



本日は草津より出発ということになる。午前10時35分、草津駅から歩き始めた。駅前の「うばがもち」の売店で、今夜、ホテルで食べようと一番小さい箱に入った「うばがもち」を買う。
草津本陣は前回の最後に見学したので、その先が我々の旅の続きである。本陣の斜め向かいが脇本陣跡であった。(左写真)
街中を進むと、左手に「草津宿街道交流館」という、町屋を模して造られた施設があった。(右写真) 「東海道と中仙道が出会うまち 草津宿がわかる歴史館」というキャッチフレーズに誘われて、200円の入場料を払い入ってみた。
何処にもある展示物の中に、旅籠の食事を再現したものがあり興味が引かれた。(左写真) 夕食と朝食が展示されていたが、想像していたより遥かに充実した食事という印象を受けた。特に朝食は現在でも安宿ならこれよりも簡単なものしか出ないと思った。
もう一つ体験コーナーに、重さを体験できる千両箱のレプリカがあった。余程腰を据えないと、腰を痛めてしまいそうな重さであった。昔の金持ちは辛かったに違いない。
午前11時47分、街を抜けて県道との交差点、「立木神社前」を横切った右側に、立木神社の境内があった。境内に入った所に、玉垣に囲まれた「立木神社のウラジロガシ」があった。(左写真) ご神木の巨木で有るが、治療の甲斐もなく枯れる寸前であるらしい。何とか生き返る期待を込めて、この木を「草津宿の巨木」とする。
「立木神社のウラジロガシ」の隣に句碑が一基(右写真の右)と、古い道標(右写真の左)があった。句碑には、
新草津川を渡り、草津市矢倉に入ると右側の角に瓢泉堂という瓢箪細工の店があった。(左写真) ここは東海道の草津名物「うばがもち」の店があったところである。
右の写真は駅前の「うばがもち」の売店でディスプレイされていたサンプルである。「うばがもち」は餅米で作った丸い団子を小豆のこし餡でくるんだもので、白餡をちょんとのせて乳母の乳房に似せた意匠が面白いが、昔からこのような形であったのかどうかは知らない。
近江路に入って、路傍に賽の神や道祖神、地蔵などの石仏を多く見掛けるようになった。そしてここへ来て、肌を白く塗り目鼻を描いて彩色された石仏が見られるようになった。地蔵盆を前に、子供達が辻々の石仏を洗い清め、彩色をする慣わしが、昔テレビで紹介されていた。あれは若狭の方の話であった。この辺りにもそんな風習が残っているのであろうか。
15分ほど歩いて、午後0時45分、県道を越えた右手に、「野路の玉川」の旧跡が小公園に整備されていた。(左写真) 公園いっぱいに植え込まれた紅白の萩の花が、今を盛りと咲き乱れていた。(右写真)
「野路の玉川」から数分進むと右側に溜池が見えてきた。溜池に島があり、橋がかかっていた。橋の入口には鎖が掛かり侵入禁止になっていた。橋が老朽化しているのであろうか。石柱に「浄財弁財天参道橋」とあった。(右写真) その橋の上に大きな蛇の抜け殻があって女房が大いに驚いた。この池を弁天池という。この池がこの先の月輪池と混同された時代もあったようだ。
大津市月輪の東海道沿いに月輪大池、下月輪池、山ノ神池の三つの大きな溜池があって、「月輪池」と総称されているという。月輪大池は先刻通った角から1キロメートルほど南にあるようだが、残りの二つの池は街道のすぐ南側にある。街道左側にすぐ見えるのは下月輪池(右写真)で東側が道路工事に削られて工事中になっていた。山ノ神池はその池の奥にあり、ここ全体が一里山公園となっている。
午後1時31分、大津市一里山に入って、JR瀬田駅に通じる広い道に交差する角に一里塚跡の石碑があった。(左写真)
住宅地を30分ほど歩いて、旧東海道はようやく瀬田の唐橋に通じる道路に出た。最初に迎えてくれたのが信楽焼であろうか、お馴染みの巨大な狸の像である。(右写真の左) 建設会社のビル前に立っている。目じるしには分りやすくてよい。観賞用の巨大カボチャと大きな冬瓜がお供えに置いてある。さらにその先に愛くるしいつがいの猫の大きな石像があった。(右写真の右) 石屋さんの広告なのだろう。これもよく目立つ。前に「右瀬田唐橋 左旧東海道」と刻まれた石柱が立ち、ここが旧東海道筋に当ることを意識したものである。
ようやく「瀬田の唐橋」に着く。(右下写真) 唐橋の東詰には常夜燈や歌碑、瀬田橋龍宮社の案内板などとともに、祠があった。(左写真上) 格子から覗くと彩色された地蔵像がぎっしりと収められていた。(左写真下)
俵藤太と唐橋の伝説は三上山の項で案内したが、瀬田川の龍王が俵藤太に三上山の大ムカデの退治を依頼し、藤太は自慢の弓で射止めて成敗したという伝説である。
瀬田の唐橋を大橋、小橋と渡り、すぐの道を左折して瀬田川沿いに南下すると石山寺に至る。旧東海道は左側に古い町屋が並ぶ道を直進する。昔料亭だったのだろうか、龍宮城のような装飾過多の建物もあった。(左円写真) また一軒の町屋には、中二階は土壁塗籠で虫籠窓、連子格子、ばったり、出格子などがよく残っていた。(左写真の右)
午後3時13分、大津市御殿浜で旧東海道が西へカーブする角に、「膳所城勢多口総門跡」の石標があった。(左写真) 膳所の城下町の南の入口で枡形になっていたのであろう。そばの古い建物は番所の建物の遺構という。屋根が二段になって、上の段は平瓦と丸瓦とを交互に用いて葺いた本瓦葺で、屋根の棟の両端にはシャチホコが載っていて、それらしい風格を感じる。丸瓦の先端には膳所本多氏の立葵の紋があるというが確認してこなかった。
西へ5分歩いて、京阪石山坂本線を越えたすぐ右に、若宮八幡神社がある。一見地域の氏神様と言う感じだが、長い歴史を背負った大変由緒ある神社のようだ。
右折し北へ10分ほど進んだ突き当たりの民家の前には、「晴好雨竒亭址」の石碑が立っていた。(左写真)
午後から段々と雲が厚くなり、ここへ来て雨がぱらぱらと降り始めた。予想していたより少し早い雨であった。左折してすぐ左手に神社があり、ケヤキの大木が見えたので入ってみた。ここにも膳所城の大手門が移設されていた。傘を差して写真撮影は少し辛い。(右写真)
大津宿に向って膳所の城下で何度も右へ左へと曲がったが、その最後の左折角に「膳所城北総門跡」の石標があった。膳所の城下町の北の入口である。(左写真)
午後4時16分、門前に幾つかの石柱の立つ義仲寺に着いた。(右写真) 門を入ると右側に受付があり入場料を200円払って入る。
境内には所狭しと墓や塚や句碑が立ち並んでいる。大磯の「鴫立庵」を思い出す。奥へ入ると左側に宝篋印塔の義中公墓(木曽塚)があった。(左写真の中) その左隣に巴塚(左写真の左)、右隣には芭蕉翁墓(左写真の右)があった。巴塚には案内板があった。
芭蕉は晩年、主に夏に義仲寺の無名庵に何度か滞在している。亡くなる三年前に伊勢の俳人又玄(ゆうげん)が、無名庵に芭蕉を訪ねたおり、
旧東海道に戻り、京阪石山坂本線を潜り大津宿に入る。所々に古い建物もあるが、江戸時代のものというわけではない。雨もまだ残り、今夜の泊りも決まっていない。そちらに気を取られながら進む街角に「ロシア皇太子受難の地」の石碑が立っていた。(左写真) 「此附近露国皇太子遭難之地」と刻まれていた。
事件のあと政府の圧力に屈せず、大審院院長の児島惟謙は法治主義の立場から、法定刑内で「無期懲役」の判決をして司法の独立を守ったという後日談がある。
スーパーホテルにはツインの部屋はなくて、シングルで中が通えるドアのついた部屋を二つにするか、あるいは二段ベットの部屋にするかと聞く。笑ってしまったが、その二段ベットの部屋に決めた。二人で7000円少々で、しかも朝食付と実に安上がりであった。二段目は一段目の頭の部分に直角にあって、あまり閉塞感を与えない工夫がされている。



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