第 31 回 〔前半〕
  平成15年4月13日(日) 
 くもりのち晴れ
 関宿−筆捨山−坂下宿−鈴鹿峠−鏡岩−
 “♪筆捨過ぎて坂下へ/空腹抱え鈴鹿越え”



 日本時間で4月10日、イラク戦争で米軍が首都バグダッドを制圧し、事実上フセイン体制は崩壊した。実にイラク戦争21日目の思いのほか早い終結であった。

 10日の夜、パレスチナホテル前の広場で米兵と市民がフセイン大統領の銅像を倒す映像が放映された。米兵も市民もいかにも放映を意識したという行動に、作為を感じる映像であったが、とにかく戦争は終ってよかった。フセイン体制が終えんを迎えたことは良かったのかもしれないが、これから中東でのアメリカの発言権がいよいよ増すのであろう。それはそれで鬱陶しいことである。

 昨夜は名古屋の娘のアパートに泊る。東の箱根とは規模こそ違うが、難所といわれた鈴鹿峠越えを実行するにあたり、今までと少し違う緊張感がある。どのくらいの規模の峠なのか見当がつかない。それで出発点に少しでも早く着くために名古屋前泊とした。

 
 午前9時10分、JR関西本線関駅には旧東海道歩きと思われる団体が集まっていた。彼らは今日はどこまで歩いて行くのであろうか。団体は団体で良いところもあるが、我々は集団行動は苦手である。団体を横目に関宿へ向う。静岡では桜の季節もほとんど終っているが、この辺りの桜は今が盛りらしく、駅前の1本の桜は満開であった。

 駅から国道の歩道橋を渡り、まっすぐ北へ進んで関宿の旧東海道に戻った。すぐ右手に「山石」という食事処がある。(左写真) 1階庇に漆喰で造られた唐獅子の彫刻があった。ピンク色でよく目立った。(左写真の円内) 前回「関まちなみ資料館」でもらったイラスト案内図では、唐獅子を虎と紹介してあった。失礼ながらどう見ても少なくとも虎には見えない。「山石」の反対側には目立たないが竜の漆喰彫刻があり、同案内図によれば漆喰彫刻は他にも幾つかあるようだ。
 午前9時26分、西へ歩いて関地蔵院に至る。(右写真) 前回はここで終わりにした。前回から20日経って、蕾の固かった関地蔵院の桜も今朝は満開である。地蔵院の裏には高い樹叢が見える。まだ関宿の巨木を見つけていなかったことに気付き、あの樹叢の中に巨木があるかもしれないと、裏へ出る横丁を探しながら、先へ進む。

 復元中の町屋が一軒あった。瓦を屋根に上げるためトラックが横付けされていて、青いシートの内側の復元中の様子が見えた。(左写真) 新しい材料を使って二階の格子や幕板などが作られていた。この後新しい材料の部分は古色に仕上塗装されるのであろう。復元中の家屋の左側に半分ほど写っている家はかって火縄を商っていた松葉屋という店だったという。
 松葉屋の向いに同じ苗字の田中家がある。(右写真) 案内板があった。
 
 少し先に関地蔵院の裏手に森に回る道を見つけ、ぐるりと回り込む。正式な道は無かったが、森の中へ入ってみた。女房は着いてこなかった。森の中は薄暗く五輪塔が立ち並び、何本か大木もあった。左写真はエノキであろうか。詳しいことは判らないが、この森の代表として「関宿の巨木」にしよう。

 この関地蔵院裏の森に予想外の物を見つけた。「蝦夷桜」の歌碑である。(右下写真)

 案内板によると、
 蝦夷桜  往古蝦夷の人、桜の枝を杖に当寺に参詣の砌り、杖を此の処に突きさして帰ったが、不思議やその杖に根を生じ開花繁茂するに至った。
 碑は中納言藤原定家郷、勅使の供として当寺参詣の節、此の桜を詠める歌である。
蝦夷過ぎぬ これや鈴鹿の 関ならん ふりすてがたき 花のかげかな

 「東海道名所図会」によると、関地蔵院の裏手に確かに「えぞ桜」が大きく描かれており、以下の記載がある。

 恵蘇桜 宿中民家の前栽にあり。むかしの街道筋にして、岨(そば)を通りしなり。この近隣井口氏の家に蝦夷桜という名酒を商う。蝦夷は謬(あやま)りならん。
〔新後撰集〕 えぞ過ぎぬ これやすゞかの 関ならん ふり捨てがたき 花の陰かな   定家

 この森には反対側から入れるらしく、道が下っていた。あまり人が入っている様子が感じられず、もしかすると立ち入り禁止になっていたのかもしれない。ともあれ誰に咎められることも無く、元の道に戻る。
 (後日、ネットで調べたところ、森だと思ったのは関の地蔵院庭園の背後の築山で、山上に蝦夷桜があると書かれていた。しかもその庭園には入園料を払って入るのだという。知らないこととはいえ、失礼しました。そうと知って蝦夷桜の歌碑の写真をよく見ると、石碑の周りの地面の白い点々は桜の花びらではないか? とすれば近くに蝦夷桜(多分何代目かの)があるはずである。次に訪れたときは表から入園料を払って「蝦夷桜」をこの目で確かめよう。)

 関宿新所の町並みを西追分に向って進む。(左写真) 左側に西追分の休憩施設があり、国道1号線と再合流する三角地に、桜の花に囲まれて題目碑を兼ねた追分の石柱があった。(右写真) 「南無妙法蓮華経」の下に「ひたりハいか やまとみち(左は伊賀、大和道)」と刻まれている。この道標は京都三条の谷口長右衛門が建てたと言われる。

 ここから別れる大和街道は加太(かぶと)越道と呼ばれ、加太、柘植、佐那具、上野と進み、島ヶ原から大和へ抜ける道である。かって壬申の乱(672)の時、大海人皇子も通ったといわれている古い道である。

 午前10時6分、関宿を出て旧東海道はしばらく国道1号線と重なる。鈴鹿川に架かる市ノ瀬橋の手前で国道から右手に別れ市ノ瀬の集落に入った。鈴鹿川を渡り右岸に出て国道を横切った西願寺前に時代を十分感じさせる自然石の常夜灯があった。(左写真)

 再び国道1号線に出て、旧東海道は右手に鈴鹿川の深い谷を見ながら少しずつ登って行く。途中に東京より427kmを示すポストがあった。

 午前10時36分、鈴鹿川に沿って大きくカーブする辺りの横道の入り口に「名勝 筆捨山」の石柱があった。(右写真の右) その前方、鈴鹿川の対岸に見える山が「筆捨山」である。(右写真の左)

 「筆捨山」については「東海道名所図会」には次のように記されている。

 一の瀬川の辺にあり。海道の左の方は、麓に八十瀬川を帯びて、山頭まで所々に巌あり。その間々みな古松にして、枝葉屈曲にして作り松のごとし。本名は岩根山という。里諺にいわく、狩野古法眼(狩野元信)東国通行の時、この山の風景を画にうつしてやと筆をとるに、こころに逮(およ)ばず、山間に筆を捨てしとぞ。

 「図会」では「狩野家さえ 筆を捨てたる 所をば 拾ふて図する 無法眼なり」と書いて岩の露な山を描いている。現在は山は樹木で覆われ岩根山の面影はない。

 沓掛に入って旧東海道は再び国道から右へ別れる。この後鈴鹿川は東海道の左側になる。街道左側にショウジョウバカマのピンクの花を見た。(左写真) 静岡では早春に見る花である。季節の進行が随分遅い。

 午前10時36分、五角形と三角形を組み合わせたドーム状の鈴鹿馬子唄会館についた。今日は三重県知事選挙で馬子唄会館は地元の投票所になっていた。それでも入った展示ホールの見学は出来た。

 正面の壁に馬子唄が書かれていた。改めて読むと九番あるうち、五つに関の小万が唄われていた。関の小万は馬子たちに人気のキャラクターだったのだろう。あるいは関の小万の居た時代と馬子唄が出来た時代が同じ時代だったのだろうか。
 馬子唄会館を出ると間もなく坂下宿に入る。今は茶畑の見える集落で往時をしのぶのは、本陣などの跡を示す石標だけであった。

 左側の坂下集会所前に「松屋本陣跡」(左写真の左上)、同じ並びに、茶畑に「大竹屋本陣跡」(左写真の左下)と「梅屋本陣跡」(左写真の右上)、中橋を渡った右側の柵で囲われた農地の前に「小竹屋脇本陣跡」(左写真の右下)のそれぞれ石標があった。

 本陣・脇本陣で松竹梅が揃ってめでたい。「大竹屋」「小竹屋」は馬子唄で唄われた「大竹小竹」であろう。「宿がとりたや小竹屋に」には、「大竹屋本陣では畏れ多い。せめて脇本陣の小竹屋に泊って贅沢してみたい」という微妙な気持ちが顕れていて面白い。

 坂下宿はかっては文字通り鈴鹿峠の坂下にあった。今の坂下から西へ1kmほど行った、片山神社の西側辺りという。慶安3年(1650)の水害で潰滅し、その後今の場所に移された。今は寂れた集落であるが、本陣が3軒、脇本陣1軒あると聞くと大きい宿場である。鈴鹿峠の難所のそばで往時は賑ったことであろう。

 坂下宿で唯一目に付いた往時のものとしては路傍の祠の石の地蔵さんであった。「身代地蔵尊」と書かれていた。(右写真) これは「身代わり地蔵」と読むのであろう。人々に代わって辛苦を受け、身代わりになってくれるお地蔵さんである。

 
 坂下宿を抜けて旧東海道は国道1号線に合流する地点で山道入る。午前11時48分、いよいよ鈴鹿峠越えの道に入る。(左写真) 昨夜名古屋の娘のアパートに泊り、今朝、「おむすびを」というのを途中で買うからと断って来た。ところが途中食料を買いそびれてしまった。登り口で腹ごしらえと思ったが、家から持参のお菓子と甘夏で誤魔化すしかなかった。すぐそばに「滝の地蔵」があると女房に指摘されたが、食料無しの峠越えに気を取られパスしてしまった。後から見ておけばよかったと思う。
 
 この辺りから鈴鹿峠までは旧東海道と東海自然歩道が重なっている。これからしばらくは東海自然歩道のお馴染みの標識が我々を導いてくれる。登り口の標識には鈴鹿峠まで1.5kmとあった。

 山道は国道の北側上方の斜面を高度を保って付けられていて、所々に右写真のような登り道もあるが整備されていておおむね快適な道であった。しかし、山道には往時をしのぶ雰囲気が何も無かった。ここは東海自然歩道として整備されたもので、実際の東海道はもっと国道に近い所にあったのではないかと思った。

 この道から最後に国道に降りる石段上に、ようやく南無阿弥陀仏の念仏を刻んだ墓石と朽ちかけた五輪塔があった。この石段と墓石を見て、旧東海道は国道を造るため削られてしまい、代りにその上部に付替えたのが今通ってきた山道だとの確信を得た。

 旧東海道はすぐに国道と別れ片山神社の石柱に導かれて右手に入る。(左写真) いまは片山神社の参道のような道で、水害まではこの辺りに宿場があったというは信じがたいほど狭い場所に感じた。

 午後0時20分、300mほど山道を入った所に片山神社はあった。(右写真) 見上げるような石垣にかっての繁栄が知れるようであった。片山神社は鈴鹿大明神、鈴鹿大権現とも呼ばれ、社前には頓宮があった。「頓宮(とんぐう)」は、天皇が行幸する際に設けた仮の宮で行宮(あんぐう)ともいう。神社脇から鈴鹿川が流れ出ているといわれる。木の鳥居の左側には「鈴鹿流薙刀術発祥の地」の石碑が少し傾いて立っていた。(右写真の左)

 少し長い休憩しながら、地図で峠道を確かめた。その間に二組のハイカーが神社前に少し立ち止まり右手に曲がって行く。行く道は決まった。

 片山神社の右側に回り込む鈴鹿峠の最初の登りには石畳が残っていた。(左写真)

 片山神社の森には何本か杉の巨木がある。峠道から見て最も太く見えた杉を「坂下宿の巨木」とする。それが最も太い木であったならば、「日本の巨樹・巨木林」によれば、「幹周囲 3.57m、樹高 38m」であるのだが。そばまで行ってみなかったが、根元に向けて太くなっており、その太さくらいは十分ありそうに思えた。(右写真の下)

 すぐ上に国道1号線の上り車線がある。街道はこの国道に寸断されていた。道はパイパスを潜りコンクリートの段を登って国道レベルまで至る。そこは小公園になっていてバイパスの向うに片山神社の杉の上部が突き出ていた。その中で頭ひとつ高い木が、先ほど「坂下宿の巨木」に選んだ木と繋がっているのか確認した訳ではないが、多分同じ木だろうと思い写真に撮った。(右写真の上下)

 この小公園が現代は鈴鹿峠の入口になるのであろう。幾つか案内板が立っていた。
 案内板に紹介されている芭蕉の句碑がすぐそばにあった。(左写真)

ほっしんの 初(はじめ)に越える 鈴鹿山   芭蕉

 「ほっしん」は「発心」で、あることをしようと思い立つこと。ここでは東に下ろうと思い立つことを言っているのであろう。

 峠道のはじめは石段の緩やかな道であった。(右写真の右) 途中に馬の水のみ場が復元されていた。(右写真の左上) 清水をパイプで水のみ鉢に引いてあり、水が一杯溜まっていた。
 
 午後0時50分、10分ほどの上りで鈴鹿峠に着いた。峠は小広い杉林の中であった。峠には道標が一本立っているだけであった。(左写真の左) 少し先で「田村神社跡」と「鏡岩」に行く山道を右へ分ける。「田村神社跡へ10m、鏡岩へ150m」の東海自然歩道の標識に励まされ、寄り道をした。
 
 山道を歩いてすぐに杉林の中に、「田村神社舊跡」と刻まれた石柱がやや傾いて立っていた。この田村神社は土山の田村神社の旧跡かと思ったが、そことは別で、現在は先ほど通った片山神社に合祀されているという。

 さらに林の中を「鏡岩→」の標識に導かれて、「鏡岩」に至った。鏡岩は崖の突端にあり、そこから下が一望に出来る。女房はそこまで行って、「よい景色!」と呼んだが、遠慮して鏡岩の写真を撮った。
 「鏡岩」についてネットで調べてみた。出るは出るは日本中に鏡岩と呼ばれる岩が如何に多いことか。その一つ一つにそれらしい伝説が残っていたりする。広辞苑によると「鏡岩」は「鏡石」と同じで、「表面に光沢があって、物の影のよくうつる石。諸方にこの名の石があり、種々の伝説を伴う。」とあった。










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