第 31 回 〔後半〕
  平成15年4月13日(日) 
 くもりのち晴れ
 −万人講常夜燈−山中−蟹坂−田村神社−土山宿
 “坂上田村麻呂は鈴鹿の英雄でもあった”



 午後1時、三重県側の鈴鹿峠を過ぎ、杉林を抜けて、茶畑が広がり明るくなった。ここが伊勢と近江の国境で、新しい石の道標が立っていた。(左写真) 石標の四面にそれぞれ、「界 右 滋賀県 近江の国  左 三重県 伊勢の国」、「是より京まで 十七里」、「是より江戸まで 百九里」、「平成十二年 土山町教育委員会」と刻まれていた。

 そこはもう車も登って来れる、春の日差しがいっぱいの茶畑の中の道であった。すぐ先に大きな石灯篭が見えてきた。「万人講常夜燈」という、高さ5.44mの巨大な自然石の常夜灯である。(右写真)
 舗装道路を下って右下に鈴鹿トンネルを抜けてきた国道1号線が見えてきた。国道端に出ると東京より432kmのポストがあった。これからしばらくは国道1号線の左側の歩道を行く。空腹が腹に沁みる。

 左側の田圃の中に道祖神(左写真の左)や山神(左写真の中)などがあり、続いて山中城址の案内石柱があった。(左写真の右) 山中城址といえば三島市山中新田の山中城址はもっとも有名であるが、岡崎にも山中城址がある。ここの山中城址についてはこの後の「蟹坂古戦場跡」の案内板に紹介されていた。

 午後1時44分、山中の集落の手前、国道端に小公園があり、「東海道鈴鹿 山中」の石碑と石燈篭、そして鈴鹿馬子唄の1番を刻んだ石碑があった。石碑の向うに鈴鹿の山並みを入れてみた。(右写真)

 坂は照るてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る

 山中川を渡った先で、旧東海道は国道から別れ右へ入る。集落の上に第二名神の高架橋が見えてきた。(左写真) かなり高い所を通っている。工事の存続に物議をかもしている高速道路ではあるが、このあたりはもう出来上がっている。

 高架橋直下に第二名神の起工の記念碑が出来ていた。
 すぐ先で国道1号線に戻るが、その右側に山中一里塚公園が新しく出来ていて、「いちゐのくわんおん道」の道標があった。(左写真) また同公園には「鈴鹿馬子唄発祥之碑」の石碑と、まるで秦の始皇帝の兵馬傭を思わせる馬と馬子の石像が設置されていた。(右下写真)
 この後しばらくは国道1号線の右側歩道を行く。旧東海道は国道を縫うように右へ、左へと付いていたようだが、その道をたどるのは今となっては無理なようで、我々も国道を行くしかない。退屈な国道歩きを慰めてくれるのはいっせいに萌え出ている草々であった。イタドリのちょっとすっぱい若い茎を皮をむいて食べたり、ワラビを摘みながら歩いたり。(ワラビは持ち帰って食べた) 猪鼻(いのはな)を過ぎる辺りに、国道の向かい側に大きな句碑が見えた。デジカメで撮って後日解読してみた。

いの花や 早稲のもまるヽ 山をろし

 子葉の句だと言う。「子葉」といえば、赤穂浪士 大高源吾の俳号である。

 午後2時28分、蟹坂(かにがさか)に差し掛かり、旧東海道は国道から再度右側に入る。すぐ右側に大小二つの祠が並ぶ神域があった。(左写真) 「白川神社御旅所」の標識も並んでいる。大きい方の祠を「田村社」、小さい方の祠を「蟹社」と呼ぶらしい。

 この「蟹坂」には伝説が伝わっている。「東海道名所図会」には以下のように書かれている。

 むかしこの坂の嶮阻をたのんで山賊が出でて、旅人に暴逆せしよりこの名をよぶ。姦(かん)賊の横行より蟹(かに)坂というか。また蟹ヶ塔は、かの山賊を亡ぼし、こヽに埋むならん。名物とて丸き飴を売る家多し。

 鈴鹿山に山賊が出たのは一度だけではないとみえ、古典にも幾つか残っている。中でも坂上田村麻呂は、「太平記」に名剣鬼丸を手に鈴鹿御前と呼ばれた女賊と立ち会ったことが書かれており、謡曲「田村」は勅命で鈴鹿山の悪鬼を退治した話である。「田村社」はその坂上田村麻呂を祀り、「蟹社」は退治された山賊を祀っている。

 この道路沿いに椎の木の巨木が2本並んでいた。(右写真) 「日本の巨樹・巨木林」によれば、南土山の一本がその木と思われた。ツブラジイで幹周囲4.30m、樹高13mの規模で、背後へ回ると中が空洞になっているのが見える。並んでもう一本、少し細い同じ樹種のものがあった。これを少し早いが、「土山宿の巨木」とする。

 すぐ先に、草刈りかどぶさらいでもする人寄りがしていた。そばを通り抜けて、小山の前の草地に「蟹坂古戦場跡」の石標と案内板が立っていた。(左写真) 戦国時代、伊勢の北畠軍と先ほど通った山中城主の山中秀国軍が戦った戦場であった。
 
 国道1号線の北側200mほど離れた道を進む。右手田圃の奥に工場に沿って植えられた桜が満開であった。桜の下ではバーべキューでお花見をしていた。(右写真)

 旧東海道はかってはまっすぐ田村川に向かい、田村川に架かっていた板橋を渡って、田村神社の側面から神社域に入った。現在は板橋が無いため、国道へ戻って、国道1号線に架かった田村橋を渡る。前方に「道の駅 あいの土山」が見えてきた。やっと食事にありつける。道の駅の向かい側が田村神社の参道入口であった。空腹もきつかったが、ここまで歩いてかなり足にも来ていた。旧東海道は道の駅を抜けて田村神社とは反対の方角へ進む。あとで引返すのは辛いから、空腹に堪えて先に田村神社に参拝することにした。

 午後2時52分、国道から200mほど参道を入った鳥居の前(左写真)で、東から来る田村川を突っ切った旧東海道と出合った。
 田村神社は、征夷大将軍として蝦夷を平定したことで有名な坂上田村麻呂を祀った神社である。坂上田村麻呂は「蟹ヶ坂」でも触れたように、蝦夷平定の他にも、鈴鹿山でも山賊退治に活躍している。祭神は坂上田村麻呂、嵯峨天皇、それに盗賊側の鈴鹿御前の三柱である。盗賊を同時に祀るのは如何にも日本的で面白い。

 「東海道名所図会」に「ある人いわく」として次のような話が載っている。

 天正の頃、当国安土山に織田信長在城の時、田村川のむかい、今の往還の北に古道ありて、双木の松など少々遺れり。これより田村の社前へむかい往還なるよし、今に里人安土街道という。かの鈴鹿山の鬼神田村丸退治のこと、年久しく世にいいならわしけるゆえ、この辺鈴鹿の近郷なれば、路傍に祠を建てしと見えたり。

 田村神社鎮座の年歴は不明とされているが、この話は真実に近いと思った。はじまりは先ほどの「蟹坂」で見た二つの祠、「田村社」・「蟹社」ほどのものだったろう。

 本殿に参った戻りに御神木になった杉の木を見た。(右写真) 枝打ちされて太い幹だけがまっすぐに上に伸びている。「日本の巨樹・巨木林」によれば、田村神社のスギの最大木は幹周囲4.80m、樹高34.5mの規模である。この御神木は多分その最大木であろう。二本目とはなるが、これも「土山宿の巨木」とする。

 国道を渡り、道の駅の食堂で遅い昼食を摂った。食堂のストーブに火がついていて驚かされた。食堂のすぐ隣に抹茶ソフトクリームを売っていて、食後女房が買いに行った。通常の倍以上のクリームの載ったものを持ち帰り、「400円したが、クリームを自分で載せられるだけのせることが出来る」のだという。そして自分の分を求めに行った。見るとコーンに広いつばが付いていて載せやすくなっている。販売しているのはこの道の駅の駅長さんだという。400円を高いと思わせない関西的な面白い商売である。我々は鈴鹿を越えて関西圏に入っていたのである。ストーブに当りながら、多すぎるソフトクリームを食べた。

 売店で名物「かにが坂飴」(左写真)を買った。「東海道名所図会」の「蟹坂」の項に「名物とて丸き飴を売る家多し」とあった、その飴である。水あめを大きなコイン大に固めたもので、ほのかな甘さの飴であった。外へ出ると寒く感じ、ジッパーで外していたジャンパーの袖を付けた。

 道の駅から南ヘ少し下り、角を東に曲がる。児童公園の角に出来た小庭園に「東海道土山宿」の石碑があった。これより土山宿に入って行く。土山宿には要所要所に右写真のような「歴史の道  東海道」の金属製の道標が出来ていた。道標の絵は往時の旅人の姿を表わしていると思うのだが、妙にモダンで違和感がある。

 午後3時50分、左側に新しい地蔵堂が建ち、新しい石の道標があった。(左写真) 「従是 左京都へ十五里 右江戸へ百十里」、「東海道近江国土山宿生里野」と刻まれていた。

 地蔵堂の右隣に鬼貫の句碑があった。(右写真)
吹けばふけ 櫛を買いたり 秋乃風    伊丹鬼貫

 「お六櫛」は土山宿の名物で、櫛を売る店が軒を並べていたという。信州名産の「お六櫛」がなぜ土山にという疑問には、昔、信濃の櫛職人が伊勢参りの帰り、急病で世話になったお礼に、櫛の作り方を教えたという話が残っている。

 この先で土山宿に入る。関宿と同じように町並がよく整備されている。(左写真) 土山宿は難所の鈴鹿峠を控えた宿場として、東海道の旅人だけではなくて、お伊勢参りの参拝客もあって大変にぎわった。

 この土山のことを馬子唄では「あいの土山」とよぶ。この「あい」は「間の宿」の「間」と同じだと思っていた。「間の宿」は宿場間の距離がある場合、その間に正規の宿場ではない旅人の休憩のための宿を設けたものである。しかし土山宿は間の宿ではない。はじめは坂(坂下宿)と鈴鹿(峠)の間に土山宿があるのかと考えたりしたが、全く位置関係が違う。判らないことは広辞苑と、調べた結果、「あい」は山峡(やまあい)のことで、土山が鈴鹿山の西の山峡にあるのでそう呼ばれたのだという。一往納得。

 土山宿はあまりにきれいに整備されて、古い地蔵堂も何となく居心地悪そうに見える。(右写真) 人家の庭先に「東海道一里塚跡」の石碑(右写真の左)と案内板があった。
 通りのあちこちに「第十二回 鈴鹿馬子唄全国大会」のポスターが貼られていた。(左写真) 6月15日にあいの土山文化ホールで行われるという。土山ならではのイベントである。

 民家の前に立派な石柱が立ち、「土山宿 旅籠 車屋跡」などと表示されている。次々に旅籠表示の石柱が現れる。随分旅籠の多い宿場である。橋の欄干を白塀にして土山茶もみ歌と切絵を描きこんだ来見橋を渡る。

 左側の立派な連子格子の家の前に、「森白仙終焉の地 井筒屋跡」の石柱が立ち、案内板があった。写真に撮ったが、緑の公衆電話と黒くは塗られているが邪魔な電柱が真ん中に写ってしまった。(右写真) この辺りが関宿との違いであろうか。
 
 町筋から北側に少し入った先に「東海道伝馬館」という資料館が出来ていた。(右写真の下) 往時の問屋場の様子を復元し、また街道や宿の資料を展示している。展示の中でも京人形で再現された大名行列は圧巻であった。(右写真の上)
 「東海道伝馬館」の入口の左側に、往時の問屋場が再現されていた。原寸大の宿役人の人形が窓口で帳付けをしており、いつもは中庭に出すのであろう、馬と馬子の原寸大の人形は今日は小屋の中に入っていた。(右写真)

 午後4時42分、街道に戻った所に間口の広い連子格子の家がある。(左写真) ここは宿場の管理運営を取りしきった宿役人の責任者(「問屋」という)の家である。
 問屋宅跡の隣に「土山宿本陣跡」の石柱の建つ格子造りの立派な家があった。(右写真) 今も民家として人が住んでいるので見学は出来ないが、上段の間も残っており、往時の宿帳などの史料も多く残っているという。
 土山宿本陣の西隣に石碑が二面あった。一面は天皇行幸と天皇の誕生日がたまたま一致したことで繰り広げられた、天皇と土山の住民の交流の話を聞き、大正時代に井上圓了が詠んだ漢詩である。明治天皇聖蹟の碑と並んで建っている。(左写真の右)
 もう一面の漢詩は江戸前期の朱子学者で徳川幕府に仕えた林羅山である。(左上写真の左) 作者こそ、大変有名人ではあるが、内容はそれほどのものではないと思った。
 すぐに一の松通りと交わる四つ角がある。その北西角は「大黒屋公園」で、ここは大黒屋本陣の跡である。(右写真)
 「大黒屋公園」には本陣跡の石標以外に、「明治天皇聖跡」の石碑(左写真)があり、「高札場跡」の石標などがあった。
 「大黒屋公園」の写真を撮っていると、車で通りかかったおじさんが車を停めて降りて来て、声をかけてきた。東海道を歩いているというと、「それならぜひ常明寺を見て来るといい」と道順を教えてくれる。森鴎外の祖父森白仙の墓があるという。自分も土山宿について本を書いて、今もその本を車に積んでいるという。ちょうど帰りのバスを検討していたので、バス便を聞くと貴生川駅に行くバスが役場前から出ると教えてくれた。駅まで乗せていこうかとも言ってくれた。見ず知らずの人にそこまでは頼めないと、御礼を言って別れた。

 午後5時、本日の最後として常明寺を訪ねた。森白仙の墓はよく判らず、案内文だけ読んで戻ってきた。
 元に戻って大黒屋公園の角を左折、一の松通りを北へ向う。やがて国道1号線の交差点の北西角に「平成万人灯」と名付けられた灯篭が作られていた。(右写真) 天然石の灯篭では日本一のものという。鈴鹿峠にあった万人灯の平成版である。役場前のバス停はその交差点を右に曲がってすぐのところであった。

 この後、水口の貴生川駅まで30分余りかかった。バスの中で先ほどのおじさんから本を買えばよかったと女房に話す。多分、おじさんもそんな期待があったのではなかったか。買ってあげれば駅まで車で送ってくれたかも‥‥‥‥。午後5時47分、貴生川駅に着いた。

 今回の歩数は 38,701歩であった。










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