, 旧東海道夫婦旅 第二十八回〔後半〕


 第 28 回 〔後半〕
  平成14年12月28日(土) 
 快晴冷えるが風は無し
 −町屋川−縄生−小向−富田−四日市宿
 “ヤマトタケルの伝承も残る工業都市四日市を進む”



 街道はまっすぐ町屋川に向かって進む。すでに正午を回っていたので、通りで見つけた玉屋食堂に入った。外には「年越そば」のポスターも貼ってあり、改めて今日が師走であることを思い出させてくれる。

 午後の部を歩き始めて間もなく右側に城南神社があった。(左写真) 伊勢神宮は20年ごとに建て替えられる。それを遷宮という。20年使用された古材は地方の末社に払下げられると聞いたが、その一部がここにも来るようだ。
 道はまっすぐ延びて、午後1時10分、町屋川の土手に突き当たる。その手前の右側に「安永の常夜灯」がある。(右写真) 常夜灯の脇には石柱が立っている。それぞれの面に「従 町屋川中央地 桑名郡」、「距 三重縣廰 拾一里丗甼餘」、「距 桑名郡役所丗三町余 明治廿六年二月」と刻まれていた。

 「安永の常夜灯」の向かいに「料理屋すし清」がある。その入口にクスノキの巨木が枝を空高く広げていた。(左写真) 「日本の巨樹・巨木林」によれば、幹周3.50m、樹高25m、枝張20mの巨木である。これを「桑名宿の巨木」としよう。

 土手の下に町屋橋界隈の往時の様子を表わした案内板があった。
 町屋川(員弁川)は旧東海道の町屋橋の100mほど下流に架けられた国道1号線の町屋橋を渡った。下流の旧東海道の町屋橋のあったらしい辺りを写真に撮った。(右写真) 石取祭りの石取りはどの辺りで行うのであろう。

 町屋川を渡ると朝日町縄生に入る。古い町筋を数分進むと、左側のタバコ屋さんの前に石碑があった。(左写真の左上) 線刻でよく読めないので、顔を見せたおばさんに聞くと、「山口誓子の句碑です」との答え。後日調べると、昭和25年10月建立の山口誓子の筆跡を刻んだ句碑であった。

露けさよ 祷りの指を 唇に触れ   誓子

 すぐ先の民家の前には「縄生の一里塚跡」の新しい石標が出来ていた。(左写真)

 旧東海道はやがて近鉄名古屋線の伊勢朝日駅のそばで踏切を渡るが、そこに朝日町を紹介した案内板があった。
 伊勢朝日駅前には小公園があった。大型の瓦で造った碑があった。(右写真) 次の文と「東海道中膝栗毛」中の焼き蛤を焼く挿絵が線刻されていた。そういえば結局桑名で焼き蛤を食べそこねた。
 なお、「膝栗毛」文中の「なを村」は朝日町縄生(なお)、「おぶけ村」は朝日町小向(おぶけ)を示す。ここは縄生を抜け小向に入ったばかりの所である。

 すぐ先の左側、民家の前に榎の古木が一本あった。(左写真) 元は松並木の中に混じった一本だったようだが、松の木と違って役に立たない樹種だったため、この木一本だけが残った。冬のため丸刈りにされて淋しい姿である。ともあれこの木を「朝日町の巨木」としよう。
 数分進んだ先を左折すると朝日町役場がある。役場の前には国学者の「橘守部翁生誕之地」の大きな石碑があった。(右写真) 実際の生誕の地は東海道をもう2分ほど先に進んだ左側の街道沿いでそこには案内板があった。
 すぐ先の右側に浄泉坊というお寺があった。(左写真) 徳川家に縁のある桑名藩の奥方の菩提寺であったため、山門や瓦に三つ葉葵の紋が入っており、参勤交代で表を通る大名もこの門前で駕籠から降りて一礼をしたといわれている。本堂屋根修復の際、本堂の鬼瓦で浄泉坊の由来を書いた案内碑が出来ていた。(左写真の左下)
 次にやはり街道右側に西光寺がある。ここの白壁の塀の内の松は街道の松並木の名残の松だと言う。(右写真)
 午後2時18分、朝明川に架かる朝明橋を渡ると旧東海道も四日市市に入る。橋を渡る手前の右側土手の脇に多賀大社の常夜灯があった。(左写真)

 四日市市松寺を過ぎ、蒔田に入ると右側に長明寺がある。長明寺は立派な塀と濠に囲まれている。(右写真) 鐘楼が緑に囲まれた築山の上にあった。(右写真の円内)
 旧東海道に戻って300mほど進んだ左側の民家前に、聖武天皇ゆかりの遺跡「鏡ヶ池」の石碑があった。(左写真)
 間もなく旧東海道がJR関西本線の踏切を渡るが、その踏み切りの上を高架で三岐鉄道が過ぎる珍しい交差を通る。

 四日市市西冨田町で左折して、もう一度三岐鉄道と近鉄名古屋線のガードを潜ると、すぐ右手に「富田の一里塚跡」の石碑があった。(右写真)
 近鉄富田駅近くの住宅の密集地を5分ほど進むと、左側に猫の額ほどの土地に地区の集会所のような八幡神社社殿があった。(左写真) 紡錘形の「八幡神社址」の石碑もあった。この神社は明治に一度ここより南に500m程下った鳥出神社に合祀されたが、戦後になってこの地に戻されたいきさつがある。

 その鳥出神社にはヤマトタケルノミコトの伝説が残っている。亀山市の能褒野で亡くなった日本武尊の霊は白鳥となって大和に向けて飛び立ったが、一度この地に降り再び飛び立った。飛び立った所から「鳥出」と名付けられた。また当地区を「富田」というのも「飛んだ」が訛ったものだともいう。往時は辺りは水鳥が遊ぶ干潟だったのであろう。
 椋の古木を探したところ、神社脇の溝沿いに少し入った神社の裏手に、ほとんど朽ちた状態で残っていた。

 八幡神社からすぐの右に「行啓記念道路」の石碑と案内板があった。(右写真の左) いわれは案内板に詳しい。
 すぐ先に今度は「津市元標へ拾里」の石標があった。(右写真の右) もう一面には「四日市市大字四日市へ壱里八町」とあった。桑名の町屋川のそばにあった道標と同種のものであろう。

 富田小学校前に「明治天皇御駐輦跡」の石碑があった。(左写真) 明治天皇は東幸、還幸、再幸の三度ともにここ四日市の富田茶屋町広瀬五郎兵衛方で小憩されている。
 午後3時23分、間もなく街道はT字路に突き当たりわずかにクランク状に進む。その突き当りに「新設用水道碑」が建ち(右写真)、そのそばに「力石」が置かれていた。(右写真円内) 力石は手前の八幡神社にも置かれていた。「力石」には「三十二メ」と刻まれているのが読めた。
 「力石」から3分進んだ角に、「右いかるが 左四日市」の小さな道標を見つけた。(左写真円内)これより北へ入ると茂福神社やいかるが神社に至る。

 旧東海道はやがて米洗川に架かった米洗橋を渡るが、その手前右側に常夜灯があった。(左写真)

 四日市市八田辺りにやっと一本だけ東海道の名残松が残っている。デジカメで撮ったが、街道に夕陽が傾き、先を行く女房は右下の夕闇に取り込まれてしまった。(右写真)

 やがて旧東海道は国道1号線にでる。しばらく歩いた右側に、長餅の笹井屋を見つけた。案内書の写真と少し建物が違うようだが、お土産に長餅を買いに店に入る。桑名の安永餅と同じような餡の入った棒状の餅に焼き目が入っている。店の人に案内書にある写真を見せてここかどうかと聞いたところ、「同じ物だ」と答えるだけで、同じ店だとの答えはなかった。疑問に思いながら先へ進む。

 海蔵橋の手前で旧東海道は左へ少し逸れる。そして午後4時14分、海蔵川の土手に出る。土手上に夕日に染まった「三ツ谷一里塚跡」の石碑があった。(左写真)
 土手を国道1号線まで戻って海蔵橋を渡った後、再び1号線東側の旧街道に戻った。

 10分歩いて三滝川に架かる三滝橋を渡る。丸い街灯の下がった橋柱が夕陽にシルエットになって面白い写真が撮れた。(右写真) いよいよこの辺りから四日市宿に入る。

 旧東海道を歩いていて、橋の名前と川の名前が同じ橋を渡ることが多いことに気付く。おそらく橋らしい橋として最初に架けられたのが旧東海道筋だったからであろう。

 三滝橋を渡ったすぐ左に笹井屋を見つけた。蔵作り、白壁の案内書にある建物である。(左写真) すると先ほどお土産を買った笹井屋は三ツ谷店といったところか。それならその旨教えてくれれば良さそうなものを、話すと売り損なうとでも思ったのであろうか。女房とそんなことを話す。

 旧街道は国道1号線を斜めに渡って諏訪神社に向かっていたと思われるが、現在は市街化の区画整理のため一部途切れている。角に旧東海道の道標があった。(右写真) 案内書では手差の道標だと書かれているが、一面には「すぐ江戸道」、もう一面には「文化七庚午冬十二月建」と手差の絵は無い。裏面の一面に「すぐ京いせ道」、もう一面に「右京大坂道、左いせ参宮道」とあり、この最後の面に手差の絵が描かれているという。残念ながら確認しないで通り過ぎてしまった。

 旧東海道は一号線を斜めに渡ってアーケードのある諏訪栄商店街に入って行く。その入口の右側に諏訪神社の入口がある。夕闇の迫った諏訪神社に入った。諏訪神社裏の諏訪公園に行き、ガマンしてきたトイレを済ました。

 諏訪神社境内に御神木となったクスノキを見つけ、太さでは巨木とはいえないが「四日市宿の巨木」とした。(左写真)

 暗くもなってきたし、切りも良いので今日はここまでとする。屋根付の諏訪栄商店街を抜けてJR四日市駅から近鉄四日市駅の間の約1kmを繋ぐ広い通りに出て、JR四日市駅へ向かう。近鉄四日市駅の方がはるかに近いのだが、青春18切符の都合でJRを利用しなければならない。この通りには四日市市の官庁街が並び、市役所も途中にあった。

 四日市といえば、私の記憶によれば石油コンビナートなどのある大工業地帯で、煤煙による公害が社会問題になっている、住みにくい町というのが印象であった。今日歩いたような昔の街筋が残っているとは予想していなかった。昔の宿場があった町なのだから古い部分が残っているのは当然のことなのだが。

 JR四日市駅には午後5時17分に着いた。また、今回の歩数は 36,924歩であった。







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