




今日の東海道歩きのスタート地点は「七里の渡し跡」である。駅頭の市街案内図を見て、広い八間通りを東へ進む。今朝早くて朝食を十分とれなかったので、道路左側に見つけた「喫茶店カトレア」に入りモーニングサービスを頼んだ。喫茶店カトレアの右隣りは海蔵寺というお寺で、ちょうどカトレアの裏手の境内に薩摩義士墓所があった。(左写真)
八間通りから南へ入るアーケードのある寺町通りに人だかりがしていた。(右写真) 今日は暮れの28日、通りに正月準備の露店市が立っているのである。考えてみればこんな暮れに街道歩きとはのんきなことである。
県道613号線を北へ進み、揖斐川沿いに出て橋の手前を右折した先に「七里の渡し跡」がある。「七里の渡し跡」の手前に料亭「船津屋」がある。(左写真) 船津屋はかっての大塚本陣の跡である。明治43年の泉鏡花の小説「歌行燈」の舞台、「湊屋」はここ船津屋がモデルになっている。最初に紹介した「かわうそ」の話はまさにここのお話しである。
船津屋の前で白いひげのお爺さんに出会った。年は92歳、杖を突いてこのあたりを毎日散歩していると言う。あと8年で100歳、それからさらに10年は生きたいという。ここでは有名人でテレビ取材も受けた。話す間にも近所のおばさんに声を掛けられる。昔、東海道を歩いたことがあるとも言う。いつの時代のことであろうか。せっかくだから句碑の前で記念写真を撮らせてもらう。(右写真) お爺さんは姿勢正しく颯爽と去って行った。
船津屋の隣りの料理屋「山月」は駿河屋脇本陣跡である。玄関口に石碑があった。(左写真)
山月の先で突き当たった白壁は防潮堤を化粧したものである。白壁の前に「旧蹟 七里の渡し」の石碑があった。(右写真の右端) 「桑名保磯會」の名前も刻んであった。「七里の渡し跡」は防潮堤を右に回りこんだ外側にある。入口に案内板があった。
「七里の渡し跡」には伊勢神宮の「一の鳥居」、常夜燈や松の木が数本ある。(右上写真) 常夜燈は後で判ったことだが、鍛治町の七ツ屋橋の近くにあった多度神社常夜燈を移設したものであるという。
「七里の渡し跡」から南に向って桑名城の堀がまっすぐ伸びている。(右写真) 現在も舟が係留されて水量はたっぷりある。旧東海道はこの後この堀の西側を南へ進む。
西へ進む街道は碁盤の目に舗装されており(左写真)、その1ヶ所に「井」の字を刻んだ古い石がはめ込まれていた。(左写真円内) これは通り井といって昔の水道の跡という。
午前10時40分、通りの右側の二階屋には「歌行燈」という行灯型の看板が出ていた。ここは鏡花の「歌行燈」のもう一つの舞台である「うどんや」のモデルといわれている。小説「歌行燈」は船津屋がモデルの「湊屋」とこの「うどんや」での話が交互に出て絡まりながら展開していく。この二階屋は料理屋さんのようであった。デジカメを向けるとき二階で拭き掃除をする女性と目が合った。(右写真)
「七里の渡し跡」から500メートルほど来た右側に「桑名に過ぎたるもの」と唄われた「青銅の鳥居」があった。(左写真)
春日神社はかっては桑名神社と中臣神社を併せて桑名宗社とも呼ばれていた。現在もなお本殿が二つに分かれ、それぞれに唐破風が付いていて桑名・中臣の二つの神社を分けて祀っている。(右写真) 古来から桑名の地主神として崇敬されてきたが、永仁四年(1296年)に奈良から春日四柱を勧請し合祀してから春日大明神と言われるようになった。8月の石取祭は春日神社の祭りである。
本殿の手前左に、水質の悪かった桑名の町民に良質の水を提供した「御膳水井」が復元されていた。(左写真)
本殿右に沿って幾面かの句碑があった。中に石取祭の山車を詠んだ句碑が二面あった。(右写真)
街道に戻り進むと左側の人家が切れて堀端に沿って小公園があった。日本橋から三条大橋まで東海道五十三次を表わした遊歩道になっている。(左写真) 途中に桑名宿の案内板があった。
堀割に目を転じるとボートが幾艘も繋がれ、その向うに桑名城の城壁がよく残っていた。(右写真)
堀端から分かれて入った町中に昔の銀行のような建物があった。(左写真) 桑名市石取会館で館内を覗き係員に聞くと見学できると言う。通り過ぎて先に行ってしまった女房を呼び返した。
館内に入ると中央に金ぴかの山車が飾られていた。(右写真) 「東太一丸祭車」を3/5に縮小した模型だという。
250mほど南に進んだ左手に、方向を示す手が刻まれた石標が復元されていた。(右写真の左) 「右 京いせ道 左 江戸道」とある。名古屋圏に入ってから、この手の道標を見るようになったが、この地域の流行だったのだろうか。
それより南へ進む道には「寺町通り」と呼ばれるだけに、道の右側に寺や神社が並んでいる。
次に光徳寺。(左写真) ここには万古焼の創始者といわれる沼波弄山の墓がある。万古焼は江戸時代の中頃、元文年間に桑名の商人、沼波弄山が桑名の隣りの朝日町の小向に窯を築いて創始した陶器で茶陶が多い。「万古焼」の名は作品に永久に伝わるべき作品として「万古」または「万古不易」の印を捺したところから出ている。 現在は四日市の代表的な特産品となっている。
次に十念寺。(右写真) ここには明治維新の際に、桑名藩が幕府側について敗北した責任を一身に受け、藩を代表して切腹した森陳明の墓がある。入口に「桑名義士森陳明翁墓所」の石柱が立っていた。
すぐ先の右側に「天武天皇社」がある。(左写真) 鳥居の右前に「天武天皇御旧所」の石柱が立っている。壬申の乱の際、大海人皇子(のちの天武天皇)は吉野を経って、美濃国不破関に向って、大友皇子(弘文天皇)の軍を破り、帝位に付く。その進軍の途中、この地方を治める桑名郡家に駐泊した。後にこれを記念して創建された神社である。
少し先の左側空地を入った左側に「梅花佛鑑塔」がある。(右写真) 各務支考は僧侶を目指したがあきたらず、乞食僧となって諸国を行脚した後、松尾芭蕉の門人となった。蕉門随一の理論家といわれ、芭蕉の死床での活躍は遺書を代筆するなど顕著なものがあった。
梅花佛鑑塔のすぐ先に鉄枠で保護された石標があった。「左 東海道渡船場道 右 □□伊勢道」(□は読めず)とあった。
正午を回り、街道の先に中川梵鐘店の看板として置かれた釣鐘が見えてきた。それに向うから坊さんがやって来た。デジカメチャンス、が、準備に時間がかかり通り過ぎてしまいそう。慌ててシャッターを切ったがピントがぶれてしまった。しかし一応坊さんと梵鐘がセットになった。(左写真)



![]() |

![]() |
このページに関するご意見・ご感想は: |
| SEO | [PR] 冠婚葬祭 花 冷え対策 わけあり商品 | 動画無料レンタルサーバー ブログ SEO | |