



朝起きて、雨模様に迷ったが、天候は西から快復していると天気予報で知り、女房に説明し思い切って出て来る。愛知県に入ると雨もやみ、金山駅で名鉄に乗り換える頃には、北西の方角は空をくっきりと分けて晴れてきた。
午前9時40分、名鉄津島線津島駅に降り立った。駅前からまっすぐに西へ、天王通りを津島神社に向かう。10分ほど歩いた右の路傍に祠があった。(左写真) 中を覗くと円空の千体仏の写真があった。(右写真) 実物は扉の中に安置されているようであった。
天王通りは津島神社の手前で右折して、県道129号尾西津島線になるが、その右角地に「旧御旅所跡の大いちょう」がある。(左写真) 町中の一角が一本の巨木のために残されている。
正面鳥居から津島神社に入ったすぐ左手に、これも県指定の天然記念物の大いちょうがあった。(右写真) 幹周囲5.3m、樹高25m、樹齢600年の御神木である。もちろん「巨木巡礼」で同じ日にここにも来ている。「巨木巡礼」では次のように書いている。
正面の楼門(東門)(左写真)をくぐり本殿に向かう。この楼門(東門)は国の重要文化財だという。
参拝後左手の表参道に向かう。参道に出た左手に「五ヶ条の御誓文碑」がある。(右写真) 明治百年記念として建立されたというが、明治百年を祝った年からすでに35年も経つのである。
津島神社を出て東へ向かう。左側の一角に黒い塀に囲まれた「重要文化財(旧)堀田邸」があった。(左写真) この辺りを祢宜町といい、津島神社の神官の家屋敷が集っていたところだという。横丁に入った所に案内柱が立っていた。
その先に進むと、左手に天王川公園の水辺が広がる。(右写真) この辺りはかって川湊の津島湊があり、津島天王の参詣客でにぎわった。
天王川のほとりに、石垣を二段ほど積んで、玉垣で三方を囲った「お旅所」があった。(左写真) 川に面する側だけが開いている。
道は水辺を90度周り左折して東進する。ここは筏場町。細くて古い町並みが続く。(すぐ右の写真) 右側に連子格子の美しい割田屋酒造があった。(右端写真) 「吟醸酒 超然」の幟が立っていた。
午前10時35分、道路が広くなると今市場町である。名鉄尾西線を潜る手前の左手に十王堂があった。コンクリート造りで正面の額には「地蔵堂」とあった。(左写真)
すぐ右手に小さな神社があり、細長い境内に玉垣で小さく囲われた石柱があった。浅く刻まれた文字が「明治天皇御小休記念」と読める。(右写真) 「大正十三年」の文字も読める。やや大きめの字で「椿」の文字があった。多分記念に椿を植樹したのかもしれない。しかし枯れてしまったのか、玉垣の中に椿の木はない。
記録をみると明治天皇が津島で休憩されたのは、明治元年12月18日の京都に帰る還幸のときだけである。
「尾張名所図会」の埋田の追分の絵によると、この鳥居から津島神社まで参詣者が列をなしていたことが伺われる。鳥居の手前には茶店があり、佐屋街道は鳥居の手前の道標を角に左折し、小川を渡って進むが、現在は宅地になってその道は失われている。
水路に蓋をした道路中央の歩道をしばらく西進し、橘町の四つ角を左折、南へ進む。この辺りは昔の街道とは全く関係のない道である。1kmほど進むと、愛宕町三丁目辺りの右側に愛宕神社の社叢が見える。この神社の脇で佐屋街道に戻る。
佐屋街道はしばらく細い裏道を進み、名鉄尾西線日比野駅近くを南下、突き当たった車道を左折して西へまっすぐ歩く。この辺りも耕地整理で佐屋街道は消えてしまっている。行く手には名鉄尾西線の踏み切りとその向うに養老山系の山並みが見えた。(左写真)
古い町並みに間もなく左へ入る横丁があり、(左写真) 角に水鶏塚の道標がある。(左写真の右) 「くひな塚 是より南へ一丁」と刻まれている。道標に随って細間を行くと、左側に八幡社、右側の小公園に水鶏塚があった。(右下写真)
芭蕉の笈日記には前書きとともに、以下のように書かれている。
道標の向い側、道路右側には「佐屋代官所址」の碑があった。(左写真)
さらにその隣りに「懐恩碑」があった。(左写真) これは「加藤高明内閣総理大臣の記念碑である。「懐恩碑」は故郷を懐かしく思うとともに、感謝とお礼の意を込めて、加藤高明伯が揮毫したもので、碑は平成七年十月柚木の明教寺から移設したものだという。
佐屋の交差点の向い側に自然石に刻んだ「東海道佐屋路 佐屋三里之渡趾」の碑があった。(右写真) 東海道の佐屋路を選んだ旅人は佐屋まで来て佐屋湊で渡しに乗船、佐屋川を下り、木曽川を横切って加路戸川に入り、長島輪中の殿名を右に見て鎌ヶ池新田の北で鰻江川に入り、最後に揖斐川を横切って桑名に達した。この間、約3里、3時間の船旅であった。七里の渡しが約4時間かかると言われたのからすると、時間的にはさほど変らないが、海と違い川旅ははるかに安全で時間的にも確実であった。
これからはひたすら南へ下る道で、途中国道155号線に合流する。この国道は廃川になった佐屋川の上に出来ているという。佐屋川は明治20年から14年にわたって続いた改修工事で、ここより10kmほど北の拾町野村(祖父江町)で締め切られ廃川となった。しばらく「佐屋河原」と呼ばれた亡骸をさらしていたが、昭和になって新田に開発されたという。現在、その名残を見ることはほとんど出来ない。
尾張大橋の下流側の歩道を渡る。東海道は新ルートになってからも木曽三川に橋はなく、前ケ須から渡船が出ていた。昭和5年には発動機船になった。昭和8年になってようやく木曽川に尾張大橋が完成し、その先の長良川・揖斐川にはその翌年に伊勢大橋が完成して、三里の渡しは役割を終えた。
さらに20分歩いた、午後3時14分、ユニータウンという住宅団地のバス停角にポケットパークがあった。道路標識(左写真)には北へ国道1号線まで3.5キロ、南へ七里の渡し跡まで1.6キロ、西へ大島水門まで1.0キロとあった。大島水門は内水河川として残った鰻江川の長良川への水門である。
ここから約1.5kmにわたって、道に沿って「せせらぎ水路」が整備されていた。手前から平成ゾーン、昭和ゾーン、明治・大正ゾーンとそれぞれの時代のイメージに水路がデザインされ、ウォーキングの人たちにやすらぎとアクセントを与えている。案内板ではテーマに自然とのふれあいを上げているが、金をかけた人工的な水路にどれだけ自然が戻っているのか疑問である。せめて魚でもいないかと注意して歩くが、見つからなかった。
木曽川の右岸、国道23号線の木曽川大橋の袂の土手の内側に、「東海道七里渡青鷺川舊跡」の石碑があった。(左写真) ここは渡し場のあったところではなくて、七里の渡しが主に通った青鷺川のあったところというのである。




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