第 8 回
平成13年6月17日(日)
くもり
箱根宿−箱根峠−山中城跡−初音ヶ原−三島宿
“整備の済んだ快適石畳が繋ぐ箱根西坂五ヵ新田”
先週、九州の出張先ホテルで、「小泉内閣のメールマガジン」発刊のテレビニュースを見た。近日発刊の情報は知っていたが、登録していなかった。70万人の登録者に創刊号が送られたようだ。帰宅後直ちに登録した。多分130万人目あたりの登録だったと思う。
発刊の発表があったとき、こんな手があったかと、目から鱗が落ちる思いであった。創刊号をホームページで見て、首相や閣僚の人となりが知れて面白かった。今後どう発展していくのか知らないが、余りまじめに政策を述べるようなメールマガジンでは見る人はいなくなるだろう。政策の周知は他のマスメディアでできる。メールマガジンは政策浸透の地均し作業でよい。今のところ、各閣僚が自分の色を出して、読んで大変興味深い。しかし、今にまじめな閣僚に順番が回ってきて、読まれないメールマガジンになってしまうのではなかろうか。
同じことはこのホームページにもいえる。ある人が固すぎると感想をくれた。何とか読みやすくしたいと思うのだが、根が真面目なせいか、なかなかぐだけてこない。せいぜい読みやすくするよう心掛けようと思う。
いよいよ「旧東海道夫婦旅 静岡編」のはじまりである。静岡県の東海道二十二宿は平成7年に職場の先輩達と休日を利用して歩いた。(「東海道五十三次ウォーク」) これからの旅記録では、「東海道400年祭」に向けて、この五、六年の間に整備されたところ、変ってしまったところを注意して紹介していきたい。
三島駅発、午前8時30分、バスで箱根を登る。車中には男数人の中年団や女性のグループ、夫婦者やカップルなど、おそらく箱根から下るコースを歩くと思われる人達が何組か乗り合わせた。
午前9時10分、元箱根終点で下車、箱根神社の赤い大鳥居の根元の「賽の河原」(左写真)から今日の旅を始める。かっては湖畔に並んでいた石仏・石塔のほんの一部を集めたものという。標高700m、運び上げるには決して楽ではなかったはずなのに、次から次へと石仏・石塔を立て続けた昔の人々の思いとはどんなものであったろうか。遠い昔に想いをはせた。
箱根町教育委員会の案内板によると、
町指定史跡 賽の河原
この地は地蔵信仰の霊地として、江戸時代、東海道を旅する人々の信仰を集めたところです。その規模は大きく、多数の石仏・石塔が湖畔に並んでいました。
しかし、明治時代に入ると、仏教の排斥から多くの石仏が失われ、また芦ノ湖畔の観光開発の中でだんだんとその規模を縮小し、現在のようになりました。
現存する石仏・石塔の中にも、鎌倉後期と推定される層塔を始め貴重なものがあります。
大鳥居から振り返ると箱根杉並木が箱根関所跡の方向へ続いているのが見えた。(右写真) この道は前回の最後に歩いた箱根旧街道である。
旧街道杉並木の始まりの山側に、「箱根旧街道一里塚 江戸から二十四里」と刻んだ石碑(左写真)があった。「葭原久保の一里塚」である。
箱根町教育委員会の案内板によると、
葭原久保の一里塚
江戸幕府は、慶長九年(1604)大久保長安に命じ、江戸−京都間に一里ごとに旅人の目印として、街道の両側に盛土をしました。そして、ここではその上に檀(まゆみ)を植えました。この塚は、日本橋より二十四番目にあたります。(一里 = 約 3,952米)
案内板で一里塚に植えられた「檀(まゆみ)」は、樹木図鑑によると、落葉樹で、初冬に赤い実がよく目立つ。古来、この木から弓を作ったことから「真弓」の名がある。枝はよくしなうとあった。
これより何百メートルかの杉並木は昔の街道の姿をよく残して、今にも大名行列が進んで来ても違和感のない風情であった。(右写真) 往時との違いはかっては杉並木がもう少し細かった位であろうか。
文化庁・神奈川県教育委員会・箱根町教育委員会の案内板によると、
箱根旧街道 杉並木
江戸と京都を結ぶ「東海道五十三次」は、江戸時代の元和四年(1619)頃に、それまでの湯坂道を廃し、湯本、畑宿、箱根を廻る街道に改められました。この杉並木は、徳川幕府が、旅人に木陰を与えようと道の両側に植えたもので、東海道では唯一のものです。
第2次世界大戦中、伐採されそうになったこともありましたが、現在では、国指定史跡として保護され、芦ノ湖畔周辺の四地区に、約四二〇本の杉が残されています。
残された杉には、人々の愛護の心が込められています。杉並木を大切にしてください。
旧東海道の並木といえば大抵は松並木で、杉並木はこの芦ノ湖畔にしかない。この地は霧の深い日が多く、松が育ち難いため、杉に植え替えたものといわれている。
ところが、この美しい杉並木も、戦時中には危うく伐られるところだったという。昭和19年秋、軍用の船の材料として供出要請があったが、当時の担当職員であった、興禅院の住職が関係書類を焼き捨てたあと、従軍僧を志願して中国に渡ってしまった。この捨て身の行動で、箱根旧街道の杉並木は1本も伐られることなく残されたという。
箱根旧街道の杉並木を抜けると恩賜箱根公園に出る。前回はこの恩賜公園前のバス停で旅を終えた。恩賜箱根公園の入口には「箱根八里」の歌碑があった。
「箱根八里」の歌
は第7回の旅の始めに紹介した。
箱根町の案内板によると、
唱歌「箱根八里」は、作曲者 滝廉太郎 作詞者 鳥居忱(まこと)の両氏によって明治三十四年につくられ、中学校唱歌に採用されて以来、平成十三年で誕生百年を迎えました。この「箱根八里」の歌碑は、幾久しく多くの人々に愛唱され、往時をしのび永く後世に伝えるために、昭和四十一年に建立されたものです。
国道から芦ノ湖側に外れて、「箱根関所跡」(左写真)に立ち寄る。現在、関所周辺の整備が行われている。昔の面影を残した整備に留めて欲しいものである。関所にはすでに観光客がたくさん入っており、女房も最近訪れたというので、本日は素通りすることにした。六年前の正月に「東海道五十三次ウォーク」はここをスタートとした。(以下略して「ウォーク」と呼ぶ)
「ウォーク」では峠越えに備えて、関所近くの「美濃屋」という蕎麦屋で腹ごしらえをしている。今回、我々は途中のコンビニでおむすびを仕入れた。
国道に戻って芦ノ湖側の箱根ホテルの前に、カエデの古木(右写真)が一本立っていた。これは「箱根宿楓並木」の名残だという。楓並木があったと聞くのは初めてである。
案内板によると、
旧東海道五十三次 箱根宿楓並木の由来
江戸時代、元和四年(西暦1618年)の春、徳川幕府が箱根に関所を設け箱根宿を開いた。この頃、箱根山中の街道筋に杉苗を植え杉並木を作ったが、箱根の宿場町の街路には楓の苗を植えて春夏秋冬の風趣を添えた。
この楓は当時の宿場の中で本陣(参勤交替の折の大名などが泊る大きな宿泊施設で門構えなどがあり警護しやすい様に建てられた旅館であった) “はふや” の門前に植えられてあったもの。明治中期の道路拡張の際、他の全部の楓は切り払われてしまった。樹齢四〇〇年これ程の老楓は珍しく他所にもあまり見ることが出来ぬ。当時の本陣 “はふや” は現在の箱根ホテルである。
箱根の街の外れで、箱根峠に登る国道一号線と別れて、右手に進む。駒形神社を左手に見て、すぐその先で、午前10時、箱根旧街道の石畳の登りが始まる。入口に芦川の石仏石塔群が安置されているが、夏草に埋没しそうになっている。(左写真) ここで若いカップルを先に行かせる。東海道歩きに若者をカップルで見るのは珍しい。
案内板によると、
芦川の石仏・石塔
芦川のはずれ箱根峠にのぼる旧街道の道端には庚申塔、六地蔵など、いくつかの石仏、石塔があります。江戸時代箱根を越えて、西に東に向う旅人は、恐らく村はずれにあるこの石仏、石塔に旅の安全を祈ったことでしょう。
これより箱根峠に向って、約500mの石畳の登りが、「向坂」「挟石坂」と刻んだ碑(いしぶみ)(右写真)に導かれて、続いていく。さっそく旧街道は蛇行して登る国道と交差し、国道の下を潜る。箱根道中で、車道を歩道橋で渡る所は何箇所かあったが、下を潜るのはここだけであった。石畳が国道下にも途切れずに続いていたので、女房が昔からこうなっていたのかととぼけた質問をする。もちろん昔は国道は無く、同じ傾斜の石畳が続いていた。おそらく交差する部分の石畳を少し削って、潜りぬけたところから段をつけてもとの石畳に繋いだようだ。
一汗かいて石畳から車道に出る。そこで国道一号線と「箱根新道」がやや複雑に合流・分岐するため、道路をよく見定めてから、路側を少し登り箱根峠に出た。「ウォーク」では「寒風が吹きまくり、登り坂で一汗かいて皆んなセーターを脱いでいたので震え上がった」と記録しているが、風は通るけれど今日は暑いくらいである。
午前10時30分、箱根峠に着く。ここよりいよいよ静岡県に入った。標高846メートルの標柱があり、ドライブインやガソリンスタンドがある。バス停もあった。箱根旧街道はそこで国道一号線から右へ別れる。ゴルフ場への取付道路を道標にしたがってしばらく進んで茨ヶ平に出た。この道で、どこから現われたのか、前後に数組の現代の旅人が連なった。静岡県は “東海道” に対して他県とは違う盛り上がりがあるのであろう。これらの人達とは今日一日、抜きつ抜かれつの旅行きとなる。
茨ヶ平より車道から左へ分かれ、箱根旧街道の下りが始まる。その入口に「兜石」の道しるべ(左写真)が建っていた。静岡県の旧東海道筋には、 歴史の道『東海道』の道しるべ として、共通の標識が往来の要所に設置されている。「ウォーク」のときには、設置されたばかりのこの道しるべに度々助けられた。この「兜石」の道しるべは最初の“道しるべ”であった。この旅の記録ではこの道しるべを以下のように記録しよう。
箱根関所
箱根関所まで二十七町
→【三島市 兜石】→ 三島宿
宿境まで二里二十七町
三島市教育委員会の案内板によると、
箱根旧街道 茨ヶ平(ばらがだいら)
慶長九年(1604)江戸幕府は江戸を中心として、日本各地へ通じる五街道を整備した。中でも江戸と京都・大阪を結ぶ東海道は一番の主要街道であった。
この東海道のうち最大の難所は、小田原宿と三島宿を結ぶ、標高845mの箱根峠を越える箱根八里(約32km)の区間であり、箱根旧街道とよばれる。
ローム層の土で大変滑りやすい道なので、最初は箱根竹の束を敷いたが延宝八年(1680)に、幅二間(約3.6m)の石畳に改修された。その他街道整備として風雪をしのぐための並木敷や、道のりを一里ごとに示す一里塚がつくられた。
参勤交替や伊勢参りなど、江戸時代の旅が一般的になるとともに賑わった旧街道も、明治二十二年(1889)東海道線の開通や、大正十二年(1923)、国道一号線の敷設によって衰退した。
このあたりは、い茨が生い茂っているので付近の草原を茨ヶ平という。
休憩舎のある茨ヶ平には十国峠方面を見晴らす絶景の地に、箱根八里記念碑「茨ヶ平」(右写真)が建っている。この碑は井上靖の文学碑であった。“北極星を指差す大きな人差し指”のような文学碑で、爪の部分が碑面になっている。
北斗闌干
「闌干」は「星または月が輝いてきらきらするさま。(広辞苑)」
(社)三島青年会議所の案内板によると、
箱根八里記念碑
この箱根八里記念碑は井上靖先生はじめ八人の現代一流の文化人の方々の御揮毫を頂き、街道の要所に在って、かっての大街道としての役割から散策の道としての “箱根八里” 復活の礎となることを期待し作られたものです。
「北斗闌干」とは、北極星が夜空にさんぜんと輝くさまです。― 作家 井上靖 ―
下りに入って、背丈より高い篠竹のトンネルの道(左写真)になる。「ウォーク」の時よりはるかに篠竹が繁茂している。箱根に多く自生している篠竹をハコネダケと呼ぶ。小筆の軸か民芸品にしか使われなかったハコネダケが、関東大地震のあと、日本家屋の土壁の下地として珍重され、復興に大変貢献したという逸話も残っている。
午前11時、国道に出る。「ウォーク」のときは一度国道を横切り、すぐにもう一度ターンしてきた国道を横切った。今日は短い区間の旧街道が荒れてしまって、ターンする国道を歩いて、旧街道の入口の「接待茶屋」に至った。「ウォーク」時の記憶を頼りに、国道を渡り戻って、背丈ほどの草と灌木の中に分け入ったところ、「接待茶屋跡」に一面の碑と二人の胸像が屋根付で埋もれていた。
碑文によると、
親子像
幽学の徳を従いし 道友が真心のこす お茶の施し
明治十二年、大原幽学先生の教えを基として設立された接待茶屋は鈴木利喜三郎永眠により没してしまったが、その後、妻とめ、長男力之助親子が激動する乱世にその志を受け継ぎ、いかなる辛苦にも耐え、旅人の労を慰め、賞を求める事なく、勤めて怠らず、箱根接待茶屋を再興、守り続けたる偉業をたたえたるものである。
「大原幽学」は江戸後期の農村指導者。諸国を遍歴、神・儒・仏に通達、心学の影響をも受けて、下総香取郡長部村で性理の学を教授。農村救済のため、組織した先祖株組合は農業協同組合運動の先駆といわれる。(「性理」とは「人の性命と天理。つまり、人が天から授かったそれぞれの性質と運命、および人為でない天の正しい道理。)
二つの胸像は鈴木とめ、鈴木力之助親子のもので、その子孫が個人的に建立したもののようだ。だからこれだけ整備が進んでいる旧東海道の中で、忘れられたように草に埋もれているのであろう。接待茶屋は前回歩いた
箱根東坂の割石坂
にもあった。ここの接待茶屋は割石坂の案内板にあった「西坂の施行平に設置」というものであろう。灌木の中まで分け入った駄賃に、夫婦してあたりに実った黄色い木苺をもいで食べた。
もう一度国道を渡った箱根旧街道の入口に、緑に埋もれて、「国指定史跡 江戸より二十六里 東海道一里塚」と刻まれた石碑があった。「山中新田の一里塚」(右写真)である。
函南町教育委員会の案内板によると、
旧東海道の一里塚
一里塚は江戸の日本橋を起点として街道の一里ごと道路の両側に高さ三尺五間四方に土を盛り、その上に榎を植えて里程のしるしとした塚である。江戸時代、諸侯の参勤交替や旅人の道程のたよりとなった。榎塚ともいう。
さらに「接待茶屋」の道しるべも建っていた。
箱根関所
箱根関所まで三十三町
→【三島市 接待茶屋】→ 三島宿
宿境まで二里二十一町
「接待茶屋」から少し下った右側に大きなおむすび型の石があった。先刻、国道に出る前の路傍に「兜石跡」の標石を見たが、道路改修にじゃまになってここへ移したものだという。
三島市教育委員会の案内板によると、
かぶと石
この石は兜を伏せたような形をしていることから “かぶと石” といわれている。また別の説として傍らの碑銘によれば豊臣秀吉が小田原征伐のとき休息した際、兜をこの石の上に置いたことから “かぶと石” とよばれるようになったともいわれている。
この石は兜石坂にあったものを昭和初め国道一号線の拡張工事のときこの地に移したものである。
街道筋の大石が多くの人に道中の目標にされているうちに、様々な伝説が付いていく様子が知れて面白い。左写真は少し暗かったため、手ぶれしてピンぼけに写ってしまった。画像補正で何とか誤魔化してある。
その先の左側に街道ではおなじみの「明治天皇御小休跡碑」があった。ここも明らかに「ウォーク」の時より草に埋もれかかって見える。あるいは、「ウォーク」時は1月だったから、よけいにそう感じるのかもしれない。
このあたりの旧街道を「石原坂」というらしい。林の中の道にせり出した岩に、「念仏石」のネーミングがされていた。下部に窪みがあって伝説を生みそうな岩であった。
三島市教育委員会の案内板によると、
念仏石
ここに突き出ている大きな石を、土地の人は念仏石とよぶ。この念仏石の前に「南無阿弥陀仏・宗閑寺」と刻んだ碑があるが、旅の行き倒れを宗閑寺で供養して、碑を建てたものと思われる。
旧街道は「大枯木坂」に掛かった。この辺りであったか、犬を2頭散歩させるおばさんに出会った。大型犬の手綱を引き、小型犬は放したままで散歩をさせている。
おばさんの話では、「この下に住んでいるが、あたりによく捨て犬があり、2頭とも拾って育てている」という。雑種ではないのだが、流行から外れてしまった犬が捨てられるのであろう。
小型犬は女房の足元にまつわり、先に行く飼主に付いて行かない。「放っておいてもひとりで帰るから」と飼主が坂の向うに見えなくなる前に、ようやく追い掛けて行った。(左写真) 「こんな犬なら飼ってもよい」と女房は気に入った様子だったが、飼うと気軽に外出できなくなるよ。
国道を渡って、「小枯木坂」を行く。この辺りは「ウォーク」時には、「石畳を発掘中で、何m置きかで四角く石畳が出る所まで掘られている。おかげで道はそれらの穴を縫うように縄張りされて蛇行している。石畳までの深さは50cmから1.5m位まであって、焦げ茶色の火山灰で覆われている。これは富士の宝永山噴火の堆積物なのであろうか」と記録している。現在はすっかり整備が終わり、大変歩きやすい道になっていた。(右写真)
三島市教育委員会の案内板によると、
箱根旧街道 願合寺地区の石畳復元・整備
(前略)
三島市は貴重な文化遺産である石畳の活用を図るため、この「願合寺地区」 721mのうち、昭和47年に修復整備をした255mの中間部を除く約466mの区間を、可能な限り江戸時代の景観を保って、平成7年度(1995)に復元・整備した。
発掘調査の結果、石畳幅二間(約3.6m)を基本とし、道の両側の縁石は比較的大きめの石がほぼ直線的に並ぶように配置され、基礎は作らずローム層の土の上に敷き並べたものであることが確認された。また、寛政年間(1789〜1801)に描かれた「五街道分間延絵図」に記載がある「石橋」が二ヶ所発見された。
調査の結果を基に、管理のための下部基礎をもうけ、下図のように、石畳がよく残っていた所約188mの間は、江戸時代の石を元の位置に戻して復元し、石畳の少なかった所や全くなかった所約278mの間は、江戸時代の石に加え、神奈川県根府川町で採石した安山岩を補填した。
また発見された「石橋」のうち、「一本杉石橋」と称される一か所は保存状態がよいのでそのまま残した。
「願合寺地区石畳」の道しるべもあった。
函南町 宿境 →【三島市 山中新田 願合寺地区石畳】→ 三島宿
宿境まで二里八町
「ウォーク」では、「石畳は金谷のものと違って、丸石が少なく割った石が多い。この辺りでは河原から石を上げる訳にいかないから、山から出したものなのだろう」と想像していたが、案内板では補修に使った石が神奈川県根府川町で採石した安山岩であったというから、昔もその類の石が使われたのであろう。右上の写真手前の石が横へ連なった部分が「一本杉石橋」である。
三島市教育委員会の案内板によると、
箱根旧街道 埋もれていた一本杉石橋
願合寺地区では「一本杉石橋」と「■■石橋」の二ヶ所の石橋が発見されました。江戸時代の古絵図によれば箱根旧街道西坂には九ヶ所の石橋があったとされていますが、長い年月の間に地中に埋もれてしまい、その場所は判りませんでした。しかし平成7年度に行った発掘調査では古絵図どおりの場所から石橋が見つかり、箱根西坂はもちろん、東坂を含めても箱根旧街道では初めての発見となりました。このうち一本杉石橋は保存状態が良好のため、その場所に整備・復元しています。
一本杉石橋は長さ約160cm、幅約60cm、厚さ約35cmの板状の石が六枚、旧街道を横切るように斜め方向に敷き並べられ、板石を頂部としてアーチ状に架けられています。また板石を外し下部の構造を調べたところ、板石は二段に組まれた40〜50cmの間知石(けんちいし)に支えられ、流路には20〜30cmの平石がぎっしりと敷き並べられていました。
小枯木坂の終わり、国道へ上がる直前の杉の大木の前に「雲助徳利の墓」がある。“さかずき” と “とっくり” を浮き彫りにした墓石があった。一見して酒好きの墓とわかる。誰が供えたか一升瓶をまるで墓石が抱えているように見えて、笑ってしまうユーモラスな墓石である。
三島市の案内板によると、
雲助徳利の墓
この墓は昔から「雲助の墓」と言われています。墓石には盃と徳利が浮き出しており、その下に「久四郎」という名前が彫られています。彼は松谷久四郎と名乗り、一説には西国大名の剣道指南役でしたが、大酒飲みのために事件を起こして、国外追放となり、箱根で雲助の仲間に入りました。優れた剣術の腕前があったので、雲助をいじめる武士をこらしめたり、読み書きができるので、文字が読めない雲助たちの手紙を読んだり書いたり、相談に乗ったりしているうちに、やがて雲助仲間から親分以上に慕われるようになりました。しかし、普段はお酒を飲んでごろごろしていたので命を縮めることになってしまったのです。
彼に慕い彼に助けられた雲助仲間は、ある日相談して金を出し合い、生前お世話になったお礼に、立派なお墓を立てて恩返しをすることにしました。そして、その墓には彼が一生飲み続けた酒を、盃と徳利で刻むことにしました。これが彼に対する最大の供養と考えたのです。
「箱根の雲助」は、悪者の代表のように言われています。しかし、もし雲助がいなかったら、箱根の坂をのぼれない弱い女性や病人はどうしたのでしょう。重い荷物は誰が運んだのでしょう。このほほえましい徳利の墓を見ていると、雲助たちの温かい人情が伝わってくるような気がします。
なお、この墓の最初の位置は、山中の一里塚のあたりでしたが、いつの日かこの地に移ってきました。酒飲みの墓ですので、ふらふらして一箇所に落ち着かないようです。
正午ちょうど、国道一号線に上がったところに、「竹屋」という蕎麦屋があった。竹屋はかって間の宿、山中宿の旅籠であったという。おにぎりも買ってあったが、昼時でタイミングが良すぎて、ついつい竹屋に入ってしまった。店内には後のなり先になって道中を歩いてきた旅人達が集まっていた。バスで見た中年団も座敷でビールに話が弾んでいた。我々もざるそばを頼んだ。竹の器で頂くそばは野趣があっておつなものであった。
竹屋の向かい側から山中城跡に上った。
三島市教育委員会の案内板によると、
史蹟山中城跡(国指定史跡)
山中城跡は、文献によると、小田原に本城のあった北條氏が、永禄年間(1558〜1570)に築城したと伝えられる中世最末期の山城である。
箱根山西麓の標高580mに位置する、自然の要害に囲まれた山城で、北条氏にとって、西方防備の拠点として極めて重要視されていたが、戦国時代末期の天正十八年(1590)三月、全国統一を目指す豊臣秀吉の圧倒的大軍の前に一日で落城したと伝えられている。
三島市は山中城跡の史跡公園化を目指し、昭和四十八年から発掘調査を行い、その学術的成果に基づく環境整備を実施した。その結果、本丸や岱崎出丸をはじめとした各曲輪の様子や架橋、箱井戸、田尻ノ池の配置など、山城の全容がほぼ明らかになった。特に障子堀や畝堀の発見は、水のない空堀の底に畝を残し、敵兵の行動を阻害するという、北条流築城術の特徴の一端を示すものとして注目されている。
出土遺物には槍・短刀をはじめとする武器や鉄砲玉、柱や梁等の建築用材、日常生活用具等がある。なお三ノ丸跡の宗閑寺には、岱崎出丸で戦死した、北条軍の松田康長をはじめ、副将の間宮康俊、豊臣軍の一柳直末など両軍の武将が眠っている。
国道から登った先に駒形諏訪神社がある。山中城趾はその左背後に広がっている。駒形諏訪神社にはカシの巨木(左写真)があった。
三島市教育委員会の案内板によると、
駒形諏訪神社の大カシ(県指定天然記念物)
ここ駒形諏訪神社は、山中城跡本丸曲輪内にある。大カシ(アカガシ)は樹齢約500〜600と推定され、本丸への入口部分にそびえており、約四〇〇年前、天正十八年(1590)の山中城合戦時には、既に生育していたものと考えられる。
根廻り9.6m、高さ25m、幹は地上4mのところで七本の主枝に分かれている。空洞や損傷もなく樹勢は良好であり、県内一、ニの大木である。
案内板には「損傷もなく」とあるが、前側の大枝が折れたのか、根元から切り取られて養生されていた。「ウォーク」の時には “損傷もなく” 枝が密生して薄暗かったのに、随分明るくなってしまった。ともあれ、この巨木を「間の宿−山中宿の巨木」としよう。
山中城跡は随分広く、迷子になりそうなほどであった。多くの曲輪跡や空堀があり、芝が植わって公園になっている。芝の上で弁当を広げる人達もちらほら見える。中でも、空堀の一種、障子堀は底に残された畝が洋菓子のワッフルのようで面白い。
ぐるりまわって降りて来たところは、最も南の三島側の駐車場であった。宗閑寺にあるという敵味方両軍のお墓に詣でようと、国道を戻る。途中、左階段上に「芝切地蔵堂」があった。(右写真)
三島市教育委員会の案内板によると、
芝切地蔵
その昔、山中新田の旅籠に巡礼姿の旅人が泊った折、急に腹痛におそわれ世を去った。この旅人が死ぬ間際に「私を地蔵尊として祭って下さい。そして芝塚を積んで、私の故郷の相模が見えるようにして下さい。そうすれば村人の健康を守ってあげます。」と言い残したという。
村人は旅人の言ったとおり地蔵尊を祭り、毎年七月十九日を縁日として供養するようになった。それにあわせて「小麦まんじゅう」をつくり、参拝に来た親戚の者を接待したが、その味が大そうよかったので有名になり、一般の参拝者に売られるようになった。
この祭りには江戸時代、沼津方面からも大勢の参拝人が集まり、さい銭とよく売れた「小麦まんじゅう」の利益とで、一年間の山中部落の費用がまかなえたといわれている。
宗閑寺はそれと気付かず通り過ぎ、引き返して、午後1時、やっとたどり着いた。入口が狭く標識が横たえてあって、判り難くなっていた。境内の左手に、北条軍が左側、豊臣軍が右側に、それぞれの墓が固まってあった。(左写真) 敵味方、ほとんど同規模で、勝利した豊臣軍の方がわずかに立派に見える程度の違いであった。
文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会の案内板によると、
宗閑寺と武将の墓
東月山普光院宗閑寺(浄土宗)は静岡市の華陽院の末寺。開山は了的上人、開基は間宮豊前守の女、お久の方と伝えられている。
ここには山中城落城の際、北条軍、豊臣軍の武将たちの石碑がひっそりと佇んでいる。
豊前守康俊(普光院殿武月宗閑潔公大居士)兄弟とその一族、城主松田右兵衛太夫(山中院松屋玄竹大居士)、群馬県の箕輪城主多米出羽守平長定らの墓と共に、豊臣軍の先鋒一柳伊豆守直末(大通院殿叟長運大禅定門)の墓碑がうらみを忘れたように並んでいる。
山中城跡の駐車場まで戻る。山中城跡は国道の向かい側の岱崎出丸に続いている。箱根旧街道もそこで国道を横切り国道に沿って石畳が続いていく。その入口に「山中城跡」の道しるべが建っていた。
函南町
宿境まで九町
→【三島市 山中新田 山中城跡】→ 三島宿
宿境まで一里三十五町
ここの石畳を「ウォーク」では「最近造られた観光用の石畳」と書いたが、実は旧道を復元整備した部分であった。現在は石畳復元整備の案内板も出来ていた。
三島市教育委員会の案内板によると、
箱根旧街道 腰巻地区の石畳復元・整備
(前略)
三島市は貴重な文化遺産である石畳の活用を図るため、この「腰巻地区」 約350mの区間を、可能な限り江戸時代の景観を保って、平成6年度(1994)に復元・整備した。
発掘調査の結果、(中略)石材はこの付近で採石したと思われる。扁平に剥離する安山岩を用いていた。
調査の結果を基に、管理のための下部基礎を設け、石畳がよく残っていた所約60mの間は、江戸時代の石を元の位置に戻して復元し、石畳の少なかった所や全くなかった所約290mの間は、江戸時代の石に加え神奈川県根府川町で採石した安山岩を補填した。
また排水路として、ここより上方の願合寺地区石畳に出ているものと同様の「斜め排水路」を二カ所作った。
少し進んだ石畳の道端に、箱根八里の記念碑 「山中城趾」、司馬遼太郎の文学碑(右側の右写真)があった。楽器の琵琶を、胴を上にして立てたような形の碑であった。だからという訳ではないが、琵琶の音が聞こえてくるような碑文である。
幾億の足音が坂に積もり 吐く息が谷を埋める わが箱根にこそ
文学碑の隣に安置された荒削りな石仏を前景に石畳をデジカメにとって見た。題は「昼下がりの石畳」 (右側の左写真)
再度国道への出口に、「腰巻地区石畳」の道しるべが建っていた。
函南町
宿境まで十三町
→【三島市 山中新田 腰巻地区石畳】→ 三島宿
宿境まで一里三十一町
国道端に一本杉と呼ばれる巨木が立っている。国道を渡った斜め向かい側に「菊池千本槍の碑」 があった。御醍醐天皇の頃、菊池氏が竹竿に短刀を括り着けて槍を作り戦いに望んだ。それまで槍という武具は無かったというが本当なのかどうか。
案内板によると、
菊池千本槍の碑
建武二年(西紀1335年)十二月十一日、ここ箱根古道、山中一帯で行われた水呑峠の合戦で、後醍醐天皇の命を承けた宮方軍の先鋒菊池肥後守武重公の率いる軍勢は、足利勢と壮絶な戦いを展開した。菊池一族一千余の将士たちは、竹の先に短刀を結ぶ新しい武器を用い、足利勢を山の峰に追い上げ大勝利を収めた。しかし足柄路の友軍は、竹下合戦に敗れて、宮方総崩れとなり、菊池勢は殿軍を勤め死闘を繰り返し、将士七百名を失った。此の箱根 “竹下合戦” は南北朝対立のかなしい時代の幕開けであった。
武重公は九州へ帰国の後、刀工延壽に命じ、短刀の形をした穂先を造らせ、合戦に臨んで槍に仕立て多くの戦果を挙げた。のちにこれが菊池千本槍と呼ばれ、武重公の武勲と共に、菊池氏誠忠の歴史に輝きを放っている。
菊池同族の末裔ゆかりある者ここに碑を建て、史実を顕彰すると共に、建武の昔箱根の戦いに斃れた両軍将士の御霊に深い祈りを捧げる。
(「殿軍」は“しんがり”の軍隊)
石畳の旧街道に入ると浅間平地区の石畳整備復元の案内板があった。
三島市教育委員会の案内板によると、
箱根旧街道 浅間平地区の石畳復元・整備
(前略)
三島市は貴重な文化遺産である石畳の活用を図るため、この「浅間平地区」 約330mの区間を、平成八年度(1996)に復元・整備した。(中略)
調査の結果を基に、次のようなA〜Cの三種類の手法に分けて整備した。
A 現状保存・一部根府川石補填(約43m)
石畳がよく残っており、その部分はそのままの状態で保存し、石が抜けている箇所に神奈川県根府川町で採石した安山岩を補填した。
B 一部保存・根府川石補填(下部基礎設置)(約135m)
石畳が残っている部分はそのままの状態で保存し、石が抜けている箇所は下部基礎を設け、その上に安山岩を敷設した。
C 全面根府川石敷設(下部基礎設置)(約152m)
石畳が残っていなかったため、全面に下部基礎を設けた後、安山岩を敷設した。
午後1時30分、浅間平地区を抜けて、再び国道を横切るが、その手前の広場に大きな芭蕉の句碑があった。
霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き
「ウォーク」で「芭蕉翁、富士山が見えず負け惜しみの1句である。今日は句碑の背後に富士山が見えた」と書き記している。最初に見たとき、句碑のでかさに違和感を感じたものだが、富士山を背景に句碑を写真に撮ろうとして気が付いた。富士山の大きさに句碑もこの位大きくないと釣り合わないことを。
とにかく富士山の見えない今日は、句碑の大きさだけが目立ってしまう。
芭蕉の句碑の広場に出たところに、「富士見平」の道しるべが建っていた。
函南町
宿境まで十七町
→【三島市 山中新田 富士見平】→ 三島宿
宿境まで一里二十七町
旧街道はここから「上長坂」に入る。「ウォーク」では「鎖に囲まれた石柱の明治天皇休息碑があった」はずだが、なぜか見逃してしまった。上長坂地区の石畳整備復元の案内板があった。
三島市教育委員会の案内板によると、
箱根旧街道 上長坂地区の石畳復元・整備
(前略)
三島市は貴重な文化遺産である石畳の活用を図るため、この「上長坂地区」 約370mの区間を、平成八年度(1996)に復元・整備した。発掘調査の結果、(中略)勾配が急な区間は比較的細かな石材が用いられ、滑りにくいよう工夫がなされていたと考えられる。
調査の結果を基に、次のようなA〜Dの四種類の手法で整備した。
A 現状保存(約37m)
石畳がほぼ完全に残っており、全体をそのままの状態で保存した。
B 現状保存・一部根府川石補填(約116m)
石畳がよく残っており、その部分はそのままの状態で保存し、石が抜けている箇所に神奈川県根府川町で採石した安山岩を補填した。
C 一部保存・根府川石補填(下部基礎設置)(約52m)
石畳が残っている部分はそのままの状態で保存し、石が抜けている箇所は下部基礎を設け、その上に安山岩を敷設した。
D 全面根府川石敷設(下部基礎設置)(約165m)
石畳が残っていなかったため、全面に下部基礎を設けた後、安山岩を敷設した。
街道は国道に出て、少し路側の歩道を行き、すぐにまた石畳に戻る。その出口と入口にそれぞれ「上長坂」と「笹原地区石畳」の道しるべがあった。
箱根宿
宿境まで二里四町
→【三島市 笹原新田 上長坂】→ 三島宿
宿境まで一里二十四町
函南町
宿境まで二十一町
→【三島市 笹原新田 笹原地区石畳】→ 三島宿
宿境まで一里二十三町
笹原地区石畳に入ってすぐに路傍に銀竜草(ギンリョウソウ)を見つけた。(左写真) 銀竜草は一名 「幽霊茸」とも云い、緑葉を持たないイチヤクソウ科の腐生植物で、森林中の湿地、枯葉などの堆積した場所に生ずる。雁首の白い部分は花である。
笹原地区の石畳整備復元の案内板があった。
三島市教育委員会の案内板によると、
箱根旧街道 笹原地区の石畳復元・整備
(前略)
三島市は貴重な文化遺産である石畳の活用を図るため、この「笹原地区」 約430mの区間のうち、380mを、平成九年度(1997)に復元・整備した。
発掘調査の結果、(中略)この区間は農道として利用され、たびたび補修されているので、他の区間ではあまり見られない石材の利用方法が認められる。最も多いのは、比較的細かな石材の長辺を地中に深く埋め込むことによって石材の安定を図る方法である。
調査の結果を基に、次のようなA〜Dの四種類の手法で整備した。
A 現状保存・一部根府川石補填(約145m)
石畳がよく残っている部分はそのままの状態で保存し、所々石が抜けている箇所にはモルタルセメントで路盤強化をし、購入石の安山岩(根府川石)を補填する。
B 現状保存(下部基礎設置)(約92.7m)
農耕車の往来の影響で凹凸がつくなど傷みのはげしい部分は、動いていない石を基準にレベルを決める。動いていない石には番号を付けて一旦石を撤去する。全体に下部基礎を設け、その上に番号に従って石を元に戻し、石畳を復元する。
C 全面根府川石敷設(下部基礎設置)(約83.3m)
石畳が残っていない部分は、全体に下部基礎を設け、その上に購入石の安山岩(根府川石)を敷設し石畳を整備する。
D 全面柿木石敷設(下部基礎設置)(約59m)
石畳が残っておらず、レベルも往時よりかなり下がっている部分は、全体に下部基礎を設け、その上に購入石の柿木石を敷設し、石畳風に整備する。
笹原一里塚の手前で、石畳は畑の中に入る。「ウォーク」で畑の中の街道は畑と高さがそれほど変らないと思ったが、石畳を掘り出した結果、石畳の路面はかなり低くなっていた。
笹原一里塚は旧街道が集落に入り、国道を横切る少し手前の左側にあった。木杭で造った階段を登ると丸い塚の形と、その上に榎らしき樹もしっかり植わっていた。(右写真) 傍らに箱根八里の記念碑 「笹原一里塚」、大岡信の文学碑があった。(左写真) この碑も形が変っている。山仕事に使う鉈を短く太くしたような形といおうか。これも意図したものであろうか。碑文と妙に呼応する。
森の谺を背に 此の径をゆく 次なる道に出会うため
国道と交差点に「笹原一里塚」の道しるべがあった。
函南町
宿境まで二十六町
→【三島市 笹原新田 笹原一里塚】→ 三島宿
宿境まで一里十八町
国道を突っ切って笹原新田の集落を行く。人家を抜けて、坂が箱根西坂第一の急坂になって、この辺りを「こわめし坂」という。
笹原区・坂郷土研究会の案内板によると、
こわめし坂の「念仏石」
この坂は箱根旧街道西坂第一の難所でこわめし坂と言い、昔この辺りの斜面の一角に、「念仏石」と呼ばれる横90cm、縦120cmほどの大石があったということです。
この石は昭和二十年代頃の大雨のとき、斜面が崩れ埋められてしまったと言われています。
平成八年二月に発掘を行いましたが、この発掘では念仏石らしきものは発見されませんでした。
こわめし坂の終わりに「こわめし坂」の道しるべと案内板があった。
函南町
宿境まで三十一町
→【三島市 三ツ谷新田 こわめし坂】→ 三島宿
宿境まで一里十三町
三島市教育委員会の案内板によると、
箱根旧街道
(前略)
現在、この区間の車道の最大勾配(傾斜)は12%だが、この道は平均20%、最大40%なので大変な急坂であったことがわかる。
ローム層の土で大変滑りやすい道なので延宝八年(1680)頃には、宿内を除くほぼ全線が幅二間(約3.6m)の石畳に改修された。その他街道整備として風雪をしのぐための並木敷や、道のりを正確にするための一里塚がつくられた。
参勤交代や伊勢参りなど、旅が恒常化するとともに賑わった旧街道も、明治二十二年(1889)、東海道線の開通や、大正十二年(1923)、国道一号線の敷設によって衰退した。
ここ下長坂は別名「こわめし坂」ともいう。急勾配で、背に負った米も人の汗や蒸気で蒸されて、ついに強飯(こわめし)のようになるからだという。
こわめし坂から車道に出て、三ツ谷新田の集落に入る。「ウォーク」では「こわめし坂から車道に出たあたりで見る富士山は左手の愛鷹山系と並んでいて構図が面白く、思わず皆でカメラを取り出しシャッターを切った」と書いている。今日はそんな景色は望めない。その入口に案内板があった。
坂郷土研究会の案内板によると、
三ッ谷新田発祥の地
元和年間(1615〜1624)現在地附近に三軒の茶屋があり、その後この附近を元茶屋(もとじや)と呼ばれていました。三つの茶屋のある所より「三ッ屋」と呼ばれ、元和四年徳川家康より街道奉行に任命された大久保長安が箱根西坂五ヶ新田成立時に「三ッ谷新田」と転化したもので、この附近は三ッ谷新田部落の発祥の地と思われます。
14時24分、かって寺本陣と呼ばれ、本陣の機能もはたした松雲寺に着く。ここにも明治天皇の足跡が碑として残っていた。また境内に入った右側に「明治天皇御腰掛石」なるものがあった。(右写真) 女房を座らせてデジカメに撮ったが、畏れ多かったせいか失敗してしまった。
立札によると、
明治天皇御腰掛石
陛下はこの石にお腰掛けになられ、霊峰富士山を眺められたと伝えられている。
かって狭い境内には杉の巨木が鬱蒼と生育していたが、狩野川台風で失われたという。今は「参杉明神」として小さな祠が残る。(左写真)
案内板によると、
参杉明神 縁起
昭和三十四年八月十四日 狩野川台風のため、境内大杉樹齢四百年のもの三本折損す。
即ち、これを整理し、村内風除として永年の恩に報ゆるの意を以って、ここに神号を捧げてこれを祀る。
松雲寺を見学している間に一組、松雲寺を出てから一組と、熟年グループに抜かれる。三ッ谷新田の集落を抜けるのに10分ほどかかった。
集落を外れて、車道からも右へ分かれて、坂小学校の側を行く。学校のある辺りに、昔は法善寺という寺があり栄えていた。右側の小公園に「史跡法善寺旧址」と刻まれた石碑と寺誌の石碑があった。(右写真) 現在、法善寺はこの下の題目坂を下った市山新田に移っている。寺の中には足利尊氏が建立したといわれる「七面堂」というお堂もあったという。題目坂の下り口に石碑が残っている。石碑側面には「東海道中膝栗毛」の中の狂歌が刻まれていた。
あしがわの ぶしょうのたてし なにめでて しちめんどうと いうべかりける
「武将」と「不精」、お堂の名前の「七面堂」と非常に煩わしいことの「七面倒」を掛けた高級駄洒落である。
そこより急坂のため石段になっている「題目坂」を下る。題目坂の片側斜面には白の紫陽花がいっぱい花を付けていた。「ウォーク」では「おそらく登ってくる旅人は法善寺を目指してお題目を唱えながら登って来たのであろう」と知ったかぶりに書いたが、案内板には次のように書かれていた。
三島市教育委員会の案内板によると、
箱根旧街道 題目坂
(前略)
ここ題目坂は、玉沢妙法華寺への道程を示す題目石から名付けられたと言われている。
題目石は、現在法善寺に移されている。
題目坂を降りたところに「題目坂」の道しるべがあった。
函南町
宿境まで一里九町
→【三島市 市の山新田 題目坂】→ 三島宿
宿境まで三十五町
降り立った右側の路傍に「出征馬記念碑」が建っていた。(左写真) 謂れは判らないが、出征は人だけではなかった。人間と違って馬は帰還することはなかったであろう。記念碑を建てた人達の想いはどんなだったのだろうか。碑前にちょこんと茶色い陶器の布袋様が置かれていた。
法善寺の門の右側には確かにひげ題目の石碑があった。5分ほど市山新田の集落を進んだ右側に「六地蔵」がある。(右写真) 植え込みの中に隠れて、立札がなければ見過ごすところであった。六地蔵も代替わりするのか、背後にもう一組のかなり草臥れた六地蔵が並んでいた。
市山新田の村はずれで車道から右側に分かれて「臼転坂」を下る。途中竹薮を背景に馬頭観音の碑があった。
三島市教育委員会の案内板によると、
箱根旧街道 臼転坂
(前略)
ここ臼転坂は牛がこの道で転がったとか、臼を転がしたため、この名がついたと言われている。
臼転坂を下ったところに「臼転坂」の道しるべがあった。
函南町
宿境まで一里十五町
→【三島市 塚原新田 臼転坂】→ 三島宿
宿境まで二十八町
「ウォーク」では「箱根旧街道には数多くの命名された『坂』があった。昔の旅人は名前の付いた坂を一つ又一つと乗り越えて励みにしながら登って行ったのであろう」と感想を述べている。
塚原新田の集落には普門庵や宗福寺など立ち寄るポイントもあったが、疲れから素通りしてしまった。村はずれに花に囲まれた道祖神があった。隣に赤字で刻んだ「童尊神」の新しい石碑が立っていた。単に語呂合わせと思ったが、祀るには深刻な理由があるのかもしれない。
塚原新田の外れに箱根街道の入口を示す「箱根路」と彫り込んだ大石の石碑があった。ここから国道一号線が合流する。振り返るとここまで歩いた箱根西坂には、下から、塚原新田・市山新田・三ツ谷新田・笹原新田・山中新田と五つの新田が並んでいる。三島市発行のパンフレットによると、「この西坂五ヵ新田は箱根越えをする旅人を助けるため、江戸幕府が近郊の次男・三男に、集落を造らせたものです。旅人相手に木賃宿や馬方、かごかきをしたりして生活をしていました」とある。
この先から初音ヶ原の松並木が始まる。(左写真) 松林の更に西側に石畳が復元されて、この石畳と松並木は静岡県街並50選に『石畳の道』として選ばれ、近くの住民の格好の散歩道になっている。
三島市教育委員会・建設省静岡国道工事事務所の案内板によると、
初音ヶ原石畳遊歩道について
江戸時代の東海道は、徳川家康により慶長九年(1604)に整備され、道の両側には松や杉の並木が植えられ一里ごとに塚がつくられました。
しかし箱根路は急坂のため道が荒れ、しかも滑りやすいのでその対策としてやがて石が敷かれたもので、この初音ヶ原付近では現在の国道一号上り線に街道がありました。
この歩道は、松並木や一里塚など、箱根旧街道の面影を色濃く残すここ初音ヶ原に、石畳遊歩道として整備されたもので、天下の険、箱根八里を徒歩や駕籠で往来した旅人の姿がしのばれます。
15時40分、松並木を100m程歩いた所に錦田の一里塚(右写真の左側)があった。バス道の向こう側とこちらに対で塚が残っている。塚の上には榎が植えられている。街道筋で最も典型的な一里塚として現存するものの一つだという。
三島市教育委員会の案内板によると、
錦田一里塚(国指定史跡)
江戸幕府は慶長九年(1604)、東海道をはじめ主要街道に並木を植えるなどして街道を整備した。その一環として一里(約4km)ごとに街道の両側に直径約10mの円形の塚を築き、その上に風雨に強いエノキや松を植え、これを一里塚と称した。
一里塚は大名の参勤交代や旅人の道程の目安、馬や籠の賃金の目安、旅人の憩の場等、多方面に活用されていた。
錦田一里塚は江戸日本橋より始まる東海道の二十八里(約112km)の地点にあり、松並木の間に道路をはさんで向かい合って一対残っており、旧態を保っていて貴重であるので国指定史跡となっている。
一里塚の側には箱根八里の記念碑「錦田一里塚」、鈴木宗忠老師の句碑があった。(右写真の右側)
日々うらら 松の道場の 一里塚
松並木の尽きるところに 「松並木」の道しるべがあった。
箱根宿
宿境まで三里十九町
→【三島市 谷田 松並木】→ 三島宿
宿境まで六町
さらに右側緑地に紫陽花に囲まれて「箱根大根の碑」があった。(左写真) 碑文に
箱根八里の馬子吹き消えて 今は大根を造る歌 源水
とあった。明治になって鉄道により街道が廃れて、旅人の世話を業としていた人達が大根作りを始めた。この街道の切干大根は有名であった。
さらに国道一号線から右へ分かれて、すぐ右の一段高い緑地に、石地蔵や三界萬霊塔とともに小さな「雲助備前繁の墓」があった。備前繁は有名な暴れん坊の雲助で、大名の人足頭に無礼を働いて切られ、今井坂で事切れたと伝えられる。
これより現在は町の裏道となっている愛宕坂・今井坂と下る。
三島市教育委員会の案内板によると、
箱根旧街道 愛宕坂
(前略)
この旧街道は急な坂道なので、人も馬もすべって大変なところでした。そこで幕府は、1680年に、それまでの竹を敷いてあったものから、石を敷きつめて「石畳の道」に改修したものです。その石畳を1769年に修理した記録によると、「愛宕坂では、長さ140m、幅3.6mを修理した」とあり、当時の道幅が判ります。
現在、この道は石畳風に整備されている所と、その下には往時(昔)の石畳が埋まっている所とがあります。
ここでは、両側の松並木敷のうち、南側の並木敷だけを復元したもので、この先の初音原の松並木に続いています。
江戸時代には、現在の東海病院の敷地には愛宕社ほかの社寺がありましたが、現在は、「愛宕山」と刻んだ碑だけが頭上のこんもりとした小山に残っています。
坂の終わりに 「箱根旧街道入口」の道しるべがあった。
函南町
宿境までニ里八町
→【三島市 川原ヶ谷 箱根旧街道入口】→ 三島宿
宿境まで四町
三島大社へと続く通りに出た。「ウォーク」では「箱根の山かけ蕎麦以来何も食べていない空腹と、長く続いた下り坂に重くなった足を、ゴール間近と励ましながら歩いた」とある。
道路左側の宝鏡院入口の左右に、馬に乗るとき踏み台にする石が置かれていた。「鞍掛け石」という。(右写真)
三島市教育委員会の案内板によると、
鞍掛け石
ここ川原ヶ谷宝鏡院への入口の左右に一対ある。
昔は馬乗り石といい、北にある川原ヶ谷神社に参詣する人がここで馬に乗ったと伝えられる。
宝鏡院の境内には源頼朝が参拝の折、笠を置いたといわれる「笠置石」があった。三島七石の一つといわれる。
大場川に架かる新町橋を渡り、三島宿に入る。一路、本日のゴールの三嶋大社に最後の歩を運ぶ。16時30分、三嶋大社に着いた。三嶋大社には見るべき物も多いが、本日は街道に関係のある「たたり石」だけを見た。
案内板によると、
たたり石
此の石は大社前旧東海道の中央にあり、行き交う人の流れを整理する役目を果たしていた。“たたり”は本来糸のもつれを防ぐ具であり整理を意味する語である。後に往来頻繁になり、これを取り除こうとする度に災いがあったと言われ、“たたり”が“崇り”に置き換えて考えられる様になったと言われている。
大正三年内務省の道路工事によって掘り出され、神社に於いて此処に据えられた今日では交通安全の霊石としての信仰がある。
時間が遅くなっていたので、先に名物の福太郎餅を買いお参りする。
三嶋大社のキンモクセイは枝をつめられて、残った枝にも元気がなかった。大切にはされていると思うが心配である。
三島市教育委員会の案内板によると、
三嶋大社のキンモクセイ(国指定天然記念物)
この樹木はウスギモクセイの雄木として、日本有数のもので、大社の神木として大切に保存されている。樹齢は1200年を数えると伝えられ、訪れる参詣者の目を引いている。
根回り約三m、高さ地上約一mのところでニ大枝幹に分かれている。枝の展開は円形であり、その先は地面に届くほど垂れている。
九月上旬から中旬にかけて一度開花し、九月下旬から十月にかけて再び開花する。
淡黄色で可憐な花をつけ、甘い芳香を発するが、その香は神社付近はもちろん、遠方にまで及び、時には二里(約8km)先まで届いたと伝えられている。
三嶋大社の前に 「三嶋大社」の道しるべがあった。
箱根宿
宿境まで三里二十八町
→【三島市 旧傳馬町 三嶋大社】→ 沼津宿
宿境まで一里十八町
16時50分、本日の旅はここまでとする。三島駅まで戻り、電車で帰る。本日の歩数は 37,718歩であった。
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