第 33 回
平成15年5月25日(日)
うす曇り
三雲−大沙川−由良谷川−石部宿−六地蔵−草津宿
“昔教科書で学んだ天井川をこの目でみる”
昨日の朝、草津線のホームで貴生川行の電車を待つ間に、ホームから見えるビジネスホテルに今夜の宿泊を予約した。はじめ最も近くのホテルボストンプラザ草津に電話したところ、料金が予算オーバーになるので、その後ろに見えるクサツエストピアホテルに電話した。何とか許容できる範囲にあり予約した。何よりも駅から見えていて歩いて3分の近さが気に入った。
昨夕、三雲駅から草津に戻り、予約したクサツエストピアホテルに入った。ビジネスホテルに泊まった経験の少ない女房は結構気に入った様子であった。ホテルは新しくて、ツインの部屋はこの値段にしては広いし、バイキング形式の朝食も好きなだけ食べられて良いと感想を話した。女房はこの年齢にして、いまだに食べ放題というのに弱い。
翌朝はうす曇りであったが、雨はなさそうに思えた。今日はJR草津線三雲駅から草津まで歩くのが目標である。
午前9時4分、JR草津線三雲駅から歩き始める。昨日の最後の横田橋が、昔の橋の位置より下流に移って架け替えられていた。こだわりからすれば、現在の橋を渡ってから旧橋跡の対岸まで戻るべきところであったが、そのまま三雲駅で終ってしまった。そこで今朝少し戻ってみる。案内書によると山側に「天保義民の碑」があった。
駅から東ヘ200mほど戻って踏切を渡り、アスファルト道を登った丘の上に、緑に囲まれて大きな人造石の石碑が立っていた。(左写真) 「人造石」とは広辞苑によると
「セメントに砂や花崗岩・石灰岩の砕石などを加えて種々に成型し、天然石の外観を持たせたもの」
で「模造石」ともいわれる。
案内板によると、
天保十三年(1842)10月14日、幕府の命によって検地を始めた勘定役市野茂三郎以下40余名の苛酷な測量に対して農民の怒りは大きかった。
三上村の庄屋土川平兵衛や甲賀郡内の各村の庄屋たちも相談し合って農民らと力をあわせてその検地を停止させた。「十万日の延べ」の証書を得た一揆の農民は大聲をあげて喜んだ。その後、事件の中心人物としての80余名の取り調べはきびしかった。
ことに土川、田島、黄瀬らの庄屋に加えられた拷問は惨酷そのものであった。しかし、調べられた者たちは一人として白状しなかった。獄舎中で次々と死んだ者もあったが主謀者としての十一名が江戸送りとなった。針の文五郎、油日の惣太郎、上野の九兵衛、氏川原の庄五郎、深川の安右衛門、岩根の弥八、松尾の喜兵衛、杣中の平治、宇田の宗兵衛、市原の治兵衛、三上の平兵衛らの十一人は檻に入れられて江戸へ送られた。街道には農民の多くが涙を流しながら見送り、別れを惜んだ。うち江戸へ着いたのは八名であった。
遺体はもちろん満足な場所へ埋めなかった。死ぬまで市野不法を訴え、庶民の正しさを申したてたという。
その後、明治となり罪人の名を大赦し、相続を認めた。明治三十一年五月二十日に「天保義民」の碑を現在の地に建立した。その文字は巌谷修氏の書である。高さ10mの人造石でその費用は2,900円であった。
毎年十月十五日にはこの碑前で群町村が主として義民の追悼慰霊の例祭が催され、関係の遺族の多くが参列される。奉納すもうも催される。
「天保義民の碑」の周りには樫の木であろうか、白い花が満開であった。(右写真) この碑のある一帯は「県民花の森 天保義民の丘」として整備されていて、登り口には小さい石のモニュメントもあった。
案内板によると、
モニュメントの造形について
天保十三年(1842年)10月に旧甲賀郡、旧野洲郡、旧栗太郡の一万数千人の農民が結集し検地十万日日延の承認をさせるという「農民一揆」を起こした。そのとき農民が手に取った鍬、鎌を形どり、背の矢印は竹槍、中央の溝は農民の血と汗と流れを表わしている。
全体としては、基礎石を農民に見たて農民の努力の賜で虹の石(希望のかけ橋)が架ったものである。
旧東海道に戻った丁字路に常夜燈があった。(左写真) 石造の台型角柱の竿の上に、木造の火袋と屋根がのった変り種の常夜燈であった。「東講中」の文字も見える。
JR三雲駅まで戻った角には「微妙大師萬里小路藤房郷墓所 妙感寺」の石碑が立っていた。(右写真の左) 妙感寺は南北朝時代、後醍醐天皇の家臣であった藤原藤房が出家して開山したと伝えられる、紅葉と磨崖地蔵菩薩で知られる古刹である。これより南西約3kmの三雲山麓にあるという。
西へ進むとすぐ、右側の人家の前に「明治天皇聖跡」の立派な石碑があった。(右写真の右)
さらに進み、三雲の町を外れて、野洲川支流の荒川に架る荒川橋を渡ったすぐの左、川沿いの道の入口に石標が3基立っていた。(左下写真)
一番左側のものは「立志神社」、中は先ほどもあった「雲照山 妙感寺 万里小路藤房古跡」の石標、右側の石標は「田川ふどう道」と読める。
すぐにJR草津線の踏切を渡ると、右側に木製の東海道の標識があった。(右写真) 標識の真ん中の柱には「旧東海道」、右手を指す板に「水口宿場」、左手を指す板に「石部宿場」、手前を指す板は外れて下へ置かれていたが、「信楽 妙感寺」と書かれていた。
歩くうちに街道端の草むらに「ノビル」を見つけた。細い茎を一本伸ばし、頭にこげ茶の一叢の蕾だか種だかの束を載せている。花はまだなのか終ったのか、線香花火に似た白い花の咲いたものはなかった。昔はあぜ道のどこにもあって、取ってきて食用にしたと女房が言う。自分には食べた記憶がない。それだけ町育ちだということであろう。
午前9時48分、前方に石組みしたトンネルが見えてきた。(左写真) 野洲川の支流の大沙川を潜る「大沙川隧道」である。琵琶湖の近くには天井川が多く見られると、昔教科書で学んだが、大沙川はその天井川である。
隧道を抜けた左側に大沙川に上る道が付いていて、入口に「弘法大師錫杖跡 お手植えの杉」の石碑(左下写真の右)と「弘法杉」の案内板があった。
甲西町教育委員会の案内板によると、
町指定文化財 弘法杉
旧東海道を横切る大沙川の堤上に、樹高26m、周囲6m、樹令約750年の杉がある。この大杉を古来より弘法杉、または二本杉と人々はよんでいる。
伝説によれば、もとは2本あって並立していたが、洪水のために堤防が崩壊して一樹は倒れたといわれている。昔からこの地方の子どもが左手に箸を持って食事をするものは、この木の枝で箸を作って使用させると自然と右手で食事をするようになるといわれている。そのために、下の方の枝はたいてい切り取られていたと伝えられている。
一節によれば弘法大師(空海)がこの地方を通過した時、二本の木を植えたとも、また弘法大師が食事をしたあと杉箸を差しておいたのが芽を出したとの説がある。その後、大風のために折れて朽ちたので里人が再び植えたが、安永2年(1773)の台風でそのうち1本が倒れたともいわれている。
登った大沙川の土手に杉の巨木が一本と、杉にくっ付いたアルミサッシの目立つお堂があった。弘法杉は下枝が奔放にのたくり、杉の原始の相貌を示していた。(右写真) 少し早いが弘法杉を「石部宿の巨木」としよう。
この杉の枝で作った箸が左利きの矯正に役立ったという話が案内板に書かれていたが、実際にあったことなのであろう。信心でなくても、遥々この地まで材料を求めた、親の愛情の篭った杉の箸を与えられれば、純真な昔の子供たちならば喜んで矯正に応じたはずである。
弘法杉の根元の洞に数個の鶏卵が見えた。この鶏卵が大変な迷惑を近所に与えることは立て札で判ったが、それでも供えるのを止めない信仰とはどういうものであろうか。鶏卵が杉の栄養になるのか、あるいは住み付く蛇などへのお供えなのか、立て札だけでは判らなかった。
吉永弘法大師守る会の立て札によると、
お知らせ
弘法大師様にお参りいただき誠に有難うございます。実は皆さんの温かい信念を持ってお参り下さいます心、感謝しております。そこでお願いがあります。玉子を供えて下さいますが、カラスが悪い事をして困っているのです。近所の屋根や洗濯物に玉子の汁を落として大へんです。お供えのあと、お持ち帰るか、堂の中に供えて下さる様に、穴に入れないで下さいます様よろしくお願いいたします。
思いのほか細い、コンクリートで固められた大沙川に水は流れていなかった。(左上写真の左)しかし一度大雨になると、大沙川の名前に違わず、大量の土砂を運び堤防が切れて田んぼを水浸しにすることも度々であったのであろう。
天井川という独特な風景は決して自然に出来たものではない。度重なる洪水に備えて村人達は常に川の浚渫を怠らなかったことは容易に想像できる。ブルトーザーのなかった昔、人の手で浚渫し両側に土手として盛り上げる繰り返しの結果、川底、土手ともに山になってしまい、現在の景観が出来たのであろう。船道の浚渫で弁天島を造ってしまった舞坂と新居の宿間を思い出した。
かって東海道筋には大沙川に続いて由良谷川・家棟川と行く手を阻む川があった。旅人はその度に土手を登り、川を渡る繰り返しを余儀なくされ、人馬の通行に大変難儀をさせられた。明治17年になってようやく、花崗岩の切石積みの半円アーチの堅牢なトンネルが県下で最初の道路トンネルとして築造された。地元では吉永という地名を入れて「吉永のマンポ」と呼んで利用した。
「マンポ」とはまた変わった呼び方である。いろいろ調べてみると、鉱山の坑道のことを「マブ(間分・間歩・間府)」とよぶが、三重県の鈴鹿山脈東麓では鉱山の排水路にヒントを得て、素掘りのトンネルを掘って地下水を集め灌漑などに利用する施設が造られた。そしてその素掘りのトンネルを「マブ」あるいは「マンボ」と呼んだ。明治にこの道路トンネルが出来たとき、村の人たちはその「マンボ」を連想したのであろう。
大沙川隧道及びこの先の由良谷川隧道は、土木学会の評価では、
明治10年代の総切石造りの初の道路トンネル
東海道筋ならではの立派なトンネル
この地方独特の天井川のトンネル
という理由で、最も重要な土木遺産として国指定重要文化財に相当すると評価された。国の重要文化財に指定されるのも近いのかもしれない。
午前10時22分、甲西町夏見の町並みの先に、二つ目のトンネルが見えてきた。(左写真) 大沙川のトンネルとほぼ同じようなトンネルである。これも野洲川の支流の由良谷川(天井川)を潜る「由良谷川隧道」である。
竜王山に源を発する由良谷川は3.3km流れて野洲川に合流する。ここも通常は水が無い川だという。 大沙川のトンネルから二年後の明治19年に築造されている。
トンネル前の角に「新田道」という石の道標が立っていた。「昭和十年三月改修」とも刻まれている。トンネルの手前に、東海道と直角に野洲川方向に道が伸びている。野洲川の方面にかって新田が開かれたのであろうか。
由良谷川隧道を抜けた右側に川の続きが土手というより山の連なりのように西へ北へと蛇行して続いているのが見えた。
甲西町針に入ると道路左側に大きな造り酒屋があった。(右写真) 創業二百年といわれる北島酒造である。地酒「柳川」で有名であったというが、今は「地酒 御代栄」というらしい。暖簾や酒樽にはそう書かれていた。
やがて街道は家棟川を渡る。何気なく渡ってしまったが、ここもかっては天井川で、その当時の県令中井弘の「家棟川」の題額が橋の袂に案内板も無しに置かれていた。昭和54年(1979)に河川改修にともない、天井川とともに明治19年築造のトンネルは撤去された。現在、橋の下、数メートルも掘下げられて、かってこの川が天井川であったとは全く想像できない。
「家棟川」の題額の隣に、「奉両宮常夜燈」と刻まれた石燈篭が立っていた。(左写真) この「両宮」とはおそらく伊勢神宮の内宮と外宮の両宮を指しているのであろう。
家棟川を渡ると甲西町平松、これより南の1kmほどの山中にウツクシマツの自生地がある。
ウツクシマツは根もとから多くの幹がほうき状に分かれて伸びるアカマツの一種で、この松が群生するさまは美しく、江戸の昔から名所になっており、国の天然記念物にも指定されている。幹の1本だけが高く伸びる普通のアカマツに対して、ウツクシマツは劣性遺伝であるとの研究結果が最近出ている。
「東海道名所図会」によれば、
「美松(うつくしまつ)と号することは、松の葉細く艶ありて、四時変ぜず蒼々たり。松の高さ小大あり。大樹は根より四、五尺までは、株(みき)つねの雄松のごとし。それより枝々数十にわかれ、近く視れば蓋(きぬがさ)のごとく、遠く眺めば側柏(あすなろ)に似たり。(中略) この山中に際りてことごとく同木なり。隣山はつねの松にして、美松一株もなし。また他所へ移し、あるいは鉢植などするに、程なく枯れて育せず。和漢松の部類を考うるに、いまだこの類を聞かず。遠近こゝに来たって初めて観る人、賞嘆せずということなし。これ風土の奇なり。」
気持ちは残ったがこの距離では道草というわけにはいかなかった。
石部町に入って、すぐに左に「東海道歴史資料館」の看板を見つけ、左に寄り道したが、それらしい建物もなく大きな公民館のような建物を見つけて入った。そこで、休みにたまたま出て来たという年配の職員に尋ねたところ、事務所に招かれて、よく冷えたペットボトルのほうじ茶を頂きながら、石部町の概略について話を聞いた。目的の「東海道歴史資料館」はかなり離れた山中にあるようであった。旧東海道には小島本陣の少し手前の角にある「いしべ宿驛」やその先の「田楽茶屋」の案内をしてくれた。また「東海道シンポジウム石部宿大会」の話題も聞いた。
時間を思いのほか費やして、午前11時40分、旧東海道に戻り、宿場の面影を残す町を行くと、角に東海道の小公園があった。(右写真) 「道の辺広場」と呼ぶ。石部町の案内碑があった。
碑文によると、
石部町
石部町は、古くは東海道五十三次の五十一番目の宿場町として栄えた。
明治22年4月1日に石部村、東寺村、西寺村の三ヵ村連合区域の統合によって「石部村」として誕生、明治36年6月1日には、県下で12番目、甲賀郡では2番目の町制施行によって「石部町」となり、今日まで永い歴史が刻まれています。
石部宿は「京立ち石部泊まり」といわれて、京都を朝立つ旅人が一番はじめに泊まる宿場として賑わった。
石部宿内を一丁先へ行った左角に先刻案内のあった休憩所の「いしべ宿驛」があった。(左写真) 入ると中年女性が一人居て、奥へ入ったので、お茶でも出していただけるのかと期待したが、来館者名簿に記帳してからもその気配がなかった。少し気持ちを残しながら出る。
すぐ先の民家の横に「明治天皇聖跡」の石碑があった。(右写真の右) 石碑の字体が土山宿のものとそっくりであった。同時に造られたものかもしれない。そばには「東海道石部宿 石部本陣跡」と刻まれた石柱もあった。(右写真の左)
石部町教育委員会の案内板によると、
石部宿 小島本陣跡
小島本陣は、慶安三年(1650)吉川代官の屋敷あとに創建され、承応元年(1652)に膳所藩主本多俊次公、康将公に忠勤の功により本陣職を拝命された。
この本陣は、間口四十五間、奥行三十一間、敷地二八四五坪、建坪七七五坪、表門、裏門二、番所等があり、鉤、刺股、突替、道具を飾り立てその奥に玄明、大広間等二十六部屋がみられた。
小島本陣は、東海道にあった豪壮鮮麗な建物であったと道中記事に記されている。こうした壮麗な本陣も老朽化により昭和四十三年に取り壊され、現在に至っている。
その間、天皇、皇族、大名、幕府の高官が宿泊し、その記録も宿帳に残されており、明治元年京(京都)より江戸(東京)に都が遷されるにあたり、明治天皇が御宿泊され、それらの貴重な資料も現存している。(後略)
宿の右側に「石部のぬし屋」と看板の出たお店があった。(左写真) 「佛壇、佛具、神輿」とも書かれていた。「ぬし屋」は「塗師屋」で、広辞苑によれば「漆器を製造し、または売る家。また、それを業とする人」である。そういう店が残るのも旧街道ゆえであろう。
その先、左手に少し入った所に「真明寺」がある。(右写真の左) 真明寺境内に芭蕉句碑があった。(右写真の右円内) 褐色の石に刻まれた文字は判読できなかったが、次の句が刻まれている。
都(つ)つじいけて その陰に 干鱈さく女
この句は「野ざらし紀行」の旅で詠まれたというが、「野ざらし紀行」には入っていない。「泊船集」に「昼の休(やすら)ひとて旅店に腰を懸けて」という詞書の後に採られている。
旧東海道はここでクランク型に折れて進む。その最初の右折角の突き当りに、「田楽茶屋」と名付けられた新しい休憩所が出来ていた。(左写真)
立て札によると、
江戸時代の茶屋は旅人の休憩の場としてまた人足や駕籠かきの休憩所は立場が設けられた。
寛永九年に始まった御茶壷道中で毎年多くの人々が出てにぎわったところである。
その田楽茶屋に沢山の人が寄っていた。中に入ろうとしたところ、男性が出て来て、「今日は地域の集まりで、蕎麦打ち会をしているので」という。打った蕎麦を皆んなで食しているようだ。瞬間、蕎麦を振舞ってくれるのではと期待したが外れた。どうも気持がさもしいのは空腹のせいらしい。気付けばもう時間は正午を回っている。周りで写真を撮って先へ進んだ。
石部宿の出口にも小公園が出来ていて休憩舎や灯篭があった。(右写真)
立て札によると、
江戸時代、ここは宿内に入る前に整列した場所で、西縄手と呼び長い松並木がありました。
石部宿を出ると左手の山が大きく削られてほとんど無くなっている。ここは灰山と呼ばれていて、かって石灰の採掘場があり山が削られた。また昔から銅を産出していたという。考えが堅くて融通のきかない人間のことを「石部金吉」と呼ぶが、どうやらこのあたりから生れたらしい。
午後0時53分、灰山の反対側には、JR草津線と野洲川の向こうに近江富士と呼ばれる三上山が端正な姿を見せていた。(左写真) 三上山には俵藤太の百足退治の伝説が残っている。
俵藤太(藤原秀郷)といえば平将門の乱を平定したことで有名であるが、その前に、俵藤太は瀬田川に住む龍王に三上山の大百足退治を頼まれて、自慢の弓で射止めたという。
名神高速道路を潜り抜けると栗東市に入る。伊勢落、林と過ぎ、六地蔵の集落に入るとすぐ右に、かって土地の名前の由来になった六体の地蔵が祭られた法界寺があった。現在は無住のお堂に国の重要文化財にもなっている地蔵菩薩立像一体が安置されている。山門前に「国寳 地蔵尊」の大きな石碑があった。(右写真)
ここ六地蔵は石部宿と草津宿の中間にあって、間の宿でもあった「梅木立場」があった。いつの時代か、旅人に薬やもぐさを売る店が出来てきた。京を出立した旅人がこの先長い道中を考えて薬を買い求める気持になるには、この辺りは絶好の場所と時間であったのであろう。
「東海道名所図会」によれば、
こゝに元和の頃、梅の木ありて、その木陰にて和中散を製し旅人に賈う。本家を「ぜさい」という。その初めは織田氏と号して、元和元年(1615)、医師 半井ト養(なからいぼくよう)が女(むすめ)を娶って、和中散・小児薬の奇妙丸等の薬方を授かり永くこの家に商う。店前に薬師堂あり。本尊は伝教大師の作にして、長(みたけ)座像二尺ばかりを安置す。(後略)
和中散は、胃痛や歯痛などにもよく効く薬で、旅人の道中薬として重宝された。慶長16年(1611)、徳川家康が野洲郡永原陣屋で腹痛を起こした時、典医が和中散を勧めて、たちまち快癒したという話も伝わっている。
和中散を商う店はこの六地蔵に最も多い時には7、8軒あり、東海道の名物として全国的に知れわたっていた。本家「是斎(ぜさい)」の大角弥右衛門家は和中散店を営む一方、小休屋も兼ねており、また本陣としての役割も持っていた。街道右側に現在残る建物は、いつの時代のものか分らないが、かってこれほどに壮大な木造店舗を見たことがないと思われるほど大きな建物で、往時の繁栄の程が偲ばれる。(左写真)
滋賀県の名勝に指定されている大角家の庭園もすばらしいもので、日向山を借景とした池泉鑑賞式庭園で、少し遅れて追いついてきた女房が塀越しに覗けたと話した。
向いには「東海道名所図会」にもある薬師堂が現在も残っており(右写真の左)、またその隣に大角家住宅隠居所がある。(右写真の右)
滋賀県教育委員会の案内板によると、
重要文化財 大角家住宅隠居所
桁行12.9メートル、梁間7.0メートル、入母屋造、四面庇付
南面突出部 桁行5.9メートル、梁間6.9メートル、入母屋造、南面、東面及び西面庇付
東面玄関、南面押入附属、玄関千鳥破風付、本瓦葺 江戸時代中期
隠居所は、真向いの本屋が本陣として使用されている間、家族の住居に当てられた建物で、江戸時代中期に主屋に引き続いて建てられたと考えられる。
その後、所蔵文書より十数回にわたり小修理が行われたことが明らかで、昭和四十六年には半解体修理が行われ、玄関屋根や台所部分等が復原整備された。
建物は床と付け書院を備えた六畳の座敷の南に四畳間を並べ、その奥に仏間と奥の間の四室を配した東西棟に、式台付玄関、台所、土間を配した南北棟がT字形に接続している。
この建物は、屋根が二重で、入母屋破風が多く、本瓦葺のため、重厚な外観を呈しており、玄関及び座敷廻りには彫刻欄間を入れる等、江戸時代の豪華な住宅建築の好例であり、貴重である。
六地蔵を抜けてやがて栗東町手原に入る。午後1時56分、町中に真っ赤な玉垣が目立つ稲荷神社があった。玉垣の前には「明治天皇手原御小休所」の石碑があった。(左写真)
「東海道名所記」によると、馬方の話として、
爰を手ばらと申す事は、もとの名をば、手孕(てばらみ)と文字にかきけるよし。いにしへ、この村の某、他国にゆくとて、その妻の年いまだわかく、かたちうつくしかりければ、友だちにあづけて、三年まで帰らず。友だち、これをあづかり、わがもとに、をきたりしに、人のぬすみ侍べらんことをおそれて、夜は女の腹の上に手ををきてまもりしに、女はらみて、十月といふに、手ひとつうみけり。それより、この村を「手ばらみ」といひけるを、略して、「手ばら」といふとかたりぬ。左のかたに、笠松あり。木のもとに稲荷明神の社あり。
地名を読み込んだ、よく出来た艶笑小咄である。本当に馬方が話したのか、筆者の創作か。
栗東市上鈎(かみまがり)に入り、上鈎池の側の公園に「九代将軍 足利義尚公 鈎の陣所ゆかりの地」と刻まれた石碑があった。(右写真)
案内碑文によると、
鈎の陣のいわれ
室町幕府は応仁の乱後、勢力が衰え社会は乱れた。近江守護職佐々木高頼は社寺領等を領地とした。幕府の返還勧告に応じない佐々木氏を討伐のため、時の将軍義尚は長享元年十月近江へ出陣、鈎に滞陣した。滞陣二年病を得、延徳元年三月二十五歳の若さで当地で陣没した。本陣跡は西約三百米の永正寺の一帯である。
0.5kmほど進むと天井川の葉山川に突き当たる。この川は坂を登って橋を渡って進んだ。橋の上は見晴らしがよくて、振り返れば近江富士が良く見えた。(左写真) 深く浚渫されていたが、葉山川には水が流れていなかった。葉山川を越えると川辺(かわづら)である。
川辺の町を数分進んだ左側に善性寺がある。(右写真) 善性寺にはシーボルトが江戸参府の帰りに訪れている。
治田学区心をつなぐふるさと創生事業実行委員会の案内板によると、
シーボルトと善性寺
善性寺第五世僧恵教のとき、文政九年四月二十五日オランダの医師で博物学者シーボルトが江戸からの帰途善性寺を訪ねている。
そのときの見聞が「シーボルト江戸参府紀行」に次のように記されてある。「かねてより植物学者として知っていた善性寺第五世僧恵教のとき、文政九年四月二十五日オランダの医師で博物学者シーボルトが江戸からの川辺村善性寺の僧恵教のもとを訪ね、スイレン、ウド、モクタチバナ、カエデ等の珍らしい植物を見物せり」云々とある。
間もなく旧東海道はこれも天井川、金勝川の小高い土手に突き当たる。(右写真の右) 土手下に石標が立っていた。(右写真の左) 一面に「東海道 やせうま坂」、もう一面に「中仙道 でみせ」とあった。「やせうま坂」や「でみせ」がどこを指しているのか、分らない。
足にかなり来ていたが、土手に上がってみた。金勝川の向うに見えるのが目川池であろうか。草地は見えたが水面は確認できなかった。振り返ってみれば歩いて来た街道が見え、その向うに近江富士が見えた。(左写真)
旧街道に戻って土手に沿うように左に回り栗東市目川の町を進む。目川には「いせや」という田楽豆腐を出す有名な茶店があり、広重の「東海道五拾三次内 石部」(保永堂版)にその茶店の賑わいが描かれている。同じ店は「東海道名所図会」にもほとんど同じ図柄が描かれている。
「名所図会」の詞書に
「目川とは村の名なれど、今は名物の菜飯に田楽豆腐の名に襲いて、何国にも目川の店多し。豆腐百珍の一種となるも、かれが全盛なるべし」
と書かれている。
午後2時47分、目川の通りの右側に一里塚の石標を見つけた。(右写真)
目川自治会の案内板によると、
一里塚
東海道には一里ごとに距離標として一里塚が設けられていた。一里塚は道の両側に五間四方の塚の上に椋や松などの木立があった。目川村の一里塚は、現在の鎌田屋敷の東隅とその向かいの旧北野家屋敷の西隅にあり、椋の大木があったといわれ、当時の一里塚は西は草津市野路に、東は六地蔵(梅の木)にあったといわれている。
やがて旧東海道は草津の宿に向けて右に曲がる。その角に栓抜きを立てたような、東海道の石標があった。(左写真) 穴の部分におそらく灯りを入れる石燈篭も兼ねているのだろう。そんなに古いものではないが意匠が面白い。
天井川として有名な草津川は雨の少ない時期には約15kmが涸れ川となり、豪雨時には暴れ川となって昔から洪水が絶えなかった。1982年、約2km南に草津川放水路(新草津川)を着工して、2002年6月、ようやく金勝川合流点まで到達し、新しい川に流れが切り替えられた。現在は廃川を公園など市民の憩の場として整備するように検討されている。
道は旧草津川の廃川の高い土手の北側を進む。途中に「老牛馬養生所趾」の案内板があった。(右写真) 昔はこれほどまでに心優しい人たちがいた。動物愛護の先駆けである。
治田学区心をつなぐふるさと創生事業実行委員会の案内板によると、
史蹟老牛馬養生所趾
栗太郡志等に「この施設は、和迩村榎の庄屋岸岡長右衛門が湖西和迩村の牛場で老廃牛馬の打はぎをしている様子を見て、その残酷さに驚き、これから老牛馬であっても息のある間は打はぎすることを止めようと呼びかけ、天保十二年四月当地が東海、中山両道を集約する草津宿の近くであることから、ここに老弓馬の余生を静かに過させる養生所を設立、県下の老牛馬を広く収容された」と記されている。
旧草津川の土手下に「草津の名木 イロハモミジ」の古木があった。しかし残念ながら枯れ幹が残るだけであった。(左写真)
「緑いきいき草津」推進会議の案内板によると、
草津の名木 イロハモミジ
樹 高 9m
樹幹周囲 200cm
推定樹齢 150年以上
旧東海道の草津川を渡り伊勢路に至る堤防を下った現県道草津・六地蔵線との合流点にあり、少なくとも明治、大正、昭和の激動期をじっと見つめてきた木に違いないと思われます。
百有余年、風雪に鍛えた太い幹、左右に広く伸びた枝張り、それにふさわしい樹高はモミジの王者の風格があります。春の芽ぶきの萌黄、夏の深緑、真っ赤に燃えるような秋の紅葉、冬は裸木に雪化粧の清らかさ四季折々の美しさには道ゆく人も足を留めます。
やがて国道1号線を渡る。大路三丁目の交差点である。国道1号線も旧草津川を往復二本のトンネルで抜ける。旧東海道はその交差点の先で旧草津川の土手を登り、橋を渡る。当然橋の下は水は流れていない。(右写真)
案内板によると、
東路への姿をとどめる天井川
市域中心部を西流する草津川は地形的にも特異な形態を呈し、川床が民家の屋根よりも高い天井川である。この天井川化が進んだのは、水源である桐生や金勝山系の土砂が運ばれ川床が高くなり、それに伴って堤防も高くするといった繰り返しによって形成された。記録によれば江戸時代中ごろの元文年間(1736〜41)にはすでに川床が高くなり、流域の人たちは、それらによってもたらされる水害とたたかってきたことがうかがえる。
草津宿の北端を限り、東海道・中山道の江戸側の出入口でもあった草津川は、平素はほとんど水がなく、安藤広重らの浮世絵にも描かれたように旅人は歩いて渡っていた。明治になると、中山道の川越箇所にはトンネルが掘られ、草津のマンボと称して名物になった。現在でも平野部の中を鉄道や国道がトンネルで抜け、独特の光景を呈している。また、今日では数少なくなったが、明治の末に草津小学校の生徒らによって植えられた桜があり、往時はさくらまつりが催されるなど市民の憩の場となっていた。
付近には、草津追分に東海。中山両道の分岐を示す道標や、草津宿のシンボルともいえる史跡草津宿本陣、堤防から宿を望むと本堂の屋根並びが続く寺院などがある。
橋を渡って向こう側へ下る右側にお堂があり、左側に道標を兼ねた大燈篭があった。(左写真の右) お堂は高野地蔵尊、大燈篭は「横町道標」と呼ばれているようだ。(左写真の左)
「横町道標」の柱には「右 金勝寺しがらき道」「左 東海道いせ道」と刻まれている。この道標は、文化13年(1816)、日野の豪商中井正治が寄進したものといわれ、江戸方面からは草津宿の入口、京都方面からは草津宿の終りを示す道標である。
いよいよ草津宿に入る。午後3時30分、ガマンしていた雨がぱらりと来た。今日は草津までと決めていたが、本陣は見学しておきたいと思った。時間も気になったので先に草津宿本陣をめざす。草津川隧道の前、草津公民館を左折して100mほど進んだ右側に草津宿本陣があった。(右写真) 東海道で本陣の遺構が往時のまま残る唯一のものである。
草津宿本陣に入場料200円払って入る。上段の間(左写真)、風呂用の桶が一つ板の間に置かれた風呂場、材木商の主人の住居エリアなどに興味を引かれた。庭には「明治天皇草津行在所」の石碑が立っていた。
草津市教育委員会の案内板によると、
国指定史跡 草津宿本陣
草津宿本陣は、寛永十二年(1635)に定まった、江戸幕府による参勤交代の制度を背景にして、東海道・中山道を上下する諸大名・役人・公家・門跡等の休泊所として草津宿に開設された施設で、明治三年(1870)宿駅制度の廃止までの二百数十年間、その機能を果たしてきました。
史跡草津宿本陣は、全国に残る本陣遺構の中でも、ひときわ大きな規模を有しており、延4726平方メートルにのぼる敷地内には、かっての本陣の姿を彷彿とさせる数々の建築物が残され、関札・大福帳・調度品ほか、貴重な資料も数多く保管されているなど、近世交通史上、極めて重要な文化遺産であります。
この本陣遺構はこれまで、享保三年(1718)に草津の宿場を襲った大火事により焼失し、急遽、膳所藩より瓦ヶ浜御殿と呼ばれる建物を移築し、建て直されたものであると伝えられてきました。しかしながら、現存する本陣の平面形態が、本陣に残される複数の屋敷絵図に描かれている平面形態と合致したことなどから、現存する本陣遺構はこの絵図類が描かれた、弘化三年〜文久三年頃(1846年〜1863年)の旧状を良く残す遺構であることが明らかになりました。
敷地内には、正面、向かって左手に、表門・式台・主客の宿泊に当てられた上段の間・家臣用の座敷広間・御膳所・湯殿等を配し、通り土間を境にして、右手側には本陣職にあたった、田中七左衛門家の居室と台所を設けています。
また、これらの主要建築物の背後には、別名「木屋本陣」と呼ばれるように、兼業であった材木商の業務に用いた物入れや土蔵、避難口として使われた御除ヶ門などの建築物が今なお残され、敷地周囲は高塀・薮・堀によって、区画されています。
表に出ると門前に「松平出羽守宿」と書かれた宿札が掲げられていた。大名の宿泊に際して宿札を掲げる習慣があったという。それを再現したものである。
案内板によると、
宿札の掲揚(復元)
大名や旗本、幕府役人などが本陣に宿泊・休憩するに際しては、本陣の前と宿場の出入り口に、その名前を記した宿札(関札とも言う)を掲げました。三島宿(静岡県)の記録によれば、四方に立てた丸太の上部を、二本の横木で十字に結び、十字の個所に宿札を掲げる青竹を固定するものでした。青竹の長さは三間(約5.5メートル)にもおよび、かなり高く掲げられていたようですが、ここでは、宿札掲揚の様子を可能な範囲で復元しました。
宿札に記された「松平出羽守」は、出雲国(島根県)松江藩主です。松江藩はここ田中七左衛門本陣のいわばお得意様であり、田中七左衛門家は同藩の専用継飛脚の御用を務めていました。
ここ田中七左衛門本陣には、木製の宿札465枚に加え、奉書紙製のものが2,928枚残されており、その一部を館内に展示しています。これらは各宿場の問屋場で作製されたという説もありますが、一般的には大名の家臣である宿札(関札)役人か、それを兼ねた宿割役人が休泊日の前日か数日前ころに持参して本陣に渡したものといわれます。
草津公民館まで戻る。ここが東海道と中山道の追分であり、何枚かの案内板と、古いもの新しいもの入り混じった記念物があった。
数えてみると、一等水準点とその側に「草津町道路元標」がある。「堯孝法師の歌碑」が一基ある。日本最初の郵便ポスト「書状集箱」がある。「草津追分道標」がある。再現された「高札場」がある。そして「草津川ずい道」が天井川を潜っている。
「堯孝法師の歌碑」は公民館の横にあった。(右写真)
案内板によると、
近江路や 秋の草つは なのみして 花咲くのべぞ 何處ともなき 覧富士記
将軍のお供をして富士を見に行く途上、秋の近江路を草津まで来たが、草津とは名ばかりで、秋の草花が咲いた美しい野辺を思い描いていただけに心寂しい思いをするものだよ。
◎ 作者紹介 覧富士記 堯孝法師 (1390〜1455)
この歌は『覧富士記』に収められており、堯孝法師の作といわれている。室町時代の歌人で頓阿の曽孫。常光院と号し応永二十一年(1414)には二条派の中心歌人であった。
正長元年(1428)足利義教が幕府で歌会を開いて以来飛鳥井家の人々の中心メンバーであり、永享四年(1432)の富士見にお供して『覧富士記』を残した。堯孝法師が東常縁に伝えた古今伝授は、後、宗祇(近江出身)に継承された。
歌碑の隣の日本最初の郵便ポスト「書状集箱」は関宿にもあったと記憶している。(左写真)
草津郵便局の案内板によると、
書状集箱
このポスト(書状集箱)は、明治4年(西暦1871年)郵便創業当時使用していたものと同じ型のものです。
草津宿は、東海道と中山道の分岐・合流点という交通の要衝として、発展してきました。
また、国史跡に指定されている草津宿本陣は、現存する本陣の中でも最大規模で、当時の面影を今に伝えています。
なお、このポストは、他のポスト同様に取り集めを行いますので、ご利用ください。
トンネルの右側の石垣の上に「草津追分道標」がある。(右写真) 形は先ほど見た「横町道標」とそっくりである。道標の隣に石碑があった。
草津市教育委員会の案内碑文によると、
市指定文化財 道標「右東海道いせみち」「左中仙道美のじ」一基
ここはかっての日本五街道の最幹線で、東海道と中仙道との分岐点である。トンネルのできるまでは、この上の川を越せば中仙道へ、右へ曲がれば東海道伊勢路へ行けた。しかしこの地は草津宿のほぼ中心地で、この付近は追分とも言われ、高札場もあって、旅人にとっては大切な目安でもあった。多くの旅人が道に迷わぬよう、また旅の安全を祈って、文化十三年(1816)江戸大阪をはじめ、全国の問屋筋の人々の寄進によって建立されたもので、高さは一丈四尺七寸(4.45メートル)で、火袋以上は銅製の立派な大燈籠であり、火袋以上はたびたびの風害によって取り替えられたが、宿場の名残りの少ない中にあって、常夜燈だけは今もかっての草津宿の名残りをとどめている。
トンネルの左側には高札場が再現されていた。(左写真) 洪水の多い川だけあって、堤防の決壊の恐れのあるときは避難させる取り決めがあったことは大変興味深い。
草津市自治連合会の案内板によると、
草津宿の高札場
高札場は一般に幕府の禁制や法度などの触書を掲示するところであった。草津宿では東海道と中仙道の分岐を示す道標の前にあり、旅人の目に付きやすい場所に設けられていた。寛政九年(1797)の「東海道名所図会」や「伊勢参宮名所図会」によると、屋根つきで柵に囲まれた高札場が描かれている。高さ一丈三尺(約3.9m)、幅一丈五尺(約4.5m)で、石垣の上に建てられていた。掲げられていた高札は、親子・兄弟の和親を説いた「親子兄弟札」をはじめ、荷物の賃銭を定めたもの、社会秩序の維持を定めたものなど、多いときには十枚が掲げられていた。この高札の管理は格別に留意することが申し渡されており、強風洪水で草津川の堤防が決壊する恐れのあるときなどは、宿場の南に鎮座する立木神社まで運ぶことなども決められていた。
そして、草津川隧道の由来についても案内板があった。
案内板によると、
草津川ずい道(トンネル)の由来
草津川トンネルは草津川が天井川であったことから出水に悩みまた通行にも不便をきたしていたことから、従来の堤防を登り川越のルートから草津川にずい道を掘って、人馬・通行の便を図ろうと計画し、ときの大路村戸長長谷庄五郎は明治17年(1884)8月24日付で中山道筋草津川ずい道開削新築事業起工の儀願書を県令(知事)中井弘あてに提出した。
これが容れられて明治18年12月4日総工事費7368円14銭9厘を以て着工された。翌明治19年3月20日の突貫工事で完成した。構造はアーチ式煉瓦両側石積みで長さ43.6米、幅4.5米のずい道が造られた。
同年3月22日より旅人通行の事、車は3月25日より、馬車荷車は4月5日より従来左方斜めに堤防にのぼって川を渡り大路井村側で右方へ下った。中山道の川越は廃止され、車馬の通行はきわめて容易になった。
午後4時11分、トンネルを潜って商店街を草津駅に向かった。このトンネルを潜った先はもう中山道である。ぱらぱら雨粒の落ちる中を草津駅に着き、本日の東海道歩きを終えた。
今回の歩数は一日目 36,770歩、二日目 37,051歩、計 73,821歩であった。
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