



午前9時20分、静岡駅頭に立つ。静岡駅前は37年前とはすっかり変わってしまい、当時を思い起こさせるものは何も残っていない。ただ、30数年前と同じように風が強く寒かった。後ろから生まれながらの静岡県人が一人付いてくるのも不思議である。
地下道を渡り、まず御幸通りを進む。御幸通りに付いては標柱に刻まれた案内文があった。(左写真右側)
江川町交差点を左折し、さらに呉服町の交差点を右折して呉服町を進む。青葉公園にはクリスマスツリーが出来て子供達が集まっていた。もう今年もそんな季節である。
最初の大きな碑は「安倍川架橋の碑」(左写真)である。島田の千葉山智満寺の国の天然記念物「十本杉」が安倍川架橋の折、その材料として所望されたが、時の住職が「十本杉はそれぞれ名前の付いた由緒ある木だから切るわけにはいかない」ときっぱりと断り、それほどの木ならばと反対に「国の天然記念物」になってしまったという話が残っているが、この安倍川架橋の時の話なのであろうか。
続いて、由井正雪公之墓趾のこれも大きな碑(右写真)がある。梅屋町で自害もしくは捕縛後斬首されたといわれる由井正雪の首をさらした跡とも、墓の跡ともいわれるところである。
もう一つ、「冠木門」と呼ばれる、“くさかんむり” の幅を広げ足を長くしたような形の、材木で作った簡易な門がバス停前に再現されていた。(左写真) そういえば箱根や新居の関所にもこんな形の門があった。
安倍川の手前に安倍川餅の店が並んでいる。もっとも手前の元祖「石部(せきべ)屋」(右写真)はウォークの時はお休みで入れなっかったので、今回は吸い込まれるように入った。
石部屋の隣に「安倍川義夫の碑」が建っていた。(左写真) この話はもともと白隠禅師の「荊叢毒葱」の中にある「安倍川の義夫」から出ている話で、碑文はその末尾の文言から採られている。戦前の国定教科書にも載せられた全国的にも有名な話である。バブル以降の金まみれの日本人にはもうこういう人は探してもいないかもしれない。
安倍川橋を渡る。空がやや曇ってきた。振り返るとまだ富士山の方向は青空が残っていた。安倍川越しにこの日最後の富士山を見る。(右写真)
元の道に戻ったあたりから、とうとう風花が舞いだした。この後天気は風花が舞ったり晴れたりと、風が強く寒い天候が続く。
地蔵堂の真向かいの佐渡(サワタリ)公民館前の空地に「さわたりの手児(てご)万葉歌碑」がある。碑面は万葉仮名で刻まれている。また空地の道路側に丸子宿の道しるべがあった。
12時にはとろろ汁の丁字屋で昼食を摂ろうと決めてきた。何とかそれまでには着きそうである。丸子の街の中程の右側に「一りづかあと」と刻まれた石柱があった。(右写真の最左)「丸子の一里塚跡」である。
前方の街道に背の高い落葉樹が見えた。一段高い水神社の道路際の石垣の上にその木はあった。後で調べたところ、樹種はムクノキ、幹周囲4.3m、樹高22mのれっきとした巨木である。これを丸子宿の巨木に決めよう。
午後0時3分、ようやく丁字屋に着いた。アプローチに「辰石」という石があった。(右写真) 駿府城の石垣はこちらからも集めたようだ。
さらに、「十返舎一九東海道中膝栗毛の碑」があった。碑文は判読できないが、おそらく膝栗毛に出ている有名な狂歌に違いない。弥次喜多は茶屋夫婦の喧嘩に巻き込まれ、あたりがとろろだらけになって、とろろ汁を食べそこなう。
食事後女房が勘定をしている間、確か芭蕉の句碑があったはずと、表に出てさがす。右側の道路面に丸い碑面の芭蕉句碑があった。(右写真)
安藤広重の「東海道五拾三次之内 丸子(保永堂版)」と同じ角度から写真を撮った。(左写真) 背後の山の形までそっくりに写せた。その間に青梅のおじさんとやはり石部屋で一緒だったのんき夫婦(命名理由は後ほど)が前後して食事を終り先に発って行った。我々も後を追って丸子橋を渡り、丸子川の右岸を進む。
旧東海道が国1と合流する南側に起樹天満宮がある。何やら樹木と関係ありそうな神社なので立寄ってみる。イチョウの大木が一本、が、巨木にはいまいちである。奥に真新しい「多田元吉翁碑」が出来ていた。インターネットで確認したところ、今年3月11日に除幕したばかりでという。
拡幅された国道一号線の左側を進む。前を行くはずの三人を探すが道草の間に見失ってしまった。午後1時20分、新宇津ノ谷トンネル(左写真)の手前左手の道の駅「宇津ノ谷峠」で休憩する。その後、トンネル前の陸橋を渡り、宇津ノ谷の集落に入る。少し進んだ先で大正のトンネルへ向かう道との分かれ道があり、その分岐点に「宇津ノ谷」の道しるべがあった。
右側に御羽織屋がある。秀吉拝領の陣羽織が保存されていることで有名である。「拝観者入口」案内札に従って建物の右側から裏へ廻り、裏庭に出る。
おばあさんの手馴れた話によると、秀吉公から馬の草鞋を所望されて、当家の主人は草鞋を3脚分差し出した。なぜ3脚分かと聞かれて、後はお帰りに差し上げますと申し上げた。帰りを約束するのは勝利を前提にしている。また「あの山は?」と聞かれて「勝ち山」、「あの木は?」と聞かれて「勝栗」と、縁起の良い答えを連発して、秀吉公はいたくお喜びになり、北条との戦に勝利した帰りにもお立ち寄りになり、礼にと着用の陣羽織を拝領した。
坂道は急になり階段状になって集落(右写真)を見晴らす高台に出る。集落を上から写真に撮ろうとしていると、直下の家からご老人が出てきて、写真ならもう一段上で撮ったほうが良いと教えてくれる。さらに近辺の案内をまくし立てるように話す。中で、蔦の細道は国道の東側とされているが、実際はここから見える谷を詰めて尾根に出る道だったという説や、峠の途中の地蔵堂跡の発掘と地蔵堂の再建計画の話などは面白く聞いた。
再度「宇津ノ谷」の道しるべがあった。その先に「旧東海道のぼり口」の小さい標識がある。気をつけていないと見逃しそうである。これより旧東海道は山道となる。
山道とはいえども参勤交代も通った道であるから、2m程の幅を保っている。しかし落ち葉が散り敷いて薄暗く寒々とした何とも寂しい山道である。二体の馬頭観音(左写真)を見つけてようやく旧街道を正しく辿っていることを確認できた。
弘法さんの祠への案内標識を過ぎて、山道の側らに「雁山の墓」を見る。(左写真) 情報の少ない時代、風の便りに旅先で死んだと聞いて、友人達が法事をして、それを聞いた師とあおぐ人々は墓まで造ってしまった。後に自分の墓を見ながらそのままにした雁山も不思議といえば不思議である。もっとも今となっては少し(37年ほど)墓を造るのが早かっただけのことか。この話は街道を通る後世の旅人達の口の端に数え切れないほどの回数のぼったことを考えると、これも不思議な縁である。
すぐ先に地蔵堂跡があった。石垣が組まれて少し平らな所が出来ていた。乳垂れの出来たイチョウの木が一本目立った。案内板があった。
午後2時14分、宇津ノ谷峠に着いた。峠は登りが尽きるとすぐに下りになる狭い場所であった。大名行列が峠で一休みとはとても出来ない。案内板があった。
明治のトンネルの方へ左折する道もあるが山に沿うように進む。途中「ひげ題目の碑」の標識があり、山に10mほど入ったところにあった。(右写真) このひげ題目は蛇がのたくったような書体であり、一口にひげ題目といっても個性があるようだ。
そこで、のんきな夫婦に再会した。「明治のトンネルは暗くて怖かった」 この夫婦は東海道を歩いているわけではなさそうだ。
青梅のおじさんはもう先へ行ってしまい姿が見えない。のんきな夫婦は国道一号線を潜って向うのバス停に見えたのがそれらしい。最初の信号で国道一号線を渡り北の山側に沿った旧東海道を行く。旧国道一号線と合流するところで再び青梅のおじさんに出会った。道路を隔てて少し行くと青梅のおじさんが指差す。そこに一里塚があった。一人で道路を渡り、実物の二分の一に再建された一里塚を見た。周りに三段の丸石を積み、一本落葉樹が植えられている。案内石碑があった。
十石坂観音堂は道路右手の石段を20段程上がった所にあった。青梅のおじさんは十石坂観音堂へ共に上がったが、写真を撮る間にそそくさと先へ行ってしまった。そしてここで会ったのが最後になった。
再度国道一号線に出た所の西側に、「大旅籠柏屋」があった。(右写真) 柏屋(かしばや)は江戸時代の大旅籠が東海道の歴史や文化を楽しく学べる歴史資料館として整備され、平成12年11月にオープンした。オープンの時、女房と見学した。その時は沢山の入場者に多くのボランティアが対応していた。通りに面した主人の部屋に坐ってみた。格子の隙間から明るい通りを歩く人が見えた。ボランティアの婦人が色々と説明してくれた。
その先の信号の所には「岡部宿本陣址」の標柱があった。その先で旧街道は国道から左の古い町並みの残った街へ入る。(左写真) その角には『岡部宿』のサインがあった。
旧街道は旧国道一号線の東側を少しづつカーブしながら進み、岡部町の中心部で再び旧国道一号線にでた。出たところのバスターミナルの裏に、「五智如来像」が横に五体、屋根が掛けられて並んでいた。(右写真) 後ろ側にはもう五体、一時代古い五智如来像が隠れていた。



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