近在の村々に聞こえ、広く信仰されるようになった。そしていつしか奥山方広寺は「半僧坊」と呼ばれるようになったという。

 すぐ先に対抗するように秋葉山常夜燈もあった。(右写真) 考えてみれば奥山半僧坊も秋葉山も火伏せの権現として信仰されており、対抗するように続いているのがいかにも日本的である。
 ここは豊川市国府(こう)町という。右手には名鉄国府駅もある。律令時代には三河国の国府が置かれ、国分寺や国分尼寺も建てられたところである。それらの史跡は国府の町の1kmほど東にある。

 国府の商店街の中に薬師堂があった。(左写真) かなり疲労も感じて御堂正面の階段に腰掛けて休ませてもらう。この薬師堂は、縁起によれば、相次いで父母をなくして悲嘆にくれていた二人の娘が、たまたま止宿された行基菩薩に頼んで薬師如来像を刻んでもらい、朝暮礼拝供養したのがはじまりで、それゆえ「二子寺」と呼ばれている。

 行基菩薩といえば諸国を巡り、大仏造営の勧進でも活躍した奈良時代の僧である。由来が真実だとすれば、この薬師堂はその歴史を奈良時代まで溯ることができるのであるが。
 珍しく街道沿いに石仏を見つけた。(右写真) 関東には道祖神がたくさんあったが、富士川を越してからはめっきりお目にかかるのが減っていた。観音形と僧形の石仏が二体並んで華も供えられている。

 国府の町の北の外れに国府大社神社がある。境内に入った左手にクスノキの巨木があった。(左写真) 「日本の巨樹・巨木林 東海版」によると、幹周囲4.81m、樹高22m、枝張り25m、樹齢300年以上という。下膨れのクスノキで幹周囲はおそらく注連縄のあたりを計測したものであろう。大社神社のクスノキを「御油宿の巨木」としよう。

 大社神社から旧東海道に戻ってすぐ、蒲郡信用金庫の植込みの中に「御油一里塚跡」の石標があった。(右写真) 「江戸日本橋ヨリ七六里」とあった。

 すぐ先で旧東海道は追分に至る。ここは遠州見付宿までの姫街道への分岐点である。

 御油宿から本坂峠を越えて浜名湖の北を通り見付宿に至る東海道の脇街道は「本坂道」といわれて、今切の難所を避ける街道として賑わいをみせていた。宝永4年の大地震で新居の町が大破してからは、東海道を往来する人々のほとんどが本坂道を使うようになってしまった。

 災害復旧と客の激減に困窮する新居の人々を見兼ねて、幕府は大名・旗本については特別なことのない限り本坂道を通行することを禁止した。以後本坂道では大きな行列は宮家・公家・大名の貴婦人の行列に限られ、いつか「姫街道」と呼ばれるようになったという。

 かって仲間と静岡県の東海道22宿を歩いたとき、その仕上に姫街道を三日間かけて歩いた。しかし歩いたのは浜松から豊川稲荷までであった。再び東海道に合流する地点は御油宿あたりと心得てはいたが豊川稲荷にお参りして終った。

 その合流地点がここ追分であった。その角の狭い一角にいくつかの道標や常夜燈が並んでいた。(左写真)

 「秋葉山三尺坊大権現道」、「國幣小社砥鹿神社道」の石柱。見付宿の姫街道の分岐点にもあった板製の道しるべには、赤い矢印と「三州御油宿 これより姫街道 遠州見付宿まで」と書かれていた。

 砥鹿(とが)神社はこの追分より10kmほど東へ行った愛知県宝飯郡一宮町にある、旧国幣小社で東海地方の総鎮守とされた三河國一宮の砥鹿神社である。奥宮は少し離れた本宮山にあり、祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)(大国さま)である。

 旧御油橋(五井橋)のたもとに太い欅(たぶん)があり、その根元で3人の男性が手筒花火の筒に縄を巻く作業に勤しんでいた。「写真を撮ってもいいか」とことわってデジカメに収める。(右写真)

 手筒花火は、手筒に加工した孟宗竹に、丈夫な紙を幾重にも巻き針金で締め、さらにござを巻いて針金で締め、その上に縄を木槌で叩いて締めながら巻いて仕上げる。花火が暴発して上下に抜けるのはそれほど危険ではないが、竹が裂けると大事故につながるので、材料を変えて幾重にも巻いて仕上げるのだという。

 火薬は当日しっかりと詰める。詰め方が緩いと一度に火が回り暴発する。見た目ほど危険はないが事故が皆無というわけではないので、自分で上げる手筒は必ず自分で作るのが鉄則だという。

 御油の手筒花火は8月4日に花火祭りとして、大玉・小玉・乱玉・花束などの花火とともに音羽川の河原の数箇所で地区ごとに揚げるという。

 五井橋からのぞくと少し濁った音羽川にはたくさん錦鯉が泳いでいた。橋を渡った左手に若宮八幡宮の小さな社があった。(左上写真) よく見ると社の上に白い猫が我が物顔に居座っている。

 旧東海道は旧御油橋(五井橋)で音羽川を渡り御油宿に入る。その先で街道が一段と狭くなり古い家並みが続く。(右写真) 

 古い町並みは200mほど進むと突き当たり、街道は右折する。その右角の緑地に「ベルツ花夫人のゆかりの地」の看板が立っていた。ベルツ花夫人夫人は国際結婚の先駆けとなった明治の女性である。
 その角の向かい側のグラウンド角には高札場跡の案内板があった。(左上写真)
 旧東海道は少し広いT字路に突き当たり左折する。「御油の松並木資料館」は公民館の裏側、葉桜の並木が続く音羽川沿いにあった。門柱に御油橋の橋柱が使われている。「ごゆはし」や「明治三‥‥」の文字も見える。

 小さな資料館で受付におじいさんが一人いるだけであった。トイレを借りてから見学する。ここにも御油宿と赤坂宿の復元模型が展示されていた。御油宿と赤坂宿を分けるのは600mの「御油の松並木」である。見学を終えて展示室の戸を閉めようとすると、「開けておいて」という。展示室の冷気を受付に入れたいらしい。資料館を出た所に、一本の巨松の根っ子と幹が展示されていた。(右写真)
 旧東海道に戻って100mほど行った左側に本陣跡の石碑と案内板があった。(左写真)

 本陣の向いには脇本陣があり、現在も民家として残っている。(右写真) 「御油の松並木資料館」で写真展示されていたことだが、この脇本陣の2階には今でも座敷牢が残っているという。何に使われていたものかは良く解らない。

 少し先に「イチビキ」という醤油醸造の会社があった。その前に大きな仕込樽が二つ展示されていた。その底には次のように書かれていた。

「明治四拾弐年酉三月新調 イチビキ本醸造場 楠久三男」

 午後2時45分、二日連続で歩いたせいであろうか、今日は少なからず疲れた。少し早いし女房はまだ元気が余っているようであったが、また雨が降り出したので、今日はここまでにしようと話す。音羽川を渡って無人の名鉄御油駅に出て電車で帰った。

 今回の歩数は 1日目−23,190歩、2日目の今日は28,154歩、2日間合計で51,344歩であった。







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