第 22 回 〔前半〕
  平成14年9月22日(日) 
 くもり、風なし
 御油宿−御油松並木−赤坂宿−関川神社−
 “昔狐にご用心の御油松並木、今は車にご注意!”



 愛知県も半ばまで来て、宮宿のゴールが間近になってきた。宮宿から三重県の桑名宿まで、かっては「七里の渡し」が通っていたが、今は望むべきもない。イベントで渡船を出したという話は聞いたような気もするけれども、個人的に頼むのは無理だろう。女房はこの間が途切れてしまうから、釣船でもチャーターすればなどと剛毅なことを言う。貧乏性の自分では思いも寄らないことである。

 しかし、船に乗らなくても道をつなげる方法があることを、前回の「二川宿本陣資料館」の展示で知った。「佐屋街道」と呼ばれる脇街道である。何冊か、旧東海道の案内書に目を通してみたが、「佐屋街道」という街道があることは確認できたけれども、それ以上の情報はなかった。その後、インターネットで「佐屋街道」を検索したところ、

「佐屋路歴史散歩 日下英之著 七賢出版 1,800円」

という案内書が出ていることを知った。早速、ネット通販で購入した。多分現在手に入る佐屋街道の案内書の唯一のものではないかと思う。

 中をざっと目を通すと、佐屋街道は宮宿から伊勢湾沿いの陸地を迂回して、岩塚宿、万場宿、神守宿、佐屋宿の四宿を経て、最後は佐屋三里の渡しで、桑名に渡る東海道の脇街道である。舟に長く乗るのを嫌う人々が選ぶ脇街道という意味では、舞阪宿と新居宿の間の今切の難所を避ける街道として賑わった「本坂道(姫街道)」と共通するものがある。

 佐屋街道は、三代将軍家光に始まり、多くの西国大名の参勤交代や伊勢参り・津島詣での庶民、シーボルト、芭蕉、十四代将軍家茂、明治天皇も通った。かなり多くの人々に使われた街道だったようだ。

 同書の案内地図から二万五千分の一地図にコースを書き写すことができた。それでもなお佐屋宿から桑名宿に至る「三里の渡し」は歩けないが、ここには木曽川に「尾張大橋」と揖斐川に「伊勢大橋」が架かり、桑名へ歩いて行く事が出来るから、その道を行こうと思う。

 ともあれ、宮宿までは我々の足ではまだ三日かかる。それをこなすことが先決である。午前9時48分、前回ぱらつく小雨に早めに切り上げた無人駅の名鉄御油駅から、東海道歩きを前回につなげる。

 名鉄名古屋本線に沿った国道1号線を、スロープになった地下道で渡り、まっすぐ300mほど進んで、広い道に出る。右折してすぐに音羽川に架かる新御油橋を渡る。前回はこの一つ下流に架かった五井橋を渡った。すぐ先で旧東海道が合流して御油宿に入る。

 すぐ左側に、案内書に辻行灯のある居酒屋として紹介されていた「茶店こくや」を見つけた。のれんがまだ出ていなかったが、ウィンドウの展示物を見ていたところ、戸が開いて親父さんが出て来た。言葉を交わすと、自製の御油宿案内のコピーをくれた。それによると「茶店こくや」では、だんご、五平餅、甘酒を売るというから、居酒屋ではなくて文字通りの「茶店」なのだろう。なお、親父さんの苗字が「石黒さん」、どちらの文字を採っても「こく」で屋号の「こくや」がうなづける。

 前回の最後に見た「イチビキ」という醤油醸造会社を通り過ぎ、左手奥の東林寺に立寄る。東海道筋には浄瑠璃姫の伝説が数多く残っているが、このお寺には姫の念持仏が残っているという。東林寺には他に宿場の飯盛女の墓が残っているというが、墓地にはお彼岸でお参りの人がちらほらと見え、部外者が墓地に入ってうろうろ探してまわるのは気が引けて引き返した。
 御油の通りには宿場町らしい雰囲気が残っているが、狭い道を次々と車が行き交いおちおちと歩いておれないのが残念である。宿場の町並みの先にいよいよ御油の松並木が見えてきた。(左写真)

 町並みの終りからすぐに御油の松並木が始まる。その境の左側に十王堂があった。(右写真)

 十王とは十王経に説く、冥府で死者を裁く十人の王のことで、来世における生所が定められる。この世においては衆生に利益を与えるとして、「閻魔さん」に代表されるように信仰が盛んであった。宿場の町外れに十王堂が設けられたのはこの世と彼岸の境として考えられたのであろう。このあたりは道祖神にも通じる発想であろう。特に西方浄土との関係で、西の境に設置されることが多いのも肯ける。ここもまさに御油宿の西の外れに当る。

 松並木の始まりの右側には「天然記念物 御油ノ松並木」の石柱と平らに置かれた案内碑があった。(左写真)
 御油の松並木については「こくや」でいただいたコピーに詳しく書かれていた。その中で江戸時代、いかに松並木が大切にされたいたかが解る。松並木に対する幕府の監視の目は厳しく、おそらく現代の自然保護対策にも大いに参考になるであろう、多くの通達が出され、付近住民との誓約がなされている。書き並べてみると、
などとある。

 そんな保護にも関わらず、文政元年(1818)から慶応三年(1867)の50年間で御林帳から抹消された松は205本にのぼっている。松並木は昔から残っているように思われるが、600本の松も150年も補植をしなければ消えてしまう計算になる。松は早く大きくなるが、枯れやすい木といえよう。

 昨今のマツクイムシによる被害は大変なものであるが、枯れたら次を植えることが最大の対処であろう。おそらく昔の人もそんな繰り返しの中で松並木を維持してきたのだと思う。

 松並木の土堤に彼岸花が咲き、松の緑とのコントラストが面白い。二つを入れて撮るのは難しいが工夫して写真に取ってみた。(左写真)

 かって御油の松並木は弥次・喜多も狐に化かされたほどの鬱蒼とした道であったという、御油松並木愛護会の案内板があった。
 それにしても車が多い。引っ切り無しに行き交う車に、楽しみにしていた松並木が台無しである。先を行く女房が何か言っている。手を広げるポーズを写真に撮った。あとで聞くと、車の多さにやっきりした女房は車をとうせんぼうした瞬間であった。(左上写真) もちろん車が途絶えた瞬間を狙って。しかし歩き旅をしている我々としては、片側通行にするなど何とか規制をしてもらいたいものである。

 とにもかくにも「御油の松並木」を二本目の「御油宿の巨木」としよう。

 松並木が切れるともう赤坂宿である。すぐ右側に見附跡の案内板があった。(右写真)
 赤坂宿に入り、連子格子の残る家もちらほら残る町を右へ緩やかに回ると、午前10時30分、左側に関川神社があった。(左写真)

 関川神社は長保三年(1001)に赤坂の長者、宮道弥太次郎長富が関川のクスノキの元に市杵島姫命を祀ったお宮を建立した。以来弁財天として近隣住民に崇敬された。狭い境内にクスノキの巨木と芭蕉の句碑がある。

 芭蕉の句碑は社殿の右側のムクノキの側に建てられていた。最初の句碑は宝暦元年(1751)に建立されたが摩滅破損し、明治25年(1892)、芭蕉翁二百年祭を記念して再建されたものという。(右写真)

「夏の月 御油より出でて 赤坂や  芭蕉翁」

 芭蕉36歳、帰郷の折の一句という。東海道の宿間としては最短の、十六町(1.7km)しかない御油・赤坂間を踏まえて、月を旅人に擬人化して、短い夏の夜の月を詠んだものである。芭蕉翁の「翁」がまだ似合わない若い時の作である。

 「関川神社の楠」(左写真)は「巨木巡礼」のときにも一度訪れている。(1999年2月21日) その記録を見ると、

 「関川神社は小さな社と狭い境内で、巨大なクスノキが窮屈そうに太い幹を立ち上げ、社の上で大きく枝を広げていた。この辺りは旧東海道の赤坂宿。狭い道路と古い町並みにその面影を残す。おりしも関川神社には旧東海道を歩く中高年の団体が数名休憩をしていた。」

とあって、東海道歩きの団体を見ながら、いずれここを「東海道歩き」として歩くことになりそうな予感がしていた。その時は狭い境内の裏へ抜けて裏の田圃から楠の全体が撮ろうとしたことを思い出す。
 この「関川神社の楠」を「赤坂宿の巨木」とする。後で立寄るが、「赤坂宿の巨木」として実はもう一本挙げなければならない。

 関川神社から先、赤坂宿の中心部に入る。左側に連子格子が見事に残された民家があった。(左写真)

 つづいて右側には尾崎屋という商家があった。軒先に時代劇にでも出て来るような行灯型の看板が出ていた。正面に「曲輪 民芸品 製造卸問屋」、側面には「東海道五十三次 赤坂宿」と書かれていた。(右写真)

 「曲輪」は「くるわ」とは読まず、「まげわっぱ」と読むのであろう。「まげわっぱ」は「わっぱ・めっぱ・めんぱ・まげもの・わげもの・ひもの」などと言われ、広辞苑によると、「檜・杉などの薄い材を円形に曲げ、底を取り付けた容器。合せ目を箍(タガ)を使わずに樺・桜の皮などで綴る」とあり、弁当箱にも使われる食物容器である。

 尾崎屋の筋向いに「旅籠 大橋屋」があり、現在でも旅館業を営んでいる。(左写真) ここを通るのが夕方であれば一泊したいところである。江戸時代の往時ならば、辺りには旅籠が立ち並び、夕方ともなれば客引きで大賑わいだったろうが、今は大橋屋さんから出て来たおばさんが近所のおばさんとのんびりと立ち話。

 大橋屋の軒下には「御宿所」と書かれた大提灯が下がっている。二階の窓には格子がはまり、戸袋には浮世絵の美人画を思わせる絵が描かれている。店のガラス戸から中を覗くと、広い板の間に土産物などが並んでいた。
 大橋屋のすぐ先の右側には、「高札場跡」の標柱が側溝の上に立っていた。

 その反対側には「御休処 よらまいかん」と名付けられた、連子窓のある古い町屋を模した休憩所が出来ていた。(右写真) 休憩所の正面には「東海道赤坂宿」と刻まれた石柱が立ち、裏面に「東海道宿駅・伝馬制度四〇〇年記念事業 平成十三年 音羽町」とあった。ちょうど裏手に音羽町役場があり、休憩所の左側には「赤坂町道路元標」という石柱もあった。

 裏の公衆トイレを借りて戻ると、二階から中年の男女が降りてきた。二階に何かあるのかと聞くと、東海道の絵が展示されていると答えた。二階に上がると赤坂宿を描いた浮世絵のコピーが10枚ほど展示されていた。

 広重の東海道五十三次(保永堂版)の大評判に、二匹目の泥鰌を狙って次々と五十三次シリーズの版画が発売された。しかし遂に最初の東海道五十三次を越えるものは出来なかった。その理由として、広重の東海道五十三次(保永堂版)には司馬好漢の書いた風景画の種本があったという話がある。多くの東海道五十三次シリーズの中で唯一、この保永堂版は司馬好漢という日本最初の洋風画家と、歌川広重という風景版画で一時代を築く浮世絵師の合作になったからこそ、これほどに人気を博し、世界的にも評価された風景版画となったという説である。(對中如雲著 広重「東海道五十三次」の秘密)

 「御休処 よらまいかん」の先の右側の駐車場前に「赤坂陣屋跡」の案内板があった。
 午前11時3分、赤坂宿の外れ近くの右の細間を入った中に、杉森八幡社があった。ここには夫婦楠と呼ばれる楠の巨木がある。(左下写真) 「巨木巡礼」でも女房と見に来ている。「関川神社の楠」に加えて、二本目の「赤坂宿の巨木」としよう。

 「巨木巡礼」の時の記録(1999年2月21日)では、

 「音羽町赤坂の関川神社から、さらに北西に旧東海道を800mほど進んだ右手に杉森八幡社の森が見える。入口は少し狭いので通り過ぎないように注意を要する。杉森八幡社の拝殿左側に“夫婦楠”がある。近くに生育した2本のクスが生長して根株が一本化したと思われる。二本一組のクスは幾つか見たが、それぞれがこれだけ太いのは初めてである。帰る頃に雪が舞った。」と記している。
 境内には回り舞台のある「赤坂の舞台」が改修復元されていた。(右写真) 「巨木巡礼」では気付かなかったが、その後立派に改修されたようである。

 音羽町市街から郊外に出ると旧東海道はのどかな田園地帯を行く。音羽町長沢に入って、東名音羽蒲郡インターチェンジから蒲郡に通じる三河湾オレンジロードを潜る。その辺りを一里山といい、まもなく、午前11時32分、左側の彼岸花の咲く中に一里塚址の石柱が立っていた。(左写真)

 やがて十王町に入り、古い集落に入る。右手に秋葉燈篭と「村社巌神社」の石柱があった。(右写真の中) ここは村社巌神社の入口で、巌神社はこれより北に数百メートル入った山の中にある。

 秋葉燈篭はこれより手前の八王子神社の入口にもあった(右写真の左)し、この先の人家の前にもあり電気がついていた。(右写真の右)このあたりでも秋葉信仰は盛んなのであろう。

 十王町から大榎へ続く旧東海道は何やらゆかしい街道である。(左写真) 関屋交差点で国道1号線に出て、しばらくは国道の歩道を歩くことになる。間もなく1号線313kmポストがあった。もちろん日本橋からの距離で、振り返れば随分遠くまで歩いてきたものである。歩道の内側には2〜3m幅の農業車専用の通路が付いていた。

 20分ほど国道を歩いて、午後0時20分、 “峠のドライブインまんぷく” に入り、冷やしラーメンの昼食を採った。トライブインの頭に「峠」と付いているからには、往時はこの辺りは峠道だったのだろうか。この先で音羽町から岡崎市本宿に入る。







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