第 28 回 〔前半〕
  平成14年12月28日(土) 
 快晴冷えるが風は無し
 桑名宿−七里の渡し−春日神社−矢田−
 “泉鏡花の「歌行燈」を伴に桑名宿を過ぎる”



 最近、「青空文庫」というサイトがあることを知った。作家の死後50年経つと著作権が切れる。著作権の切れた作家の作品をテキスト化して皆で利用しようという趣旨。インターネットの機能を活用した大変文化的な事業だと思った。何よりも作家も死後50年も経つと本も絶版になり、なかなか作品を手にすることが難しくなる。それをたやすく眼にすることができることだけでも大変なありがたいことである。(青空文庫へは下記のボタンを押す。)


 早速今回の桑名宿を描いた泉鏡花の「歌行燈」を探してみる。ものの1分でたどり着けた。読みたいと思って探し得なかっただけに感激であった。

 「湊屋、湊屋、湊屋。この土地じゃ、まああすこ一軒でござりますよ。古い家じゃが名代で。前には大きな女郎屋じゃったのが、旅籠屋になったがな、部屋々々も昔風そのままな家じゃに、奥座敷の欄干の外が、海と一所の、いかい揖斐の川口じゃ。白帆の船も通りますわ。スズキははねる、ボラは飛ぶ。とんと類のない趣のある家じゃ。ところが、時々崖裏の石垣から、獺(かわうそ)がはい込んで、板廊下や厠に点いた燈を消して、悪戯をするげに言います。が、別におそろしい化方はしませぬで。こんな月の良い晩には、庭で鉢叩きをして見せる。‥‥時雨れた夜さりは、天保銭一つ使賃で、豆腐を買いに行くと言う。それも旅の衆の愛嬌じゃ言うて、えらい評判の好い旅籠屋ですがな、‥‥お前様、この土地はまだ何も知りなさらんかい。」

 有名な「かわうそ」の話の部分である。これでまた大きくネット世界が広がった。

 青春18切符を使って、午前9時40分、JR東海  桑名駅に着く。「歌行燈」の冒頭で「東海道中膝栗毛」の本を片手に降り立ったところが桑名駅であった。

 「宮重大根のふとしく立てし宮柱は、ふろふきの熱田の神のみそなわす、七里のわたし浪ゆたかにして、来往の渡船難なく桑名につきたる悦びのあまり‥‥‥
 と口誦むように独言の、膝栗毛五編の上の読初め、霜月十日あまりの初夜。中空は冴切って、星が水垢離取りそうな月明に、踏切の桟橋を渡る影高く、灯ちらちらと目の下に、遠近の樹立の骨ばかりなのを視めながら、桑名の停車場へ下りた旅客がある。」

 今日の東海道歩きのスタート地点は「七里の渡し跡」である。駅頭の市街案内図を見て、広い八間通りを東へ進む。今朝早くて朝食を十分とれなかったので、道路左側に見つけた「喫茶店カトレア」に入りモーニングサービスを頼んだ。喫茶店カトレアの右隣りは海蔵寺というお寺で、ちょうどカトレアの裏手の境内に薩摩義士墓所があった。(左写真)
 24名の死因がすべて割腹であったというのは悲惨としか言い様がない。故郷を遠く離れて、薩摩とは全く関係のないこの地に来て、打ち続く障害と進まぬ工事の責任をとって、死んでいった薩摩武士達の無念の思いが満ちている。

 八間通りから南へ入るアーケードのある寺町通りに人だかりがしていた。(右写真) 今日は暮れの28日、通りに正月準備の露店市が立っているのである。考えてみればこんな暮れに街道歩きとはのんきなことである。

 県道613号線を北へ進み、揖斐川沿いに出て橋の手前を右折した先に「七里の渡し跡」がある。「七里の渡し跡」の手前に料亭「船津屋」がある。(左写真) 船津屋はかっての大塚本陣の跡である。明治43年の泉鏡花の小説「歌行燈」の舞台、「湊屋」はここ船津屋がモデルになっている。最初に紹介した「かわうそ」の話はまさにここのお話しである。

 船津屋の木塀の一部を凹めて石碑が設置されている。(左写真円内) 線彫りが浅くて文字が見難いが、鏡花の小説を戯曲に書いた久保田万太郎の詠んだ句である。

かわをそに 火をぬすまれて あけやすき     万

 「かわをそ」は「かわうそ」のこと。「あけやすき」は「夜が明けるのが早い」という意味である。もちろん「歌行燈」の「かわうそ」の話を下敷きにしていることは明らかである。

 船津屋の前で白いひげのお爺さんに出会った。年は92歳、杖を突いてこのあたりを毎日散歩していると言う。あと8年で100歳、それからさらに10年は生きたいという。ここでは有名人でテレビ取材も受けた。話す間にも近所のおばさんに声を掛けられる。昔、東海道を歩いたことがあるとも言う。いつの時代のことであろうか。せっかくだから句碑の前で記念写真を撮らせてもらう。(右写真) お爺さんは姿勢正しく颯爽と去って行った。

 船津屋の隣りの料理屋「山月」は駿河屋脇本陣跡である。玄関口に石碑があった。(左写真)

勢州桑名に 過ぎたるものは 銅の鳥居に 二朱の女郎

と俗謡に唄われた有名な句が刻まれている。

 「銅の鳥居」はこの先の春日神社の青銅の鳥居のことである。また「二朱の女郎」については、「二朱」は「二朱判銀」で二枚を銀一分に、八枚を金貨一両に替える。一分以上掛かる遊女が高級遊女で、「二朱女郎」は一段落ちる遊女である。このあたりの旅籠は「歌行燈」の「かわうそ」の項にもあるように、「前には大きな女郎屋じゃったのが、旅籠屋になったがな」ということもあったのだろう。

 山月の先で突き当たった白壁は防潮堤を化粧したものである。白壁の前に「旧蹟 七里の渡し」の石碑があった。(右写真の右端) 「桑名保磯會」の名前も刻んであった。「七里の渡し跡」は防潮堤を右に回りこんだ外側にある。入口に案内板があった。
 「七里の渡し跡」には伊勢神宮の「一の鳥居」、常夜燈や松の木が数本ある。(右上写真) 常夜燈は後で判ったことだが、鍛治町の七ツ屋橋の近くにあった多度神社常夜燈を移設したものであるという。

 川側には揖斐川に向けて水門が開け、その向うには遠く悪名高き長良川河口堰の連なりが見える。(左写真) 長良川河口堰から揖斐川と長良川を区切る中洲を8キロメートルほど北へ遡った油島に、徳川幕府の命を受けて多くの犠牲者を出しながら木曾三川の大治水工事を行った薩摩藩士を祀る治水神社があり、薩摩藩士が工事完成後植えたといわれる千本松原が残っている。そのことは途中、海蔵寺の案内板で知った。

 「七里の渡し跡」の川下側には二層の入母屋に白壁の新しい建物が見える。広重の「東海道五十三次 桑名」の版画にも描かれている桑名城の櫓を模したもので河川の管理所になっているようだ。(左写真の右下) 桑名城はそれより南方に揖斐川に沿って扇型に築城されて別名「扇城」とも呼ばれていた。現在は「九華公園」として市民に親しまれている。

 「七里の渡し跡」から南に向って桑名城の堀がまっすぐ伸びている。(右写真) 現在も舟が係留されて水量はたっぷりある。旧東海道はこの後この堀の西側を南へ進む。

 西へ進む街道は碁盤の目に舗装されており(左写真)、その1ヶ所に「井」の字を刻んだ古い石がはめ込まれていた。(左写真円内) これは通り井といって昔の水道の跡という。
 午前10時40分、通りの右側の二階屋には「歌行燈」という行灯型の看板が出ていた。ここは鏡花の「歌行燈」のもう一つの舞台である「うどんや」のモデルといわれている。小説「歌行燈」は船津屋がモデルの「湊屋」とこの「うどんや」での話が交互に出て絡まりながら展開していく。この二階屋は料理屋さんのようであった。デジカメを向けるとき二階で拭き掃除をする女性と目が合った。(右写真)

 以下小説「歌行燈」で「うどんや」が最初に出て来るところである。

  博多帯しめ、筑前絞、田舎の人とは思われぬ、歩行く姿が、柳町、
 と博多節を流している。‥‥つい目の前(さき)の軒陰に。‥‥白地の手拭、ほおかむり、すらりと痩ぎすな男の姿の、軒のその、うどんと紅で書いた看板の前に、横顔ながら俯向いて、ただ影法師のようにたたずむのがあった。‥‥‥‥‥
  お月様がちょいと出て松の影、アラ、ドッコイショ、
 と沖の浪の月の中へ、颯と、撥を投げたように、霜を切って、唄い棄てた。‥‥‥饂飩屋の門(かど)に博多節を弾いたのは、転進をやや縦に、三味線の手を緩めると、撥を逆手に、その柄で弾くようにして、ほんのりと、薄赤い、そこの板障子をすらりと開けた。(※「転進」は「進路を転ずること」)

 「七里の渡し跡」から500メートルほど来た右側に「桑名に過ぎたるもの」と唄われた「青銅の鳥居」があった。(左写真)

 慶長七年(1602)、初代桑名藩の藩主本多忠勝によって奉納された木造の鳥居が大風によって倒壊してしまった。それに替えて、寛文七年(1667)、松平定重によって再建されたのがこの青銅の鳥居である。桑名は江戸時代から鋳物業が盛んで、この鳥居も町内の鋳物師の辻内善右衛門に命じて建立された。慶長金で250両掛かったと言う。高さ6.9m、柱の回り57.5cm、街道脇にあって街道随一の青銅の鳥居として旅ゆく人々にその威容を誇っていた。

 建立後幾度も災害で破損したが、その度に辻内家によって修復されてきた。伊勢湾台風でも船が衝突し倒壊した。その疵は今も残っている。鳥居上部には鋳出した家紋のような文様が残っていた。

 鳥居の左側には「しるべいし」があった。「志類べ以志」と変体仮名で刻まれた石標が倒壊を防ぐ鉄枠にはまって立っていた。(左上写真の右) 南側に「たづぬるかた」、北側に「おしゆるかた」と刻まれている。

 「しるべいし」は「迷い児石」とも呼ばれ、人の集まる場所に立てて、迷子や行方不明の人を捜すための掲示板の代わりをした石標である。「たづぬるかた」面に尋ね人の特徴を書いた紙を貼りだし、心当たりのある人が「おしゆるかた」面へ、その旨を記した紙を貼るようにしてある。上部のスペースは紙を貼る場所だという。かっては人の集まる所にはよく設置されていたというが、この情報化世界では無用であり残っているものは少ない。東京の浅草観音の「迷い子しるべ石」は有名であるという。

 春日神社はかっては桑名神社と中臣神社を併せて桑名宗社とも呼ばれていた。現在もなお本殿が二つに分かれ、それぞれに唐破風が付いていて桑名・中臣の二つの神社を分けて祀っている。(右写真) 古来から桑名の地主神として崇敬されてきたが、永仁四年(1296年)に奈良から春日四柱を勧請し合祀してから春日大明神と言われるようになった。8月の石取祭は春日神社の祭りである。

 本殿の手前左に、水質の悪かった桑名の町民に良質の水を提供した「御膳水井」が復元されていた。(左写真)
 本殿右に沿って幾面かの句碑があった。中に石取祭の山車を詠んだ句碑が二面あった。(右写真)
 山口誓子は京都市出身の俳人。東大俳句会に加わり、高浜虚子の直接指導を受ける。昭和初期に「ホトトギス」の新鋭として活躍、青畝、秋桜子、素十とともに「四S」の一人に数えられた。昭和二十三年「天狼」を創刊、多くの俳友・門下を糾合して、戦後の俳句復活に大いに寄与した。

 石取祭の山車の一つに神功皇后の鎧姿を刻んだものがあるのであろう。ネットで調べてみたがどの町内の山車かは分らなかった。

 街道に戻り進むと左側の人家が切れて堀端に沿って小公園があった。日本橋から三条大橋まで東海道五十三次を表わした遊歩道になっている。(左写真) 途中に桑名宿の案内板があった。
 堀割に目を転じるとボートが幾艘も繋がれ、その向うに桑名城の城壁がよく残っていた。(右写真)
 堀端から分かれて入った町中に昔の銀行のような建物があった。(左写真) 桑名市石取会館で館内を覗き係員に聞くと見学できると言う。通り過ぎて先に行ってしまった女房を呼び返した。

 館内に入ると中央に金ぴかの山車が飾られていた。(右写真) 「東太一丸祭車」を3/5に縮小した模型だという。

 三重県の無形文化財に指定されている石取祭は元は春日神社の二大祭(比与利祭・御車祭)の一つである比与利祭の一神事であった。

 「石取」の行事については、社地修理説や流鏑馬馬場修理説などあるが、氏子たちは7月7日より17日までの毎日、郊外の町屋川に出かけて河原から石を拾う。栗石を新しい俵に入れて、小さな車に載せて鉦や太鼓を打ち鳴らしながら神社へ奉納する。夜になると提灯をつけて神前へ奉納した。その時の小さい車が石取祭車の始まりであるという。

その後、祭りも祭車も年々盛大にまたきらびやかになった。祭車には、百数十年を経たものもあり、高村光雲・立川和四郎富重・井尻翠雲などの一流の彫刻が飾り、漆を塗ったもの、あるいは天幕に豪華な図柄の描かれたものもあり、その芸術的価値は高く評価されているという。

 石取祭は日本一やかましい祭りだという。館内のビデオで見るとなるほど騒々しい。山車同士競うように鉦や太鼓を叩きまくる。叩くのにしきたりやルールはないようにみえる。ともあれ「日本一」が付くことは悪いことではない。

 ビデオでは祭車の奉納順をくじ引きで決める、一喜一憂する様子が映し出されていた。

 桑名市石取会館を出て先へ進む所におじさんが近寄ってきて、「‥‥ 一億円かかった」とか何とか言う。初め何を言っているのか分らなかったが、聞くうちに山車が1台一億円掛かる物もあると教えてくれているのであった。石取会館から出て来た観光客に自慢をしているのである。「立派な山車で ‥‥」と口を合わせる。まだ何か話したそうであったが、角に来て別れた。

 250mほど南に進んだ左手に、方向を示す手が刻まれた石標が復元されていた。(右写真の左) 「右 京いせ道 左 江戸道」とある。名古屋圏に入ってから、この手の道標を見るようになったが、この地域の流行だったのだろうか。

 午前11時34分、すぐ先の右側の駐車場角に「吉津屋見附跡」の案内板があった。(右写真の右)これより旧東海道は右折して「コ」の字型に「升型道路」を進む。
 「升型道路」のすぐ先の左側に「鍛治町常夜燈跡」のプレートがあった。常夜燈は「七里の渡し跡」に移されてここにはない。
 寺町通りに右折するところで、少し躊躇していたら、角のお店のおじさんに「東海道はこっちだよう」と教えられた。92歳のおじいさん、一億円のおじさん、そしてこのおじさんと、桑名の人はたいへん親切であるらしい。一見おせっかいなほどに。

 それより南へ進む道には「寺町通り」と呼ばれるだけに、道の右側に寺や神社が並んでいる。

 最初に泡洲崎八幡社。案内板に町屋川の流れが作った州を「自凝(おのころ)洲崎」、「泡(あわ)洲崎」と聞くと、古事記の冒頭の国生みの伝説を思い出す。入口右側に、真ん中で二つに割れて補修された古い石標が残っている。(右写真) 「右きゃういせみち 左ふなばみち」の文字はほとんど読めなかった。
 次に光徳寺。(左写真) ここには万古焼の創始者といわれる沼波弄山の墓がある。万古焼は江戸時代の中頃、元文年間に桑名の商人、沼波弄山が桑名の隣りの朝日町の小向に窯を築いて創始した陶器で茶陶が多い。「万古焼」の名は作品に永久に伝わるべき作品として「万古」または「万古不易」の印を捺したところから出ている。 現在は四日市の代表的な特産品となっている。
 次に十念寺。(右写真) ここには明治維新の際に、桑名藩が幕府側について敗北した責任を一身に受け、藩を代表して切腹した森陳明の墓がある。入口に「桑名義士森陳明翁墓所」の石柱が立っていた。
 次に寿量寺。ここには江戸時代の初め、旅の途中でこの地で病死した絵師の狩野光信の墓があった。左側ブロック塀前にある小さな五輪塔の墓がある。
 日進小前の交差点を右折して旧東海道は鍋屋町に入る。桑名鋳物の産地で梵鐘から鍋などの日用品も作っていた。右側の大きな御屋敷前に案内プレートがあった。
 すぐ先の右側に「天武天皇社」がある。(左写真) 鳥居の右前に「天武天皇御旧所」の石柱が立っている。壬申の乱の際、大海人皇子(のちの天武天皇)は吉野を経って、美濃国不破関に向って、大友皇子(弘文天皇)の軍を破り、帝位に付く。その進軍の途中、この地方を治める桑名郡家に駐泊した。後にこれを記念して創建された神社である。
 少し先の左側空地を入った左側に「梅花佛鑑塔」がある。(右写真) 各務支考は僧侶を目指したがあきたらず、乞食僧となって諸国を行脚した後、松尾芭蕉の門人となった。蕉門随一の理論家といわれ、芭蕉の死床での活躍は遺書を代筆するなど顕著なものがあった。
 梅花佛鑑塔の周りには門人たちの句碑が並んでおり、隣りにはひと回り大きい芭蕉の句碑もある。

今日ばかり 人も年寄れ 初時雨

 ここに集まった句碑一つ一つが芭蕉と支考の周りに集まる門人たちで、今もなお延々と句会を続けているように見えた。

 梅花佛鑑塔のすぐ先に鉄枠で保護された石標があった。「左 東海道渡船場道 右 □□伊勢道」(□は読めず)とあった。

 正午を回り、街道の先に中川梵鐘店の看板として置かれた釣鐘が見えてきた。それに向うから坊さんがやって来た。デジカメチャンス、が、準備に時間がかかり通り過ぎてしまいそう。慌ててシャッターを切ったがピントがぶれてしまった。しかし一応坊さんと梵鐘がセットになった。(左写真)

 国道1号線を渡り、旧東海道は西矢田町で突き当たり左折し南へ向かう。その右角に黒い壁の蔵を背景にはしごが立ち、はしごの上に半鐘が下がっていた。(右写真) ここはかって矢田立場のあったところである。






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