第 11 回 〔前半〕
平成13年10月13日(土)
快晴
岩淵宿(間の宿)−中之郷−蒲原宿−
“蒲原宿に往時の宿内の名残を見る”
アフガニスタンのタリバンへの空爆が始まって1週間、アメリカでは第二次テロの危険性がうわれ、緊張が高まっている。その中で、炭疽菌による発病や死者が出て、パニックになりかかっている。
そんなニュースに接して思い出すのは阪神大震災のことである。「東海道五十三次ウォーク」の時、前回歩いた原宿〜岩渕宿を歩いたのは阪神大震災の2週間後のことであった。「ウォーク」の最初に次のように書いた。
東海道ウォーキングの第2回を終えた次の日の早朝、淡路島を震源地とした直下型の大地震が発生した。その後、日本をひっくり返すような大騒ぎとなった阪神大震災の幕開きであった。神戸や西宮ではどんな地震にも壊れないと言われていた高速道路が、新幹線が、ビルが次々と脆くも潰れてしまった。百数十ヶ所から火が出て、倒壊した家屋が次々と燃えていった。道路が寸断されて消防車は火災現場まで行けず、やっと到着しても消火栓が潰れて放水出来ず、燃えるまま見ているしかなかった。地震とその後に起こった火災による犠牲者は5,000人を越えた。倒壊したビルや家屋や、一面の焼け野原は戦災の跡を思わせた。日本の西と東を結ぶ大動脈の全てがズタズタに切断されてしまった。その日から人々は二本の足で歩くことを始めた。買い出しに行く人、被災した知人を避難所に見舞う人、5時間も6時間もかけてひたすら歩く人の列が蟻の行列のように続いた。皮肉にも酔狂な我々のようなウォーキング族が毎日テレビに映っていた。
悲惨な天災も離れていると実感がわかないから暢気なことを書いていた。今度のテロも空爆も所詮は対岸の火事で、日本にいては本当の実感はない人がほとんどだと思う。日本の報道に切迫感は感じられないのはその所為であろう。本当は大変なことが起こっている。「パンドラの函」が開けられたのである。
午前9時38分、富士川駅を出発。前回下って終えた坂を登り返す。坂を登ったところを左折し旧東海道歩きに入る。
東名のガードを潜る手前に 「中之郷」の道しるべと旧東海道の案内板があった。(左写真)
吉原宿
宿境まで一里三十町
→【富士川町 中之郷】→ 蒲原宿
宿境まで二十三町
東名を潜った正面に大きな古い板碑があった。「野田山不動明王」と真中に書かれ、両側に「聖徳太子」と「弘法大師」の名前が読めた。東京の三田講が立てた碑という。さらに、その隣にはかなり風化した石碑があり、「山田 薬師如来」と読めた。後日地図で確かめると、右手に道を取って山に入っていくと山中に薬師堂があった。不動尊がどの辺りにあるのかは判らなかった。旧東海道は左に東名に沿うように進む。
宮町を抜け東海道新幹線にぶつかって旧東海道は唐突に切れた。僅かに歩道だけが細い地下通路で向こう側に繋がっていた。車道は少し手前から左に分かれ新幹線を地下道で潜っているようだ。
この辺り前回の岩渕宿の宿内に続いて、秋葉燈が続いた。
「中之郷」道しるべの手前の境町は町名の通り岩渕村と中之郷村の境にある。その村境に文政三年(1823)建立の秋葉燈がある。(右写真の左)
また東名を潜った先の宮町には祭礼の飾り付けがされていた宇多利神社参道脇に安政六年(1856)建立の秋葉燈があった。(右写真の中)宇多利神社は地図で見るとはるか山中にあり、ここはその登り口のようだ。
東海道新幹線を潜った先の小池には、地下道を潜った車道と旧道が再度合流する地点の左側に嘉永四年(1851)建立の秋葉燈あった。(右写真の右)
これらの秋葉燈を見ると交通の要所に建てられており、境標識や道標としての役割を負っていたものと思われる。
小池の秋葉燈の少し先には人家の庭先に「明治天皇御駐輦之趾」の石碑が立っていた。明治天皇の巡幸の折り、御休憩された場所である。(「輦(れん)」は天子の乗り物。この場合は輿か?)
旧東海道は東名沿いに坂を登り、東名の上の渡る橋を通って、蒲原宿へ下る。古くはもっと富士川寄りの河岸段丘上の小池坂を上り七難坂を下ったようだが、河岸段丘崩壊の危険があったため、この道に付け替えた。それでこの坂を地元では「新坂」と呼んでいる。
東名上の橋辺りが峠になっていたのだろうが、東名が通ってしまい往時の面影はない。わずかに新坂の途中の山の斜面に三基の馬頭観音が並んでいて街道の名残を感じることが出来た。(左写真)
旧東海道が東名上の橋を渡るポイントは知っている限りではここだけである。脇街道の姫街道には一ヶ所あったが。ウォークでは「この下は何度も通ったが、上を通るのは最初で最後であろう。」と書いたが、二度目となった。午前10時24分、橋の上から富士山が見事に見えた。橋は高いネットで覆われていたので、カメラを網目に合わせて撮った。しかし、角に少し網が写り込んでしまった。(右写真)
だらだらっと南へ下り道路に付き当ったところで蒲原宿に出た。町並みに出てすぐに「蒲原の一里塚跡」に至った。街道左側、一角だけ建物を引っ込めた所に、赤い鳥居と小さな祠があり、手前に「一里塚跡」の石碑があった。(左写真) そばの渡邊家の玄関口には「一里塚」の木造の行灯が置かれていた。(左写真の右) 多分、蒲原宿で400年祭関連のイベントがあって、その折りに使われたものであろうか。この後、宿場の各所に見られたが門口に出してあるものは少なかった。
蒲原町教育委員会の案内板によると、
東海道一里塚跡
一里塚は慶長九年(1604)徳川幕府が江戸日本橋を起点として、一里(約四km)ごとに築いた塚です。蒲原宿の一里塚は江戸日本橋から数えて、三十八番目のものです。
一里塚は、道路をはさんで両側に約二mほど高く土を盛り、榎か松を植えて、旅人に見やすいように築きました。最初の一里塚は、元禄十二年(1699)の大津波で流出して、宿の移転にともなってここに移されたものですが、当時の面影はありません。
一里塚のすぐ先、山側へ登る小道の入口に「このおく 北條新三郎の墓」の標柱があった。「北條新三郎」とは誰なのか、道草してみることにする。人家の間から山道をたどった先に墓石が一つ。(右写真) 武田軍の攻撃に落城した蒲原城の城主であった。標柱にはお墓、案内板には供養碑とあった。お墓なのか、供養碑なのか。この二つは何が違うのか。疑問が残ったまま街道に戻った。
蒲原町教育委員会の案内板によると、
北條新三郎の碑
永禄十二年(1569)十二月六日、蒲原城は武田軍の攻撃に遭い、落城しました。
城主北條新三郎は、城から抜け出し常楽寺まで逃れましたが、寺に火を付け自害したと伝えられています。その後供養のために、ここに碑をつくりました。碑には「常楽寺殿衝天良月大居士」の戒名が記されています。常楽寺につきましては、現在裏付ける資料は残っていませんが、「奥の院ここより五丁」という道標や常楽寺の奥の院と考えられる観音穴があることから、この近くに常楽寺があったことが推察されます。
続いて山側に諏訪神社があった。(右写真) 道路からすぐ石段になって、段々畑状に境内があり本殿の高みへ導かれていく。ウォークでは「諏訪神社の石柱が『神社』の部分を残して折れていた。探すと常夜燈の近くに石柱の一部が転がっていた。」と書いた。その折れた石柱は新しくなっていた。(右写真の左端) 新石柱には次のように刻まれていた。
初代社号標柱石ハ中村重吉氏ガ大正九年建立スルモ昭和四十九年七夕豪雨ニヨリ破損シコレヲ再建ス
縁起によるとこの神社は富士川の水難を逃れるべく創建されたが、皮肉にも水害や津波や地震で何度も破壊されて、その都度場所を山側に移して再建されている受難の神社であった。
案内板によると、
諏訪神社由来記
諏訪神社は保元年間、今から八二〇年前吹上の丘六本松附近に建てられた御宮に始まる。
当時五見坂附近は六本松の辺りまでなだらかな丘陵が続き、すぐ東側に富士川の奔流が流れ富士川はしばしば氾濫しては、丘陵をけずりては附近の住家や農作物に被害を与えていた。住民は水害から逃れようと相談の結果、長野県上諏訪大明神の御分霊を勧請して、六本松の池の畔に諏訪明神宮を創建し、水難守護神としてお祀りしたのである。
いつの頃か池は水害で流されたが、土地の人々はこの池を諏訪が池と呼んでいたと云ふ。その後も富士川の水害は度重なり、折角造営した御宮も流失の危険に迫られ、元和六年の水害の折り、現在の地に遷座し、本社殿・拝殿・篭堂・玉垣等を造営した。
天明六年惜しくも火災の為め烏有に帰し、仮宮を建てた。天保二年渡辺利左衛門氏を始めに、町内の人々の浄財により本社殿拝殿を建立したが、安政の大地震による山崩れの為め押出され、現在の場所に転座した。
大正九年遷座三百年を記念し、記念碑を建立し大祭を行った。碑文は当時蒲原町に在籍していた、正二位勲一等伯爵田中光顕閣下の揮毫である。
※「烏有に帰す」は「何もなくなること」
諏訪神社2段目の境内には樹齢500年の椎の木が御神木になっていた。(一説には樹齢700年) 天正年間、約500年前に神社遷座の折りに植樹されたものと伝わっている。大きさは不明だが、樹高はとにかく幹周は3mはありそうである。(左上写真) 「蒲原宿の巨木」としよう。
諏訪神社のすぐ下がやや広くて、蒲原宿の東木戸のあった所である。桝型になった部分に「蒲原宿東木戸」の石標、「蒲原宿 東木戸」の道しるべ、常夜燈などが設置されていた。(右写真) ウォークの時、ここは整備中であった。常夜燈は古さからして石垣の上にあったという常夜燈を移設したもののようだ。
富士川町
宿境まで七町
→【蒲原町 蒲原宿 東木戸】→ 由比宿
宿境まで三十九町
蒲原町教育委員会の案内板によると、
東木戸・常夜燈
江戸時代の宿場の入り口には、見附や木戸と呼ばれるものがありました。蒲原宿の入り口には木戸が設置されており、東の入り口のことを「東木戸」と呼んでいました。なお木戸と木戸との間のことを「木戸内」といいます。東木戸は、わずかではありますが桝型になっています。
また東木戸には「常夜燈」が残されています。常夜燈とは、今でいう街灯にあたるもので、各所に設置し、暗い夜道を明るく照らし続けていました。東木戸にある常夜燈には「宿内安全」という文字が刻まれており、宿の入り口を照らしていました。文政十三年(1831)ものと考えられています。
ウォークの時は古い建物があるとは思ったが、足を留めたのは平岡本陣だけであった。400年祭に際して整備され、案内板が多数設置された結果、蒲原宿には時代々々の意匠の異なった建物が数多く残っていたことにあらためて気付かされた。
海側に、奥の土蔵が見えるように庭を開けた家があった。「木屋の土蔵」は当時としては珍しい三階建ての「四方具」という耐震工法で建てられ、安政の大地震でも倒壊を免れた土蔵である。(左写真)
蒲原町教育委員会の案内板によると、
木屋の土蔵(渡邊家)
渡邊家(屋号は木屋)は江戸時代末期、問屋職(宿駅の長)を代々務めた旧家です。天保年間の「家屋敷配置図」によると当家は街道に面して間口二十間余(約36m)の敷地に、本宅や数棟の蔵や穀倉がある大きな家でした。
しかし、安政の大地震で大半の建物が倒壊し、今では土蔵のみが残っています。この土蔵は東海道でも唯一と言えるほどの珍しい「四方具」(しほうよろい)という工法で、内部には江戸時代の貴重な資料が保管されています。
※「四方具」は当時の耐震工法です。
海側の米穀会社前に、最近出土したという「馬頭観音」の石塔が祀られていた。(右写真) 東海道400年祭がこういう文化財を発掘させたともいえる。それだけでも400年祭は大きな意義あったといえる。
株式会社望月米穀の案内板によると、
「馬頭観音」供養石塔の由来 文:東漸寺住職 小西亮衛
かって馬が、貨客の運搬、農作業など、生活の重要な役割を担っていた時代、「馬頭観音」は馬の守り神として、人々の信仰を集めていました。また、路傍に立てられたその石像や供養塔は往還(街道)の道しるべとしても親しまれていました。
江戸時代、このあたりから蒲原宿東木戸にかけての間は伝馬や宿役に使われた馬を飼う家が並んでいました。この付近にも昭和の初め頃まで馬小屋があり、馬頭観音が祀られていたとつたえられていましたが、昨年11月、通りの北側の駐車場整備の際、半分土に埋もれた、この馬頭観音供養石塔が発見されました。
そこで、往時の人々の馬に寄せるあたたかい心を偲びこの場所に新たに安置して、お祀りすることにいたしました。
八坂神社入口の角に、塗り壁と一部なまこ壁の元「佐野屋」という商家があった。町家には珍しい寄せ棟造りの屋根で、最近改装したのか白と黒の壁が美しい建物であった。(左写真)大柄ななまこ壁のデザインは現代アートに通じるものがある。
後刻、パンフレットを読んだ女房があのお宅は蒲原町の町長さんの家だという。
後日、ネットで調べたところ、蒲原町の現町長さんは山崎寛治氏で、この家の佐藤さんとは苗字が違う。最近交替があったのだろうか。いずれにしても蒲原宿の保存と町興しの熱意の源が納得できた。動機はどうあれ我々旅人のとっては大変嬉しいことである。
蒲原町教育委員会の案内板によると、
なまこ壁に「塗り家造り」の家(佐藤家)
当家は、元「佐野屋」という商家でした。壁は塗壁で、町家に多く見られる造りですが、このような町家を「塗り家造り」といいます。
「塗り家造り」は「土蔵造り」に比べて壁の厚みは少ないが、防火効果は大きく、家紋入りの雨樋に見られるように、昔から贅沢普請といわれています。
なまこ壁の白と黒のコントラストが装飾的で、黒塗りの壁と街道筋には珍しい寄棟の屋根とが調和して、重厚感にあふれています。
元「佐野屋」の斜向かいにも同様の商家の建物があった。(右写真)
蒲原町教育委員会の案内板によると、
商家の面影を残す「塗り家造り」(吉田家)
当家は、昭和まで続いた「僊菓堂」という屋号で和菓子を作る商家でした。
玄関は、なまこ壁の「塗り家造り」で、中に入ると柱がなく広々とした「店の間」づくりになっていて、商家らしい雰囲気が残っています。土間には、当時の看板が掲げられており、「中の間」には、らせん状の階段があって、二階に通じています。
山居沢(さんきざわ)と呼ばれた川のそばの一角に「問屋場」があった。現在、その面影はないが、山居沢は馬の洗い場となり、またその川堤は馬のつなぎ場になっていたという。
蒲原町教育委員会の案内板によると、
問屋場跡
問屋場は、幕府の荷物の取り継ぎ、大名の参勤交替の折の馬や人足の世話をはじめ、旅人の宿泊や荷物の運搬の手配をしたところで、宿のほぼ中央にあたるこの場所に設置されていました。
ここに問屋職、年寄、帳付、迎番、馬指、人足方、下働、継飛脚、御触状、持夫の人々が、毎月十五日交替で詰めて宿の経営にあたっていました。
その先の山側に元旅籠の「和泉屋」が今は2軒に仕切られて現存している。(左下写真右側の旗の立っている所) 午前11時10分、手前の「お休み処」に入ってみる。半分を町で買い上げて休憩所になっていた。お茶をいただきながら係りの小母さんとお話をした。
お休み処は左にやや傾いていて、柱と建具に2、3cm隙間が開いている。「自分の在所も町家だったが、町家は縦には強いけど横には弱い。隣同士でもたれ合って立っているようなところがある。」などと知ったかぶりの話をする。
古い蒲原の写真が展示されていた。自分の子供の頃にはけっこうこんな町並みがどこにでもあった。変わったといっても高々この50年の間である。しかし、この短い期間に随分大切なものを失い、便利ではあるが、せいぜい数十年しか持たないペラペラなものに変えてしまったものである。
かって、蒲原の産業として「古代塗り」の伝統工芸があった。漆を盛り上げて模様を描く斬新な工芸技術であった。その「古代塗り」のお盆が何面か展示してあった。蒲原に漆の技術があったのは初耳であった。しかしその技術も戦争で中止され、そのまま廃れてしまった。
蒲原町教育委員会の案内板によると、
旅籠「和泉屋」(鈴木家)
当家は、江戸時代「和泉屋」という上旅籠でした。天保年間(1830〜44)の建物で、安政の大地震でも倒壊を免れました。
今に残る二階の櫛形の手すりや看板掛け、柱から突き出た腕木などに江戸時代の上旅籠の面影を見ることができます。
弘化二年(1845)の「蒲原宿商売調帳」に、「和泉屋間口間数6.1」とあり、現在は鈴木家4.1間、お休み処2間の二軒に仕切られています。
お休み処から出ると隣の鈴木商店の主人に呼び込まれた。(左写真左側の店) 店先には所狭しと骨董品やら古民具が並んでいる。その一つ一つを説明してくれた。女房は中でも引出式になったの弁当箱が気に入った様子であった。ランプの下がった天井にこの家の紋、「三つ藤巴」の紋がデザインされていた。
鈴木商店も斜向かいに黒塀に囲まれた平岡本陣のがあった。(右写真)
蒲原町教育委員会の案内板によると、
本陣跡
本陣は、大名宿・本亭ともいわれ、江戸時代に街道の宿場に置かれた勅使大名、公家などの貴人が宿泊した大旅籠です。主に大名の参勤交代の往復に使用されました。原則として門、玄関、上段の間がある点が一般の旅籠と異なりました。ここは当宿の西本陣(平岡本陣)の跡で、かってはここより百m程東に東本陣(多芸本陣)もありました。
本陣の当主は名主、宿役人などを兼務し、苗字帯刀を許されていました。
海側にある総欅造りの磯部家は二階の板ガラスが手作りで、遠めにも反射する影が歪んで見える。(左写真)
蒲原町教育委員会の案内板によると、
手作りガラスと総欅の家(磯部家)
明治四十二年(1909)に建築された当家は、素材の美しさから近世以降、寺院建築に多く用いられた欅を材とし、柱や梁から一枚板の戸袋に至るすべてが欅づくりで、永年磨き込まれた木目がみごとです。
二階の窓ガラスは、波打つような面が美しい手づくりのガラスです。
日本における板ガラスの生産開始が明治四十年ですから、国産、輸入品の見分けは困難ですが、当時の最先端の建築用材といえます。
柵区会館前から南に下る道に「御殿道」の名が残っている。また背後の山は「御殿山」と呼ばれ、桜の名所である。実はこの辺りに東海道を往来する将軍家の宿舎となった「蒲原御殿」があった。その後使用されなくなり、元禄12年(1699)の大津波で宿場移転にともない、この御殿地内に街道を通し、新しい宿場とした。
蒲原町教育委員会の案内板によると、
御殿道跡
かって、このあたりに「蒲原御殿」がありました。はじめは武田氏を攻めて帰る織田信長を慰労するために徳川家康が建てた小規模なものでしたが、二代将軍秀忠、三代将軍家光が東海道を往来するたびに拡張、整備され、規模も大きくなりました。御殿の正確な位置はわかりませんが、このあたり一帯の相当広い地域を占めていたと思われます。背後の山が「御殿山」で、ここから下る道を「御殿道」と呼んでいます。ちなみに、寛永十一年(1634)の家光上洛以降、「蒲原御殿」は使用されなくなりました。
柵区会館前はかっての高札場跡である。
蒲原町教育委員会の案内板によると、
高札場跡
高札とは徳川幕府の禁令、定などを記した立札のことで、辻札ともいわれました。宿場や村には必ず高札場が設けられ、民衆に法令や定を周知させていました。正徳元年(1711)に出された五高札が有名で @伝馬に関する定 A忠孝を奨励する定 B毒薬や贋金銀売買禁止の定 C切支丹宗門禁制の定 D火付(放火)重罪の定 が墨書されて掲げられていました。また貨客運搬の駅馬や人足の賃金も改定のたびに掲げられました。
街道にはこの先の山側に大正時代の洋館の「旧五十嵐歯科医院」がある。(右写真) 今は歯科医院は営業していないようで、引戸が開いていたので中に入ってみる。右側に町家特有の奥まで通じる土間の通路があり、それに並行して二階に通じるしっかりした木の階段があった。中に入れば普通の町家である。見学者があるのか二階で声がしたので、声を掛けないで出た。
蒲原町教育委員会の案内板によると、
大正時代の洋館 「旧五十嵐歯科医院」
旧五十嵐歯科医院は、当町にいくつかある大正時代の洋館の中で代表的なものです。
大正の初め、帝国ホテルに代表される西洋風の建築が移入され、洋館造りが流行しました。
南側がガラス窓、下見板張り(羽目の板が横に張ってある)の白いペンキが眩しい洋館でしたが、内部はほとんど和室で、水道がなかった時代に井戸水を二階の診療室まで通したポンプや配管も残っています。名医として知られ、田中光顕伯爵も患者の一人でした。
この後、「蔀戸のある家」(左写真)とか「美しい格子戸の家」(右写真)が続く。
蒲原町教育委員会の案内板によると、
蔀戸のある家(志田家)
安政元年(1854)の大地震の翌年に再建され、東側二階建て部分が当時の建物です。
蔀戸は日光や風雨などをさえぎる戸ですが、多くは上下二枚に分かれていて上半分を長押から吊り、下半分は懸け金で柱に打った寄せにとめ、全部開放するときは下のものは取り外せます。昼は上に吊り上げて目隠しに用い、夜は下ろして戸締まりの役を果たしました。
今では当町でも数軒しか残っていない貴重なものです。
蒲原町教育委員会の案内板によると、
美しい格子戸の家(増田家)
格子戸は、古くは平安時代に初めて現れた建具で、伝統的な日本建築工法の一つです。細い角木を縦横に間をすかして組み、窓または出入り口に取り付けますが、組子の組み方にも幾種類かあり、また、組子だけで吹通しのものや、一面に板を張るものなど、気候風土に合わせた工夫がなされています。
かっては街道沿いに格子戸の家並みが続き、毎日主婦によって磨き込まれた美しい木目が、この町独特の情緒ある風景でした。
旧東海道はその後左折し、200mほど進んで、午前11時40分、県道396号線に出る。バイパスが出来るまでの国道1号線である。この県道に出るところが蒲原宿西木戸である。「蒲原宿西木戸」の道しるべがあった。この西木戸の近くに「茄子屋の辻」があって大乱闘事件があったことで有名である。
富士川町
宿境まで十七町
→【蒲原町 蒲原宿 西木戸】→ 由比宿
宿境まで二十九町
蒲原町教育委員会の案内板によると、
西木戸・茄子屋の辻
蒲原宿の西の入り口には木戸があり、「西木戸」と呼ばれていました。
もともと宿場は、西木戸より南側の古屋敷と呼ばれている所に広がっていましたが、元禄十二年(1699)の大津波によって壊滅的な被害を受け、蒲原御殿があったとされる現在の地に移動しました。
この西木戸の近くに青木の茶屋(茄子屋)があり、「茄子屋の辻」で乱闘がおこりました。
承応2年(1653)、高松藩の槍の名人大久保甚太夫等が江戸へ行く途中、薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで口論になり茄子屋で薩摩藩の大名行列と乱闘が始まり、七十人近くを倒しました。しかし、最後に追っ手に見つかり殺されてしまいました。
当時の竜雲寺住職が墓地に葬り、供養しました。甚太夫の槍の穂先は、現在寺宝として、保存されています。
この後、旧東海道は県道396号線を2.5kmほど西進する。蒲原駅を左に見て、東名高速を潜って由比町に入った。
このページに関するご意見・ご感想は:
kinoshita@mail.wbs.ne.jp
SEO
掲示板
[PR]
爆速!無料ブログ
無料ホームページ開設
無料ライブ放送