第 17 回
平成14年4月20日(土)
曇り一時小雨
見付宿−中泉−豊田町−池田の渡し−浜松宿
“ジャスミンと長藤の豊田町から新天竜川橋決死行”
温暖化の結果であろうか、今年の春は全く早かった。桜の開花は静岡で3月15日と平年より13日も早く、49年間の観測史上、最も早い記録になった。静岡の新茶シーズン到来を告げる静岡茶市場の「新茶初取引」も昨年よりも6日早く、4月17日に行われ、お茶の芽伸びも例年より1週間早いといわれている。茶問屋の話では今年は茶の芽の生育も良く美味しいお茶が出来ているという。今年の春は一足跳びに過ぎていった。
今回のコースの中に豊田町の「熊野(ゆや)の長藤」がある。早くも今週見頃になっているとの情報に、少々天候のはっきりしない中ではあるが、思い立って東海道歩きに出かける。
午前9時9分に磐田駅に降りて、最初に「善導寺の大くす」を見に行く。駅前の左手に、道路より一段高い小さな公園からはみ出して緑の傘を広げたクスノキの巨木である。(左写真) 「巨木巡礼」で訪れたときには次のように書いている。
樹勢に勢いがあり奔放に拡げた枝が素晴らしい。支柱に頼って立っている巨木の多い中で、支えもなく、まだまだ太くなっていくだろうと頼もしく思った。夜中には散水もされて、悪い環境の中だが、大切にされているようだ。
また周りの植込みの中に案内板があった。
磐田市教育委員会の案内板によると、
静岡県指定天然記念物 善導寺の大樟1本
この大樟は樹齢約700年と推定され、目通り 8.2m、樹高 28m、枝下面積が850uもあり樹勢旺盛である。善導寺伝によれば、徳太寺公の墓所の目印に植えたものと伝えられ、市民に親しまれ愛されている。
磐田市のシンボル的な巨木であろう。異例ではあるが、「須賀神社の大楠」、「西光寺の大樟」に続いて、3本目の「見付宿の巨木」にする。
前回最後に歩いた「天平通り」を100mほど戻る。二つ目の信号の角に写真のような標識が立っている。(右写真) 南下してきた旧東海道はこの交差点で曲がって西へ進む。今日の東海道歩きはここをスタートとする。
右側の磐田市中泉公民館前に、「磐田市 中泉」の道しるべがあった。またその近くに満開のツツジに囲まれて、平成三年に設置された旧東海道の石碑があった。(左写真)
見付宿
宿境まで二十三町
→【磐田市 中泉】→ 豊田町
宿境まで六町
10分ほど進んで、旧東海道は磐田市から磐田郡豊田町に入る。まもなく街道左に高砂香料という会社の工場を見る。高砂香料はホームページを見ると
フレーバー(食品香料)、フレグランス(香粧品香料)アロマケミカル(合成香料)、ファインケミカル(医薬中間体)を製造販売する日本最大の香料会社
で、一部上場している会社である。
豊田町は高砂香料の縁で、「香りの町」をキャッチフレーズに町興しを行っている。JR東海道線の豊田町駅前には5年前に「香りの博物館」が出来た。世界でも珍しい「香り専門」の博物館である。女房は入館したことがあるというが、自分はまだない。
この後旧東海道は所々松並木の名残の松を残して続く。(右写真) 豊田町の東海道には「東海道と歴史の道」という新しい道標が出来ていた。(左写真)
この先、豊田町森下の若宮八幡宮前を起点として、この標識の角から北へ向かい、国道一号線のすぐ北を通る一言坂を東進し、磐田市のかぶと塚公園に至る約3kmほどの道を、「東海道と歴史の道」と名付け、道標を立てたという。
この「東海道と歴史の道」の途中の一言坂は見付宿から池田渡船への近道で、姫街道の一部であった。元亀3年10月、一言坂では上洛を目指す信玄と迎え撃つ家康が戦った。多勢に無勢の家康は撤退を余儀なくされ、退却する本隊を助け、本田平八郎忠勝が獅子奮迅の戦いをした。「一言坂の戦い」である。武田の軍勢はこの働きを目の前にして、
「家康に過ぎたるものがふたつあり唐の頭に本田平八」
と詠って、揶揄半分に称えた。「唐の頭」は「唐の頭の兜」のことである。国道一号線沿いに「一言坂の戦跡」の石碑が出来ている。
さて、午前9時50分、旧東海道の宮之一色に一里塚が残っていた。もっともこの一里塚は復元されたものである。階段がついて一里塚に登れるのが面白い。(右写真)
東海道と歴史の道の案内板によると、
東海道宮之一色一里塚
江戸時代になると、東海道や中山道などの街道が整備され、これにより多くの人々が安全に旅することができるようになり、荷物も多く、早く届けられるようになりました。
一里塚は、旅人に距離を知らせるために一里(約4キロ)ごとに、街道をはさんで両側に一基ずつ作られました。一里塚の上には、榎や松などが植えられ、その木蔭は多くの旅人の休憩する場所となりました。また、かごや荷物を運ぶ料金の目安としても利用されたようです。ここ宮之一色一里塚は、東海道の起点である江戸(東京都)日本橋から数えて63番目の一里塚です。現在の一里塚は昭和46年に復元されたものです。
当時は、西に間の宿といわれた池田宿と天竜川の渡船場を、東に見附宿をひかえて、さぞ多くの旅人や荷物が行き交ったことでしょう。一里塚の西に点在する松並木がその名残を今に伝えます。
街道左側に典型的な木造の屋形の秋葉常夜燈(左写真)を見て、豊田町駅への広い四つ角を越え、若宮八幡宮前に出る。若宮八幡宮の境内に入ると「藤と香りの道」の「郷社ポケットパーク」の案内碑(右写真)があった。そこには
「第三場(出会いの場) 熊野が、あいさつにあらわれたのは、そのときでした。宗盛の顔にほほえみがうかびました。熊野が天竜川の土手で、母のために蓮華の花をつんでいた夕暮れ、そばを通りかかった若い侍がこの宗盛だったのです。宗盛は、熊野の美しさに見とれてしまいました。そして、できることならもういちどあいたいと思っていたのでした。」
と熊野御前と平宗盛の出会いが記してある。熊野御前はこれから行く長藤のお寺、行興寺に葬られている。
「藤と香りの道」は、豊田町の駅をスタートし、香りの博物館、熊野伝統芸能館、新造形創造館などの施設を巡り、また、熊野御前ゆかりの行興寺と池田宿の街並みを回る9kmのコースである。
若宮八幡宮の境内には一段高い円形の緑地に西之島学校跡の碑があった。(左写真) 明治5年の学制発布に伴い、翌六年にこの地に西之島学校が設立された。その後、西之島学校は森下村に校舎を新設し移され、井通小学校、豊田南小学校と改称されて受け継がれているという。
若宮八幡宮には藤棚があり満開であった。(右写真) 行興寺の長藤もきっと満開であろうと想像された。この他、若宮八幡宮には御神木のクロマツの巨木やユーカリの大木があった。
西進する途中、家々の生垣にジャスミンの花が満開であった。(右下写真) 香りの町の豊田町は香りの花としてジャスミンを奨励しているのであろうか。町々に香りが一杯であった。若宮八幡宮から500mほど西へ進んだ右手に、「豊田町 長森立場」の道しるべと長森立場の案内板があった。
見付宿
宿境まで一里十四町
→【豊田町 長森立場】
長森かうやく
→ 浜松宿
宿境まで二里十七町
前回の歩きのときは次のように記録している。
立場(タテバ) とは街道で人夫が駕籠などを止めて休息する所である。この長森は『長森かうやく』で有名な所であった。山田与左衛門が始めた膏薬はシモヤケ・アガキレによく効いて、街道筋では有名だった。次のような文句が残っている。今で言えばキャッチコピーであろうか。「諸人の よき評判や 長森の 諸病に菊の 五もんかうやく」
豊田町教育委員会の案内板によると、
長森立場(たてば)
江戸時代、宿場と宿場をつなぐ街道筋の主な村(間村)には、立場という旅人や人足、駕籠かき、伝馬などの休憩所が設けられていました。
明治時代以後は人力車や馬車などの発着所、またその乗客・従業員の休憩所となりました。
ここから数十メートル東へいった所に、立つ野村字長森の立場があったと伝えられています。
立場は、掛茶屋、立場茶屋などと呼ばれる茶屋を兼ね、旅人たちはお茶を飲んだり、名物の餅などを食べて休憩しました。また、馬もここで湯や麦などを補給しました。
長森かうやく
「長森かうやく」は、江戸時代の前期万治年間(1658〜1660)から、山田与左衛門家で作り始められた家伝薬で、冬季にできる「あかぎれ」や切り傷などに抜群の効能があるとして、近隣の村人は元より、参勤交替の大名行列の一行や東海道を上下する旅人たちの土産品として大変な人気を博しました。
山田家には今でも江戸時代に作られた桜の木の一枚板の大看板があります。この看板は、高さ1.4メートル、幅73センチメートル、厚さ3.5センチメートルという立派なもので、これには「御免 御むそう 長もりかうやく 本家 山田与左衛門」と刻まれており、中央の上には十六弁の菊の紋章も刻まれています。
こうやくの製法は、当時の主人山田与左衛門が夢枕にたった神様のお告げによって始めたと伝えられ、当主が代々受け継いできましたが、現在は作られていません。製法は極秘中の極秘とされ、たとえ妻であっても明らかにされることは許されませんでした。
昔の歌に 「諸人のよき評判や長森の 諸病に菊の五もんかうやく」 と詠まれています。
西進する道は天竜川で突き当たりになるが、その二つ手前の角を右折し、北上して国道を渡り、バイパスを潜る。「熊野の長藤 長藤まつり 四月下旬〜五月上旬 樹齢八百年 国・県の天然記念物指定 800m」の看板を見て道は左右に分かれる。左の古い道を行く。ここにも生垣に巻きつくジャスミンが目立つ。(左写真)
午前11時05分、長藤の見物客で賑わう行興寺に着いた。(右写真) 行興寺については前回に来たときは次のように書き残した。
池田に熊野(ユヤ)の長藤で有名な行興寺がある。池田の宿は平安時代の後期から賑わった。ここに長者がいて遊女を大勢養っていたという。長者に熊野御前という娘(一説には遊女)がいて、遠江の国司の平宗盛に見初められ、召されて京に上った。時がたって、故郷の母の病気を機会に帰郷し、この地で没した。行興寺には母の墓と並んで熊野御前の墓がある。また熊野御前が植えたといわれる長藤は有名で、花時には花の下が花見客で大賑わいとなる。ちなみに当時の美人番付では、1位が手越の千寿、2位が熊野、3位が黄瀬川の鶴亀だという。
「手越の千寿」は静岡の手越で、「黄瀬川の鶴亀」は沼津の木瀬川で触れた。境内に入る頃より心配していた雨がぱらぱらと落ち出してきた。予想はしないわけではなかったが、意外と早く雨がきた。熊野の長藤については入口に案内板があった。
豊田町教育委員会の案内板によると、
熊野(ゆや)の長フジ 国指定天然記念物 一本 県指定天然記念物 五本
国指定樹は、境内西北隅に位置し、幹は根元より分かれて二支幹となっている。根元で約1.8メートルもある。
本堂前の境内地にある、五本のフジは県指定樹であるが、国指定に劣らないフジの巨木である。ともに、樹令は定かでないが老木であることは間違いない。
花房が一メートル以上にも伸びて、紫色の美しい花をつける。一般的には「熊野の長フジ」と呼ばれている。そのいわれは、平安時代の終わりごろ、熊野御前が植えたとの伝承がある。熊野御前については謡曲熊野や平家物語にも登場する、親孝行で有名な美女である。
境内は藤棚で埋り、見物客で溢れていた。しかも今満開である。花時にも来たことがあるが、以前は藤の下で花見の宴会をするような雰囲気があった。近年、能楽堂なども出来て、柵が出来たり見学の板道が出来たりして、飲み食いしているのは売店のそばぐらいで、雰囲気が変っていた。ここでおでんか何かで腹の虫を黙らせるつもりであったが、パラつき出した雨を理由に売店にも寄らなかった。
県指定の長藤は本堂右手にあり、藤の幹が束になって、中が空洞になった幹のように見える。最長1.5mの花房が密集して、房の紫以外には足元に見学者の足が見えるだけであった。(左写真)
豊田町教育委員会の案内板によると、
県指定天然記念物 熊野の長藤 5本
指定 昭和47年9月26日指定
樹令 約300年推定
樹勢 根廻2.4m、樹高2.5m
特徴 花房の長さ 1.5m(最長)平均90cm、 花色 紫
国指定の長藤は本堂左側の熊野御前の墓の裏側にあった。案内板のそばにある古木を写真に撮ったが、根廻り2.9mの規模にしては少し貧弱な感じもする。(右写真) 藤の花房に囲まれて、国指定の長藤の木をしっかり特定してこれなかった。ともあれ、これを「池田宿の巨木」としよう。
豊田町教育委員会の案内板によると、
国指定天然記念物 熊野の長藤 1本
指定 昭和7年7月25日指定
樹令 約850年推定
樹勢 根廻2.9m、樹高2.5m
特徴 花房の長さ 1.5m(最長)にも及び、花の咲きおわった後に葉が繁るのが特徴である。
平家物語や世阿弥の謡曲「熊野」で知られた熊野御前の墓は、本堂左手に格子柵に囲まれて母の墓と並んでいた。二つとも古びてはいるが、宝筐印塔形式の立派な墓である。(左写真円内) 墓の前には御堂があり、案内板があった。(左写真)
案内板によると、
向って右 ゆやの母の墓(銀だみ石) 左 ゆやの墓(紫金石) 700年前のもの
熊野御前の墓に参拝した方は熊野が守本尊十一面観世音の妙智力をかりてその諸願望成就さすこと疑いなし。特に女人の病苦悩み、赤白等の糸布は願が叶った時お礼に奉納したものです。
本堂裏手に回ると藤棚の向うに能舞台が出来ていた。熊野伝統芸能館である。脇に展示館があり、「熊野」のこけらおとしの公演のビデオなどが見られる。
小雨に折り畳み傘を出して土手に向って進む。土手の手前の左角に「池田の渡し歴史風景館」という施設が出来ていた。(右写真) 前回歩いたときには無かった施設である。中には池田の渡しの案内パネルや関連品が展示されていた。
案内パネルによると、
天竜川池田の渡船場
天竜川の渡船場は、池田村と対岸の中野町村にありましたが、江戸時代のはじめの渡船場は少し下流の方でした。それを上流に移転したために、見付宿方面と結ぶには東海道とは別に、いわゆる「池田近道」ができました。
池田の渡船場は上・中・下の三か所があり、通常は最も下流に設けられた「下の乗船場」を利用しました。増水して流れが速くなると「中の乗船場」を利用し、さらに急流になると「上の乗船場」へ移して天竜川を斜めに横断しました。
「下の乗船場」には、正徳元年(1711)五月に建てられた渡船高札がありました。渡船場には川会所が付設されていましたが、乗船場が移動するとその川会所も一緒に移しました。
天竜川池田渡船の終えん
古来、池田は天竜川の渡船場としてにぎわっていました。特に徳川家康により渡船の運営権が保証されて以来、江戸時代を通じて東西交通の接続の役割をほとんど一手に担い、この地域の経済・文化交流の場として栄えていました。
明治元年(1868)十月、明治天皇は東幸の際に天龍川の船橋を渡って通過しました。急きょ、東幸用に船橋を作ったのです。
この船橋は東幸の直後に撤去されましたが、やがて架橋の機運が高まり、明治七年二月に船橋の「東海道天竜橋」が完成しました。しかしこの「東海道天竜橋」はやがて大洪水で過半が流されたため、明治十一年三月に杭橋とした木橋が「天竜橋」と名を改め完成しました。
それにともない、天竜川池田渡船は長い歴史を閉じました。
「池田の渡し歴史風景館」の向いには土台を丸石で1.5m程積み上げて高くした石の秋葉燈篭があった。(左写真) また 天竜川の土手の手前右に、「池田橋の跡」の石碑があった。(右写真) 雨脚が細かくしげくなった。
豊田町の案内碑文によると、
有料だった池田橋
時代が江戸から明治へと変わり、世の中が変化したように、天竜川の渡船も橋へと変わりました。
豊田町でも、天竜橋・池田橋が明治初期にでき、このうち池田橋は、この付近にかけられました。
この橋は木橋で、橋銭をとる有料橋であり、大人三銭、小人二銭でした。
昭和八年に旧国道の天竜川鉄橋が完成したことにより、廃止されました。
雨まじりの風を逃れて、天竜川の土手下の道を下流へ歩く。そして、土手下の天白神社の境内に「豊田町 池田渡船場」の道しるべを見つけた。前回歩いたときも全く同じように道しるべを見つけている。
見付宿
宿境まで一里二十八町
→【豊田町 池田渡船場】
中之渡場
→ 浜松宿
宿境まで二里三町
道しるべの通りであれば、旧東海道はこの天白神社の境内を通って、天竜川の河原へ出たようだ。土手には石段が築かれている。この天白神社には一段高い土俵が築かれている。前回歩いた時も、
「この地域の神社の境内には土俵が築かれている所が多く、相撲が盛んな地域なのだろうと思った」
と感想を記している。天白神社の案内板があった。
案内板によると、
天白神社
鎮座地
豊田町池田815番地の1
御祭神
猿田彦命
例祭日
十月十日・十一日
由 緒
創建は孝謙天皇の御代勧請するとある。旧池田村は、古来三村(船方・地方・新屋)の三階級に分かれていたが、天白神社は池田村全部の鎮守であった。昔より祭典の余興として池田荘内の若者が集まり、天竜川を境にして東西に分れ競技角力をした。これが喧嘩角力といわれて世に有名であり、その風習現在も祭典の式角力にとどめ毎年行われている。古文書に昔は池田宿大明神と呼ばれたともある。
土手を行くとすぐに、「天竜川渡船場跡」の石碑があった。(左写真) 前回歩いた時も次のように記している。
これも土手の下に平成になってから建てられた天竜川渡船場跡の石碑があった。かって天竜川は渡し船で渡った。池田から天竜川の中洲へ渡り、一度船から降りて中洲を歩き、再度渡し船で渡るという二瀬越えが行われ、だから比較的容易に渡れた。そのため大井川のように両岸に宿場が発達することもなく、見付宿から浜松宿までは15kmも距離が離れているのに不便がなかった訳である。
さらに二段になった土手の下の小道を南へ進む。土手下に桜並木があった。その桜に藤が巻きつき、我が物顔に花房を垂らしていた。木全体に藤の紫が満開で、藤棚に整えられた長藤よりも余程立派に見えた。しかし桜の木こそいい迷惑である。近い将来、縛り付けられ枯れてしまうかもしれない。ともあれ女房を入れて写真を撮った。(右写真) 辺りの土手にも定期的に刈り取られて大きくなれない藤の葉がたくさん這っていた。
新天竜川橋は前回もこの橋を渡る決死行を次のように記した。
現代の天竜川は車では難無く渡ってしまうが、歩いて渡ろうとすると、渡し船はもちろん無く、旧道にも国道にも歩道の設備がない。車がスピードを出して行き来する車道に白線だけで仕切られた1m程の路肩を身を縮めるようにして歩くしか無かった。船で優雅に渡った昔より現代の方がはるかに難所である。これほど広い川の橋にしっかりした歩道が無いのは知るかぎりでは天竜川だけである。自転車もここを通ると思うと随分危険な道路である。
状況は現在も変わらない。しかも前回は左側で背後から追い抜かれたが、今回は右側で前から来てすれ違って行く。トラックがスピードを上げて通り過ぎると、風圧で傘を持って行かれそうになるから、小雨は残るが傘を畳んで女房と縦一列に歩く。こちらが怖いと思うように、車の方も思うらしく、近付く前に隣の車線ぎりぎりまで離れて行く。この旅人に不評極まりなかった新天竜川橋も、拡幅工事が始まっており、その際に歩道が確保される予定だと聞いた。ようやく難所が解消されるようだ。
午後0時15分、ようやく橋を渡り終えた。新天竜川橋から下へ降りて、藤棚のある保育園前を通り、ガードを二つ潜って南側に出る。そしてもう一度天竜川の右岸の土手に出る。土手の内側に玉石を積んで「明治大帝御聖蹟」の石碑があった。「玉座迹」と刻まれた文字が見える。(左写真)
すぐ先に「天竜川木橋跡」と「舟橋跡」の標木柱が建っていた。(右写真)
「舟橋」は明治元年、明治天皇が東幸の時に作った舟橋か、あるいは明治七年作られた舟橋の「東海道天竜橋」か。「木橋」は明治十一年にできた木橋「天竜橋」のことであろう。
標木柱の下、土手の内側に六所神社がある。ここから旧東海道は古い町(中野町)を浜松宿に向って真っ直ぐに進む。
食事のできるところを探しながら土手から15分ほど歩いたところに、金原明善の生家(左下写真)と記念館が向い合わせにあった。前回歩いた時も記念館に寄り、次のように書き記している。
金原明善は「暴れ天竜」のそばで大地主の家に生まれ育った。明善36歳の年、明治維新直前の慶応4年に大洪水が起こり、天竜川下流域の 120ヶ村が3ヶ月も水浸しになって、人々の暮らしに大打撃を与えた。その体験から、明善は天竜川に堤防を築くことを思い立ち、全財産を投げうって工事に取り掛かった。先頭に立ち働く明善の姿に感銘を受けた多くの人々の協力と国からの援助で、25年かかって36kmの堤防が完成した。明善はさらに流域の山々に 300万本もの植林をし、洪水の元を絶つ事業を続けた。そして大正12年91歳でなくなった。明善は教科書にも取り上げられ、地元では有名人である。
記念館には明善ゆかりの品々が展示されている。中には借金証文の束らしいものもあった。鈴さんはそれを見て、「高利貸しもやって、借金のかたに土地を取り上げたりしたんだろう」と話した。弁護する訳でもないが、少なくとも前半生の明善にはそんな余裕は無かったように思う。借金証文が高利貸しの手に残っていては商売にはならないから、おそらく自分が借りた借金証文なのだろう。ともあれ、黒塀に囲まれた生家は間口が随分広くて、大地主であった往時が偲ばれた。
入場無料というので今日も見学した。記念館を出た所に歌碑があった。(右写真)
木を植えて 天龍の川治めんと 心も固く 若き日の明善
天竜川の治水に生涯をかけた明善であるが、洪水を防ぐために流域の山々で植林事業を続けた。目の付け所が違うと思った。おそらく日本におけるエコロジストの先駆けであろう。
係りの人が生家が見学できると案内してくれたので、脇の潜り戸から入ってみる。まだ入館者を入れるような整備をしてない、今は住人の居ない旧家はがらんとしていた。地震対策で後から入れらてたものであろうか、不恰好なすじかいが入っていた。裏庭が広く、大木が何本もあった。
国道一号線のバイパスを潜る手前だったか、後だったか、15分ほど進んだ先の、わずかに残った松並木の名残に、写真のように倒れこんでしまったにもかかわらず、大切に残された松があった。丁寧にネットで仕切って危険防止までされている。(左写真)
午後1時45分、まだ昼食にありついていない。少々疲れて、角の六所神社に立ち寄り、ひと休みする。天竜川の土手下にあった神社も六所神社であった。「六所神社」というのは六つの社を一つに合祀したものだという。浜松には地図で見ると、ざっと見ても六、七ヶ所、「六所神社」を見つけた。
この神社に入ったすぐ左手、街道沿いに木造の屋形の秋葉常夜燈があった。波を彫り込んだ欄間の彫刻が深く立体的で立派であった。(右写真)
竹泉堂というお茶屋さんの前に石碑があった。由緒あるものかと近付いてみたら、「東海道 弥次喜多も 通った道だよ この辺り」と冗談のような言葉が刻まれていた。
淡々と下町が続く向こうに、浜松のランドマークのアクトシティの高層ビルが見えていて、なかなか近づかない。浜松は激しく戦災を受けていて、往時を偲ばせるものはほとんど何も残っていない。右側から旧国道152号線(バイパスが出来るまでの国道一号線)が合流して、旧東海道はしばらくその国道を行く。交差点に「浜松市 植松原」の道しるべがあった。
豊田町
宿境まで一里八町
→【浜松市 植松原】→ 浜松宿
宿境まで十七町
馬込橋の手前に馬込一里塚跡の標柱が立っていた。(左写真) もちろんそれ以外には一里塚の面影もない。
浜松市教育委員会の案内板によると、
東海道馬込一里塚跡
江戸日本橋より六十五里(約260km)の所。道の両側に五間(約9m)四方の土を盛り上げて松・榎などを植え、旅人の目標とした。
「馬込一里塚」の名称は静岡県史跡名勝天然記念物調査報告書より引用した。史料に依りては、「向宿一里塚」とも云う。この辺り中世宇間郷向宿と呼び江戸期に至り向宿村。現在は浜松市相生町と云う。
そして馬込橋を渡った。馬込川はかっては汚れが酷いと報道されていたように思ったが、水草などが繁茂していて一見水が綺麗に見えた。橋柱代わりの街灯とアクトシティを並べてカメラに収めた。(右写真)
馬込橋の先は周辺が再開発中で、広い地域が更地になって一部建築が始まっている。建物を撤去した空地の先にアクトシティが丸見えになっている角に、「東海道浜松宿入口」の標木柱が立っていた。(左写真) 確かあたりにお祭用品の専門店があったはずである。前回歩いた時の記録にも、
「アクトシティを南に見て通りすぎ、浜松の繁華街に入る。立派な店構えのお祭り用品の専門店などがあって、祭り好きの浜松らしい」
とある。5月初めに当地は浜松凧祭でにぎわう。しかし、その辺りは建物が無くなってその店が見つからなかった。チェックしておきたいと思ったのだが、どうも北に入った所に引っ越したらしい。案内地図が掲げてあった。
やっと通りの北側に小さな祠と石灯籠や石碑が集まった空地を見つけた。祠は「夢告地蔵尊」と呼ばれるお地蔵さんである。(右写真) 案内板があった。
浜松市の案内板によると、
夢告地蔵尊
元々は江戸末期に流行したコレラで亡くなった人々の霊を祀るために建立された地蔵尊です。廃仏毀釈で深く土中に埋められたものの、町民の夢枕に出て助けを求め、町民たちの手により掘り出されてお堂に安置されたという逸話が残る地蔵尊です。
午後3時43分、浜松駅。ここまでとうとう昼食を食べずにきてしまった。駅ビルの「杵屋」といううどん屋で遅い昼食を摂り、少し早いが本日の東海道歩きを終る。
食事といえば、前回の東海道歩きでは昼食にうなぎを食べている。記録が面白いので取り上げよう。
「浜松だから鰻を食べたい」というリクエストに応えるべく、鰻屋を探す。通りには意外となくて、横町に逸れてやっと見つけた、しかし満員。さらに探して入ったのは「××」という鰻も扱うフグ屋だった。
店に入ると、先客も居らず気味が悪いくらい愛想が良い。正直言って鰻は余り美味くなかった。口の悪い鈴さんはレンジで温めたのではないかと悪口を言った。元々ふぐ屋だから鰻は不得意なのかもしれない。
東海道を歩いていると話すと、茹でシラスをひとつまみサービスしてくれた。これは美味かった。お茶が間に合わなかったと、さらにひとつまみ。帰りに胡麻入りの飴玉までくれた。鰻は不味くても、ここまでされると、また来なければと思うのが人情だ。
本日の歩数は 32,492歩であった。
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kinoshita@mail.wbs.ne.jp
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