



午前9時38分、富士川駅を出発。前回下って終えた坂を登り返す。坂を登ったところを左折し旧東海道歩きに入る。
この辺り前回の岩渕宿の宿内に続いて、秋葉燈が続いた。
旧東海道は東名沿いに坂を登り、東名の上の渡る橋を通って、蒲原宿へ下る。古くはもっと富士川寄りの河岸段丘上の小池坂を上り七難坂を下ったようだが、河岸段丘崩壊の危険があったため、この道に付け替えた。それでこの坂を地元では「新坂」と呼んでいる。
旧東海道が東名上の橋を渡るポイントは知っている限りではここだけである。脇街道の姫街道には一ヶ所あったが。ウォークでは「この下は何度も通ったが、上を通るのは最初で最後であろう。」と書いたが、二度目となった。午前10時24分、橋の上から富士山が見事に見えた。橋は高いネットで覆われていたので、カメラを網目に合わせて撮った。しかし、角に少し網が写り込んでしまった。(右写真)
だらだらっと南へ下り道路に付き当ったところで蒲原宿に出た。町並みに出てすぐに「蒲原の一里塚跡」に至った。街道左側、一角だけ建物を引っ込めた所に、赤い鳥居と小さな祠があり、手前に「一里塚跡」の石碑があった。(左写真) そばの渡邊家の玄関口には「一里塚」の木造の行灯が置かれていた。(左写真の右) 多分、蒲原宿で400年祭関連のイベントがあって、その折りに使われたものであろうか。この後、宿場の各所に見られたが門口に出してあるものは少なかった。
一里塚のすぐ先、山側へ登る小道の入口に「このおく 北條新三郎の墓」の標柱があった。「北條新三郎」とは誰なのか、道草してみることにする。人家の間から山道をたどった先に墓石が一つ。(右写真) 武田軍の攻撃に落城した蒲原城の城主であった。標柱にはお墓、案内板には供養碑とあった。お墓なのか、供養碑なのか。この二つは何が違うのか。疑問が残ったまま街道に戻った。
続いて山側に諏訪神社があった。(右写真) 道路からすぐ石段になって、段々畑状に境内があり本殿の高みへ導かれていく。ウォークでは「諏訪神社の石柱が『神社』の部分を残して折れていた。探すと常夜燈の近くに石柱の一部が転がっていた。」と書いた。その折れた石柱は新しくなっていた。(右写真の左端) 新石柱には次のように刻まれていた。
諏訪神社のすぐ下がやや広くて、蒲原宿の東木戸のあった所である。桝型になった部分に「蒲原宿東木戸」の石標、「蒲原宿 東木戸」の道しるべ、常夜燈などが設置されていた。(右写真) ウォークの時、ここは整備中であった。常夜燈は古さからして石垣の上にあったという常夜燈を移設したもののようだ。
ウォークの時は古い建物があるとは思ったが、足を留めたのは平岡本陣だけであった。400年祭に際して整備され、案内板が多数設置された結果、蒲原宿には時代々々の意匠の異なった建物が数多く残っていたことにあらためて気付かされた。
海側の米穀会社前に、最近出土したという「馬頭観音」の石塔が祀られていた。(右写真) 東海道400年祭がこういう文化財を発掘させたともいえる。それだけでも400年祭は大きな意義あったといえる。
八坂神社入口の角に、塗り壁と一部なまこ壁の元「佐野屋」という商家があった。町家には珍しい寄せ棟造りの屋根で、最近改装したのか白と黒の壁が美しい建物であった。(左写真)大柄ななまこ壁のデザインは現代アートに通じるものがある。
元「佐野屋」の斜向かいにも同様の商家の建物があった。(右写真)
鈴木商店も斜向かいに黒塀に囲まれた平岡本陣のがあった。(右写真)
海側にある総欅造りの磯部家は二階の板ガラスが手作りで、遠めにも反射する影が歪んで見える。(左写真)
街道にはこの先の山側に大正時代の洋館の「旧五十嵐歯科医院」がある。(右写真) 今は歯科医院は営業していないようで、引戸が開いていたので中に入ってみる。右側に町家特有の奥まで通じる土間の通路があり、それに並行して二階に通じるしっかりした木の階段があった。中に入れば普通の町家である。見学者があるのか二階で声がしたので、声を掛けないで出た。
この後、「蔀戸のある家」(左写真)とか「美しい格子戸の家」(右写真)が続く。



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