第 34 回 
  平成15年9月21日(日) 
 曇りのち一時雨
 草津宿−野路の玉川−瀬田の唐橋−膳所−義仲寺−大津宿
 “野路の玉川、月輪池、瀬田の唐橋と名所/歌枕が続く”



 いよいよ今回の旅で東海道夫婦旅はゴールを迎える。去年の小学校同窓会の時の約束で、関西在住の同級生が迎えてくれるという話が出来ていた。いつになるとも分らないゴールだから、あまりあてには出来ないけれども、最終の旅の計画を立てて、大阪枚方在住のK氏にメールを出した。
 台風15号が気にはなったが、南方に逸れていくようなので決行するとメールし出発した。
 最後のメールは旅を終って家に帰ってから読んだ。このやり取りの中で、実は大きな間違いを二つも犯していた。その間違いに気付いたのはもっと後の、旅の途中のことであった。

 出掛けに眼鏡を忘れたことに気付いて、駅に送ってもらう途中で娘に家へ戻るように頼んだ。何とか予定した電車に間に合って、やれやれと思ったのもつかの間、今度は万歩計を忘れたことに気付いた。

 いつもなら、前夜にすべてザックに入れておくのであるが、今回油断した。もう若くはないのだ。自分の記憶力を過信してはならないという教訓である。したがって、今回は万歩計なしの旅になる。歩数は歩いた時間と距離で推測するしかあるまい。

 本日は草津より出発ということになる。午前10時35分、草津駅から歩き始めた。駅前の「うばがもち」の売店で、今夜、ホテルで食べようと一番小さい箱に入った「うばがもち」を買う。

 駅前の小公園には、前回気付かなかったが、新しい大きな石標が立っていた。一面に「草津宿」、一面に「右東海道いせみち」、もう一面に「左中仙道美の道」と刻まれている。草津川トンネル前に立つ追分道標の柱の部分を模したもののようだ。

 その草津川トンネルを抜けた追分(右写真)から、午前10時50分、本日の旅を始める。

 草津本陣は前回の最後に見学したので、その先が我々の旅の続きである。本陣の斜め向かいが脇本陣跡であった。(左写真)
 街中を進むと、左手に「草津宿街道交流館」という、町屋を模して造られた施設があった。(右写真) 「東海道と中仙道が出会うまち 草津宿がわかる歴史館」というキャッチフレーズに誘われて、200円の入場料を払い入ってみた。

 何処にもある展示物の中に、旅籠の食事を再現したものがあり興味が引かれた。(左写真) 夕食と朝食が展示されていたが、想像していたより遥かに充実した食事という印象を受けた。特に朝食は現在でも安宿ならこれよりも簡単なものしか出ないと思った。
 もう一つ体験コーナーに、重さを体験できる千両箱のレプリカがあった。余程腰を据えないと、腰を痛めてしまいそうな重さであった。昔の金持ちは辛かったに違いない。

 女房が町駕籠に乗ってみるというので写真に撮った。(右写真) 足まで中へ入ると随分窮屈に感じる。江戸時代の日本人は男性でも現代の女性より小柄で軽かったことが想像できた。

 午前11時47分、街を抜けて県道との交差点、「立木神社前」を横切った右側に、立木神社の境内があった。境内に入った所に、玉垣に囲まれた「立木神社のウラジロガシ」があった。(左写真) ご神木の巨木で有るが、治療の甲斐もなく枯れる寸前であるらしい。何とか生き返る期待を込めて、この木を「草津宿の巨木」とする。
 立木神社本殿前には、お宮参りの家族が一組見られた。立木神社の由緒については碑文に詳しく書かれていた。ここにも差した木が生えついたという伝説ご残っていて、社名の謂れになっている。
 「立木神社のウラジロガシ」の隣に句碑が一基(右写真の右)と、古い道標(右写真の左)があった。句碑には、

千年の 神木のこずえ 初明り    きぬ

 古い道標は現在の草津追分道標が建つ前にあった追分道標と推定されている。
 やがて東海道は新しく付け替えられた草津川を渡る。この川の印象がほとんど残っていないが、その手前に宿場の入口にあったとされる黒門跡の案内板があった。
 新草津川を渡り、草津市矢倉に入ると右側の角に瓢泉堂という瓢箪細工の店があった。(左写真) ここは東海道の草津名物「うばがもち」の店があったところである。

 「うばがもち」の起源には次のようないわれがある。
 信長に滅ぼされた近江守護代佐々木義賢の子孫が生き残っていて、代官の類をしていた。ところが寛永(1624〜44)の頃、ある事件で誅滅をうけてしまった。最後に残された3歳の幼児を託された乳母は、郷里草津に身を潜め、往来の人にもちを作って養った。そのもちが「姥(うば)が餅(もち)」と呼ばれて、府中の「安倍川もち」と並び称されるほど評判になり、草津の名物となった。
 広重の「東海道五十三次之内草津」(保永堂版)にもその店が描かれている。

 右の写真は駅前の「うばがもち」の売店でディスプレイされていたサンプルである。「うばがもち」は餅米で作った丸い団子を小豆のこし餡でくるんだもので、白餡をちょんとのせて乳母の乳房に似せた意匠が面白いが、昔からこのような形であったのかどうかは知らない。

 瓢泉堂の前に「矢橋道標」がある。石柱に「右やばせ道 これより廿五丁 大津へ船わたし」と刻まれている。「やばせ(矢橋)道」は矢橋湊に通じる道で、近江八景の一つ、「矢橋の帰帆」で有名 な矢橋湊である。

 「東海道名所記」によると、「やくら(矢倉)追分、これあり。右のかたにゆけば、矢橋(やばせ)の浦にゆく。ここよりは舟にのりて、横わたしに大津につく。直ぐに歩(かち)をゆけば、勢田のはしに出る。楽阿弥申すよう、矢橋に出て舟にのれば、道のほど二里ばかり近けれども、西風にはわろ(悪)し。今日は歩にてよしとて、勢多へまわる。追分の北南の両廉(かど)の家は、これ、かくれなき草津の姥が餅屋なり。」と、この辺りの案内を見事に表現している。

 「瀬田に廻ろか矢橋へ下ろか 此処が思案の乳母が餅」という俗謡はここを唄ったものである。

 近江路に入って、路傍に賽の神や道祖神、地蔵などの石仏を多く見掛けるようになった。そしてここへ来て、肌を白く塗り目鼻を描いて彩色された石仏が見られるようになった。地蔵盆を前に、子供達が辻々の石仏を洗い清め、彩色をする慣わしが、昔テレビで紹介されていた。あれは若狭の方の話であった。この辺りにもそんな風習が残っているのであろうか。

 旧国道1号線を横切って間もなくだと思うが、草津市野路に入って、右側の民家、遠藤家の塀に案内板二枚を見つけた。平清盛の孫にあたる平清宗胴塚の案内板であった。
 
 平清宗塚の案内標に導かれて遠藤家の門を入ると、すぐ左側にハンノキの大木があった。(右上写真) 樹齢400年、巨木には少し太さが足らないかもしれないが、ハンノキの大木は珍しい。二本目の「草津宿の巨木」としよう。

 案内標に導かれて遠藤家の庭先を横切り、こんな奥まで入っていいのかなと話しながら、庭の右手奥にあった平清宗塚の五輪塔に達した。(左上写真) そばには小さな祠もあった。結局、家の人にも遭わずに出て来た。

 15分ほど歩いて、午後0時45分、県道を越えた右手に、「野路の玉川」の旧跡が小公園に整備されていた。(左写真) 公園いっぱいに植え込まれた紅白の萩の花が、今を盛りと咲き乱れていた。(右写真)
 井桁に組まれた泉からはわずかに清水が湧いていた。泉は涸れたと書かれているから、井戸で汲み出しているのかもしれない。四阿(あずまや)で休憩をして、今朝買ったおにぎりを食べた。今日も昼食はこれでごまかすことになりそうだ。

 「東海道名所図会」によると、「野路の里西の端にあり。道の傍に長さ二間半ばかり。幅一間半の埋もれし小池の跡あり。これなん玉川の古跡という。六玉川のその一なり。」と、すでに江戸時代の終わりには小さな池で、それも埋もれてしまっていた。

 野路は草津が宿駅となる前は野路駅として栄えていた。その野路駅の案内板もあった。
 「野路の玉川」から数分進むと右側に溜池が見えてきた。溜池に島があり、橋がかかっていた。橋の入口には鎖が掛かり侵入禁止になっていた。橋が老朽化しているのであろうか。石柱に「浄財弁財天参道橋」とあった。(右写真) その橋の上に大きな蛇の抜け殻があって女房が大いに驚いた。この池を弁天池という。この池がこの先の月輪池と混同された時代もあったようだ。

 大津市月輪に入って、四つ角に「名勝 月輪大池 南約一粁」と刻まれた石柱が立っていた。道草は諦めて先へ進む。月輪自治会館前に「月輪」の地名案内の石標があった。
 
 続いて月輪寺前に「明治天皇御東遷御駐輩之所」の石碑が立っていた。(左写真)

 大津市月輪の東海道沿いに月輪大池、下月輪池、山ノ神池の三つの大きな溜池があって、「月輪池」と総称されているという。月輪大池は先刻通った角から1キロメートルほど南にあるようだが、残りの二つの池は街道のすぐ南側にある。街道左側にすぐ見えるのは下月輪池(右写真)で東側が道路工事に削られて工事中になっていた。山ノ神池はその池の奥にあり、ここ全体が一里山公園となっている。

 「東海道名所記」によると、 「海道より左のかたに、池あり。月輪の池となづく。むかしこの池に、月の落給へりと申つたふ。おぼつかなし。池水すみぬれば、月さやかに、うつり給ふを、おちたりといひつたへしにや。もし、李太泊が酒にえふて、月水中に落たりといひて、とらんとして、死せるたぐいか。」といわれを述べている。

 午後1時31分、大津市一里山に入って、JR瀬田駅に通じる広い道に交差する角に一里塚跡の石碑があった。(左写真)
 住宅地を30分ほど歩いて、旧東海道はようやく瀬田の唐橋に通じる道路に出た。最初に迎えてくれたのが信楽焼であろうか、お馴染みの巨大な狸の像である。(右写真の左) 建設会社のビル前に立っている。目じるしには分りやすくてよい。観賞用の巨大カボチャと大きな冬瓜がお供えに置いてある。さらにその先に愛くるしいつがいの猫の大きな石像があった。(右写真の右) 石屋さんの広告なのだろう。これもよく目立つ。前に「右瀬田唐橋 左旧東海道」と刻まれた石柱が立ち、ここが旧東海道筋に当ることを意識したものである。

 ようやく「瀬田の唐橋」に着く。(右下写真) 唐橋の東詰には常夜燈や歌碑、瀬田橋龍宮社の案内板などとともに、祠があった。(左写真上) 格子から覗くと彩色された地蔵像がぎっしりと収められていた。(左写真下)

 唐橋東詰の岸に沿って南へ100mほど行った所に、瀬田橋の龍王宮と秀郷社がある。そこへは今回、立寄らなかったが、橋詰に案内板があった。
 俵藤太と唐橋の伝説は三上山の項で案内したが、瀬田川の龍王が俵藤太に三上山の大ムカデの退治を依頼し、藤太は自慢の弓で射止めて成敗したという伝説である。

 「瀬田の唐橋」は広重の「近江八景」のうち「瀬田の夕照」として取り上げられ、景勝の地として古来より大変有名である。同時に、琵琶湖から流れ出る唯一の川、瀬田川に架かる橋として、東国から京に入るときには必ず渡る交通の要衝である。そのため記紀の時代から戦乱の要となってきた。古くは「壬申の乱」で最後の決戦場となり、源平の合戦、応仁の乱などその度に焼け落ち架け替えられてきた。「唐橋を制するものは天下を制す」といわれた由縁である。唐橋は大正13年に鉄筋コンクリートに変わり、現在の橋は昭和54年に竣功したものであるという。

 瀬田の唐橋を大橋、小橋と渡り、すぐの道を左折して瀬田川沿いに南下すると石山寺に至る。旧東海道は左側に古い町屋が並ぶ道を直進する。昔料亭だったのだろうか、龍宮城のような装飾過多の建物もあった。(左円写真) また一軒の町屋には、中二階は土壁塗籠で虫籠窓、連子格子、ばったり、出格子などがよく残っていた。(左写真の右)

 
 旧東海道は京阪石山坂本線を渡り右折する。その角、黒門の前に「明治天皇鳥居川御小休所」の石碑があった。(右写真)

 午後2時35分、北へ進む途中の右側、「やっこ」といううどん屋でようやく遅い昼食を軽めに摂った。

 国道1号線、京阪石山坂本線、JR東海道線と潜って、NECの脇を進む。「今井兼平の墓」の看板があったが、500mの距離表示に今井兼平の墓はパスして進む。

 平家追討のため上洛した木曽義仲は平家を破って京へ入った。ところが乱暴が過ぎたため、後白河法皇から源頼朝に義仲征伐の勅命が下った。頼朝軍は瀬田と宇治で義仲の軍を破り、義仲軍を粟津原に追い込んだ。

 「粟津原」は鳥居川から膳所までのちょうどこの辺りのことである。今井兼平は義仲の腹臣で、巴御前の兄である。瀬田川を護っていた今井兼平は京を明渡した義仲と粟津原で出会い、最後の戦いで二人とも戦死する。共に戦った巴御前は北国へ落ちのびた。

 午後3時13分、大津市御殿浜で旧東海道が西へカーブする角に、「膳所城勢多口総門跡」の石標があった。(左写真) 膳所の城下町の南の入口で枡形になっていたのであろう。そばの古い建物は番所の建物の遺構という。屋根が二段になって、上の段は平瓦と丸瓦とを交互に用いて葺いた本瓦葺で、屋根の棟の両端にはシャチホコが載っていて、それらしい風格を感じる。丸瓦の先端には膳所本多氏の立葵の紋があるというが確認してこなかった。

 膳所城はかってここより1kmほど北へ行った琵琶湖畔に、耳の形に突き出た所にあり、現在は膳所城跡公園になっている。

 徳川家康は関ヶ原合戦後、西国の備えとして、瀬田の唐橋を守護するために膳所に城を築いた。慶長6年、琵琶湖中に石垣を築いて、藤堂高虎に縄張りさせ、諸大名に普請に当たらせた。天下普請の第1号であった。初代城主の戸田一西以降、本多・菅沼・石川・本多と三河以来の譜代の家柄を城主にして、西国大名や朝廷へにらみを利かせた。

 西へ5分歩いて、京阪石山坂本線を越えたすぐ右に、若宮八幡神社がある。一見地域の氏神様と言う感じだが、長い歴史を背負った大変由緒ある神社のようだ。
 若宮八幡神社の鳥居の内側に膳所城から移築したという門があった。(右上写真)
 右折し北へ10分ほど進んだ突き当たりの民家の前には、「晴好雨竒亭址」の石碑が立っていた。(左写真)
 ネットで検索してみたら、テレビ番組の「なんでも鑑定団」に、奥村菅次の子孫という人が、「無尽灯」という奥村菅次作の江戸時代のランプを出品していた。確かにテレビで見た記憶があった。ヨーロッパに先立って発明されたメカニズムで大変高い評価がされていた。

 午後から段々と雲が厚くなり、ここへ来て雨がぱらぱらと降り始めた。予想していたより少し早い雨であった。左折してすぐ左手に神社があり、ケヤキの大木が見えたので入ってみた。ここにも膳所城の大手門が移設されていた。傘を差して写真撮影は少し辛い。(右写真)
 街道に戻って、道は京阪中ノ庄駅の手前で右折し、北へ進むのだが、先を行く女房が気付かずにどんどんまっすぐに行ってしまう。傘を差していて回りが見えていないのか。呼び戻すには大声をあげなければならない。角で立ち止まっていると、踏切を越えたところでやっと気付いて戻ってきた。

 この頃は、女房は案内書の地図で確かめながら進み、自分は国土地理院の二万五千分の一地図を見ながら歩いている。傘を出したため、案内書がおろそかになったのであろう。途中はぐれた時の連絡方法を打ち合わせておかねばならないようだ。

 北へ進んで突き当たるあたりに木下町と表示されていた。藤吉郎と関連があるのであろうか。捨て置けない町名である。後日の情報で、実は木下町にある和田神社に樹齢650年といわれるイチョウの巨木があった。街道からも近いところにあり、アスファルト道路を隙間なく濡らすほどの雨に先を急いだためとはいえ、見逃したのは残念であった。

 大津宿に向って膳所の城下で何度も右へ左へと曲がったが、その最後の左折角に「膳所城北総門跡」の石標があった。膳所の城下町の北の入口である。(左写真)

 午後4時16分、門前に幾つかの石柱の立つ義仲寺に着いた。(右写真) 門を入ると右側に受付があり入場料を200円払って入る。

 ちょうど学生と思われる青年が受付の女性に熱心に説明を受けていた。芭蕉に興味があるようなのだが、さんざん聞いておいて、「それで義仲という人は何をした人なのですか」と聞く。正直なのだがいったい今まで何を聞いていたのと言いたくなるところである。しかし件の女性は懲りることなく改めて木曽義仲の説明を始めた。

 境内には所狭しと墓や塚や句碑が立ち並んでいる。大磯の「鴫立庵」を思い出す。奥へ入ると左側に宝篋印塔の義中公墓(木曽塚)があった。(左写真の中) その左隣に巴塚(左写真の左)、右隣には芭蕉翁墓(左写真の右)があった。巴塚には案内板があった。
 義仲寺にどういう訳で芭蕉の墓があるのか、不思議であった。調べてみると、芭蕉は大阪の旅先で病に倒れ、1ヶ月後亡くなった。「骸(から)は木曽塚に送るべし」との遺言によって、遺体は川舟で淀川を上り、翌日には義仲寺に入り、木曽塚の右隣に葬られたという。遺言だと分っても、芭蕉がどうしてそこを選んだのかとの疑問が残る。

 芭蕉は晩年、主に夏に義仲寺の無名庵に何度か滞在している。亡くなる三年前に伊勢の俳人又玄(ゆうげん)が、無名庵に芭蕉を訪ねたおり、
木曽殿と 脊中合せの 寒さかな    又玄
という有名な句を詠んでいる。この句には義仲に対する親しみや尊敬がこもっている。それはそのままその場の雰囲気であったはずである。義仲は少々乱暴者ではあったが、情が厚く、最期を見ても大変いさぎよい武将であった。芭蕉は義仲について次の句を詠んでいる。

義仲の 寝覚の山か 月悲し    芭蕉

木曽の情 雪や生(はえ)ぬく 春の草    芭蕉

 ここまで調べて、芭蕉は義仲公が好きであった。だから義仲公のそばに葬られたいと思ったのだろうと思えてきた。

 最も奥まった所に芭蕉翁座像が安置されている藁屋根の翁堂があった。(右上写真の左) 前庭にススキが穂を出して良い絵柄になっていた。また入口に近いところにはバショウが何本か植わっていた。(右上写真の右) 意識しては初めて見るので受付の女性にこれが芭蕉の花ですかと聞くとそうだという。バナナに似た実がなるのですねと聞くと、バナナもバショウ科ですから。なるほど。

 なお、義仲寺に建つ芭蕉句碑は次の3基である。

行春を あふミ(おうみ)の人と おしみける    芭蕉

古池や 蛙飛こむ 水の音    芭蕉

旅に病で 夢は枯野を かけ廻る    芭蕉

 「行春は」は受付からすぐの通路右に、「古池や」は巴塚のうしろに、「旅に病で」は芭蕉翁墓の右に立っている。

 旧東海道に戻り、京阪石山坂本線を潜り大津宿に入る。所々に古い建物もあるが、江戸時代のものというわけではない。雨もまだ残り、今夜の泊りも決まっていない。そちらに気を取られながら進む街角に「ロシア皇太子受難の地」の石碑が立っていた。(左写真) 「此附近露国皇太子遭難之地」と刻まれていた。

 明治24年5月11日、訪日中のロシア皇太子ニコライが当地で警備の巡査、津田三蔵に切りつけられた。幸い津田巡査はすぐに取り押さえられ、皇太子は軽傷ですんだという事件であった。

 事件のあと政府の圧力に屈せず、大審院院長の児島惟謙は法治主義の立場から、法定刑内で「無期懲役」の判決をして司法の独立を守ったという後日談がある。

 大津駅の周りにホテルを探したが、結局目に付いたスーパーホテルという格安のビジネスホテルが最も近くてそこへ決めた。

 午後5時13分、ホテルのそばの広い通り、中央分離帯の緑地にイチョウの巨木があった。(右写真) 中央分離帯の巨木というのは意外と珍しい。この木を「大津宿の巨木」とする。
 スーパーホテルにはツインの部屋はなくて、シングルで中が通えるドアのついた部屋を二つにするか、あるいは二段ベットの部屋にするかと聞く。笑ってしまったが、その二段ベットの部屋に決めた。二人で7000円少々で、しかも朝食付と実に安上がりであった。二段目は一段目の頭の部分に直角にあって、あまり閉塞感を与えない工夫がされている。

 ホテル代が浮いた分、夕食を豪華にとホテルの外へ出る。雨が止んで北東の空に虹が出ていた。(左写真) 明日は何とか晴れて欲しい。広い道を北へ歩くと湖畔に琵琶湖ホテルがあった。湖畔に出ればホテルは幾つかあったようだ。浜大津のアーカスに入り、「民芸茶屋 千都」で夕食。豪華にとはいかなかった。食後湖畔に出ると、湖水にはカラフルに電飾された幾つかの噴水が上がっていた。

 今回の歩数は 約30,000歩というところか。










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