第 15 回 〔後半〕
平成14年1月26日(土)
くもり、風おだやか
−沓掛−日坂宿−七曲り−掛川宿
“日坂・伊達方の街道沿いは文化人の宝庫”
午後0時30分、旧東海道は急な下り坂になって沓掛にかかる。さらに、「二の曲り」と呼ばれる、乗用車では無理なほどのきびしい急坂と急な曲がりを下る。振り返って写真を撮ってみた(左写真)が、坂の厳しさは撮れなかった。
日坂地域振興の会 宿おこし部会の案内板によると、
「二の曲り」と「沓掛」
「古駅路ハ下町ヨリ南ノ清水ト云所ヲ経テ、二ノ曲リト云下ヘ出シナリ・・(掛川誌稿)」に見られる「二の曲り」とは旧坂口町を過ぎて東へ向かう沓掛へ至るこの急カーブを指しています。
「沓掛」の地名は峠の急な坂道にさしかかった所で沓(くつ)を履き替え、古い沓を木に掛けて旅の安全を祈願するという古い慣習に因るといわれています。
坂を下り国道一号線バイパスを潜る手前の山側に石垣と水路跡が残っていた。(右写真)
日坂地域振興の会の案内板によると、
日坂宿旧坂口町内の石垣と水路跡
坂口町に宿の家並が栄えた江戸時代のものと思われる。
石垣の反対側に、広重の版画の「東海道五拾三次 日阪(狂歌入り東海道)」の絵碑が立っていた。(左下写真) 坂にかかった所で、駕籠が列をなして斜めになって登っていく絵である。多分、旧坂口町のこの辺りなのであろう。
案内金属板によると、
東海道五拾三次 日阪
浮世絵版画 安藤広重作 狂歌入東海道
あたらしく けさにこにこと わらび餅
をかしな春の 立場なるらん 倭園琴桜
江戸時代末期になると、江戸を中心として諸国への街道が整備され、物見遊山の旅が盛んに行われ、庶民の関心がそれまでの享楽の場から戸外へ移るにつれて風景画が多く描かれるようになった。
この浮世絵は、広重が天保三年(1832)「保永堂版東海道五拾三次」に続き、天保十三年(1842)頃に、視点を変えて風景をとらえた「狂歌入東海道」の日阪である。
バイパスを潜り国1の旧道を渡って日坂の町に入る。家々の門々に昔の屋号を墨書した木製一枚板の看板が掛かっていた。正午を回ってお腹が空いていた。何か食べるものをと探すが、パン屋さんもない。代りに大きな秋葉燈篭があった。(右写真)
日坂地域振興の会 宿おこし部会の案内板によると、
秋葉常夜燈
日坂宿はしばしば火災にあっているためか、秋葉信仰が盛んであったようです。当時の人々は神仏のご加護を願い各所に常夜燈を建てて信仰しました。
ここ本陣入口の常夜燈の他、相伝寺境内、古宮公会堂脇と日坂宿には三基残っております。ここの常夜燈は安政三年(1856)の建立です。
秋葉山のほかに駅中安全とあるのは、火災を恐れる気持ちの強さを示していると言ってもよいでしょう。また、常夜燈は街道に面して建てられており「道標」の役目も果たしておったといわれています。
「安政三年の建立」とあったのに一見して新しい物なので、そばで立ち話をしていた男性に聞くと、日坂地域振興の会の人だったようで、「壊れかかったので新しくした。相伝寺のものは昔のままだから」見て行けとすすめられた。
日坂幼稚園が日坂宿本陣の「扇屋」であった。門だけがそれらしく再建されていた。(左写真) またかたわらに「日坂宿 本陣跡」の道しるべがあった。
金谷宿
宿境まで一里二十三町
→【掛川市 日坂宿 本陣跡】→ 掛川宿
宿境まで一里三十一町
日坂地域振興の会 宿おこし委員会の案内板によると、
本陣跡
江戸時代に諸大名が江戸へ往来した時の旅宿のあてた宿駅の旅籠屋を本陣といいます。
日坂宿本陣の屋号は「扇屋」代々片岡家が世襲で営んでいました。本陣の敷地はおよそ三百五十坪・建坪二百二十坪、門構・玄関付の建物でした。嘉永五年(1852)の日坂宿の大火で全焼、再建後、明治三年(1870)に店を閉じました。
その後の学制頒布に伴い、明治十二年(1879)より跡地を日坂小学校の敷地とし、家屋は校舎として利用されましたが現存しません。
また日坂宿の案内板も並んでいた。
日坂地域振興の会 宿おこし委員会の案内板によると、
ここは宿場町「日坂の駅」 東海道五十三次品川宿から数えて25番目の宿「日坂」
江戸から五十四里余。日坂は東海道三大難所の一つ「小夜の中山峠」西の麓に位置し、日坂、入坂、新坂とも書かれていました。
「日坂宿」の初見は、鎌倉時代、延慶三年(1310)の「夫木和歌抄」といわれています。
慶長六年(1601)徳川家康による、東海道の整備にともない、問屋場が設けられ、伝馬の継ぎ立て駅としての日坂宿は、重要な存在になりました。助郷四十三村の協力で、伝馬百疋と伝馬人百人が置かれ、役人の公用と荷物の輸送に役立ってきました。
天保十四年(1843)の記録によれば、家数百六十八軒、人口七百五十人とあり、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠屋三十三軒がありました。
大井川の川止めや、大名の参勤交代などで小さな宿場町ではありましたが、かなりの賑わいであったと思われます。
宿場の東口から西口までの距離は、およそ六町半(700メートル)町並みの形態は現在もあまり変わっていません。
「問屋場跡」や「脇本陣(黒田屋)跡」は案内板だけであったが、旅籠「池田屋」は割烹旅館「末広亭」として現在も昔の建物で営業中である。(左下写真) 1階も2階も細かい格子で、意匠が少しづつ違って美しい。昼食がまだの我々は食事の出来そうなところではないのに少しがっかりした。
日坂地域振興の会 宿おこし部会の案内板によると、
問屋場跡
宿駅々伝の継立の事務を取扱う職務を問屋、その役所を問屋場と言います。日坂宿の問屋場はかってこの場所にありました。
問屋は宿内で最も大切な役職でした。「東海道宿村大概帳」によると、日坂宿の宿役人は問屋一人・年寄四人・請払二人・帳附五人・馬指三人・人足割三人・同下役六人で、問屋場へは問屋・年寄の外、宿役の者が毎日交代で一人ずつ詰め、重要な通行の際には全員で業務に携わったとのことです。
当時の建物、その他の遺物は現存しません。
案内板によると、
脇本陣「黒田屋」跡
日坂宿の脇本陣は時代と共に移りかわり何軒かが務めました。
ここには幕末期に日坂宿最後の脇本陣を務めた「黒田屋(大澤富三郎家)」がありました。黒田家の拵えは文久二年(1862)の宿内軒並取調書上書きに「間口八間 奥行十五間 畳百一畳 板鋪十五畳 惣坪数〆百二十坪」と記されております。
また、明治天皇が街道巡幸の際、明治二年三月二十一日と明治十一年十一月二日の二回にわたりここ脇本陣で小休止なされました。
「藤文」という商家の建物が掛川市に寄贈されていた。裏へ回ると倉が一棟綺麗に修復されていた。母屋も朽ち倒れそうな建物であった。(右写真) おそらく遠くない将来に修復されるに違いない。
案内金属板によると、
藤文・・・日坂最後の問屋役を務めた伊藤文七邸
商家で屋号は藤文。
伊藤文七は(号は文陰)翁は安政三年(1856)に日坂宿年寄役となり、万延元年(1860)から慶応三年(1867)にかけて日坂宿最後の問屋役を務めました。
維新後の明治四年(1871)には、日坂宿他二十七ヶ村の副戸長に任ぜられました。
その間、幕府の長州征討に五十両を献金、明治維新の時は官軍の進発費として二百両を寄付しております。
明治四年(1871)の郵便制度開始と同時に郵便取扱所を自宅・藤文に開設、取扱役(局長)に任ぜられました。日本最初の郵便局の一つと云われています。
その孫、伊藤文一郎氏は明治三十七年(1904)から三十九年(1906)、大正六年(1917)から八年(1919)、昭和三年(1928)と三期にわたり日坂村村長を務め、当時珍しいガソリン式消防ポンプを村に、世界一周旅行記念として大地球儀を小学校に寄贈するなど村の発展や村民の国際意識啓発に尽力しました。
明治九年(1876)十一月には昭憲皇太后、翌十年(1877)一月には英照皇太后が日坂宿御通過の時、ここで御休憩なされました。
この建物は藤文部分が江戸末期、かえで屋部分が明治初期に建てられたもので、修復された倉は当時何棟かあったと云われているうちの一棟です。
この土地家屋は平成十年(1998)に文陰の曾孫伊藤奈良子さんの遺志により掛川市に寄贈されました。
文久二年(1862)の宿内軒並取調書上帳では今の伊藤家は藤文・かえで屋に分かれておりました。
「萬屋」は小さな旅籠、古い建物が復元改装されていた。(右写真) いわば庶民の旅籠といったところ。中には入れず、覗いてみるだけであった。案内文に食事を供しないとあったが、素泊まり専用の旅籠だったのであろうか。
案内板によると、
萬屋
江戸時代末期の旅籠。嘉永五年(1852)の日坂宿大火で焼失し、その後まもなく再建されました。再建時期についての明確な史料はありませんが、建物内部の構造体や壁に貼られた和紙に書かれていた「安政三年甲辰正月・・・」から考えまして、安政年間(1854〜1859)のしかも早い時期かと思われます。
同じ宿内で、筋向かいの「川坂屋」が士分格の宿泊した大旅籠であったのに対して「萬屋」は庶民の利用した旅籠でした。
一階の裏手に抜ける土間がないこと、台所が不明であること、二階正面の出格子が二階床と同じ高さで、腰高の手すりが付き、大変開放的あることなどが、この旅籠の特徴です。又、一階正面の蔀戸(しとみど)は当時の一般的な店構えの仕様であり、日坂宿では昭和二十年代まで数多く見られました。
尚、文久二年(1862)の宿内軒並取調書上帳(古文書)には「萬屋」について次のように記されています。
「間口四間半 畳三十三畳 板鋪六畳 奥行七間半 惣畳数〆三十九畳 惣坪数〆三十三坪七部五厘 旅籠屋嘉七」
今回の修理では、主に一、二階の正面を復原することを目的としたため、内部は大きな復原をしませんでしたが、調査結果は図の様になり、階段位置が反対であったり、二階が四間あったと思われます。
文久二年の記載との違いは、この記載が旅籠の営業部門のみを記載しているためです。記録に見られる建坪と解体調査の結果から考えて、食事を供しない宿であったとも思われます。
「川坂屋」(左下写真) も2年前に復元改装されたものだが、ここには身分の高い武士も泊めたようで、一段高い部屋を持っている。また部屋の襖の書には「山岡鉄舟」・「巌谷一六」・「成瀬大域」などの名が見える。休みにはボランティアの人もいて無料で中が見学できる。すでに過日見学しているので本日は素通りする。
日坂地域振興の会の案内板によると、
川坂屋
旅籠・川坂屋は寛政年間に問屋役を勤めたこともある斎藤次右衛門が始めたと伝えられています。
現存する建物の建設時期は宿場の殆どが焼失した嘉永五年(1852)の「日坂宿大火」後と安政元年(1854)の「安政東海大地震」後の二説があります。
日坂宿で江戸時代の面影を遺す数少ない建物の一つで精巧な木組みと細かな格子が特徴的です。
宿で一番西にあった旅籠屋で上段の間をもち身分の高い武士などが宿泊したようで、脇本陣格であったと思われます。旅籠としては本陣と同じ明治三年(1870)まで続けられました。
広さは三百余坪ありましたが昭和二十五年の新国道開通で分断され、その後、平成七年(1995)のバイパス工事により明治元年(1868)に掛川城主大田侯より拝領した茶室も蔵とともに取り壊されました。
平成十二年三月にこの家屋の改修、復元工事が竣工しました。
斎藤家の子孫は現在小田原市にお住まいです。
すぐ先の相伝寺入口左に、先刻教えていただいた秋葉燈篭があった。(右写真) 裏に回ると「天保十年亥八月建立」と刻まれている。1840年の建立である。先ほどの新しい秋葉燈篭よりも笠や火袋が大きく立派な石灯篭であった。
宝珠山相伝寺は 「遠江三十三観音」 第21番霊場がある。赤いのぼりが並び、すぐ左に小さな観音堂がある。秋葉燈篭の裏に石造の三十三体の観音像が三列に並んでいた。「赤いのぼり」・「小さな観音堂」・「三十三体の観音像」のいずれもが秋葉燈篭の写真に写り込んでいる。(右写真)
また相伝寺のすぐ隣、逆川に掛かる古宮橋手前の右側に、「高札場」と「下木戸跡」が続いていた。
この「高札場」は「下木戸の高札場」と呼ばれていたものの復元である。(左下写真)
日坂地域振興の会 宿おこし部会の案内板によると、
高札場
幕府や藩の定めた法令や禁令を板札に墨書したものを高札、その掲げられた場所を高札場といいます。
高札場は人々の注目をひきやすい所に設置され、日坂宿では相伝寺観音堂敷地内にあり、下木戸の高札場ともいわれていました。
高札の内容は日坂宿が幕領であったため公儀御法度(幕府法)が中心で年代によって若干の書き替えがありました。
ここに掲げられている八枚は「東海道宿村大概帳」の記録に基づき天保年間のものを復原いたしました。
高札場の大きさ 「高さ二間、長二間、横七尺」は日坂宿の 「御尋ニ付申上候」書付(天保十四年)によりました。
高札小史
◎正徳元年(1711)日坂宿の高札場設けられる。このときの高札五枚(親子・切支丹・火付・伝馬・毒薬)は幕末まで続いた。
◎慶応四年(明治元年・1868)太政官布告により従来の高札を撤去し新たに五枚の高札(五傍の掲示)を掲げた。
◎明治六年(1873)高札が法令公布の方式としては適さないとの見地から撤去された。
「下木戸跡」にはただ逆川の川渕に立札と案内板が立っているだけであった。(右写真)
日坂地域振興の会 宿おこし部会の案内板によると、
下木戸(しもきど)跡
江戸時代、治安維持のため宿場の東西には木戸が設けられていました。大規模な宿場では観音開きの大きな門でしたが、小規模であった日坂宿では木戸の代りに川がその役割を果たしていました。
古宮橋の架かる逆川のこの場所が「下の木戸(下木戸)」となっていて、江戸時代初期の頃までは橋幅も狭く、粗末な木橋で、いったん事が起こった時は、橋をはずしたとも伝えられています。
古宮橋を渡った先の左側に明治の書家の成瀬大域出生の地の石標がある。(左写真) かって川坂屋に残る成瀬大域の書を見たが、文字から文字への筆の流れがしっかりと書かれ、きっちり一筆書きのような筆致で、大変好感が持てた。
日坂地域振興の会 宿おこし部会の案内板によると、
賜硯堂成瀬大域出生の地
書家、成瀬大域(成瀬温)は文政十年(1827)古宮のこの地で生まれました。
四十二歳の時上京、安井息軒の門に入って書を修めました。
明治十二年、王義之の聖教序を臨書し諸葛亮の出師表、真、草、二帖と併せて明治天皇に献上し嘉賞の栄誉を受け楠公手沢の古硯を賜り、これにより自らを「賜硯堂」と号しました。
明治三十五年(1902)没。七十六歳でした。
下町の法讃寺境内には大域自筆の暁心王碑があります。
日坂には大須賀鬼卵(1744〜1823)が晩年住んだという。大須賀鬼卵は河内で生まれ、東海道を点々と住処を替え、日坂を終の住処にした文人である。絵画を好み狂歌連歌に長けた人で、日坂では「木蘭(きらん)屋」というたばこ屋を営み生業とした。そのたばこ屋の障子戸には
世の中の 人と多葉粉(たばこ)の よしあしは けむりとなりて 後にこそしれ
と、狂歌が書いてあったという。この日坂から次の伊達方の集落にかけて、昔から文化人が多く出た土地柄である。
日坂の町外れに「村界の石碑」(右写真) があった。「日坂村 東山口村 村界 日坂村青年会 東山口村青年会 大正四年一月建設」と読めた。隣には現在の「日坂宿 宿場口」の道しるべが並んでいた。
これより
日坂宿
金谷宿まで一里二十九町
→【掛川市 日坂宿 宿場口】→ 掛川宿
宿境まで一里二十六町
朱に塗られた歩道橋で国道一号線を渡り、事任八幡宮の境内に入る。境内は巨木が鬱蒼と繁り、神域の雰囲気が満ち溢れていた。(左下写真)
事任(ことのまま)八幡宮は延喜式に記載があるほど、昔から街道筋にあった古いお宮で、『枕草子』にも名前が見られる。『枕草子』の第二百二十六段に、「社は、・・・・・ 言のままの明神、いと頼もし。・・・・・」と書かれている。
案内板によると、
御由緒
創立年代未詳。大同二年(807)坂上田村麻呂東征の際、桓武帝の勅を奉じ、旧社地本宮山より現社地へ遷座すという。延喜式(927)人名帳に佐野郡 己等乃麻知(ことのまち)神社とあるはこの社なり。古代より街道筋の鎮座、遠江に座す願いごとのままに叶うありがたき言霊の社として、朝廷を始め全国より崇敬されしことは平安期の「枕草子」の記載あるを見ても明らかなり。
世が貴族社会より武家社会に移るや八幡信仰が一世を風靡し、康平五年(1062)源頼義が石清水八幡宮を当社に勧請し、以来八幡宮を併称す。
江戸期に入りては、徳川幕府も当社を信仰し社殿を改築、朱印高百石余を献上す。明治以降、県社八幡神社と称せしが、第二次大戦以後の社格廃止に伴い、由緒ある名「事任(ことのまま)」を復活し、現在は、事任八幡宮と称す。
参道をまっすぐ進んだ先に「事任八幡宮の大クス」がある。根の張り具合が良く、まだまだ勢いがあった。幹ほどに太い枝が1本南へ伸びて、全体が傾いてバランスが悪く見える。(左写真) 幹周囲は 5m 、樹高は 30mの堂々とした巨木である。
折りしも一人の男性が我々の横をすり抜けて、左手の石段を登って行った。本殿へ参拝するのである。我々もその石段を登り、本殿に参る。
本殿右側奥には巨杉が聳えていた。(右写真) いかにもご神木として荘厳さを持った巨木であった。市指定の天然記念物の「事任八幡宮の大スギ」である。「巨木巡礼」には
本殿右の御神域に素性の良い大杉があった。御神木で切られることはないだろうが、良い柱が取れそうである。柵が開いていたので、中に失礼して幹に触って精気を頂いて来た。
と書いた。幹周囲は 6.5m、樹高は 50mである。この二本を少し日坂から外れるが、日坂宿の巨木としよう。
手洗いを拝借して静かな神域を後にした。
国道一号線バイパスの八坂インターにかかり、バイパスを潜ると、道は国道一号線から伊達方の集落へ、左へ別れる。その分岐点の左側に、地元の小さな社の塩井神社への小路があり、神社がその先の逆川の対岸に見えた。(左下写真) 石段を降りた川原には常時は橋が無いが、祭礼のときには板状の橋が架かる。その橋板がロープに繋がれて河原に置かれていた。その板を川の岩から岩へ渡して仮橋とするようだ。川を渡るとまた石段を上って神社に達する。女房が川渕まで行って確認してきた。
そこに「掛川市 塩井川原」の道しるべがあった。
日坂宿
宿境まで十二町
→【掛川市 塩井川原】→ 掛川宿
宿境まで一里十四町
午後1時40分、ここまで昼食に有り付けずに来た。伊達方に入って、やっと萩田食料品店を見つけた。女房が昼食のパンと飲み物を買いに行く。
萩田食料品店の向かいに福天大権現の道標が立っていた。(右写真の左) 「福天権現本・・・」と下部が欠損していて読めない。かっては「福天権現本道」と刻まれていたようだ。南へ2kmほど先の菊川町西方の洞谷山龍雲寺、その寺域にある天狗信仰の福天大権現を、東海道から分かれて目指す善男善女を案内した道標であろう。
すぐ先の菊川町から伊達方にぶつかる三叉路に「伊達方一里塚」がある。(右写真) かっては斜向かいの人家の壁に標識が立っているだけだったが、数年前に少し場所を移して小公園に整備されたものである。小公園に入って案内板を読みながら女房を待った。
案内板によると、
伊達方一里塚
一里塚は、慶長九年(1604)江戸幕府の命により築かれた。江戸日本橋から一里(約4km)ごとに塚が設けられ、松か榎を植えて目印とした。旅人にとって夏は木蔭、冬は風よけとして重宝がられた。また、塚の傍らには旅人の必需品が商われたほか、一服できる休息の場でもあった。
江戸日本橋から京都まで百二十五里(約五百km)。掛川市内には佐夜鹿、伊達方、葛川、大池の4ヶ所に塚は設けられていた。
ここ伊達方一里塚は、江戸より五十七番目の塚として街道の両側に築かれ、南側は現・萩田理髪店東側あたり、北側は現・三浦たばこ店屋敷あたりに設けられていた。
当時、塚の大きさは直径七間、高さ三間の小山で、一里山と言われた。明治三十三年頃取り壊されたという。
伊達方の集落を抜けて再び国道に出るところに、東山口村青年団の建てた 「歌人石川依平翁出生地」 の石標が立っていた。(左写真の左)
石川依平は寛政3年(1791年)に伊達方の庄屋の家に生まれ、六歳にして歌を詠んで奇童といわれ、掛川城主に見出された。後に京の冷泉家の門人として和歌に秀でた才能を発揮した。また17歳のとき本居宣長の国学にふれ、国学を学び、遠州国学にも名を残した。東海道の道中にあって諸国の学者や歌人との交流も深めた。
また、伊達方一里塚の手前200mほどの東海道にこれも東山口村青年団の手になる 「俳人伊藤嵐牛翁出生地」 の石標を見て来ていた。(左写真の右)
伊藤嵐牛は石川依平に遅れること七年の寛政10年(1798年)に東山口村塩井川原の鍛冶屋に生まれた。地縁があって石川依平に就いて和歌や国学を学び、後に三河岡崎の青々処卓池に俳諧を学び、天下の諸名士と交流し、「遠州屈指の宗匠」と称せられた。掛川市十九首町の成田山東光寺境内に嵐牛の「桜見し 心しづまる 牡丹かな」の句碑があるという。道中見学しよう。
国道一号線に出たところに、国1の224kmポストがあった。日本橋からはるばる来たものである。国道を200mほど行った諏訪神社の境内で、先ほど購入したパンと牛乳で遅い昼食にした。いつもタイミングの良い食堂に当らず、おにぎりでも用意してくるんだったと後悔することが多い。しかし次の時には忘れてしまって準備することはなかった。
諏訪神社からしばらく旧道を行き、再び国道にでるところに 「掛川市 本所」 の道しるべがあった。
日坂宿
宿境まで二十三町
→【掛川市 本所】→ 掛川宿
宿境まで一里三町
それから20分、国道一号線を歩く。ほとんど何も残らない道中に、半ばまで進んだ道路向かい側に秋葉燈篭が見えた。新しいものに思えたが、向こう側に渡り確かめると、そばに古いものの火袋や竿に当る部分が残されていた。(右写真)
旧東海道は「成滝東」の交叉点で国道から左へ分かれて掛川宿に進む。その分岐点に「馬頭観音」の祠がある。(左写真) 格子の中を覗いてみると、石造の馬頭観音像が見えた。反対側には 「掛川市 成滝」 の道しるべがあった。
日坂宿
宿境まで一里六町
→【掛川市 成滝】→ 掛川宿
宿境まで二十町
成滝の通りの半ばの掛川市農協西山口支所の前に、竹垣で囲まれた「福天大権現標石」がある。(右写真) これも伊達方で見たものと同時代の石標と思われる。「大頭龍大権現」の文字も見える。大頭龍神社は菊川町にある神社である。この道は川崎湊に出る川崎街道の始点でもあった。
案内板によると、
告
この道しるべは大頭龍大権現と福天大権現の参道標である。昔は掛川宿と深い交流のあった川崎湊(現在の静波町)に続く川崎街道と言って多くの人々に利用されていた。元の位置は約十米程東よりであり川崎街道の起点となっている。
午後2時52分、旧東海道は逆川を渡って掛川宿に入って行く。その橋を「馬喰橋」という。馬喰(ばくろう)は広辞苑によると、
「馬のよしあしを鑑定する人。馬の病をなおす人。また、馬を売買・周旋する人。」
となっている。馬のエキスパートである。
私の故郷の但馬では、かっては山間で仔牛の生産を業とする農家が多かった。一年育てて市で売る。仔牛は肉牛として育てられて神戸牛や松阪牛のブランド牛肉となる。その斡旋をする人達も「ばくろう」と呼んだ。もっとも文字は「博労」と書き、「馬喰」とは書かなかったと思う。
往時は逆川の河原ではるばる佐夜の中山の峠越えをしてきた馬の脚を労わりながら洗う様子が見られただろう。
「馬喰橋」の橋柱は馬の顔がデザインされてユーモラスであった。(左写真の左) 西橋詰に葛川一里塚の跡が小公園に整備されていた。(左写真の中) そこに火袋・中台・竿が一体になったモダンな秋葉燈篭があった。(左写真の右)
一里塚跡の反対側の橋詰には「もちや」という菓子舗があり、「振袖餅」という名物がある。駐車場に「掛川宿 名物 振袖餅」の石碑もあった。日持ちがしないためか、午前中で売り切れるようで、店に入った女房は手ぶらで戻ってきた。その駐車場には「掛川市 馬喰橋 一里塚跡」の道しるべがあった。誰かに壊されたのか、次の宿を示す部分が両方とも取れてしまっていた。ウォーク時の記録では「日坂宿まで5.9km、掛川宿まで0.8m」となっている。昔の里程では多分「日坂宿まで一里十八町、掛川宿まで七町」といったところである。
日坂宿 →【掛川市 馬喰橋 一里塚跡】→ 掛川宿
拡幅され歩道が整備された道を真っ直ぐに500mほど進み、歩道が尽きた先に「東海道七曲」の標識がある。道は直進しているが、直進しないで標識に従い左折する。ここからが七曲りの始まりである。
右へ回ったり左へ回ったり複雑な道になるが、次の二つ目の曲りさえ間違わなければ道なりに進める。二つ目の曲りは最初の角から100mほど進んだ学習塾の角を右折する。真っ直ぐ先にはJR東海道線が見えている。
三つ目の曲りには葛川一里塚のものと同じモダンな「秋葉常夜燈」(右写真)のある角を左折する。四つ目の曲りはカネモ製茶に突き当たって右折する。
五つ目の曲りも突き当りを右折する。曲がってすぐに右に「塩の道」の道しるべを見つけた。(左写真)
「塩の道」は相良町を起点に掛川から森、春野、水窪を通って南長野向かう、かって海辺で生産した塩を産地へ運んだ交易の道である。塩の道はさらに北へ進んで千国街道を通って糸魚川に抜ける列島横断の生活の道である。静岡県では県内の「塩の道」を歩く人たちのために、写真のような道しるべを建てている。
旧東海道はこの七曲りで南北に伸びる「塩の道」と交差しているわけである。
七曲りの終点で道が西へずれ、桝型になって少し広くなっている。(右写真)そこにかっては東番所があった。「掛川宿 東番所跡」の道しるべと七曲りの案内板があった。
日坂宿
宿境まで一里二十六町
→【掛川市 掛川宿 東番所跡】→ 掛川宿
袋井宿まで二里二十三町
案内板によると、
七曲り
葛川と新町の境に堀割があり、ここにかかる橋を渡ると門がありました。この門から西が宿場のなかです。ここから東海道は南に折れ、道がかぎの手にいくつも折れ曲がる新町七曲に入ります。七曲りは、容易に敵を進入させないための構造だと考えられます。七曲りの終点に、城下に入ってくる人物や物を取り締まるための木戸と番所がありました。番所には、捕縛のための三道具(刺股・突棒・袖がらみ)や防火用の水溜め桶などが備えられていました。
新町は、山内一豊が整備した城下町の東に発達した町並みで、元和六年(1620)町として認められました。
旧東海道は七曲りを抜け元の道に戻って、さらに二通り北側の連雀の通りを西へ進む。しかし、本日は掛川宿をゴールとして来たので、先へは進まない。その分、少し城下を散策することにした。
仁藤の交叉点を北へ進んで、左角の天然寺に立寄る。天然寺前に古墳の石棺のような「ケイスベルト・ヘンミィの墓」(右写真)があった。石柵に囲まれた墓は風化して表面に書かれた文字は判読できないが、記念碑と案内板があった。
掛川市の案内板によると、
ケイスベルト・ヘンミィの墓
鎖国がおこなわれた江戸時代、長崎の出島はオランダ、中国との貿易のための窓口であった。出島のオランダ商館では、寛永十年(1633)より毎年一回、寛政二年(1790)からは四年に一回、江戸城で将軍に拝謁して献上品を贈り貿易通商の御礼言上をした。ケイスベルト・ヘンミィもこのような使節団の一員である。
ヘンミィの一行七十余人は、寛政十年(1798)のはじめに長崎を出発し、四月に十一代将軍家斉に謁見した。そして、五月に江戸を発って長崎に帰る途中、六月五日掛川連雀の本陣林喜多左衛門方に投宿。この地でかねてからの病気が悪化し、六月八日に死亡、天然寺に葬られた。享年五十一歳。
この墓は、蒲鉾型の石碑を伏せた型で、表面にオランダ語でその由来が書かれている。すでに表面が風化して、判読できなくなっている。墓誌は記念碑に移刻されており、訳文も添えられている。
天然寺の角を北へ進むとすぐに仁藤大獅子保存小屋に至る。ガラス越しに大きな獅子頭が見えた。有名な仁藤大獅子の獅子頭であろう。
案内板によると、
掛川の大獅子
今より約三〇〇余年前、掛川市仁藤町にある天然寺の名住職帆誉覚在上人が伊勢の国を御巡錫中、たまたま白子町(三重県鈴鹿市)で二メートル四方余りの大獅子の頭を車に載せ、短い母衣をつけ町中を引廻しておりましたものを見られ、「この動かざる大獅子を動かしむるには吻や興深きものならむ」と語られ、度々の失敗に不可能視されたものが、名匠の妙技と工夫とに依って作られたもので、耳の長さ1.20メートル、眉毛の長さ85センチメートル、円周1メートルの金の宝珠を戴く大獅子頭に、670平方メートル近い母衣を体とし、頭を操縦するものが十四人、母衣内にはタンポをつけた竹竿にて百余人の人足が母衣を張りささえ、尾には尾引きと云って若者が四、五十人、頭の十四人と呼吸を合せ進退し、西側に揃いの獅子法被姿の青年の三十人が紅白に別れて、獅子の進退の警戒に当り、この外二〇人の竹法螺吹きがその間に点在してボーボーと吹く法螺声は獅子の怒号に以て遠く響き渡り、大篝火を点じ拍子木を合図に凄壮な大太鼓の舞曲に合せ、総勢200人を要する小山の如き怪物の大乱舞のさまは、70センチメートルの大眼球が焔の如く爛々と輝き、物凄きこと限りなく見る人をして感歎せしむるものであります。
後で案内文を読むと、案内文のスケールと目にした獅子頭とは少し規模が違うように思えた。
逆川に出て川沿いにお城を目指して歩く。(左写真) 掛川城は平成六年四月、山内一豊建設当時のままに本格的木造で復元された。一代で財を築いた立志伝中の女性が、係累もなく、生涯学習など一生懸命な掛川市が気に入って移り住み、何か街のためにと多額の寄付をした。そのお金を核にして寄付を集め、掛川城の再建がなされた。ただ再建に際して正確な図面がなかった。山内一豊は掛川から高知に国替になったとき、掛川城を引き写して、高知城を築城したといわれる。それで今度は逆に高知城を大いに参考にして、平成の掛川城は建設されたという。
大手橋の南に掛川城大手門も復元されている。(左写真) その北側には番所が移築されていた。
掛川市教育委員会の案内板によると、
掛川城大手門番所(掛川市指定文化財)
大手門番所は、城の正門である大手門の内側に建てられた、城内に出入する者の監視や警備をする役人の詰所です。嘉永七年(1854)の大地震で倒壊後、安政六年(1859)に再建されたのが現在の建物です。
明治初年、掛川藩の廃藩に際し、元静岡藩士谷庄右衛門が居宅用として譲り受け、別の場所に移築しましたが、昭和五十三年(1978)に谷家より市へ寄贈されました。大手門に附属した番所が現存するのは全国的にも珍しく、昭和五十五年(1980)市の文化財に指定されました。
発掘調査により掛川城大手門と番所の位置が正保年間頃(1644〜1647)に描かれた正保城絵図のとおりであることが明らかになったので、平成七年(1995)周辺の区画整理により、本来の位置から約五十メートル北に大手門を復元することにともない、それに合わせて番所を配置し、現在地に移築・復元しました。
掛川城大手門は発掘調査では復元位置よりもっと南の交叉点の中にあったという。詳しい案内板があった。
掛川市の案内板によると、
掛川城大手門の復元について
この門は掛川城の城内に入る最初の門として天守閣と共に掛川城の威厳を示すに相応しい最大の門です。
天正十八年(1590)より慶長五年(1600)まで在城した山内一豊が中町に開かれた松尾口の大手筋を連雀町に移して大手郭を造り、その正門として設けたものです。建物は楼門造りの櫓門で間口は七間(約12.7米)、奥行は三間(約5.4米)、棟までの高さは三十八尺五寸(約11.6米)、二階は漆喰塗篭造りで格子窓付の門櫓をおき、庇屋根を付けています。1回の中央には1間半両開き(巾約2.4米、高さ約4.3米)の門扉、左側に一間(巾約1.2米、高さ約2.2米)片開きの通用口の潜り戸を設けています。鏡柱は二尺二寸(約66糎)に一尺五寸(約45糎)もあり、冠木、梁、垂木等も総て大きな木材を用いた壮大な造りです。冠木下の高さが十四尺六寸(約4.4米)もあるのは乗馬のままで通行出来るためです。嘉永の地震(1854)で倒壊し安政五年に再建されましたが、明治になって廃城になり民間に払い下げられ火災に遭い焼失しました。元の位置は連雀町裏の堀を渡ったところ(交差点南、道路表示部分)で、区画整理事業により基礎の根固石を発掘調査し規模を確認しましたが、元の位置では道路と家屋に支障を来たし、止むなく五十米北側に創建当時の姿に復元しました。
この発掘で門を囲む桝型の築地と共に番所の遺構も発見され、移築保存されていた大手門番所を旧地と同じ位置関係に全体的に復元しました。
大手門から見る天守が一番美しいといわれます。この付近から大手門と共に天守をご鑑賞ください。
大手門の北へ戻ったところに「三光稲荷」の派手な赤い鳥居が目立った。掛川城の鎮守として京都の伏見稲荷を勧請したものだという。
案内板によると、
三光稲荷御由来
三光稲荷は、名馬の誉れの出世で有名な山内一豊公が掛川城主として文禄年間に城と城下町の大改築を行なわれたが、丁度この時期に豊臣秀吉の命で伏見桃山城の築城に加わった御縁で大手郭と大手厩の鎮守として伏見稲荷を勧請されました。
三光稲荷の由来は南北朝(吉野朝)時代のはじめの延元元年、後醍醐天皇が京都の花園院から吉野へ御幸をされる十二月二十一日の深夜暗闇から難渋され途中伏見にさしかかり稲荷大社の御前で、
ぬばたまの くらき闇路に 迷うなり われにかさなん みつのともし火(三の光)
と、御製を詠まれ、道中の安全と神助を祈願すると不思議に明るい一群の雲が現れ御幸の道を照らして無事に大和へ導かれたという故事があり伏見大社の本殿の脇には御製の碑が、吉野山金峯山には「導稲荷」があり東京新宿三光町の花園神社(三光稲荷)は吉野より勧請されたといわれこうした御利益から大手厩の構内にお祀りされました。
帰りに “こだわりっぱ” に立ち寄り御土産を買った。午後4時3分、まだまだ早いが掛川駅前に着き、今日の夫婦旅を終えた。本日の歩数は 34,147歩であった。
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