第 23 回 
  平成14年9月23日(月) 
 晴れ
 岡崎宿−二十七曲り−矢作川−池鯉鮒宿
 “岡崎宿二十七曲りに岡崎城を忘れる!”



 昨夜は名古屋に住む娘夫婦のアパートに泊まる。共稼ぎで部屋が乱雑になっていると心配したが、前触れをしていたせいか、きれいに片付いていた。

 中華料理の外食後、部屋に戻る。最新のガス風呂は「お風呂が沸きました」などと、音声で知らせてくれる。「便利なものだねえ」と話しながら、「それではお先に」と湯船に浸かったが少しぬるい。操作ボードの湯温は42度を標示している。やはり自分には少しぬるい訳だ。湯量はたっぷりあるから、これは追い炊きすればよいと思った。ボードには幾つもボタンが並んでいる。さてどのボタンを押せば追い炊き出来るのか、よくわからない。押してみれば判るだろうと、「自動」とか「湯温設定」とかのボタンを色々押してみる。しかしなかなか追い炊きにならない。幾つかボタンを押してようやく追い炊き出来気分よく出た。ところが部屋では皆んな大爆笑であったという。どうもボタンを押す度に「自動設定しました」とか「湯温設定しました」と音声案内が忙しくされていたらしい。娘が「お風呂で遊ばないでね」という。便利な装置も程々にして欲しいものだ。

 朝、気持良く晴れた。裏に小さな庭のスペースがあった。朝雨戸を開けると庭中草茫々であった。そういえば昨夜娘が草を生やしておくと人が住んでいないみたいで安全なのだなどと言い訳をしていた。起き抜けに見かねて女房が少しだけ草を抜いた。

 近くのバス停からバス、名鉄の電車と乗り継いで、午前9時50分、昨夕の最後とした東岡崎駅に着く。きのう、次の岡崎公園駅まで足を伸ばそうかとも思ったが、東岡崎駅で終って正解であった。東岡崎駅は特急の止まる主要駅で乗り換えが最小で済んだ。

 すぐに乙川に架かる明代橋を渡る。きのうは夕方で気が付かなかったが、緑と水がたっぷりある美しい川であった。(左写真)

 国道1号線を渡り伝馬通りに出て旧東海道の岡崎宿二十七曲りに戻る。通りの所々に東海道に因む石像と案内プレートがあった。右写真はその中の「お茶壷道中」と「朝鮮通信使」の石像である。

 「お茶壷道中」は権威を笠に着て、道中で威張ったり供応を迫ったりで、街道沿いの住民たちに嫌われていた。その様子が「ずいずいずっころばしごまみそずい‥‥」のわらべ歌に残っているという。「茶壷に追われて戸ぴっしゃん、抜けたらどんどこしょ」 つまり「お茶壷道中」が通るときは戸をぴしゃりと閉めて家にこもり、行列が抜けたらまだ出て遊ぼうというような内容である。
 徳川幕府は秀吉の朝鮮征伐の後遺症を癒すために李氏朝鮮との親密な友好関係を保った。李氏朝鮮もその文化とともに朝鮮通信使を何度も派遣し、それに応えた。この江戸時代を通じての濃厚な友好関係が災いした。明治になって日本の政権が変わったが、徳川政権に信義を感じていた李氏朝鮮はかたくなに新政権を認めようとしなかった。そして、歴史は、日本と朝鮮との確執、さらには日本による朝鮮併合へと進んでしまった。日朝の不幸な時代へと進んでしまったのは皮肉な結果であった。
 通りに古い商家が並んでいた。(右写真) 一軒は紙屋さんで、ガラス戸のカーテンが引かれ、商売をしていないのかもしれない。もう一軒は永田屋精肉店で「牛肉、豚肉、若どりの味噌漬」、「松阪牛」、「特売日」などの幟がにぎやかだが、肉屋さんは今は商売が大変厳しい時代であろう。

 西本陣跡の少し手前に岡崎宿二十七曲りの二つ目の案内碑があった。
 四つ角の右側にハリー・ポッターの看板の出た映画館があった。その映画館前に「西本陣跡」の石標があった。(左写真の左) 旧東海道はその四つ角を映画館とは反対の左側に曲がる。その角には「岡崎城下二十七曲 西本陣前角」と刻まれた石標があった。(左写真の中) 岡崎宿二十七曲りには角々にこのような案内の石標が立っている。

 旧東海道は南へ進み、次の四つ角で右折し西へ進む。その角に「明治二己巳(つちのとみ)年十二月建之」の道標があった。(左写真の右) 3面にそれぞれ「きらみち」「西京いせ道」「東京みち」と刻まれていた。

 右側に大正時代の洋館が残っていた。(右写真) 旧商工会議所の建物である。煉瓦の赤と白い石材の配色と複雑な意匠が目を引いた。
 旧商工会議所の洋館を左折し、道を横切って籠田公園に入る。入口正面に「戦災復興之碑」が建っていた。碑の上にうずくまる鳩の像が乗っていた。「平和に鳩」、全国にこんなモニュメントが幾つあることだろう。

 籠田公園の右手に古い石燈篭が見えた。側に寄ってみると、「籠田総門角常夜燈」で330年ほど前の石燈篭であった。(左写真)
 籠田公園を横切って先へ行った女房を追いかけると公園の北の端でしゃがんだ女房の周りに鳩が集まっていた。(右写真) 期せずしてここには生きた鳩が平和を演出していた。

 公園を北に抜けた所に「岡崎城下二十七曲 籠田町より連尺町角」の石標を見つけた。(左写真の最左) 旧東海道はこれより西へ進む。街角に写真のような抽象化された“どう見ても道祖神”の石像があった。(左写真の円内)

 岡崎宿二十七曲りの三つ目の案内碑を見た後、赤いレンガの建物の角に「岡崎城下二十七曲 岡崎城対面所前角」の石標があった。(左写真の左から2番目) そこで右折する。この後、「岡崎城下二十七曲 材木町口木戸前」(左写真の右から2番目)、「岡崎城下二十七曲 材木町角」の石標(左写真の最左)を頼りに左に右に曲がり、材木町を西へ向かう。

 道がやや下り道路の向こう側には格子のある町屋も見られる。(右写真)

 旧東海道は乙川の支川の伊賀川に突き当たり、柿田橋のたもとに「岡崎城下二十七曲 材木町より下肴町角」の石標があった。(左写真の左) 柿田橋を渡らずに川沿いを南へ進む。このあたりは肴町あるいは魚町と呼ばれる。おそらく往時は三河湾から矢作川、乙川、伊賀川と遡り、ここで魚を陸揚げし商ったのかもしれない。一つ下流の橋、三清橋を渡るが、その角に「岡崎城下二十七曲 下肴町より田町角」の石標があった。

 旧東海道は横丁をちょこちょこ回って国道一号線に出る。国道一号線が中央分離帯があって南へ渡れず、八帖の交差点まで行き、歩道橋を渡って向かい側に戻り、横丁に入る。そのあと「岡崎城下二十七曲 板屋町角」の石標(左写真の中)の三叉路を右折して西へ進む。

 中岡崎町の交差点を突っ切ったところに、「松葉総門跡」の石標があった。(左写真の右) 石標の裏側に「松葉総門」の案内があった。
 午前10時58分、これで長かった「岡崎宿東海道二十七曲り」を歩き終った。ここまで通った町を洗い出してみると、欠町−若宮町−両町−伝馬通−籠田町−連尺通−材木町−魚町−田町−板屋町−八帖町と歩いて来た訳である。

 愛知環状鉄道のガードを潜ってすぐ、「岡崎城下二十七曲 八帖村」の石標があった。(右写真の左)終ったと思っていた「二十七曲り」がまだ続いていた。

 愛知環状鉄道に並行する道路の西側に、有名な「八丁味噌」の工場が二軒ある。右に「カクキュー」、左に「まるや」である。派手な本社建物が見える「カクキュー」に道草して立ち寄ってみることにした。

 「カクキュー」の本社建物はごげ茶の壁に白い柱が塗り分けられて大変派手な木造建築であった。(右写真) 前庭にはかって大豆を煮るために使用していた石炭ボイラーが展示してあった。
 工場の見学をさせてくれるとあったが、時間の関係でパスする。売店に入ると、ちょうど見学を終えた人たちが出て来て混んでいた。ここで重い味噌を買うわけにもいかないので女房は味噌飴を買った。休憩ベンチでアイスを食べて出た。

 旧東海道に戻って矢作川に至る道は八丁味噌通りとでもいう道で、味噌蔵などの間口の広い木造建築が並んでいる。(左写真) 横丁を覗くとずーと向うまで味噌製造工場の建物が続き、ほぼワンブロックを占めているようだ。(左下写真) 八丁味噌の案内板があった。
 午前11時26分、旧東海道は矢作川の土手の手前の三叉路を右に曲がる。その三叉路には新しい石標が建ち、「左 江戸 右 西京」と刻まれていた。これより国道一号線まで出る道には「八帖往還通り」の標識があった。

 旧東海道の矢作川には矢作橋が架けられていた。国道一号線の矢作橋よりも200mほど下流にあり、100mも長い橋であったという。現在はそこに橋は無く、我々は国道一号線の矢作橋を渡る。

 渡りきった右側に「出合之像」があった。(右写真) 日吉丸と呼ばれた若かりし日の秀吉が野武士の蜂須賀小六と出会う場面である。橋で寝ている日吉丸の頭を小六が蹴る。目覚めた日吉丸が「無礼な!」と小六の槍の柄を掴む有名なシーンである。二人とも妙に可愛らしく彫られているのがユーモラスな石像である。

 矢作橋は江戸時代になって初めて架けられたといい、このエピソードの時代には橋は無く、太閤記の作者の創作だったようだ。

 旧東海道は矢作橋の袂から国道一号線の一本北側の道を行く。すぐに家康の長男信康ゆかりの勝蓮寺がある。(左写真)
 ここまで来て女房が「岡崎城はどこ?」と言い出した。そういえば「岡崎宿二十七曲り」をたどるに一生懸命で岡崎城を忘れていた。今となっては戻るわけにはいかない。

 600mほど進んだ右側に誓願寺があり、道路沿いには十王堂がある。(右写真) 格子の中を覗くとそこは極彩色の世界であった。(右下写真) 前に二段に並んだ十王像こそ古色を示していたが、背後の壁画には、紫雲に乗った如来や天女、飛天、蓮華、堂塔などがいっぱいに描かれていた。古びたお堂と内部の世界の落差に声を失った。
 「東海道名所記」によると、「むかし、矢はぎの宿、長者のむすめ、浄瑠璃御前の屋敷あり。ここを矢はぎと名づくる事は、そのかみ、日本武尊、東夷をほろぼさんとて、この所まで下り給ひ、矢を多く作らせられしによりて、矢はぎというなり」とある。

 誓願寺の境内に入ると、右手にその「浄瑠璃姫の墓」があった。(左写真) 石柵に仕切られた中に中央の最も背の高い宝篋印塔が浄瑠璃姫の墓と云われ、石柵の外の画面最も左の大きい五輪の塔が父親の兼高長者の墓といわれている。

 実は浄瑠璃姫の墓や供養塔は他にも幾つかある。先ほど通り過ぎてしまった岡崎城址の入口近くにも浄瑠璃姫の墓といわれる塚に宝篋印塔が建っているという。
 「浄瑠璃姫の墓」は東海道の蒲原宿にも残っていた。蒲原では浄瑠璃姫は陸奥の国に下る義経の後を追い、宿外れの吹き上げの浜まで来て、疲れ果てて亡くなったと伝わっている。里人が姫を哀れみ、亡骸を葬った後に、塚のしるしに六本の松を植えたという。今も何代目かの松が「吹き上げの六本松」と名付けられて残っている。街道から少し外れていたため、我々は立寄らなかったが、物語は地元発行の「ふるさと蒲原の歴史」で読んだものである。

 浄瑠璃姫の悲話を小野お通が「浄瑠璃十二段草子」として書き記し、信長の前で音曲にのせて語ったのが、江戸時代に流行した「浄瑠璃」の始まりだといわれている。

 旧東海道が国道一号線に出て間もなく、「鐘庵」といううどんのチェーン店に入り、昼食をとった。看板に出ていた桜海老の掻き揚げを一つ頼んでみた。

 午後0時34分、鐘庵を出て午後の部に入る。20分ほど歩いて岡崎市から安城市に入り、柿崎の交差点で国道一号線と別れて旧街道は右に入って行く。この後、街道筋には松並木が断続的に続く。(左写真)

 15分ほど歩いた右手に熊野神社の社叢がある。その道路沿いに予科練之碑があった。(右写真)
 さらに熊野神社の前には一里塚跡の石碑と鎌倉街道跡の案内板があった。(左写真) 鎌倉街道は旧東海道の北側を西から来て、熊野神社で旧東海道と交差し、南東へ下っていた。
 8分ほど進んだ左側の喜徳真天のお堂の前に、二本の松が並んでいた。(右写真)

三河路に 昔をしのぶ 夫婦松

の句が「東海道宿場街道 平成十一年晩秋 住人」の記載とともに立て札に書かれていた。またそれぞれの幹に「助さん」「格さん」の看板が「志貴小学校」の名前で張られていた。「夫婦松」と「助さん・格さん」のどちらに軍配を上げようか。二本の上部での絡み方は夫婦松の方が相応しいか。

 さらに5分ほど歩いた左に、根元を緑に囲われた「明治天皇御駐蹕之所」の石碑が建っていた。(右写真) 「蹕(ひつ)」は「天子の行幸」のこと。

 午後1時43分、安城市浜屋町に「永安寺の雲竜の松」があった。(左下写真) 「巨木巡礼」では2000年5月に来ている。狭い道を入ったような気がしていたが、旧東海道の道沿いにあった。永安寺の狭い境内を占拠する形に這い回っていた。竹垣に四角く囲まれ、そばになぜか石灯籠が一基置かれていた。少し遅れたが、「岡崎宿の巨木」を選んでいなかったので、この木を「岡崎宿の巨木」としよう。

 次の「明治川神社」の交差点には、横切った右側に大きな石碑があった。(右写真) 明治用水開渠記念碑である。

 安城ヶ原の開拓をしていた岡本兵松は用水路の必要を痛感し、伊予田与八郎らと協力し、数々の苦難を乗り越えて、用水計画の許可を得て、明治12年に明治用水の開削が始まった。

 この明治用水は、水源を豊田市水源町の矢作川と岡崎市細川町の巴川から取り、愛知県の中央部である安城市を中心に、岡崎、豊田、知立、刈谷、高浜、碧南、西尾の八つの市にまたがって流れており、現在も貴重な農業用水・工業用水として利用されている。

 また明治用水は福島県の安積疏水、栃木県の那須疏水とともに「明治時代の三大用水」として知られている。

 石碑の向い側に明治川神社がある。岡本兵松、伊予田与八郎らの明治用水開削の功労者を明治用水の守り神として祀ったものである。すぐ横を流れる明治用水は暗渠となり、開削当時の面影は残っていなかった。

 ひとしきり松並木の街道を進み、二十数分歩いた、午後2時16分、右側に道路沿いに色々な石碑が乱立した青麻神社があった。左端に化粧回しを付けた相撲取りの石像があった。(右写真) また「三州前浜産 清見潟又市碑」と刻まれた石碑も見える。

 明治の始めに当地出身の相撲取りで、志貴ノ海幸蔵というしこ名で前頭筆頭まで昇進し、引退後、師匠の名を襲名して5代目清見潟又市となった人である。そのため清見潟一門の力士には西三河地方の出身者が多かったという。後日、インターネットで写真を見たが、石像にそっくりであった。

 15分ほど歩いて松並木が始まる。(左写真) 途中に、東海道のマツ並木の案内板があった。
 さらに15分ほど進んだ来迎寺町の角に古い石標があった。(右写真) これは1kmほど北へ入った在原業平ゆかりの無量寿寺の道しるべである。
 在原業平といえば伊勢物語。東下りの段で、三河の国、八橋まで来て、かきつばたが咲いているのを見て、或る人が「かきつばた」の5文字を折り句して旅の心を詠めといったのに対して、

唐衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ

とよみ皆の涙を誘い、乾飯(かれいひ)もふやけてしまったという話が載っている。

 業平が下った道はおそらく鎌倉街道とよばれた道で、旧東海道より1kmほど北を通っていた。だからこの在原業平のゆかりの地もそこへ集中している。無量寿寺・在原寺・業平塚・落田中の一本松・業平池などが挙げられる。

 午後2時54分、すぐ先に「来迎寺一里塚」があった。両側に残っているというが、街道から見えるのは南側の塚(左写真の左)で、北側の塚(左写真の右)は前に公民館が出来、路地を入らないと見えない。
 知立市来迎寺町から牛田町に入り、20分ほど歩くと並木八丁と呼ぶ東海道知立松並木が始まる。その入口に「旧東海道 三拾九番目之宿 池鯉鮒」「江戸日本橋 八拾四里拾七町」と刻まれた石標が建っていた。(右写真の左) また童顔で双体の新しい道祖神が置かれていた。なぜか衣冠束帯と十二単の姿は平安貴族のものであった。(右写真の右)

 知立松並木の案内板もあった。
 松並木の側には明治用水の西井筋が流れていて暗渠になっているようだ。
 国道一号線を斜めに越えて国道の南側に出た辺りから、かって馬市のあった所である。松並木の案内板に馬市に触れた部分があった。
 午後3時28分、「やすらぎ」と銘打った馬の彫造(左写真)や、安藤広重「東海道五十三次之内」池鯉鮒の馬市の浮世絵看板があり、また引く馬野の万葉歌碑(右写真の左)と「池鯉鮒宿 馬市之趾」の碑(右写真の右)があった。馬市之趾の碑の裏面は句碑となっていた。
 池鯉鮒宿に入った所で二日に渡った旧東海道の歩き旅を終えた。知立駅には午後4時3分に着いた。今回の歩数は 1日目−40,796歩、2日目は30,765歩、2日間合計で71,561歩であった。







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