第 13 回
平成13年12月15日(土)
晴れのちときどき風花、寒風強し
府中宿−手越−丸子宿−宇津ノ谷峠−岡部宿
“青梅のおじさんとのんき夫婦の宇津ノ谷峠ハラハラ越えにお付き合い?”
静岡に初めて来たのは、37年前、まだ10代終りの頃であった。受験で初めて静岡を訪れたのだが、知り合いもない土地の駅頭に、その日の宿さえ予約せずにふらりと下り立った。宿を予約しておく機転も知識すらもなく、行けば何とかなるだろうくらいに思っていた。3月の青空に、随分空っ風の強いところだというのが第一印象だった。
駅頭の臨時案内所で駅近くの旅館に宿を決め、試験会場を下見したあと、歩いて登呂遺跡まで行った。静岡で知っている土地は教科書に出てきた登呂遺跡だけだったからである。道々、風に吹き払われて雪を頂いた富士山が大きく奇麗に見えた。多分富士山の実物を見るのは初めてだったはずである。そのまま静岡県人になってしまうとは想像さえしていなかった。まして夫婦で東海道を歩くことになるなどとは夢のような話である。
午前9時20分、静岡駅頭に立つ。静岡駅前は37年前とはすっかり変わってしまい、当時を思い起こさせるものは何も残っていない。ただ、30数年前と同じように風が強く寒かった。後ろから生まれながらの静岡県人が一人付いてくるのも不思議である。
バス停の側に「ここは静岡駅」と書いた現代の道しるべがあった。(右写真) 国道一号線の上り線で、浜松から76km、東京日本橋から181kmの標示があった。一年かかってようやくここまで来た。二人の体調や予定が合わないと出かけて来れない中で、よくここまで来れたものである。
地下道を渡り、まず御幸通りを進む。御幸通りに付いては標柱に刻まれた案内文があった。(左写真右側)
標柱の案内文によると、
都市計画道路第1号 御幸通り
昭和五年五月天皇行幸にあわせて開通したので御幸通りと名付けられた。これが町名の由来となった。
午前9時30分、前回、旧東海道歩きを終えた五叉路の江川町交差点まで戻る。ここを何故「江川町交差点」というのかに付いては、途中に碑(左写真左側)と碑文があった。
碑文によると、
駿府九十六ヶ町のうち 江川町
「江川町」は江戸時代から昭和20年までの町名で、伊豆国韮山の代官を勤めた江川家の先祖が、天正年間にこの地に住まいしたことに由来する、といわれています。
駿府城の南東隅近くに位置し、町の中を東海道が通っています。城に面した町の一隅には、駿府用水に架けられていた石橋「G(くまたか)橋」の碑が建っています。
この町には駿府の有力商人が多く住み、江戸時代の文化〜天保年間に地誌「駿河国新風土記」を著した町人学者新庄道雄が江川町の郷宿三階屋に生まれています。
江川町の名は、交差点や通りの呼称として今に伝えられています。
江川町交差点を左折し、さらに呉服町の交差点を右折して呉服町を進む。青葉公園にはクリスマスツリーが出来て子供達が集まっていた。もう今年もそんな季節である。
呉服町が七間町と交わる交差点を「札ノ辻」という。石碑(右写真)が立ち、案内プレートがあった。
静岡市の案内プレートによると、
札之辻址
江戸時代から昭和20年まで呉服町と七間町の交差点付近には「札ノ辻町」がありました。
東海道の道筋にもあたり、立ち並ぶ商家を訪れる人達などで賑わっていました。
四ツ辻の中には幕府の政策や法令をかかげた高札場が駿府町奉行所により設けられ「札ノ辻」名の由来となっています。
札ノ辻から七間町を500mほど進んだ、広い昭和通りを横切って二つ目の筋を右折する。歩道が整備され、所々に「東海道府中宿人宿町」の案内標識が立ち、それぞれに案内板があった。その一つに「人宿町通り」の案内があった。
案内プレートによると、
人宿町通り
かっては、七間町通りに接続する東海道で縦七間通りと呼ばれた事もあり、東海道府中宿の主要路である。
庶民の木賃宿の多い旅籠町として栄えた所である。なお、本陣をはじめ武士の泊まる所は、紺屋町、伝馬町付近であったようである。
さらに続いて梅屋町の案内があった。由井正雪はここにあった旅籠「梅屋」で自害したと書かれているが、捕縛されて安倍川の側で斬首されたという説もあるようだ。
案内プレートによると、
梅屋町
町名の由来は旅籠「梅屋」からきており、人宿町と同様旅籠町であった。慶安4年、討幕を企む由井正雪ら一味は、ここ、旅籠「梅屋」に立て籠った。しかし、計画は事前に幕府に知れ、正雪は自害、クーデターは失敗に終った。世に言う慶安の変である。庶民の町に起きた歴史の舞台にのぼった出来事であった。
梅屋町の案内の先、広い本通りの一本手前の新通りが旧東海道である。左折してほぼ真っ直ぐに安倍川を目指して進む。もっとも古くは本通りの方が東海道であった。ウォークの時は本通りを通り、広い通りの向こう側に『本通りの一里塚』の小さな立て看板と石柱を見つけている。どちらの道も並行して安倍川を目指して進む。
安倍川に近い川越町から東へ入った辺りは、家康が駿府に入った頃に京都から誘致された遊郭があったところで、後に七丁の内五丁が江戸吉原に移り、駿府には二丁残った。それで「二丁町」と呼ばれていた。弥次喜多もこの遊郭に遊んでいる。現在は「双街の碑」が残るだけと案内書にはあった。その碑は地図だけでは探して見つからず、「遊郭の跡の碑?」とは尋ね難いところを、女房が土地のお年寄りに聞いてくれたが結局見つからず諦めた。
安倍川の手前の弥勒町で旧東海道は本通りと合流して安倍川橋に掛かる。その三角地帯に交番があり、背後の余地が小公園になっていて、幾つかの記念碑が残っていた。まず交番の前に「川会所跡」の案内板があった。
静岡市の案内板によると、
安倍川の川会所跡
江戸時代、東海道で架橋を禁じられていた川に安倍川や大井川などがある。東海道を往来する旅人は川越人夫に渡してもらわなければならなかった。
川越人夫による渡しでは、小型川越えの興津川、中型川越えの安倍川、大型川越えの大井川などが、いずれも代表的な存在であった。この川越人夫が人や荷物を渡すのを監督する所が川会所であった。
安倍川のも両岸に川会所があった。ここには、毎日川役人が勤務して川越人夫を指示したり、川越え賃銭の取扱いをするほか、町奉行所からも川場係の同心二人が毎日出張して警備監督に当っていた。
この川会所は、間口六間、奥行四間半であり、五人位の裃を着た役人が詰めていたといわれている。
ちなみに。安倍川の川越え賃は、脇下から乳通りまでは一人六十四文、へそ上は五十五文、へそまでは四十八文、へそ下は四十六文、股までは二十八文、股下は十八文、ひざ下は十六文であったといわれている。
最初の大きな碑は「安倍川架橋の碑」(左写真)である。島田の千葉山智満寺の国の天然記念物「十本杉」が安倍川架橋の折、その材料として所望されたが、時の住職が「十本杉はそれぞれ名前の付いた由緒ある木だから切るわけにはいかない」ときっぱりと断り、それほどの木ならばと反対に「国の天然記念物」になってしまったという話が残っているが、この安倍川架橋の時の話なのであろうか。
静岡市の案内板によると、
安倍川架橋の碑
この石碑は、宮崎総五氏が社会事業のためにと、明治七年に多額の資材を投じて建設した安倍川橋の架橋の顛末を、後世の人に伝えるために、明治四十一年に建てられたものです。
続いて、由井正雪公之墓趾のこれも大きな碑(右写真)がある。梅屋町で自害もしくは捕縛後斬首されたといわれる由井正雪の首をさらした跡とも、墓の跡ともいわれるところである。
さらには「明治天皇御小休所阯」の石柱や「静岡市 弥勒」の道しるべと弥勒町の案内板もあった。
府中宿
宿境まで二町
→【静岡市 弥勒】→ 丸子宿
宿境まで十六町
静岡市教育委員会監修の案内板によると、
弥勒(みろく)町
江戸時代の地誌「駿河志料」には、現在の弥勒町一帯は、古くは安倍川の河原で「正保年間に開かれ、江戸時代のはじめ慶長年間に、弥勒院という山伏が還俗して安倍川の河原で餅を売るようになった。この餅を “安倍川餅” という。これが「弥勒町」の名の由来となった」と記されています。
十返舎一九の「東海道中膝栗毛」には、「ほどなく弥勒といへるにいたる ここは名におふ安べ川もちの名物にて 両側の茶屋いづれも奇麗に花やかなり」と著され “弥勒茶屋” と呼ばれた茶店の賑わい振りをうかがうことができます。
弥勒町は、駿府の城下町の西の見付の前面に位置し、駿府九十六ヶ町に準じた扱いを受けていました。
近世の安倍川は、歩行渡の川として川越のための川会所が設けられていました。しかし、明治四年の渡船と仮橋、明治七年の宮崎總五の手になる安水橋の架橋からの安倍川の通行形態の移り変りと共に、弥勒の町も大きく変化を遂げてきました。
弥勒の町には、近世以降の歴史の中で「由井正雪墓址碑」、昭和初めの小学四年の教科書に載った「安倍川の義夫の碑」、溺死や剱難者のための「慰霊碑」、幕末から明治にかけて広く社会に尽くした宮崎總五の篤行を称える「頌徳の碑」と「安倍川架橋の碑」をはじめ、近世以降の弥勒を語る多くの歴史の跡が残されています。
もう一つ、「冠木門」と呼ばれる、“くさかんむり” の幅を広げ足を長くしたような形の、材木で作った簡易な門がバス停前に再現されていた。(左写真) そういえば箱根や新居の関所にもこんな形の門があった。
駿府ウェイブの案内板によると、
冠木(かぶき)門
この冠木門は、静岡市制110周年記念事業として開催された静岡「葵」博会場に建てられたものです。
東海道宿駅制度四〇〇年を記念して、府中宿 西の見附に近いこの場所に移築したものです。
冠木門は、寺社や宿場の出入口、関所などに広く用いられたものです。
安倍川の手前に安倍川餅の店が並んでいる。もっとも手前の元祖「石部(せきべ)屋」(右写真)はウォークの時はお休みで入れなっかったので、今回は吸い込まれるように入った。
ガラス戸の中の作業所には二人の頭を丸めた店の人が餅を作っていた。見るからに怖そうな人だったが、「写真を一枚」とことわると、不意と背後へ姿を消した。まずかったかと思っていると材料を補給しただけで戻って作業を続けたので、デジカメで写真を撮る。(右写真の円内)
弥勒町の案内板では山伏が還俗して安倍川餅を売るようになったいうが、いかにも山伏でも似合いそうな職人さんで、強持てが伝統なのだろうか。一見怖そうな風体と甘い安倍川餅、この落差が人気の秘密だったとか? かってな想像である。
午前10時33分、昼にはまだ早いが少しだけと、安倍川餅とからみ餅を一皿づつ頼む。こんな時、夫婦旅は便利だ。あわせて二つの味が楽しめる。からみ餅は餅をわさび醤油をつけていただく、いたってシンプルな食べ方ながら意外にいける。これは内でもやってみよう。
店内は数人の旅人がテーブルに付いて憩っていた。まるで今日東海道を歩く旅人が全員集合したみたいである。ここに居合わせた人たちを旅の途中で何度か見ることになる。
石部屋の隣に「安倍川義夫の碑」が建っていた。(左写真) この話はもともと白隠禅師の「荊叢毒葱」の中にある「安倍川の義夫」から出ている話で、碑文はその末尾の文言から採られている。戦前の国定教科書にも載せられた全国的にも有名な話である。バブル以降の金まみれの日本人にはもうこういう人は探してもいないかもしれない。
静岡市の案内板によると、
安倍川の義夫の碑
この碑は、正直な川越人夫の顕彰碑である。
元文三年(1738)初秋の頃、紀州の漁夫が仲間とためた金百五十両の大金を持って、安倍川を渡ろうと川越人夫を頼んだが、渡し賃が高いため、自分で川を渡った。しかし、着物を脱ぐ際に、大切な財布を落としてしまったのである。たまたま、その近くにいた人夫の一人(川原町彦右衛門の息子の喜兵衛)が財布を拾い旅人のあとを追い、宇津の谷峠で引き返してくる旅人に出会って財布を渡した。旅人は喜んで礼金を払おうとしたが、「拾ったものを落し主に返すのは当り前の事だ」といって、喜兵衛はどうしても受け取らないので、駿府町奉行に礼金を届けた。そこで、町奉行が喜兵衛を呼び出し、礼金を渡そうとしたが受け取らないので、その金を旅人に返し、代わりに奉行所からほうびの金を喜兵衛に渡したのである。
昭和四年(1929)、和歌山県と静岡県の学童や有志の人々の募金によって、安倍川橋の近くのこの地に碑が建てられたのである。
碑文
難に臨まずんば忠臣の志を知らず。
財(たから)に臨まずんば義士の心を知らず。
安倍川橋を渡る。空がやや曇ってきた。振り返るとまだ富士山の方向は青空が残っていた。安倍川越しにこの日最後の富士山を見る。(右写真)
渡った対岸は手越で、鎌倉時代には手越宿があった。この地には千手の前と平重衝の悲恋物語が残っている。
手越に渡って100mほど進んだところで右手の横町を入り、入り組んだ小道を奥へ進み、山に突き当たったところに少将井神社がある。境内左手に真新しい白拍子姿の千手の前の石像が出来ていた。(左下写真の左側)
謡曲史跡保存会の案内板によると、
謡曲「千手」と少将井神社
源平一の谷の敗戦で捕らえられ、鎌倉で憂愁の日々を過ごす副大将平重衝を慰めるようにと、源頼朝は白拍子千手の前を遣わしました。
和歌・琴・書に秀でた千手の前の優に優しい世話に、重衝も心を通わせ、互いに想い合う仲になりました。
先に、東大寺を焼いた重衝を、奈良の荘は思い仏罰だとして引渡しを強要し、再び京都へ護送する途次に殺してしまったのです。嘆き悲しんだ千手の前は、尼となって重衝の菩提を弔いつつ生涯を閉じました。
少将井神社は、手越長者の館跡と推定され、重衝と千手の前との哀切の情愛を主題とする謡曲「千手」の生誕の地と伝えられています。
なお、クスの大木が目立つ少将井神社境内の入口には、古い興味深い秋葉灯があった。自然石の上に金属製の社を載っけたような燈籠である。(左写真の右側)
元の道に戻ったあたりから、とうとう風花が舞いだした。この後天気は風花が舞ったり晴れたりと、風が強く寒い天候が続く。
間もなく道は旧国道一号線に打ち当たる。手越原の五叉路の交差点である。陸橋で国1を渡り、国1に沿って200mほど西進した佐渡の交差点で国1を右に分けて丸子の町に入る。手越原の交差点を横断歩道で渡ったおじさん(後で青梅から来たと知る。以後青梅のおじさんと呼ぼう)が先にいてきょろきょろしているのを見付け、確か石部屋にいた人だと思い、丸子の方面を指差してあげた。
午前11時30分、丸子の町に入ってすぐに道路右に地蔵堂があった。「駿河一国百地蔵第10番」と看板にあり、子授地蔵尊である。そのお堂は道端すれすれで街道に向いており、お堂に張り付くようにお参りしないと背中が危ない。昔はもっと余裕があったのだろうが、道路拡張でそんな形になったのであろう。青梅のおじさんがお参りして先に行ってしまった。向かい側にある万葉歌碑のことを教える暇がなかった。
地蔵堂の真向かいの佐渡(サワタリ)公民館前の空地に「さわたりの手児(てご)万葉歌碑」がある。碑面は万葉仮名で刻まれている。また空地の道路側に丸子宿の道しるべがあった。
碑文によると、
万葉集 巻第十四 あづま歌
さわたりのてごに い行き逢い 赤駒が あがきを速み こと問わず来ぬ
(佐渡に住む美しい少女と道で行きあったが、私の乗っている赤馬の足が早いので、ろくに言葉も交さずに来てしまった。)
この歌は、わが国最古の歌集「万葉集」に収められ東国農民に愛唱された歌謡である。「佐渡」はその頃からのこの辺の地名で、その歴史は誠に古い。昭和五十二年「丸子1丁目」と改称され、「佐渡」という地名が地図の上から、永久に姿を消すこととなった事を惜しみ地元町民とともにこの碑を建てる。
府中宿
宿境まで二十一町
→【静岡市 丸子宿】→ 岡部宿
宿境まで二里九町
12時にはとろろ汁の丁字屋で昼食を摂ろうと決めてきた。何とかそれまでには着きそうである。丸子の街の中程の右側に「一りづかあと」と刻まれた石柱があった。(右写真の最左)「丸子の一里塚跡」である。
前方の街道に背の高い落葉樹が見えた。一段高い水神社の道路際の石垣の上にその木はあった。後で調べたところ、樹種はムクノキ、幹周囲4.3m、樹高22mのれっきとした巨木である。これを丸子宿の巨木に決めよう。
この後、丁字屋までの間は丸子宿の主要施設のあったところで、幾つか新しい標示石柱も増えている。まず南側の「四つ目屋」との看板の掛かった人家の前に「明治天皇御小休所阯」の石碑がある。ここは横田脇本陣で、ここには明治元年十月五日に小休されている。次に北側に「史跡 丸子宿本陣跡」の石碑(右上写真の左から2番目)が続く。側面に碑文があった。
碑文によると、
丸子宿本陣跡由緒
丸子宿が、東海道伝馬制の制定によって宿場町が定められたのは、関ヶ原の戦の翌慶長六年(1601)です。江戸から数えて二十番目の宿場町で、江戸期の宿場戸数は二百戸余りでした。
宿場町には本陣・脇本陣等が設けられ、本陣は参勤交代の諸大名・幕府の役人・勅使や公家等の宿泊所で大名宿ともいわれました。建物は書院つくりで、門・玄関・上段の間が設けられた広大な規模の陣屋でしたが、明治三年新政府によってこの制度は廃止されました。
さらに北側に、先ほどの横田脇本陣と同じ形式の「明治天皇御小休所阯」の石碑があった。(右上写真の左から3番目) ここ鞠子脇本陣には明治元年十二月十三日と明治二年三月二十二日の2回小休されている。これも北側に続いて、「お七里役所」の新しい石碑が出来ていた。(右上写真の最右) やはり側面に碑文があった。
碑文によると、
お七里役所
江戸時代の初期、寛文年間紀州徳川頼宣は、江戸屋敷と領国の居城の間、百四十六里に沿って七里間隔の宿場に、独自の連絡機関として二十三ヶ所に中継ぎ役所を設けた。県内では、「沼津」「由比」「丸子」「金谷」「見付」「新居」に設けられ、この役所を「紀州お七里役所」と呼び五人一組の飛脚を配置した。これには健脚にして剣道、弁舌、に優れた仲間が選ばれ、昇り竜、下り竜の模様の伊達半天を着て「七里飛脚」の看板を持ち腰に刀、十手を差し御三家の威光を示しながら往来した。普通便は毎月三日、江戸は五の日、和歌山は十の日と出発し道中八日を要し、特急便は四日足らずで到着した。幕末の古文書に、入山勘太夫役所、丸子勘太夫などと記されている。丸子宿におけるお七里役所は、当家のことである。徳川頼宣は、徳川家康の第十子で家康が亡くなって三年後に駿府を追われ紀州和歌山にお国替えさせられた。こうした事もあって紀州家では、幕府の行動を警戒する諜報機関としてお七里役所を置いたのである。
午後0時3分、ようやく丁字屋に着いた。アプローチに「辰石」という石があった。(右写真) 駿府城の石垣はこちらからも集めたようだ。
丁字屋主人の案内板によると、
辰石
徳川家康は駿府城築城にあたり、その石垣は丸子など近在より集めたと伝えられる。
この石もその一つで、丸子舟川より運び出されたが、三百七十余年目前の旧東海道の下で眠っていたものを、丙辰(1976年)正月、電話ケーブル埋設事業の際掘り出されたもので、辰年にちなみ龍が爪あと(くさび割りあと)を残して天に昇った、丸子の縁起ものとして辰石と名付けました。
さらに、「十返舎一九東海道中膝栗毛の碑」があった。碑文は判読できないが、おそらく膝栗毛に出ている有名な狂歌に違いない。弥次喜多は茶屋夫婦の喧嘩に巻き込まれ、あたりがとろろだらけになって、とろろ汁を食べそこなう。
けんくは(喧嘩)する 夫婦は口を とがらして 鳶とろゝに すべりこそすれ
丁字屋に付いてはウォークの時には次のように書きとめている。
とろろ汁の丁字屋の藁葺の店に入ると、団体と間違われ奥へ案内されそうになった。とにかく『東海道』スタンプ『丸子宿』を押すことが先決と、案内所でミセを広げる。箱根から押して来たと話すとお褒めとねぎらいの言葉が番頭さんからあった。鈴さんの意見で入口の『芭蕉さんの部屋』の囲炉裏端に席を取る。黒光りする梁には“ちょうな”の痕も残っている。囲炉裏には火が入っていた。とろろ汁セットの『丸子』を注文した。とろろ汁、麦飯、味噌汁、むかご、お新香。ところが食べている所を団体さんや個人客がとろろ汁を横目で見ながら次々と通る。まるで客寄せのマネキンになったみたいだ。
ともあれ昼飯を食べようとわら屋根の店に入る。今日も出来たら「芭蕉さんの部屋」で食べたいと思う。奥へ案内しようとする店員さんに「ここでも良いか」と聞くと、一瞬あった後、了解してくれた。そこで覚った。多分奥で食して貰ったほうが給仕などに楽なのではないか。どちらかというと「芭蕉さんの部屋」で食べられるのは厄介なのかもしれない。前回も団体さんに間違えられたのではなくて、奥へ案内するのがマニュアルになっているのではないかと。同じくとろろ汁セットの「丸子」を注文する。
食事後女房が勘定をしている間、確か芭蕉の句碑があったはずと、表に出てさがす。右側の道路面に丸い碑面の芭蕉句碑があった。(右写真)
芭蕉翁 梅わかな 丸子の宿の とろろ汁
道路を隔てた丸子橋のたもとに丸子宿の道しるべがあった。
府中宿
宿境まで一里四町
→【静岡市 丸子宿】→ 岡部宿
宿境まで一里二十七町
安藤広重の「東海道五拾三次之内 丸子(保永堂版)」と同じ角度から写真を撮った。(左写真) 背後の山の形までそっくりに写せた。その間に青梅のおじさんとやはり石部屋で一緒だったのんき夫婦(命名理由は後ほど)が前後して食事を終り先に発って行った。我々も後を追って丸子橋を渡り、丸子川の右岸を進む。
風花がまた舞い始め、向かい風が大変寒い。前屈みに歩く。国道一号線に出て少し進んでから旧東海道はしばらく国道の南側100mほどのところを並行して付いている。ところが間違えて国道を進んでしまった。200mほど向うで旧道と国道が再合流するところに青梅のおじさんとのんき夫婦の姿がひょっこり現れた。彼らは正しく旧道を通ったようだ。
旧東海道が国1と合流する南側に起樹天満宮がある。何やら樹木と関係ありそうな神社なので立寄ってみる。イチョウの大木が一本、が、巨木にはいまいちである。奥に真新しい「多田元吉翁碑」が出来ていた。インターネットで確認したところ、今年3月11日に除幕したばかりでという。
元幕臣の多田元吉翁は慶喜に従い来静、丸子で茶園を開き紅茶の生産をはじめた。その後、明治政府は翁を中国、インドに派遣し、茶の調査研究に当たらせた。翁は紅茶用の種子、茶業機械の図面などを持ち帰り、日本の茶業発展の基礎を築いたという。
碑の前に、「いずみ」「インド」「紅ほまれ」の、多分紅茶品種の幼木が植えられていた。
碑文によると、
多田元吉は日本人で初めて中国・インドの茶産地を命がけで調査、進んだ茶業を日本にもたらした。その後全国を巡回して育種・栽培・製造技術指導者養成などに生涯を捧げ、近代的緑茶・紅茶生産の確立に中心的役割を果たした。
拡幅された国道一号線の左側を進む。前を行くはずの三人を探すが道草の間に見失ってしまった。午後1時20分、新宇津ノ谷トンネル(左写真)の手前左手の道の駅「宇津ノ谷峠」で休憩する。その後、トンネル前の陸橋を渡り、宇津ノ谷の集落に入る。少し進んだ先で大正のトンネルへ向かう道との分かれ道があり、その分岐点に「宇津ノ谷」の道しるべがあった。
丸子宿
宿境まで七町
→【静岡市 宇津ノ谷】→ 岡部宿
宿境まで二十九町
宇津ノ谷の集落へは左の道を進む。400年祭のためであろう、上り坂が妙に新しく整備されいる。両側に続く古い平屋に各戸ごとに昔の屋号を書いた看板が掛かっている。
右側に御羽織屋がある。秀吉拝領の陣羽織が保存されていることで有名である。「拝観者入口」案内札に従って建物の右側から裏へ廻り、裏庭に出る。
今日はおばあさんが出てきて座敷へ上げてくれた。(最右写真) 前回はお出かけで、娘さんに説明していただいたというと、「それなら嫁です。」という。ウォークの時は次のように書き留めている。
両側の古い家並の門口に旧屋号が『丸子屋』『伊勢屋』などと板に書かれて標示されていた。その1軒の『御羽織屋』では秀吉が小田原征伐の折りに陣羽織を賜ったという。中を見学させてくれるというので、・・・・・中に入る。今日はお祖母さんがいないからと嫁さんが案内してくれた。「・・・・だそうですよ」というのが口癖の抑揚のない口調で説明してくれた。
おばあさんの手馴れた話によると、秀吉公から馬の草鞋を所望されて、当家の主人は草鞋を3脚分差し出した。なぜ3脚分かと聞かれて、後はお帰りに差し上げますと申し上げた。帰りを約束するのは勝利を前提にしている。また「あの山は?」と聞かれて「勝ち山」、「あの木は?」と聞かれて「勝栗」と、縁起の良い答えを連発して、秀吉公はいたくお喜びになり、北条との戦に勝利した帰りにもお立ち寄りになり、礼にと着用の陣羽織を拝領した。
その陣羽織はガラスケースの中にあった。(左写真の円内) 外側は和紙製、内側に絹を使い綿を入れてあるという。その後、徳川家康をはじめとして、街道を行き来する諸大名も立寄られ、縁起が良いとこの羽織に腕を通した。そのためひどく擦り切れていたが、博物館に出品した際に補修をしていただいた。白い部分が補修したところだという。
羽織の逸話は、おそらく馬の草鞋が3脚分したないための言い訳として、その場の機転で発した言葉だったのだろう。秀吉も3脚しか無い言い訳であることを百も承知で、それを戦の勝利に結び付けた機知とユーモアを解して喜んだのであろう。ともあれ、二人の心の触れ合いがこの逸話を生み、褒美としてこの部落は長い期間、諸役を免じられたというから、当家の主人は村に大変な功績をもたらしたわけである。
石川家の案内文によると、
秀吉公のお羽織の由来
天正十八年(1590)三月十九日、豊臣秀吉が小田原の北条氏征伐のため、宇津谷峠をこえ家の前の東海道を通られました。その時、馬の沓(わらじ)がいたんでしまったので、当家に立ち寄り沓(わらじ)を取り替えました。ところが主人の忠左衛門は四つ足の馬なのに三つの沓(わらじ)しか用意しませんでした。秀吉はおどろいて「四本足に三つとはどうしてか」と尋ねました。主人は「残りの一つは戦いに勝った折に差し上げます」と申しました。秀吉は縁起の良いお話しを聞いて大変な喜びで小田原へ向いました。
そして戦いに勝って当家に寄り褒美の品として自分の着用の陣羽織を脱いで忠左衛門に与えました。他にも村人の諸役を勤めることを免じて頂きました。以後東海道を通る大名が秀吉公にあやかるように羽織を見に訪れました。
帰りにウォークのときと同様に、「十団子」を買って出る。「十団子」のいわれについては説明板があった。
石川家の説明板によると、
十団子由来
昔一人の旅僧がここ宇津ノ谷の里を通りかかると鬼が人間の姿にかえて出て来た。旅僧が「お前は誰だ」と問ふと「祥白童子だが坊さんどこからきた」と言ふ。「お前を成仏させようと遠くからやって来た。すみやかに本体を現せ」と言うと彼はたちまち六米の鬼の姿に変身した。「なるほどお前の通力は大したものだ。今度はできるだけ小さなものに化けてわしの掌に上ってみよ」と言えば、小さな玉となって僧の手に上った。それを杖で砕くと十粒の小玉となったので僧は一口に呑みこんでしまった。それから後は鬼の災いはなくなった。
この旅僧は弘法大師が刻んだ地蔵菩薩で宇津ノ谷の慶竜寺にまつられており砕けた玉は十団子として売られている。
表に出ると御羽織屋の右手のブロック塀から「明治天皇御小休碑」が頭だけ見えた。多分、明治天皇も休憩時に陣羽織をご覧になったに違いない。
坂道は急になり階段状になって集落(右写真)を見晴らす高台に出る。集落を上から写真に撮ろうとしていると、直下の家からご老人が出てきて、写真ならもう一段上で撮ったほうが良いと教えてくれる。さらに近辺の案内をまくし立てるように話す。中で、蔦の細道は国道の東側とされているが、実際はここから見える谷を詰めて尾根に出る道だったという説や、峠の途中の地蔵堂跡の発掘と地蔵堂の再建計画の話などは面白く聞いた。
そこへ青梅のおじさんとのんき夫婦の三人が追いついてきた。あれ?、はるかに前を歩いていると思っていた彼らが御羽織屋で時間を掛けた我々の後を歩いているとはどういうわけだ。青梅のおじさんは問わず語りに、道を間違えてどんどん登って行ったら採石場に出てしまい、通った車に聞いたら間違いと判り、国道まで車で送ってもらった。お陰で1時間ロスしてしまったという。青梅のおじさんはどこで間違ったのだろう。間違えるところもないと思うのだが見当がつかない。もっと驚いたのはそれにのこのこ付いて行った夫婦の方である。そこで「のんきな夫婦」と命名した。
ご老人につかまった三人を置いてさらに登る。登ったところで車の通れる道に出る。左へ行けば「明治のトンネル」へ、旧東海道は右へ進みすぐに山道に入る。集落の写真を撮るには少し左へ行った所が撮影ポイントのようだ。そこへ三人が追いついてきて、明治のトンネルのほうへ行ってしまう。三人を気にしながら戻る。
再度「宇津ノ谷」の道しるべがあった。その先に「旧東海道のぼり口」の小さい標識がある。気をつけていないと見逃しそうである。これより旧東海道は山道となる。
丸子宿
宿境まで十町
→【静岡市 宇津ノ谷】→ 岡部宿
宿境まで二十六町
山道とはいえども参勤交代も通った道であるから、2m程の幅を保っている。しかし落ち葉が散り敷いて薄暗く寒々とした何とも寂しい山道である。二体の馬頭観音(左写真)を見つけてようやく旧街道を正しく辿っていることを確認できた。
少し開けたところで宇津谷の集落が一望できた。先ほどの撮影ポイントよりも少し高いが、いい写真に撮れた。(右写真) 右手下に明治トンネルに進む道の途中に小公園が見えて、のんきな夫婦がいた。手を振ると気付いて手を振り返す。この夫婦はふらふらとどこへ行くのだろう。明治のトンネルの方へどんどん行ってしまった青梅のおじさんはどこへ行ったのだろう。この道が判るだろうかと話ながら山道を登って行く。
弘法さんの祠への案内標識を過ぎて、山道の側らに「雁山の墓」を見る。(左写真) 情報の少ない時代、風の便りに旅先で死んだと聞いて、友人達が法事をして、それを聞いた師とあおぐ人々は墓まで造ってしまった。後に自分の墓を見ながらそのままにした雁山も不思議といえば不思議である。もっとも今となっては少し(37年ほど)墓を造るのが早かっただけのことか。この話は街道を通る後世の旅人達の口の端に数え切れないほどの回数のぼったことを考えると、これも不思議な縁である。
案内板によると、
雁山の墓
雁山は松尾芭蕉と同門の山口素堂の甥、幼少の頃から素堂に儒学・茶道・俳諧などを学んだ。享保十二年(1727)頃、友人関係に音信不通で七・八年もの旅に出た。友人達は彼が旅先で亡くなったものと思い、法筵を開いていた。このうわさも当然駿河に流れて来た。かねて彼に俳諧の指導を受けていた人々により、享保十五年六月この墓の建立となったものと思われる。
雁山はその後、黒露と改め、駿河で俳諧の師匠をしていて、宇津ノ谷の自分の墓の前を通っているらしい文があるといわれているという。
雁山は墓碑面の享保十五年から三十七年も長生きをして明和四年十二月十日(1767)甲府で八十一才の生涯を閉じた文人とのことである。
すぐ先に地蔵堂跡があった。石垣が組まれて少し平らな所が出来ていた。乳垂れの出来たイチョウの木が一本目立った。案内板があった。
丸子路会の案内板によると、
地蔵堂跡
この奥の空地は、もと延命地蔵堂のあったところで、礎石が散乱し、わずかに往時を偲ばせている。
江戸時代末期の歌舞伎脚本作家 河竹黙阿弥 の作で、丸子宿と宇津ノ谷峠を舞台にした「蔦紅葉宇都谷峠」というお芝居がある。
盲目の文弥は、姉が彼の将来を憂いて京で座頭の位を得させるために身売りして用立てた百両を持って京に上る。
文弥は、道中、護摩の灰 提婆の仁三に目を付けられながら丸子宿にたどり着く。
一方、伊丹屋十兵衛は、かっての主人の恩義で借りた百両の返済工面のため京の旧知を頼ったが目的を果たせず、失意のうちに江戸へ戻る途中、丸子に投宿する。
丸子宿の旅籠藤屋にこの三人が同宿したことが、文弥の百両をめぐる凄惨な結末への始まりとなる。
文弥の百両ほしさに十兵衛が宇津ノ谷峠で文弥を殺害してしまう芝居の山場、「文弥殺し」の舞台がここ延命地蔵堂前である。
延命地蔵尊は、現在宇津ノ谷の慶龍寺に祀られており、縁日は、毎年八月二十三・二十四である。
“ご老人”の話では発掘で銭も出てきたというが、もちろん歌舞伎中の百両であろうはずはなく、しかしひょっとすると旅人の誰かが後日掘ろうと隠した金であったのかもしれない。何やら物語を感じさせる話である。青梅のおじさんが地蔵堂跡で追いついてきた。「ここが地蔵堂跡ですよ」と言い置いて先に行く。
午後2時14分、宇津ノ谷峠に着いた。峠は登りが尽きるとすぐに下りになる狭い場所であった。大名行列が峠で一休みとはとても出来ない。案内板があった。
案内板によると、
天下の公道となった東海道宇津谷峠はさまざまの人が越した。将軍・公卿・大名行列・いろいろな庶民・最後の大行列は明治天皇であった。明治九年(1876)トンネル(現在のレンガ作り)が峠の真下に出来るまで二百七十年間、天下第一の公道だった。峠の標高は170米、東海道分間延絵図によると峠地蔵・六地蔵・供養塔二基・榜示杭二本、有渡郡・志太郡境とある。峠地蔵堂は現在慶竜寺本堂となり、供養塔一基は原位置にそのままある。
追いついてきた青梅のおじさんと入れ替わりに下り始めた。振り返って峠道を写真に撮ると、青梅のおじさんがフレームの中に入った。(左写真)
青梅のおじさんが追いついてきて女房と話す。ここで初めて青梅から来ていて、退職後一人で、我々と同じように1年前、日本橋から歩いて来ていると知る。今日は藤枝まで歩き、一泊して明日は掛川まで歩く予定だと話す。「ただこんなに道を間違えてばかりだと藤枝までいけるかどうか」と笑った。
車道に出て青梅のおじさんはまた先を行った。我々は岡部宿まで、彼は藤枝宿まで行かねばならない。峠の難所を越えたからもう会うこともあるまい、たぶん?
明治のトンネルの方へ左折する道もあるが山に沿うように進む。途中「ひげ題目の碑」の標識があり、山に10mほど入ったところにあった。(右写真) このひげ題目は蛇がのたくったような書体であり、一口にひげ題目といっても個性があるようだ。
さらに下った山側に「蘿径記碑跡」の標柱と案内文があった。かって「蘿径記碑」はここに立っていた。
岡部町教育委員会の碑文によると、
蘿径記碑跡
蘿径記碑は文政十三(1830)年、有名な儒学者でもあった駿府代官の羽倉外記(簡堂)が、蔦の細道の消滅をおそれ、末長く残すために建立した石碑です。「蘿」は蔦を、「径」は小路を意味します。今は坂下地蔵堂の裏にあります。
車道に出る前に「岡部町 東海道参勤交代の道」の道しるべがあった。
丸子宿
宿境まで十八町
→【岡部町 東海道参勤交代の道】→ 岡部宿
宿境まで十八町
車道に下りた所から旧東海道は右手に行く。左に木和田川沿いに登っていくと、「蔦の細道」に到る。旧東海道の案内板があった。
岡部町教育委員会の案内板によると、
旧東海道(別名 大名街道)
この道は、駿河国の安倍郡と志太郡のさかいにある宇津の山の一番低くなった鞍部にある峠道で、二つの峠越しがあった。一つは、源頼朝以後に開発された東海道本筋の通っている宇津の谷峠で、もう一つは、それ以前の蔦の細道の峠である。鎌倉幕府は部隊の行進ができない旧道を廃し、新道を開いたのが宇津の谷峠道である。上り下り八丁(約870メートル)の険路であった。ここで鬼退治にからむ十団子の伝説の生まれたのも、難所であった証拠であろう。豊臣秀吉が天正十八(1590)年七月、小田原城を落し、戦勝を誇り、蹄の音をこだまさせつつ通ったのも今は兵士共の夢のあとである。慶長六(1601)年 徳川家康が、五街道を設け、交通の便を図ってからこの街道は人や物資の往来がひんぱんとなり、殊に参勤交代の大名行列は豪華絢爛たるもので、二十万石以上の大名は武将が二十騎、足軽が百二十人から三百人もあり、一万石の大名でも五、六十人の供揃えで、その行列はこの峠をうめつくしたことであろう。この道も明治九(1876)年トンネルの開通によってとざされたが、明治初期までは上り下りする旅人の難所であった。
そこで、のんきな夫婦に再会した。「明治のトンネルは暗くて怖かった」 この夫婦は東海道を歩いているわけではなさそうだ。
「蘿径記碑」は車道を少し下った谷の入口右手の坂下延命地蔵尊(左写真)のお堂の左裏に屋根がついた小屋に入っていた。(左写真の円内)
「蘿径記碑」の前に碑文(漢文)の読み下し文が掲げてあったが、辞書を引き引き口語文に直してみた。細かい部分に誤訳もあると思うが、気にしないことにする。
蘿径記 羽倉簡堂
どこの山にツタやカエデの道の無い所があろうか。中でも、この道が特に後世に有名なのは、在原業平の詞藻(伊勢物語)のためである。考えてみるに、言い伝えでは、「業平は物静かな美男子で、和歌を好む。天皇の御命令により、東国に下ろうとすると、天皇が業平に命じて言われるには、『歌枕(和歌に詠みこむ諸国の名所)を求めて帰って来い』」と。そして、また伊勢物語にも書き記されている。「旅を続けて駿河の国にやって来た。宇津の山に着いて、入ろうとする道はたいへん暗くて細い上に、ツタやカエデが繁っている」と。その和歌がまた寂しさを表わしている。天皇は命令して新古今集にその歌を入れた。後世の人はうらやみ誉めた。その物語から言葉を採り、名付けて「蔦の細道」という。「蘿径」というのは詩人が直してそのように言った。今は必ずしも改められてはいない。
山の南側の小道が蔦の細道の入口である。北に行くと険しい山道である。足がかりの穴を穿って登ると一千余歩で初めて峰の左の、粗末な橋の側に達する。そして、山頂、まさしく富士の嶺を東方に見る。すなわち、僧宗祇の書いているところと一致している。その道は当時の官道で、親王・宗尊、参議・雅経などの諸公、皆立派な詩文を作っている。しかしながら、豊臣秀吉が相州(小田原)を攻める際には、道は今の道を通った。つまり、古い道は廃止された。
在原業平の東下りは、ある人は物見遊山といい、ある人は左遷追放という。その言い伝えによれば、ひょっとしたら密かに官位を下げられて遠方へ追放されたのかもしれない。後世の説はこれに近い。
今年八月十四日、公務があって宇津の山を過ぎた。その機会に、世間で言われている「蔦の細道」を訪れた。そして次のように嘆いた。「伊勢物語は微力ながら、古い道をよく千年の後に残した。言うまでもなく伊勢物語ほど偉大なものはない。しかし、今後この道を過ぎて、誰が自分と同じように感じる者がいるだろうか」と。 ただちに一基の石碑を建てて、その言葉を世間に知らしめるという。 文政庚寅八月
青梅のおじさんはもう先へ行ってしまい姿が見えない。のんきな夫婦は国道一号線を潜って向うのバス停に見えたのがそれらしい。最初の信号で国道一号線を渡り北の山側に沿った旧東海道を行く。旧国道一号線と合流するところで再び青梅のおじさんに出会った。道路を隔てて少し行くと青梅のおじさんが指差す。そこに一里塚があった。一人で道路を渡り、実物の二分の一に再建された一里塚を見た。周りに三段の丸石を積み、一本落葉樹が植えられている。案内石碑があった。
岡部町教育委員会の案内石碑によると、
一里塚
江戸幕府は慶長九(1604)年、江戸日本橋を起点として東海道・中山道・北陸道の三街道に一里(約四km)ごとに塚をつくり、榎や松などを植えました。これを一里塚といいます。その目的は、一里三十六町制を多くの人々に知らせること、大名の参勤や旅人の道程の便を図ること、旅人の憩いの場に供することなどがあげられます。大きさは五間(約九m)四方ですが、現存する塚を見ると円形が多いようです。
岡部の一里塚は江戸日本橋から四十八里の所で、岡部川の左岸の方にありました。従って昔の東海道は川の左岸の方にあったと考えられます。復元された一里塚は本物の二分の一の大きさです。
十石坂観音堂は道路右手の石段を20段程上がった所にあった。青梅のおじさんは十石坂観音堂へ共に上がったが、写真を撮る間にそそくさと先へ行ってしまった。そしてここで会ったのが最後になった。
岡部町教育委員会の案内板によると、
十石坂観音堂(町指定文化財)
入母屋造りの瓦ぶきの観音堂で内陣、外陣の境の格子は非常に細かい技巧が施されている。
江戸時代末期の作と思われ、この観音堂の中に二基の厨子が安置されている。
厨子 一
中央にある厨子で、宮殿造り。屋根は入母屋造り、柿ぶき(こけらぶき)で二重垂木、妻入である。彩色がほどこされていて江戸もやや末期の作と思われる。
厨子 二
観音堂の向かって右側にある。宝形、板ぶき屋根、黒漆塗りで簡素ではあるが品格の高いものである。江戸も中期以降の作と思われる。
十石坂観音堂の厨子には千手観音菩薩立像や西行座像などがあるという。観音堂の右側には石仏や墓石などが集められ整然と並べて祀られていた。馬頭観音も幾つか見えるから、街道筋にあったものを道路改修の度に邪魔になって、ここへ集められたものだと思う。
旧国道を真っ直ぐ進み突き当たって左へカーブするところで旧東海道は右折する。その角に素人作りの笠懸松の案内板があった。
案内板によると、
笠懸松と西住墓
「・・・・・やがて西行は駿河国岡部の宿にさしかかった。荒れはてた小さな堂に立ち寄って、一休みしているときなにげなく後を振り返って見ると、戸に古い檜笠が懸かっていた。胸騒ぎがして、よくよく見ると、過ぎた春、都で共に修行した僧の笠だった。(中略)
笠はありその身はいかになりぬらむ あわれはかなき天の下かな ・・・・・」(西行物語より)
ここは歌聖として有名な西行が西住と東国へ旅をした時に起きた悲しい物語の舞台である。「笠懸松」は右手西行山の中腹にあったが、松喰虫の被害を受けて枯れてしまった。根元には「西住墓」と伝えられる古びた破塔がある。
笠の主は自分が破門した西住の笠であった。笠には
西へ行く雨夜の月やあみだ笠 影を岡部の松に残して
という病に倒れた西住の辞世の歌が残されていた。この物語ゆかりの笠懸松と西住法師墓の案内標識が山の方へ続いていた。しかし今日はそちらに足を伸ばすのは辞めた。
再度国道一号線に出た所の西側に、「大旅籠柏屋」があった。(右写真) 柏屋(かしばや)は江戸時代の大旅籠が東海道の歴史や文化を楽しく学べる歴史資料館として整備され、平成12年11月にオープンした。オープンの時、女房と見学した。その時は沢山の入場者に多くのボランティアが対応していた。通りに面した主人の部屋に坐ってみた。格子の隙間から明るい通りを歩く人が見えた。ボランティアの婦人が色々と説明してくれた。
今日は人影もなく、ただ上がり口に人形の弥次喜多が上がりかまちに腰掛ける姿が見えた。
その先の信号の所には「岡部宿本陣址」の標柱があった。その先で旧街道は国道から左の古い町並みの残った街へ入る。(左写真) その角には『岡部宿』のサインがあった。
丸子宿
宿境まで一里
→【岡部町 岡部宿】→ 藤枝宿
宿境まで一里十四町
旧街道には「問屋場跡」や「高札場跡」の案内プレートが出来ていた。
案内プレートによると、
問屋場跡
幕府の公用旅行者のためにつくられた施設で、人夫や馬を常備し、次の宿場まで、旅行者や荷物を無料で継ぎ送りました。しかし、公用の仕事がない時には、一般旅行者や荷物を有料で送りました。
岡部宿には、岡部本町と加宿内谷の二か所に、問屋場がありました。
案内プレートによると、
高札場跡
高札場は、宿場内の目立つ所や、人々の多く集まる所に設置され、法度や掟(法律や条令)、犯罪人の手配などを木札に書き高々と掲げて、社会の人々に知らせたところです。
高札が、四辻(交差点)などに建てられると、そこを「札の辻」と呼んでいました。
旧街道は旧国道一号線の東側を少しづつカーブしながら進み、岡部町の中心部で再び旧国道一号線にでた。出たところのバスターミナルの裏に、「五智如来像」が横に五体、屋根が掛けられて並んでいた。(右写真) 後ろ側にはもう五体、一時代古い五智如来像が隠れていた。
岡部町教育委員会の案内板によると、
五智如来像(町指定文化財)
内谷の誓願寺境内(この前方)にあったが、廃寺となり現在、寺跡に移されている。
地元産の三輪石(安山岩質凝灰岩)で作られ石像仏としては形の大きなものが特徴で、五体揃ったものが二組ある。一組は宝永二年(1705)に陸奥棚倉から駿河田中城主に移封された内藤弌信の家老の脇田次郎左衛門正明が同年に寄進したものである。
五智如来物語
昔、当時の田中城主だった内藤紀伊守に、お口の不自由なお姫様があった。このことが絶えず殿様と奥方の心痛の種で、ある日この話を耳にした徳川家の奥方から、岡部宿のはずれ誓願寺の五智如来をひたすら念ずるように紹介されたそうである。そこで早速殿様は奥方共々家老をつれ、この寺にまいって願をかけた。いく日か経ち、霊験あらたか、お姫様はやがてお口も不自由なく話されるようになり立派な大名の許へおこし入りされた。殿様はいたくこのことに感謝され幾ばくかの田、畑を寄進された。
向かって右から
釈迦如来 阿しゅく如来 大日如来 宝生如来 阿弥陀如来
「五智如来像」を本日の最後とする。しかし次回のこともあるので「岡部宿の松並木」まで足を伸ばしておく。午後3時43分、岡部松原のバス停で風花の舞う寒い中バスを待った。本日の歩数は 30,882歩であった。
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