第 30 回 〔後半〕
平成15年3月21日(金)
快晴風なく暖かし
−野村一里塚−大岡寺畷−関宿−関地蔵院
“関宿名物、小萬、「関の戸」、地蔵尊”
午後2時10分、工事中の階段を上って旧東海道に戻る。(左写真) 薄茶色で土の道に似せた特殊舗装の道路が続く。北へ、西へと2度回り、竜川の深い谷に架かる京口坂橋を渡る。かって旧東海道はこの深い谷から崖上に登って行った。その崖上に京口門があった。その様子は「京口門跡」の案内板に詳しく書かれていた。広重の「東海道五十三次のうち 雪晴」の版画では雪の急坂を大名行列が京口門に向けて登っていく様子が描かれている。
亀山市教育委員会の案内板によると、
京口門跡
亀山宿の西端、滝川左岸崖上に東海道の番所として寛文十二年(1672)当時の亀山城主であった板倉重常によって築かれた。石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、亀山城の一部としての機能を充分備えていた。崖を登る坂道の両側にカラタチが植えられ、下から見上げると、門・番所のそびえる姿は壮麗を極め、「亀山に過ぎたるものの二つあり、伊勢屋蘇鉄に京口御門」と謡われた。この様な門は他の宿場には見られず、安藤広重「東海道五十三次のうち 雪晴」をはじめとする風景画の舞台となった。
京口坂橋を渡った先から左の横丁を300mほど南へ入った所に、「宗英寺のイチョウ」がある。このイチョウは旧国道1号線からもよく見える巨木である。台風でたくさんの枝を落としていたが、回復したであろうか。気にはなったが、「亀山宿の巨木」は野村の一里塚のムクノキに決めていたから、ここは道草を止めた。
旧街道らしい町並みを700mほど西進した右側に野村一里塚があった。(右写真) これだけの巨木を載せている一里塚は東海道では唯一であろう。これに近いのはエノキの巨木を載せた富士川町の「岩渕の一里塚」の西塚くらいであろう。
案内碑文によると、
史跡 野村一里塚
一里塚は、江戸時代のはじめ、徳川幕府が江戸日本橋を基点とし、街道に沿って一里ごとに設けさせた里程標で、塚を築き、その上に樹木を植えた。
この一里塚は、東海道の一里塚の一つとして築造されたもので、もと街道をはさんで南北に塚があったが、大正三年に南側のものは取り去られ、北側の塚のみとなってしまった。
塚の上には、目通り幹周囲五メートル、高さ二〇メートルの椋(ムク)の木がある。
本県における旧東海道においては桑名宿から坂の下宿の間に十二ヵ所の一里塚が設置されていたが、いま、残るものは、この一里塚だけであり、わが国交通史上、貴重な遺跡として、昭和九年一月二十二日、国の史跡として指定された。
かって「巨木巡礼」で当地を訪れたのは1997年4月17日の正午前であった。その折には次のように書いた。
‥‥この一里塚に植えられたムクノキが400年経って巨木に育った。‥‥このムクノキは一里塚を鷲づかみにしてそびえ立ち、枝を広げていた。知る限りでは東海道の一里塚に植えられた木では最大木のように思う。静岡では東海道一里塚の木としては岩淵の一里塚のエノキが巨木に入っている。
「巨木巡礼」時にも同じようなことを書いている。とにかく目出度くこのムクノキを「亀山宿の巨木」と決めた。
旧東海道はこの先やがて二又に別れ、その左側を取って旧国道に下って行く。旧国道の南側には一段低くJR関西本線が接している。信号で国道を渡った。しかし、JR関西本線のさらに南側へ続いている旧東海道が見えているのだが、渡る道がない。周囲を見渡すと随分手前に旧国道とJR関西本線を一気に渡る陸橋が見えた。あれだ。やや重くなった足で引返す。陸橋へは旧東海道が旧国道に出るすぐ手前から道が通じていた。
旧東海道はそこからまっすぐ西へ伸びる。この道はかって「大岡寺畷(なわて)」と呼ばれていた。(左写真) 現在は鈴鹿川の左岸の土手の脇を行く道である。川側に畷の案内標柱が立っていた。
案内標柱によると、
太岡寺畷
鈴鹿川の北堤を1946間(3.5km)約18丁に及ぶ東海道一の長縄手でありました。江戸時代は松並木でしたが、明治になって枯松の跡へ桜を植えましたが、その桜もほとんど枯れてしまいました。
芭蕉もこの長い畷を旅して
「から風の太岡寺縄手ふき通し、連(つれ)もちからもみな坐頭なり」
と詠んでいます。
午後3時13分、国道25号線、通称「名阪国道」を潜る。現在名阪国道は国道1号線との立体交差の付替で橋脚工事が進んでいた。左写真は鈴鹿川の支流の桜川に架かった太岡寺畷橋から西を撮影したもので、旧東海道は彼方の関宿から、さらにその背後の鈴鹿峠へと進む。
この長い畷で足が重くなり、先を進む女房から遅れがちになる。旧東海道は続いてJR関西本線の踏切を渡り、国道1号線を陸橋で渡って国道の北に出て進み、すぐに右に分かれて関宿に入って行く。
関宿の東入口左側に小公園があって、「関の小萬のもたれ松」の案内板があった。(右写真) そして幼松が一本植えられていた。碑もあったようだが確認しなっかった。小萬は仇を討つために産み落とされたようなもので、壮烈な一生であった。日本人はこんな仇討話に弱い。
関町教育委員会の案内板によると、
関の小萬のもたれ松
江戸も中頃、九州久留米藩士牧藤左衛門の妻は良人の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿山田屋に止宿、一女小萬を産んだ後病没した。
小萬は母の遺言により、成長して三年程亀山城下で武術を修業し、天明三年(1783)見事、仇敵軍太夫を討つことができた。
この場所には、当時亀山通いの小萬が若者のたわむれを避けるために、姿をかくしてもたれたと伝えられる松があったところから「小萬のもたれ松」とよばれるようになった。
関の小萬の亀山通い 月に雪駄が二十五足
(鈴鹿馬子唄)
関宿には東の入口に「東の追分」、西の入口には「西の追分」がある。
「東の追分」は伊勢別街道との分岐、「西の追分」は大和街道との分岐になっている。「東の追分」を南に進むと楠原、椋本、窪田を通って津で「日永の追分」を起点にする伊勢街道と合流する。京からの伊勢参りにはこの伊勢別街道が利用された。
この「東の追分」には道路を跨いで伊勢神宮の鳥居が立ち、左側に「関の一里塚跡」の石標があった。(左写真)
文部科学省・三重県・関町の案内板によると、
関町関宿重要伝統的建物群保存地区 東の追分
関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめで、これが地名の由来ともなっています。
慶長6年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次四十七番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられました。古文書によると天保14年(1843)には家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ(東海道宿村大概帳)鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。
ここ東の追分は伊勢別街道の分岐点で、鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際、古い鳥居を移築するのがならわしになっています。江戸方への次の宿は、亀山宿です。道標には外宮まで15里(60キロメートル)と刻まれています。
昼飯は安楽川の土手で食べたパンだけで、かなり空腹が進んでいた。「東の追分」の角の鯛焼屋さんでカレー鯛焼きの看板を見つけ、これは珍しいと女房が買い求め用としたが、売り切れて普通の鯛焼きにかぶりついた。
関宿の街並は昭和59年、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。古い町屋が200軒余り昔の姿に修復整備されて、通りから電柱が消え、土の道を思わせる薄茶色の舗装が施され、大変美しい街並になっている。(右写真)
住民上げての努力は大変なもので頭が下がる。しかし昔の宿場がこんな風であったかといえば、泥道に藁屋根も混じったもっと薄汚れた街並であったと思う。何か映画のセットのような印象を持つのはそのためであろうか。
左側に江戸期の面影を色濃く残す「浅原家」の町屋があった。(左写真) 軒の低い二階の表壁面は土壁の塗籠(ぬりごめ)で、虫籠(むしこ)窓。店側には「ばったり」と呼ばれる上げ下げ出来る棚がある。「ばったり」は店先に商品を並べたり、客が腰掛けたりした。由比宿にも「ばったり床几」があって同じ役割をしていたのを思い出す。出格子や幕板、馬つなぎの環金具なども残っている。幕板は軒下にあって霧除けの役割を果たした。
関町教育委員会の案内板によると、
浅原家
同家は、屋号を江戸屋と称し、米屋・材木屋などを営む。家の正面は塗篭めの中二階、連子格子、明治以降についた店棚、馬つなぎの環などがあり、江戸期の面影を最もよく残す建物といえる。障子の下張りに万延の文字があったところから、それ以前の建築年代と察せられる。
続いて珍しい樽屋さん、桶重という屋号の服部家である。(右写真) ガラス戸から覗くと、おじさんが小さなたらいを作っていた。仕事振りを見せてもらおうと思ったが、客が一人いたので遠慮した。
関町教育委員会の案内板によると、
桶重 服部家
服部家は明治十五年に創業した桶屋で、現在も三代目重三氏が大小の桶作りにいそしむ。見世の間に掛けられた道具類はいずれも使い込まれ、歴史を物語っている。家屋は幕末期に遡るもので、当初から職人の家として建てられたものではないが、前面の摺上戸、見世の間、中の間、境の千本障子など、典型的な江戸期関宿の町家の構えに復原されている。
町屋の一軒を開放した「関まちなみ資料館」に着いた時は、もう午後4時をまわっていた。この先の「玉屋歴史資料館」も見学したいと思ったので、足早に見学する。表の2階に上がる箱階段があった。(左写真) 階段の下まで有効利用する箱階段には日本人ならではの知恵が感じられた。また、裏の土蔵の天井の低い二階に、まちなみ保存事業による町並の移り変わりが、保存事業前と保存事業後の比較写真で紹介されていた。テンプラ状に改装された店舗が昔の姿に戻される様子がうかがえて興味深かった。(保存事業は現在も続いているようで青いシートに覆われた家が幾つかあった)
関まちなみ資料館出てすぐ右手に鶴屋脇本陣の波多野家があった。(右写真) 鶴屋は玉屋、会津屋とともに関の代表的な旅籠であった。江戸時代の終わりには脇本陣もつとめた。千鳥破風が目を引く。黒く縁取りされた虫籠窓も面白い。
関町教育委員会の案内板によると、
鶴屋脇本陣 波多野家
脇本陣は、本陣に準じる宿として、主に身分の高い人達の宿泊の用を勤めたが、平素は一般庶民も泊ることができた。
鶴屋は、西尾吉兵衛を名乗っていたので西尾脇本陣ともいった。二階壁面に千鳥破風をのせた派手な意匠である。
鶴屋の先の右側に大きな御屋敷の角に「川北本陣跡」の石碑があった。
とにかく午後4時30分の閉館が迫っていたので、「関宿旅籠玉屋歴史資料館」に急ぐ。2階正面に宝珠の玉をかたどった虫籠窓があった。屋号にちなんだ面白い意匠である。中に入って暗い2階に上がると、その宝珠型の明り取りが白く燃えているように見えた。
(※「宝珠の玉」−尖頭の玉で、頭および左右の側から火焔が燃え上がっている。如意宝珠とも呼ばれ、あらゆる願いを叶える不思議な珠で、衆生を利益すること限りないことから仏や仏説の象徴とされる。)
時間も無かったので玉屋はざっと見学して出た。少し戻って左側に「百六里庭」という小公園が出来ていた。江戸から関宿まで百六里あることからネーミングされたものという。
すぐ先に間口の広い伊藤本陣、松井家の建物があった。(右写真) 現在は「松井電気」という電気工事屋さんの店舗になっているが、店舗部分は軒高の連子格子で上手に隠されていた。
関町教育委員会の案内板によると、
伊藤本陣 松井家
伊藤本陣は、川北本陣と並んで東海道関宿の中心的な役割を果たした。本陣とは宿駅に設けられた大名や公卿、高僧など身分の高い人々の休泊する宿を指すようになった。伊藤本陣は、間口十一間余、建坪二六九坪、西隣の表門は唐破風造りの檜皮ぶきであった。現在残っている街道に面した部分は家族の居住と大名宿泊時に道具置場に供する建物である。
玉屋の隣には「関郵便局」が白壁の町屋風に建築されていた。ここはかって高札場のあったところで、明治初期の郵便ポストが再現されていた。(左写真) 「書状集箱」と呼ばれていたという。現在でもポストとして実際に使われているようで、集配時間が記されていた。またポストの下に関町道路元標があった。(左写真の右隅)
郵便取扱所(関郵便局)の案内板によると、
このポストは文化財保護法により指定された「重要伝統的建造物群保存地区」の町並みと調和を保ちつつ、みなさんにご利用いただけるようにした特別なポストです。
日本の郵便ポストは明治四年の郵便創業に当たり、東京に十二か所、京都に五か所、大阪に八か所のほか、東海道の各宿駅に設置したのが始まりで、当時のポストは、江戸時代の目安箱に似た角型の木製でした。
このポストは、京都・大阪に設置され、現在東京の郵政研究所附属資料館に所蔵されている日本最古のものを模して作成したポストの一つです。
郵便局の向いに和菓子屋さんの深川屋、服部家がある。(右写真) 瓦屋根の付いた立派な看板が出ている。こういう看板を「庵看板」というのだそうだ。(右写真の右)看板の文字は江戸側は「関の戸」、京側は「関能戸」と書き分けられている。旅人が向う方向を間違わないための工夫というが、この看板だけでそんな役割を果たせたかだどうか、後から付けた理由のような気がする。
「関の戸」は「赤小豆の漉餡を白い牛肥で包み、和三盆でまぶした」餅菓子で、鈴鹿の嶺の白雪を表わしたものだという。
関町教育委員会の案内板によると、
深川屋 服部家
同家は屋号を深川屋と称し、代々菓子司で寛永年間初代服部保重によって考案された餅菓子「関の戸」は、関宿の代表的銘菓として名高い、京都御所より陸奥大掾の名を賜わっている。屋根看板は伝統あるもので風雪を刻んでいる。
日の傾いた関宿に夕闇が迫ってきた。街道の両側の看板も一昔前のレトロなまま、ノスタルジーを感じさせる風景であった。(左写真) 子供の頃にはどこでもこんな街があった。かってはこの風景の中に子供が溢れ、今の時間なら子の名を呼ぶ母の声が聞こえてきたに違いない。しかし今は無人の町である。狭い街道の先に地蔵院が見えてきた。その背景の山は鈴鹿の山であろうか。
地蔵院に至る手前の右へ入った所に福蔵寺がある。(右写真) 境内に「関の小万の墓」があることで知られる。山門手前左に「町指定史跡 関の小万の墓」の石碑があった。関宿の東の入口に「関の小萬のもたれ松」の案内板があったが、その小萬のお墓がこのお寺にあるようだ。
山門を入ってすぐ右手に「関の小万の墓」はあった。墓のそばに大きな「関の小萬碑」と刻まれた顕彰の板碑が立っていた。そしてすぐ近くにフキノトウが数個、顔を出していた。まだ緑のない春一番に健気に芽を出し、地味な花を咲かせるフキノトウは何やら小萬の人生を感じさせた。3月も半ば過ぎてのフキノトウとは、この辺りまで来ると春が随分遅いと思う。
案内標柱によると、
町指定史跡 関の小万の墓
鈴鹿馬子唄にも謡われる関の小万は、女性の身でありながら亡き母の遺志を継ぎ、父の敵討ちをした仇討烈女として名高い。関地蔵院前にあった旅籠山田屋(現会津屋)の養女となっていた小万は、亀山藩の道場で武芸を磨き、天明三年(1783)亀山城大手前付近で無事本懐を遂げる事ができた。その後も小万は山田屋に留まり享和三年(1803)に三十六才の若さでなくなった。墓碑銘「妙証信女 享和三年亥年正月十六山田屋小萬」
街道をまっすぐに進むとそのまま地蔵院の境内に入ってしまう。(右写真) 街道はここで少しだけ右へ向きを替え地蔵院の右側を抜けて進む。
関の地蔵に振袖着せて 奈良の大仏婿に取ろ
と俗謡にもうたわれた関の地蔵院は天平13年(741)に、天然痘から人々を救うため行基が身の丈三尺六寸(1.09m)の地蔵尊を彫り、安置したのが始まりと伝えられている。本尊の地蔵菩薩像は我が国最古のものである。
時代が下がって、地蔵信仰流行にともなって地蔵院は栄え、江戸時代に関宿が東海道の宿場となってからは、往来の人々に関といえば地蔵院と言われ、全国的にも有名になった。
関の地蔵尊と奇矯な行動で知られる一休禅師の話は有名である。その話は「一休噺」からの引用として「東海道名所図会」に載っている。概略を記すと、
里人が地蔵尊の修理をした際、往来の僧に頼んで開眼供養してもらおうと待ち受けているところに、通りかかった一休を見つけ開眼を頼んだ。一休は地蔵に向って、
釈迦はすぎ 弥勒はいまだ いでぬ間の かかるうき世に 目あかしめ地蔵
と詠んで、小便を引っ掛けて行ってしまった。
里人は余りのふるまいに怒り、地蔵を洗い清め近隣の僧に開眼供養をやり直してもらった。ところがその夜、地蔵が里人の一人に取り付き、「名僧の供養によって目をあけたものを、どうして余分な供養で迷わすのか。元のようにして返せ」と言わせて、その人は高熱を発して病気になってしまった。
人々は驚いて一休和尚を追いかけ、桑名で追いつき詫びをいれた。和尚は「私の詠んだ歌を三遍となえ、このふんどしを地蔵の襟巻きにかけるように」と自分のふんどしを外してあたえた。里人は喜んで帰り、教えの如くしたところ、すぐに崇りがやんだ。今も麻のきれを襟巻きにされているのはそのためである。
お地蔵さんのよだれかけのルーツがここにあったなら、大変愉快なはなしである。
本堂の屋根などは最近全面的に解体修理をされたようで、きれいになっていた。本堂は元禄十三年(1700)五代将軍綱吉の建立によるもの、本堂左の愛染堂は文永四年(1267)建立、寛文11年(1671)建立の鐘撞堂(左写真)の3棟とも、国指定の重要文化財になっている。
午後4時48分、今日は最低でも地蔵院まで行こうと考えていたため、ここで終わりとする。考えてみるとここまで満足な食事にありつけずに歩いて来てしまった。地蔵院の向かいの会津屋に「街道そば」の看板を見つけて聞いてみたが、今日はすでに終っていた。(右写真の左) この会津屋はかっては鶴屋、玉屋と並んで関の代表的な旅籠であった。関の小萬が養女となっていた旅籠山田屋はこの会津屋であったという。
会津屋の隣に洋風の町屋があった。(右写真の右) 漆喰で固めたアーチ型の窓が面白い。
関町教育委員会の案内板によると、
洋館屋 好見家
好見家は、江戸末の建築で、はじめは油屋徳次郎が所有していた。現在本二階建て、二軒に分けて使用されているが、当初は、厨子二階の一軒家であった。
この改造は、西隣の会津屋が製糸業で栄えた全盛期の大正初期にこの家を入手し、その時行われたものである。西側二階はレンガ造りを模した漆喰の塗籠で、三連のアーチ窓をもつ特異な形態かつ「洋館屋」の屋号で、永く親しまれてきた。
地蔵院の左から南へ入る裏道を選び、JR関駅に向けて戻る。関町も街道から一歩裏道へ入ると普通の平成の町並、普通の生活になる。
国道1号線に出る地蔵院口の交差点に、「関地蔵堂ェ二町 明治三十二年七月二十四日」の石標が立ち、「街道 おんな唄」という演歌の歌碑があった。どんなメロディで誰が歌っているのかは知らない。
歌碑の碑文によると、
街道 おんな唄
泊めていいのね こころの旅に / 夢のかけらを 思い出を
待ちますわ 待ってます / 壊れそうなの 闇の中 / 胸突き七坂 箱根山
越すに越せない 世間の川が / 愛の行く末 とおせんぼ
行こうかな 戻ろうかな / 憎さなおます 大井川 / 掛川かなわぬ 旅衣
坂は照る照る 鈴鹿は曇る / あいの土山 雨の春
負けないわ きっと咲く / 花はつぼみよ 関の宿 / うす陽もこぼれる 石畳
午後5時7分、JR関駅に着く。帰りの電車の中で現実に戻ってラジオを聞く。アメリカ軍は無人の砂漠をバクダットに向けて時速40kmで進撃しているという。「現実に戻って」と書いたが、東海道歩きが現実で、イラク戦争の方がバーチャルに近いのかもしれない。今回の歩数は 35,698歩であった。
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