



すぐに乙川に架かる明代橋を渡る。きのうは夕方で気が付かなかったが、緑と水がたっぷりある美しい川であった。(左写真)
国道1号線を渡り伝馬通りに出て旧東海道の岡崎宿二十七曲りに戻る。通りの所々に東海道に因む石像と案内プレートがあった。右写真はその中の「お茶壷道中」と「朝鮮通信使」の石像である。
通りに古い商家が並んでいた。(右写真) 一軒は紙屋さんで、ガラス戸のカーテンが引かれ、商売をしていないのかもしれない。もう一軒は永田屋精肉店で「牛肉、豚肉、若どりの味噌漬」、「松阪牛」、「特売日」などの幟がにぎやかだが、肉屋さんは今は商売が大変厳しい時代であろう。
四つ角の右側にハリー・ポッターの看板の出た映画館があった。その映画館前に「西本陣跡」の石標があった。(左写真の左) 旧東海道はその四つ角を映画館とは反対の左側に曲がる。その角には「岡崎城下二十七曲 西本陣前角」と刻まれた石標があった。(左写真の中) 岡崎宿二十七曲りには角々にこのような案内の石標が立っている。
右側に大正時代の洋館が残っていた。(右写真) 旧商工会議所の建物である。煉瓦の赤と白い石材の配色と複雑な意匠が目を引いた。
旧商工会議所の洋館を左折し、道を横切って籠田公園に入る。入口正面に「戦災復興之碑」が建っていた。碑の上にうずくまる鳩の像が乗っていた。「平和に鳩」、全国にこんなモニュメントが幾つあることだろう。
籠田公園を横切って先へ行った女房を追いかけると公園の北の端でしゃがんだ女房の周りに鳩が集まっていた。(右写真) 期せずしてここには生きた鳩が平和を演出していた。
公園を北に抜けた所に「岡崎城下二十七曲 籠田町より連尺町角」の石標を見つけた。(左写真の最左) 旧東海道はこれより西へ進む。街角に写真のような抽象化された“どう見ても道祖神”の石像があった。(左写真の円内)
道がやや下り道路の向こう側には格子のある町屋も見られる。(右写真)
旧東海道は乙川の支川の伊賀川に突き当たり、柿田橋のたもとに「岡崎城下二十七曲 材木町より下肴町角」の石標があった。(左写真の左) 柿田橋を渡らずに川沿いを南へ進む。このあたりは肴町あるいは魚町と呼ばれる。おそらく往時は三河湾から矢作川、乙川、伊賀川と遡り、ここで魚を陸揚げし商ったのかもしれない。一つ下流の橋、三清橋を渡るが、その角に「岡崎城下二十七曲 下肴町より田町角」の石標があった。
愛知環状鉄道のガードを潜ってすぐ、「岡崎城下二十七曲 八帖村」の石標があった。(右写真の左)終ったと思っていた「二十七曲り」がまだ続いていた。
旧東海道に戻って矢作川に至る道は八丁味噌通りとでもいう道で、味噌蔵などの間口の広い木造建築が並んでいる。(左写真) 横丁を覗くとずーと向うまで味噌製造工場の建物が続き、ほぼワンブロックを占めているようだ。(左下写真) 八丁味噌の案内板があった。
午前11時26分、旧東海道は矢作川の土手の手前の三叉路を右に曲がる。その三叉路には新しい石標が建ち、「左 江戸 右 西京」と刻まれていた。これより国道一号線まで出る道には「八帖往還通り」の標識があった。
旧東海道は矢作橋の袂から国道一号線の一本北側の道を行く。すぐに家康の長男信康ゆかりの勝蓮寺がある。(左写真)
ここまで来て女房が「岡崎城はどこ?」と言い出した。そういえば「岡崎宿二十七曲り」をたどるに一生懸命で岡崎城を忘れていた。今となっては戻るわけにはいかない。
「東海道名所記」によると、「むかし、矢はぎの宿、長者のむすめ、浄瑠璃御前の屋敷あり。ここを矢はぎと名づくる事は、そのかみ、日本武尊、東夷をほろぼさんとて、この所まで下り給ひ、矢を多く作らせられしによりて、矢はぎというなり」とある。
旧東海道が国道一号線に出て間もなく、「鐘庵」といううどんのチェーン店に入り、昼食をとった。看板に出ていた桜海老の掻き揚げを一つ頼んでみた。
午後0時34分、鐘庵を出て午後の部に入る。20分ほど歩いて岡崎市から安城市に入り、柿崎の交差点で国道一号線と別れて旧街道は右に入って行く。この後、街道筋には松並木が断続的に続く。(左写真)
さらに熊野神社の前には一里塚跡の石碑と鎌倉街道跡の案内板があった。(左写真) 鎌倉街道は旧東海道の北側を西から来て、熊野神社で旧東海道と交差し、南東へ下っていた。
さらに5分ほど歩いた左に、根元を緑に囲われた「明治天皇御駐蹕之所」の石碑が建っていた。(右写真) 「蹕(ひつ)」は「天子の行幸」のこと。
次の「明治川神社」の交差点には、横切った右側に大きな石碑があった。(右写真) 明治用水開渠記念碑である。
この明治用水は、水源を豊田市水源町の矢作川と岡崎市細川町の巴川から取り、愛知県の中央部である安城市を中心に、岡崎、豊田、知立、刈谷、高浜、碧南、西尾の八つの市にまたがって流れており、現在も貴重な農業用水・工業用水として利用されている。
石碑の向い側に明治川神社がある。岡本兵松、伊予田与八郎らの明治用水開削の功労者を明治用水の守り神として祀ったものである。すぐ横を流れる明治用水は暗渠となり、開削当時の面影は残っていなかった。
15分ほど歩いて松並木が始まる。(左写真) 途中に、東海道のマツ並木の案内板があった。
さらに15分ほど進んだ来迎寺町の角に古い石標があった。(右写真) これは1kmほど北へ入った在原業平ゆかりの無量寿寺の道しるべである。
午後2時54分、すぐ先に「来迎寺一里塚」があった。両側に残っているというが、街道から見えるのは南側の塚(左写真の左)で、北側の塚(左写真の右)は前に公民館が出来、路地を入らないと見えない。
知立市来迎寺町から牛田町に入り、20分ほど歩くと並木八丁と呼ぶ東海道知立松並木が始まる。その入口に「旧東海道 三拾九番目之宿 池鯉鮒」「江戸日本橋 八拾四里拾七町」と刻まれた石標が建っていた。(右写真の左) また童顔で双体の新しい道祖神が置かれていた。なぜか衣冠束帯と十二単の姿は平安貴族のものであった。(右写真の右)
知立松並木の案内板もあった。
国道一号線を斜めに越えて国道の南側に出た辺りから、かって馬市のあった所である。松並木の案内板に馬市に触れた部分があった。
午後3時28分、「やすらぎ」と銘打った馬の彫造(左写真)や、安藤広重「東海道五十三次之内」池鯉鮒の馬市の浮世絵看板があり、また引く馬野の万葉歌碑(右写真の左)と「池鯉鮒宿 馬市之趾」の碑(右写真の右)があった。馬市之趾の碑の裏面は句碑となっていた。



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