



「姫街道」といえば東海道の今切の渡しを避け、浜名湖の北を回った本坂道のことだと思っていたが、中山道の別名でもあったのだ。東海道には「七里の渡し」や「今切の渡し」、川留めで有名な「大井川の川越し」など水路の難所が幾つかある。しかし山道の中山道にはないため、徳川家茂へ嫁いだ皇女和宮をはじめ多くの女性の道中に使われた。そのため「姫街道」と呼ぱれるようになった。
西へ歩き始めて広い道を横切った左角に、案内書にもあった古い和菓子屋さんがあった。(右写真) 看板に「慶仏事贈答用和菓子 地鯉鮒銘菓 都築屋美廣」と書かれ、歪んだ透明ガラス越しに店の中がよく見えた。お土産に何か買うには少し早いかと女房と話す。
旧東海道に戻って間もなく、旧東海道はT字路に突き当たり右折する。そこに新しい東海道の道しるべの石標があった。(右写真の左) 手前角には僧形の石仏があって、光背に「左一番弘法道 右三番弘法道」と刻まれていた。(右写真の右)
左手の西町公園はかって知立城のあった跡である。中に入ると、園内に枝を広げるクスノキが一本あり、児童遊具の前には電柱ほどの丸い石柱に「知立古城址」と刻まれていた。(左写真の左)
その道はすぐに左折するが、その突き当たりに了運寺がある。階上が鐘楼になった門が目立つ。(右写真の右) 門の左側には知立三弘法の二番札所の御堂があった。(右写真の左)
旧東海道はすぐに国道155号線を地下道で横切る。地下道の入口に「総持寺跡大イチョウ」の案内板があった。“どこにイチョウが”と見回すと路地の奥にそれらしい樹様が見えた。昔、総持寺の境内だったのが廃寺となり、その後総持寺は別の場所に再建され、今は私有地に入ってしまった。塀の切れ目から写真に取った。(左写真) 逆光で上手な写真にならなかったが、浮き出した根が巨木のダイナミックさを表わしていた。とりあえず、「地鯉鮒宿の巨木」としてゲットしておこう。
国道155号線を渡って200mほど進んだ右側角に「延喜式知立神社」の石柱が立ち、両側の民家の庭に取り込まれて、小振りの常夜灯があった。その横道の奥に知立神社がある。
園内の道沿いに芭蕉句碑があった。(左写真)
知立神社境内に接して、トネリコの古木があった。(右写真) 幹が横へ這って登って腰掛けると快適だろうと思った。巨木には足らないが敬意を表して2本目の「知立宿の巨木」としよう。ところでトネリコという木については全く知識が無かった。
午後10時52分、知立神社は気の早い七五三のお参りで賑わっていた。入った正面に古色を帯びた多宝塔があった。(左写真) 神社に多宝塔は似合わないと思っていたら、ここにはかって神宮寺があったと案内板にあり納得した。明治の初めの廃仏毀釈の蛮行から、人々は手を変え品を変えて歴史的文化財を守ったことが知れて興味深い。現在は相輪は戻り、瓦葺も柿葺きに戻っている。
知立神社にはもう一つ古いものがある。石の太鼓橋である。(右写真) この太鼓橋は柵で囲われている。現在は使われておらず、しかし過去にも使われたことがあるのだろうか。如何にも渡り難そうな橋である。
刈谷市今岡町に入って、旧東海道は国道一号線から左へ逸れる。すぐ右側の民家の一部に銀色のアルミサッシの中に納まった十王堂があった。石地蔵が意外と心地良さそうで不思議な景色であった。(右写真)
少し先の左側には洞隣寺がある。通りに面して常夜灯と「弘法大師御自作 子安地蔵尊霊場」の石碑があった。(左写真の左) 境内に入ると変った達磨像があった。(左写真の右円内)
今岡町にはかって立場が置かれた。その立場の名物として「いもかわうどん」があった。洞隣寺のすぐ前にその案内標識があった。(右写真)
桶狭間の合戦で敗退する今川勢に、西へ急ぐ旅人が信長の回し者と間違われ斬り殺された。村人は哀れに思い旅人を丁寧に埋葬し、一本の松を植えた。この松は“お富士松”と呼ばれ、地名の元にもなった。
国道1号線に出る手前、路傍の緑地に自然石に削りだした今作りの可愛らしい道祖神が置かれていた。(左写真)
食堂を出てすぐに境川に架かった境橋を渡る。(右写真) ここで三河の国から尾張の国に入る。だから境川で境橋。現代もこの橋を境に、これより刈谷市から豊明市に入る。
境橋を渡った右側の土手に自然石に刻まれた歌碑があった。(左写真)
国道一号線に出て、約1km先で一号線から左へ入り、300mほど先に「阿野一里塚」がある。午後1時9分、「阿野一里塚」に着く。珍しく両側に塚が残っている。左の塚には森市雪の句碑があった。(右写真)
向い側にも一里塚が残り、案内板があった。(左写真)
すぐ先の小学校前に東海道松並木の名残の松が一本だけ残っていた。(右写真)
公園の最も奥に「桶狭間古戰場趾 愛知縣」と刻まれた石柱の隣に、クスノキをバックに「桶峽弔古碑」が立っている。(左写真)
有松の通りには間口の広い立派な古い商家が並んでいる。右側に背の高い白壁と下部がなまこ壁の山車の格納庫があり、有松山車会館として公開されていた。(左写真) 午後2時24分、中に入ると緋色の大幕の掛かった山車を前に係りの女性が流暢なしゃべり口で山車の説明をしてくれた。
次に左側に竹田家の住宅がある。ここは有松絞りの考案者 竹田庄九郎の子孫の家であるという。角地にあり奥行が知れて広大な屋敷であることが判る。(右写真)
この他に市指定有形文化財となっている建物として、いずれも有松絞りを商った「岡家住宅」や「小塚家住宅」などの建物が続いた。(左写真)
間もなく扇川に架かる中島橋を渡る。案内書に、橋の手前を左へ入った所に中島城跡の碑があるというので、手分けして探したが見つけられなかった。
瑞泉寺の山門・法堂・鐘楼・庫裡・僧堂の建物群は名古屋市から「都市景観重要建物等」に指定されている。



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