



前回は雨模様を言い訳にして時間を残して終った。風が強くて寒くて、気が萎えてしまった。今日はお天気も良く暖かくて気持良く歩けそうである。しかし、出発が遅れてJR関西本線加佐登駅に着いたのは午前10時22分であった。
前回見た庄野宿入口の標識を見て宿内に入る。前回は今にも雨が来そうであった町並みに、今朝は春の日差しがさしている。(左写真)
庄野宿本陣跡も右側にあり、鉄骨モルタルの「庄野集会所」(公民館?)になっていた。(左写真)
間もなく右側に川俣神社がある。(右写真) 「あれっ!ここは来たことがある。」 玉垣に狭められた入口辺り。境内の東側にある木造アパートにも見覚えがある。そして本殿に進むと右手に記憶通りのスタジイの巨木があった。(左写真)
人家の外れる辺りの右側に、山ノ神の石碑と石灯籠、それに茶色の領界石が立っていた。(右写真) 領界石は二面に「従是東神戸領」と刻まれているが、しばらく他の目的に使用されていたらしく、二か所に溝が刻まれて、一面の「是」と一面の「領」の字が刻まれた溝で欠けていた。(右写真の左) 最近、再発見して再建したものであろう。
女人堤防には次のような言い伝えが残っている。
間もなく旧東海道は中冨田町に入る。中冨田は亀山領の東端にあり、隣の神戸領と境界を接する村であった。中冨田の川俣神社前に玉垣で囲われて、「従是西亀山領」と刻まれた領界石と、「史蹟 中冨田一里塚跡」の真新しい石碑が並んでいた。(左写真)
「史蹟 中冨田一里塚跡」碑の台石として、昭和十年六月竣功の旧和泉橋の橋柱が使われていた。和泉橋は鈴鹿川に合流する600mほど手前の安楽川に架かっている橋である。旧和泉橋の残り3つの橋柱は、この後、安楽川のほとりの西冨田の川俣神社境内に一つ(右写真の左)、和泉橋を渡った対岸の和泉町公民館前に一つ(右写真の中)、その先の地福寺の境内に一つ(右写真の右)あった。
安楽川の土手の手前に川俣神社がある。「スダジイの川俣神社」「一里塚の川俣神社」に続いて、立て続けに三つ目の「川俣神社」である。鈴鹿川と安楽川の合流する地点の「川俣」に由来している神社なら、水防の神様を祀っているのであろう。
午前11時50分、春の日が溢れる土手に出る。お昼の休憩をとり、持参したパンなどを食べた。快晴の空はうらうらとまことに気持ちよい天気である。右の写真は対岸から振り返って、春日を受ける安楽川と和泉橋を撮ったもので、休憩は対岸の橋端近くの土手でとった。
和泉橋を渡った土手下に和泉町公民館がある。そばに赤いべべを着たお地蔵さんがブロック製の祠に安置されていた。(左写真) 野仏に赤いよだれかけを付けたり、着物を着せたり、大切にしたい気持ちは判るが、石仏がどんな意匠であるのか、拝みたい自分にとっては大変迷惑な流行である。
「古事記」によると日本武尊と能褒野について次のように書かれている。
6分ほど歩いて、一段高い地福寺の境内に、前述した「旧和泉橋の橋柱」と並んで、「明治天皇御小休所」の碑があった。(左写真)
国道1号線を越えて川合町に入る。鈴鹿川の支流の椋川を渡った先の右側に、街道ではお馴染みの「ひげ題目」の碑があった。(右写真) これは「東海道刑場供養塔」として建てられたものである。
東海道刑場供養塔の少し先、和田町に入り、午後0時48分、旧東海道が細い横道を別ける角に、鉄枠にはまった「和田の道標」が立っていた。(左写真) 三百年前の元禄年間に立てられた古いものである。
さらに和田町を西進すると街道右側に「和田一里塚」が復元されていた。(右写真) 大きさも昔をしのぶ立派なもので、植えられた榎もすでに風格をそなえつつあった。一里塚の根元は石垣が積まれている。昔も一里塚の根元に石垣が積んであったかどうかは別にして、どうせ積むなら石垣を昔の積み方で再現してみるのも面白かったと思うがいかがであろうか。(後刻、昔の石垣の残る亀山城跡を見学したが、欠しい材料を組み合わせ素晴らしい石垣が積み上げられていた)
すぐ先の右折する道にゲートのように能褒野神社の石の鳥居があった。(左写真) この鳥居を潜って3kmほど北へ進むと、安楽川を渡った所に日本武尊能褒野墓があり、それに隣接して日本武尊や弟橘姫命を祀る能褒野神社がある。
このあと、旧東海道は亀山の市街、本町に入っていく。前方、古い家並みの上に突き抜けて、天守閣風の建物が見えてきた。近付いてみると、「衣城しもむら」の店舗であった。(右写真) 呉服屋さんであろうか。
亀山宿は西は京口門(市ヶ坂町)から、東は江戸口門を通り過ぎて露心庵(本町四丁目)までを宿内とし、西町と東町に分かれていた。東西両町に各々伝馬の取継ぎを行う問屋場を置き、半月ごとに業務を交替していたという。本陣(樋口家)と脇本陣(椿屋)は東町の大手門付近に1軒ずつあった。
現在、町並み保存の努力がされているようで、各戸に「屋号札」が掲示されていた。(左写真) 「屋号札の掲示」について案内板があった。
やがて亀山城大手門跡の角を左折して東丸町を進む。このあたりは道が狭く、道路は薄茶色の特殊な舗装がなされている。昔の土の街道を模したものであろう。古い町屋や商家もある。(右写真)
坂を登っていくと右手に広い池、左手に亀山城址の直立するような石垣が見える。石垣の上には亀山城址で唯一残る建物の「多門櫓」がのっている。広い池は堀の一部であろう。堀の辺に「石井兄弟敵討跡」の石碑が建っていた。(左写真)
道路東側には下の亀山中学校のグラウンドから急角度の石垣が積み上がっている。美しい石垣である。(右写真)
幼児を連れた家族ずれが多く遊ぶ、亀山城跡に附属している「マスミ公園」でトイレを借り、すっきりした気持ちで亀山城址を見学した。
「亀山演武場」のそばに「史蹟明治天皇亀山行在所遺構 三重県」と刻まれた石柱が立っていた。石垣の上に登って柵もない石垣の直下を見下ろす。(右写真) かって山登りを趣味にしていながら、高所恐怖症であった。足が竦み、女房が平気で覗き込んでいるのすら恐ろしい。



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