第 25 回 
  平成14年11月23日(土) 
 くもりのち晴れ
 鳴海宿−笠寺−七里の渡し跡−宮宿−熱田神宮−金山
 “渡れない七里の渡しなら徒歩にて参ろう佐屋街道”



 豊橋で電車をJRから名鉄に乗り換えて鳴海駅まで行く。もう何度か乗る線である。この名鉄名古屋本線は旧東海道に沿って敷設されている。車窓には今まで歩いて来た馴染みの場所が次々に通り過ぎる。今までは特急に乗っていたが、今日は特急を待っても結局はその前の急行に戻ることになるというので急行に乗った。ややゆっくり進むので、車窓に、歩いて来た道を確認しながら行く。「あの踏み切りは渡った」、「御油駅では雨にポツポツ降られたっけ」、「近藤勇の首塚のあった本宿」、「山中八幡宮のほれあれがクスノキ」、「踏み切りを渡った先の藤川の松並木」、「二十七曲りの岡崎、城を見るのを忘れた」、「矢作川を渡ったのはあの橋だ」等々。

 「ファーストフードからスローフードへ」という言葉に代表されるように、今スローライフが大変注目されている。やっぱり電車もスロートレインである。ゆっくり走るから気づかされることも多い。これから段々遠くはなるが、特別料金の掛からない鈍行や快速にこだわって行こう。なあーに、その分早起きすればよい。

 午前9時49分、名鉄名古屋本線鳴海駅から歩き始める。静岡の天気は雨が残りそうであったが、西から快復してきているのをインターネットで確認して出かけてきた。まだ空は雲が覆っているが、天候の快復には自信があった。

 前回、旅を終えた「曲(かね)の手」まで戻る。「曲の手」を鳴海宿内から見たのが左の写真である。道が右へ家一軒分ずれている。この「曲の手」から今日の旅を始める。

 間もなくやや広い本町交差点に出る。東海道は交差点を突っ切って進むのだが、この北側に鳴海城跡などの見所があるので少し道草する。本町交差点を右折したすぐ左側に、誓願寺がある。
 狭い誓願寺の境内に入ると、名古屋市の保存樹に指定されているソテツが境内狭しと枝(?)を伸ばしていた。境内の西隅に芭蕉堂(右写真)と芭蕉供養塔(右写真の円内)があった。芭蕉堂を建てた永井士前は文豪永井荷風の曾祖父だという。
 広い通りの斜向かいには、「鳴海城趾」の石碑が建つ成海神社があった。境内にはヤマトタケルが詠んだと伝わる歌が石碑に万葉仮名で刻まれていた。(右写真) 下に読みと意味を付けた。

奈留美良乎 美也礼波止保志 比多加知尓 己乃由布志保尓 和多良部牟加毛
なるみらに   みやればとほし   ひたかちに  このゆふしほに   わたらへむかも
鳴海浦を   見やれば遠し    火高地に    この夕潮に   渡らへむかも
 成海神社は鳴海城の鎮守の天神社が廃城後も残ったものである。境内に鳴海城跡の石碑が立っている。(右写真) 鳴海城跡は今は間に道路ができて隔たっているが、西へ続く丘の上にあったようだ。
 成海神社には3基の芭蕉の句碑がある。(左写真)

   京までは まだ中空や 雪の雲   芭蕉 (左写真の上)   

賀新宅   よき家や 雀喜ぶ 背戸の粟   芭蕉 (左写真の下の左)   

     杜若 われに発句の おもいあり   芭蕉 (左写真の下の右)   

 鳴海には芭蕉の門人で、酒造と油の商いをしていた下里知足がいた。屋号は千代倉。芭蕉は「笈の小文」の旅で鳴海を通り、知足亭に宿泊している。「笈の小文」には鳴海宿の発句として、「星崎の闇を見よとや啼く千鳥」という句と、「京までは・・・」の句がある。「星崎の・・・」の句碑は宿から北へ1kmほど進んだ街道沿いの三王山の上にあり、「千鳥塚」と呼ばれている。

 「よき家や・・・」の句は知足の弟、三郎左衛門の新宅に祝意を表した句である。

 「杜若・・・」の句は伊勢物語の東下りの「かきつばた」の歌を背景にしている。この「かきつばた」の歌が詠まれた八橋は鳴海宿の東隣の地鯉鮒宿の北にある。

 道路の向うの岡に鳴海城跡が広がっていた。現在は一部が鳴海城跡公園になっており、民地になっているところも多い。旧東海道に戻って、すぐ左手の駐車場と駐輪場になっている場所に鳴海宿本陣跡の案内板があった。
 鳴海商店街の街灯の柱に、商工会の名で、街道の一口案内が貼られていて面白い。その中の一枚に鳴海の由来が書かれていた。
 街道は作町交差点で右折し、しばらくは北上する。間口の広い町屋造りの家が何軒かある。三皿の交差点で広い県道を渡った先の丹下町に、丹下町常夜灯があった。(右写真)

 歩く先の右側に常夜灯が見えてきた時、常夜灯には10人ほどの人が寄り、何やら説明を受けている様子であった。お仲間かなと思いながら、午前10時43分、追いついた時には誰も居なくなっていた。そしてその先もその団体に会うことは無かった。東海道から逸れてしまったのだと思う。平部町の常夜灯が東の入口ならば、ここが西の入口になるのであろう。
 さらに400mほど北上した鉾ノ木に、草地で残した緩斜面の一郭があり、「鉾ノ木貝塚」の案内板があった。(左写真)
 間もなく右手に千鳥塚のある三王山が見えてきた。「千鳥塚」の案内標識や登り口もあったが、三王山が意外と高さがあったので寄り道は止めた。

 旧東海道は左へ曲がり、やがて天白川に架かる天白橋を渡る。天白川は改修工事中であった。(右写真) 二年前の名古屋の都市型河川の大洪水で、天白川が溢れ、多くの人家が水に浸かったというニュースを当時聞いていた。おそらくはその備えの改修工事なのだろう。

 10分弱進んで、前方のY字路に「笠寺一里塚」が見えてきた。これこそ一里塚といった美しい一里塚である。(左写真) 昔の人は自然の中に土と樹木だけで見事なランドマークを作ったものである。周りが人工物で埋ってしまった現代では、数少ない自然として、昔にも増してはっきりとした印になっていると思う。車で通っても紛いようがない道しるべである。近代化の名のもとに一里塚の大部分が壊されてしまったのは何とも残念なことである。

 この一里塚のエノキは名古屋市の都市景観保存樹に指定されて保護されている。当然の話であろう。
 旧東海道は笠寺一里塚の左の道をすすむ。古い町筋の行先に笠寺の多宝塔の屋根と法輪が見えてきた。(右写真)

 笠寺地区の歴史については笠寺の先の笠寺西門交差点にあった「笠寺の歴史」の案内碑に詳しく書かれていた。
 午前11時22分、笠寺、正式には天林山笠覆寺。山門は桜の枝に覆われ、桜花の埋るであろう春のさまが想像できる。(左写真)

 笠寺の縁起については「東海道名所図会」によると、

 「・・・・・兵火のために諸堂滅び、霊像は空しく広野に残りて、道路の涯に立ちたまう。ここに鳴海の長者が侍女に美艶の者あり。殊に大悲(観音のこと)を尊信してここに歩みを運ぶこと数月なり。あるとき一村雨(にわか雨)来たりて、霊像たちまち雨水に浸す。かの侍女これを悲しみ、みずから被く菅の笠を着せまいらせけり。その頃、都より昭宣公の嫡男中将兼平卿、吾妻の方下向したまうとき、かの女かたわらに笠もなく、面相あらわに美しく見えけるを見初めたまい、鳴海の長に乞うて都の召しつれ帰りたまう。程もなく妊身となり、ついに御廉中(公卿・大名の妻)となりたまう。その後、この地に下り伽藍をいとなみ、尊像を安置したまう。このときは、醍醐帝の御宇、延長八年(930)の頃とかや。この由縁によって、本尊は今において笠を被きたまうゆえ、世人笠寺という。

 境内には堂宇が立ち並び、さながらデパートのテナント群のようであった。数えてみても本堂(十一面観音・おもかる地蔵)・護摩堂(弘法大師・えびす・大黒・不動明王)・行者堂(役行者)・延命地蔵堂(地蔵)・白山社(白山大権現・三猿)・多宝塔(阿弥陀如来)・如意輪堂(如意輪観音)・医王殿〔薬師堂〕(薬師如来)・善光寺堂(阿弥陀如来)・笠寺稲荷・白龍社・弁財天などがある。

 そして今まさに新しいテナント、いや御堂が本堂前に建ち、入居待ちになっていた。玉照堂である。笠寺の名前の由来にもなった玉照姫と藤原兼平公が入居され祀られる予定という。
 堂宇の中では最も古い正保年中(1644〜7)に建った多宝塔のそばに、「春雨塚」と呼ばれる芭蕉の句碑があったはずであるが、あまりの堂宇の多さにかまけて見逃してしまった。(右写真)

笠寺や 漏らぬ岩屋も 春の雨   芭蕉

 「漏らぬ岩屋」は行尊の「草の庵を何露けしと思ひけん洩らぬ岩屋も袖はぬれけり」の歌によっているという。「笠・漏る・雨」は「笠寺縁起」の縁語である。

 多宝塔の裏手、東海道に沿った笠寺の寺域内に名古屋市の保存樹になっているクロガネモチの巨木があった。(左写真) 巨樹巨木林調査の資料には載っていなくて、正式に太さ・高さは不明であるが、幹廻り3メートル以上は確実にあると思われる重量感のある木である。この木を「笠寺の巨木」と呼んでおこう。

 笠寺の旧東海道を隔てた向い側に、泉増院というお寺があって玉照姫を祀る玉照堂があるというので入ってみる。古いお堂に笠寺縁起を絵にした絵馬が沢山掛かっていた。(右写真)

 笠覆寺と泉増院は人気キャラクターの玉照姫を巡って、正統性を巡る争いとまでは言わないまでも対立があるように思えた。笠覆寺にわざわざ玉照姫をまつるお堂を造るなど、その対抗意識の現れのような気がする。

 笠覆寺の西門すぐの所から門前町が始まる。「笠寺商店街」である。(左写真) 商店街に入ってすぐ右に、連子格子も懐かしい丸八といううどん屋が見えた。もう正午近くになっていたので、女房に話して入ろうと思ったが、あいにく休業日であった。笠寺西門交差点の広い道路を横切り、少し入った左側に「ゆたかや」という営業中のうどんやを見つけた。

 鍋焼うどんを食べて午後の部に入る。名鉄名古屋本線の高架を潜り、すぐの交差点に最近出来たと思われる「東海道 是より北よびつき」と刻まれた石標があった。ここから名古屋市南区呼続(よびつき)である。標識に随い右折して北へ向かう。6分ほど歩いた交差点に、右に「東海道 桜神明社 塩付街道」、左に「東海道 富部神社 塩付街道」と、先ほどと同じ2基の石標が建っていた。左の道路奥に大きな樹容が見えたので、富部神社へ寄り道することにした。

 富部神社は意外と大きな神社であった。モミジと公孫樹が紅葉して、落ち葉を焚く煙が立ち昇っていた。(右写真の左) 境内には「明治天皇御駐蹕之處」と刻まれた石碑があった。(右写真の右) 本殿には幕が張られ、幟が立ち、旗が飾られ、供物が並んで、何のお祭であろうか準備が出来ていた。
 午後0時42分、旧東海道に戻ってすぐ左側に眼にも鮮やかな紅葉が飛び込んできた。しかもその中に珍しくオレンジ色に紅葉する落羽松があった。ここは清水稲荷の参道で紅い鳥居が紅葉に溶け込んでいる。(右写真)

 入口に宿駅制度制定四百年を記念した東海道の石碑があった。(左写真)
 さらに、鎌倉街道が交差するのを新しく出来た石標で確認したりしながら、旧東海道を呼続三丁目から二丁目に10分ほど北上した。そして右側の熊野三社前に清水稲荷にあったと同じ宿駅制度制定四百年を記念した東海道の石碑を見つけた。
 東海道の案内碑文には近辺の古い地名のいわれが書かれているが、「愛知」が「あゆち潟」から来ているというのは自分としては新発見であった。また「呼続(よびつぎ)」の名が「宮の宿より渡し舟の出港を呼びついだ」ためというが、宮の宿からここまで2km以上あるが、いかに往還に人が絶えなかったとはいえ、「船が出るぞう!」の言葉を2km以上呼び継いでいくというイメージが今一つ湧かない。もしそれが自然に出来る社会なら意外と素晴らしいのかもしれない。

 「松巨嶋」の名前は熊野三社の今は使用されていない古い手洗の側面に刻まれていた。(右写真)

 熊野三社には御神木になっている楠木が二本あった。本殿に向かう途中に一本、本殿左手に一本である。

 本殿左のクスノキ(左写真の右)幹周囲4.81m、樹高16m、枝張り16m。本殿に向かう途中のクスノキ(左写真の左)幹周囲4.45m、樹高21m、枝張り15m。(データはいずれも昭和63年の巨樹・巨木林調査による) 巨木としてはまだ中堅ところといったところか。この2本はまとめて「呼続の巨木」と呼ぼう。

 街道はわずかな坂を登って下る。この坂を「山崎の長坂」と案内石標が立っていた。下ったところが山崎川で、橋の袂の両岸に明治二十一年の標示のある橋柱が残されていた。(右写真)

 山崎川を渡ってすぐに左折後、西へ向かって歩き、国道一号線と合流、さらにJR東海道線を高架で越す国1とは左に分かれ、JR東海道線の踏切に達する。ここまで約20分。JRの踏切の手前左に小さな地蔵堂があった。

 午後1時41分、さらに名鉄常滑線のガードを抜けたすぐ右側に一本木の植わった緑地帯がある。この辺りにかって伝馬町の一里塚があったという。(左写真) 「宮地区の歴史」の案内板があった。
 「姥堂」と「裁断橋」を探したが、案内書の通りには探しえず、諦めかけて進んだ左手に新築された2階建てのモダンな姥堂を見つけ、1階に裁断橋まで新しく作られていた。(右写真) 姥堂と裁断橋に謂れについては案内板に詳しく書かれていた。
 再現された裁断橋の左側に「裁断橋址」の碑も移設されていた。(左写真の左) 案内書の場所に無いわけである。
 再現された擬宝珠にも銘文が再現されているが、その内容は次のようなものである。

 擬宝珠の銘文(現物は仮名書き)
 天正十八年二月十八日に、小田原への御陣に堀尾金助と申す十八になりたる子を発たせてより、また二目とも見ざる悲しさのあまりに、今この橋を架けるなり。母の身には落涙ともなり、即身成仏し給へ。逸岩成俊(金助の法名)と後の世のまた後まで、この書き付け見る人は念仏申給えや。三十三年の供養なり。


 そこにはもう一基、「都々逸発祥之地」という石碑があった。(左上写真の右)「都々逸(どどいつ)」とは広辞苑によれば、 「流行俗謡の一。雅言を用いず、主に男女相愛の情を口語をもって作り、ふつう七・七・七・五の四句を重ねる。」 その都々逸は、寛政十二年(1800)に宮の宿の遊里のお仲という熟女が唄い始めのが起源で、三十余年を経て江戸へ伝わり流行ったという。

 伝馬町をまっすぐ,中央分離帯のある道も突っ切って進むと、三叉路の突き当たりに「ほうろく地蔵」がある。(右写真の左) 「ほうろく地蔵」とは頭に焙烙を被ったお地蔵さん、あるいは焙烙の形をした法禄頭巾を被ったお地蔵さんのこと。焙烙(ほうろく)とは、「火にかけて食品を炒ったり蒸焼きにしたりするのに用いる素焼きの平たい土鍋」のこと。この「ほうろく地蔵」はどんな姿をしていたのか見なかったが、焙烙を被るのは熱したほうろくを頭にかぶることで人々の苦しみを救うお地蔵さんだという。

 三叉路の左角には風化した古い道標が立っていた。(右写真の右)
 旧東海道はこの三叉路を左折して、「宮の渡し」の舟着場から桑名宿までの海路七里を舟で渡る。この「七里の渡し」を避ける人々はこの三叉路を右折して、熱田神宮から佐屋街道を陸路歩き、佐屋から「三里の渡し」で桑名宿に渡る道も用意されていた。

 我々はまず「宮の渡し」の舟着場跡まで行ってみることにする。国道247号線を歩道橋で渡り、まっすぐに進んだ先に、川辺に沿って「宮の渡し公園」がある。

 午後2時04分、舟着場跡着。広い桟橋状の堤が突き出て、その根元に石積の常夜灯とかっては蔵福寺にあった時の鐘が並べて建設され、往時の風情をしのばせていた。(右写真)
 舟着場跡の眼前には堀川に新堀川が左から合流し、海へ向かってまっすぐに伸びている。逆光であったが常夜灯の影に隠れて、時の鐘との間からデジカメに撮ってみた。(左写真) 左手対岸の内田橋は娘のアパートがあったところで、何回か来たことがあるところだよと女房に注意を促した。

 昔の「七里の渡し舟着場」を描いた絵が金属板に刻まれ案内板とともに掲示されていた。(右写真) 細かくみると再建された常夜灯や、破風付玄関のある旅籠(後述の丹羽家住宅)も確認できる。
 「宮の渡し」の西端に現在使用されている桟橋があった。「おっ!七里の渡しが今も出ているのか?」と期待を抱かせたが、近くの休憩所に行くとそこから出るのは、伊勢湾をひと回りしてくる遊覧船で、桑名へつなぐ渡船ではなかった。イベントでもなければ桑名まで船でつなぐのは無理であった。これより引き返し、佐屋街道を行くことにしよう。

 「宮の渡し」の舟着場跡に面する通りには昔の旅籠を思わせる建物が二棟残っている。一棟は丹羽家住宅で、破風付玄関が目立つ。(左下写真)もう一棟は「熱田荘」で現在は三菱重工業の所有となっている。

 そこから女房が名古屋の娘に携帯で電話した。「今、宮の渡しを歩いている。今夜、泊めてもらいたい」と言うと、大慌てに応対しているようだ。共稼ぎだからとても人を泊める状態ではない部屋の様子が知れる。「冗談だよ、明日は用があるから今日は帰るよ」というのをすぐには信じない様子。結局、歩きが終ってからどこかで夕食でも食べようと約束して携帯を切った。

 「宮の渡し」から元の道を戻る。途中の左に少し入った駐車場に、宮宿の赤本陣址の案内板があった。宮宿には他に白本陣といわれる本陣もあった。
 先ほどの「ほうろく地蔵」のあるT字路に戻ってまっすぐに進み、国道一号線を横断して進む先が熱田神宮である。街道は熱田神宮前を左折し広い道にでて右折していくが、ここはまっすぐ熱田神宮に参拝して来よう。熱田の森の参道を進み、午後2時51分、本殿手前の左側におなじみの「熱田神宮の大楠」があった。(左写真)

 幹周囲 7.7m、樹高 20.5m、樹齢 1000年、「巨木巡礼」では1999年2月6日に詣でている。 そのときの記録に、

 熱田の森はおよそ19万平方メートルと言われている。森の中には楠を中心に数多くの巨木がみられ、樹齢1000年前後と推定されるものも数本あるという。正門から本殿へ向かう参道左手、手水舎の先に木柵に囲われた御神木の大楠がある。腰の辺りの横綱が締めるほどの太い注連縄が巻かれている。回りの木々よりも際立って太く、大きく枝を広げ、御神木として貫禄十分である。

 前回見たときは正面から見たが、今日はイベントで正面にテントが張られていたため、裏側からデジカメに収めた。裏からのほうが迫力が感じられた。これはもう押しも押されもせぬ「宮宿の巨木」であろう。
 本殿の参拝後、東側の参道を戻る途中、信長塀を見つけた。(右写真) コンクリートの無い時代、最も頑丈な造りの塀である。
 熱田神宮の西門から出て、国道19号線の歩道橋を渡る。今日はこの先、金山駅で東海道歩きの終りにしようと女房に話す。すぐ角のブロック塀に張り付くように「白鳥御陵」の石標を見つけた。「明治三十七年五月二十二日」「愛知共同馬車会社中 建」の文字も読める。「馬車会社」の文字がいかにも時代を示していて面白い。白鳥御陵は前方後円墳として案内書にもあったので左手奥に入ってみたが、広い道路にぶつかり、御陵はその向こうらしい。道草はそこで断念して戻った。

 その先すぐのところに「右大将頼朝公誕生舊地」の石碑が立ち、それほど古くない門だけが出来ていた。(左写真)
 午後3時31分、熱田区役所の先の熱田神宮公園に着く。イチョウ並木が黄葉して鮮やかな黄色の世界を作っている。続く空堀の向うの小山がおぼろげに前方後円墳の形状に見える。これが東海地方最大の前方後円墳、断夫山古墳である。古墳の原形を大変よく留めている。後円の部分の側に案内板があった。(右写真)
 熱田神宮公園の先に青大悲寺がある。これは江戸時代、「きの」という女性が神がかりして開いた、いわば江戸時代の新興宗教の如来教の本山である。名古屋弁で説かれた経典は大変珍しく、当時使われていた名古屋弁を知る資料としても大変貴重なものといえよう。

 山門から覗くと隅々まで手入れの行き届いた境内には、周囲の喧騒をよそに静謐な時間が流れているように感じた。青大悲寺には街道に面して地蔵堂(右写真)があり、珍しい鋳鉄製のお地蔵さんが安置されていた。(右写真の円内)
 路傍に「熱田神宮第一神門址」の石碑(左写真の左)を見たあと、午後4時5分、早くも夕闇の迫る金山新橋の交差点で今日の東海道歩きを終える。

 金山新橋の交差点の左角に「佐屋路の標石」があった。(左写真の右) 南面に「南 左 さや海道 つしま道」、西面に「西 右 宮海道 左 なこや道」、東面に「東 右 木曽 なこや海道」、北面に「文政四辛巳年六月 佐屋旅籠屋中」と刻まれている。

 実は正確には東海道と分かれた「ほうろく地蔵」のT字路からここまでは北へのびる美濃路の一部で、ここより佐屋街道は始まるのである。この交差点を左折することになるが、逆に右折、国道19号線を渡った先に金山総合駅があった。ここにJRと名鉄が乗り入れている。

 金山総合駅から娘夫婦との約束の駅へ行き、中華料理を食べて帰路に着いた。今回の歩数は 29,549歩であった。







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