



午後1時、三重県側の鈴鹿峠を過ぎ、杉林を抜けて、茶畑が広がり明るくなった。ここが伊勢と近江の国境で、新しい石の道標が立っていた。(左写真) 石標の四面にそれぞれ、「界 右 滋賀県 近江の国 左 三重県 伊勢の国」、「是より京まで 十七里」、「是より江戸まで 百九里」、「平成十二年 土山町教育委員会」と刻まれていた。
そこはもう車も登って来れる、春の日差しがいっぱいの茶畑の中の道であった。すぐ先に大きな石灯篭が見えてきた。「万人講常夜燈」という、高さ5.44mの巨大な自然石の常夜灯である。(右写真)
左側の田圃の中に道祖神(左写真の左)や山神(左写真の中)などがあり、続いて山中城址の案内石柱があった。(左写真の右) 山中城址といえば三島市山中新田の山中城址はもっとも有名であるが、岡崎にも山中城址がある。ここの山中城址についてはこの後の「蟹坂古戦場跡」の案内板に紹介されていた。
午後1時44分、山中の集落の手前、国道端に小公園があり、「東海道鈴鹿 山中」の石碑と石燈篭、そして鈴鹿馬子唄の1番を刻んだ石碑があった。石碑の向うに鈴鹿の山並みを入れてみた。(右写真)
山中川を渡った先で、旧東海道は国道から別れ右へ入る。集落の上に第二名神の高架橋が見えてきた。(左写真) かなり高い所を通っている。工事の存続に物議をかもしている高速道路ではあるが、このあたりはもう出来上がっている。
高架橋直下に第二名神の起工の記念碑が出来ていた。
すぐ先で国道1号線に戻るが、その右側に山中一里塚公園が新しく出来ていて、「いちゐのくわんおん道」の道標があった。(左写真) また同公園には「鈴鹿馬子唄発祥之碑」の石碑と、まるで秦の始皇帝の兵馬傭を思わせる馬と馬子の石像が設置されていた。(右下写真)
当時、道標は東海道との分岐に建てられていたが、幾度の道路整備により、現在はここ一里塚緑地に移転されている。この道標には「いちゐのくわんおん道」、側面には、櫟野(らくや)寺本尊の十一面観音の慈悲を詠んだ、虚白(きょはく)の「盡十方(つくすとも) 世にはえぬきや 大悲心」という句が刻まれており、櫟野の櫟野寺への参詣道でもあったことを伝えている。
午後2時28分、蟹坂(かにがさか)に差し掛かり、旧東海道は国道から再度右側に入る。すぐ右側に大小二つの祠が並ぶ神域があった。(左写真) 「白川神社御旅所」の標識も並んでいる。大きい方の祠を「田村社」、小さい方の祠を「蟹社」と呼ぶらしい。
この「蟹坂」には伝説が伝わっている。「東海道名所図会」には以下のように書かれている。
すぐ先に、草刈りかどぶさらいでもする人寄りがしていた。そばを通り抜けて、小山の前の草地に「蟹坂古戦場跡」の石標と案内板が立っていた。(左写真) 戦国時代、伊勢の北畠軍と先ほど通った山中城主の山中秀国軍が戦った戦場であった。
午後2時52分、国道から200mほど参道を入った鳥居の前(左写真)で、東から来る田村川を突っ切った旧東海道と出合った。
「東海道名所図会」に「ある人いわく」として次のような話が載っている。
国道を渡り、道の駅の食堂で遅い昼食を摂った。食堂のストーブに火がついていて驚かされた。食堂のすぐ隣に抹茶ソフトクリームを売っていて、食後女房が買いに行った。通常の倍以上のクリームの載ったものを持ち帰り、「400円したが、クリームを自分で載せられるだけのせることが出来る」のだという。そして自分の分を求めに行った。見るとコーンに広いつばが付いていて載せやすくなっている。販売しているのはこの道の駅の駅長さんだという。400円を高いと思わせない関西的な面白い商売である。我々は鈴鹿を越えて関西圏に入っていたのである。ストーブに当りながら、多すぎるソフトクリームを食べた。
売店で名物「かにが坂飴」(左写真)を買った。「東海道名所図会」の「蟹坂」の項に「名物とて丸き飴を売る家多し」とあった、その飴である。水あめを大きなコイン大に固めたもので、ほのかな甘さの飴であった。外へ出ると寒く感じ、ジッパーで外していたジャンパーの袖を付けた。
午後3時50分、左側に新しい地蔵堂が建ち、新しい石の道標があった。(左写真) 「従是 左京都へ十五里 右江戸へ百十里」、「東海道近江国土山宿生里野」と刻まれていた。
地蔵堂の右隣に鬼貫の句碑があった。(右写真)
この先で土山宿に入る。関宿と同じように町並がよく整備されている。(左写真) 土山宿は難所の鈴鹿峠を控えた宿場として、東海道の旅人だけではなくて、お伊勢参りの参拝客もあって大変にぎわった。
土山宿はあまりにきれいに整備されて、古い地蔵堂も何となく居心地悪そうに見える。(右写真) 人家の庭先に「東海道一里塚跡」の石碑(右写真の左)と案内板があった。
通りのあちこちに「第十二回 鈴鹿馬子唄全国大会」のポスターが貼られていた。(左写真) 6月15日にあいの土山文化ホールで行われるという。土山ならではのイベントである。
左側の立派な連子格子の家の前に、「森白仙終焉の地 井筒屋跡」の石柱が立ち、案内板があった。写真に撮ったが、緑の公衆電話と黒くは塗られているが邪魔な電柱が真ん中に写ってしまった。(右写真) この辺りが関宿との違いであろうか。
町筋から北側に少し入った先に「東海道伝馬館」という資料館が出来ていた。(右写真の下) 往時の問屋場の様子を復元し、また街道や宿の資料を展示している。展示の中でも京人形で再現された大名行列は圧巻であった。(右写真の上)
「東海道伝馬館」の入口の左側に、往時の問屋場が再現されていた。原寸大の宿役人の人形が窓口で帳付けをしており、いつもは中庭に出すのであろう、馬と馬子の原寸大の人形は今日は小屋の中に入っていた。(右写真)
午後4時42分、街道に戻った所に間口の広い連子格子の家がある。(左写真) ここは宿場の管理運営を取りしきった宿役人の責任者(「問屋」という)の家である。
問屋宅跡の隣に「土山宿本陣跡」の石柱の建つ格子造りの立派な家があった。(右写真) 今も民家として人が住んでいるので見学は出来ないが、上段の間も残っており、往時の宿帳などの史料も多く残っているという。
土山宿本陣の西隣に石碑が二面あった。一面は天皇行幸と天皇の誕生日がたまたま一致したことで繰り広げられた、天皇と土山の住民の交流の話を聞き、大正時代に井上圓了が詠んだ漢詩である。明治天皇聖蹟の碑と並んで建っている。(左写真の右)
すぐに一の松通りと交わる四つ角がある。その北西角は「大黒屋公園」で、ここは大黒屋本陣の跡である。(右写真)
「大黒屋公園」には本陣跡の石標以外に、「明治天皇聖跡」の石碑(左写真)があり、「高札場跡」の石標などがあった。
元に戻って大黒屋公園の角を左折、一の松通りを北へ向う。やがて国道1号線の交差点の北西角に「平成万人灯」と名付けられた灯篭が作られていた。(右写真) 天然石の灯篭では日本一のものという。鈴鹿峠にあった万人灯の平成版である。役場前のバス停はその交差点を右に曲がってすぐのところであった。



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