



傘を差して、昨日、最後とした松葉公園交差点に戻る。「東海道 吉田宿 江戸まで七十三里 京まで五十二里」の石柱道標が交差点に立っていた。(右写真) 何時の間にか東海道の半行程も過ぎて、残り五十里余りになった。松葉公園の角には「豊橋商工品陳列館跡」の標柱があった。この松葉公園は豊川の対岸にある松尾芭蕉の「松葉塚」に何か縁があるのであろうか。
国道23号線を渡り、豊川にぶつかる手前で左折、すぐ右側の豊川沿いに湊町公園がある。公園内の池の蓬莱島に築島弁天の社がある。その前に芭蕉の「旅寝塚」の句碑があった。(左写真) 句は
築島弁天社の隣に神明社がある。(右写真) 伊勢神宮との関係が深く、社殿正面の「蕃垣御門」(右写真中央)は昔から伊勢神宮の下賜のものという。遷宮時の旧材を貰い受けるのであろう。
「吉田橋」も「豊橋」と変わった。東海道は神明社を出て右折し、豊川に架かった「豊橋」を渡る。(左写真の右下)
もっとも「吉田橋」はこの「豊橋」より70mほど下流に架かっていたという。長さ百二十間(216m)で東海道の四大大橋に数えられていた。ちなみに他の三橋は、武蔵の六郷橋(多摩川)、少し先の岡崎の矢作橋(矢作川)、近江の瀬田橋(瀬田川)であったという。富士川、安部川、大井川、天竜川といった大河に橋がなかったことが知れて面白い。
すぐ先の右側に聖眼寺がある。雨に濡れた静かな境内に入ると本堂左手に芭蕉句碑があった。「松葉塚」である。(左写真)
街道の左側は豊川の土手が続く。土手の内側には石垣が数段、積まれている。いつ時代のものであろうか。5分ほど歩いた歩道の街路樹の元に、「下地一里塚跡」の石標を見つけた。(右写真) 「江戸日本橋より七四里」とあった。
その先で下地町の古い町並みに入った。(左写真) 豊橋の市街では戦災のため古い建物はまったく見出せなかった。だから古い町並みを見るのは二川宿以来である。道幅が狭くなった最初に、間口の広い大きな商家があった。連子格子が綺麗に残っていた。
街道に戻ってすぐ小さな鹿菅橋を渡った。(右写真) ここは歌枕として知られた「志香須賀渡(しかすがのわたし)」のあったところという。清少納言は「枕草子」の第十七段に「渡(わたり)は、しかすがの渡、‥‥‥」とその先頭に挙げている。それほどに古歌に多用された歌枕だったようだ。「しかすがに」とは「さすがに」と同じ組成の副詞で、「そうはいうものの」という意味である。
豊川放水路の手前の左側に豊橋魚市場がある。周りに関連施設もあり、車の出入りも多い。これで豊橋市と別れ、放水路の直前で宝飯郡小坂井町に入った。放水路に架かる高橋を渡って300mほど下った右側、狭い緑地に「子だが橋」の碑と案内板があった。(左写真) この先の莵足神社への人身御供にまつわる皮肉な悲しい伝説の碑である。
またすじを引くような雨が降り出し、雨脚が繁くなった。国道151号線を渡って坂を登った右側に莵足神社があった。雨宿りを兼ねて立寄った。
雨は止まない。小坂井の町に入り、JR飯田線の踏切を渡った先に小さな御堂があった。いかにも街道筋らしく松の木と秋葉燈篭がセットになっていた。(左写真)
雨が一層しげくなり、コンビニの軒下を借りて雨宿りした。再度歩き始めて10分、左側の駐車場の隅に「芭蕉句碑」と「烏巣句碑」の2基が並んであった。(右写真) 側らに古井戸が一つ。ここはかって伊奈村立場茶屋の加藤家があった所である。加藤家の当主で俳人であった烏巣は芭蕉とも親交があり、芭蕉がこの地へ宿泊したときの句だという。
レストランを出る頃には雨もほとんど止み、空も心なしか明るくなってきた。歩き始めてまもなく、「伊奈一里塚跡」の石標を見つけた。(左写真) 珍しい太鼓屋さんの店の前であった。「江戸日本橋より七五里」とあった。
続いて「村社 速須佐之男神社」がある。参道両側には、見本の展示をしたように、色々な様式の石燈篭が並んでいた。(右写真) どういう人が奉納したものなのか判らないが大変興味深い。
コンクリートの柱状の台座の上に小さな社を載せ、半僧坊大権現と書かれた祠があった。(左写真) 「半僧坊」とはここより東へ直線距離で30キロ余りの、静岡県引佐郡引佐町の奥山半僧坊(方広寺)のことであろう。
すぐ先に対抗するように秋葉山常夜燈もあった。(右写真) 考えてみれば奥山半僧坊も秋葉山も火伏せの権現として信仰されており、対抗するように続いているのがいかにも日本的である。
ここは豊川市国府(こう)町という。右手には名鉄国府駅もある。律令時代には三河国の国府が置かれ、国分寺や国分尼寺も建てられたところである。それらの史跡は国府の町の1kmほど東にある。
珍しく街道沿いに石仏を見つけた。(右写真) 関東には道祖神がたくさんあったが、富士川を越してからはめっきりお目にかかるのが減っていた。観音形と僧形の石仏が二体並んで華も供えられている。
大社神社から旧東海道に戻ってすぐ、蒲郡信用金庫の植込みの中に「御油一里塚跡」の石標があった。(右写真) 「江戸日本橋ヨリ七六里」とあった。
かって仲間と静岡県の東海道22宿を歩いたとき、その仕上に姫街道を三日間かけて歩いた。しかし歩いたのは浜松から豊川稲荷までであった。再び東海道に合流する地点は御油宿あたりと心得てはいたが豊川稲荷にお参りして終った。
旧御油橋(五井橋)のたもとに太い欅(たぶん)があり、その根元で3人の男性が手筒花火の筒に縄を巻く作業に勤しんでいた。「写真を撮ってもいいか」とことわってデジカメに収める。(右写真)
手筒花火は、手筒に加工した孟宗竹に、丈夫な紙を幾重にも巻き針金で締め、さらにござを巻いて針金で締め、その上に縄を木槌で叩いて締めながら巻いて仕上げる。花火が暴発して上下に抜けるのはそれほど危険ではないが、竹が裂けると大事故につながるので、材料を変えて幾重にも巻いて仕上げるのだという。
旧東海道は旧御油橋(五井橋)で音羽川を渡り御油宿に入る。その先で街道が一段と狭くなり古い家並みが続く。(右写真)
古い町並みは200mほど進むと突き当たり、街道は右折する。その右角の緑地に「ベルツ花夫人のゆかりの地」の看板が立っていた。ベルツ花夫人夫人は国際結婚の先駆けとなった明治の女性である。
旧東海道は少し広いT字路に突き当たり左折する。「御油の松並木資料館」は公民館の裏側、葉桜の並木が続く音羽川沿いにあった。門柱に御油橋の橋柱が使われている。「ごゆはし」や「明治三‥‥」の文字も見える。
旧東海道に戻って100mほど行った左側に本陣跡の石碑と案内板があった。(左写真)
少し先に「イチビキ」という醤油醸造の会社があった。その前に大きな仕込樽が二つ展示されていた。その底には次のように書かれていた。



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