



午前9時49分、名鉄名古屋本線鳴海駅から歩き始める。静岡の天気は雨が残りそうであったが、西から快復してきているのをインターネットで確認して出かけてきた。まだ空は雲が覆っているが、天候の快復には自信があった。
前回、旅を終えた「曲(かね)の手」まで戻る。「曲の手」を鳴海宿内から見たのが左の写真である。道が右へ家一軒分ずれている。この「曲の手」から今日の旅を始める。
広い通りの斜向かいには、「鳴海城趾」の石碑が建つ成海神社があった。境内にはヤマトタケルが詠んだと伝わる歌が石碑に万葉仮名で刻まれていた。(右写真) 下に読みと意味を付けた。
成海神社は鳴海城の鎮守の天神社が廃城後も残ったものである。境内に鳴海城跡の石碑が立っている。(右写真) 鳴海城跡は今は間に道路ができて隔たっているが、西へ続く丘の上にあったようだ。
成海神社には3基の芭蕉の句碑がある。(左写真)
街道は作町交差点で右折し、しばらくは北上する。間口の広い町屋造りの家が何軒かある。三皿の交差点で広い県道を渡った先の丹下町に、丹下町常夜灯があった。(右写真)
さらに400mほど北上した鉾ノ木に、草地で残した緩斜面の一郭があり、「鉾ノ木貝塚」の案内板があった。(左写真)
間もなく右手に千鳥塚のある三王山が見えてきた。「千鳥塚」の案内標識や登り口もあったが、三王山が意外と高さがあったので寄り道は止めた。
10分弱進んで、前方のY字路に「笠寺一里塚」が見えてきた。これこそ一里塚といった美しい一里塚である。(左写真) 昔の人は自然の中に土と樹木だけで見事なランドマークを作ったものである。周りが人工物で埋ってしまった現代では、数少ない自然として、昔にも増してはっきりとした印になっていると思う。車で通っても紛いようがない道しるべである。近代化の名のもとに一里塚の大部分が壊されてしまったのは何とも残念なことである。
旧東海道は笠寺一里塚の左の道をすすむ。古い町筋の行先に笠寺の多宝塔の屋根と法輪が見えてきた。(右写真)
午前11時22分、笠寺、正式には天林山笠覆寺。山門は桜の枝に覆われ、桜花の埋るであろう春のさまが想像できる。(左写真)
堂宇の中では最も古い正保年中(1644〜7)に建った多宝塔のそばに、「春雨塚」と呼ばれる芭蕉の句碑があったはずであるが、あまりの堂宇の多さにかまけて見逃してしまった。(右写真)
笠寺の旧東海道を隔てた向い側に、泉増院というお寺があって玉照姫を祀る玉照堂があるというので入ってみる。古いお堂に笠寺縁起を絵にした絵馬が沢山掛かっていた。(右写真)
笠覆寺の西門すぐの所から門前町が始まる。「笠寺商店街」である。(左写真) 商店街に入ってすぐ右に、連子格子も懐かしい丸八といううどん屋が見えた。もう正午近くになっていたので、女房に話して入ろうと思ったが、あいにく休業日であった。笠寺西門交差点の広い道路を横切り、少し入った左側に「ゆたかや」という営業中のうどんやを見つけた。
鍋焼うどんを食べて午後の部に入る。名鉄名古屋本線の高架を潜り、すぐの交差点に最近出来たと思われる「東海道 是より北よびつき」と刻まれた石標があった。ここから名古屋市南区呼続(よびつき)である。標識に随い右折して北へ向かう。6分ほど歩いた交差点に、右に「東海道 桜神明社 塩付街道」、左に「東海道 富部神社 塩付街道」と、先ほどと同じ2基の石標が建っていた。左の道路奥に大きな樹容が見えたので、富部神社へ寄り道することにした。
午後0時42分、旧東海道に戻ってすぐ左側に眼にも鮮やかな紅葉が飛び込んできた。しかもその中に珍しくオレンジ色に紅葉する落羽松があった。ここは清水稲荷の参道で紅い鳥居が紅葉に溶け込んでいる。(右写真)
東海道の案内碑文には近辺の古い地名のいわれが書かれているが、「愛知」が「あゆち潟」から来ているというのは自分としては新発見であった。また「呼続(よびつぎ)」の名が「宮の宿より渡し舟の出港を呼びついだ」ためというが、宮の宿からここまで2km以上あるが、いかに往還に人が絶えなかったとはいえ、「船が出るぞう!」の言葉を2km以上呼び継いでいくというイメージが今一つ湧かない。もしそれが自然に出来る社会なら意外と素晴らしいのかもしれない。
街道はわずかな坂を登って下る。この坂を「山崎の長坂」と案内石標が立っていた。下ったところが山崎川で、橋の袂の両岸に明治二十一年の標示のある橋柱が残されていた。(右写真)
午後1時41分、さらに名鉄常滑線のガードを抜けたすぐ右側に一本木の植わった緑地帯がある。この辺りにかって伝馬町の一里塚があったという。(左写真) 「宮地区の歴史」の案内板があった。
「姥堂」と「裁断橋」を探したが、案内書の通りには探しえず、諦めかけて進んだ左手に新築された2階建てのモダンな姥堂を見つけ、1階に裁断橋まで新しく作られていた。(右写真) 姥堂と裁断橋に謂れについては案内板に詳しく書かれていた。
再現された裁断橋の左側に「裁断橋址」の碑も移設されていた。(左写真の左) 案内書の場所に無いわけである。
伝馬町をまっすぐ,中央分離帯のある道も突っ切って進むと、三叉路の突き当たりに「ほうろく地蔵」がある。(右写真の左) 「ほうろく地蔵」とは頭に焙烙を被ったお地蔵さん、あるいは焙烙の形をした法禄頭巾を被ったお地蔵さんのこと。焙烙(ほうろく)とは、「火にかけて食品を炒ったり蒸焼きにしたりするのに用いる素焼きの平たい土鍋」のこと。この「ほうろく地蔵」はどんな姿をしていたのか見なかったが、焙烙を被るのは熱したほうろくを頭にかぶることで人々の苦しみを救うお地蔵さんだという。
我々はまず「宮の渡し」の舟着場跡まで行ってみることにする。国道247号線を歩道橋で渡り、まっすぐに進んだ先に、川辺に沿って「宮の渡し公園」がある。
昔の「七里の渡し舟着場」を描いた絵が金属板に刻まれ案内板とともに掲示されていた。(右写真) 細かくみると再建された常夜灯や、破風付玄関のある旅籠(後述の丹羽家住宅)も確認できる。
先ほどの「ほうろく地蔵」のあるT字路に戻ってまっすぐに進み、国道一号線を横断して進む先が熱田神宮である。街道は熱田神宮前を左折し広い道にでて右折していくが、ここはまっすぐ熱田神宮に参拝して来よう。熱田の森の参道を進み、午後2時51分、本殿手前の左側におなじみの「熱田神宮の大楠」があった。(左写真)
本殿の参拝後、東側の参道を戻る途中、信長塀を見つけた。(右写真) コンクリートの無い時代、最も頑丈な造りの塀である。
その先すぐのところに「右大将頼朝公誕生舊地」の石碑が立ち、それほど古くない門だけが出来ていた。(左写真)
午後3時31分、熱田区役所の先の熱田神宮公園に着く。イチョウ並木が黄葉して鮮やかな黄色の世界を作っている。続く空堀の向うの小山がおぼろげに前方後円墳の形状に見える。これが東海地方最大の前方後円墳、断夫山古墳である。古墳の原形を大変よく留めている。後円の部分の側に案内板があった。(右写真)
山門から覗くと隅々まで手入れの行き届いた境内には、周囲の喧騒をよそに静謐な時間が流れているように感じた。青大悲寺には街道に面して地蔵堂(右写真)があり、珍しい鋳鉄製のお地蔵さんが安置されていた。(右写真の円内)
路傍に「熱田神宮第一神門址」の石碑(左写真の左)を見たあと、午後4時5分、早くも夕闇の迫る金山新橋の交差点で今日の東海道歩きを終える。



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