第 35 回 
  平成15年9月22日(月) 
 晴れ
 大津宿−逢坂山−山科−琵琶湖疏水−三条大橋
 “なにしおう逢坂山を越え友の待つ三条大橋へ”


 とうとう東海道夫婦旅の最終回を迎えた。今日の歩行距離は大津から三条大橋まで約7kmと考えていた。ならばゆっくりと歩いて2時間である。ところが、三条大橋まで7kmというのは見間違いで、実際は12kmと案内書に書いてあると女房がいう。これがメールでやりとりでの大きな間違いの第一であった。早速、朝、K氏に電話をして、三条大橋での約束を午前から午後2時に変更した。

 ホテルのサービスの朝食というのはバイキングとは名ばかりの、おにぎりと二、三のおかずのみの簡単なものである。これならサービスも頷ける。スーパーホテルを午前7時55分に出る。青空が出て今日は天気は良さそうである。

 中央分離帯のある中央大通りを北へ向い、京町通りに入り西進する。この京町通り(左写真)が旧東海道である。
 
 京町通りが国道161号線と交差する「京町1丁目」の交差点(右写真)が、かっては「札の辻」といわれた角である。この角を左折して南下する国道が旧東海道であり、これより西へ進む道が北国街道である。ここで呼ばれている北国街道(西近江路)とは、大津から敦賀を通って北陸に至る街道である。北国街道は現在の国道161号線にほぼ沿っている。

 国道を渡った向かい側の左角に、「札の辻」の標柱と「大津市道路元標」の標石があった。(右写真の円内)
 国道161号線には京阪京津線が路面電車として走っている。札の辻から200mほど進んだところで、京阪電車は国道から西側に逸れていく。そのすぐ先の左側に本陣跡がある。この辺りは八町通りと呼ばれていたようだ。
 
 そこに「明治天皇聖跡碑」が立ち、この地に本陣があったことを物語っていた。(左写真)
 国道をさらに300m進んでJR東海道本線を越す。道路右側から覗くとJRの逢坂山トンネルの大津側口が見下ろされる。新旧三つのトンネルが見えた。(右写真)

 午前8時32分、逢坂山トンネルを眼下に見たすぐ先右手に、京阪京津線の踏み切りの向うに関蝉丸神社が見える。(左写真) 由緒ありげな神社と判断して寄り道をした。案内板に由緒が詳しく書かれていた。
 鳥居を潜ってすぐ右側に、小倉百人一首に入っている蝉丸の有名な歌の歌碑があった。(右写真)

これやこの ゆくもかえるも わかれては 志るもしらぬも 逢坂の関     蝉丸

 この歌は後選集に「あふ坂の関に庵室をつくりてすみ侍りけるにゆきかふ人を見て」という詞書が付いて掲載されている。

 関蝉丸神社のルーツをたどると、京から東海、東山、北陸への出入口として逢坂山には一時関が置かれて、関の鎮守や疫病神の退散を祈願して坂神が祭られていた。いつか坂神は関明神と呼ばれるようになった。その後、蝉丸が逢坂山に庵を結び、いつしかその蝉丸と関明神が結びついて、関蝉丸神社となったという。

 「方丈記」の著者の鴨長明(1153〜1216)は「無名抄」の中で、「逢坂の関の明神と申すは昔の蝉丸なり。彼の藁屋の跡を失はずして、そこに神となり住み給うべし」と記していて、すでに当時から、「関明神」イコール「蝉丸」という話が一般に流布していたと思われる。

 さらに蝉丸の歌碑のそばに、拾遺集の紀貫之の歌碑が建っていた。(右写真の上)

逢坂の 関の清水に 影見えて 今や引くらん 望月の駒     紀貫之

 そばに「関の清水」が玉垣の中に入っていた。(右写真の下) 現在は清水の湧出はとまっている。

 逢坂山には三つの蝉丸神社がある。この清水町の「関清水大明神蝉丸宮」と片原町にある「関大明神蝉丸宮」、逢坂上大谷町の「蝉丸神社」である。

 「東海道名所図会」によるとそれぞれ、以下のように記されている。
 「関の清水」は「後世なぞらえ作る物か」には、別に驚くことではないがやや興冷めである。

 境内の左手奥に角の摩滅した古い石燈籠があった。「時雨燈籠」と呼ばれている。(左写真)
 旧道に戻ったすぐ先に、案内文が付いた「逢坂」の石標があった。
 「武内宿禰がこの地で忍熊王とぱったりと出会った」と書かれているが、「日本書紀」では忍熊王の反乱の鎮圧を命じられた武内宿禰が、忍熊王を追ってこの地まで来て、出会ったという。そう聞くと少し感じが変わってくる。

 やがて国道161号線が西から来た国道1号線に合流する。そのすぐ手前の右側に、「京都大学防災研究所 附属地震予知研究センター 逢坂山観測所」の看板があった。そこは東海道線の「旧逢坂山隧道」であった。一段上った先にアーチ型に石積みしたトンネルの入口があった。(右写真) トンネルの壁はレンガ積みである。使わなくなったトンネルの中に地震の観測所があるのであろう。
 トンネルの扁額の、三条実美の文字は「楽成頼功」という。

 国道1号線の合流地点で信号を渡り、国道1号線と京阪京津線に挟まれた歩道を行く。(左写真) 前方で高架を名神高速道路の鉄橋が渡る。そこに486の距離ポストがあった。(左写真に円内)もちろん東京日本橋からの距離である。日本橋から三条大橋までの旧東海道は124里、約490kmの距離であるから、現代の国道と旧東海道の差はあっても、あと10km足らずの一息である。
 
 国道の右側に赤い鳥居の「関蝉丸神社 上社」が見える。(右写真) ただ国道1号線の交通量の多さに向かい側には渡れそうにない。石段が赤い鳥居の奥まで登っていた。「東海道名所図会」に「逢坂山関明神蝉丸祠」として山頂近くまで石段が付いた社の絵が載っている。その絵を後日見て、この辺りは往時とそれほど大きく変わっていないと思った。そして蝉丸が山中の藁屋に住んで琵琶に明け暮れたというのはやはりこの上社の近くだったのだろうと思った。

 いよいよ逢坂峠に差し掛かった。切割りにしたのであろう、高い石積みの壁に「車石」の絵がはめられていた。(左写真)牛車が米俵を山積みにして、車の幅に2列に並べられた敷石の上を転がっていく絵である。
 逢坂峠は国道1号線の改修工事で、昭和の初めに4mほど掘下げられ、道幅も2倍の11mに拡張された。峠の掘下げは幕末にも行われ、最も深いところで6mも掘下げられたという。その2回合わせて10mである。昔は厳しい峠だったことがわかる話である。

 「車石」の話はその厳しい峠に「石畳」ではなく、「石のレール」を敷いたという話である。牛車の車輪の幅が140cmとほぼ決まっていたようで、石に轍を刻んでその間隔で2列に並べていった。牛車はその轍にはまって楽に曳くことができたのであろう。江戸時代、街道を荷車が通行することは禁止されていたと聞いていた。だから旧東海道には荷車の通る配慮は全くなかった。ところが京に近付いて初めて車道が整えられていたことを知った。ここは特別だったのであろうか。

 逢坂峠を越えると大谷の集落に道が分岐する。その分岐の右側に「逢坂山関址」の石碑と「逢坂常夜燈」が建てられていた。(右写真) この「逢坂山関址」の石碑は昭和七年に建立されたもので、昭和の初めに国道1号線改修の際して立てられたものであるという。

 旧東海道は右手に別れて大谷の集落に入るが、ほどなく国道に戻る。大谷の集落には三つ目の蝉丸神社の「蝉丸神社分社」がある。また鰻で有名な「かねよ」という老舗がある。ところが通行量の多い国道が渡れない。車が途切れることなく猛スピードでやってくる。信号も近くにはない。しばらくタイミングを計ってみたが、無理は止めて国道をそのまま進むことにした。大谷の集落はパスした訳である。

 
 国道を10分ほど進むと「逢坂山 名水餅」の錆びの浮いた看板があった。閉鎖されて久しいのであろう。店先に大きな石臼が放置されていた。石臼の壁面に「旧跡 □□餅」と刻まれていたが、2文字が物陰にかくれて見えなかった。多分「名水」の名があったのであろう。この臼で餅をついたのであろうか。

 午前9時24分、そのすぐ向うに「月心寺 走井」の行灯型看板と格子戸があった。(左写真) 開いた格子戸の中に円筒形の石の井戸があり、水を湛えていた。わずかに湧き出しているらしく水が溢れ出ている。水を湛えているのを感じないほど透明な水である。これが「走井」である。(右写真) 井戸壁面に「走井」と刻まれていた。なぜか国道よりもっと高い所にあるものとばかり思っていた。
 「東海道名所図会」によると、「逢坂大谷町茶店の軒端にあり。後ろの山水ここに走り下って湧き出ずること、瀝々として寒暑に増減なく甘味なり、夏日往来の人渇を凌ぐの便とす。」とあって、「走井」からほとばしり出ている水が描かれている。井戸端に集まる旅人や荷を運ぶ人々とともに、そばで餅をつくる女性が描かれている。

 月心寺は国道とは石垣と土塀で限られていた。塀の中に「明治天皇駐蹕之處」の石碑が建っているのが見えた。明治天皇もこの走井でお茶を飲まれたのであろう。

 月心寺を過ぎるとしばらく国道脇の歩道を行く。やがて右手から高架で交差する名神高速道路を潜って大津市追分町に入る。しばらく進んだ先に、京都へ至る道と宇治・奈良へ至る道を分ける三叉路がある。ここがかっての追分である。(左写真)

 この三叉路に追分の道標がある。道標には正面に「みきハ京みち」、左側面に「ひだりハふしミみち」、右側面には「柳緑花紅」と刻まれている。但しこの道標は昭和29年に作り直されたもので、往時の道標は大津市の琵琶湖文化館前に建っているという。

 「柳緑花紅」という句は「柳はみどり、花はくれない」とも読み、春の晴れやかな景色のたとえであるとともに、物をあるがままに受け入れようという禅の悟りの境地を現す句だともいう。

 中里介山の未完の大作「大菩薩峠 壬生と島原の巻」には、机竜之助が追分に差し掛かったところで、高足駄の壮士に一人旅同士の同行を求められる。
 「柳緑花紅(やなぎはみどりはなはくれない)」の札の辻を、逢坂山をあとにして、きわめて人通りの乏しい追分の道を、これだけの挨拶で、両人は口を結んだまま、竜之助の方が一足先で、高屐(こうげき)の武士はややあとから、進み行くこと数町。
とこの地のことが書かれている。このすぐあとの場面でいきなり竜之助と高足駄の壮士の果し合いが始まる。

 この小説でもわざわざ「『柳緑花紅』の札の辻」と呼んでいるが、どういうわけでこの言葉がこの道標に刻まれたのか、調べてみたが判らなかった。

 すぐ先の公民館前に追分町の案内柱があった。しかし案内文が薄くなって見えない。向かいの家から出てきたお婆さんが、「薄くなって読めないでしょう。今度役所に言っておきます」と自分の責任であるかのように申し訳なさそうに声をかけてきた。

 その先の閑栖寺の門前に、各所に保存されているといわれる車石の一つが展示され、先刻の案内板と似たような案内板があった。(右写真)
 旧東海道は大津市横木で国道を陸橋で越して西へ続く。京都市山科に入る手前に、基礎の石垣、黒い板壁、白壁、屋根瓦のコントラストの美しい蔵があった。(左写真)都市景観の建造物指定の小さなプレートが壁に張ってあった。

 午前10時14分、京都市山科区四ノ宮に入って、右側に街道に沿って、よく目立つ六角堂があった。京の六地蔵の一つと言われている徳林庵地蔵堂である。(右写真)
 京から各地に通じる街道の出入口を守るといわれる「京の六地蔵」は、次の各地に建てられた六角堂にそれぞれ安置されている。  地蔵堂の裏に人康親王供養塔がある。(右写真) 人康親王(?〜872)は仁明天皇の第四皇子で、28歳の時に失明し、貞観元年(859)に出家、この山科に隠棲したという。近くに人康親王の山荘跡や御墓もある。

 人康親王供養塔脇の石標には「人康親王・蝉丸供養塔」と刻まれている。このように人康親王は蝉丸と境遇が似通っているためか、並び称せられ、江戸時代には人康親王が琵琶の祖として信仰されたことなど、一部両者が紛れてしまっているように見える。

 5分ほど進んだ山科駅の近くに、二階の唐破風が目立つ「三品」という和菓子の老舗があった。(左写真) 「義士餅」という看板を見て、そういえば山科は忠臣蔵の大石内蔵助が雌伏期間を過した土地であったと思い出した。この和菓子の老舗、御先祖さんが鍛冶師で内蔵助の刀も手掛けたいう。

 後日、大石良雄の旧跡を調べてみると、岩屋寺、大石神社、福王寺、花山神社といったゆかりの地は、ここから南西へ直線距離で2kmほどの東山山系の東側山麓に固まってあった。いつか訪れることになるであろう。

 すぐ先、山科駅前の道路との交差点、道路を渡ったピル脇の植え込みの中に、小さな石碑を見つけた。「明治天皇御遺跡」とある。(右写真)
 
 渋谷街道との分れ道の角に道標が立っていた。「五条別れ」の道標である。(左写真) 正面に「左ハ五条橋 ひがしにし 六条 大佛 今ぐまきよ水 道」、側面に「右ハ三条通」と刻まれていた。宝永4年(1707)、沢村道範によって建てられた道標である。

 「五条橋」は「五条大橋」、「ひがしにし」は「東本願寺と西本願寺」、「今ぐま」は「今熊野観音」、「きよ水」は「清水寺」を指す。しかし「大佛」が判らない。京都で大仏といえば太閤秀吉が建造した方広寺の大仏であるが、築造間もなく地震で壊れてしまったはずである。

 調べてみると、秀吉の大仏の後、秀頼が再建している。しかしその大仏も地震で崩壊してしまった。よくよく不運な大仏である。その後、大仏は木造で再建されている。このことは知らなかった。この道標が出来た1703年当時はこの木造の大仏があった。つまりこの道標の「大佛」はこの方広寺の木造の大仏であったようだ。

 「五条別れ」から間もなく広い府道に出て、JR東海道本線を潜った右側に森が見えてきた。この森が「天智天皇山科陵」である。旧東海道の沿道にある天皇陵はおそらく天智天皇陵が唯一ではなかろうか。少し道草になるが、今日は時間がたっぷりあるので参拝してゆくことにする。

 参道に一歩入ると街の喧騒が嘘のような別世界である。静謐な参道を400mほど進むと、植え込みと玉垣に仕切られた正面に白塗りの鳥居があった。(右写真) 飾りのない御陵の共通様式である。玉砂利を踏む音が響くほどに静かで誰もいなかった。無人であった事務所に管理人が戻ってきたので、「陵印」について尋ねた。それぞれの御陵には「陵印」が置かれていて、参拝者に押して貰えることは知っていた。しかしここにはないという。近辺の「陵印」がまとめて近くのお寺に置かれているという。「陵印」の押印はあきらめた。

 天智天皇といえば中大兄皇子の時代に、藤原鎌足と謀って蘇我氏を倒し、「大化の改新」を断行したことで有名である。しかし天智天皇が漏刻(水時計)を作られたという話は知らなかった。この古事に因んで、京都時計商組合が昭和13年に天智天皇陵前に「日時計」の碑を建立した。それに気付いたのはすでに府道の信号を渡った後で、もう一度信号待ちをしてその碑を見に戻る気持ちは失せていた。

 天皇陵の向かいに冠木門が作られた公園があった。旧東海道はここより府道から南へ逸れて進む。公園には現代の日時計があった。(左写真) 日時計の影は、今まさに方位が真北の少し手前、11時から12時の間を指していた。正しくは午前11時18分である。

 旧東海道は住宅地を抜けて少し登り、山に沿った細道を行く。ほどなく左側に「亀の水不動尊」がある。(右写真) 石垣が積まれた一ヶ所の四角い穴に亀の像が置かれ、乗り出した亀の口から水が出ていた。

 江戸時代、日ノ岡峠の大改修の後、泉を掘り当てて休憩所を設け、その水を旅人や牛馬に供したという。江戸時代のドライブインである。その泉の水を亀の口から落としたため、「亀の水」と呼ばれている。どれだけの人がこの水でのどを潤し、生き返る思いをしたことであろう。

 
 続いて左側に急な石段が現れ、周りに酔芙蓉の花が盛んに咲いていた。(左写真) 石段の上は大乗寺というお寺で、「酔芙蓉の寺」と案内板があった。「花の見頃、九月中旬頃から約一ヶ月間」「なだらかな上り口 三〇米先 裏参道あります」などと案内があった。酔芙蓉は芙蓉の園芸種である。気持が引かれたが、急な石段を理由にパスした。

 この辺りは酔芙蓉目当てであろう、細い街道にちらほらと歩く人がいる。(右写真) しばらく進んだ草むらに「旧東海道」の石標を見つけ立ち止まっていると、追いついてきた女性が「酔芙蓉の寺はどこから上がるのか」と聞いてきた。どうやら「なだらかな上り口」の案内につられて、石段をやり過ごしてきたらしいが、その「なだらかな上り口」が見つからないようだ。パスしてきた我々には良いアドバイスができない。酔芙蓉を見にわざわざ来たが帰ろうかなと弱気なことをいう。せっかく来たのだから戻って見られたらと女房が責任のないことを言う。その場で別れたが首尾よく「酔芙蓉の寺」にたどり着けたであろうか。

 旧東海道は下って府道に合流する。いよいよ道は京都市内に下って行く。蹴上の交差点を左折すると三条大橋まであと1キロメートルである。しかし午後2時の待ち合わせにはまだ2時間もある。

 午後0時10分、道路の向うに煉瓦を積んだ歩行者用のトンネルが見えた。(左写真) 地図を見てトンネルを潜ると琵琶湖疏水、南禅寺などの名前が見える。インクライン、陸をゆく舟などの記憶も蘇えった。時間をそちらで費やそうと思った。

 女房に話して、地下鉄蹴上駅に降りて地下道を向こう側へ渡る。地下道へはエレベーターで降り、地上へはエスカレーターで上がる。便利なものだ。二日歩いて疲れた足には助かる。歩行者トンネルを抜けてまずは南禅寺に向った。豆腐料理を昼食にと思ったが、「高いばかりで」との女房の意見で取りやめ、南禅寺はトイレを借りただけで戻ってきた。

 歩行者トンネルの上が舟を平地まで下ろすインクライン(傾斜鉄道)で、超広軌のレールがなぜか三本引かれていた。(右写真)
 レール道を登っていくと軌道の左手に人の背丈ほどの直径の導水管が展示されていた。(左写真)
 登りつめた所に琵琶湖から続く水路が来ている。(右写真) ここで舟は台車に乗り、斜面に敷かれたレールを下って行ったのである。詳しい案内板があった。
 広い三条通りの向い側には古い町屋が並んでいた。(左写真) まだ約束の午後2時には1時間10分ある。軽く昼食を済ませておきたいと、「つち福」という古いうどん家に入った。出たらあと30分になっていた。

 白川橋の東詰に京都に現存する最古の道標がある。(右写真) 刻まれている内容は以下の通り。
 
   正面に、「是よりひだり ち於んゐん ぎおん きよ水 みち」
   右面に、「三条通り 白川橋」
   裏側に、「京都為無案内旅人立之 施主 為二世安楽」
   左面に、「延宝六戊午三月吉日」
 
 橋の手前を左折し、白川に沿った道を行くと、知恩院、祇園、清水寺に行く道である。京都に不案内な旅人のためにこれを立てたと書かれているから、東海道を上って来て、京に入ったばかりの旅人に、知恩院、祇園、清水寺は京に来たという実感を抱かせる道標である。延宝六年といえば1678年、江戸時代の初めである。

 2001年に、車に当てられ、折れてしまったというが、 「ぎおん」の「お」の字あたりにわずかに補修した痕が見えるぐらいできれいに補修されていた。

 午後2時に15分前、時間調整に左折して大将軍神社に立寄る。案内板によると、ここには本殿塀の内側にイチョウの巨木がある。(左写真) 樹齢800年と伝えるというが、とてもそれだけの巨樹には見えない。おそらく何代目かのイチョウなのであろう。とにかく、これを「京の巨木」としよう。旧東海道の最後の巨木である。
 三条大橋のすぐ手前に京都三条大橋郵便局があった。約束の2時にまだ少し時間があるので郵便局に入った。「風景入り日付印」をもらうためである。(右写真)

 窓口で頼みながら、あれっ?、今日どうして郵便局が開いているのだろうと思った。その時まで21日〜23日まで連休だと思い込んでいた。連休にしたのは自分の職場の都合で、全国的には月曜日の平日であったのだ。これがメールのやり取りの中で犯した二つ目の間違いであった。ここまで来てそれに初めて気が付いた。平日に計画して、三条大橋での出迎えを期待したずうずうしさを今更ながら恥じた。風景印の図柄は「三条大橋と大原女」である。

 三条大橋の手前に高山彦九郎の銅像があった。(右写真) 高山彦九郎は延享4年(1747)上野国新田郡細谷村に生まれた。まだ幕府の権力の強い時代に尊王思想を鼓吹し、幕藩体制を厳しく批判した。幕末勤王の志士たちに多くの影響を与え、明治維新の先駆的な人物として知られている。彦九郎は寛政5年(1793)に久留米で自刃した。
 午後2時ジャスト、三条大橋には人通りが多かった。K氏の姿を探した。信号の向うに橋の欄干にもたれたK氏がいた。「お久しぶり」が第一声であった。淡々と挨拶を終えた。東海道五十三次の完歩の感激は今一つであった。

 K氏は巻いた紙を取り出した。奥さんに頼んで書いてもらったという。「祝完歩 旧東海道夫婦旅 2003.9.22 京都三条大橋」と達筆で書かれていた。聞けば奥さんは近所の子供たちに習字を教えると先生だそうだ。橋の上は風があって紙を広げるに苦労したが、K氏に写真を撮ってもらう。通行する人々に少しばかりの誇らしさと気恥ずかしさを感じながら。(左写真)

 鴨川の清流には初秋の日差しがいっぱいで水鳥が浮いていた。(右写真) 上を高速道路が走る日本橋とは全く対照的な景色であった。日本もまだまだ捨てたものではない。

 三条大橋の南西橋詰に弥次喜多の銅像があった。(左写真) 弥次喜多道中の帰りは中山道である。案内板の「旅の始まり」が我々夫婦を中山道の旅へ誘っているように思えた。そうである、我々の夫婦旅はまだ終ったわけではなかったのだ。
 夜はK氏の枚方の自宅へ泊めていただいた。奥さんの心のこもった料理に、お赤飯が添えられていたのには改めて感激をした。

 今日の歩数は推定30,000歩である。










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