第 31 回 〔後半〕
平成15年4月13日(日)
くもりのち晴れ
−万人講常夜燈−山中−蟹坂−田村神社−土山宿
“坂上田村麻呂は鈴鹿の英雄でもあった”
午後1時、三重県側の鈴鹿峠を過ぎ、杉林を抜けて、茶畑が広がり明るくなった。ここが伊勢と近江の国境で、新しい石の道標が立っていた。(左写真) 石標の四面にそれぞれ、「界 右 滋賀県 近江の国 左 三重県 伊勢の国」、「是より京まで 十七里」、「是より江戸まで 百九里」、「平成十二年 土山町教育委員会」と刻まれていた。
そこはもう車も登って来れる、春の日差しがいっぱいの茶畑の中の道であった。すぐ先に大きな石灯篭が見えてきた。「万人講常夜燈」という、高さ5.44mの巨大な自然石の常夜灯である。(右写真)
土山町教育委員会の案内板によると、
万人講常夜燈
万人講常夜燈は、江戸時代に金毘羅参りの講中が道中の安全を祈願して建立したものである。重さ三十八t、高さ五m四十四cmの自然石の常夜灯で、地元山中村をはじめ、坂下宿や甲賀谷の人々の奉仕によって出来上がったと伝えられている。もともとは東海道沿いに立っていたが、鈴鹿トンネルの工事のために現在の位置に移設された。東海道の難所であった鈴鹿峠に立つ常夜灯は、近江国側の目印として旅人たちの心を慰めたことであろう。
舗装道路を下って右下に鈴鹿トンネルを抜けてきた国道1号線が見えてきた。国道端に出ると東京より432kmのポストがあった。これからしばらくは国道1号線の左側の歩道を行く。空腹が腹に沁みる。
左側の田圃の中に道祖神(左写真の左)や山神(左写真の中)などがあり、続いて山中城址の案内石柱があった。(左写真の右) 山中城址といえば三島市山中新田の山中城址はもっとも有名であるが、岡崎にも山中城址がある。ここの山中城址についてはこの後の「蟹坂古戦場跡」の案内板に紹介されていた。
午後1時44分、山中の集落の手前、国道端に小公園があり、「東海道鈴鹿 山中」の石碑と石燈篭、そして鈴鹿馬子唄の1番を刻んだ石碑があった。石碑の向うに鈴鹿の山並みを入れてみた。(右写真)
坂は照るてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る
山中川を渡った先で、旧東海道は国道から別れ右へ入る。集落の上に第二名神の高架橋が見えてきた。(左写真) かなり高い所を通っている。工事の存続に物議をかもしている高速道路ではあるが、このあたりはもう出来上がっている。
高架橋直下に第二名神の起工の記念碑が出来ていた。
滋賀県土山町の案内碑文によると、
「第二名神」滋賀県起工の地
平成七年十二月十八日に当地滋賀県土山町山中地先の土山橋下り線の下部工工事が第二名神の滋賀県での最初の工事として着工されました。
当地が第二名神の起工の地であることを記念し、また、古より東海道の宿場町として道と共に栄えてきた “あいの土山” の未来永劫の発展を願い、ここに記念碑を建立します。
すぐ先で国道1号線に戻るが、その右側に山中一里塚公園が新しく出来ていて、「いちゐのくわんおん道」の道標があった。(左写真) また同公園には「鈴鹿馬子唄発祥之碑」の石碑と、まるで秦の始皇帝の兵馬傭を思わせる馬と馬子の石像が設置されていた。(右下写真)
土山町教育委員会の案内板によると、
櫟野(いちの)観音道(大原道)道標(土山町山中)
山中地区の旧東海道沿い、現在は第二名神高速道路土山橋の橋脚が建てられているこの付近から南西に伸びる道がある。この山道は、古くから東海道と神村(甲賀町大字神)・櫟野村(甲賀町大字櫟野)方面をつなぐ生活の道として利用され、大原道とも呼ばれていた。
当時、道標は東海道との分岐に建てられていたが、幾度の道路整備により、現在はここ一里塚緑地に移転されている。この道標には「いちゐのくわんおん道」、側面には、櫟野(らくや)寺本尊の十一面観音の慈悲を詠んだ、虚白(きょはく)の「盡十方(つくすとも) 世にはえぬきや 大悲心」という句が刻まれており、櫟野の櫟野寺への参詣道でもあったことを伝えている。
自動車交通の発達にともなう道路の整備が進み、山づたいに広がっていた生活の道はほとんど使用されなくなったが、わずかに残る道標は、道を通じての人々の交流を物語っている。
この後しばらくは国道1号線の右側歩道を行く。旧東海道は国道を縫うように右へ、左へと付いていたようだが、その道をたどるのは今となっては無理なようで、我々も国道を行くしかない。退屈な国道歩きを慰めてくれるのはいっせいに萌え出ている草々であった。イタドリのちょっとすっぱい若い茎を皮をむいて食べたり、ワラビを摘みながら歩いたり。(ワラビは持ち帰って食べた) 猪鼻(いのはな)を過ぎる辺りに、国道の向かい側に大きな句碑が見えた。デジカメで撮って後日解読してみた。
いの花や 早稲のもまるヽ 山をろし
子葉の句だと言う。「子葉」といえば、赤穂浪士 大高源吾の俳号である。
午後2時28分、蟹坂(かにがさか)に差し掛かり、旧東海道は国道から再度右側に入る。すぐ右側に大小二つの祠が並ぶ神域があった。(左写真) 「白川神社御旅所」の標識も並んでいる。大きい方の祠を「田村社」、小さい方の祠を「蟹社」と呼ぶらしい。
この「蟹坂」には伝説が伝わっている。「東海道名所図会」には以下のように書かれている。
むかしこの坂の嶮阻をたのんで山賊が出でて、旅人に暴逆せしよりこの名をよぶ。姦(かん)賊の横行より蟹(かに)坂というか。また蟹ヶ塔は、かの山賊を亡ぼし、こヽに埋むならん。名物とて丸き飴を売る家多し。
鈴鹿山に山賊が出たのは一度だけではないとみえ、古典にも幾つか残っている。中でも坂上田村麻呂は、「太平記」に名剣鬼丸を手に鈴鹿御前と呼ばれた女賊と立ち会ったことが書かれており、謡曲「田村」は勅命で鈴鹿山の悪鬼を退治した話である。「田村社」はその坂上田村麻呂を祀り、「蟹社」は退治された山賊を祀っている。
この道路沿いに椎の木の巨木が2本並んでいた。(右写真) 「日本の巨樹・巨木林」によれば、南土山の一本がその木と思われた。ツブラジイで幹周囲4.30m、樹高13mの規模で、背後へ回ると中が空洞になっているのが見える。並んでもう一本、少し細い同じ樹種のものがあった。これを少し早いが、「土山宿の巨木」とする。
すぐ先に、草刈りかどぶさらいでもする人寄りがしていた。そばを通り抜けて、小山の前の草地に「蟹坂古戦場跡」の石標と案内板が立っていた。(左写真) 戦国時代、伊勢の北畠軍と先ほど通った山中城主の山中秀国軍が戦った戦場であった。
土山町教育委員会の案内板によると、
蟹坂古戦場跡
天文十一年(1542年)九月、伊勢の国司北畠具教は、甲賀に侵入しようとして、彼の武将神戸丹後守及び飯高三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。当時の山中城主は、山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防戦体制を整え、北畠軍を敗走させた。こうして北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍勢を盛り返し、さらに北伊勢の軍勢を加えて再度侵入し、一挙に山中城を攻略しようとした。
このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、軍勢五千を率いさせ、山中城に援軍を送った。一方、北畠軍も兵一万二千を率い、蟹坂周辺で秀国勢と合戦した。この戦いは、秀国勢が勝利を収め、北畠勢の甲賀への侵入を阻止することができた。
国道1号線の北側200mほど離れた道を進む。右手田圃の奥に工場に沿って植えられた桜が満開であった。桜の下ではバーべキューでお花見をしていた。(右写真)
旧東海道はかってはまっすぐ田村川に向かい、田村川に架かっていた板橋を渡って、田村神社の側面から神社域に入った。現在は板橋が無いため、国道へ戻って、国道1号線に架かった田村橋を渡る。前方に「道の駅 あいの土山」が見えてきた。やっと食事にありつける。道の駅の向かい側が田村神社の参道入口であった。空腹もきつかったが、ここまで歩いてかなり足にも来ていた。旧東海道は道の駅を抜けて田村神社とは反対の方角へ進む。あとで引返すのは辛いから、空腹に堪えて先に田村神社に参拝することにした。
午後2時52分、国道から200mほど参道を入った鳥居の前(左写真)で、東から来る田村川を突っ切った旧東海道と出合った。
案内板によると、
歌川広重は、多くの道中図や名所図を描いているが、天保4年(1833年)に刊行された「東海道五拾三次」(保永堂版)は、その中の代表作といえる。作品には、季節感や自然現象、旅人の姿や各地の名物などが随所に織り込まれ、叙情豊かな作風を生み出している。土山を描いた「春の雨」は、雨の中、橋を渡る大名行列の姿を描いたもので、田村川板橋を渡り、田村神社の杜のなかを宿場に向かっている風景であると言われている。
土山宿は東海道49番目の宿で、東の田村川板橋から西の松尾川(野洲川)まで、22町55間(約2.5km)に細長く連なっていた。東の起点である田村川板橋は、安永4年(1775年)に架けられたもので、このとき東海道の路線が変更され、田村神社の参道を通るようになったと言われている。
田村神社は、征夷大将軍として蝦夷を平定したことで有名な坂上田村麻呂を祀った神社である。坂上田村麻呂は「蟹ヶ坂」でも触れたように、蝦夷平定の他にも、鈴鹿山でも山賊退治に活躍している。祭神は坂上田村麻呂、嵯峨天皇、それに盗賊側の鈴鹿御前の三柱である。盗賊を同時に祀るのは如何にも日本的で面白い。
「東海道名所図会」に「ある人いわく」として次のような話が載っている。
天正の頃、当国安土山に織田信長在城の時、田村川のむかい、今の往還の北に古道ありて、双木の松など少々遺れり。これより田村の社前へむかい往還なるよし、今に里人安土街道という。かの鈴鹿山の鬼神田村丸退治のこと、年久しく世にいいならわしけるゆえ、この辺鈴鹿の近郷なれば、路傍に祠を建てしと見えたり。
田村神社鎮座の年歴は不明とされているが、この話は真実に近いと思った。はじまりは先ほどの「蟹坂」で見た二つの祠、「田村社」・「蟹社」ほどのものだったろう。
本殿に参った戻りに御神木になった杉の木を見た。(右写真) 枝打ちされて太い幹だけがまっすぐに上に伸びている。「日本の巨樹・巨木林」によれば、田村神社のスギの最大木は幹周囲4.80m、樹高34.5mの規模である。この御神木は多分その最大木であろう。二本目とはなるが、これも「土山宿の巨木」とする。
国道を渡り、道の駅の食堂で遅い昼食を摂った。食堂のストーブに火がついていて驚かされた。食堂のすぐ隣に抹茶ソフトクリームを売っていて、食後女房が買いに行った。通常の倍以上のクリームの載ったものを持ち帰り、「400円したが、クリームを自分で載せられるだけのせることが出来る」のだという。そして自分の分を求めに行った。見るとコーンに広いつばが付いていて載せやすくなっている。販売しているのはこの道の駅の駅長さんだという。400円を高いと思わせない関西的な面白い商売である。我々は鈴鹿を越えて関西圏に入っていたのである。ストーブに当りながら、多すぎるソフトクリームを食べた。
売店で名物「かにが坂飴」(左写真)を買った。「東海道名所図会」の「蟹坂」の項に「名物とて丸き飴を売る家多し」とあった、その飴である。水あめを大きなコイン大に固めたもので、ほのかな甘さの飴であった。外へ出ると寒く感じ、ジッパーで外していたジャンパーの袖を付けた。
道の駅から南ヘ少し下り、角を東に曲がる。児童公園の角に出来た小庭園に「東海道土山宿」の石碑があった。これより土山宿に入って行く。土山宿には要所要所に右写真のような「歴史の道 東海道」の金属製の道標が出来ていた。道標の絵は往時の旅人の姿を表わしていると思うのだが、妙にモダンで違和感がある。
午後3時50分、左側に新しい地蔵堂が建ち、新しい石の道標があった。(左写真) 「従是 左京都へ十五里 右江戸へ百十里」、「東海道近江国土山宿生里野」と刻まれていた。
地蔵堂の右隣に鬼貫の句碑があった。(右写真)
土山の町並みを愛する会の案内板によると、
上島鬼貫は、大阪の伊丹で生まれた俳人で、東の芭蕉、西の鬼貫とも言われ、独自の俳諧の境地を拓いた人である。この俳句は、上島鬼貫が、貞享三年(1686年)の秋に、東海道の旅の途中、土山に寄り、お六櫛を買い求め、鈴鹿の山へ向かう時に詠んだ句である。
吹けばふけ 櫛を買いたり 秋乃風 伊丹鬼貫
「お六櫛」は土山宿の名物で、櫛を売る店が軒を並べていたという。信州名産の「お六櫛」がなぜ土山にという疑問には、昔、信濃の櫛職人が伊勢参りの帰り、急病で世話になったお礼に、櫛の作り方を教えたという話が残っている。
この先で土山宿に入る。関宿と同じように町並がよく整備されている。(左写真) 土山宿は難所の鈴鹿峠を控えた宿場として、東海道の旅人だけではなくて、お伊勢参りの参拝客もあって大変にぎわった。
この土山のことを馬子唄では「あいの土山」とよぶ。この「あい」は「間の宿」の「間」と同じだと思っていた。「間の宿」は宿場間の距離がある場合、その間に正規の宿場ではない旅人の休憩のための宿を設けたものである。しかし土山宿は間の宿ではない。はじめは坂(坂下宿)と鈴鹿(峠)の間に土山宿があるのかと考えたりしたが、全く位置関係が違う。判らないことは広辞苑と、調べた結果、「あい」は山峡(やまあい)のことで、土山が鈴鹿山の西の山峡にあるのでそう呼ばれたのだという。一往納得。
土山宿はあまりにきれいに整備されて、古い地蔵堂も何となく居心地悪そうに見える。(右写真) 人家の庭先に「東海道一里塚跡」の石碑(右写真の左)と案内板があった。
案内板によると、
東海道一里塚跡
旅行者の便をはかって街道の一里毎にその目印として設置されたのが一里塚である。この制度が整ったのは慶長八年(1603年)家康が日本橋を架設し、翌九年この橋を起点として東海、東北、北陸の諸街道を修理し、その折三十六町毎に道の左右に相対して一里塚を築き、塚の上に榎を植えて遠くからでも望見できるよう旅行者の便をはかったことにはじまっている。
土山町内設置場所は山中地先、土山地先、大野市場地先であったが、現在その跡はほとんど残っていない。塚の規模は、およそ高さ2.5m、円周12mの大きさであったと伝えられている。土山地先の一里塚は土山町北土山大森慶司宅付近にあったと伝えられ、この付近の字名は一里山と名づけられている。
通りのあちこちに「第十二回 鈴鹿馬子唄全国大会」のポスターが貼られていた。(左写真) 6月15日にあいの土山文化ホールで行われるという。土山ならではのイベントである。
民家の前に立派な石柱が立ち、「土山宿 旅籠 車屋跡」などと表示されている。次々に旅籠表示の石柱が現れる。随分旅籠の多い宿場である。橋の欄干を白塀にして土山茶もみ歌と切絵を描きこんだ来見橋を渡る。
左側の立派な連子格子の家の前に、「森白仙終焉の地 井筒屋跡」の石柱が立ち、案内板があった。写真に撮ったが、緑の公衆電話と黒くは塗られているが邪魔な電柱が真ん中に写ってしまった。(右写真) この辺りが関宿との違いであろうか。
土山町教育委員会の案内板によると、
森白仙終焉の地(井筒屋跡)
文豪森鴎外の祖父白仙は、文久元年(1861年)十一月七日、この井筒屋で没した。鴎外が明治三十三年に記した「小倉日記」で明らかなように、森家は代々津和野藩亀井家の典医として仕えた家柄である。白仙は長崎と江戸で漢学・蘭医学を修めた篤学家であった。
参勤交代に従って江戸の藩邸より旅を続けるうち、この井筒屋で病のため息をひきとったのである。のちに白仙の妻清子、一女峰子の遺灰も、白仙の眠る常明寺に葬られた。
町筋から北側に少し入った先に「東海道伝馬館」という資料館が出来ていた。(右写真の下) 往時の問屋場の様子を復元し、また街道や宿の資料を展示している。展示の中でも京人形で再現された大名行列は圧巻であった。(右写真の上)
案内板によると、
参勤交代と大名行列
江戸時代、幕府は大名を統制するために定めた、寛永12年(1635)の「武家諸法度」の中で、大名を一定期間江戸に在府させる参勤交代を制度化しました。そのため、大名たちは自分の領地と江戸を行列を組んで往復しなければならず、一般には一年おきの交代でしたが、関東の大名は半年ごと、遠方の対馬の宗氏は3年・蝦夷の松浦氏は6年ごととし、幕府の要職に就いたものは、江戸に留まるよう定められていました。
この参勤交代などの時に、大名たちが調える行列のことを大名行列といいます。もとは、戦時用の行軍形式をとっていましたが、やがて形式化し、華美なものになっていきました。行列の規模や調度品などは石高や格式によって差がありましたが、大名にとって、江戸での生活や国元との往復には多大な費用がかさみ、藩の財政には大きな負担となりました。
しかし、参勤交代制度の確立によって、交通網や宿が整備され、経済活動の発達や各地との文化交流を生み出しました。東海道は、参勤交代の大名たちが通る主要街道として発達し、宿では行き交う旅人たちでにぎわっていました。土山宿でも、土山本陣の宿帳に多くの大名の宿泊記録が残されています。なかでも熊本藩細川家との関係は深く、細川家ゆかりの調度品が伝わっています。
「東海道伝馬館」の入口の左側に、往時の問屋場が再現されていた。原寸大の宿役人の人形が窓口で帳付けをしており、いつもは中庭に出すのであろう、馬と馬子の原寸大の人形は今日は小屋の中に入っていた。(右写真)
午後4時42分、街道に戻った所に間口の広い連子格子の家がある。(左写真) ここは宿場の管理運営を取りしきった宿役人の責任者(「問屋」という)の家である。
土山町教育委員会の案内板によると、
土山宿問屋場跡
問屋場とは、即ち問屋馬の管理を行う機関で、問屋場には、人馬継立の主宰である問屋とその補佐役である年寄、下役の肝煎・馬指帳付などの宿役人が定められ、これらの宿役人によって助郷人馬の触出しや人馬の継立が行われていた。
問屋は宿中の豪商で人馬継立の実務実権をもっていた。明治五年(1872年)1月、土山宿廃止の際、その屋舎は壊されている。
土山宿問屋宅跡
近世の宿場で、人馬の継立や公用旅行者の休泊施設の差配などの宿駅業務を行うのが宿役人である。問屋はその管理運営を取りしきった宿役人の責任者のことで、宿に1名から数名程度おり庄屋などを兼務するものもあった。宿役人には、問屋のほかに年寄・帳付・馬指・人足指などがあり問屋場で業務を行っていた。
土山宿は、東海道をはさんで北土山村、南土山村の二村が並立する二つの行政組織が存在した。土山宿の問屋は、この両村をまとめて宿駅業務を運営していく重要な役割を果たした。
問屋宅跡の隣に「土山宿本陣跡」の石柱の建つ格子造りの立派な家があった。(右写真) 今も民家として人が住んでいるので見学は出来ないが、上段の間も残っており、往時の宿帳などの史料も多く残っているという。
土山町教育委員会の案内板によると、
土山宿本陣跡
土山宿は、東海道の起点である江戸日本橋より、百六里三十二町、終点京都三条大橋まで十五里十七町余の位置にある。
土山宿本陣は、寛永十一年(1634)、三代将軍徳川家光が上洛の際設けられた。土山氏文書の「本陣職之事」によってわかるように、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山喜左衛門を初代として之を勤めた。
本陣は当時の大名、旗本、公家、勅使等が宿泊したもので、屋内には現在でも当時使用されていたものが数多く保存されており、宿帳から多くの諸大名が宿泊したことを知ることができる。
明治時代になると、皇室の東京・京都間の往来も頻繁となり、土山宿にご宿泊されることもしばしばであった。なかでも明治元年九月、天皇行幸の際には、この本陣で誕生日を迎えられて、第一回天長節が行われ、土山の住民に対し、神酒・鯣が下賜され、今なお土山の誇りとして語りつがれている。
本陣は、明治維新で大名の保護を失い、明治三年(1870)宿駅制度の廃止に伴いなくなった。
土山宿本陣の西隣に石碑が二面あった。一面は天皇行幸と天皇の誕生日がたまたま一致したことで繰り広げられた、天皇と土山の住民の交流の話を聞き、大正時代に井上圓了が詠んだ漢詩である。明治天皇聖蹟の碑と並んで建っている。(左写真の右)
土山の町並みを愛する会の案内板によると、
漢詩の読み
鈴鹿山の西に、古よりの駅亭あり。
秋風の一夜、鳳輿(ほうよ)停る。
維新の正に是、天長節なり。
恩賜の酒肴を今賀(いわい)に当てる。
土山駅先帝行在所即吟 井上圓了道人
解 説
この漢詩は、大正三年、佛教哲学者で有名なる井上圓了博士がたまたま、土山本陣跡に来られた時、第十代の本陣職であった土山盛美氏が、この本陣について説明された中に、この本陣に明治天皇が明治元年九月二十二日の夜に一泊なされ、その日が偶然にも天皇即位最初の誕生日に当たり、次の日この本陣で祝賀式が挙行され、祝として土山の住民全戸へ酒・肴を御下賜あった事を述べると、井上博士は非常に感激して、即座にこの漢詩を書置かれたものである。
もう一面の漢詩は江戸前期の朱子学者で徳川幕府に仕えた林羅山である。(左上写真の左) 作者こそ、大変有名人ではあるが、内容はそれほどのものではないと思った。
案内板によると、
林羅山の漢詩の解読と解説
( 解 読 )
行李(あんり) 東西 久しく旅居す
風光 日夜 郷閭(きょうりょ)を憶ふ
梅花に馬を繋ぐ 土山の上
知んぬ是崔嵬(さいかい)か 知んぬ是岨(しょ)か
( 意 味 )
東から西、西から東へと長く旅していると、途中のいろんな景色を目にする度に、故郷のことを想い起こす。
さて、今、梅花に馬を繋ぎとめているのは土山というところである。
いったい、土山は、土の山に石がごろごろしているのだろうか、石の山に土がかぶさっているのだろうか。
( 解 説 )
作者、林羅山は、徳川幕府に仕えた江戸前期の儒学者。号を道春という。
家康没後の元和二年(1616)、羅山三十四歳のとき、江戸を出発し、東海道を経て故郷の京都へ向かう。
この詩は、途中の土山で詠んだもので、この間の紀行記『丙辰紀行』に掲載されており、その前文に「『釋詁毛傳』などに石山を土の山とよみ、土山を石の山とよむことを思いて」この詩を詠んだとある。
すぐに一の松通りと交わる四つ角がある。その北西角は「大黒屋公園」で、ここは大黒屋本陣の跡である。(右写真)
土山町教育委員会の案内板によると、
大黒屋本陣
土山宿の本陣は、土山氏文書の「本陣職之事」によって、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山氏と土山宿の豪商大黒屋立岡氏の両氏が勤めていたことがわかる。
土山本陣は寛永十一年(1634年)、三代将軍家光が上洛の際設けたのがそのはじまりであるが、参勤交代制の施行以来諸大名の休泊者が増加し、土山本陣のみでは収容しきれなくなり、土山宿の豪商大黒屋立岡氏に控本陣が指定された。
大黒屋本陣の設立年代のついては、はっきりと判らないが、江戸中期以降、旅籠屋として繁盛した大黒屋が土山本陣の補佐宿となっている。古地図によると、当本陣に規模は、土山本陣のように、門玄関・大広間・上段間をはじめ多数の間を具備し、宿場に壮観を与えるほどの広大な建築であったことが想像される。
「大黒屋公園」には本陣跡の石標以外に、「明治天皇聖跡」の石碑(左写真)があり、「高札場跡」の石標などがあった。
土山町教育委員会の案内板によると、
高札場跡
高札は、室町時代より近世になってもっとも普及した制令掲示であり、一般民衆ことに百姓・町人らに発した掟書・禁令・法書などを板札あるいは紙に記して掲げるもので、その場所は高札場といわれ、一般に崇敬すべき除地として区画されていた。
土山宿の高札場は、問屋場や本陣などが設けられた御役町の東西二ヶ所にあって、この内の一ヶ所が北土山の吉川にあったと言われている。東の高札場は、田村川橋の西街道の南側にあったと記録されている。
高札は桁行5メートル・横巾1.8メートル、高さ3メートルの構築物であり、高札場は五街道の宿場とか、村の庄屋宅前など民衆の注目をひきやすいところに制札を立て、法令の周知を期したが、明治七年(1874年)廃止された。
「大黒屋公園」の写真を撮っていると、車で通りかかったおじさんが車を停めて降りて来て、声をかけてきた。東海道を歩いているというと、「それならぜひ常明寺を見て来るといい」と道順を教えてくれる。森鴎外の祖父森白仙の墓があるという。自分も土山宿について本を書いて、今もその本を車に積んでいるという。ちょうど帰りのバスを検討していたので、バス便を聞くと貴生川駅に行くバスが役場前から出ると教えてくれた。駅まで乗せていこうかとも言ってくれた。見ず知らずの人にそこまでは頼めないと、御礼を言って別れた。
午後5時、本日の最後として常明寺を訪ねた。森白仙の墓はよく判らず、案内文だけ読んで戻ってきた。
土山町教育委員会の案内板によると、
常明寺
臨済宗東福寺派の寺院。和銅年間の建立と伝えられ、貞和五(1349)年鈍翁了愚が九条経教の命を受け中興した。一時兵火により焼失したが、延宝年間(1673〜1681)に再建された。当寺の住持であった松堂慧喬(号虚白)(1773〜1847)は俳人としても活躍し、地域の俳壇で指導的立場にあった。境内には芭蕉の句碑
「さみだれに 鳰(にお)のうき巣を 見にゆかむ」
がある。
(「鳰」はカイツブリの古名)
寺蔵の大般若波羅蜜多経は奈良時代のもので、長屋王願経として国宝に指定されている。また、墓地にはこの地で没した森鴎外の祖父森白仙の供養碑が建てられている。
元に戻って大黒屋公園の角を左折、一の松通りを北へ向う。やがて国道1号線の交差点の北西角に「平成万人灯」と名付けられた灯篭が作られていた。(右写真) 天然石の灯篭では日本一のものという。鈴鹿峠にあった万人灯の平成版である。役場前のバス停はその交差点を右に曲がってすぐのところであった。
この後、水口の貴生川駅まで30分余りかかった。バスの中で先ほどのおじさんから本を買えばよかったと女房に話す。多分、おじさんもそんな期待があったのではなかったか。買ってあげれば駅まで車で送ってくれたかも‥‥‥‥。午後5時47分、貴生川駅に着いた。
今回の歩数は 38,701歩であった。
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