第 5 回
平成13年5月6日(日)
晴れ時々曇り、風さわやか
藤沢宿−辻堂−茅ヶ崎−平塚宿−大磯宿
“探し回った義経首塚から誰の目にもすぐにわかる高麗山まで”
最近、ウォーキングをメインにした雑誌が何種類か発行されている。当然、その中で “旧東海道” のウォークが特集になっていることも多いのだが、一月ほど前、徳間書店の大人のためのウォーキングマガジン「歩きたい!」編集部からメールが届き、「巨木巡礼」のホームページをその雑誌で紹介してくれるという。後日、紹介文を送ってきた。中で、
「‥‥‥‥巨木に愛情を感じて全国各地の巨木をめぐり歩いているようだ。現在は、やはりご夫婦で東海道踏破を目指して歩き中。一宿一本を目安に街道沿いの巨木を見つけているところだそうだ。」
と紹介してくれて、大変光栄なことであった。後日、掲載誌ということで、立派な 「歩きたい!」 Vol.7 が送られてきた。
“紹介” の中にあったように、一つの宿場で一本の巨木、これが楽なようでなかなか難しい。街道筋から大きく外れてしまうと意味が無い。第一、見に行くために道草をする気になれない。だから、特に事前調査はしないで、行き当たりばったりに徹することにしている。したがって、少々宿場から外れても、巨木とは言いがたい木でもご容赦願いたい。関東の東海道は戦災でひどくやられたためか、巨木も街中ではなかなか残っていないように思う。静岡県に入ればそんなに苦労はしないはずであるが。
四日歩いて、ようやく朝の一番電車でなくても良いところまで近くなった。そこで一電車遅らせて、6時11分の普通電車に乗る。9時28分藤沢駅着の予定が二、三分早く着いた。
先日の帰り道を思い出しながらたどって、藤沢橋まで戻る。藤沢橋には橋柱に藤の花がデザインされている。(右写真) 藤の花は藤沢のシンボルフラワーなのだと思う。東海道では藤枝でも市の花になっている。まだ藤の花の季節だから今日もどこかで藤の花を見ることになろう。
前回の終りに遊行寺に寄ったが、ロックバンドのコンサートでお参りも出来なかった。今日の東海道歩きの前に、再度、正面から遊行寺に参拝することにした。朱塗りの遊行寺橋を渡り、黒門をはいると石畳の緩やかなスロープが境内に参拝者を苦労なく導いてくれる。「いろは坂」(左下写真)と呼ばれて、四十八段あるはずだが、ほとんど段差を意識せずに歩ける。
境内に入ると “大イチョウ” はすっかり緑に変身していた。境内では前回と変って骨董市が開かれていた。所狭しと並んだ骨董品が “大イチョウ” の回りまで占め、今日も “大イチョウ” は何やら落ち着かないようだ。
本堂前右手の花の終わったつつじの中に、彫りが深く日本人離れした顔の一遍上人像が合掌しながら前へ歩みだす姿勢で立っていた。“遊行”を修行のメインとした一遍上人らしい姿であった。
遊行寺の案内板によると、
時宗総本山遊行寺(ゆぎょうじ)
清浄光寺(しょうじょうこうじ)が公式の寺名ですが、遊行上人の寺ということから広く一般に遊行寺と呼ばれます。
宗祖は一遍上人(1239年〜1289年)で南無阿弥陀仏のお札をくばって各地を回り、修行された(遊行といいます)念仏の宗門です。
この遊行寺は正中二年(1325年)遊行四代呑海(どんかい)上人によって藤沢の地に開かれ、時宗の総本山となっています。
宝物として、「一遍聖絵」、国重要文化財「時衆過去帳」など多数があります。
境内には日本三黒門の一つである総門、銀杏の巨木、中雀門、市指定文化財の梵鐘、国指定の藤沢敵御方供養塔、小栗判官と照手姫の墓、板割浅太郎の墓、有名歌人の句碑などもあります。また、桜・ふじ・花しょうぶの名所で、観光百選の一つにもなっています。
境内の右手通用口の右側に「敵御方供養塔」(上の右側写真)がある。敵味方を共に供養する発想は博愛思想を引っ張り出すまでもなく、日本には昔からあった。博愛思想というより此の世に思いを残した死者への畏れゆえだと思う。ともあれ、供養塔の、これだけ古いものは珍しいという。
神奈川県教育委員会の案内板によると、
国指定史蹟藤沢敵御方供養塔
室町時代はじめの応永二十三年(1416)に上杉氏憲(禅秀)が、足利持氏に対し反乱(禅秀の乱)を起した時、幕府は持氏を援助したため、氏憲は敗れさりました。
この乱によって両方に死傷者が多くでたので、遊行寺の住職遊行十五世尊恵上人が一山の僧と近在の人たちをあつめて、敵味方両軍の傷ついた人たちを収容して治療をおこなうとともに、戦没者を葬り敵御(味)方区別のない平等な供養塔を建立してその霊を弔いました。
このようないわゆる博愛思想を示す塔や碑はほかにもありますが、この塔はそのなかでも時期が古く、また、郷土の歴史を知るうえでも大切な資料の一つです。
元の道(国道467号線)に戻って東海道歩きを始める。街道右側に一軒蔵造りの商家(左写真)があった。紙を商っているようだ。 “蔵造りの商家” は防火対策のために店そのものを蔵造りにしてしまったもので、かって “小江戸” と呼ばれる川越の町でたくさん見た。
源義経ゆかりの白旗神社に寄り道すべく、700メートルほど西へ進んだ白旗の交差点を右折し、300メートルほど進んで、10時26分、白旗神社に着いた。白旗は源氏の旗印、一方赤旗は平家の旗印、だから、小学校の運動会の紅白の鉢巻や大晦日の “紅白歌合戦” のルーツは源平の戦いにあるという。余談はさて置き、白旗神社本殿石段下の左側に「源義経公鎮霊碑」があった。
白旗神社の案内板によると、
源義経公鎮霊碑
文治五年(1189)閏四月三十日、奥州平泉、衣川の高館で、藤原泰衡に襲撃された義経公は自害し悲壮な最期を遂げた。
その御骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬礼所に葬られ、また一方の御首は奥州路を経て、同年六月十三日、腰越の浦の首実検後に捨てられたが、潮に逆流し白旗神社の近くに流れつき、藤沢の里人により洗い清められて葬られたと語り伝えられる。
白旗神社の本殿右側には「辨慶の力石」がある。
“橘樹神社の力石”
同様、村の力自慢がこの石で力を競って遊んだものであろう。 “弁慶” はあとからついたものであろう。
本殿から右手へ降りた社務所のそばに藤棚が二つあり、白い藤の方が「義経藤」(奉納 小室一郎)(左写真)と命名され、いま満開であった。一方、藤色の方は「辨慶藤」と命名され、花期はすでに終わっていた。「辨慶藤」の前に芭蕉の句碑が建っていた。
「草臥(くたびれ)て宿かる比(ころ)や藤の花」
社務所前には白旗神社に伝わる “湯立神楽” の説明板があった。
藤沢市教育委員会の案内板によると、
藤沢市指定重要無形民俗文化財 湯立神楽(ゆたてかぐら)
白旗神社を中心に神官により継承されている神事芸能。湯立てを伴う神楽で、湯花神楽、鎌倉神楽等の名称で、藤沢、鎌倉から三浦半島一円におよんでいる。古くは、関東一帯に分布したとされる神代神楽を源流とし、鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮の神楽男が伝承し、次第に近隣に定着したものとされる。
「湯立て」という神事手法に組み込まれた神楽には品格があり、舞にも洗練されたものがある。演目は十一で打囃子、初能、御祓、御幣招、湯上、中入、掻湯、大散供、笹の舞、弓祓、最後の剣舞・毛止幾で神人共楽の内に終了する。
白旗神社神事 十月二八日
近くに義経の首塚があると地図にあった。横丁に入ってそれらしい場所を探したが見当たらない。通りに戻って女房がそばの “タネ屋” さんで聞いた。白旗の交差点まで戻り、信用金庫角の東側の小路を入ると、児童遊具のある狭い空き地(タネ屋さんの裏)に義経の首塚と義経の首を洗ったと伝わる首洗い井戸(左写真)があった。石材で井桁に組まれた立派な井戸枠であった。
奥州の平泉で討たれた義経・弁慶主従の首は頼朝の許に届けられ、首実検を受けたあと、この地の人々に埋葬、供養されたという。かっては義経の首塚と一緒に、弁慶の首塚もあったという。
通りに戻るとそこに「伝源義経首洗井戸」の案内標識の柱が立っていた。最初、通りの向うを歩いて来たから気付かなかったようだ。
11時になったので、蕎麦屋を見つけ昼食にした。「吉野」という蕎麦屋さんで「とろろそば」をたべた。食後に摂ったそば饅頭はなかなか美味であった。練ったそば粉にコシ餡を包んで蒸し、黄粉をまぶす。多分こんな作り方であろうか。女房は家で作ってみようと言う。
街中をひたすら西へ進む。10分ほど進んだ左側、石垣の上に双体の道祖神が祀られてあった。「おしゃれ地蔵」とは変った命名である。双体とも顔が薄いピンクに塗られている。
藤沢市教育委員会の案内板によると、
『おしゃれ地蔵』
「女性の願いなら、何でもかなえて下さり、満願のあかつきには、白粉を塗ってお礼をする。」と伝えられており、今でも、お顔から白粉が絶えることがないという。そのような所から、誰からともなく「おしゃれ地蔵」と名付けられたとされる。
形態的には、「地蔵」ではなく、道祖神(双体道祖神)の表現が妥当であると考えられるが、土地の言い伝えを大切にしていきたい。
さらに20分ほど西へ歩く。辻堂駅に近いと思うのだが、旧東海道からは少し離れているようだ。12時、東海道が国道1号線と合流する四ツ谷に着く。その交差点に大山道との分岐点があり、四谷不動(大山道標)と呼ばれるお堂と、分岐から少し入ったところに大山阿夫利神社の鳥居が見えた。もっとも大山阿夫利神社はここより20キロメートルも山へ入ったところにある。
東海道と大山道が交差する四谷辻にお堂があって、うん、これこそ「辻堂」の地名発祥の地ではないかと思った。帰ってから調べてみると、辻堂村の中心はかなり南側にあった。村の中心に鎌倉道との十字路でお堂のある場所が三ヶ所もあって、由来の場所はその三ヶ所のどこかだが、どこかは定まっていないということであった。
藤沢市教育委員会の案内板によると、
四谷不動(大山道標)
東海道と大山道が交差する四谷辻に建てられていた道標で、大山不動尊の下、正面に「大山道」、両側面に「これより大山みち」とあります。延宝四年(1676)に江戸横山町の講中が建てたものです。
堂外の道標が初代のもので、万治四年(1661)に江戸浅草蔵前の講中によって建てられたものです。江戸時代を通じて、江戸町人の大山参詣が盛んでした。
四谷辻には多くの茶屋が立ち並び参詣客を誘いました。今でも七月一日の大山開きには、四谷町内会の年中行事として、辻堂元町の宝珠寺の住職のもと護摩供養が行われています。
国道1号線を200メートルほど進むと、松並木が始まった。その最初に「一里塚跡」の標柱があった。(右写真)
さらに100メートルほどで、右側に「二ツ家稲荷神社」がある。ここからも大山道が分岐している。先ほどの四ツ谷の大山道が江戸からの道で、ここ「二ツ家」の大山道は東海道と交差して鎌倉道へ通じている。二ツ谷の地名の謂われが書かれた案内板があった。
案内板によると、
二ツ谷
江戸時代、大山詣で帰りの道者や信者たちが宝泉寺へ詣り、さらに江ノ島鎌倉方面へ向う途中の休憩所(立場茶屋)として二軒茶店があったことからといわれています。又、「二ツ家」が本来の地名であったとも伝えられています。
「二ツ家稲荷神社」前には石柱の柵の中に庚申供養塔(左写真)があった。石碑に「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿がレリーフになっていた。
藤沢市教育委員会の案内板によると、
藤沢市指定重要文化財 寛文十年(1670)庚申供養塔
庚申信仰は、十干・十二支の組合せによって、六十日に一度めぐってくる「庚申の日」に、その夜を眠らずに過ごして無病・息災・長寿を願う信仰である。この源流は、「人の体内にいる三尸(さんし)の虫が、庚申の夜、天にのぼってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる」とする中国の道教の教えに由来している。
江戸時代、万治・寛文頃(1658−1672)には、仏教を背景に広く庶民に伝わり、「庚申講」が結ばれて庚申の夜は、講中の人々が当番の家に集まり、徹夜で酒食歓談して過ごす庚申待の行事や、供養塔の造立が盛んになった。
二ツ家稲荷神社境内の寛文十年庚申供養塔は、総高百五cm、蓮辨型で、造り出しの基礎部の上に別に台座を作り、その上部箇所に正面向きの三猿像を載せる手法をとっている。
正午を回ったばかりの二ツ家稲荷神社に、若い長身の父親と二、三歳の幼児が遊んでいた。父親は子供のために木の枝で狭い境内いっぱいに線路を書く。幼児はおぼつかない足取りでその線路をたどる。二人は無心に遊び、線路はいよいよ伸びて複雑に絡まる。ほほえましくもあり、何やら訳ありの寂しさも感じたのは勝手な感情移入であろうか。
松並木の国道1号線を藤沢市から茅ヶ崎市に入る。そして、途中、円柱状の石碑の「明治天皇御小休所址」を見て、1キロメートルほど進んで、12時32分、浄土真宗上正寺に着いた。
上正寺は現在本堂の改築中であった。本堂の場所は更地になって、基礎工事を始めたばかりのようであった。作業員は昼休み、我々も休憩舎で一休み中のところ、お葬式の一団がやってきた。骨壷を持った一団は本堂の無いのに戸惑いうろうろしていた。坊さんが来て、結局墓地の方へ行った様子ながら、骨壷を持ってお墓に行って納骨をしてしまう訳でもあるまい。他人事ながら落ち着かないことであった。
上正寺の山門を入った左側に古い立派な石燈籠があった。(右写真)上野の寛永寺よりもたらされたものだという。
茅ヶ崎市教育委員会の案内板によると、
旧寛永寺石燈籠 茅ヶ崎市重要文化財指定
石燈籠は、東京上野の寛永寺よりもたらされたもので、江戸時代に全国の大名から歴代将軍へ、供養として数多く献上されたうちの一つです。これには延宝九年(1681)の年号があり、四代将軍家綱に奉献されたものであることが知れます。市内には同様の石燈籠が小和田の大八木氏宅と市役所の前庭にあります。
茅ヶ崎駅に近い元町の真中、その名も「一里塚交差点」の東南角に「茅ヶ崎一里塚」の片方が残っている。(左写真)こんな街中に良くぞ残ったと声を掛けたくなる。
茅ヶ崎市教育委員会の案内板によると、
一里塚 茅ヶ崎市史跡指定
1604年(慶長九)徳川家康が秀忠に命じて東海道、東山道、北陸道に整備させたもので、江戸日本橋を起点に沿道一里毎に設けられた、大きさは五間(九メートル)四方、高さ一丈(三メートル)で、街道の両側に相対して築かれ、塚上には多く榎を植え旅人の利便をはかった。この茅ヶ崎一里塚も以前は両側にあったが、道路拡張等のため片方は取り除かれてしまった。江戸から十四里目のものといわれる。
茅ヶ崎の街中を通り過ぎ、道は大きく右へ回り北西に向かう。まもなく千川に架かる鳥井戸橋を渡る。橋の向うに鶴嶺八幡宮の赤い鳥居が見える。橋を渡った左側の橋詰に、「南湖の左富士」の石碑(右写真)があった。ここから南側の地域を「南湖」という。
案内板によると、
南湖の左富士の由来
浮世絵師安藤廣重は天保三年(1832年)に東海道を旅し、後続々と東海道五十三次の風景版画を発表した。その中の一枚に南湖の松原左富士がある。東海道の鳥井戸橋を渡って、下町屋の家並の見える場所の街道風景を写し、絵の左には富士山を描いている。東海道のうちで左手に富士山を見る場所は、ここと吉原(静岡県)の二か所が有名。昔から茅ヶ崎名所の一つとして南湖の左富士が巷間に知られている。
右手を鳥居を潜って真っ直ぐ北へ向かうと鶴嶺八幡宮に到るが、1キロメートルほどの寄り道になるので、先へ進む。14時25分、相模川の支流の小出川に出る。小出川を渡る手前の左側、少し下った木立の中に「旧相模川の橋脚」(左写真)が池の中に残されていた。池の中には睡蓮がびっしり葉を浮かべて、花が咲けばさぞ見事であろうと思った。
神奈川県教育委員会の案内板によると、
史跡 旧相模川橋脚
小出川に沿うこの一帯は、永らく水田であったが、大正十二年(1923)九月および十三年一月の大地震によって七本の橋脚が地上に出て来た。その後、地下に埋もれたもの三本が発見された。
相模川は、鎌倉時代にはこの辺を流れていたが、川すじの変化によって西方へ移ったもので橋脚は土中に埋まったまま七百年をへて再び地上に露出したものである。
橋の幅はすくなくとも七米(四間)くらいと推定され、全国でも数すくない大橋であったと考えられている。
小出川を渡り、高架を横切る湘南バイパスを潜り、相模川の手前で平塚市に入るが、その少し手前の道端に、双体の道祖神と“道祖神”ときざんだ石柱が赤い屋根の中に納まっていた。(右写真)
相模川に架かる馬入橋を渡る。相模川の河原にはオートバイのショップが集まり、川面はウォータースポーツのトレーニング場になって、水上バイクが白波を蹴立てていた。橋を渡ると右側にホテルサンライフガーデンがある。ホテル前に「明治天皇馬入御小休所趾」の石柱があった。
「明治天皇馬入御小休所趾」の案内板を要約すると、
薬種商の杉山家は明治になって、相模川の舟行を利用して石油と砂糖の大問屋になり大成功を収めた。そしてこの地に石垣を廻らした大邸宅を建てた。「石垣」とみずから称し、世間からも呼ばれた。明治天皇は前後二度この屋敷に立ち寄り休憩された。
その先で国道1号線を右側に斜めに分けて、真っ直ぐの旧道を平塚の街に入った。今日は何としても大磯まで行きたい。そうすれば、次回、小田原まで、そしてその次に箱根へ歩を進められる。そろそろ疲れのきた女房を「あと何キロだから」と励ましたり、なだめたりして進んだ。繁華な商店街の中で、駅近くの紅谷町の「お菊塚」を探した。東海道と平塚駅の間にあるのだが、商店街をあてずっぽうに脇道に逸れ、15時25分、建物の間の紅谷町公園を見つけた。「お菊塚」はその隅にひっそりとあった。お菊は言わずと知れた「番町皿屋敷」のモデルとなった女性である。そばの滑り台に登って “お菊塚” ときざまれた自然石の碑を写真に納めた。(左下写真)
平塚市観光協会の案内板によると、
番町皿屋敷 お菊塚
伝承によると、お菊は平塚宿役人真壁源右衛門の娘で、行儀作法見習のため江戸の旗本青山主膳方へ奉公中、主人が怨むことあって菊女を斬り殺したという。
一説によると、旗本青山主膳の家来が菊女を見染めたが、菊女がいうことを聞かないので、その家来は憎しみの余り家宝の皿を隠し、主人に菊女が紛失したと告げたので、菊女は手討ちにされてしまったが後日皿は発見されたという。
この事件は元文五年(1740)二月の出来事であったといい、のちに怪談「番町皿屋敷」の素材となったという。また他の話によると菊女はきりょうが良く小町と呼ばれていたが、二四才のとき江戸で殺されたといわれている。死骸は長持詰めとなって馬入の渡場で父親に引き渡された。この時父親真壁源右衛門は「あるほどの花投げ入れよすみれ草」と言って絶句したという。源右衛門は刑死人の例にならい墓をつくらず、センダンの木を植えて墓標とした。
昭和二七年秋、戦災復興の区画整理移転により現在の立野町晴雲寺の真壁家墓地に納められている。
東海道に戻って300メートル進むと、右側に平塚市民センターがある。開放になった中庭に入ると、「平塚の里」歌碑と、切り石を枡状に彫り出した井戸枠があった。(左写真)
平塚市観光協会の案内板によると、
平塚の里歌碑
文明十二年(1480)六月、「平安紀行」の作者は、東海道を京都に上る道すがら、平塚の地で、この地に隠遁していて没した三浦遠江入道定可を思い起し、里人にその遺跡、墓所などを尋ねたところ、誰ひとり知る者がなかったので、「哀れてふたが世のしるし朽ちはててかたみもみえぬ平塚の里」と詠じた。
昭和三十二年、市制施行二十五周年にあたり、江戸城の垣石と井戸枠を東京都からもらい受け見附台体育館入口の東側に据えたが昭和三十七年、平塚市民センターが建設された際、現在地に移設された。
この地の江戸城の垣石や井戸枠、さらには上正寺にあった上野の寛永寺より貰い受けた石燈籠など、時代は違うが江戸から到来したものが目立つ。江戸時代も今も江戸の影響下にあるということだろうか。
その先すぐの右側に公園があって、入口の緑地内に「平塚宿見附の蹟」の石碑があった。(左下写真) “これより西、平塚宿” という平塚宿入口の「江戸方見附」である。
平塚市観光協会の案内板によると、
平塚宿見附の蹟
慶長六年(1601)江戸幕府は、東海道に宿駅の制を布いた。平塚宿はその当時からの宿駅で宿の入口に見附と称する塚を築き、城門に擬して石垣を積み、うえに芝を張った縦2米、横2.5米、高さ1.5米ほどで東海道をはさみ北側と南側にあった。ここは平塚宿の東端であったため江戸方見附と言った。また見附の外を棒端といい、「従是西 江川太郎左衛門 御代官所 東海道平塚宿」と書いた標柱など建っていたということである。
その奥にクスノキの記念樹があった。(右写真) この「平塚小学校蹟の樟樹」を平塚宿の巨木としよう。
平塚市観光協会の案内板によると、
平塚小学校蹟の樟樹
平塚小学校では明治二十八年三月、校庭の一隅へ樟の種子を蒔いたところ、六月十五日大地を割って双葉が萌えいでいた。種子は明治二十七・八年戦役講和記念として神奈川県知事中野健明が県下各学校へ配布したもののひとつである。この地は明治十三年十一月崇善館を移築して平塚小学校と稱してから昭和二十年七月の戦争罹災まで日本一を誇った平塚小学校(現在崇善小学校)の旧地でここに学んだ児童たちはひとしくこの樟樹の傍で遊びたわむれた記憶をもっている。樹令八十余年記念すべき名木と言うべきだろう。
後日調べたところ、このクスノキは幹周囲5.4メートル、主幹3.6メートル、樹高13メートルで、樹齢は105年、平塚市保全樹木に指定されている。
戦災やその後の開発で、宿内であったこの辺りに、かっての宿場であった名残もない。ただ、右側歩道上に立て続けに、「平塚宿脇本陣跡」、「平塚宿高札場の蹟」、「平塚宿本陣旧跡」、「平塚宿西組問屋場の蹟」の石柱や鉄柱の標識が立っていた。(左下写真) また、それぞれに丁寧な案内板が付いていた。
それぞれ、平塚市などの案内板によると、
平塚宿脇本陣
江戸時代、それぞれの宿場には幕府公用人や大名を泊める宿舎として本陣が設けられていました。この本陣の補助的な役目をしたのが、脇本陣です。脇本陣には、その宿場の中で本陣に次ぐ有力者が経営しましたが、屋敷地や建物の大きさは本陣に及びませんでした。また、脇本陣は本陣と違って、平常時は一般の旅籠としての営業も可能でした。
平塚宿の脇本陣は、享和年間(1801〜03)頃の宿場の様子を描いた「東海道分間延絵図」には、西組問屋場より西に描かれていますが、天保年間(1830〜44)には二十四軒町の北側のこの地に山本安兵衛が営んでいました。
平塚宿高札場
高札とは、切支丹禁制や徒党の禁止など、幕府や領主の法令や通達を書き記した木の札です。その高札を掲示した場所が高札場で、各宿場や村々に設けられていました。通常、土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲んで、高札が掲げられる部分には屋根がついていたといいます。
平塚宿の高札場は、二十四軒町のこの地にあり、規模は長さ二間半(約5メートル)、横一間(約1.8メートル)、高さ一丈一尺(約3メートル)でした。
平塚宿には、平塚宿から藤沢宿、あるいは大磯宿までの公定運賃を定めたものの高札なども掲げられていました。
平塚宿本陣旧蹟碑
海道宿駅の高級旅館で、徳川幕府の許可と補助を受けて設備を充実していたものを本陣といい、これに次ぐものを脇本陣と呼んだ。東海道平塚宿の本陣は、代々加藤七郎兵衛と称し、現在の平塚2104番地 神奈川相互銀行支店所在地に南面して建っていた。総槻造 間口約30米、奥行約68米、東に寄って門と玄関があり、天皇や将軍大名などの御在所は上段の間であったという。
記録によると、徳川十四代将軍家茂は文久三年二月、元治二年五月の二回ここに休憩している。また明治元年十月と同二年三月の両度、明治天皇は東京行幸と遷都に際してここに小休された。
平塚宿問屋場跡
慶長六年(1601)東海道の交通を円滑にするため伝馬の制度が布かれた。この伝馬の継立するところを問屋場といい、問屋場には、問屋主人・名主・年寄・年寄見習・帳附・帳附見習・問屋代迎番・人足指・馬指などの宿役人等が10余人以上勤務していた。
平塚宿では初め、ここに問屋場が置かれたが、寛永3年(1635)参勤交代が行なわれるようになってから、東海道の交通量は激増した。伝馬負担に堪えかねた平塚宿は、隣接の八幡新宿の平塚宿への加宿を願い出で、慶安四年(1651)その目的を達した。
八幡新宿は平塚宿の加宿となり、新たに平塚宿に問屋場を新設した。これにより従来からの問屋場を「西組問屋場」といい、八幡新宿の経営する問屋場を「東組問屋場」といった。この両問屋場は十日目交替で執務したという。
「西組問屋場跡」から広い通りを左へ分けて、東海道は前方に高麗(こま)山の見える真っ直ぐの道を進む。しかし、我々は「平塚」地名由来の塚に寄り道する。「西組問屋場跡」の角を標識に導かれて右折し、200メートル進んだ突き当たりの要法寺、その左隣の公園に「平塚」がある。(左写真) 一段高い玉垣で囲われた塚に「平塚の碑」と刻まれた石柱が立っていた。
平塚市の案内板によると、
平塚の塚由来
江戸時代の天保十一年に幕府によって編さんされた『新編相模国風土記稿』野中に里人の言い伝えとして、「昔、桓武天皇の三代孫、高見王の娘政子が、東国へ向かう旅をした折、天安元年(857)二月この地で逝去した。柩はここに埋葬され、墓として塚が築かれた。その塚の上が平らになったので里人はそれを『ひらつか』と呼んできた。」という一節があり、これが平塚という地名の起こりとなりました。この事から平塚の歴史の古さが伝わります。
公園左側道路を隔てた奥に「鏡山お初」の墓がある。大変な烈女であるらしい。
平塚市観光協会の案内板によると、
鏡山お初の墓
「安室貞心信女、明和六年(1769)十月九日」と彫られている。浮彫の観世音の墓石が加賀見山旧錦絵という歌舞伎で活躍する「鏡山お初」のモデル、本名「たつ」の墓であると伝えられている。
おたつは、平塚宿の松田久兵衛の娘で、荻野山中藩大久保長門守の江戸屋敷の中揄ェ本みつ女の許に奉公にあがっていた。主人みつ女が年寄沢野から侮辱を受け自害したため、ただちに、沢野を訪ねて、主の自殺した小脇差で仇を討ったという烈女で、後に賞せられて年寄となったと伝えられている。
この墓の傍には、昭和十年に、「義女松田多津顕彰碑 鏡山お初」の碑が建立された。
東海道に戻ってお椀を伏せたような高麗山に向かって歩く。通りに平塚宿と書いた幟が点々と出されている。(左写真) 写真に収めようと幡を伸ばしていると、東海道を歩く夫婦が追いついてきて、二、三、言葉を交わした。夫婦者の東海道歩きに出会うのは今日二組目であった。一組目は茅ヶ崎の手前で逢い、どんどん先へ追い越して行った。
国道1号線に合流してすぐ先に、「平塚宿京方見附之跡」の木柱が立った緑地帯があった。この木柱は最頂部に小さな屋根を載せた姿まで、広重の「東海道五十三次の内 平塚」で高麗山とともに描かれている京方見附の標柱そっくりに造られている。これより大磯町に入った。
平塚市の案内板によると、
平塚宿京方見附
東海道五十三次の宿場として栄えた平塚宿の家並みは、空襲やその後の区画整理により、往時を偲ぶ面影が残っていません。
宿場の西の入口であった京方見附の場所も定かではなくなりましたが、先人たちの言い伝えや歴史資料等によりこの辺りにあったものと思われます。
初代広重によって描かれた東海道五十三次平塚宿の錦絵もこの付近からの眺めのものと思われ、変わらぬ高麗(こま)山の姿に往時の風情が偲ばれます。
国土交通省等の東海道ルネッサンス事業の一環として、既設の碑石周辺を再整備しました。
花水川を渡る花水橋の手前橋詰右側に、「平成の一里塚」と命名された休憩のための小公園があった。花水橋からは高麗山の全貌が見えて見事であった。逆光であったが写真に撮ってみた。(左下写真)
案内板によると、
平成の一里塚
江戸時代、旅人たちの道しるべとなった「一里塚」。街道に一里(3.9キロメートル)ごとに築かれた塚には、大木が植えられ、その木陰は、旅人たちの格好の休憩場所になっていました。そんな「一里塚」を現代に蘇らせようとつくられたのが「平成の一里塚」です。東海道の新しい道しるべとして、また、歩行者の休憩場所として、この地に整備されました。広重の絵にも描かれた、高麗山をバックにした東海道と花水川。「平成の一里塚」で、東海道の歴史・文化に思いをはせてみてください。
高麗山のふもとに高来神社がある。高来神社の入口の手前、右側に昔懐かしい藁葺き屋根の家があった。(右写真)それも藁葺きがしっかりしていて葺き直したのが、それほど昔のように思えなかった。
東海道から標識に導かれて高来神社に立ち寄った。案内書にあった高来神社の仁王像を見たいと思ったが、現在補修中で不在であった。
化粧坂の交差点で国道一号線を左へ分けて、東海道は真っ直ぐに緑の並木の中の坂道、 “化粧坂(けわいざか)” に入っていく。並木の途中左側に化粧井戸(けわいいど)の標識があり、井戸があった。(左写真)
案内板によると、
化粧井戸
「化粧」については、高来神社との関係も考えられるが、伝説によると鎌倉時代の大磯の中心は化粧坂の付近にあった。
当時の大磯の代表的女性「虎御前」もこの近くに住み朝な夕なこの井戸水を汲んで化粧をしたのでこの名がついたといわれる。
化粧坂はJR東海道線を地下道で南へ渡って、緩やかに下る。両側から松が倒れこんで道を狭めていた。(右写真) 東海道は国道1号線に戻り、まもなく大磯駅へ入る交差点に至り、右折して坂を登り、17時20分、本日のゴール大磯駅に着いた。本日の歩数は 41,291歩であった。
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