




元の道(国道467号線)に戻って東海道歩きを始める。街道右側に一軒蔵造りの商家(左写真)があった。紙を商っているようだ。 “蔵造りの商家” は防火対策のために店そのものを蔵造りにしてしまったもので、かって “小江戸” と呼ばれる川越の町でたくさん見た。
源義経ゆかりの白旗神社に寄り道すべく、700メートルほど西へ進んだ白旗の交差点を右折し、300メートルほど進んで、10時26分、白旗神社に着いた。白旗は源氏の旗印、一方赤旗は平家の旗印、だから、小学校の運動会の紅白の鉢巻や大晦日の “紅白歌合戦” のルーツは源平の戦いにあるという。余談はさて置き、白旗神社本殿石段下の左側に「源義経公鎮霊碑」があった。
近くに義経の首塚があると地図にあった。横丁に入ってそれらしい場所を探したが見当たらない。通りに戻って女房がそばの “タネ屋” さんで聞いた。白旗の交差点まで戻り、信用金庫角の東側の小路を入ると、児童遊具のある狭い空き地(タネ屋さんの裏)に義経の首塚と義経の首を洗ったと伝わる首洗い井戸(左写真)があった。石材で井桁に組まれた立派な井戸枠であった。
国道1号線を200メートルほど進むと、松並木が始まった。その最初に「一里塚跡」の標柱があった。(右写真)
「二ツ家稲荷神社」前には石柱の柵の中に庚申供養塔(左写真)があった。石碑に「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿がレリーフになっていた。
松並木の国道1号線を藤沢市から茅ヶ崎市に入る。そして、途中、円柱状の石碑の「明治天皇御小休所址」を見て、1キロメートルほど進んで、12時32分、浄土真宗上正寺に着いた。
茅ヶ崎駅に近い元町の真中、その名も「一里塚交差点」の東南角に「茅ヶ崎一里塚」の片方が残っている。(左写真)こんな街中に良くぞ残ったと声を掛けたくなる。
茅ヶ崎の街中を通り過ぎ、道は大きく右へ回り北西に向かう。まもなく千川に架かる鳥井戸橋を渡る。橋の向うに鶴嶺八幡宮の赤い鳥居が見える。橋を渡った左側の橋詰に、「南湖の左富士」の石碑(右写真)があった。ここから南側の地域を「南湖」という。
小出川を渡り、高架を横切る湘南バイパスを潜り、相模川の手前で平塚市に入るが、その少し手前の道端に、双体の道祖神と“道祖神”ときざんだ石柱が赤い屋根の中に納まっていた。(右写真)
東海道に戻って300メートル進むと、右側に平塚市民センターがある。開放になった中庭に入ると、「平塚の里」歌碑と、切り石を枡状に彫り出した井戸枠があった。(左写真)
その先すぐの右側に公園があって、入口の緑地内に「平塚宿見附の蹟」の石碑があった。(左下写真) “これより西、平塚宿” という平塚宿入口の「江戸方見附」である。
「西組問屋場跡」から広い通りを左へ分けて、東海道は前方に高麗(こま)山の見える真っ直ぐの道を進む。しかし、我々は「平塚」地名由来の塚に寄り道する。「西組問屋場跡」の角を標識に導かれて右折し、200メートル進んだ突き当たりの要法寺、その左隣の公園に「平塚」がある。(左写真) 一段高い玉垣で囲われた塚に「平塚の碑」と刻まれた石柱が立っていた。
公園左側道路を隔てた奥に「鏡山お初」の墓がある。大変な烈女であるらしい。
東海道に戻ってお椀を伏せたような高麗山に向かって歩く。通りに平塚宿と書いた幟が点々と出されている。(左写真) 写真に収めようと幡を伸ばしていると、東海道を歩く夫婦が追いついてきて、二、三、言葉を交わした。夫婦者の東海道歩きに出会うのは今日二組目であった。一組目は茅ヶ崎の手前で逢い、どんどん先へ追い越して行った。
国道1号線に合流してすぐ先に、「平塚宿京方見附之跡」の木柱が立った緑地帯があった。この木柱は最頂部に小さな屋根を載せた姿まで、広重の「東海道五十三次の内 平塚」で高麗山とともに描かれている京方見附の標柱そっくりに造られている。これより大磯町に入った。
高麗山のふもとに高来神社がある。高来神社の入口の手前、右側に昔懐かしい藁葺き屋根の家があった。(右写真)それも藁葺きがしっかりしていて葺き直したのが、それほど昔のように思えなかった。
化粧坂の交差点で国道一号線を左へ分けて、東海道は真っ直ぐに緑の並木の中の坂道、 “化粧坂(けわいざか)” に入っていく。並木の途中左側に化粧井戸(けわいいど)の標識があり、井戸があった。(左写真)




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