第 22 回 〔後半〕
  平成14年9月22日(日) 
 くもり、風なし
 −本宿(間の宿)−山中八幡宮−藤川宿−岡崎宿 
 “点々と残る家康の足跡、家康のふるさとを行く”



 国道1号線を何度か通った際、「本宿(もとじゅく)」という、どうやら東海道の宿場らしいところがあるということは分っていた。そばを通る名鉄にも同名の駅がある。しかし、もちろん東海道五十三次にはそんな宿場はない。疑問を持ったまま、いよいよその「本宿」にこれから入る。

 午後0時46分、国道端の緑地に「自然と歴史を育むまち 本宿」の石碑(右写真の左下)と若い松の木が一本あり、本宿の詳しい案内板があった。その案内板で疑問がすぐに解けた。本宿は赤坂宿と藤川宿の間にある「間の宿」であった。
 国道に沿った歩道を進んだ先に、街道の入口を示す冠木門が出来ていた。(右上写真) その先で旧東海道は国道1号線から分かれて左へ進む。その分かれ目の三角地に最近設置されたと思われる灯篭と「右 国道一号 左 東海道」と刻まれた大きな道標があった。(左写真)

 国道から分かれて250mほど進んだ左側に法蔵寺がある。
 法蔵寺入口に法蔵寺団子の由来を書いた案内板があった。往時、本宿では法蔵寺団子のほかに、麻縄・麻袋・麻紐などの麻細工、草鞋、ひさごなどが名物として売られていた。もっとも現在ではそんな土産を商う店は無い。
 法蔵寺団子の由来の看板に並んで、法蔵寺で子供の頃手習いに励んだ徳川家康が、手習の草紙を掛けたと伝わる「御草紙掛松」と、その案内板があった。(左写真) 残念ながら、現在の松は2代目であった。ただ周囲の石柵は江戸時代の物であるという。家康が手習に励んだのは駿府に人質に送られる前のことであろう。
 ここに道草しようと思ったのは「近藤勇の首塚」を見たかったからである。女房をうながして、150メートルほど入った所から石段を登る。石段の途中、左側に石垣に囲まれた「賀勝水」と名付けられた泉水があった。これも家康が手習いの水を汲んだといわれる泉である。覗いてみると水はあるが汚れていた。

 石段を登り切った本殿の左側に、修復中の六角堂があり、さらに左の石段を登る途中に「近藤勇の首塚」があった。一度は世間をはばかって埋められていた石碑が、昭和三十三年に発見され、側に近藤勇の胸像を立て供養されることになったという。(右写真) 胸像は高嶋兄弟の兄、高嶋政宏の、目つきを鋭くし、えらを張らせたような顔であった。享年35歳、若々しい精悍な顔といえよう。石碑の台座には同志らしい十数人の名前が並んでいた。筆頭に「土方歳三」の名前も見えた。

 近藤勇の首塚の周りには沢山の宝篋印塔が並んでいた。三方ヶ原の戦いの戦死者の墓であるという。

 法蔵寺本殿右には「法蔵寺のイヌマキ」があった。(左写真) 巨木には少し太さが足らないが、これを「本宿の巨木」としよう。「行基の開山槙」と呼ばれているというが、行基が活躍したのは1300年前の奈良時代である。どう見ても何代目かのものである。樹齢はせいぜい200年といったところであろう。
 旧東海道に戻って本宿の宿内を進む。左手の横丁の坂道を登った先、高台に病院の白い建物が見えた。ここは本宿陣屋跡でかっての代官屋敷であったという。(右写真) 病院の右手に古い建物も残っているらしかったが、道草せずに先へ進んだ。
 街道右手の火の見櫓の根元には、「本宿村道路元標」があった。(左写真) 大正時代のものというが、赤坂宿にあったものと同じ頃に設置されたものであろう。
 その火の見櫓の左側には秋葉燈篭と、何を祀るのかは分らないが四方に竹を立て回した小さな祠があった。(右写真)

 さらに古い大きな黒塗りの板壁の商家があり、その先の本宿町集会所前に「十王堂跡」の案内板があった。本日の二つ目の十王堂である。
 右側の石塀の角には、本宿史跡保存会による「一里塚跡」の標柱があった。(左写真) 往時は南塚、北塚とも榎が植えられていたという。江戸へ七十七里余、京へ四十七里、赤坂宿へ一里九丁、藤川宿へ一里の位置にある一里塚であった。現在はこの石柱が過去に一里塚があったことを示しているのみである。

 宿外れの左側には土壁も懐かしい長屋門があった。(右写真) 代々医者の宇都野家の遺構である。決して立派な建物でないところに「医は仁術」を実践した医家らしさを感じた。
 本宿を外れて両側に松並木を見て5分ほど進み、午後1時30分、旧東海道は本宿町沢渡の交差点で再び国道一号線に合流する。

 その三角地帯に背の高い名残の松が2本立ち、本宿入口にもあった大きな道標に今度は「左 国道一号 右 東海道」と刻まれていた。(左写真)
 国道一号線を北へ渡り、15分ほど歩いて、国道から右側の集落に降りる、自転車がようやく通れる幅の小道をたどる。降りる先に車の通れる道があり、1台の車がこちらへ向けて突っ込んでくる。瞬間、この細道のどこを通るのかと慌てたが、車道は国道の下の低いガードを潜って向うへ渡るように付いていた。

 国道と名鉄に挟まれたこの集落は岡崎市舞木町山中で名鉄の山中駅もある。松並木を少し見て、再び国道一号線に出る。旧東海道は少しの間国道を行くのだが、我々は南側の田圃の向う、山の麓の山中八幡宮に道草することにする。旧東海道の道筋にこだわっていたので、「多分旅人の多くは家康ゆかりの山中八幡宮に立寄ったに違いない」と女房に言い訳する。それほど時間をロスする道草ではないし、‥‥‥。

 田圃の真ん中に背の高い秋葉常夜灯が山中八幡宮への道しるべのようにたっていた。(左写真) 石灯篭の先に山中八幡宮の赤い鳥居が見える。
 八幡宮を覆うような樹叢は「山中八幡宮のクスノキ」である。「巨木巡礼」でも一度来ている。(1999年4月3日) そのときの記録では、

 「小さな橋を渡った八幡宮の石段前に立ちはだかるように立っている。二本の幹を一本に束ねたように、地上2mほどのところで2本に分かれている。クスノキとしては市内第2位の大きさをほこる。周りのの桜が満開でこの巨木に文字どおり花を添えている。」

もちろん今は桜の花はない。少し手前過ぎるが、この楠を次の宿場、「藤川宿の巨木」としよう。
 山中八幡宮は徳川家康との縁が深い。時代を追ってその縁を書いた案内板があった。
 社殿は石段の上にあり、「鳩ヶ窟」も見てみたいが、石段から手を合わせてよしにした。

 山の際の道ををたどって国道1号線に出る。国道を300mほど進むと、午後2時15分、旧東海道は国道から左へ分れる。(左写真) その角に「市場村」の案内板があった。
 すぐに「東棒鼻跡」に出る。「従是西藤川宿 東海道五十三次之内」の木柱が立ち、道は車道から左の細間に入る。その入口には両側に棒鼻の石垣が再現され、石垣をつなぐように冠木門が出来ていた。(右写真) 「東棒鼻跡」は広重の保永堂版の藤川の版画の棒鼻の景色をかなり忠実に絵取って再現したもののようだ。標識の木柱、二枚の立て札、両側の石垣、石垣の上の柵、側の柳の木までそのままである。ただ版画にないのは冠木門だけである。
 いよいよ藤川宿に入るが、宿内の見所の地図と案内を記した「是より西、藤川宿 岡崎宿へ一里二十五町〜藤川の歴史と文化を訪ねて〜」の表題の案内板もあった。

 細間を抜けて右へ鍵の手に曲がり、車道に出た向かい側に秋葉山常夜灯があった。竿の部分にうっすらと寛政七年(1795)建立と刻まれているのが判読できた。街道はまっすぐ西へ進む。(左写真)

 すぐ先の左手に藤川宿を散策する人の駐車場が出来ていて、トイレもあり使わせてもらった。この駐車場にも案内板があり、芭蕉も句に詠まれた「むらさき麦」について説明されていた。
 また案内板にはむらさき麦の品種として、「紫裸(むらさきはだか)」「妻町糯(つままちもち)」「徳島糯(とくしまもち)」「露(つゆ)」「大公館(だいこうかん)」の5種類が写真とともに紹介されていた。春に来れば復活されたむらさき麦を見ることが出来ただろう。西の棒鼻跡近くの水田で栽培されるという。

 通りに四階建てのような、三階建てのような、正面から見ると城櫓の重層的な屋根にも見える奇妙な建物があった。(右写真) 側面の壁に大きく「製造卸粟生人形」とある。但し、貼り付けた「生人形」の文字はその痕跡だけを残して剥げ落ちていた。なお「粟生」には「あおう」と振り仮名が付いていた。(右写真)

 藤川宿の中心辺りには「高札場跡」「問屋場跡」と標石や案内板が続き、左側に「銭屋」の建物が残っていた。(左写真) 折りしも白人の家族が、サイクリングの途中に足を止めて、銭屋の建物を興味深げに覗きこんでいた。西欧人にとって旧東海道はどんな風に映っているのであろうか。
 続く右側、本陣跡の石碑の隣家に、「藤川宿資料館」という町屋造りの小さな無人の資料館があった。無人ではあるが、開いていて中を見学できた。藤川宿の模型や高札など藤川宿の資料が壁いっぱいに展示されていた。

 ここはまた脇本陣の跡で、門だけは往時のものを改修したものという。(左写真) 狭い庭に「藤川宿脇本陣跡」の石碑と案内板があった。
 同じ脇本陣跡の庭に苧(からむし)という植物が植わっていた。(右写真) からむしは、麻に似たイラクサ科の多年草で、茎の皮から繊維を採り、布を織る、木綿以前の代表的繊維であったという。案内板に「苧(からむし)細工は日本で唯一、福島県昭和村にてつくられ福島県無形文化財で国の保存技術指定を受けている」とあった。往時、苧細工は藤川宿のみやげ物として有名であった。

 資料館に、裏手に回ると苧(からむし)の名残と隣の森川本陣の石垣が見れると案内されていたので、回ってみた。森川本陣の建物は残っていないが、赤味を帯びたそれほど大きくない石を丁寧に積み上げた石垣が残っていた。当主は家康の家臣で、石垣も敵の来襲に備えて築かれたものだという。石垣の前には雑草と見紛う苧(からむし)の一群が彼岸花の紅を散らして残っていた。(左写真)

 脇本陣跡のすぐ先、左側に「東海道 藤川宿 江戸まで七十八里 京まで四十八里」の新しい石標が立ち小公園となっていた。ここでしばし休息する。

 午後3時4分、数分歩いた先の藤川小学校前に「西棒鼻跡」の小公園があった。東棒鼻跡と同様に、「従是東藤川宿 東海道五十三次之内」と書かれた木柱が立っていた。片側だけだが棒鼻の石垣も再現されていた。(右写真)
 西棒鼻跡には歌川豊広の歌碑があった。(左写真)

藤川の 宿の棒鼻 みわたせば 杉のしるしと うで蛸のあし
 すぐ先にこの界隈の往時の様子について記した案内板があった。
 西棒鼻跡のすぐ先の左側に十王堂があった。(左写真) 本日三つ目の十王堂である。格子の間にレンズを入れて内部をデジカメに撮ってみた。(右写真) なるほど、十王堂が十王を祀ったお堂であることが確認できた。下の段の左側のひときわ厳しいのがおそらく閻魔大王であろう。この風貌には見覚えがある。
 十王堂の隣には立派な芭蕉の句碑が建っていた。(右写真) この句碑は寛政五年(1793)に西三河の俳人が再建したものと記されている。
 
ここも三河 むらさき麦の かきつばた

 街道は500mほど先で名鉄名古屋本線を踏み切りで渡る。その手前で道は二手に分かれる。角に吉良道道標と案内板があった。(左写真) 左手に進むと吉良から三河湾沿岸に出る。西棒鼻の歌川豊廣の歌碑にあった“うで蛸”もこの街道を運ばれてきたものであろう。
 踏切を渡る手前から両側に松並木が始まる。岡崎市の天然記念物に指定されている「藤川の松並木」である。(右写真)
 藤川の松並木が終り、旧東海道は藤川西の交差点で国道1号線と合流する。このあと約1kmは国道を歩き、再び左手に分かれて美合新町に入る。(左写真) 所々に残る松の木で街道筋であることが分る。

 ガイドブックでは山綱川に掛かる高橋の手前に「岡崎源氏蛍発生地の碑」と「芭蕉句碑(草の葉を落つるより飛ぶほたるかな)」があるはずであったが、どこで見落としたのか見つからなかった。わざわざ戻って探したのであるが。「回りはスクラップ車の山で、見つけていたとしても幻滅していただろう」と負け惜しみ言ってみる。

 やがて旧東海道は乙川の土手にぶつかり、右手の国道1号線の大平橋を渡ることになると思っていたが、ふと川を見るとすぐ下に幅広い堰があった。(右写真) 増水した時は堰の上を滑らかに水が流れるように幅広く造ったのであろう。真ん中辺りにわずかに溝が切られそこだけ水が流れているが、堰は乾いている。その溝にも人の渡れる小さな橋がある。堰の上では釣をしている人もいる。これなら足を濡らさずに渡れると判断した。渇水期だったのがラッキーだった。

 午後4時9分、渡った先の小さな森に「大平川水神社」があった。大きな川の側には探せば必ず水神社がある。暴れ川を治め、川の恩恵を大いに受ける、暴れ川の鎮めと水への感謝を形にした神社である。もちろん街道筋でもいくつか出会った。
 旧東海道は大平町を進み国道1号線を渡って北東側に出る。間もなく三叉路の角に古い道しるべを見つけた。(左下写真) 右面に「東海道」、左面に「つくて道」と刻まれていた。「つくて」は三河の北部の南設楽郡作手村のことであろう。

 次の角を右折して大岡越前守陣屋跡に道草する。こんなところに大岡越前の名前が出てくるとは意外である。陣屋跡には立派な門と塀が再建されていた。中は公園として整備されていた。(右写真) 園内には幾つかの案内板が掲げられていた。
 旧東海道に戻って次の四つ角の左側に「大平一里塚」がある。
 北側の塚は昭和三年三月道路改修のときに壊された。現在はその跡に常夜灯と祠があり児童遊具が置かれていた。また南塚の倒れる前の榎は目通し3メートルあったようだ。

 またまた国道一号線に出て間もなく、国道から東名高速道路へのランプウェイのガードを幾つか潜り越える。700mほど進んだところで国道1号線から右へ分かれていよいよ岡崎宿に入る。

 午後4時56分、変則な四つ角の緑地帯に真新しい冠木門と岡崎二十七曲の碑があった。この先岡崎宿は曲がり角がやたらに多くなる。
 市民病院の角に岡崎二十七曲りの案内標識の最初のものがあった。「岡崎城下二十七曲 欠町授町角 岡崎城手入口」と読めたが、間違いがあるかもしれない。

 暗くなってきたので今日は岡崎までと決める。その後、右へ左へ角をいくつか曲がり、伝馬通りに出る。最後に伝馬通りを左折して、国道1号線と明代橋を渡り、午後5時30分、名鉄東岡崎駅で本日の歩きを終える。

 今回の歩数は40,796歩であった。

 







このページに関するご意見・ご感想は:
kinoshita@mail.wbs.ne.jp

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送