



ともあれ、宮宿までは我々の足ではまだ三日かかる。それをこなすことが先決である。午前9時48分、前回ぱらつく小雨に早めに切り上げた無人駅の名鉄御油駅から、東海道歩きを前回につなげる。
前回の最後に見た「イチビキ」という醤油醸造会社を通り過ぎ、左手奥の東林寺に立寄る。東海道筋には浄瑠璃姫の伝説が数多く残っているが、このお寺には姫の念持仏が残っているという。東林寺には他に宿場の飯盛女の墓が残っているというが、墓地にはお彼岸でお参りの人がちらほらと見え、部外者が墓地に入ってうろうろ探してまわるのは気が引けて引き返した。
御油の通りには宿場町らしい雰囲気が残っているが、狭い道を次々と車が行き交いおちおちと歩いておれないのが残念である。宿場の町並みの先にいよいよ御油の松並木が見えてきた。(左写真)
町並みの終りからすぐに御油の松並木が始まる。その境の左側に十王堂があった。(右写真)
松並木の始まりの右側には「天然記念物 御油ノ松並木」の石柱と平らに置かれた案内碑があった。(左写真)
御油の松並木については「こくや」でいただいたコピーに詳しく書かれていた。その中で江戸時代、いかに松並木が大切にされたいたかが解る。松並木に対する幕府の監視の目は厳しく、おそらく現代の自然保護対策にも大いに参考になるであろう、多くの通達が出され、付近住民との誓約がなされている。書き並べてみると、
松並木の土堤に彼岸花が咲き、松の緑とのコントラストが面白い。二つを入れて撮るのは難しいが工夫して写真に取ってみた。(左写真)
とにもかくにも「御油の松並木」を二本目の「御油宿の巨木」としよう。
赤坂宿に入り、連子格子の残る家もちらほら残る町を右へ緩やかに回ると、午前10時30分、左側に関川神社があった。(左写真)
芭蕉の句碑は社殿の右側のムクノキの側に建てられていた。最初の句碑は宝暦元年(1751)に建立されたが摩滅破損し、明治25年(1892)、芭蕉翁二百年祭を記念して再建されたものという。(右写真)
「関川神社の楠」(左写真)は「巨木巡礼」のときにも一度訪れている。(1999年2月21日) その記録を見ると、
関川神社から先、赤坂宿の中心部に入る。左側に連子格子が見事に残された民家があった。(左写真)
尾崎屋の筋向いに「旅籠 大橋屋」があり、現在でも旅館業を営んでいる。(左写真) ここを通るのが夕方であれば一泊したいところである。江戸時代の往時ならば、辺りには旅籠が立ち並び、夕方ともなれば客引きで大賑わいだったろうが、今は大橋屋さんから出て来たおばさんが近所のおばさんとのんびりと立ち話。
大橋屋のすぐ先の右側には、「高札場跡」の標柱が側溝の上に立っていた。
「巨木巡礼」の時の記録(1999年2月21日)では、
境内には回り舞台のある「赤坂の舞台」が改修復元されていた。(右写真) 「巨木巡礼」では気付かなかったが、その後立派に改修されたようである。
やがて十王町に入り、古い集落に入る。右手に秋葉燈篭と「村社巌神社」の石柱があった。(右写真の中) ここは村社巌神社の入口で、巌神社はこれより北に数百メートル入った山の中にある。
十王町から大榎へ続く旧東海道は何やらゆかしい街道である。(左写真) 関屋交差点で国道1号線に出て、しばらくは国道の歩道を歩くことになる。間もなく1号線313kmポストがあった。もちろん日本橋からの距離で、振り返れば随分遠くまで歩いてきたものである。歩道の内側には2〜3m幅の農業車専用の通路が付いていた。



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