第 27 回 
  平成14年12月22日(日) 
 くもり
 津島−埋田追分−佐屋宿−三里の渡し−桑名宿
 “佐屋三里の渡しも、陸路をひたすら桑名へ歩く”



 故郷の次兄がこの春、教員を定年退職した。そして退職後の最初の仕事に一冊の本を自費出版した。先日、その兄が発行日前のその本を送ってきた。
 
考えることを忘れたスイカ(中学校・高校時代は哲学する時代)
著者 木下雄生  出版社 文芸社  発行日2003年1月15日 1200円

 小学校と中学校の3校の、通算8年の校長時代に毎日続けてきた生徒と父兄へのワープロ打ちの「伝書鳩」と名付けた “校長だより” から、選り抜いて一冊の本に編んだという。

 現代の生徒達、一見大人の理解を超えた異星人のように思えるが、話せば通じる。大人は一度話して通じないとすぐに諦めてしまう。二度で駄目なら三度、それでも駄目なら目先を変えて、繰り返し話せば子供たちは必ず理解してくれる。「伝書鳩」はそんな思いで書き綴ったB4用紙にびっしりの1500枚であった。

 目次からいくつか書き出すと、「飯を食べたら茶わんを洗え」「堪忍袋をもっと大きく!」「中学校・高校時代は、哲学する時代」「人は自覚したとおりになる」「言葉がものを創造する」といった感じである。

 1000部自費出版し、一部の書店にも置いてもらえるともいい、増刷になれば印税も入るという。しかし何しろ同日に同社で50冊以上の自費出版の本が出るというから、その中で売れるというのはなかなか難しい話であろう。

 一生に一冊でいいから本を出してみたいという人は星の数ほどおり、かくいう自分にしてもそんな思いも無いわけではなく、だから自費出版業界というのは手間はかかるけれど外れのない割のよい商売だと思う。

 朝起きて、雨模様に迷ったが、天候は西から快復していると天気予報で知り、女房に説明し思い切って出て来る。愛知県に入ると雨もやみ、金山駅で名鉄に乗り換える頃には、北西の方角は空をくっきりと分けて晴れてきた。

 前回と道を繋ぐ佐屋路に戻る前に、津島神社の方面を散策したいと、電車の中で女房に話した。今日歩く佐屋宿から先の三里の船旅の部分は現代の道を歩くわけで、見るべきものもないと判っていた。だから、大きく道草して、かっては伊勢神宮とセットで詣でられたという津島神社をぜひ参拝しておきたいと思った。

 午前9時40分、名鉄津島線津島駅に降り立った。駅前からまっすぐに西へ、天王通りを津島神社に向かう。10分ほど歩いた右の路傍に祠があった。(左写真) 中を覗くと円空の千体仏の写真があった。(右写真) 実物は扉の中に安置されているようであった。

 円空仏といえば荒々しい鑿跡を残した中に、笑顔が人々にやすらぎを与える、拝んだ人は誰でも好きになる木彫仏である。
 天王通りは津島神社の手前で右折して、県道129号尾西津島線になるが、その右角地に「旧御旅所跡の大いちょう」がある。(左写真) 町中の一角が一本の巨木のために残されている。

 かって「巨木巡礼」で1999年10月11日の夕方に訪れた。幹周囲5.4mの県指定の天然記念物である。「末広がりの根元が地表に表れ、見事な安定感である。立派な根元から立派な枝葉が育つようで、樹勢がすこぶる旺盛で雄木である。幹には大きな変わった結び目の太い注連縄が巻いてある。」と書いている。結び目がしっかり結ばれずに輪っかが丸く残されている。確かに今見ても変った結び目である。
 正面鳥居から津島神社に入ったすぐ左手に、これも県指定の天然記念物の大いちょうがあった。(右写真) 幹周囲5.3m、樹高25m、樹齢600年の御神木である。もちろん「巨木巡礼」で同じ日にここにも来ている。「巨木巡礼」では次のように書いている。

 「根元をぐるり石垣で固め、その上に鉄柵で囲んでいる。御神木の印に太い注連縄が巻かれている。幹や下枝には乳垂れも下がって古さを感じるのに比べ、上方の枝が妙に若々しい。伊勢湾台風で被害を受けたというから、その後新しい枝を伸ばしたものかもしれない。」  正面の楼門(東門)(左写真)をくぐり本殿に向かう。この楼門(東門)は国の重要文化財だという。
 津島神社は、昔は津島牛頭(ごず)天王あるいは単に牛頭天王と呼ばれ、祭神は建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)と大穴牟遅命(おおなむちのみこと)である。牛頭天王はもとはインドの祇園精舎の守護神で、薬師如来の化身と言われ、日本では素戔鳴尊として顕れたとされている。

 街道筋の常夜燈に、「両皇大神宮」と「秋葉大権現」と並んで、「津嶋牛頭天王」の銘が刻まれていたが、この「津嶋牛頭天王」がこの津島神社のことであった。

 参拝後左手の表参道に向かう。参道に出た左手に「五ヶ条の御誓文碑」がある。(右写真) 明治百年記念として建立されたというが、明治百年を祝った年からすでに35年も経つのである。
 津島神社を出て東へ向かう。左側の一角に黒い塀に囲まれた「重要文化財(旧)堀田邸」があった。(左写真) この辺りを祢宜町といい、津島神社の神官の家屋敷が集っていたところだという。横丁に入った所に案内柱が立っていた。
 その先に進むと、左手に天王川公園の水辺が広がる。(右写真) この辺りはかって川湊の津島湊があり、津島天王の参詣客でにぎわった。

 天王川公園は長手方向三百メートルほどの貸しボートなどを浮かべる池になって、中に中之島があり赤い橋が架かっている。
 天王川のほとりに、石垣を二段ほど積んで、玉垣で三方を囲った「お旅所」があった。(左写真) 川に面する側だけが開いている。
 津島神社の「天王まつり」はその規模の壮大さで昔から全国に知られていた。現在も「尾張津島天王祭の車楽(だんじり)舟行事」の名で国の重要無形文化財に指定されている。七月の第四土曜日の宵祭りには五艘の巻藁船が出て天王川を渡る。巻藁船は二艘の船を結んだ上に車楽を乗せ、中央に高く真柱を立て沢山の提灯を下げたものであるという。提灯の灯りが水面に映える幻想的な宵祭りをいつか見てみたいものである。ともあれ、今見ているこの水辺の景色の中で「天王まつり」は行われるのである。

 道は水辺を90度周り左折して東進する。ここは筏場町。細くて古い町並みが続く。(すぐ右の写真) 右側に連子格子の美しい割田屋酒造があった。(右端写真) 「吟醸酒 超然」の幟が立っていた。

 午前10時35分、道路が広くなると今市場町である。名鉄尾西線を潜る手前の左手に十王堂があった。コンクリート造りで正面の額には「地蔵堂」とあった。(左写真)

 さらに東へ進みガードを抜けると、ここからは前回の夕方に歩いた道である。今日はその道を逆にたどる。佐屋街道はこの道から南へ分かれるのだが、前回の夕方も何時の間にか分岐点を通り過ぎていた。分岐点は津島市役所の前辺りと見当をつけていたが、通り過ぎてから左折したため、住宅地に入り少し迷った。バーミアンというレストランの向い側の道を左折するのが正しかったようだ。埋田町の通りから一本南の裏通りが佐屋街道である。

 すぐ右手に小さな神社があり、細長い境内に玉垣で小さく囲われた石柱があった。浅く刻まれた文字が「明治天皇御小休記念」と読める。(右写真) 「大正十三年」の文字も読める。やや大きめの字で「椿」の文字があった。多分記念に椿を植樹したのかもしれない。しかし枯れてしまったのか、玉垣の中に椿の木はない。

 記録をみると明治天皇が津島で休憩されたのは、明治元年12月18日の京都に帰る還幸のときだけである。

 すぐ先の左に人の背の丈ほどの大きな道標が残っていた。(左写真) ここが埋田追分である。佐屋街道と津島神社の道の分岐点である。道標には、東面に「右 つしま天王みち」、北面に「左 さやみち」、南面に「東 あつた なごや道」と刻まれていた。

 さらに道の両側に大きな常夜燈が立ち、石の鳥居の根元だけが立ち残っていた。(右下写真) 伊勢湾台風で倒れたものという。石の鳥居の受難は幾つか見た。溶岩に埋ったり、原爆に片足をもがれたり、石の鳥居が被害を受けるのは相当大きな災害である。二百年に一度といわれた伊勢湾台風の猛威を改めて思い知らされた。

 「尾張名所図会」の埋田の追分の絵によると、この鳥居から津島神社まで参詣者が列をなしていたことが伺われる。鳥居の手前には茶店があり、佐屋街道は鳥居の手前の道標を角に左折し、小川を渡って進むが、現在は宅地になってその道は失われている。
 水路に蓋をした道路中央の歩道をしばらく西進し、橘町の四つ角を左折、南へ進む。この辺りは昔の街道とは全く関係のない道である。1kmほど進むと、愛宕町三丁目辺りの右側に愛宕神社の社叢が見える。この神社の脇で佐屋街道に戻る。

 佐屋街道はしばらく細い裏道を進み、名鉄尾西線日比野駅近くを南下、突き当たった車道を左折して西へまっすぐ歩く。この辺りも耕地整理で佐屋街道は消えてしまっている。行く手には名鉄尾西線の踏み切りとその向うに養老山系の山並みが見えた。(左写真)

 午前11時40分、踏切を渡って左の佐屋変電所の角を左折する。間もなく左側に茶色っぽい石に刻んだ「佐屋海道址碑」が立っている。(右写真) 消えてしまった佐屋街道はこの辺りで左から合流する形になっている。

 1kmほど南へ進み、佐屋の集落へ入る。右手に浄法寺や天神社を見て、須依の交差点を右折し佐屋宿に入っていく。

 古い町並みに間もなく左へ入る横丁があり、(左写真) 角に水鶏塚の道標がある。(左写真の右) 「くひな塚 是より南へ一丁」と刻まれている。道標に随って細間を行くと、左側に八幡社、右側の小公園に水鶏塚があった。(右下写真)
 芭蕉の笈日記には前書きとともに、以下のように書かれている。

隠士山田氏の亭にとめられて              
水鶏啼くと 人のいへばや 佐屋泊り

 街道に戻って残り0.5km、西へ進む。佐屋の交差点の手前の左側に「左 さや舟場道」の道標がある。(左下写真)

 道標の立つ左側の民家の塀の上に、大きな棘のあるカラタチの枝が見えていた。(左写真円内)
 道標の向い側、道路右側には「佐屋代官所址」の碑があった。(左写真)
 さらにその隣りに「懐恩碑」があった。(左写真) これは「加藤高明内閣総理大臣の記念碑である。「懐恩碑」は故郷を懐かしく思うとともに、感謝とお礼の意を込めて、加藤高明伯が揮毫したもので、碑は平成七年十月柚木の明教寺から移設したものだという。
 佐屋の交差点の向い側に自然石に刻んだ「東海道佐屋路 佐屋三里之渡趾」の碑があった。(右写真) 東海道の佐屋路を選んだ旅人は佐屋まで来て佐屋湊で渡しに乗船、佐屋川を下り、木曽川を横切って加路戸川に入り、長島輪中の殿名を右に見て鎌ヶ池新田の北で鰻江川に入り、最後に揖斐川を横切って桑名に達した。この間、約3里、3時間の船旅であった。七里の渡しが約4時間かかると言われたのからすると、時間的にはさほど変らないが、海と違い川旅ははるかに安全で時間的にも確実であった。

 しかし江戸時代の終わりには佐屋川が土砂で埋り、浚渫が間に合わず、川下の川平に出湊を出して渡した。明治5年になって熱田から西へまっすぐ新田地帯を通って前ヶ須(蟹江)へ至る新道(現在の国道1号線にほぼ近い)が出来て、佐屋街道は役割を失い、宿場共々終焉を迎えた。

 何時の間にか12時を回り、ここで食事をして置かなければ摂り損ねると、食堂を探す。南へ向かって間もなく交差点を右に入った所に「お食事処 美舟」という店を見つけ入った。午後の部は午後1時からのスタートとなった。

 これからはひたすら南へ下る道で、途中国道155号線に合流する。この国道は廃川になった佐屋川の上に出来ているという。佐屋川は明治20年から14年にわたって続いた改修工事で、ここより10kmほど北の拾町野村(祖父江町)で締め切られ廃川となった。しばらく「佐屋河原」と呼ばれた亡骸をさらしていたが、昭和になって新田に開発されたという。現在、その名残を見ることはほとんど出来ない。

 午後1時32分、弥富町に入る。東名阪道のガードを潜り、弥富町の五明を抜けて尾張大橋の手前で、午後2時10分に国道1号線に合流する。明治5年以降の東海道新ルートとここで合流したわけである。橋の袂に味噌・醤油を商う井桁屋という店があった。(左写真) それほど古い建物ではないのだろうが、格子が懐かしい。入口に「東海道」と書かれた柱が立っていた。

 尾張大橋の下流側の歩道を渡る。東海道は新ルートになってからも木曽三川に橋はなく、前ケ須から渡船が出ていた。昭和5年には発動機船になった。昭和8年になってようやく木曽川に尾張大橋が完成し、その先の長良川・揖斐川にはその翌年に伊勢大橋が完成して、三里の渡しは役割を終えた。

 尾張大橋は往時のまま。アーチを上にのっけたようなランガートラス方式で造られている。(右写真) 幅7.5メートル、長さ879メートルである。

 尾張大橋を渡った右側には東海道の石標が立っていた。(右写真の右) 現東海道(国道1号線)はこの後、伊勢大橋を渡って桑名へ最短距離を行く。しかし、地図で長島スポーツランドの手前に「七里の渡跡」の表示を見つけた。これは是非見ておかねばならない。そこで伊勢大橋を渡らないで、長島輪中を南へ下って、揖斐長良大橋を渡って桑名に行くことに決めた。何よりもこのコースは川と陸の差はあっても三里の渡しのコースに近い。

 木曽川右岸の土手の内側の道を行く。30分、2キロメートルほど歩いた鎌ヶ池の手前に「鰻江川締切の地」の案内板があった。鰻江川は「三里の渡し」が木曽川から揖斐・長良川へ抜ける水路となっており、長島輪中と葭ヶ須輪中の間にあった。
 さらに20分歩いた、午後3時14分、ユニータウンという住宅団地のバス停角にポケットパークがあった。道路標識(左写真)には北へ国道1号線まで3.5キロ、南へ七里の渡し跡まで1.6キロ、西へ大島水門まで1.0キロとあった。大島水門は内水河川として残った鰻江川の長良川への水門である。

 ここから約1.5kmにわたって、道に沿って「せせらぎ水路」が整備されていた。手前から平成ゾーン、昭和ゾーン、明治・大正ゾーンとそれぞれの時代のイメージに水路がデザインされ、ウォーキングの人たちにやすらぎとアクセントを与えている。案内板ではテーマに自然とのふれあいを上げているが、金をかけた人工的な水路にどれだけ自然が戻っているのか疑問である。せめて魚でもいないかと注意して歩くが、見つからなかった。

 せせらぎの道の最後、道路を渡る地下道前面に子供たちの絵が描かれていた。(右写真)「うちゅうへのみち」とのタイトルがついている。

 木曽川の右岸、国道23号線の木曽川大橋の袂の土手の内側に、「東海道七里渡青鷺川舊跡」の石碑があった。(左写真) ここは渡し場のあったところではなくて、七里の渡しが主に通った青鷺川のあったところというのである。

 午後3時58分、夕闇が迫ってきた国道23号線に出る。国道の南側に長島スポーツランドの施設を尻目に、桑名のゴールを目指して急ぐ。赤い揖斐長良大橋をわたると桑名である。(右写真) 桑名の七里の渡しまで行くつもりであったが、今日は十二分に歩いたので、そのまま桑名駅に向かった。どこかで桑名の焼き蛤を食したいと思ったが、今回は諦めた。

 桑名駅着、午後4時58分。今回の歩数は 41,929歩であった。







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