第 5 回 
  平成13年5月6日(日) 
 晴れ時々曇り、風さわやか
 藤沢宿−辻堂−茅ヶ崎−平塚宿−大磯宿
 “探し回った義経首塚から誰の目にもすぐにわかる高麗山まで” 



 最近、ウォーキングをメインにした雑誌が何種類か発行されている。当然、その中で “旧東海道” のウォークが特集になっていることも多いのだが、一月ほど前、徳間書店の大人のためのウォーキングマガジン「歩きたい!」編集部からメールが届き、「巨木巡礼」のホームページをその雑誌で紹介してくれるという。後日、紹介文を送ってきた。中で、 と紹介してくれて、大変光栄なことであった。後日、掲載誌ということで、立派な 「歩きたい!」 Vol.7 が送られてきた。

 “紹介” の中にあったように、一つの宿場で一本の巨木、これが楽なようでなかなか難しい。街道筋から大きく外れてしまうと意味が無い。第一、見に行くために道草をする気になれない。だから、特に事前調査はしないで、行き当たりばったりに徹することにしている。したがって、少々宿場から外れても、巨木とは言いがたい木でもご容赦願いたい。関東の東海道は戦災でひどくやられたためか、巨木も街中ではなかなか残っていないように思う。静岡県に入ればそんなに苦労はしないはずであるが。

 四日歩いて、ようやく朝の一番電車でなくても良いところまで近くなった。そこで一電車遅らせて、6時11分の普通電車に乗る。9時28分藤沢駅着の予定が二、三分早く着いた。

 先日の帰り道を思い出しながらたどって、藤沢橋まで戻る。藤沢橋には橋柱に藤の花がデザインされている。(右写真) 藤の花は藤沢のシンボルフラワーなのだと思う。東海道では藤枝でも市の花になっている。まだ藤の花の季節だから今日もどこかで藤の花を見ることになろう。

 前回の終りに遊行寺に寄ったが、ロックバンドのコンサートでお参りも出来なかった。今日の東海道歩きの前に、再度、正面から遊行寺に参拝することにした。朱塗りの遊行寺橋を渡り、黒門をはいると石畳の緩やかなスロープが境内に参拝者を苦労なく導いてくれる。「いろは坂」(左下写真)と呼ばれて、四十八段あるはずだが、ほとんど段差を意識せずに歩ける。

 境内に入ると “大イチョウ” はすっかり緑に変身していた。境内では前回と変って骨董市が開かれていた。所狭しと並んだ骨董品が “大イチョウ” の回りまで占め、今日も “大イチョウ” は何やら落ち着かないようだ。

 
 本堂前右手の花の終わったつつじの中に、彫りが深く日本人離れした顔の一遍上人像が合掌しながら前へ歩みだす姿勢で立っていた。“遊行”を修行のメインとした一遍上人らしい姿であった。
 境内の右手通用口の右側に「敵御方供養塔」(上の右側写真)がある。敵味方を共に供養する発想は博愛思想を引っ張り出すまでもなく、日本には昔からあった。博愛思想というより此の世に思いを残した死者への畏れゆえだと思う。ともあれ、供養塔の、これだけ古いものは珍しいという。
 元の道(国道467号線)に戻って東海道歩きを始める。街道右側に一軒蔵造りの商家(左写真)があった。紙を商っているようだ。 “蔵造りの商家” は防火対策のために店そのものを蔵造りにしてしまったもので、かって “小江戸” と呼ばれる川越の町でたくさん見た。

 源義経ゆかりの白旗神社に寄り道すべく、700メートルほど西へ進んだ白旗の交差点を右折し、300メートルほど進んで、10時26分、白旗神社に着いた。白旗は源氏の旗印、一方赤旗は平家の旗印、だから、小学校の運動会の紅白の鉢巻や大晦日の “紅白歌合戦” のルーツは源平の戦いにあるという。余談はさて置き、白旗神社本殿石段下の左側に「源義経公鎮霊碑」があった。
 白旗神社の本殿右側には「辨慶の力石」がある。“橘樹神社の力石”同様、村の力自慢がこの石で力を競って遊んだものであろう。 “弁慶” はあとからついたものであろう。

 
 本殿から右手へ降りた社務所のそばに藤棚が二つあり、白い藤の方が「義経藤」(奉納 小室一郎)(左写真)と命名され、いま満開であった。一方、藤色の方は「辨慶藤」と命名され、花期はすでに終わっていた。「辨慶藤」の前に芭蕉の句碑が建っていた。 「草臥(くたびれ)て宿かる比(ころ)や藤の花」 社務所前には白旗神社に伝わる “湯立神楽” の説明板があった。
 近くに義経の首塚があると地図にあった。横丁に入ってそれらしい場所を探したが見当たらない。通りに戻って女房がそばの “タネ屋” さんで聞いた。白旗の交差点まで戻り、信用金庫角の東側の小路を入ると、児童遊具のある狭い空き地(タネ屋さんの裏)に義経の首塚と義経の首を洗ったと伝わる首洗い井戸(左写真)があった。石材で井桁に組まれた立派な井戸枠であった。

 奥州の平泉で討たれた義経・弁慶主従の首は頼朝の許に届けられ、首実検を受けたあと、この地の人々に埋葬、供養されたという。かっては義経の首塚と一緒に、弁慶の首塚もあったという。

 通りに戻るとそこに「伝源義経首洗井戸」の案内標識の柱が立っていた。最初、通りの向うを歩いて来たから気付かなかったようだ。

 11時になったので、蕎麦屋を見つけ昼食にした。「吉野」という蕎麦屋さんで「とろろそば」をたべた。食後に摂ったそば饅頭はなかなか美味であった。練ったそば粉にコシ餡を包んで蒸し、黄粉をまぶす。多分こんな作り方であろうか。女房は家で作ってみようと言う。

 街中をひたすら西へ進む。10分ほど進んだ左側、石垣の上に双体の道祖神が祀られてあった。「おしゃれ地蔵」とは変った命名である。双体とも顔が薄いピンクに塗られている。
 さらに20分ほど西へ歩く。辻堂駅に近いと思うのだが、旧東海道からは少し離れているようだ。12時、東海道が国道1号線と合流する四ツ谷に着く。その交差点に大山道との分岐点があり、四谷不動(大山道標)と呼ばれるお堂と、分岐から少し入ったところに大山阿夫利神社の鳥居が見えた。もっとも大山阿夫利神社はここより20キロメートルも山へ入ったところにある。

 東海道と大山道が交差する四谷辻にお堂があって、うん、これこそ「辻堂」の地名発祥の地ではないかと思った。帰ってから調べてみると、辻堂村の中心はかなり南側にあった。村の中心に鎌倉道との十字路でお堂のある場所が三ヶ所もあって、由来の場所はその三ヶ所のどこかだが、どこかは定まっていないということであった。

 国道1号線を200メートルほど進むと、松並木が始まった。その最初に「一里塚跡」の標柱があった。(右写真)

 さらに100メートルほどで、右側に「二ツ家稲荷神社」がある。ここからも大山道が分岐している。先ほどの四ツ谷の大山道が江戸からの道で、ここ「二ツ家」の大山道は東海道と交差して鎌倉道へ通じている。二ツ谷の地名の謂われが書かれた案内板があった。
 「二ツ家稲荷神社」前には石柱の柵の中に庚申供養塔(左写真)があった。石碑に「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿がレリーフになっていた。
 正午を回ったばかりの二ツ家稲荷神社に、若い長身の父親と二、三歳の幼児が遊んでいた。父親は子供のために木の枝で狭い境内いっぱいに線路を書く。幼児はおぼつかない足取りでその線路をたどる。二人は無心に遊び、線路はいよいよ伸びて複雑に絡まる。ほほえましくもあり、何やら訳ありの寂しさも感じたのは勝手な感情移入であろうか。

 松並木の国道1号線を藤沢市から茅ヶ崎市に入る。そして、途中、円柱状の石碑の「明治天皇御小休所址」を見て、1キロメートルほど進んで、12時32分、浄土真宗上正寺に着いた。

 上正寺は現在本堂の改築中であった。本堂の場所は更地になって、基礎工事を始めたばかりのようであった。作業員は昼休み、我々も休憩舎で一休み中のところ、お葬式の一団がやってきた。骨壷を持った一団は本堂の無いのに戸惑いうろうろしていた。坊さんが来て、結局墓地の方へ行った様子ながら、骨壷を持ってお墓に行って納骨をしてしまう訳でもあるまい。他人事ながら落ち着かないことであった。

 上正寺の山門を入った左側に古い立派な石燈籠があった。(右写真)上野の寛永寺よりもたらされたものだという。
 茅ヶ崎駅に近い元町の真中、その名も「一里塚交差点」の東南角に「茅ヶ崎一里塚」の片方が残っている。(左写真)こんな街中に良くぞ残ったと声を掛けたくなる。
 茅ヶ崎の街中を通り過ぎ、道は大きく右へ回り北西に向かう。まもなく千川に架かる鳥井戸橋を渡る。橋の向うに鶴嶺八幡宮の赤い鳥居が見える。橋を渡った左側の橋詰に、「南湖の左富士」の石碑(右写真)があった。ここから南側の地域を「南湖」という。
 
 右手を鳥居を潜って真っ直ぐ北へ向かうと鶴嶺八幡宮に到るが、1キロメートルほどの寄り道になるので、先へ進む。14時25分、相模川の支流の小出川に出る。小出川を渡る手前の左側、少し下った木立の中に「旧相模川の橋脚」(左写真)が池の中に残されていた。池の中には睡蓮がびっしり葉を浮かべて、花が咲けばさぞ見事であろうと思った。
 小出川を渡り、高架を横切る湘南バイパスを潜り、相模川の手前で平塚市に入るが、その少し手前の道端に、双体の道祖神と“道祖神”ときざんだ石柱が赤い屋根の中に納まっていた。(右写真)

 相模川に架かる馬入橋を渡る。相模川の河原にはオートバイのショップが集まり、川面はウォータースポーツのトレーニング場になって、水上バイクが白波を蹴立てていた。橋を渡ると右側にホテルサンライフガーデンがある。ホテル前に「明治天皇馬入御小休所趾」の石柱があった。
 その先で国道1号線を右側に斜めに分けて、真っ直ぐの旧道を平塚の街に入った。今日は何としても大磯まで行きたい。そうすれば、次回、小田原まで、そしてその次に箱根へ歩を進められる。そろそろ疲れのきた女房を「あと何キロだから」と励ましたり、なだめたりして進んだ。繁華な商店街の中で、駅近くの紅谷町の「お菊塚」を探した。東海道と平塚駅の間にあるのだが、商店街をあてずっぽうに脇道に逸れ、15時25分、建物の間の紅谷町公園を見つけた。「お菊塚」はその隅にひっそりとあった。お菊は言わずと知れた「番町皿屋敷」のモデルとなった女性である。そばの滑り台に登って “お菊塚” ときざまれた自然石の碑を写真に納めた。(左下写真)

 東海道に戻って300メートル進むと、右側に平塚市民センターがある。開放になった中庭に入ると、「平塚の里」歌碑と、切り石を枡状に彫り出した井戸枠があった。(左写真)
 この地の江戸城の垣石や井戸枠、さらには上正寺にあった上野の寛永寺より貰い受けた石燈籠など、時代は違うが江戸から到来したものが目立つ。江戸時代も今も江戸の影響下にあるということだろうか。

 その先すぐの右側に公園があって、入口の緑地内に「平塚宿見附の蹟」の石碑があった。(左下写真) “これより西、平塚宿” という平塚宿入口の「江戸方見附」である。

 その奥にクスノキの記念樹があった。(右写真) この「平塚小学校蹟の樟樹」を平塚宿の巨木としよう。
 後日調べたところ、このクスノキは幹周囲5.4メートル、主幹3.6メートル、樹高13メートルで、樹齢は105年、平塚市保全樹木に指定されている。

 戦災やその後の開発で、宿内であったこの辺りに、かっての宿場であった名残もない。ただ、右側歩道上に立て続けに、「平塚宿脇本陣跡」、「平塚宿高札場の蹟」、「平塚宿本陣旧跡」、「平塚宿西組問屋場の蹟」の石柱や鉄柱の標識が立っていた。(左下写真) また、それぞれに丁寧な案内板が付いていた。
 「西組問屋場跡」から広い通りを左へ分けて、東海道は前方に高麗(こま)山の見える真っ直ぐの道を進む。しかし、我々は「平塚」地名由来の塚に寄り道する。「西組問屋場跡」の角を標識に導かれて右折し、200メートル進んだ突き当たりの要法寺、その左隣の公園に「平塚」がある。(左写真) 一段高い玉垣で囲われた塚に「平塚の碑」と刻まれた石柱が立っていた。
 公園左側道路を隔てた奥に「鏡山お初」の墓がある。大変な烈女であるらしい。
 東海道に戻ってお椀を伏せたような高麗山に向かって歩く。通りに平塚宿と書いた幟が点々と出されている。(左写真) 写真に収めようと幡を伸ばしていると、東海道を歩く夫婦が追いついてきて、二、三、言葉を交わした。夫婦者の東海道歩きに出会うのは今日二組目であった。一組目は茅ヶ崎の手前で逢い、どんどん先へ追い越して行った。

 国道1号線に合流してすぐ先に、「平塚宿京方見附之跡」の木柱が立った緑地帯があった。この木柱は最頂部に小さな屋根を載せた姿まで、広重の「東海道五十三次の内 平塚」で高麗山とともに描かれている京方見附の標柱そっくりに造られている。これより大磯町に入った。
 花水川を渡る花水橋の手前橋詰右側に、「平成の一里塚」と命名された休憩のための小公園があった。花水橋からは高麗山の全貌が見えて見事であった。逆光であったが写真に撮ってみた。(左下写真)

 高麗山のふもとに高来神社がある。高来神社の入口の手前、右側に昔懐かしい藁葺き屋根の家があった。(右写真)それも藁葺きがしっかりしていて葺き直したのが、それほど昔のように思えなかった。

 東海道から標識に導かれて高来神社に立ち寄った。案内書にあった高来神社の仁王像を見たいと思ったが、現在補修中で不在であった。

 化粧坂の交差点で国道一号線を左へ分けて、東海道は真っ直ぐに緑の並木の中の坂道、 “化粧坂(けわいざか)” に入っていく。並木の途中左側に化粧井戸(けわいいど)の標識があり、井戸があった。(左写真)

 化粧坂はJR東海道線を地下道で南へ渡って、緩やかに下る。両側から松が倒れこんで道を狭めていた。(右写真) 東海道は国道1号線に戻り、まもなく大磯駅へ入る交差点に至り、右折して坂を登り、17時20分、本日のゴール大磯駅に着いた。本日の歩数は 41,291歩であった。







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