第 30 回 〔前半〕
  平成15年3月21日(金) 
 快晴風なく暖かし
 庄野宿−女人堤防−亀山宿−亀山城跡−
 “美談 女人堤防は八百長だった?”



 昨日正午過ぎ、会社の昼休みにテレビを見ていたら、アメリカがイラク攻撃を開始したというテロップが流れた。会議中のフセイン政権の幹部を狙った限定的なものという。フセイン大統領とその息子たちに48時間以内の国外退去という最後通告を出していたから開戦を驚くには当たらないが、不況下の戦争が世界経済にどのような影響を与えるか心配である。始まってしまった以上は一日も早い終結を望むものである。

 こんな時に東海道歩きなどと、またまた言い訳になるが、もともと計画していたことなので出かける。思い返すと、ニューヨークの同時多発テロの時も、アフガニスタンのタリバン空爆の時も一週間後に東海道歩きをしている。それが今度は次の日である。念のため小さいラジオをリュックに入れて出かける。

 前回は雨模様を言い訳にして時間を残して終った。風が強くて寒くて、気が萎えてしまった。今日はお天気も良く暖かくて気持良く歩けそうである。しかし、出発が遅れてJR関西本線加佐登駅に着いたのは午前10時22分であった。

 駅で駅員に何かを聞いていたおじさんがいた。そのウォーキング姿のおじさんを前方の視野にとらえながら、前回戻った日本コンクリート工業脇の道を進む。

 前回見た庄野宿入口の標識を見て宿内に入る。前回は今にも雨が来そうであった町並みに、今朝は春の日差しがさしている。(左写真)

 善照寺を左手に見て、やがて左手に「庄野宿資料館」の旧小林家住宅があった。(右写真) 「あれ!今日は休館日だ」 入り口右手に案内板があり、「開館時間午前十時〜午後四時 休館日月・金曜日 入館料 無料」と書かれていた。今日はあいにく春分の日の金曜日である。未練げに潜り戸に手を掛けてみるが、もちろん開くはずはない。庄野宿資料館には地元に残る庄野宿本陣・脇本陣文書、宿駅関係資料などが展示されているらしいが残念である。そばに広重の五十三次の「庄野の白雨」の絵が看板になっていた。絵の案内に「鈴鹿市。坂にかかって、にわかの夕立。はげしくゆれる竹薮が、三層に表現されて躍動する」とある。

 問屋場跡の案内板は街道右側の民家の壁にあった。
 庄野宿本陣跡も右側にあり、鉄骨モルタルの「庄野集会所」(公民館?)になっていた。(左写真)
 集会所の前には「距津市元標九里拾九町」と刻まれた新しい石柱が立っていた。三重県ではお馴染みの石柱であるが、これは最近再建されたもののようだ。

 さらに右側の角に高札場跡の案内板があり、その角の民家には脇本陣跡の案内板があった。
 先を進んで行ったおじさんが戻ってきて、「何にもない」と我々に呟くように言ってすれ違った。こんなに見るべきところがあるのに、このおじさんは何が目的でこの宿場町に降りたのであろう。

 すぐ先にこれも民家に郷会所跡の案内板があった。
 間もなく右側に川俣神社がある。(右写真) 「あれっ!ここは来たことがある。」 玉垣に狭められた入口辺り。境内の東側にある木造アパートにも見覚えがある。そして本殿に進むと右手に記憶通りのスタジイの巨木があった。(左写真)
 「巨木巡礼」で来たのは、3年前の5月であった。幹周囲 5.78m、樹高 12m、樹齢 300年と記録している。「巨木巡礼」には次のように書いている。

 周りを囲んだ白いペンキの塗られた柵が右へ傾いて、木が傾いているように見える。注連縄の張られた幹は太くごつごつはしていたが、若々しく見えた。

 このスダジイは三年前より樹叢を小さくしている。確かこの三年の間に風の強い台風があったと聞いたような気がする。かなり上部の枝が痛んだようである。また白い柵はまっすぐに直され、その外側に新しくスダジイの根元を保護する縄張りがされていた。この木を文句なく「庄野宿の巨木」としよう。

 5分ほど進んだ午前10時59分、四つ角に庄野宿の入口にあったと同じ「東海道 庄野宿」の新しい石柱を見つけた。庄野宿は30分かからずにあっさりと通り過ぎてしまった。

 間もなく旧東海道は国道一号線に出会う。一号線のガードを潜り、国道の南側に出て汲川原町を進む。前方に上下を黒で決めた若者が付き添いと共に地区の老人と立ち話をしていた。4月13日に統一地方選挙の三重県県会議員選挙がある。その候補者の事前挨拶であろうか。ただ若者の頭は今どきのナチュラルなヘアスタイルで決められていた。

 人家の外れる辺りの右側に、山ノ神の石碑と石灯籠、それに茶色の領界石が立っていた。(右写真) 領界石は二面に「従是東神戸領」と刻まれているが、しばらく他の目的に使用されていたらしく、二か所に溝が刻まれて、一面の「是」と一面の「領」の字が刻まれた溝で欠けていた。(右写真の左) 最近、再発見して再建したものであろう。

 左側にも同じ領界石が立っていた。これは色も灰色で傷の無い物である。この領界石の隣には「女人堤防」の大きな石碑が立っていた。(左下写真の左端)

 女人堤防には次のような言い伝えが残っている。
 
 鈴鹿川と安楽川の合流するあたりの左岸、汲川原ではしばしば水害に見舞われ、人命が失われることも多かった。村人たちは堤防を築くことを神戸藩に願い出たが、堤防を造ると対岸の城下町が水害に見舞われるようになるとして許可しなかった。「禁を破った者は打ち首」という。「男たちが打ち首になったのでは村が全滅する」と、村の女性たちが立ち上り、200人余の女性たちだけで工事をはじめた。6年かかって堤防は完成したが、やがて藩主の耳に入った。処刑者を出すところであったが、家老が身をもって諌めたため、女性たちに逆に金一封を送り功績を称えた。この堤防を人々は「女人堤防」と言い伝えた。今から180年ほど前の出来事である。

 現在、街道脇の女人堤防碑のそばから鈴鹿川に向けて延びる緑の廊下(左上写真)がその名残という。

 女人堤防の史料はほとんど残っていないというが、力仕事を要する堤防の築造に男たちが関わっていないはずは無いと思う。この言い伝えの裏には城下の住民と対岸の村人達の、治水上の争いがあったのではないか。城下の住民の手前、許可を出せなかった藩主。女性がやったことならお咎めも緩いだろうと、女性を名義人に工事をしてしまった村人。やってしまったものはしかたがないと、家老の諌めを簡単に受け入れて褒美まで出した藩主。どうも本音と立前を使い分けた八百長試合くさい。だいいち、堤防が完成するまでの6年間、堤防の築造の事実が藩主の耳に入らないわけが無い。入っていたなら即刻中止命令が出そうなものである。実は藩主は村人達の難儀をよく理解していたから見逃してきたのではなかったか。こっちの話の方が人間味に溢れているし、本当らしいと思う。

 間もなく旧東海道は中冨田町に入る。中冨田は亀山領の東端にあり、隣の神戸領と境界を接する村であった。中冨田の川俣神社前に玉垣で囲われて、「従是西亀山領」と刻まれた領界石と、「史蹟 中冨田一里塚跡」の真新しい石碑が並んでいた。(左写真)
 「史蹟 中冨田一里塚跡」碑の台石として、昭和十年六月竣功の旧和泉橋の橋柱が使われていた。和泉橋は鈴鹿川に合流する600mほど手前の安楽川に架かっている橋である。旧和泉橋の残り3つの橋柱は、この後、安楽川のほとりの西冨田の川俣神社境内に一つ(右写真の左)、和泉橋を渡った対岸の和泉町公民館前に一つ(右写真の中)、その先の地福寺の境内に一つ(右写真の右)あった。

 安楽川の土手の手前に川俣神社がある。「スダジイの川俣神社」「一里塚の川俣神社」に続いて、立て続けに三つ目の「川俣神社」である。鈴鹿川と安楽川の合流する地点の「川俣」に由来している神社なら、水防の神様を祀っているのであろう。

 境内に入ると右側の土手の下に、「無上冷水井跡」「二等水準点」「北緯34度52分14秒 東経136度30分25秒」などの標柱が立っていた。(左写真)

 14世紀より鈴鹿を治めた神戸氏は永禄10年(1567)と翌年に織田信長に侵攻を受け、信長の三男信孝を養子とすることで和睦した。元亀2年(1571)城主となった信孝は神戸城を拡張整備するとともに、楽市楽座や伝馬制を定めるなどの政策を行った。信孝は天正10年(1582)に本能寺で織田信長が討たれるまで神戸城主であった。「無上冷水井」は神戸城主織田信孝が愛飲したと言われる井戸というが、現在は残っていない。

 午前11時50分、春の日が溢れる土手に出る。お昼の休憩をとり、持参したパンなどを食べた。快晴の空はうらうらとまことに気持ちよい天気である。右の写真は対岸から振り返って、春日を受ける安楽川と和泉橋を撮ったもので、休憩は対岸の橋端近くの土手でとった。

 和泉橋を渡った土手下に和泉町公民館がある。そばに赤いべべを着たお地蔵さんがブロック製の祠に安置されていた。(左写真) 野仏に赤いよだれかけを付けたり、着物を着せたり、大切にしたい気持ちは判るが、石仏がどんな意匠であるのか、拝みたい自分にとっては大変迷惑な流行である。

 少し進んだ右へ別ける三叉路の角に「右のぼ」と刻まれた石標があった。(右下写真) たぶん「の」が一文字、アスファルトの下に隠れているようだ。右に進むと能褒野(のぼの)に至る道である。

 「古事記」によると日本武尊と能褒野について次のように書かれている。
(日本武尊が)能褒野に到りましし時に、国を思(しの)びて、歌ひたまひしく、
倭は 国のまほろば/ たたなづく 青垣 山隠(やまごも)れる/ 倭しうるはし


 有名な歌である。日本武尊は望郷の思いの中、やがてこの地で薨(みまか)られた。日本武尊の墓は、この近辺に三ヶ所の説あるが、その一つの「日本武尊能褒野墓」がこの石標の先にある。

 6分ほど歩いて、一段高い地福寺の境内に、前述した「旧和泉橋の橋柱」と並んで、「明治天皇御小休所」の碑があった。(左写真)

 間もなく鈴鹿市から亀山市井田川町に入り、JR関西本線 井田川駅前を過ぎたあたりに、「亀山宿・江戸の道(旧東海道)」の案内板があった。その案内板に日本武尊能褒野墓の案内もあった。
 国道1号線を越えて川合町に入る。鈴鹿川の支流の椋川を渡った先の右側に、街道ではお馴染みの「ひげ題目」の碑があった。(右写真) これは「東海道刑場供養塔」として建てられたものである。
 東海道刑場供養塔の少し先、和田町に入り、午後0時48分、旧東海道が細い横道を別ける角に、鉄枠にはまった「和田の道標」が立っていた。(左写真) 三百年前の元禄年間に立てられた古いものである。
 さらに和田町を西進すると街道右側に「和田一里塚」が復元されていた。(右写真) 大きさも昔をしのぶ立派なもので、植えられた榎もすでに風格をそなえつつあった。一里塚の根元は石垣が積まれている。昔も一里塚の根元に石垣が積んであったかどうかは別にして、どうせ積むなら石垣を昔の積み方で再現してみるのも面白かったと思うがいかがであろうか。(後刻、昔の石垣の残る亀山城跡を見学したが、欠しい材料を組み合わせ素晴らしい石垣が積み上げられていた)
 亀山といえばカメヤマローソクという言葉が浮かぶ。カメヤマローソクさんのホームページを覗くと、昭和の初め、伊勢神宮の宮大工の棟梁だった初代社長 谷川兵三郎氏が引退後も何か神様につながる仕事をしたいと願い、ローソク会社を興したという。
 初めは神仏用の洋ローソクの会社だったが、昭和12年にアートキャンドルを始め、海外へも輸出、世界にカメヤマキャンドルの名を広めた。結婚式などでお馴染みのスパイラル型のキャンドルなどはこの頃この会社で開発されたものだという。
 宮大工からローソク造りへの発想もすごいが、引退後の仕事で世界的な企業になってしまうというのもすさまじい。

 旧東海道の左手にそのカメヤマローソクの工場があった。お店があれば寄って行こうと思ったが、店らしきものはなかった。

 すぐ先の右折する道にゲートのように能褒野神社の石の鳥居があった。(左写真) この鳥居を潜って3kmほど北へ進むと、安楽川を渡った所に日本武尊能褒野墓があり、それに隣接して日本武尊や弟橘姫命を祀る能褒野神社がある。

 続いて右側に 「史跡 露心庵(友松庵)跡」 の標柱が立っていた。亀山宿の東端に位置する寺院で、露心法師が建立したお寺の跡である。露心法師はもと桑名藩の武士であったが、仏門に入り、古戦場であった松林のこの地に、亀山城主に願って、友松庵というお寺を建て、戦死者の供養をした。その後、友松庵は、露心法師にちなみ、露心庵と呼ばれたという。

 このあと、旧東海道は亀山の市街、本町に入っていく。前方、古い家並みの上に突き抜けて、天守閣風の建物が見えてきた。近付いてみると、「衣城しもむら」の店舗であった。(右写真) 呉服屋さんであろうか。

 狭い道が緩やかに南に90度カーブし、午後1時30分、広い道に出た。その角に「江戸口門跡」の案内板があった。(左下写真)

 
 亀山市教育委員会の案内板によると、
 江戸口門跡  延宝元年(1673)、亀山城主板倉重常によって築かれた。
 東西百二十メートル、南北七十メートルで、北側と東側に堀を巡らし、土塁と土塁で囲まれた曲輪を形成し、東端には平櫓が一基築かれていた。曲輪内は3つに区画され、それぞれが枡形となっていた。この築造には領内の村々に石高に応じて人足が割り当てられ、総計二万人が動員されている。
 西側の区画には番所がおかれ、通行人の監視や警固にあたっていた。ただ、江戸時代前期においてはこの位置が亀山城下の東端と認識されていたことから、江戸口門は東海道の番所としてではなく、城下西端の京口門とともに、亀山城惣構の城門と位置づけることができよう。
 現在は往時の状況を示す遺構は存在しないが、地形や地割、ほぼ直角に屈曲した街路にその名残をとどめている。


 亀山宿は西は京口門(市ヶ坂町)から、東は江戸口門を通り過ぎて露心庵(本町四丁目)までを宿内とし、西町と東町に分かれていた。東西両町に各々伝馬の取継ぎを行う問屋場を置き、半月ごとに業務を交替していたという。本陣(樋口家)と脇本陣(椿屋)は東町の大手門付近に1軒ずつあった。
 旧東海道はこの江戸口門跡の角を右折し、東町の商店街を西へ進む。亀山には縁があって何度か来ている。そしてこの商店街の店舗の壁が白く統一されているのに気が付いていた。特徴のある街造りをしていると注目していた。(右写真)

 白い壁は地中海をバックにした南フランスの白壁でもイメージしたのであろうか。ここが旧東海道筋であり、いつか東海道のブームが来るとは想像出来なかったのであろう。

 現在、町並み保存の努力がされているようで、各戸に「屋号札」が掲示されていた。(左写真) 「屋号札の掲示」について案内板があった。
 やがて亀山城大手門跡の角を左折して東丸町を進む。このあたりは道が狭く、道路は薄茶色の特殊な舗装がなされている。昔の土の街道を模したものであろう。古い町屋や商家もある。(右写真)

 亀山城から下ってくる広い道に出て、旧東海道はその道を横切り高台に続く。しかし、女房のリクエストに応え、トイレも借りようと、亀山城址に道草した。

 坂を登っていくと右手に広い池、左手に亀山城址の直立するような石垣が見える。石垣の上には亀山城址で唯一残る建物の「多門櫓」がのっている。広い池は堀の一部であろう。堀の辺に「石井兄弟敵討跡」の石碑が建っていた。(左写真)
 すぐそばの道路右に、「亀山城石坂門跡」の標柱があった。かってこの道路上に亀山城の枡形と門があったようだ。
 道路東側には下の亀山中学校のグラウンドから急角度の石垣が積み上がっている。美しい石垣である。(右写真)
 幼児を連れた家族ずれが多く遊ぶ、亀山城跡に附属している「マスミ公園」でトイレを借り、すっきりした気持ちで亀山城址を見学した。

 小さな「大久保神官邸宅門」を潜ると「亀山演武場」の木造家屋があった。(左写真) 心形刀流の道場であったと言う。(後刻、関宿で知った「関の小万」が通った亀山の道場はここであったかと思ったが、小万が通ったのは亀山演武場の出来る80年ほど前であった)
 「亀山演武場」のそばに「史蹟明治天皇亀山行在所遺構 三重県」と刻まれた石柱が立っていた。石垣の上に登って柵もない石垣の直下を見下ろす。(右写真) かって山登りを趣味にしていながら、高所恐怖症であった。足が竦み、女房が平気で覗き込んでいるのすら恐ろしい。

 女房をうながして引返す。道路に出た所に「二之丸御殿跡」の案内板があった。
 登って来た池沿いの道を引返し、午後2時10分、旧東海道に戻った。










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