第 26 回
平成14年12月15日(日)
晴れ
金山−岩塚宿−万場宿−砂子−神守宿−津島
“大きな道草-津島詣、東海道番外-佐屋街道を行く”
ある日、大学に行っている甥っ子から手紙がきた。何事かあらんと開けてみたところ、今井雅之の率いる劇団の年末公演の案内であった。「誠」という題名で幕末のヒーロー達が時空を越えて平成の現代に蘇えるという内容のものであった。キャストの何人かいる学生役に甥っ子の名前が載っていた。
今井雅之氏は自衛隊に入隊したり、全国をサバイバル旅行をしたりして、苦労して役者になった。今ではテレビにもよく出る役者である。たどって行けば私の出身高校の後輩でもあるらしい。甥っ子の先輩にもあたり、今井雅之氏に憧れて役者を目指していると話していた。またあちこちのオーディションを受けているとも聞いていたが、憧れの先輩の率いる劇団のオーディションに受かったのだから本望であろう。
公演は東京、福岡、神戸の3ヶ所で行われる。なかなか見に行けそうにない。もっと科白のある役をもらったら見に行くよと話してある。甥っ子の名前は、「木下都生(くにお)」という。
今日の電車は青春18切符を求めた。一日普通列車乗り放題が5枚で11500円の、期間限定ながらお得な切符である。今日はそのうちの2枚を使う。
JRは豊橋まで各駅停車、その後は快速に乗り換えて金山総合駅に着いた。午前9時59分、金山総合駅から本日の旧東海道歩きを始める。近頃は女房が自分よりしっかりと案内書を読んでいて、住吉神社に「三吟塚」という句碑があるというので、1ブロック戻って住吉神社に詣でる。
案内板によると、
住吉社記
(前略)享保十九年摂州住吉神を勧請。当初新尾頭町道筋東側の小堂内に奉安したが、宝暦十二年にいたり社域を現所にさだめ、大坂廻船名古屋荷主の笹屋惣七、藤倉屋長六ら極印講中十二名は運漕守護のため社殿を創建して神儀を奉遷した。後に江戸廻船講中時田金右衛門らも信者に加わり修営のことおこたらず威霊は遠く伊勢知多熊野の沿岸にもおよんだ。
別にまた境内の人丸天神両社をあわせて和歌三神としての崇敬がおこり、松坂屋先祖伊藤祐民は社前に有志をつどえ和歌法楽をもよおして、おびただしき詠草を献するところがあった。
社地は堀川東岸に切り立った高台を占め西南にひらけた眺望はさえぎるものなく名勝とせられた。
明治初年村社列格、大正十五年幣帛供進社に指定せられたが、昭和二十年戦災にかかりその後都市計画により境内の縮小をみた。(後略)
住吉神社といえば航海の神様だとは知っていたが、和歌の神様でもあったとは知らなかった。柿本人麻呂(人丸社)と菅原道真(天神社)の三神を合わせて「和歌三神」とは、いかにも日本人の好きそうな取り合わせである。
境内には薄紅色の山茶花の下に、俵型を立てた形の丸石に句が刻まれた「三吟塚」があった。(右写真)
夜の雪見んと暮雨叟に具せられて
月と雪と 大地のたらぬ 今宵哉 圃暁
この芦原に 川千鳥鳴 暁台
たのみある 一本は松に あらわれて 士朗
佐屋路の標石のある金山新橋の交差点まで戻り、佐屋街道に入った。近くの場外馬券場に向かう人たちに交じって、進む先に尾頭橋が見えてきた。
佐屋街道の整備とともに堀川に掛けられたのが尾頭橋である。案内板と、昔の尾頭橋界隈の絵が線刻された金属板が橋の欄干にはめ込まれていた。その絵によると、堀川には材木が浮かび、貯木場ともなっていたようである。現在の堀川にも同じように材木が浮かび昔の面影を残していた。(右写真) この川を下っていけば宮の渡しに行き着くはずである。
案内板によると、
尾頭橋と佐屋街道
尾頭橋は古くから堀川に架けられていた堀川七橋の一つで佐屋街道の橋である。
その歴史は堀川開削時までさかのぼる。関ヶ原の合戦があった慶長五年(1600)頃には、既に熱田から北上し、現在の瓶屋橋北辺りから西行し、津島(佐屋)に出る「津島道」があった。慶長十五年(1610)堀川が掘られると、川を渡る「渡船」が必要となり、「亀屋河渡」(瓶屋橋北辺り)が設けられた。
幕府による東海道整備後、「七里の渡し」を利用する旅人がふえるにつれて、寛永十一年(1634)頃から東海道の陸路として、「津島道」の改修が始まった。寛文六年(1666)には脇往還として佐屋街道が完成し4つの宿場が置かれた。
この時、「亀屋河渡」(瓶屋橋北辺り)から岩塚宿にでるまで、旧街道から北へ約300メートルの水田の中に新道が開かれ、堀川には新しく橋が架けられた。これが尾頭橋である。
この辺りの地名を取り「尾頭橋」と名付けられたが、もともと新道「佐屋街道」にかかる橋のため「新橋」とも呼ばれていた。今もそのなごりがバス停「新橋通」の名で残っている。
東海道新幹線のガードを潜ってすぐ右に唯然寺がある。(左写真) その山門脇の生垣の中に、「津島街道一里塚」の石標が立っていた。(左写真の左) ここには熱田から最初の一里塚があり、「五女子(ごにょうし)の一里塚」と呼ばれた。佐屋街道はまたの名を津島詣での道として「津島街道」とも呼ばれていた。さらにこの辺りはかっては五女子村と呼ばれていた。
「五女子」の名前は郵便局の名前に残っていた。さらに進んだ先には「二女子郵便局」もあった。この「五女子」や「二女子」という変った地名には伝説が残っている。
昔、この辺りの富裕な人に七人の娘がいた。年頃になってそれぞれを近くの村に嫁がせた。いずれも子孫が大変繁栄したので、長女、次女、三女とそれぞれが嫁した村を一女子村、二女子村、三女子村と呼び、七女子村まであったという。
少し無理はあるが面白い伝説である。
「五女子郵便局」の先の商店街を歩いていて、最初に気付いたのは自分であった。「あれっ!この通りにはかって来たことがある!」どこがという訳ではない。何となく既視感のようなものを感じた。
女房にそんな話しをしているうちに、特徴のあるレストラン前に差しかかり、(右写真)そこが娘の結婚の名古屋での披露宴会場であったことを思い出した。このホームページの最初のページの似顔絵を描いてもらった披露宴である。何と読むのか、「ANDRONE」という名のレストランである。
「良くわかったねえ」という女房を残して、写真に撮っておこうと道路を渡った。残った女房はレストラン前を箒で掃いているウェイターと話している。ここで娘が披露宴をしたと言うと、結婚披露宴も良くありますとの話であった。
そのウェイターは感心にもレストラン前だけではなく両隣まで掃除をしていた。昔の商人は店の前を毎日掃き清めることを日課としていた。また自分の店の前だけに留めずに周囲の清掃を行なったという。だから江戸時代の街は世界一清潔な街であった。道中の自販機回りの汚れ方や、スプレー塗料の落書、買い物袋のまま打ち捨てられたごみなどを見るにつけ、我々はもう一度、昔に学ぶ必要があると思う。
午前10時43分、中川福祉会館前に「佐屋街道」の石碑と案内板、そして松の幼木が2本植えられていた。(左写真) 最近作られたものであろう。
案内板によると、
佐屋街道
佐屋街道は、寛永三年(1626)と十一年(1634)の三代将軍徳川家光の通行を契機として整備が進められ、寛文六年(1666)には幕府の道中奉行が管理する官道に指定された。
この街道は、熱田宿と桑名宿を結ぶ七里の渡しの風雨による欠航や、船酔いを嫌う多くの旅人が行き交い、東海道の脇往還として非常に賑わっていた。商用や寺社参りの人々、参勤交代の大名行列、さらにはオランダ商館のシーボルトや十四代将軍家茂、明治天皇もこの道を通行している。
永年にわたり日本の幹線道路網の一部をになってきたこの街道も、明治五年(1872)の熱田と前ヶ須新田(現:弥富町)を結ぶ新道の開通によりその役割を終え、現在では地域の幹線道路として親しまれている。
中川運河の手前、埃っぽい工場の前に「明治天皇御駐蹕之所」の石碑がある。(右写真の左)また中川運河を越えた長良町の交番脇にも「明治天皇御駐輦之所」の石碑があった。(右写真の右)
明治天皇は明治元年九月の東幸、同年十二月の還幸、明治二年の再幸の三回、東海道の行き来にいずれも佐屋街道を通っている。
前者の二女子の石碑は還幸の時、後者の長良町の石碑は再幸の時の休憩所である。
午前11時、道幅の広い名古屋環状線を渡った左手に大きなお寺の屋根が見える。亀齢山万念寺である。(左下写真) 万年寺には次のような伝説が残っている。
江戸の中期のある日、近くの教専坊の万念という坊さんが、村人の飲料水になっていた更池のそばを通ると、「万念や、万念や」と呼ぶ声がする。聞き耳をたてると、どうやら池の中から聞こえてくる。村人に頼んで池の水を干すと泥の中から仏像が出てきた。更池には、鎌倉時代に旅の僧が濁った池の水を阿弥陀如来像を沈めてきれいな水に戻したという伝説があり、その阿弥陀如来像であった。村人はこの像を教専坊に祀り、以後このお寺を万念寺と呼んだ。
佐屋街道の情報を探すうちにたどり着いた「姫街道の旅人:横田」さんのホームページには、この万年寺に住む白い番犬の写真があった。今、犬に興味深々の女房はその犬に会うのを楽しみにしていた。犬は門のそばに達者でいた。(左上写真の円内)
長良町のまっすぐの通りを進む途中、自転車の爺さんに呼び止められ、「財務事務所はどこか」と聞かれた。この土地のものではないから判らないと断るが、我々の風体を見れば判りそうなものである。そういえばこんな風に道を聞かれることが時々ある。爺さんは車の往来の激しい狭い道をふらふらと自転車で行く。危なっかしくて見ておれない。爺さんが原因で渋滞が起きていても我関せずである。それどころか渋滞してきた車に何か聞いている。多分財務事務所の場所を聞いているのであろう。我々の遥か先で我々をやきもきさせながら横丁に曲がったのかふいっと消えてしまった。
近鉄烏森駅のそばを、JR線のガードと近鉄名古屋線の踏切を抜けて烏森町に入る。この辺りにかって荒子観音道の道標があったという。これから南へ1キロ余進んだ所に荒子観音がある。荒子といえば前田利家の荒子城のあった所である。もちろんNHK大河ドラマの「利家とまつ」の世界である。
ある幼稚園の前に「なかよし」とネーミングした石像があった。(右写真) 積極的に見える女の子に、これは「利家とまつ」かもしれないと思った。さらにこれは現代の双体の道祖神とも言えると思った。
やがて佐屋街道、最初の宿場の岩塚宿に入る。佐屋街道が開かれた寛永十一年には宿場は万場と佐屋の二宿だけであった。万場宿は初め万場と砂子の二村で伝馬役を勤めていたが、岩塚村が砂子村に代って宿役を負うことになった。そしてその後は庄内川をはさんだ万場宿と岩塚宿が月の前半と後半を分担して合わせて一宿の役割をはたしてきた。
昼前になったので岩塚宿で通りすがりのうどん屋に入り、昼食にした。出掛けにトイレを借りた女房が水洗でない汚いトイレに呆れたという。名古屋もここまで来ると田舎の部類に入ってくるのだろう。
連子格子の古い家なども残る岩塚宿を進むと、左側に八幡社がある。この神社は大変ユニークで、本殿が茅葺き屋根で出来ている。(左写真) 藁葺き屋根の神社は今では白川郷で見られるくらいであるが、昔はどこもこんな建物だったに違いない。
八幡社本殿左にクロガネモチの巨木がある。(右写真) 昭和63年の巨樹巨木林調査の資料に載っていないから、おそらく未だ幹周り3mに達していないのであろう。しかしクロガネモチとしては太く、巨木に準じてよいと思う。
この木は名古屋市の保存樹に指定されている。指定番号(中村)第二十七号である。下枝は刈られて高い位置に樹叢があるが、そこに赤い実をいっぱい付けていた。問題なくこのクロガネモチを「岩塚宿の巨木」にしよう。
八幡社の隣の光明寺には鐘楼を兼ねたコンクリートの山門が珍しい。庄内川に突き当たる手前の角に、七所社の標石が残っているが、アスファルトの道路に埋もれてしまってよくわからない。(左下写真の右上) その角を右折、名古屋高速を潜ったすぐに七所社があった。(左下写真)
名古屋市教育委員会の案内板によると、
七所社・きねこさ祭
この社の創建は、保存されている神鏡に「元慶八年(884)御田天神」の銘があり、そのころと考えられている。「応永三十二年(1425)岩塚城主 吉田守重 社殿修造」の棟札も残されている。
尾張三大奇祭の一つとして有名な「きねこさ祭」は、摂社御田神社の祭礼で五穀豊穣・厄除等を祈念し、毎年旧暦1月17日に行われる。当日は、一本の笹竹を12人の役者が持って庄内川に入り、笹竹の折れる方角でその年の吉凶を占う。市の無形民俗文化財に指定されている。
なお、本社境内及び周辺には、数基の円墳が残っている。
境内に入ると右手に、域内にびっしりと竹が繁茂した円墳があった。濠に囲まれ、その外を玉垣に囲まれていた。また本殿右側には「古塚」と標石の立つ円墳があり、案内碑があった。(右写真)
古塚会の案内碑によると、
古塚
奈良時代初期の古墳と伝えられている。埋葬者は不明であるが、当時この辺りを支配していた人物のものと考えられる。
七所社境内には、周囲に濠をめぐらせているものと、拝殿の西にあるものと、合わせて三つの古墳がある。中村区で現存する古墳はここだけであり、岩塚の地名の由来ともなっている。
さらに古塚と本殿の間に「日本武尊腰掛岩」の石碑が建ち(左写真)、縁台のような方形の自然石があった。(左写真の左上円内) 「誰かが腰掛けた石」が日本にはいかに多いことか。東海道でも三島の松雲寺の「明治天皇御腰掛石」や清水町の頼朝と義経が初めて会った「対面石」などを思い出す。
案内碑によると、
御腰掛岩由来
景行天皇四十年に、日本武尊は東夷征伐の勅を奉て、転戦四年ことごとく之を平定し給ひ、凱旋の時に大河の渡船を待つま、しばらく御腰を掛け給へる石なり。
七所社御縁記略記
名古屋高速脇の階段を上って、庄内川に架かる橋の歩道を進む。名古屋高速は県道の橋より一段高く付いている。つまり万場大橋は二段になっていた。この庄内川はかっては「万場の渡し」で対岸に渡っていた。この渡しは佐屋街道に伝馬制が敷かれる以前は渡船一艘、船頭一人が置かれていた。伝馬制が敷かれてからは四、五艘の渡船が置かれたという。往時渡船の着いた対岸は改修工事中であった。(右写真)
庄内川を渡ると万場宿である。土手下には安永六年(1777)の秋葉山常夜燈と明治三十一年(1898)の大橋の橋柱が並んでいた。(左写真) さらに天保十三年(1842)の常夜燈(右下写真の左)と秋葉社(右下写真の右)があった。
名古屋市教育委員会の案内板によると、
万場宿跡
万場宿は、佐屋街道「万場ノ渡」をはさみ、岩塚宿(中村区)と向いあって、寛永十一年(1634)御伝馬所に指定され宿場が置かれた。
この両宿場は近距離にあったため、制度上は一宿と見なされ、月の上半月を万場宿が、下半月を岩塚宿が交代で人馬継立の役務を行った。明治五年(1872)御伝馬所は廃止された。
なお、この秋葉神社は以前、百mほど南の万場宿の東端にあり、その下に渡し場もあった。
庄内川の土手を下ると万場宿である。街道はまっすぐに進み、間口の広い古い木造家屋が続く。やがて街道は突き当たり右にクランク型に進むが、その角に国玉神社がある。
国玉神社の本殿横に三本の鎖に吊り下げられた鉄製の篭があった。「篝火」と刻まれた標石が立っていた。お祭などに火を焚くのであろう。(左写真)
名古屋市教育委員会の案内板によると、
国玉神社・八劔社相殿
創建は古く、尾張志によれば、尾張大国霊神社(現在の稲沢市国府宮)より勧請したという。「延喜式神名帳」に国霊神社、「本国神名帳」に従二位国玉名神と記載されている式内社である。
明治元年(1868)八劔社を合祀、同年明治天皇が東幸の際、勅使より奉幣を享ける。同五年近隣八か村の郷社に、同四十年より神饌幣帛料の供進指定社となる。なお拝殿等の屋根は昭和五十八年改修。
祭神は、大物主大神・天照大御神・草薙劔御霊・日本武尊。大祭、春五月五日、秋十月七日。
神社前の道は佐屋街道(東海道の脇往還)で、南西曲がり角は万場宿の高札場となっていた。
国玉神社の角には現在、祠や掲示板があるが、かっては万場宿の高札場があったという。その向い側に臥龍山光円寺がある。正面に場違いなほど立派な山門があった。また山門の左手には巨大な石燈篭があった。(右写真)
この立派な山門は名古屋七間町の聖徳寺から移築された物といわれる。聖徳寺はあの信長と斎藤道三が会見した場所として有名なお寺であるが、聖徳寺は転々としており現在の聖徳寺のある名古屋七間町で会見が行われたのではないようだ。
案内書では境内に「万場宿」と刻まれた変り灯篭があるというので境内に入って探した。本堂左に三面に「万場宿」「蓮華院」「佐屋路」と刻まれた角柱状の灯篭があった。(右写真の右)
名古屋高速万場線を潜って大治町砂子に入る。砂子村は初め万場村と二村で万場宿として伝馬役を勤めていたが、後に役を岩塚村に譲っている。
北へ少し進み、左折して新川に架かった砂子橋を渡る。橋の手前の右側の秋葉社の角に「須な子はし」と刻まれた標石が立っていると書かれていたが、標石は倒れていた。(左写真) 砂子橋は車両通行止めになっていた。橋の工事ではなくて渡った向うの道路改修工事であった。もっとも歩いては渡れた。
200mほど西へ進んだ右に鳥居、左右の常夜燈と「村社 式外 十二所神社」と刻まれた石柱が立っていた。そして鳥居を潜った小路の遥か奥に、小路を塞ぐように住宅団地ビルが見えた。
街道は右折して北へ350mほど進んだ四つ角を左折する。この北東角に地蔵堂がある。小さいながら入母屋の頭でっかちなほど立派な屋根の辻堂である。(右写真) 地蔵堂の向かいの北西角には「高札場跡(旧佐屋街道)」の標柱が立っていた。
午後1時33分、この四つ角を右に曲がるとすぐ左に自性院があった。(左写真) 山門両側の塀は下半分がなまこ壁になっている。自性院はもと北野山成願寺という大寺院の一院であった。その後、災害や火災で縮小され、自性院だけが残った。山門に「成願寺」の額が掛かっているのはそのためである。(左写真の左下)
成願寺は、建久五年(1194)北条時政が上洛の折り、宿願成就を祈願し、翌年下向の際、しばらく逗留し、堂塔を再建し寺領を寄進したという。
自性院の東側に先ほど入口の鳥居を見た十二所神社があった。背後に衝立のように建つ住宅団地のビルを配して不思議な光景に見えた。(右写真)
四つ角に戻り、街道は左折して進む。間もなく右手に稲荷社が見えてくる。(左写真) 稲荷社の脇の右折する小道を進むと馬嶋の明眼院に通じるという。小さな錆びた鉄板の標識が立ち、「従是馬嶋明眼院道 大治南小学校200M 旧佐屋街道」とやっと読めた。(左写真の左下)
かって街道沿いに一面に「従是馬嶋明眼院道 七町アリ」、左右の面に「是よりまじま道」と刻まれた立派な道標が建っていたが、現在はこの小道を200mほど行った大治南小学校の校庭に移されているという。
街道を歩いていて大変残念に思うことがある。それはせっかく街道に立てられていた道標が、道路改修などの都合であろう、関係のない場所に移設されてしまっている場合が多く見られる。壊されてしまうより良いけれども、道標はその場所にあってこそ意味がある。
移された道標で思い出すのは、戸塚宿の広重の版画にも出ていて有名な「左りかまくら道」の道標が、吉田橋の周りには無くて、街道からは離れた妙秀寺に移設されていたことである。結局、見逃してしまった。もう一つ藤枝宿の手前にあった「従是西田中領」の傍示石は、本物が田中城跡の西益津中学校正門脇に移されているが、元の位置に全く同じ新しいものが復元されていた。古いものを元の位置に戻すことが望ましいが、それが叶わないなら新しいものを復元してもらえれば、旅人にとってこれほど嬉しいことはない。
馬嶋の明眼院は江戸時代、眼病の治療院として男女に分けられた病棟まで備え大繁盛をしていた。馬嶋村も来院する患者目当てに色々潤ったようである。しかし明治になって西洋医学が入り、眼病の治療院としての役割は終えたという。
稲屋の交差点で東名阪自動車道を潜る。間もなく「旧一里塚跡(旧佐屋街道)」と書かれた木柱を見る。この一里塚は現在は痕跡を残さないが、北塚は三本木村(現大治町三本木)、南塚は千音寺村(現名古屋市中川区富田町千音寺)に属した。
午後2時15分、福田川に架かる秋竹橋を渡り、七宝町に入る。世に知れた七宝焼のふるさとである。
「七宝焼」とは、広辞苑によれば、
「金属などにガラス質の釉を焼きつける、装飾工芸の一。銀や銅・陶器・ガラスなどの表面にくぼみをつくり、そこに酸化鉛・酸化コバルトなどを含む種々の色のエナメルを埋め、熱して熔着させ、花鳥・人物など種々の模様を表し出す技法。七宝をちりばめたように美しい焼物の意。」
という。
七宝町役場北の交差点の角に緑地が整備され、「七宝焼原産地道標」があった。「七寶焼原産地 寶村ノ内遠島」とあり、最上部にローマ字標示がされている。また側面には「従是六町」と刻まれ、人差し指で指し示す左手が線刻されている。(右写真)
七宝町教育委員会の案内板によると、
七宝町指定史跡 七宝焼原産地道標
七宝焼(尾張七宝)は、江戸時代末に服部村(現名古屋市中川区富田町)の梶常吉により創始され、七宝町の町名の由来ともなっている。
七宝町においては、当時の遠島村の林庄五郎が、梶佐太郎より技法を伝授され、その後、遠島村を中心として広まった。
この道標は、明治二十八年に建てられたもので、碑の上部にローマ字で “shippoyaki toshima” とある。
明治時代には、七宝焼は輸出の花形であったこと、外国人が直接買いつけに来ていたことなどから、このようなローマ字の道標が建てられたといえる。
この緑地にピンク色の幡が立っていた。(右上写真) 「前田利家公正室 おまつの方生誕の地七宝町」と黒字に染め抜かれている。この町もNHK大河ドラマの「利家とまつ」にあやかりたいようだ。
七宝町の西のはずれで蟹江川に架かる下田橋を渡る。このすぐ下流に並行して架かる旧橋は弓掛橋と呼ばれていた。
近くに弓掛松の碑があるというので探し回った。そしてようやく人家の庭に石碑と幼松があるのを見つけたが、よそのお宅に入っていくようで正面には入るのがためらわれ、斜めから見るに留めた。旧跡も個人の所有地に取り込まれている場合は旅人としては大変難しい。所有する人も次々に見学者が訪れるのは迷惑な事であろう。
ともあれ弓掛松については次のような伝説が残っている。義経がここより弓を射られ、弓は百町飛んで落ちた。落ちたところを百町村と名付け、現在も「矢落蹟」と記した碑が残っているらしい。地図をみると是より南西約3kmほどの日光川東岸に津島市百町という地名が残っている。「弓掛松」はその折り弓を掛けられた松であるという。数多い義経伝説の一つである。
蟹江川に並行した水路に水面に魚を狙う鷺が集まっていた。その一羽を写真に収めた。(右写真) シラサギ、アオサギに交じってこれはゴイサギである。義経が弓を射た昔も数多くの鳥たちがいたであろう。
午後3時17分、県道一宮蟹江線、別名、西尾張中央道の神守町交差点を渡ると前方に「神守の一里塚」が見えてくる。(左写真) 残っているのは北塚だけである。佐屋街道にあった五女子、岩塚、千音寺、神守、津島の五つあった一里塚中現存する唯一のものであり、津島市指定の史跡となっている。
植えられたムクノキは指定番号は13−01の津島市の保存樹に指定されている。根元に洞が開いて、支幹が朽ち折れているなど、危うそうに見えるが、立ち上がった主幹は随分元気が良さそうである。幹周りも裕に三メートルは越していると思われるので、胸を張って「神守宿の巨木」に指定しよう。(左写真)
案内標識の説明文によると、
神守の一里塚
江戸時代、佐屋街道の一里塚の一つとして作られた。一里塚は街道の両側に一里(約四キロメートル)ごとに設けられ、その上にエノキを植えて旅人の目印にしたものである。
昔は北側の塚が東西7.3メートル、南北6.7メートル、高さ1.5メートルの小山でムクが植えられ、南側の塚は長径5.5メートル、短径4メートル、高さ1.4メートルの小山にエノキが植えられていたという。佐屋街道の一里塚の中で、最後まで街道の両側の塚が残っていたのはここの一里塚であったが、今は北側の塚が残っているだけである。
街道は神守町下町交差点で北へ左折し宿内に入っていく。神守村道路元標の標石を見て、古い町家の残る中、やがて街道は突き当たって左折する。(右写真) その突き当たりの民家の前に「神守の宿場跡」の案内標柱が立っていた。
案内標識の説明文によると、
神守の宿場跡
江戸時代東海道の宮(熱田)の宿場から桑名(三重県)の宿場への「七里の渡し」にかわる脇街道として佐屋街道が利用されていた万場(名古屋市)の宿と佐屋の宿との間があまりにも長かったため、正保四年(1647年)に「神守の宿」が定められた。
この宿場は古い憶感神社(「おかみのじんじゃ」ともいわれていた)を中心に宿屋・商家がたちならび近くの村々の手助けによって宿駅の仕事を果たしていた。
突き当りを右折すると直ぐ左手に珍しい六角形の地蔵堂があった。(左写真) 地蔵堂の右側には仙人のような石像が祀られていた。何の像であるかは不明である。
憶感山吉祥寺の案内碑によると、
縁起
お地蔵様と言う仏は、お釈迦さまがなくなられた後、この世にお出ましになり、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)に悩み苦しむ者たちを救い、また、幼くしてなくなった子供たちを守ってくださる、実にありがたい仏様であります。
さて、この延命地蔵は、神守宿場時代、宝暦八年(1758)に当寺に祀られ、文政三年(1820)には檀徒及び村人の厚い信仰により六角堂が建立され、ここに祀られた。
人々は、村内安全・子孫繁栄を願い、旅人は道中の安全を祈ったと伝えられる。その後、明治六年(1873)に改築、平成六年十二月に大改修され、現在も多くの人々から厚い信仰を受けている。
お地蔵さまのご真言 オンカカカビサンマエイソワカ
さらに右へ進むと憶感神社に入る。鳥居の右側に「郷社 式内 憶感神社」と社標が立っている。(右写真) 「憶感」の読み方は「おかみ」、「おかん」、「おくか」といずれをとってもユニークな読み方をするらしいが、祭神はあめかんむりに龍で「おかみの神」、水に関わりが深く、農耕の神様だという。
街道に戻って進むと、間もなく右側に穂歳神社があった。(左写真) ここの祭神も変わっていて、「天竺ルイビン国龍帝龍王の御子を祀る」という。随分ユニークな祭神である。そういえば「神守」という地名も意味ありげである。他の村と何か違うようだ。
午後3時58分、佐屋街道は日光川に架かる日光大橋を渡る。日光川の水面には渡り鳥が沢山浮いていた。(右写真) 橋を渡った右側に日光大橋の案内標識があった。
案内標識の説明文によると、
日光大橋
旧市内の東端神守一里塚と津島一里塚(今市場交差点東)との中間に近い日光川にかかっている。長さ70メートルの橋で明治大正時代は両岸に楓が多数あって四季春夏秋冬の美しい風景を楽しませていた。土地の人々は「津島八景」(天王川の往来がはげしかった時代の四季の八つの美しい景色)の一つとして親しんでいた。江戸時代には戦略的(合戦の時)なねらいで大きな川に橋をかけることは少なかったが、ここには木橋がかかっていた。明治時代になってから、交通の便をよくするためにりっぱな橋をかけたので昔のおもかげはのこっていない。
日光大橋を渡った右側に、鳥居、灯篭、社、玉垣、手洗舎などすべてが真新しい、秋葉社が出来ていた。
もう夕暮れが近付いていた。今日はここまでにしようと話し、まっすぐ西に名鉄尾西線津島駅へ進む。途中の角に諸鍬神社の社標(左写真の左)と獅子舞開祖の市川柳助碑(左写真の右)があった。
また、清光院の塀の上には「津島一里塚跡」の案内標識が立っていた。(右写真)
午後4時36分、津島駅で今日の歩きを終える。今回の歩数は 36,630歩であった。
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