第 15 回 〔後半〕
  平成14年1月26日(土) 
 くもり、風おだやか
 −沓掛−日坂宿−七曲り−掛川宿
 “日坂・伊達方の街道沿いは文化人の宝庫”



 午後0時30分、旧東海道は急な下り坂になって沓掛にかかる。さらに、「二の曲り」と呼ばれる、乗用車では無理なほどのきびしい急坂と急な曲がりを下る。振り返って写真を撮ってみた(左写真)が、坂の厳しさは撮れなかった。
 坂を下り国道一号線バイパスを潜る手前の山側に石垣と水路跡が残っていた。(右写真)
 石垣の反対側に、広重の版画の「東海道五拾三次 日阪(狂歌入り東海道)」の絵碑が立っていた。(左下写真) 坂にかかった所で、駕籠が列をなして斜めになって登っていく絵である。多分、旧坂口町のこの辺りなのであろう。

 バイパスを潜り国1の旧道を渡って日坂の町に入る。家々の門々に昔の屋号を墨書した木製一枚板の看板が掛かっていた。正午を回ってお腹が空いていた。何か食べるものをと探すが、パン屋さんもない。代りに大きな秋葉燈篭があった。(右写真)
 「安政三年の建立」とあったのに一見して新しい物なので、そばで立ち話をしていた男性に聞くと、日坂地域振興の会の人だったようで、「壊れかかったので新しくした。相伝寺のものは昔のままだから」見て行けとすすめられた。

 日坂幼稚園が日坂宿本陣の「扇屋」であった。門だけがそれらしく再建されていた。(左写真) またかたわらに「日坂宿 本陣跡」の道しるべがあった。

金谷宿 宿境まで一里二十三町 →【掛川市 日坂宿 本陣跡】→ 掛川宿 宿境まで一里三十一町
 また日坂宿の案内板も並んでいた。
 「問屋場跡」や「脇本陣(黒田屋)跡」は案内板だけであったが、旅籠「池田屋」は割烹旅館「末広亭」として現在も昔の建物で営業中である。(左下写真) 1階も2階も細かい格子で、意匠が少しづつ違って美しい。昼食がまだの我々は食事の出来そうなところではないのに少しがっかりした。

 「藤文」という商家の建物が掛川市に寄贈されていた。裏へ回ると倉が一棟綺麗に修復されていた。母屋も朽ち倒れそうな建物であった。(右写真) おそらく遠くない将来に修復されるに違いない。
 「萬屋」は小さな旅籠、古い建物が復元改装されていた。(右写真) いわば庶民の旅籠といったところ。中には入れず、覗いてみるだけであった。案内文に食事を供しないとあったが、素泊まり専用の旅籠だったのであろうか。
 「川坂屋」(左下写真) も2年前に復元改装されたものだが、ここには身分の高い武士も泊めたようで、一段高い部屋を持っている。また部屋の襖の書には「山岡鉄舟」・「巌谷一六」・「成瀬大域」などの名が見える。休みにはボランティアの人もいて無料で中が見学できる。すでに過日見学しているので本日は素通りする。

 すぐ先の相伝寺入口左に、先刻教えていただいた秋葉燈篭があった。(右写真) 裏に回ると「天保十年亥八月建立」と刻まれている。1840年の建立である。先ほどの新しい秋葉燈篭よりも笠や火袋が大きく立派な石灯篭であった。

 宝珠山相伝寺は 「遠江三十三観音」 第21番霊場がある。赤いのぼりが並び、すぐ左に小さな観音堂がある。秋葉燈篭の裏に石造の三十三体の観音像が三列に並んでいた。「赤いのぼり」・「小さな観音堂」・「三十三体の観音像」のいずれもが秋葉燈篭の写真に写り込んでいる。(右写真)

 また相伝寺のすぐ隣、逆川に掛かる古宮橋手前の右側に、「高札場」と「下木戸跡」が続いていた。

 この「高札場」は「下木戸の高札場」と呼ばれていたものの復元である。(左下写真)

 「下木戸跡」にはただ逆川の川渕に立札と案内板が立っているだけであった。(右写真)
 古宮橋を渡った先の左側に明治の書家の成瀬大域出生の地の石標がある。(左写真) かって川坂屋に残る成瀬大域の書を見たが、文字から文字への筆の流れがしっかりと書かれ、きっちり一筆書きのような筆致で、大変好感が持てた。
 日坂には大須賀鬼卵(1744〜1823)が晩年住んだという。大須賀鬼卵は河内で生まれ、東海道を点々と住処を替え、日坂を終の住処にした文人である。絵画を好み狂歌連歌に長けた人で、日坂では「木蘭(きらん)屋」というたばこ屋を営み生業とした。そのたばこ屋の障子戸には

世の中の 人と多葉粉(たばこ)の よしあしは けむりとなりて 後にこそしれ

と、狂歌が書いてあったという。この日坂から次の伊達方の集落にかけて、昔から文化人が多く出た土地柄である。

 日坂の町外れに「村界の石碑」(右写真) があった。「日坂村 東山口村 村界 日坂村青年会 東山口村青年会 大正四年一月建設」と読めた。隣には現在の「日坂宿 宿場口」の道しるべが並んでいた。

これより日坂宿 金谷宿まで一里二十九町 →【掛川市 日坂宿 宿場口】→ 掛川宿 宿境まで一里二十六町

 朱に塗られた歩道橋で国道一号線を渡り、事任八幡宮の境内に入る。境内は巨木が鬱蒼と繁り、神域の雰囲気が満ち溢れていた。(左下写真)

 事任(ことのまま)八幡宮は延喜式に記載があるほど、昔から街道筋にあった古いお宮で、『枕草子』にも名前が見られる。『枕草子』の第二百二十六段に、「社は、・・・・・ 言のままの明神、いと頼もし。・・・・・」と書かれている。
 参道をまっすぐ進んだ先に「事任八幡宮の大クス」がある。根の張り具合が良く、まだまだ勢いがあった。幹ほどに太い枝が1本南へ伸びて、全体が傾いてバランスが悪く見える。(左写真) 幹周囲は 5m 、樹高は 30mの堂々とした巨木である。

 折りしも一人の男性が我々の横をすり抜けて、左手の石段を登って行った。本殿へ参拝するのである。我々もその石段を登り、本殿に参る。

 本殿右側奥には巨杉が聳えていた。(右写真) いかにもご神木として荘厳さを持った巨木であった。市指定の天然記念物の「事任八幡宮の大スギ」である。「巨木巡礼」には

 本殿右の御神域に素性の良い大杉があった。御神木で切られることはないだろうが、良い柱が取れそうである。柵が開いていたので、中に失礼して幹に触って精気を頂いて来た。

と書いた。幹周囲は 6.5m、樹高は 50mである。この二本を少し日坂から外れるが、日坂宿の巨木としよう。

 手洗いを拝借して静かな神域を後にした。

 国道一号線バイパスの八坂インターにかかり、バイパスを潜ると、道は国道一号線から伊達方の集落へ、左へ別れる。その分岐点の左側に、地元の小さな社の塩井神社への小路があり、神社がその先の逆川の対岸に見えた。(左下写真) 石段を降りた川原には常時は橋が無いが、祭礼のときには板状の橋が架かる。その橋板がロープに繋がれて河原に置かれていた。その板を川の岩から岩へ渡して仮橋とするようだ。川を渡るとまた石段を上って神社に達する。女房が川渕まで行って確認してきた。

 そこに「掛川市 塩井川原」の道しるべがあった。

日坂宿 宿境まで十二町 →【掛川市 塩井川原】→ 掛川宿 宿境まで一里十四町

 午後1時40分、ここまで昼食に有り付けずに来た。伊達方に入って、やっと萩田食料品店を見つけた。女房が昼食のパンと飲み物を買いに行く。

 萩田食料品店の向かいに福天大権現の道標が立っていた。(右写真の左) 「福天権現本・・・」と下部が欠損していて読めない。かっては「福天権現本道」と刻まれていたようだ。南へ2kmほど先の菊川町西方の洞谷山龍雲寺、その寺域にある天狗信仰の福天大権現を、東海道から分かれて目指す善男善女を案内した道標であろう。

 すぐ先の菊川町から伊達方にぶつかる三叉路に「伊達方一里塚」がある。(右写真) かっては斜向かいの人家の壁に標識が立っているだけだったが、数年前に少し場所を移して小公園に整備されたものである。小公園に入って案内板を読みながら女房を待った。
 伊達方の集落を抜けて再び国道に出るところに、東山口村青年団の建てた 「歌人石川依平翁出生地」 の石標が立っていた。(左写真の左)

 石川依平は寛政3年(1791年)に伊達方の庄屋の家に生まれ、六歳にして歌を詠んで奇童といわれ、掛川城主に見出された。後に京の冷泉家の門人として和歌に秀でた才能を発揮した。また17歳のとき本居宣長の国学にふれ、国学を学び、遠州国学にも名を残した。東海道の道中にあって諸国の学者や歌人との交流も深めた。

 また、伊達方一里塚の手前200mほどの東海道にこれも東山口村青年団の手になる 「俳人伊藤嵐牛翁出生地」 の石標を見て来ていた。(左写真の右)

 伊藤嵐牛は石川依平に遅れること七年の寛政10年(1798年)に東山口村塩井川原の鍛冶屋に生まれた。地縁があって石川依平に就いて和歌や国学を学び、後に三河岡崎の青々処卓池に俳諧を学び、天下の諸名士と交流し、「遠州屈指の宗匠」と称せられた。掛川市十九首町の成田山東光寺境内に嵐牛の「桜見し 心しづまる 牡丹かな」の句碑があるという。道中見学しよう。

 国道一号線に出たところに、国1の224kmポストがあった。日本橋からはるばる来たものである。国道を200mほど行った諏訪神社の境内で、先ほど購入したパンと牛乳で遅い昼食にした。いつもタイミングの良い食堂に当らず、おにぎりでも用意してくるんだったと後悔することが多い。しかし次の時には忘れてしまって準備することはなかった。

 諏訪神社からしばらく旧道を行き、再び国道にでるところに 「掛川市 本所」 の道しるべがあった。

日坂宿 宿境まで二十三町 →【掛川市 本所】→ 掛川宿 宿境まで一里三町

 それから20分、国道一号線を歩く。ほとんど何も残らない道中に、半ばまで進んだ道路向かい側に秋葉燈篭が見えた。新しいものに思えたが、向こう側に渡り確かめると、そばに古いものの火袋や竿に当る部分が残されていた。(右写真)

 旧東海道は「成滝東」の交叉点で国道から左へ分かれて掛川宿に進む。その分岐点に「馬頭観音」の祠がある。(左写真) 格子の中を覗いてみると、石造の馬頭観音像が見えた。反対側には 「掛川市 成滝」 の道しるべがあった。

日坂宿 宿境まで一里六町 →【掛川市 成滝】→ 掛川宿 宿境まで二十町

 成滝の通りの半ばの掛川市農協西山口支所の前に、竹垣で囲まれた「福天大権現標石」がある。(右写真) これも伊達方で見たものと同時代の石標と思われる。「大頭龍大権現」の文字も見える。大頭龍神社は菊川町にある神社である。この道は川崎湊に出る川崎街道の始点でもあった。
 午後2時52分、旧東海道は逆川を渡って掛川宿に入って行く。その橋を「馬喰橋」という。馬喰(ばくろう)は広辞苑によると、「馬のよしあしを鑑定する人。馬の病をなおす人。また、馬を売買・周旋する人。」となっている。馬のエキスパートである。

 私の故郷の但馬では、かっては山間で仔牛の生産を業とする農家が多かった。一年育てて市で売る。仔牛は肉牛として育てられて神戸牛や松阪牛のブランド牛肉となる。その斡旋をする人達も「ばくろう」と呼んだ。もっとも文字は「博労」と書き、「馬喰」とは書かなかったと思う。

 往時は逆川の河原ではるばる佐夜の中山の峠越えをしてきた馬の脚を労わりながら洗う様子が見られただろう。

 「馬喰橋」の橋柱は馬の顔がデザインされてユーモラスであった。(左写真の左) 西橋詰に葛川一里塚の跡が小公園に整備されていた。(左写真の中) そこに火袋・中台・竿が一体になったモダンな秋葉燈篭があった。(左写真の右) 

 一里塚跡の反対側の橋詰には「もちや」という菓子舗があり、「振袖餅」という名物がある。駐車場に「掛川宿 名物 振袖餅」の石碑もあった。日持ちがしないためか、午前中で売り切れるようで、店に入った女房は手ぶらで戻ってきた。その駐車場には「掛川市 馬喰橋 一里塚跡」の道しるべがあった。誰かに壊されたのか、次の宿を示す部分が両方とも取れてしまっていた。ウォーク時の記録では「日坂宿まで5.9km、掛川宿まで0.8m」となっている。昔の里程では多分「日坂宿まで一里十八町、掛川宿まで七町」といったところである。

日坂宿  →【掛川市 馬喰橋 一里塚跡】→ 掛川宿 

 拡幅され歩道が整備された道を真っ直ぐに500mほど進み、歩道が尽きた先に「東海道七曲」の標識がある。道は直進しているが、直進しないで標識に従い左折する。ここからが七曲りの始まりである。

 右へ回ったり左へ回ったり複雑な道になるが、次の二つ目の曲りさえ間違わなければ道なりに進める。二つ目の曲りは最初の角から100mほど進んだ学習塾の角を右折する。真っ直ぐ先にはJR東海道線が見えている。

 三つ目の曲りには葛川一里塚のものと同じモダンな「秋葉常夜燈」(右写真)のある角を左折する。四つ目の曲りはカネモ製茶に突き当たって右折する。

 五つ目の曲りも突き当りを右折する。曲がってすぐに右に「塩の道」の道しるべを見つけた。(左写真)

 「塩の道」は相良町を起点に掛川から森、春野、水窪を通って南長野向かう、かって海辺で生産した塩を産地へ運んだ交易の道である。塩の道はさらに北へ進んで千国街道を通って糸魚川に抜ける列島横断の生活の道である。静岡県では県内の「塩の道」を歩く人たちのために、写真のような道しるべを建てている。

 旧東海道はこの七曲りで南北に伸びる「塩の道」と交差しているわけである。

 七曲りの終点で道が西へずれ、桝型になって少し広くなっている。(右写真)そこにかっては東番所があった。「掛川宿 東番所跡」の道しるべと七曲りの案内板があった。

日坂宿 宿境まで一里二十六町 →【掛川市 掛川宿 東番所跡】→ 掛川宿 袋井宿まで二里二十三町
 旧東海道は七曲りを抜け元の道に戻って、さらに二通り北側の連雀の通りを西へ進む。しかし、本日は掛川宿をゴールとして来たので、先へは進まない。その分、少し城下を散策することにした。

 仁藤の交叉点を北へ進んで、左角の天然寺に立寄る。天然寺前に古墳の石棺のような「ケイスベルト・ヘンミィの墓」(右写真)があった。石柵に囲まれた墓は風化して表面に書かれた文字は判読できないが、記念碑と案内板があった。
 天然寺の角を北へ進むとすぐに仁藤大獅子保存小屋に至る。ガラス越しに大きな獅子頭が見えた。有名な仁藤大獅子の獅子頭であろう。
 後で案内文を読むと、案内文のスケールと目にした獅子頭とは少し規模が違うように思えた。

 逆川に出て川沿いにお城を目指して歩く。(左写真) 掛川城は平成六年四月、山内一豊建設当時のままに本格的木造で復元された。一代で財を築いた立志伝中の女性が、係累もなく、生涯学習など一生懸命な掛川市が気に入って移り住み、何か街のためにと多額の寄付をした。そのお金を核にして寄付を集め、掛川城の再建がなされた。ただ再建に際して正確な図面がなかった。山内一豊は掛川から高知に国替になったとき、掛川城を引き写して、高知城を築城したといわれる。それで今度は逆に高知城を大いに参考にして、平成の掛川城は建設されたという。

 大手橋の南に掛川城大手門も復元されている。(左写真) その北側には番所が移築されていた。
 掛川城大手門は発掘調査では復元位置よりもっと南の交叉点の中にあったという。詳しい案内板があった。
 大手門の北へ戻ったところに「三光稲荷」の派手な赤い鳥居が目立った。掛川城の鎮守として京都の伏見稲荷を勧請したものだという。
 帰りに “こだわりっぱ” に立ち寄り御土産を買った。午後4時3分、まだまだ早いが掛川駅前に着き、今日の夫婦旅を終えた。本日の歩数は 34,147歩であった。

  






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