



午前9時4分、JR草津線三雲駅から歩き始める。昨日の最後の横田橋が、昔の橋の位置より下流に移って架け替えられていた。こだわりからすれば、現在の橋を渡ってから旧橋跡の対岸まで戻るべきところであったが、そのまま三雲駅で終ってしまった。そこで今朝少し戻ってみる。案内書によると山側に「天保義民の碑」があった。
「天保義民の碑」の周りには樫の木であろうか、白い花が満開であった。(右写真) この碑のある一帯は「県民花の森 天保義民の丘」として整備されていて、登り口には小さい石のモニュメントもあった。
旧東海道に戻った丁字路に常夜燈があった。(左写真) 石造の台型角柱の竿の上に、木造の火袋と屋根がのった変り種の常夜燈であった。「東講中」の文字も見える。
JR三雲駅まで戻った角には「微妙大師萬里小路藤房郷墓所 妙感寺」の石碑が立っていた。(右写真の左) 妙感寺は南北朝時代、後醍醐天皇の家臣であった藤原藤房が出家して開山したと伝えられる、紅葉と磨崖地蔵菩薩で知られる古刹である。これより南西約3kmの三雲山麓にあるという。
一番左側のものは「立志神社」、中は先ほどもあった「雲照山 妙感寺 万里小路藤房古跡」の石標、右側の石標は「田川ふどう道」と読める。
すぐにJR草津線の踏切を渡ると、右側に木製の東海道の標識があった。(右写真) 標識の真ん中の柱には「旧東海道」、右手を指す板に「水口宿場」、左手を指す板に「石部宿場」、手前を指す板は外れて下へ置かれていたが、「信楽 妙感寺」と書かれていた。
午前9時48分、前方に石組みしたトンネルが見えてきた。(左写真) 野洲川の支流の大沙川を潜る「大沙川隧道」である。琵琶湖の近くには天井川が多く見られると、昔教科書で学んだが、大沙川はその天井川である。
隧道を抜けた左側に大沙川に上る道が付いていて、入口に「弘法大師錫杖跡 お手植えの杉」の石碑(左下写真の右)と「弘法杉」の案内板があった。
登った大沙川の土手に杉の巨木が一本と、杉にくっ付いたアルミサッシの目立つお堂があった。弘法杉は下枝が奔放にのたくり、杉の原始の相貌を示していた。(右写真) 少し早いが弘法杉を「石部宿の巨木」としよう。
午前10時22分、甲西町夏見の町並みの先に、二つ目のトンネルが見えてきた。(左写真) 大沙川のトンネルとほぼ同じようなトンネルである。これも野洲川の支流の由良谷川(天井川)を潜る「由良谷川隧道」である。
甲西町針に入ると道路左側に大きな造り酒屋があった。(右写真) 創業二百年といわれる北島酒造である。地酒「柳川」で有名であったというが、今は「地酒 御代栄」というらしい。暖簾や酒樽にはそう書かれていた。
やがて街道は家棟川を渡る。何気なく渡ってしまったが、ここもかっては天井川で、その当時の県令中井弘の「家棟川」の題額が橋の袂に案内板も無しに置かれていた。昭和54年(1979)に河川改修にともない、天井川とともに明治19年築造のトンネルは撤去された。現在、橋の下、数メートルも掘下げられて、かってこの川が天井川であったとは全く想像できない。
時間を思いのほか費やして、午前11時40分、旧東海道に戻り、宿場の面影を残す町を行くと、角に東海道の小公園があった。(右写真) 「道の辺広場」と呼ぶ。石部町の案内碑があった。
すぐ先の民家の横に「明治天皇聖跡」の石碑があった。(右写真の右) 石碑の字体が土山宿のものとそっくりであった。同時に造られたものかもしれない。そばには「東海道石部宿 石部本陣跡」と刻まれた石柱もあった。(右写真の左)
宿の右側に「石部のぬし屋」と看板の出たお店があった。(左写真) 「佛壇、佛具、神輿」とも書かれていた。「ぬし屋」は「塗師屋」で、広辞苑によれば「漆器を製造し、または売る家。また、それを業とする人」である。そういう店が残るのも旧街道ゆえであろう。
その先、左手に少し入った所に「真明寺」がある。(右写真の左) 真明寺境内に芭蕉句碑があった。(右写真の右円内) 褐色の石に刻まれた文字は判読できなかったが、次の句が刻まれている。
旧東海道はここでクランク型に折れて進む。その最初の右折角の突き当りに、「田楽茶屋」と名付けられた新しい休憩所が出来ていた。(左写真)
石部宿の出口にも小公園が出来ていて休憩舎や灯篭があった。(右写真)
午後0時53分、灰山の反対側には、JR草津線と野洲川の向こうに近江富士と呼ばれる三上山が端正な姿を見せていた。(左写真) 三上山には俵藤太の百足退治の伝説が残っている。
名神高速道路を潜り抜けると栗東市に入る。伊勢落、林と過ぎ、六地蔵の集落に入るとすぐ右に、かって土地の名前の由来になった六体の地蔵が祭られた法界寺があった。現在は無住のお堂に国の重要文化財にもなっている地蔵菩薩立像一体が安置されている。山門前に「国寳 地蔵尊」の大きな石碑があった。(右写真)
和中散は、胃痛や歯痛などにもよく効く薬で、旅人の道中薬として重宝された。慶長16年(1611)、徳川家康が野洲郡永原陣屋で腹痛を起こした時、典医が和中散を勧めて、たちまち快癒したという話も伝わっている。
向いには「東海道名所図会」にもある薬師堂が現在も残っており(右写真の左)、またその隣に大角家住宅隠居所がある。(右写真の右)
六地蔵を抜けてやがて栗東町手原に入る。午後1時56分、町中に真っ赤な玉垣が目立つ稲荷神社があった。玉垣の前には「明治天皇手原御小休所」の石碑があった。(左写真)
0.5kmほど進むと天井川の葉山川に突き当たる。この川は坂を登って橋を渡って進んだ。橋の上は見晴らしがよくて、振り返れば近江富士が良く見えた。(左写真) 深く浚渫されていたが、葉山川には水が流れていなかった。葉山川を越えると川辺(かわづら)である。
間もなく旧東海道はこれも天井川、金勝川の小高い土手に突き当たる。(右写真の右) 土手下に石標が立っていた。(右写真の左) 一面に「東海道 やせうま坂」、もう一面に「中仙道 でみせ」とあった。「やせうま坂」や「でみせ」がどこを指しているのか、分らない。
午後2時47分、目川の通りの右側に一里塚の石標を見つけた。(右写真)
やがて旧東海道は草津の宿に向けて右に曲がる。その角に栓抜きを立てたような、東海道の石標があった。(左写真) 穴の部分におそらく灯りを入れる石燈篭も兼ねているのだろう。そんなに古いものではないが意匠が面白い。
道は旧草津川の廃川の高い土手の北側を進む。途中に「老牛馬養生所趾」の案内板があった。(右写真) 昔はこれほどまでに心優しい人たちがいた。動物愛護の先駆けである。
旧草津川の土手下に「草津の名木 イロハモミジ」の古木があった。しかし残念ながら枯れ幹が残るだけであった。(左写真)
やがて国道1号線を渡る。大路三丁目の交差点である。国道1号線も旧草津川を往復二本のトンネルで抜ける。旧東海道はその交差点の先で旧草津川の土手を登り、橋を渡る。当然橋の下は水は流れていない。(右写真)
橋を渡って向こう側へ下る右側にお堂があり、左側に道標を兼ねた大燈篭があった。(左写真の右) お堂は高野地蔵尊、大燈篭は「横町道標」と呼ばれているようだ。(左写真の左)
いよいよ草津宿に入る。午後3時30分、ガマンしていた雨がぱらりと来た。今日は草津までと決めていたが、本陣は見学しておきたいと思った。時間も気になったので先に草津宿本陣をめざす。草津川隧道の前、草津公民館を左折して100mほど進んだ右側に草津宿本陣があった。(右写真) 東海道で本陣の遺構が往時のまま残る唯一のものである。
草津宿本陣に入場料200円払って入る。上段の間(左写真)、風呂用の桶が一つ板の間に置かれた風呂場、材木商の主人の住居エリアなどに興味を引かれた。庭には「明治天皇草津行在所」の石碑が立っていた。
「堯孝法師の歌碑」は公民館の横にあった。(右写真)
歌碑の隣の日本最初の郵便ポスト「書状集箱」は関宿にもあったと記憶している。(左写真)
トンネルの右側の石垣の上に「草津追分道標」がある。(右写真) 形は先ほど見た「横町道標」とそっくりである。道標の隣に石碑があった。
トンネルの左側には高札場が再現されていた。(左写真) 洪水の多い川だけあって、堤防の決壊の恐れのあるときは避難させる取り決めがあったことは大変興味深い。



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