第 8 回 
  平成13年6月17日(日) 
 くもり
 箱根宿−箱根峠−山中城跡−初音ヶ原−三島宿
 “整備の済んだ快適石畳が繋ぐ箱根西坂五ヵ新田”



 先週、九州の出張先ホテルで、「小泉内閣のメールマガジン」発刊のテレビニュースを見た。近日発刊の情報は知っていたが、登録していなかった。70万人の登録者に創刊号が送られたようだ。帰宅後直ちに登録した。多分130万人目あたりの登録だったと思う。

 発刊の発表があったとき、こんな手があったかと、目から鱗が落ちる思いであった。創刊号をホームページで見て、首相や閣僚の人となりが知れて面白かった。今後どう発展していくのか知らないが、余りまじめに政策を述べるようなメールマガジンでは見る人はいなくなるだろう。政策の周知は他のマスメディアでできる。メールマガジンは政策浸透の地均し作業でよい。今のところ、各閣僚が自分の色を出して、読んで大変興味深い。しかし、今にまじめな閣僚に順番が回ってきて、読まれないメールマガジンになってしまうのではなかろうか。

 同じことはこのホームページにもいえる。ある人が固すぎると感想をくれた。何とか読みやすくしたいと思うのだが、根が真面目なせいか、なかなかぐだけてこない。せいぜい読みやすくするよう心掛けようと思う。

 いよいよ「旧東海道夫婦旅 静岡編」のはじまりである。静岡県の東海道二十二宿は平成7年に職場の先輩達と休日を利用して歩いた。(「東海道五十三次ウォーク」) これからの旅記録では、「東海道400年祭」に向けて、この五、六年の間に整備されたところ、変ってしまったところを注意して紹介していきたい。

 三島駅発、午前8時30分、バスで箱根を登る。車中には男数人の中年団や女性のグループ、夫婦者やカップルなど、おそらく箱根から下るコースを歩くと思われる人達が何組か乗り合わせた。

 午前9時10分、元箱根終点で下車、箱根神社の赤い大鳥居の根元の「賽の河原」(左写真)から今日の旅を始める。かっては湖畔に並んでいた石仏・石塔のほんの一部を集めたものという。標高700m、運び上げるには決して楽ではなかったはずなのに、次から次へと石仏・石塔を立て続けた昔の人々の思いとはどんなものであったろうか。遠い昔に想いをはせた。
 大鳥居から振り返ると箱根杉並木が箱根関所跡の方向へ続いているのが見えた。(右写真) この道は前回の最後に歩いた箱根旧街道である。

 旧街道杉並木の始まりの山側に、「箱根旧街道一里塚 江戸から二十四里」と刻んだ石碑(左写真)があった。「葭原久保の一里塚」である。
 案内板で一里塚に植えられた「檀(まゆみ)」は、樹木図鑑によると、落葉樹で、初冬に赤い実がよく目立つ。古来、この木から弓を作ったことから「真弓」の名がある。枝はよくしなうとあった。

 これより何百メートルかの杉並木は昔の街道の姿をよく残して、今にも大名行列が進んで来ても違和感のない風情であった。(右写真) 往時との違いはかっては杉並木がもう少し細かった位であろうか。
 旧東海道の並木といえば大抵は松並木で、杉並木はこの芦ノ湖畔にしかない。この地は霧の深い日が多く、松が育ち難いため、杉に植え替えたものといわれている。

 ところが、この美しい杉並木も、戦時中には危うく伐られるところだったという。昭和19年秋、軍用の船の材料として供出要請があったが、当時の担当職員であった、興禅院の住職が関係書類を焼き捨てたあと、従軍僧を志願して中国に渡ってしまった。この捨て身の行動で、箱根旧街道の杉並木は1本も伐られることなく残されたという。

 箱根旧街道の杉並木を抜けると恩賜箱根公園に出る。前回はこの恩賜公園前のバス停で旅を終えた。恩賜箱根公園の入口には「箱根八里」の歌碑があった。「箱根八里」の歌は第7回の旅の始めに紹介した。
 国道から芦ノ湖側に外れて、「箱根関所跡」(左写真)に立ち寄る。現在、関所周辺の整備が行われている。昔の面影を残した整備に留めて欲しいものである。関所にはすでに観光客がたくさん入っており、女房も最近訪れたというので、本日は素通りすることにした。六年前の正月に「東海道五十三次ウォーク」はここをスタートとした。(以下略して「ウォーク」と呼ぶ)

 「ウォーク」では峠越えに備えて、関所近くの「美濃屋」という蕎麦屋で腹ごしらえをしている。今回、我々は途中のコンビニでおむすびを仕入れた。

 国道に戻って芦ノ湖側の箱根ホテルの前に、カエデの古木(右写真)が一本立っていた。これは「箱根宿楓並木」の名残だという。楓並木があったと聞くのは初めてである。
 箱根の街の外れで、箱根峠に登る国道一号線と別れて、右手に進む。駒形神社を左手に見て、すぐその先で、午前10時、箱根旧街道の石畳の登りが始まる。入口に芦川の石仏石塔群が安置されているが、夏草に埋没しそうになっている。(左写真) ここで若いカップルを先に行かせる。東海道歩きに若者をカップルで見るのは珍しい。
 これより箱根峠に向って、約500mの石畳の登りが、「向坂」「挟石坂」と刻んだ碑(いしぶみ)(右写真)に導かれて、続いていく。さっそく旧街道は蛇行して登る国道と交差し、国道の下を潜る。箱根道中で、車道を歩道橋で渡る所は何箇所かあったが、下を潜るのはここだけであった。石畳が国道下にも途切れずに続いていたので、女房が昔からこうなっていたのかととぼけた質問をする。もちろん昔は国道は無く、同じ傾斜の石畳が続いていた。おそらく交差する部分の石畳を少し削って、潜りぬけたところから段をつけてもとの石畳に繋いだようだ。

 一汗かいて石畳から車道に出る。そこで国道一号線と「箱根新道」がやや複雑に合流・分岐するため、道路をよく見定めてから、路側を少し登り箱根峠に出た。「ウォーク」では「寒風が吹きまくり、登り坂で一汗かいて皆んなセーターを脱いでいたので震え上がった」と記録しているが、風は通るけれど今日は暑いくらいである。

 午前10時30分、箱根峠に着く。ここよりいよいよ静岡県に入った。標高846メートルの標柱があり、ドライブインやガソリンスタンドがある。バス停もあった。箱根旧街道はそこで国道一号線から右へ別れる。ゴルフ場への取付道路を道標にしたがってしばらく進んで茨ヶ平に出た。この道で、どこから現われたのか、前後に数組の現代の旅人が連なった。静岡県は “東海道” に対して他県とは違う盛り上がりがあるのであろう。これらの人達とは今日一日、抜きつ抜かれつの旅行きとなる。

 茨ヶ平より車道から左へ分かれ、箱根旧街道の下りが始まる。その入口に「兜石」の道しるべ(左写真)が建っていた。静岡県の旧東海道筋には、 歴史の道『東海道』の道しるべ として、共通の標識が往来の要所に設置されている。「ウォーク」のときには、設置されたばかりのこの道しるべに度々助けられた。この「兜石」の道しるべは最初の“道しるべ”であった。この旅の記録ではこの道しるべを以下のように記録しよう。

箱根関所 箱根関所まで二十七町 →【三島市 兜石】→ 三島宿 宿境まで二里二十七町
 休憩舎のある茨ヶ平には十国峠方面を見晴らす絶景の地に、箱根八里記念碑「茨ヶ平」(右写真)が建っている。この碑は井上靖の文学碑であった。“北極星を指差す大きな人差し指”のような文学碑で、爪の部分が碑面になっている。
 
北斗闌干   「闌干」は「星または月が輝いてきらきらするさま。(広辞苑)」
 下りに入って、背丈より高い篠竹のトンネルの道(左写真)になる。「ウォーク」の時よりはるかに篠竹が繁茂している。箱根に多く自生している篠竹をハコネダケと呼ぶ。小筆の軸か民芸品にしか使われなかったハコネダケが、関東大地震のあと、日本家屋の土壁の下地として珍重され、復興に大変貢献したという逸話も残っている。

 午前11時、国道に出る。「ウォーク」のときは一度国道を横切り、すぐにもう一度ターンしてきた国道を横切った。今日は短い区間の旧街道が荒れてしまって、ターンする国道を歩いて、旧街道の入口の「接待茶屋」に至った。「ウォーク」時の記憶を頼りに、国道を渡り戻って、背丈ほどの草と灌木の中に分け入ったところ、「接待茶屋跡」に一面の碑と二人の胸像が屋根付で埋もれていた。
 「大原幽学」は江戸後期の農村指導者。諸国を遍歴、神・儒・仏に通達、心学の影響をも受けて、下総香取郡長部村で性理の学を教授。農村救済のため、組織した先祖株組合は農業協同組合運動の先駆といわれる。(「性理」とは「人の性命と天理。つまり、人が天から授かったそれぞれの性質と運命、および人為でない天の正しい道理。)

 二つの胸像は鈴木とめ、鈴木力之助親子のもので、その子孫が個人的に建立したもののようだ。だからこれだけ整備が進んでいる旧東海道の中で、忘れられたように草に埋もれているのであろう。接待茶屋は前回歩いた箱根東坂の割石坂にもあった。ここの接待茶屋は割石坂の案内板にあった「西坂の施行平に設置」というものであろう。灌木の中まで分け入った駄賃に、夫婦してあたりに実った黄色い木苺をもいで食べた。

 もう一度国道を渡った箱根旧街道の入口に、緑に埋もれて、「国指定史跡 江戸より二十六里 東海道一里塚」と刻まれた石碑があった。「山中新田の一里塚」(右写真)である。
 さらに「接待茶屋」の道しるべも建っていた。

箱根関所 箱根関所まで三十三町 →【三島市 接待茶屋】→ 三島宿 宿境まで二里二十一町

 「接待茶屋」から少し下った右側に大きなおむすび型の石があった。先刻、国道に出る前の路傍に「兜石跡」の標石を見たが、道路改修にじゃまになってここへ移したものだという。
 街道筋の大石が多くの人に道中の目標にされているうちに、様々な伝説が付いていく様子が知れて面白い。左写真は少し暗かったため、手ぶれしてピンぼけに写ってしまった。画像補正で何とか誤魔化してある。
 その先の左側に街道ではおなじみの「明治天皇御小休跡碑」があった。ここも明らかに「ウォーク」の時より草に埋もれかかって見える。あるいは、「ウォーク」時は1月だったから、よけいにそう感じるのかもしれない。

 このあたりの旧街道を「石原坂」というらしい。林の中の道にせり出した岩に、「念仏石」のネーミングがされていた。下部に窪みがあって伝説を生みそうな岩であった。
 旧街道は「大枯木坂」に掛かった。この辺りであったか、犬を2頭散歩させるおばさんに出会った。大型犬の手綱を引き、小型犬は放したままで散歩をさせている。

 おばさんの話では、「この下に住んでいるが、あたりによく捨て犬があり、2頭とも拾って育てている」という。雑種ではないのだが、流行から外れてしまった犬が捨てられるのであろう。

 小型犬は女房の足元にまつわり、先に行く飼主に付いて行かない。「放っておいてもひとりで帰るから」と飼主が坂の向うに見えなくなる前に、ようやく追い掛けて行った。(左写真) 「こんな犬なら飼ってもよい」と女房は気に入った様子だったが、飼うと気軽に外出できなくなるよ。

 国道を渡って、「小枯木坂」を行く。この辺りは「ウォーク」時には、「石畳を発掘中で、何m置きかで四角く石畳が出る所まで掘られている。おかげで道はそれらの穴を縫うように縄張りされて蛇行している。石畳までの深さは50cmから1.5m位まであって、焦げ茶色の火山灰で覆われている。これは富士の宝永山噴火の堆積物なのであろうか」と記録している。現在はすっかり整備が終わり、大変歩きやすい道になっていた。(右写真)
 「願合寺地区石畳」の道しるべもあった。

函南町 宿境 →【三島市 山中新田 願合寺地区石畳】→ 三島宿 宿境まで二里八町

 「ウォーク」では、「石畳は金谷のものと違って、丸石が少なく割った石が多い。この辺りでは河原から石を上げる訳にいかないから、山から出したものなのだろう」と想像していたが、案内板では補修に使った石が神奈川県根府川町で採石した安山岩であったというから、昔もその類の石が使われたのであろう。右上の写真手前の石が横へ連なった部分が「一本杉石橋」である。
 小枯木坂の終わり、国道へ上がる直前の杉の大木の前に「雲助徳利の墓」がある。“さかずき” と “とっくり” を浮き彫りにした墓石があった。一見して酒好きの墓とわかる。誰が供えたか一升瓶をまるで墓石が抱えているように見えて、笑ってしまうユーモラスな墓石である。
 正午ちょうど、国道一号線に上がったところに、「竹屋」という蕎麦屋があった。竹屋はかって間の宿、山中宿の旅籠であったという。おにぎりも買ってあったが、昼時でタイミングが良すぎて、ついつい竹屋に入ってしまった。店内には後のなり先になって道中を歩いてきた旅人達が集まっていた。バスで見た中年団も座敷でビールに話が弾んでいた。我々もざるそばを頼んだ。竹の器で頂くそばは野趣があっておつなものであった。

 竹屋の向かい側から山中城跡に上った。
 国道から登った先に駒形諏訪神社がある。山中城趾はその左背後に広がっている。駒形諏訪神社にはカシの巨木(左写真)があった。
 案内板には「損傷もなく」とあるが、前側の大枝が折れたのか、根元から切り取られて養生されていた。「ウォーク」の時には “損傷もなく” 枝が密生して薄暗かったのに、随分明るくなってしまった。ともあれ、この巨木を「間の宿−山中宿の巨木」としよう。

 山中城跡は随分広く、迷子になりそうなほどであった。多くの曲輪跡や空堀があり、芝が植わって公園になっている。芝の上で弁当を広げる人達もちらほら見える。中でも、空堀の一種、障子堀は底に残された畝が洋菓子のワッフルのようで面白い。

 ぐるりまわって降りて来たところは、最も南の三島側の駐車場であった。宗閑寺にあるという敵味方両軍のお墓に詣でようと、国道を戻る。途中、左階段上に「芝切地蔵堂」があった。(右写真)
 宗閑寺はそれと気付かず通り過ぎ、引き返して、午後1時、やっとたどり着いた。入口が狭く標識が横たえてあって、判り難くなっていた。境内の左手に、北条軍が左側、豊臣軍が右側に、それぞれの墓が固まってあった。(左写真) 敵味方、ほとんど同規模で、勝利した豊臣軍の方がわずかに立派に見える程度の違いであった。
 山中城跡の駐車場まで戻る。山中城跡は国道の向かい側の岱崎出丸に続いている。箱根旧街道もそこで国道を横切り国道に沿って石畳が続いていく。その入口に「山中城跡」の道しるべが建っていた。

函南町 宿境まで九町 →【三島市 山中新田 山中城跡】→ 三島宿 宿境まで一里三十五町

 ここの石畳を「ウォーク」では「最近造られた観光用の石畳」と書いたが、実は旧道を復元整備した部分であった。現在は石畳復元整備の案内板も出来ていた。
 少し進んだ石畳の道端に、箱根八里の記念碑 「山中城趾」、司馬遼太郎の文学碑(右側の右写真)があった。楽器の琵琶を、胴を上にして立てたような形の碑であった。だからという訳ではないが、琵琶の音が聞こえてくるような碑文である。

幾億の足音が坂に積もり 吐く息が谷を埋める わが箱根にこそ

 文学碑の隣に安置された荒削りな石仏を前景に石畳をデジカメにとって見た。題は「昼下がりの石畳」 (右側の左写真)

 再度国道への出口に、「腰巻地区石畳」の道しるべが建っていた。

函南町 宿境まで十三町 →【三島市 山中新田 腰巻地区石畳】→ 三島宿 宿境まで一里三十一町

 国道端に一本杉と呼ばれる巨木が立っている。国道を渡った斜め向かい側に「菊池千本槍の碑」 があった。御醍醐天皇の頃、菊池氏が竹竿に短刀を括り着けて槍を作り戦いに望んだ。それまで槍という武具は無かったというが本当なのかどうか。
 石畳の旧街道に入ると浅間平地区の石畳整備復元の案内板があった。
 午後1時30分、浅間平地区を抜けて、再び国道を横切るが、その手前の広場に大きな芭蕉の句碑があった。

霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き

 「ウォーク」で「芭蕉翁、富士山が見えず負け惜しみの1句である。今日は句碑の背後に富士山が見えた」と書き記している。最初に見たとき、句碑のでかさに違和感を感じたものだが、富士山を背景に句碑を写真に撮ろうとして気が付いた。富士山の大きさに句碑もこの位大きくないと釣り合わないことを。
 とにかく富士山の見えない今日は、句碑の大きさだけが目立ってしまう。

 芭蕉の句碑の広場に出たところに、「富士見平」の道しるべが建っていた。

函南町 宿境まで十七町 →【三島市 山中新田 富士見平】→ 三島宿 宿境まで一里二十七町

 旧街道はここから「上長坂」に入る。「ウォーク」では「鎖に囲まれた石柱の明治天皇休息碑があった」はずだが、なぜか見逃してしまった。上長坂地区の石畳整備復元の案内板があった。
 街道は国道に出て、少し路側の歩道を行き、すぐにまた石畳に戻る。その出口と入口にそれぞれ「上長坂」と「笹原地区石畳」の道しるべがあった。

箱根宿 宿境まで二里四町 →【三島市 笹原新田 上長坂】→ 三島宿 宿境まで一里二十四町

函南町 宿境まで二十一町 →【三島市 笹原新田 笹原地区石畳】→ 三島宿 宿境まで一里二十三町

 笹原地区石畳に入ってすぐに路傍に銀竜草(ギンリョウソウ)を見つけた。(左写真) 銀竜草は一名 「幽霊茸」とも云い、緑葉を持たないイチヤクソウ科の腐生植物で、森林中の湿地、枯葉などの堆積した場所に生ずる。雁首の白い部分は花である。

 笹原地区の石畳整備復元の案内板があった。
 笹原一里塚の手前で、石畳は畑の中に入る。「ウォーク」で畑の中の街道は畑と高さがそれほど変らないと思ったが、石畳を掘り出した結果、石畳の路面はかなり低くなっていた。

 笹原一里塚は旧街道が集落に入り、国道を横切る少し手前の左側にあった。木杭で造った階段を登ると丸い塚の形と、その上に榎らしき樹もしっかり植わっていた。(右写真) 傍らに箱根八里の記念碑 「笹原一里塚」、大岡信の文学碑があった。(左写真) この碑も形が変っている。山仕事に使う鉈を短く太くしたような形といおうか。これも意図したものであろうか。碑文と妙に呼応する。

森の谺を背に 此の径をゆく 次なる道に出会うため

 国道と交差点に「笹原一里塚」の道しるべがあった。

函南町 宿境まで二十六町 →【三島市 笹原新田 笹原一里塚】→ 三島宿 宿境まで一里十八町

 国道を突っ切って笹原新田の集落を行く。人家を抜けて、坂が箱根西坂第一の急坂になって、この辺りを「こわめし坂」という。
 こわめし坂の終わりに「こわめし坂」の道しるべと案内板があった。

函南町 宿境まで三十一町 →【三島市 三ツ谷新田 こわめし坂】→ 三島宿 宿境まで一里十三町
 こわめし坂から車道に出て、三ツ谷新田の集落に入る。「ウォーク」では「こわめし坂から車道に出たあたりで見る富士山は左手の愛鷹山系と並んでいて構図が面白く、思わず皆でカメラを取り出しシャッターを切った」と書いている。今日はそんな景色は望めない。その入口に案内板があった。
 14時24分、かって寺本陣と呼ばれ、本陣の機能もはたした松雲寺に着く。ここにも明治天皇の足跡が碑として残っていた。また境内に入った右側に「明治天皇御腰掛石」なるものがあった。(右写真) 女房を座らせてデジカメに撮ったが、畏れ多かったせいか失敗してしまった。
 かって狭い境内には杉の巨木が鬱蒼と生育していたが、狩野川台風で失われたという。今は「参杉明神」として小さな祠が残る。(左写真)
 松雲寺を見学している間に一組、松雲寺を出てから一組と、熟年グループに抜かれる。三ッ谷新田の集落を抜けるのに10分ほどかかった。

 集落を外れて、車道からも右へ分かれて、坂小学校の側を行く。学校のある辺りに、昔は法善寺という寺があり栄えていた。右側の小公園に「史跡法善寺旧址」と刻まれた石碑と寺誌の石碑があった。(右写真) 現在、法善寺はこの下の題目坂を下った市山新田に移っている。寺の中には足利尊氏が建立したといわれる「七面堂」というお堂もあったという。題目坂の下り口に石碑が残っている。石碑側面には「東海道中膝栗毛」の中の狂歌が刻まれていた。

あしがわの ぶしょうのたてし なにめでて しちめんどうと いうべかりける

 「武将」と「不精」、お堂の名前の「七面堂」と非常に煩わしいことの「七面倒」を掛けた高級駄洒落である。

 そこより急坂のため石段になっている「題目坂」を下る。題目坂の片側斜面には白の紫陽花がいっぱい花を付けていた。「ウォーク」では「おそらく登ってくる旅人は法善寺を目指してお題目を唱えながら登って来たのであろう」と知ったかぶりに書いたが、案内板には次のように書かれていた。
 題目坂を降りたところに「題目坂」の道しるべがあった。

函南町 宿境まで一里九町 →【三島市 市の山新田 題目坂】→ 三島宿 宿境まで三十五町

 降り立った右側の路傍に「出征馬記念碑」が建っていた。(左写真) 謂れは判らないが、出征は人だけではなかった。人間と違って馬は帰還することはなかったであろう。記念碑を建てた人達の想いはどんなだったのだろうか。碑前にちょこんと茶色い陶器の布袋様が置かれていた。

 法善寺の門の右側には確かにひげ題目の石碑があった。5分ほど市山新田の集落を進んだ右側に「六地蔵」がある。(右写真) 植え込みの中に隠れて、立札がなければ見過ごすところであった。六地蔵も代替わりするのか、背後にもう一組のかなり草臥れた六地蔵が並んでいた。

 市山新田の村はずれで車道から右側に分かれて「臼転坂」を下る。途中竹薮を背景に馬頭観音の碑があった。
 臼転坂を下ったところに「臼転坂」の道しるべがあった。

函南町 宿境まで一里十五町 →【三島市 塚原新田 臼転坂】→ 三島宿 宿境まで二十八町

 「ウォーク」では「箱根旧街道には数多くの命名された『坂』があった。昔の旅人は名前の付いた坂を一つ又一つと乗り越えて励みにしながら登って行ったのであろう」と感想を述べている。

 塚原新田の集落には普門庵や宗福寺など立ち寄るポイントもあったが、疲れから素通りしてしまった。村はずれに花に囲まれた道祖神があった。隣に赤字で刻んだ「童尊神」の新しい石碑が立っていた。単に語呂合わせと思ったが、祀るには深刻な理由があるのかもしれない。

 塚原新田の外れに箱根街道の入口を示す「箱根路」と彫り込んだ大石の石碑があった。ここから国道一号線が合流する。振り返るとここまで歩いた箱根西坂には、下から、塚原新田・市山新田・三ツ谷新田・笹原新田・山中新田と五つの新田が並んでいる。三島市発行のパンフレットによると、「この西坂五ヵ新田は箱根越えをする旅人を助けるため、江戸幕府が近郊の次男・三男に、集落を造らせたものです。旅人相手に木賃宿や馬方、かごかきをしたりして生活をしていました」とある。

 この先から初音ヶ原の松並木が始まる。(左写真) 松林の更に西側に石畳が復元されて、この石畳と松並木は静岡県街並50選に『石畳の道』として選ばれ、近くの住民の格好の散歩道になっている。
 15時40分、松並木を100m程歩いた所に錦田の一里塚(右写真の左側)があった。バス道の向こう側とこちらに対で塚が残っている。塚の上には榎が植えられている。街道筋で最も典型的な一里塚として現存するものの一つだという。
 一里塚の側には箱根八里の記念碑「錦田一里塚」、鈴木宗忠老師の句碑があった。(右写真の右側)

日々うらら 松の道場の 一里塚

 松並木の尽きるところに 「松並木」の道しるべがあった。

箱根宿 宿境まで三里十九町 →【三島市 谷田 松並木】→ 三島宿 宿境まで六町

 さらに右側緑地に紫陽花に囲まれて「箱根大根の碑」があった。(左写真) 碑文に 箱根八里の馬子吹き消えて 今は大根を造る歌 源水 とあった。明治になって鉄道により街道が廃れて、旅人の世話を業としていた人達が大根作りを始めた。この街道の切干大根は有名であった。

 さらに国道一号線から右へ分かれて、すぐ右の一段高い緑地に、石地蔵や三界萬霊塔とともに小さな「雲助備前繁の墓」があった。備前繁は有名な暴れん坊の雲助で、大名の人足頭に無礼を働いて切られ、今井坂で事切れたと伝えられる。

 これより現在は町の裏道となっている愛宕坂・今井坂と下る。
 坂の終わりに 「箱根旧街道入口」の道しるべがあった。

函南町 宿境までニ里八町 →【三島市 川原ヶ谷 箱根旧街道入口】→ 三島宿 宿境まで四町

 三島大社へと続く通りに出た。「ウォーク」では「箱根の山かけ蕎麦以来何も食べていない空腹と、長く続いた下り坂に重くなった足を、ゴール間近と励ましながら歩いた」とある。
 道路左側の宝鏡院入口の左右に、馬に乗るとき踏み台にする石が置かれていた。「鞍掛け石」という。(右写真)
 宝鏡院の境内には源頼朝が参拝の折、笠を置いたといわれる「笠置石」があった。三島七石の一つといわれる。

 大場川に架かる新町橋を渡り、三島宿に入る。一路、本日のゴールの三嶋大社に最後の歩を運ぶ。16時30分、三嶋大社に着いた。三嶋大社には見るべき物も多いが、本日は街道に関係のある「たたり石」だけを見た。
 時間が遅くなっていたので、先に名物の福太郎餅を買いお参りする。

 三嶋大社のキンモクセイは枝をつめられて、残った枝にも元気がなかった。大切にはされていると思うが心配である。
 三嶋大社の前に 「三嶋大社」の道しるべがあった。

箱根宿 宿境まで三里二十八町 →【三島市 旧傳馬町 三嶋大社】→ 沼津宿 宿境まで一里十八町

 16時50分、本日の旅はここまでとする。三島駅まで戻り、電車で帰る。本日の歩数は 37,718歩であった。







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