



午後2時10分、工事中の階段を上って旧東海道に戻る。(左写真) 薄茶色で土の道に似せた特殊舗装の道路が続く。北へ、西へと2度回り、竜川の深い谷に架かる京口坂橋を渡る。かって旧東海道はこの深い谷から崖上に登って行った。その崖上に京口門があった。その様子は「京口門跡」の案内板に詳しく書かれていた。広重の「東海道五十三次のうち 雪晴」の版画では雪の急坂を大名行列が京口門に向けて登っていく様子が描かれている。
旧街道らしい町並みを700mほど西進した右側に野村一里塚があった。(右写真) これだけの巨木を載せている一里塚は東海道では唯一であろう。これに近いのはエノキの巨木を載せた富士川町の「岩渕の一里塚」の西塚くらいであろう。
午後3時13分、国道25号線、通称「名阪国道」を潜る。現在名阪国道は国道1号線との立体交差の付替で橋脚工事が進んでいた。左写真は鈴鹿川の支流の桜川に架かった太岡寺畷橋から西を撮影したもので、旧東海道は彼方の関宿から、さらにその背後の鈴鹿峠へと進む。
この長い畷で足が重くなり、先を進む女房から遅れがちになる。旧東海道は続いてJR関西本線の踏切を渡り、国道1号線を陸橋で渡って国道の北に出て進み、すぐに右に分かれて関宿に入って行く。
関宿には東の入口に「東の追分」、西の入口には「西の追分」がある。「東の追分」は伊勢別街道との分岐、「西の追分」は大和街道との分岐になっている。「東の追分」を南に進むと楠原、椋本、窪田を通って津で「日永の追分」を起点にする伊勢街道と合流する。京からの伊勢参りにはこの伊勢別街道が利用された。
昼飯は安楽川の土手で食べたパンだけで、かなり空腹が進んでいた。「東の追分」の角の鯛焼屋さんでカレー鯛焼きの看板を見つけ、これは珍しいと女房が買い求め用としたが、売り切れて普通の鯛焼きにかぶりついた。
左側に江戸期の面影を色濃く残す「浅原家」の町屋があった。(左写真) 軒の低い二階の表壁面は土壁の塗籠(ぬりごめ)で、虫籠(むしこ)窓。店側には「ばったり」と呼ばれる上げ下げ出来る棚がある。「ばったり」は店先に商品を並べたり、客が腰掛けたりした。由比宿にも「ばったり床几」があって同じ役割をしていたのを思い出す。出格子や幕板、馬つなぎの環金具なども残っている。幕板は軒下にあって霧除けの役割を果たした。

とにかく午後4時30分の閉館が迫っていたので、「関宿旅籠玉屋歴史資料館」に急ぐ。2階正面に宝珠の玉をかたどった虫籠窓があった。屋号にちなんだ面白い意匠である。中に入って暗い2階に上がると、その宝珠型の明り取りが白く燃えているように見えた。(※「宝珠の玉」−尖頭の玉で、頭および左右の側から火焔が燃え上がっている。如意宝珠とも呼ばれ、あらゆる願いを叶える不思議な珠で、衆生を利益すること限りないことから仏や仏説の象徴とされる。)
時間も無かったので玉屋はざっと見学して出た。少し戻って左側に「百六里庭」という小公園が出来ていた。江戸から関宿まで百六里あることからネーミングされたものという。
玉屋の隣には「関郵便局」が白壁の町屋風に建築されていた。ここはかって高札場のあったところで、明治初期の郵便ポストが再現されていた。(左写真) 「書状集箱」と呼ばれていたという。現在でもポストとして実際に使われているようで、集配時間が記されていた。またポストの下に関町道路元標があった。(左写真の右隅)
郵便局の向いに和菓子屋さんの深川屋、服部家がある。(右写真) 瓦屋根の付いた立派な看板が出ている。こういう看板を「庵看板」というのだそうだ。(右写真の右)看板の文字は江戸側は「関の戸」、京側は「関能戸」と書き分けられている。旅人が向う方向を間違わないための工夫というが、この看板だけでそんな役割を果たせたかだどうか、後から付けた理由のような気がする。
日の傾いた関宿に夕闇が迫ってきた。街道の両側の看板も一昔前のレトロなまま、ノスタルジーを感じさせる風景であった。(左写真) 子供の頃にはどこでもこんな街があった。かってはこの風景の中に子供が溢れ、今の時間なら子の名を呼ぶ母の声が聞こえてきたに違いない。しかし今は無人の町である。狭い街道の先に地蔵院が見えてきた。その背景の山は鈴鹿の山であろうか。
地蔵院に至る手前の右へ入った所に福蔵寺がある。(右写真) 境内に「関の小万の墓」があることで知られる。山門手前左に「町指定史跡 関の小万の墓」の石碑があった。関宿の東の入口に「関の小萬のもたれ松」の案内板があったが、その小萬のお墓がこのお寺にあるようだ。
山門を入ってすぐ右手に「関の小万の墓」はあった。墓のそばに大きな「関の小萬碑」と刻まれた顕彰の板碑が立っていた。そしてすぐ近くにフキノトウが数個、顔を出していた。まだ緑のない春一番に健気に芽を出し、地味な花を咲かせるフキノトウは何やら小萬の人生を感じさせた。3月も半ば過ぎてのフキノトウとは、この辺りまで来ると春が随分遅いと思う。
街道をまっすぐに進むとそのまま地蔵院の境内に入ってしまう。(右写真) 街道はここで少しだけ右へ向きを替え地蔵院の右側を抜けて進む。
本堂の屋根などは最近全面的に解体修理をされたようで、きれいになっていた。本堂は元禄十三年(1700)五代将軍綱吉の建立によるもの、本堂左の愛染堂は文永四年(1267)建立、寛文11年(1671)建立の鐘撞堂(左写真)の3棟とも、国指定の重要文化財になっている。
午後4時48分、今日は最低でも地蔵院まで行こうと考えていたため、ここで終わりとする。考えてみるとここまで満足な食事にありつけずに歩いて来てしまった。地蔵院の向かいの会津屋に「街道そば」の看板を見つけて聞いてみたが、今日はすでに終っていた。(右写真の左) この会津屋はかっては鶴屋、玉屋と並んで関の代表的な旅籠であった。関の小萬が養女となっていた旅籠山田屋はこの会津屋であったという。



![]() |

![]() |
このページに関するご意見・ご感想は: |
| SEO | [PR] 冠婚葬祭 花 冷え対策 わけあり商品 | 動画無料レンタルサーバー ブログ SEO | |