第 13 回 
  平成13年12月15日(土) 
 晴れのちときどき風花、寒風強し
 府中宿−手越−丸子宿−宇津ノ谷峠−岡部宿
 “青梅のおじさんとのんき夫婦の宇津ノ谷峠ハラハラ越えにお付き合い?”



 静岡に初めて来たのは、37年前、まだ10代終りの頃であった。受験で初めて静岡を訪れたのだが、知り合いもない土地の駅頭に、その日の宿さえ予約せずにふらりと下り立った。宿を予約しておく機転も知識すらもなく、行けば何とかなるだろうくらいに思っていた。3月の青空に、随分空っ風の強いところだというのが第一印象だった。

 駅頭の臨時案内所で駅近くの旅館に宿を決め、試験会場を下見したあと、歩いて登呂遺跡まで行った。静岡で知っている土地は教科書に出てきた登呂遺跡だけだったからである。道々、風に吹き払われて雪を頂いた富士山が大きく奇麗に見えた。多分富士山の実物を見るのは初めてだったはずである。そのまま静岡県人になってしまうとは想像さえしていなかった。まして夫婦で東海道を歩くことになるなどとは夢のような話である。

 午前9時20分、静岡駅頭に立つ。静岡駅前は37年前とはすっかり変わってしまい、当時を思い起こさせるものは何も残っていない。ただ、30数年前と同じように風が強く寒かった。後ろから生まれながらの静岡県人が一人付いてくるのも不思議である。

 バス停の側に「ここは静岡駅」と書いた現代の道しるべがあった。(右写真) 国道一号線の上り線で、浜松から76km、東京日本橋から181kmの標示があった。一年かかってようやくここまで来た。二人の体調や予定が合わないと出かけて来れない中で、よくここまで来れたものである。

 地下道を渡り、まず御幸通りを進む。御幸通りに付いては標柱に刻まれた案内文があった。(左写真右側)
 午前9時30分、前回、旧東海道歩きを終えた五叉路の江川町交差点まで戻る。ここを何故「江川町交差点」というのかに付いては、途中に碑(左写真左側)と碑文があった。
 江川町交差点を左折し、さらに呉服町の交差点を右折して呉服町を進む。青葉公園にはクリスマスツリーが出来て子供達が集まっていた。もう今年もそんな季節である。

 呉服町が七間町と交わる交差点を「札ノ辻」という。石碑(右写真)が立ち、案内プレートがあった。
 札ノ辻から七間町を500mほど進んだ、広い昭和通りを横切って二つ目の筋を右折する。歩道が整備され、所々に「東海道府中宿人宿町」の案内標識が立ち、それぞれに案内板があった。その一つに「人宿町通り」の案内があった。
 さらに続いて梅屋町の案内があった。由井正雪はここにあった旅籠「梅屋」で自害したと書かれているが、捕縛されて安倍川の側で斬首されたという説もあるようだ。
 梅屋町の案内の先、広い本通りの一本手前の新通りが旧東海道である。左折してほぼ真っ直ぐに安倍川を目指して進む。もっとも古くは本通りの方が東海道であった。ウォークの時は本通りを通り、広い通りの向こう側に『本通りの一里塚』の小さな立て看板と石柱を見つけている。どちらの道も並行して安倍川を目指して進む。

 安倍川に近い川越町から東へ入った辺りは、家康が駿府に入った頃に京都から誘致された遊郭があったところで、後に七丁の内五丁が江戸吉原に移り、駿府には二丁残った。それで「二丁町」と呼ばれていた。弥次喜多もこの遊郭に遊んでいる。現在は「双街の碑」が残るだけと案内書にはあった。その碑は地図だけでは探して見つからず、「遊郭の跡の碑?」とは尋ね難いところを、女房が土地のお年寄りに聞いてくれたが結局見つからず諦めた。

 安倍川の手前の弥勒町で旧東海道は本通りと合流して安倍川橋に掛かる。その三角地帯に交番があり、背後の余地が小公園になっていて、幾つかの記念碑が残っていた。まず交番の前に「川会所跡」の案内板があった。
 最初の大きな碑は「安倍川架橋の碑」(左写真)である。島田の千葉山智満寺の国の天然記念物「十本杉」が安倍川架橋の折、その材料として所望されたが、時の住職が「十本杉はそれぞれ名前の付いた由緒ある木だから切るわけにはいかない」ときっぱりと断り、それほどの木ならばと反対に「国の天然記念物」になってしまったという話が残っているが、この安倍川架橋の時の話なのであろうか。
 続いて、由井正雪公之墓趾のこれも大きな碑(右写真)がある。梅屋町で自害もしくは捕縛後斬首されたといわれる由井正雪の首をさらした跡とも、墓の跡ともいわれるところである。

 さらには「明治天皇御小休所阯」の石柱や「静岡市 弥勒」の道しるべと弥勒町の案内板もあった。

府中宿 宿境まで二町 →【静岡市 弥勒】→ 丸子宿 宿境まで十六町
 もう一つ、「冠木門」と呼ばれる、“くさかんむり” の幅を広げ足を長くしたような形の、材木で作った簡易な門がバス停前に再現されていた。(左写真) そういえば箱根や新居の関所にもこんな形の門があった。
 安倍川の手前に安倍川餅の店が並んでいる。もっとも手前の元祖「石部(せきべ)屋」(右写真)はウォークの時はお休みで入れなっかったので、今回は吸い込まれるように入った。

 ガラス戸の中の作業所には二人の頭を丸めた店の人が餅を作っていた。見るからに怖そうな人だったが、「写真を一枚」とことわると、不意と背後へ姿を消した。まずかったかと思っていると材料を補給しただけで戻って作業を続けたので、デジカメで写真を撮る。(右写真の円内)

 弥勒町の案内板では山伏が還俗して安倍川餅を売るようになったいうが、いかにも山伏でも似合いそうな職人さんで、強持てが伝統なのだろうか。一見怖そうな風体と甘い安倍川餅、この落差が人気の秘密だったとか? かってな想像である。

 午前10時33分、昼にはまだ早いが少しだけと、安倍川餅とからみ餅を一皿づつ頼む。こんな時、夫婦旅は便利だ。あわせて二つの味が楽しめる。からみ餅は餅をわさび醤油をつけていただく、いたってシンプルな食べ方ながら意外にいける。これは内でもやってみよう。

 店内は数人の旅人がテーブルに付いて憩っていた。まるで今日東海道を歩く旅人が全員集合したみたいである。ここに居合わせた人たちを旅の途中で何度か見ることになる。

 石部屋の隣に「安倍川義夫の碑」が建っていた。(左写真) この話はもともと白隠禅師の「荊叢毒葱」の中にある「安倍川の義夫」から出ている話で、碑文はその末尾の文言から採られている。戦前の国定教科書にも載せられた全国的にも有名な話である。バブル以降の金まみれの日本人にはもうこういう人は探してもいないかもしれない。
 安倍川橋を渡る。空がやや曇ってきた。振り返るとまだ富士山の方向は青空が残っていた。安倍川越しにこの日最後の富士山を見る。(右写真)

 渡った対岸は手越で、鎌倉時代には手越宿があった。この地には千手の前と平重衝の悲恋物語が残っている。

 手越に渡って100mほど進んだところで右手の横町を入り、入り組んだ小道を奥へ進み、山に突き当たったところに少将井神社がある。境内左手に真新しい白拍子姿の千手の前の石像が出来ていた。(左下写真の左側)

 なお、クスの大木が目立つ少将井神社境内の入口には、古い興味深い秋葉灯があった。自然石の上に金属製の社を載っけたような燈籠である。(左写真の右側)

 元の道に戻ったあたりから、とうとう風花が舞いだした。この後天気は風花が舞ったり晴れたりと、風が強く寒い天候が続く。

 間もなく道は旧国道一号線に打ち当たる。手越原の五叉路の交差点である。陸橋で国1を渡り、国1に沿って200mほど西進した佐渡の交差点で国1を右に分けて丸子の町に入る。手越原の交差点を横断歩道で渡ったおじさん(後で青梅から来たと知る。以後青梅のおじさんと呼ぼう)が先にいてきょろきょろしているのを見付け、確か石部屋にいた人だと思い、丸子の方面を指差してあげた。

 午前11時30分、丸子の町に入ってすぐに道路右に地蔵堂があった。「駿河一国百地蔵第10番」と看板にあり、子授地蔵尊である。そのお堂は道端すれすれで街道に向いており、お堂に張り付くようにお参りしないと背中が危ない。昔はもっと余裕があったのだろうが、道路拡張でそんな形になったのであろう。青梅のおじさんがお参りして先に行ってしまった。向かい側にある万葉歌碑のことを教える暇がなかった。

 地蔵堂の真向かいの佐渡(サワタリ)公民館前の空地に「さわたりの手児(てご)万葉歌碑」がある。碑面は万葉仮名で刻まれている。また空地の道路側に丸子宿の道しるべがあった。
府中宿 宿境まで二十一町 →【静岡市 丸子宿】→ 岡部宿 宿境まで二里九町

 12時にはとろろ汁の丁字屋で昼食を摂ろうと決めてきた。何とかそれまでには着きそうである。丸子の街の中程の右側に「一りづかあと」と刻まれた石柱があった。(右写真の最左)「丸子の一里塚跡」である。

 前方の街道に背の高い落葉樹が見えた。一段高い水神社の道路際の石垣の上にその木はあった。後で調べたところ、樹種はムクノキ、幹周囲4.3m、樹高22mのれっきとした巨木である。これを丸子宿の巨木に決めよう。

 この後、丁字屋までの間は丸子宿の主要施設のあったところで、幾つか新しい標示石柱も増えている。まず南側の「四つ目屋」との看板の掛かった人家の前に「明治天皇御小休所阯」の石碑がある。ここは横田脇本陣で、ここには明治元年十月五日に小休されている。次に北側に「史跡 丸子宿本陣跡」の石碑(右上写真の左から2番目)が続く。側面に碑文があった。
 さらに北側に、先ほどの横田脇本陣と同じ形式の「明治天皇御小休所阯」の石碑があった。(右上写真の左から3番目) ここ鞠子脇本陣には明治元年十二月十三日と明治二年三月二十二日の2回小休されている。これも北側に続いて、「お七里役所」の新しい石碑が出来ていた。(右上写真の最右) やはり側面に碑文があった。
 午後0時3分、ようやく丁字屋に着いた。アプローチに「辰石」という石があった。(右写真) 駿府城の石垣はこちらからも集めたようだ。
 さらに、「十返舎一九東海道中膝栗毛の碑」があった。碑文は判読できないが、おそらく膝栗毛に出ている有名な狂歌に違いない。弥次喜多は茶屋夫婦の喧嘩に巻き込まれ、あたりがとろろだらけになって、とろろ汁を食べそこなう。

けんくは(喧嘩)する 夫婦は口を  とがらして 鳶とろゝに すべりこそすれ

   丁字屋に付いてはウォークの時には次のように書きとめている。

 とろろ汁の丁字屋の藁葺の店に入ると、団体と間違われ奥へ案内されそうになった。とにかく『東海道』スタンプ『丸子宿』を押すことが先決と、案内所でミセを広げる。箱根から押して来たと話すとお褒めとねぎらいの言葉が番頭さんからあった。鈴さんの意見で入口の『芭蕉さんの部屋』の囲炉裏端に席を取る。黒光りする梁には“ちょうな”の痕も残っている。囲炉裏には火が入っていた。とろろ汁セットの『丸子』を注文した。とろろ汁、麦飯、味噌汁、むかご、お新香。ところが食べている所を団体さんや個人客がとろろ汁を横目で見ながら次々と通る。まるで客寄せのマネキンになったみたいだ。

 ともあれ昼飯を食べようとわら屋根の店に入る。今日も出来たら「芭蕉さんの部屋」で食べたいと思う。奥へ案内しようとする店員さんに「ここでも良いか」と聞くと、一瞬あった後、了解してくれた。そこで覚った。多分奥で食して貰ったほうが給仕などに楽なのではないか。どちらかというと「芭蕉さんの部屋」で食べられるのは厄介なのかもしれない。前回も団体さんに間違えられたのではなくて、奥へ案内するのがマニュアルになっているのではないかと。同じくとろろ汁セットの「丸子」を注文する。

 食事後女房が勘定をしている間、確か芭蕉の句碑があったはずと、表に出てさがす。右側の道路面に丸い碑面の芭蕉句碑があった。(右写真)
 
芭蕉翁  梅わかな 丸子の宿の とろろ汁

 道路を隔てた丸子橋のたもとに丸子宿の道しるべがあった。

府中宿 宿境まで一里四町 →【静岡市 丸子宿】→ 岡部宿 宿境まで一里二十七町

 安藤広重の「東海道五拾三次之内 丸子(保永堂版)」と同じ角度から写真を撮った。(左写真) 背後の山の形までそっくりに写せた。その間に青梅のおじさんとやはり石部屋で一緒だったのんき夫婦(命名理由は後ほど)が前後して食事を終り先に発って行った。我々も後を追って丸子橋を渡り、丸子川の右岸を進む。

 風花がまた舞い始め、向かい風が大変寒い。前屈みに歩く。国道一号線に出て少し進んでから旧東海道はしばらく国道の南側100mほどのところを並行して付いている。ところが間違えて国道を進んでしまった。200mほど向うで旧道と国道が再合流するところに青梅のおじさんとのんき夫婦の姿がひょっこり現れた。彼らは正しく旧道を通ったようだ。

 旧東海道が国1と合流する南側に起樹天満宮がある。何やら樹木と関係ありそうな神社なので立寄ってみる。イチョウの大木が一本、が、巨木にはいまいちである。奥に真新しい「多田元吉翁碑」が出来ていた。インターネットで確認したところ、今年3月11日に除幕したばかりでという。

 元幕臣の多田元吉翁は慶喜に従い来静、丸子で茶園を開き紅茶の生産をはじめた。その後、明治政府は翁を中国、インドに派遣し、茶の調査研究に当たらせた。翁は紅茶用の種子、茶業機械の図面などを持ち帰り、日本の茶業発展の基礎を築いたという。

 碑の前に、「いずみ」「インド」「紅ほまれ」の、多分紅茶品種の幼木が植えられていた。
 拡幅された国道一号線の左側を進む。前を行くはずの三人を探すが道草の間に見失ってしまった。午後1時20分、新宇津ノ谷トンネル(左写真)の手前左手の道の駅「宇津ノ谷峠」で休憩する。その後、トンネル前の陸橋を渡り、宇津ノ谷の集落に入る。少し進んだ先で大正のトンネルへ向かう道との分かれ道があり、その分岐点に「宇津ノ谷」の道しるべがあった。

丸子宿 宿境まで七町 →【静岡市 宇津ノ谷】→ 岡部宿 宿境まで二十九町

 宇津ノ谷の集落へは左の道を進む。400年祭のためであろう、上り坂が妙に新しく整備されいる。両側に続く古い平屋に各戸ごとに昔の屋号を書いた看板が掛かっている。

 右側に御羽織屋がある。秀吉拝領の陣羽織が保存されていることで有名である。「拝観者入口」案内札に従って建物の右側から裏へ廻り、裏庭に出る。

 今日はおばあさんが出てきて座敷へ上げてくれた。(最右写真) 前回はお出かけで、娘さんに説明していただいたというと、「それなら嫁です。」という。ウォークの時は次のように書き留めている。

 両側の古い家並の門口に旧屋号が『丸子屋』『伊勢屋』などと板に書かれて標示されていた。その1軒の『御羽織屋』では秀吉が小田原征伐の折りに陣羽織を賜ったという。中を見学させてくれるというので、・・・・・中に入る。今日はお祖母さんがいないからと嫁さんが案内してくれた。「・・・・だそうですよ」というのが口癖の抑揚のない口調で説明してくれた。

 おばあさんの手馴れた話によると、秀吉公から馬の草鞋を所望されて、当家の主人は草鞋を3脚分差し出した。なぜ3脚分かと聞かれて、後はお帰りに差し上げますと申し上げた。帰りを約束するのは勝利を前提にしている。また「あの山は?」と聞かれて「勝ち山」、「あの木は?」と聞かれて「勝栗」と、縁起の良い答えを連発して、秀吉公はいたくお喜びになり、北条との戦に勝利した帰りにもお立ち寄りになり、礼にと着用の陣羽織を拝領した。

 その陣羽織はガラスケースの中にあった。(左写真の円内) 外側は和紙製、内側に絹を使い綿を入れてあるという。その後、徳川家康をはじめとして、街道を行き来する諸大名も立寄られ、縁起が良いとこの羽織に腕を通した。そのためひどく擦り切れていたが、博物館に出品した際に補修をしていただいた。白い部分が補修したところだという。

 羽織の逸話は、おそらく馬の草鞋が3脚分したないための言い訳として、その場の機転で発した言葉だったのだろう。秀吉も3脚しか無い言い訳であることを百も承知で、それを戦の勝利に結び付けた機知とユーモアを解して喜んだのであろう。ともあれ、二人の心の触れ合いがこの逸話を生み、褒美としてこの部落は長い期間、諸役を免じられたというから、当家の主人は村に大変な功績をもたらしたわけである。
 帰りにウォークのときと同様に、「十団子」を買って出る。「十団子」のいわれについては説明板があった。
 表に出ると御羽織屋の右手のブロック塀から「明治天皇御小休碑」が頭だけ見えた。多分、明治天皇も休憩時に陣羽織をご覧になったに違いない。

 坂道は急になり階段状になって集落(右写真)を見晴らす高台に出る。集落を上から写真に撮ろうとしていると、直下の家からご老人が出てきて、写真ならもう一段上で撮ったほうが良いと教えてくれる。さらに近辺の案内をまくし立てるように話す。中で、蔦の細道は国道の東側とされているが、実際はここから見える谷を詰めて尾根に出る道だったという説や、峠の途中の地蔵堂跡の発掘と地蔵堂の再建計画の話などは面白く聞いた。

 そこへ青梅のおじさんとのんき夫婦の三人が追いついてきた。あれ?、はるかに前を歩いていると思っていた彼らが御羽織屋で時間を掛けた我々の後を歩いているとはどういうわけだ。青梅のおじさんは問わず語りに、道を間違えてどんどん登って行ったら採石場に出てしまい、通った車に聞いたら間違いと判り、国道まで車で送ってもらった。お陰で1時間ロスしてしまったという。青梅のおじさんはどこで間違ったのだろう。間違えるところもないと思うのだが見当がつかない。もっと驚いたのはそれにのこのこ付いて行った夫婦の方である。そこで「のんきな夫婦」と命名した。

 ご老人につかまった三人を置いてさらに登る。登ったところで車の通れる道に出る。左へ行けば「明治のトンネル」へ、旧東海道は右へ進みすぐに山道に入る。集落の写真を撮るには少し左へ行った所が撮影ポイントのようだ。そこへ三人が追いついてきて、明治のトンネルのほうへ行ってしまう。三人を気にしながら戻る。

 再度「宇津ノ谷」の道しるべがあった。その先に「旧東海道のぼり口」の小さい標識がある。気をつけていないと見逃しそうである。これより旧東海道は山道となる。

丸子宿 宿境まで十町 →【静岡市 宇津ノ谷】→ 岡部宿 宿境まで二十六町

 山道とはいえども参勤交代も通った道であるから、2m程の幅を保っている。しかし落ち葉が散り敷いて薄暗く寒々とした何とも寂しい山道である。二体の馬頭観音(左写真)を見つけてようやく旧街道を正しく辿っていることを確認できた。

 少し開けたところで宇津谷の集落が一望できた。先ほどの撮影ポイントよりも少し高いが、いい写真に撮れた。(右写真) 右手下に明治トンネルに進む道の途中に小公園が見えて、のんきな夫婦がいた。手を振ると気付いて手を振り返す。この夫婦はふらふらとどこへ行くのだろう。明治のトンネルの方へどんどん行ってしまった青梅のおじさんはどこへ行ったのだろう。この道が判るだろうかと話ながら山道を登って行く。

 弘法さんの祠への案内標識を過ぎて、山道の側らに「雁山の墓」を見る。(左写真) 情報の少ない時代、風の便りに旅先で死んだと聞いて、友人達が法事をして、それを聞いた師とあおぐ人々は墓まで造ってしまった。後に自分の墓を見ながらそのままにした雁山も不思議といえば不思議である。もっとも今となっては少し(37年ほど)墓を造るのが早かっただけのことか。この話は街道を通る後世の旅人達の口の端に数え切れないほどの回数のぼったことを考えると、これも不思議な縁である。
 すぐ先に地蔵堂跡があった。石垣が組まれて少し平らな所が出来ていた。乳垂れの出来たイチョウの木が一本目立った。案内板があった。
 “ご老人”の話では発掘で銭も出てきたというが、もちろん歌舞伎中の百両であろうはずはなく、しかしひょっとすると旅人の誰かが後日掘ろうと隠した金であったのかもしれない。何やら物語を感じさせる話である。青梅のおじさんが地蔵堂跡で追いついてきた。「ここが地蔵堂跡ですよ」と言い置いて先に行く。

 午後2時14分、宇津ノ谷峠に着いた。峠は登りが尽きるとすぐに下りになる狭い場所であった。大名行列が峠で一休みとはとても出来ない。案内板があった。
 追いついてきた青梅のおじさんと入れ替わりに下り始めた。振り返って峠道を写真に撮ると、青梅のおじさんがフレームの中に入った。(左写真) 

 青梅のおじさんが追いついてきて女房と話す。ここで初めて青梅から来ていて、退職後一人で、我々と同じように1年前、日本橋から歩いて来ていると知る。今日は藤枝まで歩き、一泊して明日は掛川まで歩く予定だと話す。「ただこんなに道を間違えてばかりだと藤枝までいけるかどうか」と笑った。

 車道に出て青梅のおじさんはまた先を行った。我々は岡部宿まで、彼は藤枝宿まで行かねばならない。峠の難所を越えたからもう会うこともあるまい、たぶん?

 明治のトンネルの方へ左折する道もあるが山に沿うように進む。途中「ひげ題目の碑」の標識があり、山に10mほど入ったところにあった。(右写真) このひげ題目は蛇がのたくったような書体であり、一口にひげ題目といっても個性があるようだ。

 さらに下った山側に「蘿径記碑跡」の標柱と案内文があった。かって「蘿径記碑」はここに立っていた。
 車道に出る前に「岡部町 東海道参勤交代の道」の道しるべがあった。

丸子宿 宿境まで十八町 →【岡部町 東海道参勤交代の道】→ 岡部宿 宿境まで十八町

 車道に下りた所から旧東海道は右手に行く。左に木和田川沿いに登っていくと、「蔦の細道」に到る。旧東海道の案内板があった。
 そこで、のんきな夫婦に再会した。「明治のトンネルは暗くて怖かった」 この夫婦は東海道を歩いているわけではなさそうだ。

 「蘿径記碑」は車道を少し下った谷の入口右手の坂下延命地蔵尊(左写真)のお堂の左裏に屋根がついた小屋に入っていた。(左写真の円内)

 「蘿径記碑」の前に碑文(漢文)の読み下し文が掲げてあったが、辞書を引き引き口語文に直してみた。細かい部分に誤訳もあると思うが、気にしないことにする。

蘿径記 羽倉簡堂 どこの山にツタやカエデの道の無い所があろうか。中でも、この道が特に後世に有名なのは、在原業平の詞藻(伊勢物語)のためである。考えてみるに、言い伝えでは、「業平は物静かな美男子で、和歌を好む。天皇の御命令により、東国に下ろうとすると、天皇が業平に命じて言われるには、『歌枕(和歌に詠みこむ諸国の名所)を求めて帰って来い』」と。そして、また伊勢物語にも書き記されている。「旅を続けて駿河の国にやって来た。宇津の山に着いて、入ろうとする道はたいへん暗くて細い上に、ツタやカエデが繁っている」と。その和歌がまた寂しさを表わしている。天皇は命令して新古今集にその歌を入れた。後世の人はうらやみ誉めた。その物語から言葉を採り、名付けて「蔦の細道」という。「蘿径」というのは詩人が直してそのように言った。今は必ずしも改められてはいない。

 山の南側の小道が蔦の細道の入口である。北に行くと険しい山道である。足がかりの穴を穿って登ると一千余歩で初めて峰の左の、粗末な橋の側に達する。そして、山頂、まさしく富士の嶺を東方に見る。すなわち、僧宗祇の書いているところと一致している。その道は当時の官道で、親王・宗尊、参議・雅経などの諸公、皆立派な詩文を作っている。しかしながら、豊臣秀吉が相州(小田原)を攻める際には、道は今の道を通った。つまり、古い道は廃止された。
 在原業平の東下りは、ある人は物見遊山といい、ある人は左遷追放という。その言い伝えによれば、ひょっとしたら密かに官位を下げられて遠方へ追放されたのかもしれない。後世の説はこれに近い。
 今年八月十四日、公務があって宇津の山を過ぎた。その機会に、世間で言われている「蔦の細道」を訪れた。そして次のように嘆いた。「伊勢物語は微力ながら、古い道をよく千年の後に残した。言うまでもなく伊勢物語ほど偉大なものはない。しかし、今後この道を過ぎて、誰が自分と同じように感じる者がいるだろうか」と。 ただちに一基の石碑を建てて、その言葉を世間に知らしめるという。   文政庚寅八月


 青梅のおじさんはもう先へ行ってしまい姿が見えない。のんきな夫婦は国道一号線を潜って向うのバス停に見えたのがそれらしい。最初の信号で国道一号線を渡り北の山側に沿った旧東海道を行く。旧国道一号線と合流するところで再び青梅のおじさんに出会った。道路を隔てて少し行くと青梅のおじさんが指差す。そこに一里塚があった。一人で道路を渡り、実物の二分の一に再建された一里塚を見た。周りに三段の丸石を積み、一本落葉樹が植えられている。案内石碑があった。
 十石坂観音堂は道路右手の石段を20段程上がった所にあった。青梅のおじさんは十石坂観音堂へ共に上がったが、写真を撮る間にそそくさと先へ行ってしまった。そしてここで会ったのが最後になった。
 十石坂観音堂の厨子には千手観音菩薩立像や西行座像などがあるという。観音堂の右側には石仏や墓石などが集められ整然と並べて祀られていた。馬頭観音も幾つか見えるから、街道筋にあったものを道路改修の度に邪魔になって、ここへ集められたものだと思う。

 旧国道を真っ直ぐ進み突き当たって左へカーブするところで旧東海道は右折する。その角に素人作りの笠懸松の案内板があった。
 笠の主は自分が破門した西住の笠であった。笠には 西へ行く雨夜の月やあみだ笠 影を岡部の松に残して という病に倒れた西住の辞世の歌が残されていた。この物語ゆかりの笠懸松と西住法師墓の案内標識が山の方へ続いていた。しかし今日はそちらに足を伸ばすのは辞めた。

 再度国道一号線に出た所の西側に、「大旅籠柏屋」があった。(右写真) 柏屋(かしばや)は江戸時代の大旅籠が東海道の歴史や文化を楽しく学べる歴史資料館として整備され、平成12年11月にオープンした。オープンの時、女房と見学した。その時は沢山の入場者に多くのボランティアが対応していた。通りに面した主人の部屋に坐ってみた。格子の隙間から明るい通りを歩く人が見えた。ボランティアの婦人が色々と説明してくれた。

 今日は人影もなく、ただ上がり口に人形の弥次喜多が上がりかまちに腰掛ける姿が見えた。

 その先の信号の所には「岡部宿本陣址」の標柱があった。その先で旧街道は国道から左の古い町並みの残った街へ入る。(左写真) その角には『岡部宿』のサインがあった。

丸子宿 宿境まで一里 →【岡部町 岡部宿】→ 藤枝宿 宿境まで一里十四町

 旧街道には「問屋場跡」や「高札場跡」の案内プレートが出来ていた。
 旧街道は旧国道一号線の東側を少しづつカーブしながら進み、岡部町の中心部で再び旧国道一号線にでた。出たところのバスターミナルの裏に、「五智如来像」が横に五体、屋根が掛けられて並んでいた。(右写真) 後ろ側にはもう五体、一時代古い五智如来像が隠れていた。
 「五智如来像」を本日の最後とする。しかし次回のこともあるので「岡部宿の松並木」まで足を伸ばしておく。午後3時43分、岡部松原のバス停で風花の舞う寒い中バスを待った。本日の歩数は 30,882歩であった。







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