


中央分離帯のある中央大通りを北へ向い、京町通りに入り西進する。この京町通り(左写真)が旧東海道である。
京町通りが国道161号線と交差する「京町1丁目」の交差点(右写真)が、かっては「札の辻」といわれた角である。この角を左折して南下する国道が旧東海道であり、これより西へ進む道が北国街道である。ここで呼ばれている北国街道(西近江路)とは、大津から敦賀を通って北陸に至る街道である。北国街道は現在の国道161号線にほぼ沿っている。
国道をさらに300m進んでJR東海道本線を越す。道路右側から覗くとJRの逢坂山トンネルの大津側口が見下ろされる。新旧三つのトンネルが見えた。(右写真)
午前8時32分、逢坂山トンネルを眼下に見たすぐ先右手に、京阪京津線の踏み切りの向うに関蝉丸神社が見える。(左写真) 由緒ありげな神社と判断して寄り道をした。案内板に由緒が詳しく書かれていた。
鳥居を潜ってすぐ右側に、小倉百人一首に入っている蝉丸の有名な歌の歌碑があった。(右写真)
さらに蝉丸の歌碑のそばに、拾遺集の紀貫之の歌碑が建っていた。(右写真の上)
境内の左手奥に角の摩滅した古い石燈籠があった。「時雨燈籠」と呼ばれている。(左写真)
やがて国道161号線が西から来た国道1号線に合流する。そのすぐ手前の右側に、「京都大学防災研究所 附属地震予知研究センター 逢坂山観測所」の看板があった。そこは東海道線の「旧逢坂山隧道」であった。一段上った先にアーチ型に石積みしたトンネルの入口があった。(右写真) トンネルの壁はレンガ積みである。使わなくなったトンネルの中に地震の観測所があるのであろう。
国道1号線の合流地点で信号を渡り、国道1号線と京阪京津線に挟まれた歩道を行く。(左写真) 前方で高架を名神高速道路の鉄橋が渡る。そこに486の距離ポストがあった。(左写真に円内)もちろん東京日本橋からの距離である。日本橋から三条大橋までの旧東海道は124里、約490kmの距離であるから、現代の国道と旧東海道の差はあっても、あと10km足らずの一息である。
いよいよ逢坂峠に差し掛かった。切割りにしたのであろう、高い石積みの壁に「車石」の絵がはめられていた。(左写真)牛車が米俵を山積みにして、車の幅に2列に並べられた敷石の上を転がっていく絵である。
逢坂峠を越えると大谷の集落に道が分岐する。その分岐の右側に「逢坂山関址」の石碑と「逢坂常夜燈」が建てられていた。(右写真) この「逢坂山関址」の石碑は昭和七年に建立されたもので、昭和の初めに国道1号線改修の際して立てられたものであるという。
午前9時24分、そのすぐ向うに「月心寺 走井」の行灯型看板と格子戸があった。(左写真) 開いた格子戸の中に円筒形の石の井戸があり、水を湛えていた。わずかに湧き出しているらしく水が溢れ出ている。水を湛えているのを感じないほど透明な水である。これが「走井」である。(右写真) 井戸壁面に「走井」と刻まれていた。なぜか国道よりもっと高い所にあるものとばかり思っていた。
月心寺を過ぎるとしばらく国道脇の歩道を行く。やがて右手から高架で交差する名神高速道路を潜って大津市追分町に入る。しばらく進んだ先に、京都へ至る道と宇治・奈良へ至る道を分ける三叉路がある。ここがかっての追分である。(左写真)
その先の閑栖寺の門前に、各所に保存されているといわれる車石の一つが展示され、先刻の案内板と似たような案内板があった。(右写真)
旧東海道は大津市横木で国道を陸橋で越して西へ続く。京都市山科に入る手前に、基礎の石垣、黒い板壁、白壁、屋根瓦のコントラストの美しい蔵があった。(左写真)都市景観の建造物指定の小さなプレートが壁に張ってあった。
午前10時14分、京都市山科区四ノ宮に入って、右側に街道に沿って、よく目立つ六角堂があった。京の六地蔵の一つと言われている徳林庵地蔵堂である。(右写真)
京から各地に通じる街道の出入口を守るといわれる「京の六地蔵」は、次の各地に建てられた六角堂にそれぞれ安置されている。
5分ほど進んだ山科駅の近くに、二階の唐破風が目立つ「三品」という和菓子の老舗があった。(左写真) 「義士餅」という看板を見て、そういえば山科は忠臣蔵の大石内蔵助が雌伏期間を過した土地であったと思い出した。この和菓子の老舗、御先祖さんが鍛冶師で内蔵助の刀も手掛けたいう。
すぐ先、山科駅前の道路との交差点、道路を渡ったピル脇の植え込みの中に、小さな石碑を見つけた。「明治天皇御遺跡」とある。(右写真)
「五条別れ」から間もなく広い府道に出て、JR東海道本線を潜った右側に森が見えてきた。この森が「天智天皇山科陵」である。旧東海道の沿道にある天皇陵はおそらく天智天皇陵が唯一ではなかろうか。少し道草になるが、今日は時間がたっぷりあるので参拝してゆくことにする。
天智天皇といえば中大兄皇子の時代に、藤原鎌足と謀って蘇我氏を倒し、「大化の改新」を断行したことで有名である。しかし天智天皇が漏刻(水時計)を作られたという話は知らなかった。この古事に因んで、京都時計商組合が昭和13年に天智天皇陵前に「日時計」の碑を建立した。それに気付いたのはすでに府道の信号を渡った後で、もう一度信号待ちをしてその碑を見に戻る気持ちは失せていた。
旧東海道は住宅地を抜けて少し登り、山に沿った細道を行く。ほどなく左側に「亀の水不動尊」がある。(右写真) 石垣が積まれた一ヶ所の四角い穴に亀の像が置かれ、乗り出した亀の口から水が出ていた。
この辺りは酔芙蓉目当てであろう、細い街道にちらほらと歩く人がいる。(右写真) しばらく進んだ草むらに「旧東海道」の石標を見つけ立ち止まっていると、追いついてきた女性が「酔芙蓉の寺はどこから上がるのか」と聞いてきた。どうやら「なだらかな上り口」の案内につられて、石段をやり過ごしてきたらしいが、その「なだらかな上り口」が見つからないようだ。パスしてきた我々には良いアドバイスができない。酔芙蓉を見にわざわざ来たが帰ろうかなと弱気なことをいう。せっかく来たのだから戻って見られたらと女房が責任のないことを言う。その場で別れたが首尾よく「酔芙蓉の寺」にたどり着けたであろうか。
旧東海道は下って府道に合流する。いよいよ道は京都市内に下って行く。蹴上の交差点を左折すると三条大橋まであと1キロメートルである。しかし午後2時の待ち合わせにはまだ2時間もある。
歩行者トンネルの上が舟を平地まで下ろすインクライン(傾斜鉄道)で、超広軌のレールがなぜか三本引かれていた。(右写真)
レール道を登っていくと軌道の左手に人の背丈ほどの直径の導水管が展示されていた。(左写真)
登りつめた所に琵琶湖から続く水路が来ている。(右写真) ここで舟は台車に乗り、斜面に敷かれたレールを下って行ったのである。詳しい案内板があった。
広い三条通りの向い側には古い町屋が並んでいた。(左写真) まだ約束の午後2時には1時間10分ある。軽く昼食を済ませておきたいと、「つち福」という古いうどん家に入った。出たらあと30分になっていた。
白川橋の東詰に京都に現存する最古の道標がある。(右写真) 刻まれている内容は以下の通り。
午後2時に15分前、時間調整に左折して大将軍神社に立寄る。案内板によると、ここには本殿塀の内側にイチョウの巨木がある。(左写真) 樹齢800年と伝えるというが、とてもそれだけの巨樹には見えない。おそらく何代目かのイチョウなのであろう。とにかく、これを「京の巨木」としよう。旧東海道の最後の巨木である。
三条大橋のすぐ手前に京都三条大橋郵便局があった。約束の2時にまだ少し時間があるので郵便局に入った。「風景入り日付印」をもらうためである。(右写真)
三条大橋の手前に高山彦九郎の銅像があった。(右写真) 高山彦九郎は延享4年(1747)上野国新田郡細谷村に生まれた。まだ幕府の権力の強い時代に尊王思想を鼓吹し、幕藩体制を厳しく批判した。幕末勤王の志士たちに多くの影響を与え、明治維新の先駆的な人物として知られている。彦九郎は寛政5年(1793)に久留米で自刃した。
午後2時ジャスト、三条大橋には人通りが多かった。K氏の姿を探した。信号の向うに橋の欄干にもたれたK氏がいた。「お久しぶり」が第一声であった。淡々と挨拶を終えた。東海道五十三次の完歩の感激は今一つであった。
K氏は巻いた紙を取り出した。奥さんに頼んで書いてもらったという。「祝完歩 旧東海道夫婦旅 2003.9.22 京都三条大橋」と達筆で書かれていた。聞けば奥さんは近所の子供たちに習字を教えると先生だそうだ。橋の上は風があって紙を広げるに苦労したが、K氏に写真を撮ってもらう。通行する人々に少しばかりの誇らしさと気恥ずかしさを感じながら。(左写真)
三条大橋の南西橋詰に弥次喜多の銅像があった。(左写真) 弥次喜多道中の帰りは中山道である。案内板の「旅の始まり」が我々夫婦を中山道の旅へ誘っているように思えた。そうである、我々の夫婦旅はまだ終ったわけではなかったのだ。


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