第 29 回 
  平成15年1月5日(日) 
 快晴厳しく冷える風強し
 四日市宿−日永の追分−杖衝坂−石薬師宿−庄野宿
 “季節外れの卯の花、蒲桜そして「庄野の白雨」!”



 最近、インターネットの書籍販売で東海道の旅日記の本を買って読んだ。自費出版で有名な文芸社の本である。

見習い隠居の旅日記(「平成の東海道五十三次」四人旅)  福田裕一著  文芸社刊 1200円

 定年前に退職し、にわか隠居となった著者が東海道宿駅・伝馬制四百年を記念したウォーク大会で日本橋から三条大橋まで歩いた記録である。写真が一枚も無い文章だけの200ページを超す本を一気に読んでしまった。読んでしまってから、淡々と歩く旅をどう文章にすれば読んでもらえるのか、考えさせられてしまった。

 この“夫婦旅”の記録にしても写真は見てもらえるだろうが、文章は当事者以外は退屈極まりないものであり、通して読んでくれるのは同行している女房くらいであろう。どうすれば一般の人が読んで面白いものになるのか。大きな課題である。

 話は変わるが、12月の初め、「東海道集会」の案内メールが飛び込んで来た。「平成東海道五十三次ひとり旅」のおかもとさんからである。旧東海道の旅を楽しみ、インターネット上で情報発信している人たちが一堂に会して歓談したいという集会だという。バーチャルな付き合いから現実の付き合いに入ることに少し戸惑いもあったが、女房と出席するつもりで返信メールを出していた。しかしその時期に中国出張となり、残念ながら出席できなくなった。東海道を歩くといっても各々思いが違う。それらの人たちが集まって、いったいどんな会になるのだろう。

 まだ松の内、JR電車も空いていた。午前9時50分、青春18切符でJR四日市駅に着く。天気は良いが風があって寒そうである。駅頭に数人のウォーキング姿のおばさん達がいて、おそらく彼女等も東海道を歩くようで、トイレなど歩く前の準備をしていた。

 駅から市役所などの並ぶ広い通りを西へ、国道1号線を越えた次の辻を左折、浜田町から本日の東海道歩きを始める。前回の最後になったアーケード付の諏訪栄商店街とは広い通りを隔てた反対側になる。

 間もなく左側に崇顕寺というお寺がある。門前に、側面に「丹羽文雄生誕之地」と刻まれた石碑が立っていた。(左写真) 正面には「佛法山 崇顕精舎」と刻まれていた。「崇顕精舎」の文字は署名があるから丹羽文雄自身の筆跡なのであろう。(「精舎」はお寺のこと。使用例として「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」)

 丹羽文雄は明治37年(1904)、崇顕寺の長男として生れ、早稲田大学在学中に文学を志し、「鮎」で高い評価を受け作家となった。ふるさと四日市を描いた「菜の花時まで」など数多くの名作を世に出し、昭和52年には文化勲章を受章した。四日市を代表する作家で四日市市名誉市民となっている。

 近鉄名古屋線のガードを潜って、古い町並みを右に緩やかにカーブしながら進む。(右写真) 駅前にいた同好のおばさん達は、どこで追い越されたのか、先に進んでおり、遠くで何かを見学している。午前10時31分、入れ違いに着いてみると、そこは古い薬局であった。(左下写真)

 鹿北川に架かった鹿北橋を渡り日永に入る。すぐ右側に大宮神明社がある。正月ゆえに鳥居の前の両側に門松(松のみ)が立っていた。(右写真) いわれを記した案内板があった。
 大宮神明社のすぐ先だったと思うが、白い装束の女性二人が門付けをする姿を見た。新年を寿ぐ行事なのであろうが、大宮神明社と関わりがあるのであろうか。

 天白川に架かる天白橋を渡ったすぐ右側に両聖寺がある。(左写真)
 このお寺には地築唄が起源の「つんつくおどり」という盆踊り(念仏踊り)が残っており、市指定無形民俗文化財になっている。手に手を取って輪になると聞くとまるでフォークダンスだなと思ったが、実際はどんな踊りなのであろう。
 女房と二人でよく注意して歩いていたが、案内書にあった「日永の一里塚跡の碑」は見過ごしてしまった。そうするうちに辺りに唯一残る東海道の松が右側に出て来た。すっくと立ち上がった姿のよい松である。(右写真)
 やがて旧東海道は左側から来る国道1号線に合流する。午前11時20分、合流地点の歩道橋に登ると150m先で旧東海道と伊勢街道が分かれる「日永の追分」の様子が良くわかる。(左下写真) 日永の追分はこの分れ道の三角地にある。かっては伊勢街道入口に道路を跨いで伊勢神宮の二の鳥居が立っていたが、道路拡張後、鳥居は三角地に取り込まれている。この三角地には石の大きな道標や大きな常夜灯(右下写真の右)、神宮遥拝所の石碑や湧き水などがあった。
 
 
 湧き水には先客が居て容器に水を汲んでいた。(右写真の左) 名水といわれる湧き水ではよく見られる風景である。こんな交通量の多い町中によく湧き水が残っていると思う。先客に美味しい水ですかと聞くと、有名ですよという。そばに水質検査の結果表が掲げてあった。あとから考えると湧き水ではなくて汲み上げ井戸だったかもしれない。
 日永の追分で右の道をとる。近鉄内部線を渡ってすぐ左に近鉄追分駅があった。いつの日か伊勢街道を歩こうと思っていたが、そのときはこの追分駅からスタートすればよい。記憶に留めておこうと思った。

 すぐに旧東海道は四日市市小古曽(おごそ)に入る。小古曽の集落で右側に観音寺がある。(左写真) このお寺の観音は養蚕観音といわれ、養蚕が盛んであった往時はお参りも多かったに違いない。
 観音寺の山門には鬼瓦の代りに「マカラ」を上げている。(左上写真の円内) このマカラはインドで龍のように神格化された想像上の動物である。マカラの形状には、魚の尾のようになっているものと尾が巻いて渦になっているものとの2種類があるという。ここのマカラは後者のようである。インドではこの魚とも獣ともつかない伝説上の怪獣が敵を防ぐ力を持つとされて、門や入り口に飾る習慣があるようだ。唐招提寺金堂の「鴟尾(しび)」や天守閣の「シャチホコ」も元は「マカラ」だという。特にシャチホコは尾が魚の尾になったものを起源としている。

 間もなく突き当たる内部川には旧東海道の延長上に橋が無い。少し南の国道1号線に出て内部橋を渡る。渡った右側、土手下の小公園に「内部川」を詠った和歌が三首、案内板で紹介されていた。
 旧東海道は国道1号線を南に渡って四日市市釆女町の国道の裏道を進む。やがて坂道に差し掛かる。(右写真) この坂を「杖衝坂」と呼ぶ。日本武尊は東征の帰途、急坂に差し掛かり、疲労のため御杖を突いて歩まれた。これではまるで敗残兵のようである。このあと日本武尊は鈴鹿山麓の能煩野に至り、病に倒れて亡くなる。

 杖衝坂の途中、左側の石垣の上に「史蹟 杖衝坂」の石碑があった。(左写真) それに並んで鉄の蓋がされた二つの井戸と芭蕉句碑一基及び永代常夜燈があった。(右下写真)
 杖衝坂の芭蕉句碑(右写真の右)に刻まれた句を調べたところ、その句には前書が付いていた。そういえばこの句には季語がないという。俳聖に掛かれば季語の無い句も名句になる。

「桑名より食はで来ぬれば」といふ日永の里より馬借りて杖突坂上るほど、荷鞍うち返りて馬より落ちぬ

歩行ならば 杖突坂を 落馬哉     

 ※ 「桑名より食はで来ぬれば」は、「桑名より食はで来ぬれば星川の朝明は過ぎぬ日永なりけり」の俗歌の上の句だという。
 
 杖衝坂を上りきった所に日本武尊の足の血を拭ったと伝わる「血塚」も残っている。(左写真) 「日本武尊御血塚」の石碑(左写真の右)が建ち、入口には鳥居に「血塚社」の額が掛かっていた。

 再び国道1号線に出る。北西方向に展望が開けて、ゴルフ練習場の向うに雪を頂いた鈴鹿山系が見えた。(右写真) すでに午後0時30分を回っていたので、国道端の「どさん子」というラーメン屋に入った。

 国道1号線を鈴鹿市に入った所で、旧東海道は一度国道南に逸れ、小谷、大谷の集落を抜け、再び国道に出る。出た所に国道1号線の405キロポストがあった。いよいよ400キロを越えた。すぐに旧東海道は国道西側の石薬師宿に入って行く。

 
 国道一号線から右手の石薬師宿に入る入口左手に「北町の地蔵堂」がある。(左写真)
 石薬師宿に入ってすぐの民家の塀に焼物で焼いて作った広重の五十三次の石薬師が飾られていた。(右写真) 一本の道の先に石薬師寺が描かれ寺の背後の山は今はない鷹飛山という。焼物はジグソーパズルのように幾つかに分けて焼いたようだ。

 そのすぐ先の右側には連子格子の美しい人家の前に「小沢本陣阯」の石標が立っていた。(左写真)
 午後1時56分、石薬師宿の中央辺り、石薬師小学校の前の街道沿いに、歌人の佐佐木信綱の生家がある。(右下写真) 生家の右隣には翁が還暦のとき石薬師文庫として村に寄贈されたもので、現在も図書館として利用されている。石薬師文庫の前庭に石碑が建っている。碑面には次のように書かれている。

これのふぐら よき文庫たれ 故郷の さと人のために 若人のために   信綱
           ※「ふぐら」は文庫

 生家の入口横には新しい歌碑が建っていた。(右写真の左)

目とづれば ここに家ありき 奥の間の 机のもとに 常よりし父   信綱 (幸綱書)

 「幸綱」は歌人佐佐木幸綱氏(1938〜早大大学院国文科卒)で信綱の孫にあたる。

 生家の左隣には「佐佐木信綱資料館」が開館していた。
 館内見学後、係員にことわり中庭に出て隣の佐佐木信綱の生家を見学する。屋内には板戸で囲まれた畳の部屋が幾つか見えた。
 裏庭に回ると「佐佐木信綱先生 産湯の井戸」と案内板のある井戸があり、また「うの花 学名うつぎ」の一株もあった。(右写真) 卯の花といえば、佐佐木信綱作詞の「夏はきぬ」は誰もが知っている唱歌である。

卯(う)の花の 匂う垣根に 時鳥(ほととぎす)早も来鳴きて 忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ

 佐佐木信綱は故郷の庭の卯の花を思い出してこの歌を作詞したという。

 資料館を出ると前に石薬師宿の案内板があった。
 やがて旧街道はやや上り坂になり、瑠璃光橋と名付けられた橋を渡る。(左写真) 金色の擬宝珠のある欄干は薄いブルーに塗られていた。瑠璃光橋の下は川ではなくて国道1号線であった。

 瑠璃光橋を渡ってすぐ、道路から右下に少し下った先に石薬師寺の門があった。(右写真) 後で気づいたがこの門は裏門だったようだ。門を入るとさらに下って本堂の左手に出た。石薬師寺は正式には「高富山 瑠璃光院 石薬師寺」という。瑠璃光橋はこの瑠璃光院から出ているのだろう。

 石薬師寺は寺伝によると、奈良時代の神亀三年(726)、白山の開創者と伝わる泰澄と云う高僧がこの地に来た時に、森の中の大地鳴動巨石が現れ、霊感を得て堂を建て薬師如来を祀られたと伝わる。
 さらに弘仁六年(815)、弘法大師42歳の厄年に自ら薬師如来像を刻んで開眼供養をされた。この薬師如来は男女厄除けに霊験あらたかで、噂は宮中にも達し、嵯峨天皇は勅願道場とされ、寺域一万坪の大寺に発展した。
 天正三年(1575)、織田信長によりすべての堂塔が焼失したが、慶長六年(1601)、神戸城主一柳監物直盛が再建し、広重の五十三次の石薬師で石薬師寺が画かれたことで、東海の厄除、石薬師如来として全国的に有名になった。

 本堂前には細い参道を残して、境内狭しと、石燈篭、狛犬、永代常夜燈、新しい弘法大師の銅像、焼香鉢、歌碑、句碑、御百度石、祠等々々が並ぶ。(左写真)

 一面の石碑には一休禅師作と伝わる歌が刻まれていた。この歌は石薬師寺の御詠歌となっている。

名も高き 誓いも重き 石薬師 瑠璃の光は あらたなりけり

 石薬師寺の参道を逆に抜けて正面の門から出た。出た所も旧東海道である。すぐに街道から東へ逸れて100mほど進んだところに小さな神社がある。「蒲冠者範頼之社」の石碑が建つ。源範頼を祀った神社である。(右写真)
 源範頼は源義朝の第六子として、遠江国池田宿の遊女を母として、遠江国蒲御厨(かばのみくりや)で生れたところから、蒲冠者あるいは蒲御曹司と呼ばれた。

 鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟として、治承四年、兄頼朝が源氏再興のために挙兵するや、頼朝のもとにはせ参じ、義経とともに平家追討の戦いに活躍した。平家滅亡後、頼朝に叛逆の疑いをかけられ、伊豆に下向し死んだという。義経と同じような運命をたどるが、華々しい義経の活躍に比べ、範頼については諸本の記述が少なく、見劣りする。

 寿永三年(1184)、範頼が平家追討のため、西へ向かう途中、石薬師寺に詣で武運を祈願した。戦運を占うために、鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに刺して、「我が願い叶いなば、汝地に生きよ」といってこの地を去った。それが活着し生長したのが「石薬師寺の蒲ザクラ」である。

 御曹子社の境内にはシイノキの巨木があった。(左写真) 幹周り、樹高の記録はないが、これを「石薬師宿の巨木」としよう。

 御曹子社から60mほど南へ行った所に、「石薬師寺の蒲ザクラ」(三重県指定天然記念物)があった。(右写真) 「開花時は見事」と案内板にはあるが、現在の枝振りから開花時の様子を想像するのは難しい。
 「蒲ザクラ」として有名なものに、埼玉県の北本市東光寺の「石戸蒲桜」がある。寺伝によると、蒲冠者源範頼がこの地に配流されたとき、阿弥陀堂の庭に範頼が植えたという言い伝えから、蒲桜といわれている。一説には範頼が頼朝に追われ石戸の地に逃れて来たとき、杖にしていた桜の枝が根付いて蒲ザクラになったという。「石薬師の蒲ザクラ」と同じような伝説である。

 旧東海道は鈴鹿市上野町を抜けて、鈴鹿川の支川の蒲川を渡る。午後2時43分、渡ったすぐ左側に「石薬師の一里塚」があった。(左写真)
 「くたびれたやつが見つける一里塚」の川柳はかって浜名湖の北を行く東海道の脇街道「本坂道」を歩いたとき、気賀宿の先の峠を越えるとき「東山田一里塚跡」の案内板でお目にかかった。江戸時代の川柳集の「誹風柳多留」にある川柳だという。

 旧東海道はこの先はっきりしなくなるが、我々はJR関西本線のガードを南へ潜り、土手上の関西本線の下を沿ってしばらく歩いた。やがて国道1号線を潜って北側に出た後、最終的には鈴鹿川沿いの国道1号線に合流した。吹きさらしになると、前方からの西風が強まり前屈みの帽子を抑えての歩行となる。風が冷たく、何時の間にか晴天であった空に、鈴鹿山系を越えてきた雪雲の名残が覆い始めている。

 鈴鹿川を左に見て国道1号線を20分余り歩いて、土手下に日本コンクリート工業を見て、それを越した先で右折し、150mほど行った先が庄野宿の入口となる。入口角に「東海道 庄野宿」の新しい石柱と案内板があった。(右写真)
 庄野宿は宿場町の雰囲気を残した町並みで(左写真)資料館もあるらしい。時間はまだ3時を回ったばかりで早いが、この先のJRの井田川駅までは3キロほどある。折から空から細かい雨粒が落ちてきた。夏と冬の季節は違うが広重の描くところの「庄野の白雨」である。戦意喪失して「今日はここまでにして加佐登駅に戻ろう」と女房に話す。

 きびすを返すとはるか向うに今朝ほどのオバサングループの姿が見えた。石薬師の一里塚からここまでの途中に後方にその姿をチラチラ見ており、昼食時に追い越していたのだろうと思っていたが、引返す場面のここで出会うのはバツが悪い。そこで右にあった善照寺の境内に休憩を装って逃げ込んだ。

 きれいに手入れされた境内でお茶を飲んでいると、かのグループが入ってきた。何のことはない、我々が立寄るのを見て、何かあるのだろうと入ってきたようだ。自ら呼び込んでしまった。仕方なく、今日はここまでとして引返すのだと話す。おばさん達は東京の人で、我々と同じ2年前、日本橋を出発してここまできた。日帰りではなくて一泊二日の東海道歩きを繰り返してきたという。今日は井田川駅まで歩き、亀山に泊って、明日は亀山から関宿を行くのだという。京都三条大橋には我々と同じ頃に着くことになるだろう。飴玉を振舞われ、健闘を祈って分かれる。50代から60代のおばさんたちで意気軒昂に出発した行った。

 日本コンクリート工業の脇を通り、加佐登駅に午後3時42分に着いて、一時間1本の電車にほとんど待たずに乗った。今回の歩数は 30,357歩であった。







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