第 24 回 
  平成14年10月27日(日) 
 快晴風強く寒し
 池鯉鮒宿−今岡−桶狭間−有松−鳴海宿
 “名物は三河木綿とひもかわうどんに有松絞り”



 旧東海道も3分の2を過ぎていよいよゴールが遠くに見えてきた。近頃女房とは旧東海道をゴールしたら今度はそのまま中山道を東へ取って返そうと話している。

 中山道六十九次は東海道と重なる大津と草津の宿を除いて六十七次という言い方もある。全長約533キロで、東海道五十三次の492キロと比べて約40km長い。それ以上に海岸沿いの平坦な道の多い東海道に比べて、中山道は山道が主力で、険しい道が続くのであろう。

 その中山道の岐阜県内約140キロの16宿で「姫街道400年祭」が今年開催されているという。今年は、中山道に「宿駅伝馬制」を制定した1602年からちょうど400年目にあたるという。それを記念したイベントである。

 「姫街道」といえば東海道の今切の渡しを避け、浜名湖の北を回った本坂道のことだと思っていたが、中山道の別名でもあったのだ。東海道には「七里の渡し」や「今切の渡し」、川留めで有名な「大井川の川越し」など水路の難所が幾つかある。しかし山道の中山道にはないため、徳川家茂へ嫁いだ皇女和宮をはじめ多くの女性の道中に使われた。そのため「姫街道」と呼ぱれるようになった。

 午前10時7分、名鉄知立駅を出て右側の国道419号を300mほど北へ進み、広い道を横切った次の裏道が旧東海道である。右に少し戻ったマーケット前の電話ボックス側に、「地鯉鮒宿問屋場之跡」の石碑があった。(左写真)

 西へ歩き始めて広い道を横切った左角に、案内書にもあった古い和菓子屋さんがあった。(右写真) 看板に「慶仏事贈答用和菓子 地鯉鮒銘菓 都築屋美廣」と書かれ、歪んだ透明ガラス越しに店の中がよく見えた。お土産に何か買うには少し早いかと女房と話す。

 東海道の裏手に「地鯉鮒宿本陣跡」の石碑があると案内書にあったので、和菓子屋さんの一本南の路地に回ってみた。そして、人家と貯水槽に挟まれた石碑を見つけた。隣に「明治天皇行在所聖蹟」の石碑とそれを挟んだ2基の石燈篭が立っていた。(左下写真)

 旧東海道に戻って間もなく、旧東海道はT字路に突き当たり右折する。そこに新しい東海道の道しるべの石標があった。(右写真の左) 手前角には僧形の石仏があって、光背に「左一番弘法道 右三番弘法道」と刻まれていた。(右写真の右)

 昔はお寺参りはもちろん歩いて参ることが基本であった。さらに複数の寺、長い距離を巡れば“巡礼”で、そこでは巡り歩く行為そのものが信仰の一つの具現であった。だから街道には単に巡礼者の便宜を図る道標に終らず、信仰の場としての街道を演出する道標を兼ねた石仏群が造られ続けたのであろう。

 この石仏は「知立三弘法」の案内道標になっている。この近辺にはよく注意してみると弘法大師信仰の跡を示すものがよく目に付く。

 かって街道筋には石仏・道祖神・墓石・道しるべなど石造物やお堂・祠が無数にあった。明治になって行き過ぎた洋風化思想のために、土俗的な迷信を恥じて多くのものが片付けられ、寺院や神社の境内に移されたものは幸運な方で、庭の踏み石などに再利用されてしまったものも数多くあったという。現在我々が目にすることが出きるものは地域の人々が圧力に屈せず守り、あるいはその後再建されたものであるという。

 今まで街道を歩きながら、もっぱら道路改修などの近代化によって無くなってしまったものとばかり考えていた。もちろん多くのものはそんな理由だったのだろう。しかし近代化の初っ端に洋風化の波があったことを最近本を読んで始めて知った。

 左手の西町公園はかって知立城のあった跡である。中に入ると、園内に枝を広げるクスノキが一本あり、児童遊具の前には電柱ほどの丸い石柱に「知立古城址」と刻まれていた。(左写真の左)

 案内板では知立城は桶狭間の戦で落城したという。「桶狭間」は東海道を一里半余り進んだところにあるが、戦いが起きたとき今川方の主力はここは通り過ぎていたはずで、どんな状況でどちらに味方して落城したのであろうか。小城故に大きな戦いの煽りを食らったのであろうか。案内板ではうかがい知れなかった。(後日、永見氏は今川勢に加担し、桶狭間の戦いの後、織田勢に攻められ落城したと判明した)
 公園の一隅には「明治天皇御小休所阯」と刻まれた石碑が一基、道路沿いには石垣を積んだ上に「明治天皇驛蹕地」と書かれた銅板のような色合の碑があった。(左上写真の右) この地で馬を休ませたのであろうが、知立本陣に宿泊されたときとは別の時であろう。

 その道はすぐに左折するが、その突き当たりに了運寺がある。階上が鐘楼になった門が目立つ。(右写真の右) 門の左側には知立三弘法の二番札所の御堂があった。(右写真の左)

 旧東海道はすぐに国道155号線を地下道で横切る。地下道の入口に「総持寺跡大イチョウ」の案内板があった。“どこにイチョウが”と見回すと路地の奥にそれらしい樹様が見えた。昔、総持寺の境内だったのが廃寺となり、その後総持寺は別の場所に再建され、今は私有地に入ってしまった。塀の切れ目から写真に取った。(左写真) 逆光で上手な写真にならなかったが、浮き出した根が巨木のダイナミックさを表わしていた。とりあえず、「地鯉鮒宿の巨木」としてゲットしておこう。
 国道155号線を渡って200mほど進んだ右側角に「延喜式知立神社」の石柱が立ち、両側の民家の庭に取り込まれて、小振りの常夜灯があった。その横道の奥に知立神社がある。

 知立神社境内に入る手前の左側に、「明治神宮御分譲 知立花菖蒲苑」があった。(右写真) もっとも季節はずれの現在は何のこともないが、見頃にはにぎわうことであろう。「いずれアヤメかカキツバタ」という慣用句があるが、アヤメ、カキツバタ、花菖蒲の見分け方は難しい。

 いずれもアヤメ科の多年草で、アヤメはやや乾燥した草原に群生する。カキツバタは池沼または湿地に生じる。花菖蒲はノハナショウブを原種として、日本で改良された園芸品種である。花もそれぞれに特徴があるようだが、説明は難しい。多分花菖蒲が最も艶やかな花である。
 園内の道沿いに芭蕉句碑があった。(左写真)

不断立つ 池鯉鮒の宿の 木綿市(もめんいち)  芭蕉翁

 知立は広重の五十三次の浮世絵で馬市が有名であるが、三河木綿の木綿市でも賑わったという。
 知立神社境内に接して、トネリコの古木があった。(右写真) 幹が横へ這って登って腰掛けると快適だろうと思った。巨木には足らないが敬意を表して2本目の「知立宿の巨木」としよう。ところでトネリコという木については全く知識が無かった。
 午後10時52分、知立神社は気の早い七五三のお参りで賑わっていた。入った正面に古色を帯びた多宝塔があった。(左写真) 神社に多宝塔は似合わないと思っていたら、ここにはかって神宮寺があったと案内板にあり納得した。明治の初めの廃仏毀釈の蛮行から、人々は手を変え品を変えて歴史的文化財を守ったことが知れて興味深い。現在は相輪は戻り、瓦葺も柿葺きに戻っている。
 知立神社にはもう一つ古いものがある。石の太鼓橋である。(右写真) この太鼓橋は柵で囲われている。現在は使われておらず、しかし過去にも使われたことがあるのだろうか。如何にも渡り難そうな橋である。
 
 知立神社から旧東海道に戻って先へ進んですぐ左側に総持寺がある。(左写真の左) 「総持寺」という名前は「総持寺跡大イチョウ」の案内板に「その後大正十五年に西町新川に再建され」たとあった。それがこのお寺である。知立神社の多宝塔の案内板にも神仏分離で「祀られていた愛染明王を総持寺に移し」と名前が出て来る。この地は徳川家康の側室、お万の方の誕生の地で、石碑に「徳川秀康之生母 於萬之方誕生地」と刻まれていた。(左写真の右)

 間もなく逢妻川に出て、逢妻橋を渡る。渡ってすぐに国道一号線に出る。刈谷市に入り、国道一号線の341キロポストを見る。あと残すはあと150キロである。

 「一里山歩道橋(刈谷市一里山町)」の標示を見て、この辺りにもかっては一里塚があったのだろうと思いながら通り過ぎかけて、歩道橋の根元に一里塚の案内碑を見つけた。女房は先に行ってしまっているので一人で確認した。
 刈谷市今岡町に入って、旧東海道は国道一号線から左へ逸れる。すぐ右側の民家の一部に銀色のアルミサッシの中に納まった十王堂があった。石地蔵が意外と心地良さそうで不思議な景色であった。(右写真)
 少し先の左側には洞隣寺がある。通りに面して常夜灯と「弘法大師御自作 子安地蔵尊霊場」の石碑があった。(左写真の左) 境内に入ると変った達磨像があった。(左写真の右円内)
 「めったいくやしい」の伝説は次のようなものである。

 昔、今岡の洞隣寺にひとりの下女がいて、後に高津波村の医王寺に移り奉公することになった。その女は医王寺の和尚にひそかに想いを寄せたが、思いは通じず寺から追い出されてしまった。その後、女は恨んで「明諦」という尼さんになり、間もなく亡くなった。
 女は洞隣寺にお墓があったが、彼女の墓のある辺りから青白い炎が立ち、「めったい(めちゃめちゃに)くやしい、めいてい(明諦)くやしい」と聞こえた。この炎は明治の初期まで時々現れたという。


 そういえばオリンピックの銀メダルを取って、「めっちゃくやしい」と感想を述べた女性スイマーがいた。

 今岡町にはかって立場が置かれた。その立場の名物として「いもかわうどん」があった。洞隣寺のすぐ前にその案内標識があった。(右写真)

 この辺りの地名、芋川(現在は「刈谷市今川町」)の名産に平打ちのうどんがあった。産地名から「いもかわうどん」と呼ばれていたが、紐のような形状だったので、いつか「ひもかわうどん」と呼ばれるようになった。名古屋の代表的な麺である「きしめん」も出は同じ物らしい。

 辺りには格子の残る古い町屋が点々と残っていて、街道の風情を感じさせてくれる。(左写真) この辺りは刈谷市今川町、すぐ西に名鉄名古屋本線の富士松駅がある。

 桶狭間の合戦で敗退する今川勢に、西へ急ぐ旅人が信長の回し者と間違われ斬り殺された。村人は哀れに思い旅人を丁寧に埋葬し、一本の松を植えた。この松は“お富士松”と呼ばれ、地名の元にもなった。

 伊勢湾台風で残念ながら枯れてしまったが、今は場所を変えて、駅前の緑地帯に2代目の松が育っているという。

 洞隣寺から10分ほど歩いた右側に乗蓮寺がある。境内にシイノキの古木がある。(右写真) かっては木の根元が大きな空洞を成していたが、今は二つに裂けて二本の木が並び立っているように見える。この木を少し気が早いが「鳴海宿の巨木」としよう。
 国道1号線に出る手前、路傍の緑地に自然石に削りだした今作りの可愛らしい道祖神が置かれていた。(左写真)

 国道1号線を渡り北東側に出る。正午をまわったので食堂を探す。ヘルスセンターに附属した“めん処  泉七八”に入り、ヘルスセンターのカラオケがうるさい中、うどんを食べた。

 食堂を出てすぐに境川に架かった境橋を渡る。(右写真) ここで三河の国から尾張の国に入る。だから境川で境橋。現代もこの橋を境に、これより刈谷市から豊明市に入る。
 境橋を渡った右側の土手に自然石に刻まれた歌碑があった。(左写真)

うち渡す 尾張の国の 境橋 これやにかわの 継目なるらん

 「にかわ」は接着剤の「膠」と「三河」の掛詞。いわば駄洒落。
 国道一号線に出て、約1km先で一号線から左へ入り、300mほど先に「阿野一里塚」がある。午後1時9分、「阿野一里塚」に着く。珍しく両側に塚が残っている。左の塚には森市雪の句碑があった。(右写真)

春風や 坂をのぼりに 馬の鈴   市雪
 向い側にも一里塚が残り、案内板があった。(左写真)
 すぐ先の小学校前に東海道松並木の名残の松が一本だけ残っていた。(右写真)
 これより30分、見るべきものもなくひたすら歩く。国道1号線に再び合流して、名鉄名古屋本線のガードを抜け、中京競馬場前駅の前の南に100mほど入った所に桶狭間の史跡公園がある。午後1時49分、入口に「史蹟 桶狭間古戦場」の石柱が立ち、日本庭園のようにきれいに剪定された木々の間の高台にあずまやが見えた。(左下写真)

 桶狭間の戦いは織田信長のいわばデビュー戦である。戦国の世、今川、北条、上杉、武田の関東・中部の群雄が天下を取るため京へ攻め上る機会を狙っていた。その一番手が駿河の今川義元である。その通り道に当る尾張の織田も密かに天下を目指していた。だから今川勢をむざむざと通すわけにはいかない。織田信長は震えるような緊張感の中、幸若舞いに気持を落ち着かせて出陣する。

 しかし今川勢にとっては小国の織田勢など一ひねりと考えていた。軍勢2万5千の今川勢と3千の織田勢では勝負にならない。その分、今川義元に油断があった。地の利を持つ織田勢、急変する天候、情報収集の巧みさ、勢力を一点に集中させた戦術などあって、勝負はあっけなくついた。

 この後、数々の戦を勝ち、天下統一直前の信長は余りに無防備に本能寺にいて、明智光秀に足元をすくわれ、天下統一の夢は破れた。桶狭間から本能寺まで、信長の戦いは油断に始まり油断に終ったと言える。

 園内を右側から廻って行くと、最初に今川義元の戦死した場所を示す石標があった。案内板に「七石表」とあるように、戦死した今川側の武将に最期の場所に点々と石標が立っていた。
 
 さらに「七石表の一」と背中合わせに今川義元の墓もあった。(右写真)
 公園の最も奥に「桶狭間古戰場趾 愛知縣」と刻まれた石柱の隣に、クスノキをバックに「桶峽弔古碑」が立っている。(左写真)
碑面を読むことは出来なかったが、「永禄三年、駿侯西征のため、五月十九日桶峽の山北に陣す、織田公奇兵を以って之を襲い、駿侯義元を滅す」という文が書かれているようだ。
 手洗に行っている女房を、高台に建つ四阿(あずまや)でペットボトルのお茶を飲みながら待つ。昼下がりの公園には老若のカップルが幾組か来て案内板を見上げては散策していた。

 弔古碑の反対側に桶狭間古戦場を詠った歌碑があった。

あと問へば 昔のときの こゑたてて 松に答ふる 風のかなしさ
 300mほど進み、国道一号線に出て大将ヶ根の交差点から右手に別れて有松に至る。ここはすでに名古屋市、緑区有松町有松である。

 有松といえば有松絞り、東海道に宿駅制度が出来て間もない慶長13年、名古屋城の築城に集まった九州豊後の人の手拭をヒントに、竹田庄九郎が有松に出て絞り染めを始めたのが始まりだという。これを東海道の旅人のお土産として販売し、全国に「有松絞り」の名を広めた。

 有松の通りには間口の広い立派な古い商家が並んでいる。右側に背の高い白壁と下部がなまこ壁の山車の格納庫があり、有松山車会館として公開されていた。(左写真) 午後2時24分、中に入ると緋色の大幕の掛かった山車を前に係りの女性が流暢なしゃべり口で山車の説明をしてくれた。
 階段を上がり、山車の上のからくり人形を見てから、下へ降りてからくり人形が筆で文字を見事に書く様子を有松祭りのビデオで見た。後日、ビデオで書いた文字が何であったかを女房と話した。女房の記憶では「東」、自分の記憶はもっとめでたくて「祝」と記憶が違った。真実はともあれ毎年書く文字は違うらしい。(「東」は展示された山車に書かれていた字であった)

 有松山車会館の斜向かいに「有松・鳴海 絞会館」があった。中に入るとカラフルな有松絞りの品々が展示販売されていた。絞り作業の実演も見られるようだったがパスした。一通り見学してしまうと、お土産を探しはじめた女房を残して外へ出た。

 会館の入口右側に頼山陽が扇に書き残した詩が石碑になって立てられていた。(左下写真) 案内板に現代語訳が付いているのが嬉しい。

 
 古い町並みを案内人がついて見学する団体もある。町興しが観光地化してきたようだ。絞会館の真向いは県の有形文化財に指定されている服部家の住宅である。(左写真) 屋号は「井桁屋」で絞り問屋であった。白壁と下部がなまこ壁の土蔵(左写真の右)、塗籠造で両側をうだつにがっちり守られた主屋(左写真の左)と、防火をメインテーマに置いた重厚な商家である。絞り染めが産業として如何に利益をもたらしたかが知れる。
 女房が出て来るのを待って先へ進む。すぐ右に「有松町並み保存地区」の案内板があった。

 案内板には広重の保永堂版東海道五十三次「鳴海宿」の版画が付けてあった。防火建築の重厚な有松絞りを商う店が描かれている。往時は建物の外側へさしかけて土間をおおう土庇の下で、有松絞りが商われていた。
 次に左側に竹田家の住宅がある。ここは有松絞りの考案者 竹田庄九郎の子孫の家であるという。角地にあり奥行が知れて広大な屋敷であることが判る。(右写真)
 この他に市指定有形文化財となっている建物として、いずれも有松絞りを商った「岡家住宅」や「小塚家住宅」などの建物が続いた。(左写真)

 有松の町外れにはかって東海道の松並木の一本が残っていたが、現在はその松も枯れ、ひょろりとした2代目の松が民家にへばりつくようにあった。側には「東海道五十三次二代目松」の石碑があった。
 
 有松から鳴海に入って15分、約1km歩いた平部北の交差点を、午後3時28分、突っ切って鳴海宿に入る。その入口の角に平部町常夜灯があった。(右写真)
 
 道幅が狭くなり宿場らしさが漂い始めたほんの少しの緑地に、松の幼樹と男衆を連れて旅をする女が浮き彫りにされた石碑が置かれ、街道情緒を醸し出していた。(左写真)

 間もなく扇川に架かる中島橋を渡る。案内書に、橋の手前を左へ入った所に中島城跡の碑があるというので、手分けして探したが見つけられなかった。

 扇川の向うの高台に瑞泉寺が見える。改めて中島橋を渡り右側の瑞泉寺に詣でる。異風な山門(右写真)を入ると堂宇に囲まれた境内はがらんとして夕闇を迎えようとしていた。
 瑞泉寺の山門・法堂・鐘楼・庫裡・僧堂の建物群は名古屋市から「都市景観重要建物等」に指定されている。

 名鉄名古屋本線の鳴海駅の近くで、道は10数m完全にずれてクランク形になる。(左写真) 宿場の入口にある「曲(かね)の手」である。とするとここが鳴海宿の東の入口なのであろう。

 すでに午後4時になり、今日の歩きはここまでとし、鳴海駅から帰途に着いた。

 今回の歩数は 30,474歩であった。







このページに関するご意見・ご感想は:
kinoshita@mail.wbs.ne.jp

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送