第 22 回 〔後半〕
平成14年9月22日(日)
くもり、風なし
−本宿(間の宿)−山中八幡宮−藤川宿−岡崎宿
“点々と残る家康の足跡、家康のふるさとを行く”
国道1号線を何度か通った際、「本宿(もとじゅく)」という、どうやら東海道の宿場らしいところがあるということは分っていた。そばを通る名鉄にも同名の駅がある。しかし、もちろん東海道五十三次にはそんな宿場はない。疑問を持ったまま、いよいよその「本宿」にこれから入る。
午後0時46分、国道端の緑地に「自然と歴史を育むまち 本宿」の石碑(右写真の左下)と若い松の木が一本あり、本宿の詳しい案内板があった。その案内板で疑問がすぐに解けた。本宿は赤坂宿と藤川宿の間にある「間の宿」であった。
国道一号本宿地区東海道ルネッサンス事業委員会の案内板によると、
これより西 本宿村 藤川宿へ壱里
本宿は往古より、街道とともに開けた地であり、中世以降は法蔵寺門前町を中心に町並が形成された。
鎌倉街道は東海道の南、法蔵寺裏山辺りを通り鉢地から宮路山中へと続いていた。
近世に入り、東海道赤坂宿、藤川宿の中間に位置する間の宿としての役割を果たしたといえる。
享和二年(1802)の本宿村方明細書上帳によれば、家数百二十一軒、村内往還道十九丁、立場茶屋二か所(法蔵寺前、長沢村境四ツ谷)があり、旅人の休息の場として繁盛をきわめた。(以下略)
国道に沿った歩道を進んだ先に、街道の入口を示す冠木門が出来ていた。(右上写真) その先で旧東海道は国道1号線から分かれて左へ進む。その分かれ目の三角地に最近設置されたと思われる灯篭と「右 国道一号 左 東海道」と刻まれた大きな道標があった。(左写真)
国道から分かれて250mほど進んだ左側に法蔵寺がある。
岡崎観光文化百選の案内板によると、
法蔵寺
701年、僧行基の開山と伝えられ、松平初代親氏が深く帰依して、1387年に堂宇を建立し、寺号を法蔵寺としたといわれています。
家康が幼いころ、手習いや漢籍を学んだとされ、数々の遺品が現存しています。桶狭間の合戦以後家康は、法蔵寺に守護不入の特権を与えるなど優遇しました。
また、境内には新撰組で有名な、近藤勇の首塚も祀られています。
法蔵寺入口に法蔵寺団子の由来を書いた案内板があった。往時、本宿では法蔵寺団子のほかに、麻縄・麻袋・麻紐などの麻細工、草鞋、ひさごなどが名物として売られていた。もっとも現在ではそんな土産を商う店は無い。
郷土史本宿研究会の案内板によると、
法蔵寺団子の由来
この団子は、法蔵寺門前の茶店で売られていたことから法蔵寺団子とよばれるようになった。
本宿村方明細書上げ帳(享和二年・1802)に「此ノ村名物ハ早縄并餅団子・草鞋ニ御座候。」また、参河聰視録本宿村記(嘉永二年・1849)にも「法蔵寺辺リ前後茶店ニテ餅ニ醤油ヲ付ケ炙リ売ル、名高シ。」と書かれている。以後、昭和の初めごろまで売られていた。
この団子の特色は、一本の串に指で押し平たくした五個の団子を炙り溜りで味を付けたものである。
この独特の風味が、近郷近在はもとより、東海道筋の名物団子として、評判となったのである。
法蔵寺団子の由来の看板に並んで、法蔵寺で子供の頃手習いに励んだ徳川家康が、手習の草紙を掛けたと伝わる「御草紙掛松」と、その案内板があった。(左写真) 残念ながら、現在の松は2代目であった。ただ周囲の石柵は江戸時代の物であるという。家康が手習に励んだのは駿府に人質に送られる前のことであろう。
郷土史本宿研究会の案内板によると、
御草紙掛松
寺伝によれば家康幼少の頃、当寺にて学問手習いに励んだといわれる。この松は家康手植えともいわれ、手習いの折草紙を掛けたことからこの名がつけられたという。
家康公ゆかりの「御草紙掛松」として永く人々に親しまれてきた。また、「御茶屋の松」「御腰掛の松」ともよばれた。
昭和五十八年惜しくも立ち枯れ、翌五十九年新たに植樹されたものである。周囲の石柵は文化十二年(1815)旗本木造清左衛門俊往の寄進である。
ここに道草しようと思ったのは「近藤勇の首塚」を見たかったからである。女房をうながして、150メートルほど入った所から石段を登る。石段の途中、左側に石垣に囲まれた「賀勝水」と名付けられた泉水があった。これも家康が手習いの水を汲んだといわれる泉である。覗いてみると水はあるが汚れていた。
石段を登り切った本殿の左側に、修復中の六角堂があり、さらに左の石段を登る途中に「近藤勇の首塚」があった。一度は世間をはばかって埋められていた石碑が、昭和三十三年に発見され、側に近藤勇の胸像を立て供養されることになったという。(右写真) 胸像は高嶋兄弟の兄、高嶋政宏の、目つきを鋭くし、えらを張らせたような顔であった。享年35歳、若々しい精悍な顔といえよう。石碑の台座には同志らしい十数人の名前が並んでいた。筆頭に「土方歳三」の名前も見えた。
法蔵寺執事名の案内板によると、
近藤勇首塚の由来
新撰組隊長 近藤勇は、慶応四年(明治元年)四月二十五日三十五才で東京都板橋の刑場の露と消えました。刑後、近親者が、埋められた、勇の死体を人夫に頼んで夜中ひそかに掘り出してもらい、東京都三鷹の竜源寺に埋葬しました。
また、勇の首は、処刑後、塩漬にして、京都に送られ三条大橋の西にさらされました。それを同志が三番目に持出し、勇が生前敬慕していた新京極裏の称空義天大和尚に、埋葬を依頼することにしました。
しかし、和尚は、その半年前から、三河国法蔵寺の三十九代貫主として転任されていたので法蔵寺に運ぶことに_しました。この寺は山の中にあり、大木が生い茂っていて、ひそかに埋葬するのに好適の地でした。
しかし当時は世間をはばかって、石碑を土でおおい、無縁仏の様にして香華していました。
そしていつか石碑の存在も忘れられてしまいました。
昭和三十三年総本山の記録等に基づいて調査した結果埋葬の由来が明らかになりました。
今回、石碑をおおっていた土砂を取り除き、勇の胸像をたてて供養することにいたしたのであります。
近藤勇の首塚の周りには沢山の宝篋印塔が並んでいた。三方ヶ原の戦いの戦死者の墓であるという。
法蔵寺本殿右には「法蔵寺のイヌマキ」があった。(左写真) 巨木には少し太さが足らないが、これを「本宿の巨木」としよう。「行基の開山槙」と呼ばれているというが、行基が活躍したのは1300年前の奈良時代である。どう見ても何代目かのものである。樹齢はせいぜい200年といったところであろう。
岡崎市教育委員会の案内板によると、
岡崎市指定文化財 天然記念物 法蔵寺のイヌマキ
胸高囲2.44m、根囲4.67m、樹高12mに達する。樹形がよく、手入れもよく行き届いている。
行基菩薩が当寺を開創した際に植えたといわれ、「行基の開山槙」と称されている。
旧東海道に戻って本宿の宿内を進む。左手の横丁の坂道を登った先、高台に病院の白い建物が見えた。ここは本宿陣屋跡でかっての代官屋敷であったという。(右写真) 病院の右手に古い建物も残っているらしかったが、道草せずに先へ進んだ。
郷土史本宿研究会の案内板によると、
本宿陣屋跡と代官屋敷(現冨田病院)
元禄十一年(1698)、旗本柴田出雲守勝門(柴田勝家末孫)が知行所支配のため、本宿村に陣屋を設けた。以来明治に至るまで存続した。陣屋代官職は冨田家が世襲し、現存の居宅は文政十年(1827)の建築である。
街道右手の火の見櫓の根元には、「本宿村道路元標」があった。(左写真) 大正時代のものというが、赤坂宿にあったものと同じ頃に設置されたものであろう。
案内プレートによると、
本宿村道路元標
旧道路法(大正九年四月一日施行)によって、各市町村に一箇所、道路の起終点、経過地を表示するために設置され、里程の基準となりました。
その火の見櫓の左側には秋葉燈篭と、何を祀るのかは分らないが四方に竹を立て回した小さな祠があった。(右写真)
さらに古い大きな黒塗りの板壁の商家があり、その先の本宿町集会所前に「十王堂跡」の案内板があった。本日の二つ目の十王堂である。
郷土史本宿研究会の案内板によると、
十王堂跡
街道に沿ったこの地に十王堂(閻魔堂)があり旅行者や村人から尊信されていた。
堂宇は昭和三十年欣浄寺境内に移された。
本尊木造地蔵菩薩坐像(鎌倉期)は昭和六十二年岡崎市文化財に指定された。(非公開)
右側の石塀の角には、本宿史跡保存会による「一里塚跡」の標柱があった。(左写真) 往時は南塚、北塚とも榎が植えられていたという。江戸へ七十七里余、京へ四十七里、赤坂宿へ一里九丁、藤川宿へ一里の位置にある一里塚であった。現在はこの石柱が過去に一里塚があったことを示しているのみである。
宿外れの左側には土壁も懐かしい長屋門があった。(右写真) 代々医者の宇都野家の遺構である。決して立派な建物でないところに「医は仁術」を実践した医家らしさを感じた。
郷土史本宿研究会の案内板によると、
宇都野龍碩邸跡と長屋門(現存)
本宿村医家宇都野氏は古部村(現岡崎市古部町)の出といわれ宝暦年間(1751−63)三代立碩が当地において開業したのが始まりといわれている。
七代龍碩はシーボルト門人青木周弼に、医学を学んだ蘭方医として知られている。
安政年間、当時としては画期的ともいわれる植疱瘡(種痘)を施している。
本宿を外れて両側に松並木を見て5分ほど進み、午後1時30分、旧東海道は本宿町沢渡の交差点で再び国道一号線に合流する。
その三角地帯に背の高い名残の松が2本立ち、本宿入口にもあった大きな道標に今度は「左 国道一号 右 東海道」と刻まれていた。(左写真)
国道一号本宿地区東海道ルネッサンス事業委員会の案内板によると、
これより東 本宿村 赤坂宿へ壱里九丁
(前略)
この辺りは、山綱村、市場村との村境であり、往古の駅家はこの付近といわれている。
村絵図からは往還筋両側とも家居はなく並木松が続き、南山裾にかけて山綱村の入会地であった。字平五沢は荻野流、高島流の砲術家でもある代官冨田牧太が砲術稽古を実施した所である。また、シーボルトの「江戸参府紀行」に、この辺りの山中から法蔵寺裏山にかけて植物採集したと記述されている。家居の西端に幕末期蘭方医として三河の先駆者であった宇都野氏の長屋門造りの屋敷があった。(後略)
国道一号線を北へ渡り、15分ほど歩いて、国道から右側の集落に降りる、自転車がようやく通れる幅の小道をたどる。降りる先に車の通れる道があり、1台の車がこちらへ向けて突っ込んでくる。瞬間、この細道のどこを通るのかと慌てたが、車道は国道の下の低いガードを潜って向うへ渡るように付いていた。
国道と名鉄に挟まれたこの集落は岡崎市舞木町山中で名鉄の山中駅もある。松並木を少し見て、再び国道一号線に出る。旧東海道は少しの間国道を行くのだが、我々は南側の田圃の向う、山の麓の山中八幡宮に道草することにする。旧東海道の道筋にこだわっていたので、「多分旅人の多くは家康ゆかりの山中八幡宮に立寄ったに違いない」と女房に言い訳する。それほど時間をロスする道草ではないし、‥‥‥。
田圃の真ん中に背の高い秋葉常夜灯が山中八幡宮への道しるべのようにたっていた。(左写真) 石灯篭の先に山中八幡宮の赤い鳥居が見える。
岡崎市教育委員会の案内板によると、
山中八幡宮
家康の家臣菅沼定顕が、上宮寺から糧米を強制徴収したことに端を発した三河一向一揆で、門徒に追われた家康が身を隠し難を避けたという鳩ヶ窟があります。一揆方の追手が家康のひそんでいる洞窟を探そうとすると、中から二羽の鳩が飛び立ちました。「人のいる所に鳩がいるはずがない」と追手は立ち去ったといいます。(後略)
八幡宮を覆うような樹叢は「山中八幡宮のクスノキ」である。「巨木巡礼」でも一度来ている。(1999年4月3日) そのときの記録では、
「小さな橋を渡った八幡宮の石段前に立ちはだかるように立っている。二本の幹を一本に束ねたように、地上2mほどのところで2本に分かれている。クスノキとしては市内第2位の大きさをほこる。周りのの桜が満開でこの巨木に文字どおり花を添えている。」
もちろん今は桜の花はない。少し手前過ぎるが、この楠を次の宿場、「藤川宿の巨木」としよう。
岡崎市教育委員会の案内板によると、
岡崎市指定文化財 山中八幡宮のクスノキ
胸高囲6.6メートル、根囲10.8メートルの巨樹である。
樹勢旺盛、樹形も整い、樹高21メートルと壮大な姿を見せるクスノキとしては、市内第二の大きさを誇るばかりか、県下でも稀有な存在である。
国道一号線や名鉄電車内からも望見できる巨樹として、本市の東部をシンボライズする名木である。
山中八幡宮は徳川家康との縁が深い。時代を追ってその縁を書いた案内板があった。
案内板によると、
徳川家康と山中八幡宮
竹千代の誕生
天文十一年(1542)十二月二十六日、竹千代の誕生に際して本多平八郎が山中八幡宮に竹千代の武運祈願のため来社、神主竹尾安信、岡崎城の竹の間に召出され、守札の献上、御盃を頂戴、竹千代の武運長久の祈願するように仰せ付けられる。
家康の初陣(十七才)
弘治四年(1558)二月、松平元康は今川義元の命により、三河の寺部城主鈴木日向守を攻めるにあたり山中八幡宮に戦勝祈願に来社。
永禄元年(1568)初陣の功により、家康に旧岡崎領のうち山中の三百貫を返された。
鳩ヶ窟に難を逃れる(二十二才)
永禄六年(1563)の秋、三河一向一揆のとき、家康が一揆勢に追われて危機におちいった。逃げ惑い、八幡宮の森に入り、洞窟に身をかくす。一揆勢は洞窟を怪しんで調べようとした時、二羽の白鳩が穴より舞いあがったので、囲みをといて立ち去ったので、家康は危機をのがれる。
慶長二年(1597)の春、家康は石川数正、酒井寿四郎に命じ、山中八幡宮の衡門を建て、社殿の造営をした。
(“衡門”は冠木門と同じ)
朱印の下附(六十二才)
慶長八年(1603)八月、伏見城において家康は山中八幡宮神主竹尾正照に対して神領百五十石の朱印状をあたえた。
葵御紋
寛永十一年(1634)家光上洛の節、山中八幡宮に参拝、東照宮合祀葵の紋の使用を許可される。(山中八幡宮記 八幡宮御由緒書による)
社殿は石段の上にあり、「鳩ヶ窟」も見てみたいが、石段から手を合わせてよしにした。
山の際の道ををたどって国道1号線に出る。国道を300mほど進むと、午後2時15分、旧東海道は国道から左へ分れる。(左写真) その角に「市場村」の案内板があった。
藤川郵便局の案内板によると、
「市場村」 岡崎市市場町字馬面
「市場村」はもと舞木村市場にあった。慶安元年(1648)藤川宿の規模が小さかったため、68戸が現在地に移住して「加宿市場村」となり「市場町」の町名はそれに由来する。
すぐに「東棒鼻跡」に出る。「従是西藤川宿 東海道五十三次之内」の木柱が立ち、道は車道から左の細間に入る。その入口には両側に棒鼻の石垣が再現され、石垣をつなぐように冠木門が出来ていた。(右写真) 「東棒鼻跡」は広重の保永堂版の藤川の版画の棒鼻の景色をかなり忠実に絵取って再現したもののようだ。標識の木柱、二枚の立て札、両側の石垣、石垣の上の柵、側の柳の木までそのままである。ただ版画にないのは冠木門だけである。
案内板によると、
東棒鼻跡
宿場の出入口を棒鼻(棒端とも書く)といわれ、地元の街道往還図には宿囲石垣とある。
広重の藤川宿棒鼻の版画は幕府が毎年八朔、朝廷へ馬を献上する一行が、ここ東棒鼻に入ってくるところを描いたものである。
いよいよ藤川宿に入るが、宿内の見所の地図と案内を記した「是より西、藤川宿 岡崎宿へ一里二十五町〜藤川の歴史と文化を訪ねて〜」の表題の案内板もあった。
細間を抜けて右へ鍵の手に曲がり、車道に出た向かい側に秋葉山常夜灯があった。竿の部分にうっすらと寛政七年(1795)建立と刻まれているのが判読できた。街道はまっすぐ西へ進む。(左写真)
すぐ先の左手に藤川宿を散策する人の駐車場が出来ていて、トイレもあり使わせてもらった。この駐車場にも案内板があり、芭蕉も句に詠まれた「むらさき麦」について説明されていた。
案内板によると、
藤川宿とむらさき麦
藤川宿では、かって、むらさき麦と藤の花が美しく咲き乱れ、この美しさは道中記や古歌に多く詠まれてきました。特に松尾芭蕉の詠んだ「ここも三河 むらさき麦のかきつばた」は、有名です。
平成六年に、藤川では、この幻のむらさき麦の栽培に成功し、春になると美しい穂をみることができるようになりました。
また案内板にはむらさき麦の品種として、「紫裸(むらさきはだか)」「妻町糯(つままちもち)」「徳島糯(とくしまもち)」「露(つゆ)」「大公館(だいこうかん)」の5種類が写真とともに紹介されていた。春に来れば復活されたむらさき麦を見ることが出来ただろう。西の棒鼻跡近くの水田で栽培されるという。
通りに四階建てのような、三階建てのような、正面から見ると城櫓の重層的な屋根にも見える奇妙な建物があった。(右写真) 側面の壁に大きく「製造卸粟生人形」とある。但し、貼り付けた「生人形」の文字はその痕跡だけを残して剥げ落ちていた。なお「粟生」には「あおう」と振り仮名が付いていた。(右写真)
藤川宿の中心辺りには「高札場跡」「問屋場跡」と標石や案内板が続き、左側に「銭屋」の建物が残っていた。(左写真) 折りしも白人の家族が、サイクリングの途中に足を止めて、銭屋の建物を興味深げに覗きこんでいた。西欧人にとって旧東海道はどんな風に映っているのであろうか。
東棒鼻跡にあった藤川宿の見所案内板によると、
商家「銭屋」
問屋場跡から家数にして五軒ほど先の南側に今も残る商家。連子格子が昔のにぎわいや旅人の姿を思い出させる味わいのある建物です。
続く右側、本陣跡の石碑の隣家に、「藤川宿資料館」という町屋造りの小さな無人の資料館があった。無人ではあるが、開いていて中を見学できた。藤川宿の模型や高札など藤川宿の資料が壁いっぱいに展示されていた。
ここはまた脇本陣の跡で、門だけは往時のものを改修したものという。(左写真) 狭い庭に「藤川宿脇本陣跡」の石碑と案内板があった。
岡崎市教育委員会の案内板によると、
岡崎市指定文化財 史跡藤川宿脇本陣跡99.17u
脇本陣は江戸時代、宿駅の本陣の予備にあてた宿舎で、大名や幕府の重臣が本陣に泊まる時は、家老や奉行の止宿にあてられたが、平常は一般の旅行者にも使用された。その経営については、本陣に次ぐ宿内有数の名望家が選ばれ、その敷地も、現在の跡地の四倍、約130坪(約450u)程の敷地を有していた。
現存する門は、関ヶ原の戦いの後に藤川へ居住したといわれる大西三家のうち大西喜太夫(橘屋)のもので、一部修理も施されたが、昔日の名残りをよく留めている。
同じ脇本陣跡の庭に苧(からむし)という植物が植わっていた。(右写真) からむしは、麻に似たイラクサ科の多年草で、茎の皮から繊維を採り、布を織る、木綿以前の代表的繊維であったという。案内板に
「苧(からむし)細工は日本で唯一、福島県昭和村にてつくられ福島県無形文化財で国の保存技術指定を受けている」
とあった。往時、苧細工は藤川宿のみやげ物として有名であった。
資料館に、裏手に回ると苧(からむし)の名残と隣の森川本陣の石垣が見れると案内されていたので、回ってみた。森川本陣の建物は残っていないが、赤味を帯びたそれほど大きくない石を丁寧に積み上げた石垣が残っていた。当主は家康の家臣で、石垣も敵の来襲に備えて築かれたものだという。石垣の前には雑草と見紛う苧(からむし)の一群が彼岸花の紅を散らして残っていた。(左写真)
脇本陣跡のすぐ先、左側に「東海道 藤川宿 江戸まで七十八里 京まで四十八里」の新しい石標が立ち小公園となっていた。ここでしばし休息する。
午後3時4分、数分歩いた先の藤川小学校前に「西棒鼻跡」の小公園があった。東棒鼻跡と同様に、「従是東藤川宿 東海道五十三次之内」と書かれた木柱が立っていた。片側だけだが棒鼻の石垣も再現されていた。(右写真)
案内板によると、
西棒鼻跡
宿場の出入口を棒鼻(棒端とも書く)といわれ、地元の街道往還図には宿囲石垣とある。
広重の藤川宿棒鼻の版画は東棒鼻を描いたものである。
西棒鼻跡には歌川豊広の歌碑があった。(左写真)
藤川の 宿の棒鼻 みわたせば 杉のしるしと うで蛸のあし
案内板によると、
藤川 歌川豊廣
藤川のしゅくのほうばなみわたせば 杉のしるしとうでたこのあし
藤川宿の棒鼻をみわたすと杉の木で造った表示杭が立っており、付近の店には西浦吉良等から持ってきた“うでたこ”を売っており、たこのあしがぶらさがっている。
※ 歌川豊廣‥‥1774−1829。江戸時代後期の浮世絵師、門人として、安藤広重がいる。
すぐ先にこの界隈の往時の様子について記した案内板があった。
岡崎観光文化百選の案内板によると、
藤川宿と松並木
浮世絵師安藤広重が描いた「東海道五十三次藤川宿」の賑わいぶりが、今も残る脇本陣、旅籠などに偲ばれます。
道標、常夜灯、石仏などに目を向けながら街道筋を歩いてみると、その昔、日差しや北風をさえぎり、旅人の歩みを助けた松並木が、歴史の重みを語りかけてきます。
またここは、吉良道への分岐点ともなっています。
西棒鼻跡のすぐ先の左側に十王堂があった。(左写真) 本日三つ目の十王堂である。格子の間にレンズを入れて内部をデジカメに撮ってみた。(右写真) なるほど、十王堂が十王を祀ったお堂であることが確認できた。下の段の左側のひときわ厳しいのがおそらく閻魔大王であろう。この風貌には見覚えがある。
藤川宿まちづくり研究会の案内板によると、
十王堂
「十王堂」は十人の王を祀る堂で、その「十王」とは、冥土のいて亡者の罪を裁く10人の判官をいう。秦広王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成王・太山王・平等王・都市王・五道転輪王の総称である。
藤川宿の「十王堂」はいつ頃創建されたかは不明であるが、十王が座る台座の裏に「宝永七庚寅年七月」(1710)の記年があるので、ここの十王堂の創建はこの年であろうと推測する。
また、地元では、忠臣蔵で有名な神崎与五郎に言いがかりをつけた箱根の馬子・丑五郎との伝説を伝えている。
十王堂の隣には立派な芭蕉の句碑が建っていた。(右写真) この句碑は寛政五年(1793)に西三河の俳人が再建したものと記されている。
ここも三河 むらさき麦の かきつばた
街道は500mほど先で名鉄名古屋本線を踏み切りで渡る。その手前で道は二手に分かれる。角に吉良道道標と案内板があった。(左写真) 左手に進むと吉良から三河湾沿岸に出る。西棒鼻の歌川豊廣の歌碑にあった“うで蛸”もこの街道を運ばれてきたものであろう。
藤川宿まちづくり研究会の案内板によると、
吉良道道標
東海道と藤川宿西から南西の西尾、吉良方面へ出る道を「吉良道」(きらみち)と呼んでいて、この石標は分岐点を示す「吉良道」という道しるべの石である。
道標石は、高さ143センチ、幅20センチの四角柱である。正面には「西尾・平坂・土呂」、そして下にやや大きく「吉良道」と彫られている。そして向かって右面に「文化十一年甲戌5月吉日建」左面に「東都小石川住」とある。
江戸時代、西尾藩主は参勤交代でこの道を使い、藤川宿への助郷村々は出役に、三河湾沿岸からは海産物の搬入路ともなった重要な道であった。
踏切を渡る手前から両側に松並木が始まる。岡崎市の天然記念物に指定されている「藤川の松並木」である。(右写真)
岡崎市教育委員会の案内板によると、
岡崎市指定文化財 天然記念物 藤川のまつ並木
慶長九年(1604)江戸幕府は街道を整備し、東海道の両脇に松を植えた。この松並木はその名残をとどめるもので、現在は藤川町の西端約1キロメートルの間の九十本あまりからなり、クロマツが植えられている。松並木は旅人には夏の木蔭を提供し、冬は防風林となった。
松並木の東につづく藤川宿は、東海道の三十七番目の宿場である。
歴史的な価値のある松並木であり、大切にして後世に伝えたいものである。
藤川の松並木が終り、旧東海道は藤川西の交差点で国道1号線と合流する。このあと約1kmは国道を歩き、再び左手に分かれて美合新町に入る。(左写真) 所々に残る松の木で街道筋であることが分る。
ガイドブックでは山綱川に掛かる高橋の手前に「岡崎源氏蛍発生地の碑」と「芭蕉句碑(草の葉を落つるより飛ぶほたるかな)」があるはずであったが、どこで見落としたのか見つからなかった。わざわざ戻って探したのであるが。「回りはスクラップ車の山で、見つけていたとしても幻滅していただろう」と負け惜しみ言ってみる。
やがて旧東海道は乙川の土手にぶつかり、右手の国道1号線の大平橋を渡ることになると思っていたが、ふと川を見るとすぐ下に幅広い堰があった。(右写真) 増水した時は堰の上を滑らかに水が流れるように幅広く造ったのであろう。真ん中辺りにわずかに溝が切られそこだけ水が流れているが、堰は乾いている。その溝にも人の渡れる小さな橋がある。堰の上では釣をしている人もいる。これなら足を濡らさずに渡れると判断した。渇水期だったのがラッキーだった。
午後4時9分、渡った先の小さな森に「大平川水神社」があった。大きな川の側には探せば必ず水神社がある。暴れ川を治め、川の恩恵を大いに受ける、暴れ川の鎮めと水への感謝を形にした神社である。もちろん街道筋でもいくつか出会った。
大平川用水土地改良区の案内板によると、
大平川水神社
大平川堰堤より分流した水は大平の田畑をうるおし、その稔りは地域の命でありました。大平川水系の守護神として承継いで末永くいつまでも清流と水資源を守り続けて行くことを祈念して茲に建立します。
この水神社は古くは蛇篭堰堤の守護神として大平川の中洲に安置され三回ほど遷宮されました。このたび、岡崎市・愛知県岡崎土木事務所・日清紡績株式会社美合工場・大平下町々内会の御協力によりこの地に鎮座されました。
旧東海道は大平町を進み国道1号線を渡って北東側に出る。間もなく三叉路の角に古い道しるべを見つけた。(左下写真) 右面に「東海道」、左面に「つくて道」と刻まれていた。「つくて」は三河の北部の南設楽郡作手村のことであろう。
次の角を右折して大岡越前守陣屋跡に道草する。こんなところに大岡越前の名前が出てくるとは意外である。陣屋跡には立派な門と塀が再建されていた。中は公園として整備されていた。(右写真) 園内には幾つかの案内板が掲げられていた。
岡崎観光文化百選の案内板によると、
大岡越前守陣屋跡
「大岡裁き」で名高い大岡越前の守が、1万石の大名となってから明治まで、西大平藩主大岡家の陣屋が置かれたところです。
陣屋は明治維新によって廃止されましたが、藩主をしたう旧藩士や領民から、陣屋跡を保存すると同時に、旧藩主に東京から移住を願う声があがり、大岡家別邸として復活しました。
案内板によると、
西大平藩陣屋
西大平藩陣屋は大岡越前守が三河の領地を治めるために置いた陣屋です。大岡忠相は旗本でしたが、72歳の時に前将軍吉宗の口添えもあり、寛延元年(1748)閏10月1日に三河国宝飯・渥美・額田3郡内で4,080石の領地を加増され、1万石の大名となりました。西大平に陣屋が置かれたのは、東海道筋にあり、江戸との連絡に便利であること、三河の領地がもっとも多かったことが考えられます。
しかし、大岡忠相が藩主であったのは、わずか3年間で、宝暦元年(1751)には亡くなっています。2代目は忠宣が継ぎ、廃藩置県まで7代にわたって大岡家が領地を治め続けていきます。
大岡家は、江戸に常駐する定府大名で、参勤交代がありませんでした。家臣団の大部分は江戸藩邸に住んでおり、陣屋詰めの家臣は、多い時期でも郡代一人・郡奉行1人・代官2人・手代3人・郷足軽4、5人程度でした。
案内板によると、
大岡越前守忠相公【延宝5年(1677)〜宝暦元年(1751)】
「大岡裁き」で有名な大岡越前守忠相は、徳川八代将軍吉宗の下で江戸町奉行として仕え、享保の改革を断行する大きな原動力となりました。目安箱の設置や江戸の町日消し「いろは四十七組」の創設や小石川養生所の建設など、江戸庶民の生活向上に力を注ぎました。また問屋・仲買・小売の流通段階での株仲間組合の組織化や、金銀相場の改訂・通貨改鋳による物価安定策などを打ち出し、幕府財政建て直しを図りました。寺社奉行まで昇進したのち、75歳で没し、相模国堤村(神奈川県茅ヶ崎市)の浄見寺に葬られました。
旧東海道に戻って次の四つ角の左側に「大平一里塚」がある。
岡崎市教育委員会の案内板によると、
国指定史跡 大平一里塚
東海道岡崎と藤川両宿の間にあって、これは南側の塚である。
塚の規模は、高さ2.4メートル、底部の縦7.3メートル、横8.5メートルの菱形である。塚の中央の榎は巨木となっていたが昭和二十八年の台風で倒れ、現在は若榎が植えられている。
北側の塚は昭和三年三月道路改修のときに壊された。現在はその跡に常夜灯と祠があり児童遊具が置かれていた。また南塚の倒れる前の榎は目通し3メートルあったようだ。
またまた国道一号線に出て間もなく、国道から東名高速道路へのランプウェイのガードを幾つか潜り越える。700mほど進んだところで国道1号線から右へ分かれていよいよ岡崎宿に入る。
午後4時56分、変則な四つ角の緑地帯に真新しい冠木門と岡崎二十七曲の碑があった。この先岡崎宿は曲がり角がやたらに多くなる。
岡崎中央ライオンズクラブ贈の案内碑文によると、
岡崎城下二十七曲り
岡崎城下を通る東海道は、その曲折の多さで知られ、通称二十七曲りと呼ばれていました。享和元年(1801)当地を見聞した大田南畝も「町数五十四町、二十七曲ありとぞ」と「改元紀行」に書いています。
二十七曲りは、田中吉政が城主だった時(1590−1600)城下に東海道を導き入れたことに始まり、のち本田康重が伝馬町を慶長十四年(1609)創設して以後、道筋がほぼ決定したと思われます。このねらいは城内を防衛するためのものと言われますが、これにより岡崎の城下町は東海道筋の宿場町としても繁栄することになりました。
二十七曲りの一部は、戦災復興の道路整備などにより失われはしたものの、現在でもその跡をたどることは可能です。この歴史の道とも言うべき二十七曲りを後世に伝えるために、城下二十七曲りの東口であった当所に記念碑を建て、道標とします。
市民病院の角に岡崎二十七曲りの案内標識の最初のものがあった。「岡崎城下二十七曲 欠町授町角 岡崎城手入口」と読めたが、間違いがあるかもしれない。
暗くなってきたので今日は岡崎までと決める。その後、右へ左へ角をいくつか曲がり、伝馬通りに出る。最後に伝馬通りを左折して、国道1号線と明代橋を渡り、午後5時30分、名鉄東岡崎駅で本日の歩きを終える。
今回の歩数は40,796歩であった。
このページに関するご意見・ご感想は:
kinoshita@mail.wbs.ne.jp
SEO
掲示板
[PR]
爆速!無料ブログ
無料ホームページ開設
無料ライブ放送