



午前9時9分に磐田駅に降りて、最初に「善導寺の大くす」を見に行く。駅前の左手に、道路より一段高い小さな公園からはみ出して緑の傘を広げたクスノキの巨木である。(左写真) 「巨木巡礼」で訪れたときには次のように書いている。
磐田市のシンボル的な巨木であろう。異例ではあるが、「須賀神社の大楠」、「西光寺の大樟」に続いて、3本目の「見付宿の巨木」にする。
右側の磐田市中泉公民館前に、「磐田市 中泉」の道しるべがあった。またその近くに満開のツツジに囲まれて、平成三年に設置された旧東海道の石碑があった。(左写真)
豊田町は高砂香料の縁で、「香りの町」をキャッチフレーズに町興しを行っている。JR東海道線の豊田町駅前には5年前に「香りの博物館」が出来た。世界でも珍しい「香り専門」の博物館である。女房は入館したことがあるというが、自分はまだない。
この後旧東海道は所々松並木の名残の松を残して続く。(右写真) 豊田町の東海道には「東海道と歴史の道」という新しい道標が出来ていた。(左写真)
さて、午前9時50分、旧東海道の宮之一色に一里塚が残っていた。もっともこの一里塚は復元されたものである。階段がついて一里塚に登れるのが面白い。(右写真)
街道左側に典型的な木造の屋形の秋葉常夜燈(左写真)を見て、豊田町駅への広い四つ角を越え、若宮八幡宮前に出る。若宮八幡宮の境内に入ると「藤と香りの道」の「郷社ポケットパーク」の案内碑(右写真)があった。そこには
「第三場(出会いの場) 熊野が、あいさつにあらわれたのは、そのときでした。宗盛の顔にほほえみがうかびました。熊野が天竜川の土手で、母のために蓮華の花をつんでいた夕暮れ、そばを通りかかった若い侍がこの宗盛だったのです。宗盛は、熊野の美しさに見とれてしまいました。そして、できることならもういちどあいたいと思っていたのでした。」
若宮八幡宮の境内には一段高い円形の緑地に西之島学校跡の碑があった。(左写真) 明治5年の学制発布に伴い、翌六年にこの地に西之島学校が設立された。その後、西之島学校は森下村に校舎を新設し移され、井通小学校、豊田南小学校と改称されて受け継がれているという。
西進する道は天竜川で突き当たりになるが、その二つ手前の角を右折し、北上して国道を渡り、バイパスを潜る。「熊野の長藤 長藤まつり 四月下旬〜五月上旬 樹齢八百年 国・県の天然記念物指定 800m」の看板を見て道は左右に分かれる。左の古い道を行く。ここにも生垣に巻きつくジャスミンが目立つ。(左写真)
午前11時05分、長藤の見物客で賑わう行興寺に着いた。(右写真) 行興寺については前回に来たときは次のように書き残した。
県指定の長藤は本堂右手にあり、藤の幹が束になって、中が空洞になった幹のように見える。最長1.5mの花房が密集して、房の紫以外には足元に見学者の足が見えるだけであった。(左写真)
平家物語や世阿弥の謡曲「熊野」で知られた熊野御前の墓は、本堂左手に格子柵に囲まれて母の墓と並んでいた。二つとも古びてはいるが、宝筐印塔形式の立派な墓である。(左写真円内) 墓の前には御堂があり、案内板があった。(左写真)
小雨に折り畳み傘を出して土手に向って進む。土手の手前の左角に「池田の渡し歴史風景館」という施設が出来ていた。(右写真) 前回歩いたときには無かった施設である。中には池田の渡しの案内パネルや関連品が展示されていた。
「池田の渡し歴史風景館」の向いには土台を丸石で1.5m程積み上げて高くした石の秋葉燈篭があった。(左写真) また 天竜川の土手の手前右に、「池田橋の跡」の石碑があった。(右写真) 雨脚が細かくしげくなった。
土手を行くとすぐに、「天竜川渡船場跡」の石碑があった。(左写真) 前回歩いた時も次のように記している。
さらに二段になった土手の下の小道を南へ進む。土手下に桜並木があった。その桜に藤が巻きつき、我が物顔に花房を垂らしていた。木全体に藤の紫が満開で、藤棚に整えられた長藤よりも余程立派に見えた。しかし桜の木こそいい迷惑である。近い将来、縛り付けられ枯れてしまうかもしれない。ともあれ女房を入れて写真を撮った。(右写真) 辺りの土手にも定期的に刈り取られて大きくなれない藤の葉がたくさん這っていた。
午後0時15分、ようやく橋を渡り終えた。新天竜川橋から下へ降りて、藤棚のある保育園前を通り、ガードを二つ潜って南側に出る。そしてもう一度天竜川の右岸の土手に出る。土手の内側に玉石を積んで「明治大帝御聖蹟」の石碑があった。「玉座迹」と刻まれた文字が見える。(左写真)
すぐ先に「天竜川木橋跡」と「舟橋跡」の標木柱が建っていた。(右写真)
金原明善は「暴れ天竜」のそばで大地主の家に生まれ育った。明善36歳の年、明治維新直前の慶応4年に大洪水が起こり、天竜川下流域の 120ヶ村が3ヶ月も水浸しになって、人々の暮らしに大打撃を与えた。その体験から、明善は天竜川に堤防を築くことを思い立ち、全財産を投げうって工事に取り掛かった。先頭に立ち働く明善の姿に感銘を受けた多くの人々の協力と国からの援助で、25年かかって36kmの堤防が完成した。明善はさらに流域の山々に 300万本もの植林をし、洪水の元を絶つ事業を続けた。そして大正12年91歳でなくなった。明善は教科書にも取り上げられ、地元では有名人である。
入場無料というので今日も見学した。記念館を出た所に歌碑があった。(右写真)
国道一号線のバイパスを潜る手前だったか、後だったか、15分ほど進んだ先の、わずかに残った松並木の名残に、写真のように倒れこんでしまったにもかかわらず、大切に残された松があった。丁寧にネットで仕切って危険防止までされている。(左写真)
この神社に入ったすぐ左手、街道沿いに木造の屋形の秋葉常夜燈があった。波を彫り込んだ欄間の彫刻が深く立体的で立派であった。(右写真)
淡々と下町が続く向こうに、浜松のランドマークのアクトシティの高層ビルが見えていて、なかなか近づかない。浜松は激しく戦災を受けていて、往時を偲ばせるものはほとんど何も残っていない。右側から旧国道152号線(バイパスが出来るまでの国道一号線)が合流して、旧東海道はしばらくその国道を行く。交差点に「浜松市 植松原」の道しるべがあった。
そして馬込橋を渡った。馬込川はかっては汚れが酷いと報道されていたように思ったが、水草などが繁茂していて一見水が綺麗に見えた。橋柱代わりの街灯とアクトシティを並べてカメラに収めた。(右写真)
馬込橋の先は周辺が再開発中で、広い地域が更地になって一部建築が始まっている。建物を撤去した空地の先にアクトシティが丸見えになっている角に、「東海道浜松宿入口」の標木柱が立っていた。(左写真) 確かあたりにお祭用品の専門店があったはずである。前回歩いた時の記録にも、「アクトシティを南に見て通りすぎ、浜松の繁華街に入る。立派な店構えのお祭り用品の専門店などがあって、祭り好きの浜松らしい」とある。5月初めに当地は浜松凧祭でにぎわう。しかし、その辺りは建物が無くなってその店が見つからなかった。チェックしておきたいと思ったのだが、どうも北に入った所に引っ越したらしい。案内地図が掲げてあった。
午後3時43分、浜松駅。ここまでとうとう昼食を食べずにきてしまった。駅ビルの「杵屋」といううどん屋で遅い昼食を摂り、少し早いが本日の東海道歩きを終る。



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