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見て!見て!HP 旧東海道夫婦旅 (前略)・・・・古い街道を歩くのが好きなだけあって、歴史と風景を楽しみながら進む様子がHPから浮かぶ。 2人が東京・日本橋を出発したのは2000年12月3日。1日に歩くのは、おおむね宿場の数にして3つか4つ分。毎回、前回歩き終えたところから再スタートする。「旅の情緒が失われる」ということで、移動は東海道線の各駅停車しか使わないという。 忘れられない思い出が残るのは、往時、茶店だった由比町の「藤屋」。2度目に訪問した際、かっての主人は亡くなり、ちょうど翌日が一周忌だった。店にいたおばあさんは、明治維新直後に官軍に追われた山岡鉄舟をかくまった土蔵など茶店の歴史を解説してくれた。・・・・・その姿に「主人のやってきた案内ボランティアを引き継ごうとする気持ちは十分すぎるほどわかった」と記している。 HPに掲載されているのは、41番目の宮宿(名古屋市)が最後だが、すでに鈴鹿峠を越えた49番目の宿の土山宿(滋賀県土山町)まで到達している。関西在住の友人が出迎えるという約束をしてくれた終点・京都まであと一息だ。 |
大黒屋公園の一の松通り側に、「弥生松」という名の付いた松があった。(左写真) 新しいネーミングなのか、二代目なのか、いわれは判らない。
途中で帰ってきた息子さんが表でデジカメで撮ってくれた。(右写真) 通りでこの先のルートと見所を教えてくれる。西へ行くと松並木も残っているから。そのお店には「千切屋」という往時の屋号のプレートが付いていた。宿が込み合う時は臨時の旅籠もやっていたらしい。
午前11時10分、土山西口の交差点で旧東海道は国道1号線に合流する。(左写真の右手が旧道) その角の三角地に石燈篭のある小庭園があり、土山宿の案内板があった。
国1を北側に渡った、北へ道を分ける角に道標が二基あった。往時の石碑を読むのはなかなか困難であるが、何とか読みたいと思い、ネットなどで調べた。写真右側の背の低い道標には、「右 北国たが街道 ひの八まんみち」、左側の背の高い道標には、前面に「たかのよつぎかんおんみち」、側面に「高埜世継観音道」、と読むのだそうだ。
国道の右側が一段高くて茶畑が広がり、その奥に見える森が「垂水斎王頓宮跡」の森であろう。道路工事中の場所を避けて進むと、茶畑が切れて水田が始まる境に奥へ入る道があった。水田脇に桐の木が一本、紫の花が満開であった。(左写真)
森に入ると小暗い境内と、小さな社、それに「斎王垂水頓宮址」の大きな石碑が並んでいた。(右写真)
茶畑の中を国道に戻った。国道の向い側の小道の角に、「伊勢大路(別名 阿須波道)」と刻まれた石碑が立っていた。(左写真)
土山町前野の街道沿いの民家で、前面の格子や板の部分が赤茶色に塗られた家を見た。(右写真) そして次々と同様の民家が現れた。文字通りの「紅殻格子の家」である。
時刻は正午、街道右側に慈安寺というお寺があり、その門前に茶の木が一樹と案内板があった。(左写真)
土山町市場に入って、街道左側の工場の前に坪庭と一里塚跡の石柱があった。(右写真)
一里塚のすぐ先に藁屋根の家を見つけた。壁は紅殻の赤である。(左写真)
藁屋根の家に続いて橋があり、その先に松並木が見えてきた。(右写真) 「千切屋」のおやじさんが言っていた松並木はこのことだろう。橋の手前の右側に「大日川堀割」と刻んだ石柱が建っていた。
大日川を渡った松並木の左側一本目の松の下に、新しい「東海道 反野畷」の石柱が建っていた。そして脇に建つ立て札が、上記の「大日川(堀切川)堀割」の案内板である。(左写真) すぐ続いて古い領界石があった。「従是東淀領」と読める。(左写真の左)
ここから始まった反野畷の松並木はそれほどの大木は無く、後世に植えられたものではないかと思われた。
人家の前に「明治天皇聖蹟」の大きな碑があった。(左写真の右) そばに「旅籠 小幡屋」の石柱が建っていた。
すぐに大野の交差点で国道1号線を渡る。その手前の右角に大日如来を祀る祠(左写真の左)と「三好赤甫旧跡」の案内板があった。案内板には句碑があると書かれていたが見逃してしまった。
「日本の巨樹・巨木林」によると、この杉は、幹周り 4.6m、樹高 22mである。この「若王寺のスギ」(右写真)を三本目の「土山宿の巨木」とする。
土山町今宿で再び国道へ出る。合流する三角地に、「東海道土山 今宿」の石碑と石灯籠の立つ緑地があった。(右写真) ここから国道1号線バイパスが右へ分かれていく。そして長かった土山町もここで終り、左側の県道(旧国1)に「水口宿」の大きな看板が出ていた。
ようやく水口町に入り、旧東海道は県道を少し歩いて別れ、すぐ右手の坂を登る旧道を進む。間もなく左側に一里塚があった。(左写真) なおこの一里塚は復原されたものである。
水口町今郷の人家から外れた竹薮の前の路傍に、双体の道祖神や石仏、団子を二つ積んだ墓石などが身を寄せるように集められていた。そして色彩に富んだ花が添えられていた。双体の道祖神や石仏には例の頭上の庇の特徴が確認できた。(右写真)
街道が再度県道に出るところは北側から岩山が野洲川に突き出た所で、岩上橋が架っている。この岩山に岩神社があり、また岩上不動尊が祀られている。ただ現在は岩山は樹木に覆われて岩の部分は見えない。(左写真) その参道入口に「岩神のいわれ」という案内プレートがあった。旅人に名前を決めてもらうとは愉快な習慣である。頼まれた旅人はこれで意外と悩んだことだろうと思った。
案内にあったように、道路の進む先に小高い岡状の古城山が見えてきた。(右写真)
国道307号線を横切って、いよいよ水口宿に入る。「東見付跡」には冠木門が造られ、冠木門の柱には「東海道水口宿」の看板があった。(左写真) 宿に入る前にここで一休みする。今日もここまで携帯食だけで昼食を摂らずに来てしまった。
午後2時34分、水口町元町に入ってすぐ高札場跡に突き当たり、道は左右に別れる。(右写真) 案内書を見て、女房が右の道のようだという。よく確認もしないで右の道を選び、古い町並みに納得しながら進んだ。しばらく進んで女房はアーケードが出てこないと首をかしげる。案内書にアーケードの記載があるという。横丁を覗くと一本南の道にアーケードが見えた。間違えたようだ。そこにいた小父さんに「旧東海道は?」と確認して一本南の道へ移り、高札場まで引返した。こだわりである。結局三十分近くのロスであった。
途中、曳山の収納庫があった。(左写真) 「山蔵」という。
京町の角、白塀の民家の前に「問屋場跡」の案内プレートがあった。(右写真)
バスセンター角に水口の曳山のからくり時計があった。(左写真) 日に9時、正午、3時、6時の4回、曳山を引く人形が動くらしい。
角にあった「いまむら呉服店」、道路側がお店で、奥側が住居であろうか。(右写真) やがて本町商店街のアーケードが現れる。そして本町商店街を抜けると三本並行する道が一本になる。午後3時27分、一本になったところに、最も南の通りから凸凹コンビがやってくるのにばったり出会った。こっちが東海道だったというと、間違えてしまってという。あれだけ詳しく聞いていたのにやっぱり。
合流地点のすぐ先に水口石橋がある。(右写真) ほんの細い水路程度に架った橋で、両脇に橋柱が無ければ橋とはわからなかったであろう。続いて、近江鉄道の踏切を渡るが、踏切のすぐ左に水口石橋駅がある。水口石橋は駅名になっている位だから昔からあった有名な橋なのであろう。
踏切を渡って、道はまっすぐ進んでも結局は東海道に合流することになるのだが、旧東海道は北側にコの字形に迂回をする。水口町城東で右折、突き当りを左折、水口町城内で左折、次に右折すれば進む方向が元に戻るが、その右折する角に「水口石」と呼ばれる大石がある。(左写真) この角を右折せずにまっすぐ南へ進めば、家光が上洛に先立ち築かせ、その宿館となった水口城の城跡に達する。
水口石の角を右折して、400mほど西へ進んだ右側に、五十鈴神社がある。五十鈴神社の境内に皮を剥がれたヒノキの大木があった。(右写真) おそらく檜皮葺きの材料になったものであろう。檜皮葺きの神社の屋根は30〜35年で葺き直す必要があるといわれる。かって室生寺が台風で倒れた巨木によって半壊したとき、屋根を葺きなおす檜皮が不足していると聞いた。檜皮は剥いでも8〜10年で再生するから、材料がないのではなくて檜皮を剥ぐ職人がいないとの話だったと記憶している。その後対策がとられたのであろうか。
五十鈴神社の境内角に「林口一里塚跡」の石柱が立ち、少し土が盛られている。(左写真)
この一里塚あたりが、かって西見付跡があったところというが、それらしいものも見つからなかった。ともあれ、これで水口宿ともお別れである。やがて旧東海道は一直線に3kmほど、北脇縄手と呼ばれるまっすぐな道が続く。昔の松並木は残っていないが、新しく植えられた松並木があった。(右写真) 路傍に庇つきの双体の道祖神を見つけた。(右写真の円内)
「麦秋」という言葉がある。麦を取り入れる初夏の頃のことをいう。北脇縄手の両側はまさに麦の実る収穫の秋であった。全面、稲穂とは違う濃い黄色の海であった。(左写真) 路傍には石仏、道祖神、墓石などが集められ一列に並んでいた。(左写真の下)
午後4時13分、甲賀郡農協柏木支所の前に、鐘楼を模したモニュメントがあった。(右写真) 「時の鐘」であろうか。鐘を撞くために梯子を登る半纏姿の人形が付いていた。階下の楼内を覗くと、広重の「東海道五十三次」、水口宿の屋外で干瓢(かんぴょう)を干す農民達を描いた浮世絵を、人形を使って立体化したジオラマがあった。(右写真の円内) そばに、そのさまを筆でスケッチする広重本人の人形もある。宿場名物の干瓢は広重に描かれて全国知れ渡ることになったという。
水口町泉に入って右手に神社の森が見えてきた。この辺り見るものも少ないし、巨木がありそうだと、その森に立寄った。日吉神社にはケヤキの巨木が1本、隣の泉福寺にクスノキ、カヤ、ケヤキの巨木がそれぞれ1本、「水口町の古木・名木」として案内板が付けられていた。この4本は「日本の巨樹・巨木林」には日吉神社の木として紹介されている。
「泉福寺のケヤキ」は境内を出て裏へ回った所にブロック塀の一部からはみ出ていた。(左写真) このケヤキは太い。
旧東海道に戻って間もなく、太い木柱の道標があった。手前に「水口宿」、行き先に「横田渡」と書かれている。泉川を渡った右側に「日吉神社 御旅所」の石柱が立っていた。続いて右側に復原された泉の一里塚があった。(右写真) 植えられている幼木はエノキであろう。
そして、午後4時53分、今日の最後に横田渡に差し掛かった。野洲川の土手の緑地帯に冠木門が造られ、冠木門を潜った左手に大きな常夜燈があった。(左写真) 冠木門は最近造ったものであろうが、常夜燈は往時の古いものであった。
冠木門からまっすぐに進んで川の方を覗くと、石を積んだ明治時代の橋台が残っていた。(右写真)
現在はここに橋はない。現在の横田橋は右手方向、1kmほど下にある国道1号線に架っている。そこまで土手を行けないかと少し歩きかけたが、踏み跡は残っているものの草深く、疲れた足には辛そうであったので断念した。右脇に小さな祠があった。横田渡しの安全のため勧請された金刀比羅宮である。(左写真)



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