第 32 回 
  平成15年5月24日(土)
 晴れのちうす曇り
 土山宿−大野−水口宿−北脇縄手−横田渡−三雲−
 “お茶の土山宿から干瓢の水口宿へ紅殻塗りの町をゆく”



 読売新聞の静岡版、2003年5月11日(日)に「旧東海道夫婦旅」のホームページが紹介された。晴れがましいことは苦手だが、電話取材だけだったので助かった。以下へ、その一部を紹介する。

       見て!見て!HP 旧東海道夫婦旅
 (前略)・・・・古い街道を歩くのが好きなだけあって、歴史と風景を楽しみながら進む様子がHPから浮かぶ。
 2人が東京・日本橋を出発したのは2000年12月3日。1日に歩くのは、おおむね宿場の数にして3つか4つ分。毎回、前回歩き終えたところから再スタートする。「旅の情緒が失われる」ということで、移動は東海道線の各駅停車しか使わないという。
 忘れられない思い出が残るのは、往時、茶店だった由比町の「藤屋」。2度目に訪問した際、かっての主人は亡くなり、ちょうど翌日が一周忌だった。店にいたおばあさんは、明治維新直後に官軍に追われた山岡鉄舟をかくまった土蔵など茶店の歴史を解説してくれた。・・・・・その姿に「主人のやってきた案内ボランティアを引き継ごうとする気持ちは十分すぎるほどわかった」と記している。
 HPに掲載されているのは、41番目の宮宿(名古屋市)が最後だが、すでに鈴鹿峠を越えた49番目の宿の土山宿(滋賀県土山町)まで到達している。関西在住の友人が出迎えるという約束をしてくれた終点・京都まであと一息だ。

 記事でも紹介してくれているように、「京都まであと一息だ。」 前回は貴生川駅から関西本線に出て帰った。しかし、東海道本線を草津まで進み貴生川駅に行く経路の方が、距離は長いが時間は掛からないと思い、今回はコースを替えた。コースは替えたが時間が掛かることに変わりはない。貴生川駅に着いたのは午前10時10分であった。土山行きのバスには40分以上の待ち時間があり、思い切ってタクシーに乗る。土山大黒屋公園まで、四千円余りの散財であった。

 大黒屋公園の一の松通り側に、「弥生松」という名の付いた松があった。(左写真) 新しいネーミングなのか、二代目なのか、いわれは判らない。

 歩き出してすぐのお店の前で、出てきたおじさんと目が合った。「あれっ」、双方で声をあげた。会社の古くからの販売店のおやじさんであった。店が土山だとは知ってはいたが。まあ寄れやと誘われるままに店に入る。

 東海道を夫婦で日本橋から歩いているというと、定年退職したのかと聞かれた。休みを見つけて歩いているのだと説明して納得してもらう。自分も町興しで宿場町の整備などに参加しているという。東海道サミットでは大井川にも行って蓮台に乗ったよ。川は渡らなかったでしょう。今は危ないから川に少し入って戻ってくる。今年のサミットは秋に石部宿でやる。土山が第1回だった。土山のお茶をよばれた。かぶせのお茶だよ。すごく甘いですねえと女房。きょうの午後は裏で少しばかりだがお茶を揉むんだ。本業は農業機械の販売である。本陣には寄ったかね。前回は大黒屋公園で終ったけど、もう夕方だったので。人が住んでいるが、自分が頼めば見せてくれるよ。上段の間なども残っている。早速電話を掛けてくれるが出ない。留守のようだ。有難うございます。のんびりしていると明日までに草津まで着かなくなるから。残念だね。

 途中で帰ってきた息子さんが表でデジカメで撮ってくれた。(右写真) 通りでこの先のルートと見所を教えてくれる。西へ行くと松並木も残っているから。そのお店には「千切屋」という往時の屋号のプレートが付いていた。宿が込み合う時は臨時の旅籠もやっていたらしい。

 おやじさんが参加しているのは、おそらく「土山の町並みを愛する会」だと思った。途中「愛する会」の案内板を何枚か見てきた。

 「愛する会」は平成2年に、若者が誇れるような故郷“土山”にしたいと、まちの青年団や商工会のメンバーらが中心となって発足させた会で、軒先に掲げられた昔の屋号を記した看板、旅籠跡を示す石柱、土山を詠んだ漢詩・和歌・俳句の碑などを設置し、街道の整備とPR活動を進めているという。

 「東海道宿駅制度開設400年」の2001年を目指して活動を始めた宿場町が大方である中で、平成2年から始めたというと随分早い取り組みである。しかもそれが民間主導であるというのが頼もしい。

 午前11時10分、土山西口の交差点で旧東海道は国道1号線に合流する。(左写真の右手が旧道) その角の三角地に石燈篭のある小庭園があり、土山宿の案内板があった。
 国1を北側に渡った、北へ道を分ける角に道標が二基あった。往時の石碑を読むのはなかなか困難であるが、何とか読みたいと思い、ネットなどで調べた。写真右側の背の低い道標には、「右 北国たが街道 ひの八まんみち」、左側の背の高い道標には、前面に「たかのよつぎかんおんみち」、側面に「高埜世継観音道」、と読むのだそうだ。

 「たが街道」は「御代参街道」と呼ばれ、江戸時代に、朝廷から延命長寿として信仰を集めた多賀社へ、天皇の名代として公家が代参した道である。東海道土山宿から日野、八日市を通って多賀大社へ至る道である。

 「八まんみち」は街道に近い近江八幡のことであろう。また、「高埜世継観音道」は八日市市の東隣の永源寺町高野にある古刹、瑞石山永源寺の本尊世継観音への道という意味で、名前の通り、子孫繁栄の御利益があるという観音様である。

 旧東海道はすぐに国道1号線の北側に分かれて、行く手の野洲川を渡り、「垂水斎王頓宮跡」に向うが、ここにも橋がない。案内標識に導かれていったん国道に出て、国道に架った白川橋を渡る。思い返せば土山宿の手前で田村川を前にして同じシチュエーションがあった。国道に出て田村橋を渡った右側に田村神社があった。ここでは白川橋を渡ると「垂水斎王頓宮跡」がある。

 国道の右側が一段高くて茶畑が広がり、その奥に見える森が「垂水斎王頓宮跡」の森であろう。道路工事中の場所を避けて進むと、茶畑が切れて水田が始まる境に奥へ入る道があった。水田脇に桐の木が一本、紫の花が満開であった。(左写真)

 茶畑を少し戻った奥に「史蹟 垂水頓宮址」大きな石柱が建ち、(右下写真の右) 木の鳥居があった。
 森に入ると小暗い境内と、小さな社、それに「斎王垂水頓宮址」の大きな石碑が並んでいた。(右写真)
 森の中から一人の年寄りが出て来た。手に榊の把を持っていた。この林に榊の木があるのであろう。神様の森からちょっと失敬してきた榊で、神様への義理を果たす、ちゃっかりしたじいさんだ。

 茶畑の中を国道に戻った。国道の向い側の小道の角に、「伊勢大路(別名 阿須波道)」と刻まれた石碑が立っていた。(左写真) 

 奈良時代に都から東国へ向う幹線道路は大和街道と呼ばれる、現在の国道25号線(名阪国道)に近いルートを通っていた。平安京に都が遷されて、東国への幹線道路は近江から鈴鹿峠を越える阿須波道を新道として開拓した。そして斎王の伊勢群行もこの路を使うことになった。この路が旧東海道のルートの元になっている。

 この阿須波道は正に旧東海道であった。この細道を南へ少し行くと東西の道へぶつかり、その角に「土山の町並みを愛する会」の案内板があり、それを証明してくれた。明治になってこの東西に伸びる道は東へまっすぐ伸ばされて橋が作られ、東海道の道筋もそちらに変更されたという。

 土山町前野の街道沿いの民家で、前面の格子や板の部分が赤茶色に塗られた家を見た。(右写真) そして次々と同様の民家が現れた。文字通りの「紅殻格子の家」である。

 紅殻はインドのベンガルに産した、酸化鉄を主成分にした赤色の顔料で、「ベンガル」から「べんがら」となり「紅殻」の文字が当てられた。良くある「べんがら」は、松煙(すす)をまぜてこげ茶色にする。こげ茶色に塗られたものは見たことがあるが、これだけ赤いものははじめてである。このように赤く塗るのは、防腐剤の役割や装飾の外にも、魔よけのような意味合いがあるのではなかろうか。

 岡山県の成羽町ではべんがらが特産品で、ここのようなべんがら色で外観が統一された古い町並みが残っているという。

 時刻は正午、街道右側に慈安寺というお寺があり、その門前に茶の木が一樹と案内板があった。(左写真)
 これが土山茶のルーツかと思ったが、その後調べてみると、土山茶は前回最後に訪れた南土山の常明寺の中興の僧、鈍翁了愚が、文和5年(1356)、京都の大徳寺から種子を持ち帰り、寺で栽培 したのが始まりと言われている。南北朝時代の中頃のことである。

 土山町市場に入って、街道左側の工場の前に坪庭と一里塚跡の石柱があった。(右写真)
 一里塚のすぐ先に藁屋根の家を見つけた。壁は紅殻の赤である。(左写真)

 藁屋根の家に続いて橋があり、その先に松並木が見えてきた。(右写真) 「千切屋」のおやじさんが言っていた松並木はこのことだろう。橋の手前の右側に「大日川堀割」と刻んだ石柱が建っていた。
 大日川を渡った松並木の左側一本目の松の下に、新しい「東海道 反野畷」の石柱が建っていた。そして脇に建つ立て札が、上記の「大日川(堀切川)堀割」の案内板である。(左写真) すぐ続いて古い領界石があった。「従是東淀領」と読める。(左写真の左)

 淀藩は山城の国、淀を城域とし、1625年に松平定綱が遠江国掛川から入封して立藩した藩である。この地はその淀藩の飛び地だったのであろう。

 ここから始まった反野畷の松並木はそれほどの大木は無く、後世に植えられたものではないかと思われた。

 松並木が切れて20分ほど歩いた土山町大野の街道左側にお茶の産地の土山を詠った漢詩の碑があった。(右写真)
 意訳が過ぎて、詩を直接味わえないので、訳し直してみると、

 土山を訪れて即興する。茶摘みの季節に仕事が大変忙しそうであった。茶園では緑の茎に青い芽がいっぱいに出ていた。この田舎の村にさわやかな風があり、お茶を蒸す香りがした。あなたは知っていますか。お茶が欧米に輸出されていることを。お茶が澄んだ黒色をしていて大変香りがよいことを。

 土山茶は野洲川沿いに延々と広がる茶畑に産し、滋賀県一の生産量を誇る。江戸時代には東海道を往来する旅人に出して評判になり、土産物としてその名を知られるようになった。明治になって茶が海外に輸出されるようになり、土山茶も生産量が一挙に増えたという。

 人家の前に「明治天皇聖蹟」の大きな碑があった。(左写真の右) そばに「旅籠 小幡屋」の石柱が建っていた。

 すぐに大野の交差点で国道1号線を渡る。その手前の右角に大日如来を祀る祠(左写真の左)と「三好赤甫旧跡」の案内板があった。案内板には句碑があると書かれていたが見逃してしまった。
 午後0時55分、国道1号線の歩道橋を渡り、北へ入った突き当りに若王寺がある。門の外、右の舗装道路にはみ出る巨杉が国道からも見えた。前回帰りのバスでもこの杉の姿を見て近くを歩くのを楽しみにしていた。乱れ威嚇するような枝ぶりに、遠くからも巨木の貫禄が感じられた。

 「日本の巨樹・巨木林」によると、この杉は、幹周り 4.6m、樹高 22mである。この「若王寺のスギ」(右写真)を三本目の「土山宿の巨木」とする。

 すぐに旧東海道は国道の北側に別れる。途中に人家の土留めの石壁に石臼のパーツをはめ込んだ家があった。(左写真) 面白い意匠である。また進んで行くと田圃を背景に石仏が立っていた。この地方の石仏は自然石に彫られ、仏像の頭上を庇のように残してある。(左写真の円内) これもこの地方に至って初めて見た意匠である。

 土山町今宿で再び国道へ出る。合流する三角地に、「東海道土山 今宿」の石碑と石灯籠の立つ緑地があった。(右写真) ここから国道1号線バイパスが右へ分かれていく。そして長かった土山町もここで終り、左側の県道(旧国1)に「水口宿」の大きな看板が出ていた。

 ようやく水口町に入り、旧東海道は県道を少し歩いて別れ、すぐ右手の坂を登る旧道を進む。間もなく左側に一里塚があった。(左写真) なおこの一里塚は復原されたものである。
 水口町今郷の人家から外れた竹薮の前の路傍に、双体の道祖神や石仏、団子を二つ積んだ墓石などが身を寄せるように集められていた。そして色彩に富んだ花が添えられていた。双体の道祖神や石仏には例の頭上の庇の特徴が確認できた。(右写真)

 午後1時45分、街道は一度野洲川沿いの県道に出る。その三角緑地に「街道をゆく」の案内碑があった。「街道をゆく」といえば司馬遼太郎の同名の紀行シリーズが有名である。この東海道歩きで道草にこだわるのは多分にその影響である。
 街道が再度県道に出るところは北側から岩山が野洲川に突き出た所で、岩上橋が架っている。この岩山に岩神社があり、また岩上不動尊が祀られている。ただ現在は岩山は樹木に覆われて岩の部分は見えない。(左写真) その参道入口に「岩神のいわれ」という案内プレートがあった。旅人に名前を決めてもらうとは愉快な習慣である。頼まれた旅人はこれで意外と悩んだことだろうと思った。
 3階建てのアパート前に松の木が新しく十本余り植えられて、案内プレートがあった。
 案内にあったように、道路の進む先に小高い岡状の古城山が見えてきた。(右写真)

 古城山は水口宿の北東に接する孤立した山で、大岡山とも呼ばれていた。標高283mで、こちら(東)からは陣笠を置いたように見える。天正13年(1585年)、秀吉の命で、中村一氏が水口城を築城、その後五奉行の長束正家が城主となった。しかし関ヶ原の戦い(1600年)に長束正家が西軍についたため落城した。わずか15年の歴史であったが、その城下町として整備された水口の、その後の発展の基礎を築いたといわれる。

 国道307号線を横切って、いよいよ水口宿に入る。「東見付跡」には冠木門が造られ、冠木門の柱には「東海道水口宿」の看板があった。(左写真) 宿に入る前にここで一休みする。今日もここまで携帯食だけで昼食を摂らずに来てしまった。
 午後2時34分、水口町元町に入ってすぐ高札場跡に突き当たり、道は左右に別れる。(右写真) 案内書を見て、女房が右の道のようだという。よく確認もしないで右の道を選び、古い町並みに納得しながら進んだ。しばらく進んで女房はアーケードが出てこないと首をかしげる。案内書にアーケードの記載があるという。横丁を覗くと一本南の道にアーケードが見えた。間違えたようだ。そこにいた小父さんに「旧東海道は?」と確認して一本南の道へ移り、高札場まで引返した。こだわりである。結局三十分近くのロスであった。

 高札場跡で仕切り直しをして案内書を確認していると、背の高い女性と低い女性の凸凹コンビがやってきた。見ていると立ち止まってやはり迷い、そばにいた小父さんに道を聞いている。高札場跡では左の道を選び、その先で再度二つに別れるので、今度は右に進む。結局、三本並行する道の真ん中の通りが旧東海道なのである。東海道の標識が欲しい所である。休憩する凸凹コンビを残して先に進んだ。

 途中、曳山の収納庫があった。(左写真) 「山蔵」という。
 京町の角、白塀の民家の前に「問屋場跡」の案内プレートがあった。(右写真)
 「御菓子匠 一味屋」の前に「お菓子とうふ」という名前を見つけて、女房が?印をつけたまま買いに入った。かなり足が草臥れていたので一町先に進み、バスセンターの休憩所で休んだ。女房が買って戻った物を空腹まぎれに食してみた。豆腐というよりチーズケーキに似たお菓子であった。用を足したりしばらく休憩するが、高札場の凸凹コンビは追いついて来なかった。また道を間違えたのかなぁと女房に話す。

 バスセンター角に水口の曳山のからくり時計があった。(左写真) 日に9時、正午、3時、6時の4回、曳山を引く人形が動くらしい。
 角にあった「いまむら呉服店」、道路側がお店で、奥側が住居であろうか。(右写真) やがて本町商店街のアーケードが現れる。そして本町商店街を抜けると三本並行する道が一本になる。午後3時27分、一本になったところに、最も南の通りから凸凹コンビがやってくるのにばったり出会った。こっちが東海道だったというと、間違えてしまってという。あれだけ詳しく聞いていたのにやっぱり。

 
 合流地点のここにも曳山を模ったからくり時計のモニュメントがあった。(左写真) 左写真をよく見るとガス灯風の該当の下にブルーの旗があり、「曳山のあるまち 米屋町」と読める。またからくりの下部には銅板に広重の「東海道五十三次之内 水口」の図が描かれていた。そばに水口宿の案内プレートがあった。
 合流地点のすぐ先に水口石橋がある。(右写真) ほんの細い水路程度に架った橋で、両脇に橋柱が無ければ橋とはわからなかったであろう。続いて、近江鉄道の踏切を渡るが、踏切のすぐ左に水口石橋駅がある。水口石橋は駅名になっている位だから昔からあった有名な橋なのであろう。

 踏切を渡って、道はまっすぐ進んでも結局は東海道に合流することになるのだが、旧東海道は北側にコの字形に迂回をする。水口町城東で右折、突き当りを左折、水口町城内で左折、次に右折すれば進む方向が元に戻るが、その右折する角に「水口石」と呼ばれる大石がある。(左写真) この角を右折せずにまっすぐ南へ進めば、家光が上洛に先立ち築かせ、その宿館となった水口城の城跡に達する。
 水口石の角を右折して、400mほど西へ進んだ右側に、五十鈴神社がある。五十鈴神社の境内に皮を剥がれたヒノキの大木があった。(右写真) おそらく檜皮葺きの材料になったものであろう。檜皮葺きの神社の屋根は30〜35年で葺き直す必要があるといわれる。かって室生寺が台風で倒れた巨木によって半壊したとき、屋根を葺きなおす檜皮が不足していると聞いた。檜皮は剥いでも8〜10年で再生するから、材料がないのではなくて檜皮を剥ぐ職人がいないとの話だったと記憶している。その後対策がとられたのであろうか。
 五十鈴神社の境内角に「林口一里塚跡」の石柱が立ち、少し土が盛られている。(左写真)
 この一里塚あたりが、かって西見付跡があったところというが、それらしいものも見つからなかった。ともあれ、これで水口宿ともお別れである。やがて旧東海道は一直線に3kmほど、北脇縄手と呼ばれるまっすぐな道が続く。昔の松並木は残っていないが、新しく植えられた松並木があった。(右写真) 路傍に庇つきの双体の道祖神を見つけた。(右写真の円内)
 「麦秋」という言葉がある。麦を取り入れる初夏の頃のことをいう。北脇縄手の両側はまさに麦の実る収穫の秋であった。全面、稲穂とは違う濃い黄色の海であった。(左写真) 路傍には石仏、道祖神、墓石などが集められ一列に並んでいた。(左写真の下)

 午後4時13分、甲賀郡農協柏木支所の前に、鐘楼を模したモニュメントがあった。(右写真) 「時の鐘」であろうか。鐘を撞くために梯子を登る半纏姿の人形が付いていた。階下の楼内を覗くと、広重の「東海道五十三次」、水口宿の屋外で干瓢(かんぴょう)を干す農民達を描いた浮世絵を、人形を使って立体化したジオラマがあった。(右写真の円内) そばに、そのさまを筆でスケッチする広重本人の人形もある。宿場名物の干瓢は広重に描かれて全国知れ渡ることになったという。

 水口の干瓢作りは、朝鮮から渡来した干瓢を、400年前、ときの城主長束正家が作らせたことに始まる。その後、300年前に水口城主鳥居忠英が栃木県壬生町に伝え、現在干瓢といえば栃木の名が挙げられるようになった。水口では昔を偲んで、毎年「かんぴょうまつり」を開催しているという。

 水口町泉に入って右手に神社の森が見えてきた。この辺り見るものも少ないし、巨木がありそうだと、その森に立寄った。日吉神社にはケヤキの巨木が1本、隣の泉福寺にクスノキ、カヤ、ケヤキの巨木がそれぞれ1本、「水口町の古木・名木」として案内板が付けられていた。この4本は「日本の巨樹・巨木林」には日吉神社の木として紹介されている。
 
日吉神社のケヤキ  幹周 3.69m  樹高 28m  枝張 25m
泉福寺のクスノキ   幹周 4.72m  樹高 33m  枝張 45m
泉福寺のカヤ     幹周 4.33m  樹高 19m  枝張 20m
泉福寺のケヤキ    幹周 6.30m  樹高 22m  枝張 20m
 
 中でも、泉福寺のカヤとケヤキは立派なものであった。この二本を「水口宿の巨木」とする。「泉福寺のカヤ」は本堂前にあり、根元が傷んでいるようで心もとない。根元にネットが被されていた。(左写真)
 「泉福寺のケヤキ」は境内を出て裏へ回った所にブロック塀の一部からはみ出ていた。(左写真) このケヤキは太い。
 旧東海道に戻って間もなく、太い木柱の道標があった。手前に「水口宿」、行き先に「横田渡」と書かれている。泉川を渡った右側に「日吉神社 御旅所」の石柱が立っていた。続いて右側に復原された泉の一里塚があった。(右写真) 植えられている幼木はエノキであろう。
 そして、午後4時53分、今日の最後に横田渡に差し掛かった。野洲川の土手の緑地帯に冠木門が造られ、冠木門を潜った左手に大きな常夜燈があった。(左写真) 冠木門は最近造ったものであろうが、常夜燈は往時の古いものであった。
 冠木門からまっすぐに進んで川の方を覗くと、石を積んだ明治時代の橋台が残っていた。(右写真)
 現在はここに橋はない。現在の横田橋は右手方向、1kmほど下にある国道1号線に架っている。そこまで土手を行けないかと少し歩きかけたが、踏み跡は残っているものの草深く、疲れた足には辛そうであったので断念した。右脇に小さな祠があった。横田渡しの安全のため勧請された金刀比羅宮である。(左写真)
 国道1号線に架った横田橋を渡り、すぐの南にあるJR草津線の三雲駅に午後5時22分に着いた。三雲駅の前の道が旧東海道である。明日はこの駅から始める。今日の歩数は36,770歩であった。










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