



午後0時46分、国道端の緑地に「自然と歴史を育むまち 本宿」の石碑(右写真の左下)と若い松の木が一本あり、本宿の詳しい案内板があった。その案内板で疑問がすぐに解けた。本宿は赤坂宿と藤川宿の間にある「間の宿」であった。
国道に沿った歩道を進んだ先に、街道の入口を示す冠木門が出来ていた。(右上写真) その先で旧東海道は国道1号線から分かれて左へ進む。その分かれ目の三角地に最近設置されたと思われる灯篭と「右 国道一号 左 東海道」と刻まれた大きな道標があった。(左写真)
法蔵寺団子の由来の看板に並んで、法蔵寺で子供の頃手習いに励んだ徳川家康が、手習の草紙を掛けたと伝わる「御草紙掛松」と、その案内板があった。(左写真) 残念ながら、現在の松は2代目であった。ただ周囲の石柵は江戸時代の物であるという。家康が手習に励んだのは駿府に人質に送られる前のことであろう。
ここに道草しようと思ったのは「近藤勇の首塚」を見たかったからである。女房をうながして、150メートルほど入った所から石段を登る。石段の途中、左側に石垣に囲まれた「賀勝水」と名付けられた泉水があった。これも家康が手習いの水を汲んだといわれる泉である。覗いてみると水はあるが汚れていた。
旧東海道に戻って本宿の宿内を進む。左手の横丁の坂道を登った先、高台に病院の白い建物が見えた。ここは本宿陣屋跡でかっての代官屋敷であったという。(右写真) 病院の右手に古い建物も残っているらしかったが、道草せずに先へ進んだ。
街道右手の火の見櫓の根元には、「本宿村道路元標」があった。(左写真) 大正時代のものというが、赤坂宿にあったものと同じ頃に設置されたものであろう。
その火の見櫓の左側には秋葉燈篭と、何を祀るのかは分らないが四方に竹を立て回した小さな祠があった。(右写真)
右側の石塀の角には、本宿史跡保存会による「一里塚跡」の標柱があった。(左写真) 往時は南塚、北塚とも榎が植えられていたという。江戸へ七十七里余、京へ四十七里、赤坂宿へ一里九丁、藤川宿へ一里の位置にある一里塚であった。現在はこの石柱が過去に一里塚があったことを示しているのみである。
宿外れの左側には土壁も懐かしい長屋門があった。(右写真) 代々医者の宇都野家の遺構である。決して立派な建物でないところに「医は仁術」を実践した医家らしさを感じた。
その三角地帯に背の高い名残の松が2本立ち、本宿入口にもあった大きな道標に今度は「左 国道一号 右 東海道」と刻まれていた。(左写真)
田圃の真ん中に背の高い秋葉常夜灯が山中八幡宮への道しるべのようにたっていた。(左写真) 石灯篭の先に山中八幡宮の赤い鳥居が見える。
八幡宮を覆うような樹叢は「山中八幡宮のクスノキ」である。「巨木巡礼」でも一度来ている。(1999年4月3日) そのときの記録では、
山の際の道ををたどって国道1号線に出る。国道を300mほど進むと、午後2時15分、旧東海道は国道から左へ分れる。(左写真) その角に「市場村」の案内板があった。
すぐに「東棒鼻跡」に出る。「従是西藤川宿 東海道五十三次之内」の木柱が立ち、道は車道から左の細間に入る。その入口には両側に棒鼻の石垣が再現され、石垣をつなぐように冠木門が出来ていた。(右写真) 「東棒鼻跡」は広重の保永堂版の藤川の版画の棒鼻の景色をかなり忠実に絵取って再現したもののようだ。標識の木柱、二枚の立て札、両側の石垣、石垣の上の柵、側の柳の木までそのままである。ただ版画にないのは冠木門だけである。
細間を抜けて右へ鍵の手に曲がり、車道に出た向かい側に秋葉山常夜灯があった。竿の部分にうっすらと寛政七年(1795)建立と刻まれているのが判読できた。街道はまっすぐ西へ進む。(左写真)
通りに四階建てのような、三階建てのような、正面から見ると城櫓の重層的な屋根にも見える奇妙な建物があった。(右写真) 側面の壁に大きく「製造卸粟生人形」とある。但し、貼り付けた「生人形」の文字はその痕跡だけを残して剥げ落ちていた。なお「粟生」には「あおう」と振り仮名が付いていた。(右写真)
藤川宿の中心辺りには「高札場跡」「問屋場跡」と標石や案内板が続き、左側に「銭屋」の建物が残っていた。(左写真) 折りしも白人の家族が、サイクリングの途中に足を止めて、銭屋の建物を興味深げに覗きこんでいた。西欧人にとって旧東海道はどんな風に映っているのであろうか。
ここはまた脇本陣の跡で、門だけは往時のものを改修したものという。(左写真) 狭い庭に「藤川宿脇本陣跡」の石碑と案内板があった。
資料館に、裏手に回ると苧(からむし)の名残と隣の森川本陣の石垣が見れると案内されていたので、回ってみた。森川本陣の建物は残っていないが、赤味を帯びたそれほど大きくない石を丁寧に積み上げた石垣が残っていた。当主は家康の家臣で、石垣も敵の来襲に備えて築かれたものだという。石垣の前には雑草と見紛う苧(からむし)の一群が彼岸花の紅を散らして残っていた。(左写真)
脇本陣跡のすぐ先、左側に「東海道 藤川宿 江戸まで七十八里 京まで四十八里」の新しい石標が立ち小公園となっていた。ここでしばし休息する。
西棒鼻跡には歌川豊広の歌碑があった。(左写真)
西棒鼻跡のすぐ先の左側に十王堂があった。(左写真) 本日三つ目の十王堂である。格子の間にレンズを入れて内部をデジカメに撮ってみた。(右写真) なるほど、十王堂が十王を祀ったお堂であることが確認できた。下の段の左側のひときわ厳しいのがおそらく閻魔大王であろう。この風貌には見覚えがある。
十王堂の隣には立派な芭蕉の句碑が建っていた。(右写真) この句碑は寛政五年(1793)に西三河の俳人が再建したものと記されている。
街道は500mほど先で名鉄名古屋本線を踏み切りで渡る。その手前で道は二手に分かれる。角に吉良道道標と案内板があった。(左写真) 左手に進むと吉良から三河湾沿岸に出る。西棒鼻の歌川豊廣の歌碑にあった“うで蛸”もこの街道を運ばれてきたものであろう。
踏切を渡る手前から両側に松並木が始まる。岡崎市の天然記念物に指定されている「藤川の松並木」である。(右写真)
藤川の松並木が終り、旧東海道は藤川西の交差点で国道1号線と合流する。このあと約1kmは国道を歩き、再び左手に分かれて美合新町に入る。(左写真) 所々に残る松の木で街道筋であることが分る。
やがて旧東海道は乙川の土手にぶつかり、右手の国道1号線の大平橋を渡ることになると思っていたが、ふと川を見るとすぐ下に幅広い堰があった。(右写真) 増水した時は堰の上を滑らかに水が流れるように幅広く造ったのであろう。真ん中辺りにわずかに溝が切られそこだけ水が流れているが、堰は乾いている。その溝にも人の渡れる小さな橋がある。堰の上では釣をしている人もいる。これなら足を濡らさずに渡れると判断した。渇水期だったのがラッキーだった。
次の角を右折して大岡越前守陣屋跡に道草する。こんなところに大岡越前の名前が出てくるとは意外である。陣屋跡には立派な門と塀が再建されていた。中は公園として整備されていた。(右写真) 園内には幾つかの案内板が掲げられていた。
旧東海道に戻って次の四つ角の左側に「大平一里塚」がある。
午後4時56分、変則な四つ角の緑地帯に真新しい冠木門と岡崎二十七曲の碑があった。この先岡崎宿は曲がり角がやたらに多くなる。
市民病院の角に岡崎二十七曲りの案内標識の最初のものがあった。「岡崎城下二十七曲 欠町授町角 岡崎城手入口」と読めたが、間違いがあるかもしれない。



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