



住吉神社といえば航海の神様だとは知っていたが、和歌の神様でもあったとは知らなかった。柿本人麻呂(人丸社)と菅原道真(天神社)の三神を合わせて「和歌三神」とは、いかにも日本人の好きそうな取り合わせである。
佐屋街道の整備とともに堀川に掛けられたのが尾頭橋である。案内板と、昔の尾頭橋界隈の絵が線刻された金属板が橋の欄干にはめ込まれていた。その絵によると、堀川には材木が浮かび、貯木場ともなっていたようである。現在の堀川にも同じように材木が浮かび昔の面影を残していた。(右写真) この川を下っていけば宮の渡しに行き着くはずである。
東海道新幹線のガードを潜ってすぐ右に唯然寺がある。(左写真) その山門脇の生垣の中に、「津島街道一里塚」の石標が立っていた。(左写真の左) ここには熱田から最初の一里塚があり、「五女子(ごにょうし)の一里塚」と呼ばれた。佐屋街道はまたの名を津島詣での道として「津島街道」とも呼ばれていた。さらにこの辺りはかっては五女子村と呼ばれていた。
「五女子郵便局」の先の商店街を歩いていて、最初に気付いたのは自分であった。「あれっ!この通りにはかって来たことがある!」どこがという訳ではない。何となく既視感のようなものを感じた。
午前10時43分、中川福祉会館前に「佐屋街道」の石碑と案内板、そして松の幼木が2本植えられていた。(左写真) 最近作られたものであろう。
中川運河の手前、埃っぽい工場の前に「明治天皇御駐蹕之所」の石碑がある。(右写真の左)また中川運河を越えた長良町の交番脇にも「明治天皇御駐輦之所」の石碑があった。(右写真の右)
午前11時、道幅の広い名古屋環状線を渡った左手に大きなお寺の屋根が見える。亀齢山万念寺である。(左下写真) 万年寺には次のような伝説が残っている。
近鉄烏森駅のそばを、JR線のガードと近鉄名古屋線の踏切を抜けて烏森町に入る。この辺りにかって荒子観音道の道標があったという。これから南へ1キロ余進んだ所に荒子観音がある。荒子といえば前田利家の荒子城のあった所である。もちろんNHK大河ドラマの「利家とまつ」の世界である。
連子格子の古い家なども残る岩塚宿を進むと、左側に八幡社がある。この神社は大変ユニークで、本殿が茅葺き屋根で出来ている。(左写真) 藁葺き屋根の神社は今では白川郷で見られるくらいであるが、昔はどこもこんな建物だったに違いない。
八幡社本殿左にクロガネモチの巨木がある。(右写真) 昭和63年の巨樹巨木林調査の資料に載っていないから、おそらく未だ幹周り3mに達していないのであろう。しかしクロガネモチとしては太く、巨木に準じてよいと思う。
境内に入ると右手に、域内にびっしりと竹が繁茂した円墳があった。濠に囲まれ、その外を玉垣に囲まれていた。また本殿右側には「古塚」と標石の立つ円墳があり、案内碑があった。(右写真)
さらに古塚と本殿の間に「日本武尊腰掛岩」の石碑が建ち(左写真)、縁台のような方形の自然石があった。(左写真の左上円内) 「誰かが腰掛けた石」が日本にはいかに多いことか。東海道でも三島の松雲寺の「明治天皇御腰掛石」や清水町の頼朝と義経が初めて会った「対面石」などを思い出す。
名古屋高速脇の階段を上って、庄内川に架かる橋の歩道を進む。名古屋高速は県道の橋より一段高く付いている。つまり万場大橋は二段になっていた。この庄内川はかっては「万場の渡し」で対岸に渡っていた。この渡しは佐屋街道に伝馬制が敷かれる以前は渡船一艘、船頭一人が置かれていた。伝馬制が敷かれてからは四、五艘の渡船が置かれたという。往時渡船の着いた対岸は改修工事中であった。(右写真)
庄内川を渡ると万場宿である。土手下には安永六年(1777)の秋葉山常夜燈と明治三十一年(1898)の大橋の橋柱が並んでいた。(左写真) さらに天保十三年(1842)の常夜燈(右下写真の左)と秋葉社(右下写真の右)があった。
庄内川の土手を下ると万場宿である。街道はまっすぐに進み、間口の広い古い木造家屋が続く。やがて街道は突き当たり右にクランク型に進むが、その角に国玉神社がある。
国玉神社の本殿横に三本の鎖に吊り下げられた鉄製の篭があった。「篝火」と刻まれた標石が立っていた。お祭などに火を焚くのであろう。(左写真)
国玉神社の角には現在、祠や掲示板があるが、かっては万場宿の高札場があったという。その向い側に臥龍山光円寺がある。正面に場違いなほど立派な山門があった。また山門の左手には巨大な石燈篭があった。(右写真)
名古屋高速万場線を潜って大治町砂子に入る。砂子村は初め万場村と二村で万場宿として伝馬役を勤めていたが、後に役を岩塚村に譲っている。
200mほど西へ進んだ右に鳥居、左右の常夜燈と「村社 式外 十二所神社」と刻まれた石柱が立っていた。そして鳥居を潜った小路の遥か奥に、小路を塞ぐように住宅団地ビルが見えた。
午後1時33分、この四つ角を右に曲がるとすぐ左に自性院があった。(左写真) 山門両側の塀は下半分がなまこ壁になっている。自性院はもと北野山成願寺という大寺院の一院であった。その後、災害や火災で縮小され、自性院だけが残った。山門に「成願寺」の額が掛かっているのはそのためである。(左写真の左下)
自性院の東側に先ほど入口の鳥居を見た十二所神社があった。背後に衝立のように建つ住宅団地のビルを配して不思議な光景に見えた。(右写真)
かって街道沿いに一面に「従是馬嶋明眼院道 七町アリ」、左右の面に「是よりまじま道」と刻まれた立派な道標が建っていたが、現在はこの小道を200mほど行った大治南小学校の校庭に移されているという。
午後2時15分、福田川に架かる秋竹橋を渡り、七宝町に入る。世に知れた七宝焼のふるさとである。
蟹江川に並行した水路に水面に魚を狙う鷺が集まっていた。その一羽を写真に収めた。(右写真) シラサギ、アオサギに交じってこれはゴイサギである。義経が弓を射た昔も数多くの鳥たちがいたであろう。
午後3時17分、県道一宮蟹江線、別名、西尾張中央道の神守町交差点を渡ると前方に「神守の一里塚」が見えてくる。(左写真) 残っているのは北塚だけである。佐屋街道にあった五女子、岩塚、千音寺、神守、津島の五つあった一里塚中現存する唯一のものであり、津島市指定の史跡となっている。
街道は神守町下町交差点で北へ左折し宿内に入っていく。神守村道路元標の標石を見て、古い町家の残る中、やがて街道は突き当たって左折する。(右写真) その突き当たりの民家の前に「神守の宿場跡」の案内標柱が立っていた。
突き当りを右折すると直ぐ左手に珍しい六角形の地蔵堂があった。(左写真) 地蔵堂の右側には仙人のような石像が祀られていた。何の像であるかは不明である。
さらに右へ進むと憶感神社に入る。鳥居の右側に「郷社 式内 憶感神社」と社標が立っている。(右写真) 「憶感」の読み方は「おかみ」、「おかん」、「おくか」といずれをとってもユニークな読み方をするらしいが、祭神はあめかんむりに龍で「おかみの神」、水に関わりが深く、農耕の神様だという。
街道に戻って進むと、間もなく右側に穂歳神社があった。(左写真) ここの祭神も変わっていて、「天竺ルイビン国龍帝龍王の御子を祀る」という。随分ユニークな祭神である。そういえば「神守」という地名も意味ありげである。他の村と何か違うようだ。
午後3時58分、佐屋街道は日光川に架かる日光大橋を渡る。日光川の水面には渡り鳥が沢山浮いていた。(右写真) 橋を渡った右側に日光大橋の案内標識があった。
日光大橋を渡った右側に、鳥居、灯篭、社、玉垣、手洗舎などすべてが真新しい、秋葉社が出来ていた。
もう夕暮れが近付いていた。今日はここまでにしようと話し、まっすぐ西に名鉄尾西線津島駅へ進む。途中の角に諸鍬神社の社標(左写真の左)と獅子舞開祖の市川柳助碑(左写真の右)があった。



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